君は薔薇より美しい 01

 いつものコートを羽織り、それから少し考えて、珍しく袖を通してフロントを閉じた。鏡を見て更に考えて、苦渋とも言っていいい判断を下す。少し、ほんの少しだけ、仕込んである医療器具を減らした。てるてる坊主は「留守番してね」と言って窓際に置いた。
 洒落っ気がないことは自覚している。見た目に難がある──と、自分では思っている──とはいえ、シルエットが乱れ過ぎていては流石に考えるべきこともあるのだ。
「ちぇんちぇい、ロクターとユリしゃんが──コート、ろうちたのよさ?」
 来客を告げに来たピノコが珍しすぎるコートの着方に目を丸くする。だがBJが答える前に、見た目の年齢に相応しからぬにやついた笑いを浮かべた。
「たまにはいいのわよ。ちぇんちぇい、ぷろぽーちょんいいんらから!」
 普段は羽織ったコートに隠されがちな体形が、フロントを閉じたことでややはっきりと浮かび上がっている。仕込んだ器具を全て出してしまえば更に強調されることは間違いないが、防犯上の問題と、そして自身の外見への遠慮を持つBJの感覚がそれを拒んだ。
「馬鹿言いなさんな。私だってたまには違う着方をしていい時だってあるんだ」
「そりゃあそうなのよさ。れも、ろうちたの。今日はロクターもいつもとちやうのよさ?」
「どう違うか知ったこっちゃないけど、長めのフライトだからだと思うよ」
「ろうちやうかってゆうとねえ──」
 ピノコはまたもや年齢に相応しくない笑みでBJを見上げた。うう、とBJはつい構えてしまう。いつも純粋で可愛いはずの最愛の娘がこんな顔をする時、大抵はいたたまれない気分にさせられる前兆なのだ。
「かあっこいいのよさ」
 これはやり過ごせる、大丈夫、とBJは内心で勝利宣言をした。事実を言われたところで動揺するいわれはないし、ましてやいたたまれない気分になるなどとあるはずもない。
「そりゃあ私の男だ、いつもそうさ」
「奥たんの前でよく言えるのよさ」
「奥さんと彼氏は別、許可するって言ったのはおまえさんじゃないか。あまり生意気なことを言うなら口を縫うよ」
 勝利宣言の後の追い打ちをかけ、BJは涼しい顔で部屋を出ようとする。だがほんの数秒後、勝利の気分はあっさり愛娘に打ち砕かれることになる。
「花束持ってちぇんちぇいを迎えに来たロクターなんて初めて見たのよさ?」
 気障すぎる、他の男なら笑ってやっている、でもキリコなら絶対格好いい──自分の想像で思わずよろけたBJは何とかドアにしがみつき、赤くなってしゃがみこむと言う醜態をかろうじて避けたのだった。
 見抜いている──いつものことだ──ピノコはそれこそ涼しい顔で「先に行ってるわのよ」と言い置き、ちぇんちぇいはいつまでも慣れないんらから、と大人びた溜息をつきながら先に部屋を出る。BJは自分の頬を数度軽く叩いてそれを追った。頬がそこまで熱くないことに安心した。
 キリコとユリが待つ居間へ行くなり白旗を上げざるを得なかった。たちまちピノコがにやついたが、もう気にしている余裕などない。花束を渡しながらキスをしてくる男をどうあしらえばいいのか分からない。アメリカじゃよくあるのよ、とユリがピノコに教えてあげている声も聞こえたが、アメリカ人は頭がおかしいんだと思うしかない。そう思って意識を逸らさなければ、あなたって何て素敵なのと世迷言を喚いてしまいそうだった。
「まあ、一度やっておくべきかと思っただけだから」
 BJの混乱を予測していたキリコは真っ赤になった恋人を軽く抱き締めて笑う。ユリも笑いながらBJの手にある花束を受け取り、ピノコを促して花瓶を探しに行った。
「気障すぎる」
「今日くらいはね。格好いいだろ」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿で結構。キスしてくれよ」
 少し背伸びをして言われた通りにキスをしてやる。キリコが嬉しそうに頬を撫でてくれて、ようやく混乱を収めることができた。これから二人きりで出掛けるのに今からこれでは先が思いやられる、と自分でうんざりする。
「コート」
「ん?」
「もう少し絞ってもいいんじゃないか。他のコートにしてもいいし。中は出しても平気だろ、俺がいるんだし」
「──それは無理」
「ふうん」
 それ以上無理強いをせず、キリコは「それも素敵だよ」と言い添えて話を終わりにした。今の着方だけでもBJにとっては重大な決断だったはずだ。男心としては大いに異論を唱えたいものの、BJの意思を尊重するべきであることは間違いない。
「先生、にいさん、もう行くの? お茶くらい飲む時間は?」
 花瓶に花を活けたユリがやって来る。ピノコは花の他にキリコが持って来た焼き菓子をキッチンで開け、わあ、と可愛い声を出していた。銀座あたりの美味しいやつだな、とBJは看破し、少しばかりティータイムを過ごして行くことにした。美味しい茶菓子を逃す理由はない。
「コートを着たままで良ければ、30分くらいなら」
「その着方、いいわよね。もっと絞ってもいいくらい」
「兄妹で同じこと言わないで欲しいんだけど」
 BJがうんざりした声を出すと、ユリは兄を見てからくすりと笑った。にいさんはもうちょっと胸の形が強調された服が好きなのよね、という言葉を飲み込み、花瓶を窓に置いてから、既に勝手知ったるキッチンへ向かった。
 ピノコが淹れてくれたコーヒーはいつも通り美味しい。ユリが選んでキリコが買ったと言うアソートのクッキーも外れなく美味しい。出発前にしては味覚に嬉しすぎる時間を堪能し、BJは機嫌がいい。
「にいさんに聞いたけど、ロンドンに行く前にドーハで三泊するんですって? 観光?」
「まあ、その」
 BJはちらりとキリコを見る。キリコは知らん顔だ。やや決まり悪そうなBJの表情に気付き、ユリは「ここで揉めたわね」と見抜いた。口にするか迷っている間に、ピノコが次に食べるクッキーを選びながら言った。
「ちぇんちぇい、ドーハで依頼の話をするのわよ。らからロクターと喧嘩になったのよさ」
「──先生の味方をしたいけど、こればっかりは難しいわね」
「これでも譲歩したのに」
 ピノコに暴露された上にユリにまで見放され、BJは拗ねて唇を尖らせた。あら可愛い、とユリは年下でありながらつい思う。隣の兄は当然思っているだろうと考えながら。
「譲歩って? せっかく二人きりで行く休暇なのに途中で仕事の話なんて──」
「だから。本当は一緒に日本を出ないで、先にZ国に行って話を聞いて、ドーハかロンドンで合流しようって言ったのに」
「Z国!? 冗談でしょ!?」
 中東の裕福な国の名を聞き、ユリはつい大声を上げてしまった。ピノコがあっちょんぷりけとやる程度には真剣な驚き方だった。すぐにユリは自分の驚き方が極端だったと気付き、ピノコに「ごめんね」と言ってから、先ほどよりも更に決まり悪い顔になったBJに向き直る。
「仕事だから仕方ないのは分かるけど、でもZ国は危険すぎるじゃない。お金はあるって言ってもまだ戦争してるし、アメリカが撤退したばっかりだし、大混乱でしょう」
「うん。だから、危ないから。キリコを一緒に連れて行くわけにもいかないじゃない?」
「──あ、そういう感覚なんだ……」
 思わずユリは呻き、キリコは苦笑し、ピノコは「ちぇんちぇい、変らから」と呟く。BJは三人の反応がどうにも気に入らないのだが、キリコに懇々と説教されたことを思い出してそれ以上は言わなかった。喧嘩になった時に同じことを言ったら、キリコに大きく息を吐かれた上に脱力されたことを思い出す。俺に何かあったら、って思ったわけ? と訊かれ、うん、と答えた。そうしたら真面目な顔で言われた。
 じゃあ、おまえに何かあったら俺はどうすればいい?
 咄嗟に応えられなかった。畳みかけられるように、お嬢ちゃんは、ユリは、おまえの友達は、と問われ、だって、でも、としか返せなくなった。
「……まあ、あんまり治安良くないかな、って気にはなったから」
「どん底まで悪いでしょうね」
「うん。でも依頼人の話を聞く約束は随分前にしてあったから、相手が日程を合わせてドーハまで出て来てくれるならいいって、キリコが。ロンドン行きの飛行機が満席で手配できないからトランジットやオーバーストップができなくて結局三泊。相手も金持ちだからドーハまで来てもらう交通費は心配しなくていいだろうし」
 その合意に至るまでのあれこれを思い出し、BJの隣に座るキリコはコーヒーカップを唇に押し当てて溜息を隠した。途中から喧嘩と言うよりはBJの人間関係への視点の歪みをカウンセリングするような状態になってしまったのだ。
 おまえを心配する人間が存在することを、知識としてではなく感情で納得してもいいんだ、おこがましくなんかない──何度言い含めるはめになったことか。過ぎた劣等感の副産物であることはよく分かっていたが、キリコにすら厄介だと思わせるには充分すぎる病巣だった。
「Z国から出て来られるくらいの病状なの?」
「依頼人は患者のお兄さんなんだ。患者本人も急を要する病気ではないって聞いたし」
「何の病気、──って訊いても教えてくれないか」
「流石にね」
「そうよね。でも、それならにいさんも一緒で良かったわ」
「どうして?」
「男性の依頼人でしょ。しかもZ国の大金持ちでしょ。またオールドマネーの彼みたいな奴が出たらどうするのよ」
 BJは思わず絶句し、キリコはうんざりした顔になり、ピノコはうんうんと頷いた。あの時の騒動は思い出すだけで頭痛がしそうになる、とBJは遠い目になってしまう。いまだにクリードから半月に一度は手紙が届くことも悩みの種と言えば悩みの種だ。
 初めて届いた時、なぜかピノコが急いでキリコ言うようにとしつこく繰り返した。訳が分からなかったものの取り敢えずといった気分でキリコに言ったところ、「返事はいらないと思うよ(アメリカ国内で困った時の伝手にもなるだろうから読むだけなら構わない、ただし見逃すに過ぎない、今後手紙が届いたら必ず俺に教えるように)」と短いながらも重い様々な何かを含んでいると分かる言葉を即答され、自分が悪いわけでもないのに肝が冷え、ピノコの慧眼に心底感謝したものだった。
 この辺りは二人が旅行中、おそらくピノコが喜んでユリに話すはずだ。BJは予想した。もうどうにでもなれと言う気分でもあった。スマートな恋愛ができない自分が悪いんだ、キリコはよく付き合ってくれるものだ、といつも思ってしまう。それを言えばキリコに叱られることは分かり、一度も言ったことはないのだが。
「それよりユリさん、いない間、家に来てくれるなんて迷惑じゃない?」
「あら、全然。ピノコちゃんと二人だなんて楽しいし、嬉しいわ」
 ねえ、とピノコに笑いかけ、ピノコも嬉しそうに笑う。BJが仕事で長く家を空けることは珍しくないのだし、一人でも充分に過ごせると分かっていたが、ユリがいればBJが安心して出掛けられることもと知っている。更に今回は仕事ではなく、恋人との旅行で家を空けるのだ。BJが自分に対して引け目を持ってしまっていることは充分に理解していた。
「ちぇんちぇい、お土産いーっぱいお願いするのわよ。れも選ぶのはロクターね!」
 ロクターの方がセンスがいいんらもの! ──愛娘に力一杯主張されたBJは複雑な気持ちながらも頷き、キリコは「確かにこいつの土産センスは酷い」としみじみ思ったのだった。


 ビジネスクラスの優先システムでストレスなく搭乗手続きを終え、搭乗口までの通路を歩く。
 エコノミーに慣れ切ったBJはビジネスクラスと言うだけで満足したくなる。依頼人が気を利かせて手配してくれた時にしか乗ることはない。あとはアメリカを出国する時、大統領の好意でハイクラスの手配をされる時だけだ。自分の財布に関しては吝嗇家といわば言え。節約は美徳、贅沢は他人の金で。それはもはや人生のモットーになっている。だが恋人は少し違うようで、浪費はしないが金を使うべき時は使うと言う人間だ。
 だったら私の分もよろしく、とBJが言うまでもなかった。仕事面ではともかく、ライフスタイルの中では昔ながらの感覚が多いキリコは、恋人としての時間ではBJに基本的に一銭も使わせようとしなかった。ピノコがいる時には無論彼女の分も。BJが遠慮を感じるほどの徹底振りで、これが他人の関係ならBJも開き直れるのだが、恋人同士となるとまたぞろあの劣等感が顔を出すことが少なくない。わたしなんかに。それを口にすればまたキリコに叱られると分かっていて、やはり言ったことはない。
「ファーストクラスも空いてたんだけどね」
「ビジネスでも充分すぎるから」
 男の説明に慌てて返事をすると、キリコは「いや、ファーストでもいいんだけど」と付け加えてから、BJの手を握って指を絡めた。
「この便、ファーストだと隣り合った席がなかったんだよ。でもビジネスの特定の座席なら隣同士のパーティションが下げられるんだ。寂しくないだろ」
 言われた意味を少しの間考えて、キリコが言わんとすることを理解した途端、BJは唇をひん曲げて照れた感情を隠し、それでも、うん、と頷いた。
 その表情が可愛くて仕方なく、キリコは握ったばかりの手を離し、肩を抱き寄せていた。普段なら羽織ったコートが肩から落ちないように少し気を使うのに、今は思うままに抱き寄せられることが嬉しいと思った。
 フライトは快適だった。この時代ではスチュワーデスと呼ばれる女性たちが何くれとなく世話を焼いてくれて何も不自由しない。キリコは持ち込んだ本を読み、BJは映画を観て時間を過ごした。映画が終わる頃にちょうどキリコが本を読み終え、まだその本を読んだことがなかったBJがそれを借り、代わりにこの映画面白かったよとキリコに教えてやった。そうかと返事をしてキリコは違う映画を選び、ややむっとしたBJに腕を叩かれて笑った。
 パーティションを降ろせるため互いの顔は横に視線をやれば見える。機内のマナーとして延々と話すわけではないが──元々ひっきりなしに話す二人でもない──BJが何となく寂しくなる頃を見計らってキリコが声をかけ、他愛もないことを少し話す。それで充分だ。機内食はほどよく美味しい、と二人に同時に微妙な感想を抱かせた。未来に期待しようとキリコが言い、BJを笑わせた。
 ドーハまでの12時間弱、テレビドラマでよくある急病人にも遭遇せず、ここのところトラブル続きで密かに心配していた二人はほっとしていた。
 空港は小さい。ドーハがあるカタールそのものも小さな領土の国だ。だが様々な困難を乗り越え、世界でもトップクラスの裕福な国であることは確かだった。金がない国よりは治安を信じられる。中東の情勢が混乱している今、他国からの訪問者には有り難いことだと言える。
 空港の空気すべてから何かの香りがした。アラブ人が身にまとう香水や香油が漂っているのだと気付くまでに時間はかからなかった。
「アラブ圏は香りの文化が発達してる。香油をつけたり服に焚き込んだりして、みんなプライドを持って香らせてるんだ。間違っても臭いなんて言うなよ。下手すりゃ殺し合いになる」
 精油や香油の歴史に精通するキリコがBJに教えた。仕事でアロマテラピーを取り入れることもあるキリコの香りの知識は広く深く、そして正確で、何度も世話になっているBJは素直にそれを聞いた。虫除け、軽い頭痛、二日酔いや日焼け対策と、BJが接するほとんどは専門医療よりも日常生活に密着したものばかりで、香りってこんなに便利だったんだ、とそのたびに感心する。
 それなりに混雑してはいたが、欧州への乗り継ぎにトランジットを選ぶ客が多く、入国審査はすいていてスムーズだった。キリコより僅かに年下に見える入国管理官がBJのパスポートをめくり、「日本人か」と呟いた。
「最近増えちゃいるが、女は珍しいな。世界一裕福で、世界一退屈な国へようこそ」
「何それ、本当に?」
「お袋の腹の中にいる時からカタールから出たことがない俺が言うんだ、間違いない。それはメイク? 怪我?」
「昔の怪我。こっちは皮膚移植した分」
「迷子になってもすぐ分かるな。空港は広いし日本語の案内はない、気を付けろ。入国目的は?」
 礼儀正しいとは言えないが、悪い人間とは到底思えない入国管理官は、訛りが強いものの分かりやすい英語を話した。
「あんたは旦那──恋人か? 怪我?」
「恋人で戦傷。入国審査で戦傷を訊かれる国は初めてだよ」
「目はどこで?」
「ベトナム」
 言いつつ、要は怪しまれているのだとキリコは分かっていた。二人して人目につく傷があり、そして一人は日本人だ。この時代、単独でカタールに来る日本人は相当珍しいと言っても良かった。
「俺の興味さ。入国目的は?」
 お決まりの会話を交わした後に滞在先を訊かれ、キリコが手配したホテルの名を言うと、管理官はやや破顔した。
「できたばかりなんだがいいホテルだ。外国から来る政治家も使うようなところでね。ここからタクシーで10分だよ。俺の妹が通訳で働いてる」
「嬉しい偶然だね。あなたの名前は?」
「ジャーシム。妹はバスマ。英語が上手いし、これからは日本語も大切だって言って勉強してる。あんたたちの役に立てると思うよ」
「いい話をありがとう。良い一日を」
「イラーリカ」
 現地の言葉で「また会おう」と言われ、二人は入国審査を終えた。
「傷のこと訊くなんて、変な管理官。何も言わないでじろじろ見られるよりよっぽどいいけど」
「大丈夫だったか?」
「え、何」
「怖くなかった?」
「全然。──ルルちゃんなら怖がったかもしれないけどね」
「言ってろ」
 苦笑に安堵を隠すキリコの手を自分から握り、指を絡めながら、本当に大丈夫なんだけどな、とBJは思った。記憶障害の一件からずっと、キリコだけではなくユリまでもが、BJにビジネス以外で接触する男性のことを気にしていることは分かっている。BJは偽りなく「もう平気」と思っているし、実際にあれ以来、一度も男性に対して恐怖心を抱いたことはない。
 それを何度もキリコとユリに伝えているのだが、折に触れてまだ気遣われていた。それほど記憶障害の間に第三者に見せた取り乱しようが酷かったのだと予想し、キリコに訊いたことがある。だがキリコは言葉を濁して教えてくれなかった。
 空港を一歩出た途端、まずは暑さの洗礼を受ける。もう秋も終わろうと言うのに30℃はありそうだった。しかも日本の夏のような湿度がある。キリコはBJにコートを脱ぐか、せめてフロントを開くように勧めた。だがBJは肩を竦めただけだ。
「イスラム国家だ。人前で服をいじる女なんて御法度だろ」
「確かにな。ホテルに着いたら着替えろよ」
 言い終わるや否や、待ち構えていたタクシードライバーたちが客引きに群がる。金持ちの国なのに後進国みたい、とBJは思ったが、彼らの多くが貧しい国からの移民だとすぐに気付き、それなら少しでも稼ぎたいだろうと考え直した。
 BJが思考を巡らせているうちにキリコが一人のドライバーと話を付けた。ドライバーはアラビア語だけではなく、訛りは強いものの他のドライバーよりかなり達者な英語が話せた。観光客相手の職業だからか、彼からはアラブ人独特の強い香りがしなかった。
 乗り込んでから改めてホテルの名前を言うと、あそこは遠いよ、30分かかる、とドライバーは返事をした。だがぼったくりだと見抜いたBJがすかさず、敢えてヒステリックな女の声で強く言った。
「空港から10分って聞いたわよ!」
「10分で着いたらお互いに良い気分になれるよ。きっとね」
 ヒステリーを起こす女を厭う心に、チップを匂わせるキリコの言葉が追撃になり、ドライバーは「俺の勘違いだったよ」と言ってアクセルを踏んだ。想像以上に丁寧な運転できっかり10分、タクシーはホテルに到着する。ちょうどチェックイン時間が迫っているためか、決して狭くないはずの正面玄関前の車寄せは順番待ちの行列になっていた。キリコは相場よりも多めのチップを料金に上乗せして渡しながら、「そう言えば」とドライバーに言った。
「三日ほどドーハにいるんだ。良かったら連絡先を教えてくれないか。ホテルのタクシーの手配が遅い時にはきみに頼みたい」
「ホテルなんかに頼まない方がいいよ。混雑するからいつも遅いし、必ず客が捕まるからドライバーもやる気のない奴ばっかりだ。最初から俺を呼びな」
 予想よりも高額の報酬を得た男は相好を崩し、必ず連絡が取れるから、と言って電話番号を書いたメモを渡した。
「俺はサレハ。移民で、金が無い。だから金になるなら約束を破ることはない。あんたたちより金を出す客を捕まえない限り、信じてもらっていいぜ」
「キリコ。電話するよ。ありがとう」
「どうも。──そうだ、奥さん」
 奥さんと呼ばれることには慣れていたが、中東に来てまでそう呼ばれるか、とBJは面食らいつつ返事をする。
「治安はいいんだが、一人歩きはやめた方がいいよ。ドーハは急に出稼ぎや移民が増えてね。ほとんどが男で、今じゃ人口の半分以上が男になっちまってる。女が圧倒的に少ないんだ。──分かるだろ?」
「なるほどね」
「だから、どうしても一人で出掛けなきゃいけない時には俺を呼べよ。料金は旦那さんからもらうから気にしないでいいぜ」
「しっかりしてるなあ」
 でもありがとう、と笑い、BJはようやくやって来たホテルマンが開けたドアから先に降りた。キリコはサレハに「しばらく世話になる」と言い、BJの後に続いた。
 降りた途端に砂のにおいを感じた。国土の多くが砂漠なのだから当然と言えば当然だが、砂漠はここからそれなりに遠い。風に乗って届いたようだ。砂特有の甘いにおいが奇妙なノスタルジアを呼び起こした。
「砂のにおいがする」
 フロントに向かって歩きながらBJが呟き、僅かに口元を綻ばせた。
「全然違う国なのに懐かしいにおい。小さい頃、晴れた日に砂場で転んだ時のにおいに似てる」
「──ああ、そうか」
 キリコも同じ記憶がある。だから懐かしさを覚えたのだ。不意におかしくなった。産まれた時も国も生き方も違っていたのに、生きる時間が重なった今、同じことで同じような懐かしさを覚えることが不思議で、そして楽しかった。
「そうだな、これは晴れた日の砂のにおいだ」
「でしょ」
 二人で笑いながらチェックインをする。この辺りでは一番の高級ホテルだと言う自負があるのか、ホテルマンたちは誰もが背筋を伸ばし、丁寧な対応をした。基本的にアラビア語の対応になるものの、ホテル専任の通訳がいる、と英語が話せるフロントマンに教えられる。入国管理官の妹の話をキリコがすると、彼女はとても優秀なスタッフだと誇らし気に言われた。
「奥様が男性よりも女性の方が御用を言い付けやすいと思われましたら、バスマが参ります。ご遠慮なくお申し付け下さい」
「奥──ああ、そう、ありがとう」
 カタールは宗教の都合上、男女の関係には厳しい。外国人でも男女がひと所に泊まるとなれば、夫婦と思われる傾向にあるのだろう。もう言われ慣れてるからいいか、とBJは思い、年齢的にもそう見られるんだろうな、とキリコは現実的なことを思う。
「奥様、お部屋の中ではご主人しかいらっしゃらないのですから、どうぞ楽なお召し物でお過ごし下さい。我々の文化にご理解を頂きまして、まことにありがとうございます」
 フロントマンが心からの敬意を込めたと分かる声で言った。普段着なんだけど、と言うことはやめ、BJは頷くにとどめる。彼らの喜びをわざわざ否定する必要もない。
 イスラムの戒律が厳しく、他宗教の外国人でも女性はある程度肌を隠すことが求められる国だが、地元の人間でも辟易する暑さの中でコートを着込んだBJの姿は彼らの敬意を集めたようだ。明らかに他の客よりも手厚い態度で対応されたBJは「この服装で初めて得した」と日本語で呟き、キリコを複雑な気持ちにさせたのだった。


「ジュニアスイートって私は聞いてたんだけど」
「俺もジュニアスイートを予約したし、フロントでもそう言われたから間違いないだろ」
 BJは半ば唖然とし、キリコはアラビア人の感覚はアメリカ人に理解しにくいのかもしれないと考える。アラビアの御伽話の舞台になるような豪奢な宮殿のごとき部屋に通されれば無理もない。リビングの大理石のテーブルに高級家具は序の口、上等の眠りを約束してくれると一目で分かる寝具を備えたベッドはなぜか金縁だ。
「三日しかいないからジュニアスイートでいいと思ったんだが」
 キリコは思わず溜息をつく。
「これ、いつも泊まるようなグレードの部屋にしたらどうなってたんだろうな。絶対落ち着かない」
「これより上のグレードの部屋でこれ以上落ち着かないなんてどんなコメディだ。アラブ圏の感覚に慣れないと無理」
「アメリカがアラブと仲良くできない理由を身をもって知ったよ」
 だが不自由しないことは確かだ。むしろ新しいホテルだけあって、今の時代の客が求めるものがほぼ揃っている。ジュニアスイートでもミニバーがついているのは嬉しいサービスだ。酒の品ぞろえは上のグレードの部屋よりも落ちるだろうが、気にすることでもなかった。
 何か飲むか、とミニバーの冷蔵庫を開けたキリコは「神よ」とこの国では異教とされる存在の名を口にした。
「マフィン」
「何?」
「忘れてた」
「え?」
「この国は禁酒国家だ」
「……イスラム教……!」
 悲痛な呻きを漏らし、BJはソファに倒れ込んだ。キリコは今日最大の溜息をつき、自分の炭酸水とBJのレモネードを引っ張り出し、冷蔵庫の扉を閉めた。
「もう無理。暑かったのに。我慢したのに。ビール飲みたい」
 やっと脱いだコートを放り投げ、BJはクッションに顔を埋めて本気で嘆く。ペルシャ絨毯に落ちたコートを拾い上げてやりながら、キリコは早くこの国を出たいと本気で思った。酒を飲めないことは酒飲みとして残念だ。だがそれよりも重大な懸念は、「飲みたい時に酒が飲めなくて機嫌を悪くする女がいる」と言う事実だった。
 これは全力で機嫌を取る必要がある。BJの機嫌を取ることは嫌いではないが、元々煙草や酒に依存性が高い性質の女だ。気分が普段より激しく上下しそうだと予想する。惚れてなきゃ放り出すよ、としみじみ思った。
「ホテル内のレストランに予約すれば飲めたはずだ。後でしておくよ」
「もう、早くロンドン行きたい。今すぐ行きたい」
「俺もだよ。依頼人に会うのは今日?」
「うん。16時の約束だからあと三時間くらい」
「どこで」
「ここの中庭のプールサイド。あちらさんのご指定」
 このホテルの中庭は全てがひとつの巨大なプールだ。広い敷地のほとんどが水場だと言うのも、夏場には40℃を超える国ならではの造りだろう。キリコはバルコニーに出て中庭を見降ろす。思った以上に多くの宿泊客がプールで水遊びや日光浴を楽しんでいた。
「マフィン」
「ん?」
「水着を持って来たのか?」
「ないよ。そもそもこの国の公共の場所で女性が水着になれるわけないだろ」
「なれたとしても依頼人の前で水着を着る理由もないな。──プールサイドでもコートを着るなら熱すぎる。ロビーに変更させろ。この部屋は駄目だ」
「別にいいのに」
「俺が嫌だ。見てるだけで暑い」
「え、おまえさんも立ち合うの?」
「念のため。おまえ、アラブの金持ちのたちの悪さを知らないで仕事をしようってんじゃないだろうな?」
「ああ、まあ、確かに。プールサイドだから人目もあるし、平気だと思ってた」
「オイルマネーの前じゃ盲目になる奴も多くてな」
「やだやだ」
 BJは納得し、溜息をついた。アラブ社会の金持ちは感覚が違いすぎる。おおむね遵法精神のある誇り高い人間がほとんどだが、どんな社会にも例外はいるものだ。気に入った外国人に白昼堂々と乱暴し、金に物を言わせて目撃者を黙らせればまだましな方だと言われるほどだった。目撃者は金を手にしなくても、奴らは大金持ちだからと見ない振りをすることも多い。
「確かに、私に手を出すような悪趣味だったらまずいな」
「審美眼は褒めてやるが不愉快だ。とにかく変更しろ」
「フロントに言っておけばいいか」
 依頼人がホテルに着いた時にフロントから連絡してもらえばいい。BJは懐いていたソファから降り、これもまた理解できないほど豪奢な電話の受話器を取ってフロントの呼び出しをダイヤルする。最近はプッシュホンの電話も増えているが、これは敢えてダイヤル式を残しているのだろうと分からせるほど、室内のデザインに溶け込んでいた。
「16時に来客の予定が──彼に伝言を。私の部屋の番号は絶対に言わないで」
 フロントに用件を伝えていると、キリコが珍しく邪魔をするように背後から抱き付き、髪や首筋に唇を押し当て始めた。くすぐったくて首を竦めながら話をする。電話を切る挨拶をしている途中に耳たぶを甘噛みされ、慌ててフックを手で押さえて、電話を切り、堪え切れない吐息をフロントマンに聞かれずに済んだ。
「この、馬鹿キリコ!」
「最後にきちんとキスしたのはいつだ?」
「覚えてない。そういう問題じゃない」
「俺は覚えてるし、そういう問題だ。おまえの家を出てから一回もしてない。それなのにおまえは可愛いんだ。拷問だと思わないか?」
「知らない、もう、馬鹿」
 自分でも呆れるほどあっさりと、怒った振りをして甘える女の声になってしまう。振り返って背の高い男の首に腕を回すと同時に抱き締められ、深く、それでも優しいキスを与えられた。
 少し深い、愛情を確かめ合うだけのキスかと思っていたBJの予想を裏切り、キリコは明らかに色を含んだ濡れたキスに変えて行く。ちょっと待ってと言う言葉は唇の中に飲み込まれ、やがて抱かれることを期待させるいやらしい水音がじゅるりと漏れてBJの口の端から吐息と唾液が零れ始める。
「ん、む」
 駄目、とキリコの胸を押すが逆効果で、抱かれた腕の力が強くなった。ブラウスの襟が濡れて行ってしまうことと、それから明らかに下着が濡れてしまったことも分かって、ひどい男、と思った。──ひどい男。わたしが駄目って言えば言うほどいやらしいことをする。
 絡められた舌がほどけて上顎を愛撫し、歯列を舐めて、女に息を継がせた後、また深く絡め取る。BJが陶然と言う言葉が相応しい感覚に陥る頃にはもうひどく濡れて、全身のどこでもいいから触れて欲しくてたまらない。
 深すぎるキスを堪能した後、キリコが唇を離し、すっかり濡れそぼった恋人の唇を撫でるようにゆっくりと舐めた。それだけでまたぞくぞくと甘い感覚が走り、BJは身を震わせる。
「暑かったし、依頼人に会う前にシャワーを浴びようか。レストランに予約の電話をしておくから、先に綺麗にしておいで」
 後から行くから。可愛いね。他に誰もいないのに耳元で囁かれ、それだけでまたじわりと濡れた自分を浅ましいと恥じながら、目元を上気させたままBJは無言でバスルームへ向かった。まだ荷解きすらしていないと気付いたのは、ウオッシュルームで替えの下着の心配をすることになった時だった。ああ、なんて浅ましい、二人していい歳なのに──それでもそんな自分たちが嫌いではないことに安堵した。
 バスルームに入り、思わず遠い目になった。身体の濡れた熱が少し引いたような気がする。アラブ、と意味もなく呟きたくなる程度には、やはり豪奢すぎるバスルームだった。黒い大理石の壁に白磁と見紛うほど白い床が栄えている。洗面化粧台は輝かしい黄金、バスタブは当然のように金の猫脚で、ある意味では感動し、別の意味では目眩がしそうになる。
 欧州でも高級ホテルに泊まる機会はあり、やはりそれなりに豪勢であることは間違いないが、それでももう少しシンプルで機能性を重視していることがほとんどだ。オイルマネーの世界に目眩がしそうだった。
 シャワーブースはまだ落ち着けた。大理石の黒い壁と白い床しか目に入らない。ハンドシャワーも落ち着いた色合いになっていて、BJはなぜか安心した。高い位置のフックにかけたシャワーから湯を出して身体を濡らし、息を吐く。
 ふと切り替えレバーに気付き、何の気なしに捻ると、ハンドシャワーが止まり、すぐに天井から湯が降り注いだ。最近ではまだ珍しいオーバーヘッドシャワーだ。やや驚いたがハンドシャワーよりもすぐに身体に湯が行きわたり、これはいいな、あったかい雨みたい、と思った。
 備え付けのソープは数種類の香りが置かれている。内装の趣味はともかく至れり尽くせりだと感心しながら選ぶが、種類が多すぎて悩んでしまう。
「重い香りばっかりだな」
「わっ!」
 いつの間にかシャワーブースに入って来ていたキリコが、後ろからBJを片手で抱き締めながらソープの数々を検分する。頭上から降り注ぐ湯でもまだ湿り切っていないキリコの肌の感覚にぞくりとしながら、入るなら声をかけてよ、と怒ってみせる。かけたけど聴こえてなかったんだろ、と涼しい声で返された。
「どれにする?」
「分かんない。種類が多すぎて。ローズがジャスミンくらいしか知らないし」
「まだ昼間だし、ローズにしておけ。ジャスミンは駄目だ」
「何で駄目なの」
「これから会う相手が男性だから。アラブじゃジャスミンはベッドで焚くんだよ」
 ローズもだけどジャスミンよりはましだ、と溜息混じりに言うキリコの知識に感服しつつ、本当に何て国なんだと頭痛すら覚えそうになった。
「香りの文化圏だしな。俺も後で少しショップを見に行きたい」
「ふうん。確かにみんな独特の香りがしてたかも。キリコはどれ?」
「何でもいい」
「あ、香水つけるから?」
 キリコは外国にいる時だけ香水をつける。日本ではまだ男性のフレグランスは理解されにくい、とよく溜息をついていた。
「それもあるけど」
 BJの背後に肌を密着させたままキリコは手を延ばし、ローズのボディソープをてのひらに取る。降り注ぐ湯で泡立て、そっとBJの腹に泡を載せた。
「おまえとしたら、ローズの香りになるからね。何でもいいんだ」
「……っ」
 あまりにも直截的な言い草に咄嗟に何も返事ができない。予想していたキリコは笑いながら耳元に唇を落とし、BJの腹に載せた泡をてのひらで撫でるように広げ始めた。
「あ」
 最初から欲を隠す気などない手の動きに、BJはびくりと身体を震わせる。ベッドの中での優しい愛撫よりもいやらしい触り方だと思った。腹を撫でていたてのひらは腰へ、それから腹へ、そして胸へと上がって来る。乳房を下からやんわりと包まれ、それだけでBJはキスの時の熱をあっさりと取り戻した。包んだてのひらに壊れ物を扱うように丁寧に揉みしだかれて、触れられてもいない乳首が勝手に尖っていく。柔らかく降り注ぐシャワーの水滴が乳房を伝って乳首をなぞり、その感覚にすら熱の籠った息を吐いた。
「どうしたの」
 キリコがわざとらしいまでに優しい声で問う。散々乳房を好きにしているのに、触れられることを待ち望む乳首には掠りもしない。期待したそこが勝手に感覚を鋭くして、周囲に触れる指が与えてくれるはずの快楽を想像してかたく立ち上がって行く。どうしたの、ともちろんわざと言っていることはBJにも分かっていて、焦らされる時間と感覚だけで敏感になる乳首と濡れる奥が恥ずかしく、キリコに知られたくなくて何とか性感を逃がそうと太腿をすり合わせた。目敏い男の視覚には逆効果だと分かりもせずに。
「何でも、ない」
「ふうん。そうだね。洗ってるだけなんだから」
「ん、……ん……っ」
 指先でくるりくるりと乳首の周囲をなぞるのに、それでも触れてくれないもどかしさにBJは身を捩る。これだけで奥が疼く自分の身体が信じられなかった。
 降り注ぐ湯でも簡単に流れないほどに濃密な泡が身体中に塗りこめられて行く。シャワーブースにローズの香りが充満して、呼吸が荒くなるのはキリコの指のせいなのか、この香りに窒息しそうだからなのか。
 左手で乳房を不規則に揉みしだきながら下腹部に降りて来た右手の指が軽く太腿の付け根をなぞった途端、堪え切れなくて目の前の壁に手をついた。キリコがくすりと笑って追うようにBJの背中に覆い被さる。
「可愛い」
「……ぁ!」
 密着させた背中から耳元で囁かれた。それだけで身体が大きく震えた。小さく達したとも言える。信じられない、とBJは抑え切れなくなった荒い息の下で思った。女の身体の変化に気付いたキリコも驚き、まじかよ、と二人だけの時にしか使わない、死神には似つかわしくないスラングを小さく零す。その声が嬉しそうな理由がBJにはよく分からない。男の征服欲と自尊心が満たされたからだとは想像もできなかった。
「洗ってるだけなのに?」
「ん──っ……!」
 それでもまだ意地悪く、女が待ち望む場所には触れない。まるで仔猫が抗議するような細く高い声を喉の奥で出すBJの髪に唇を落とし、下腹部に降ろした指をなぞらせていく。脚を割り入れて堅く閉じていた太腿を軽く開かせ、途端に触れるぬるついた感触に満足した。男の膝を湯ではない熱いものが伝い落ちて行く。言えばBJは恥ずかしがるだろう。可哀想かもしれない。だからキリコは言った。
「すごい濡れてる」
「……もう……っ!」
 目の前でたちまち耳まで赤くなる光景は何度見てもいいものだ。思わず唇を舐めた。背後からならどんな獰猛な欲を浮かべた顔をしても恋人は怯えない。顔が見られないことだけは残念だが、それでも確かに男としてのあらゆる欲が満足できる時間だった。
 軽くとはいえ一度達した身体は性感が驚くほど上がっている。元々敏感な身体だ。女が待ち望むはずの場所だけを避けて指で全てに触れて行く。シャワーブースにいつの間にかBJの喘ぎが充満し、ローズの香りを駆逐していくようだった。
「あ、──だめ、だめ……っ」
 曖昧な愛撫を繰り返しているうち、BJの身体がびくびくと震え出す。秘芯に触れてくれない指に焦れるように啼き声を漏らしながら腰を揺らす姿は普段のBJからは想像もできないほどにいやらしくて、それなのに男に可愛いと思わせるのだからたちが悪い。キリコは自分の息も荒くなっていることを自覚し、自嘲する。それでも、いつまでも余裕のある男の顔などできるものかと心の中で正しい言い訳をした。
 乳首にも秘芯にも触れないまま、ぎりぎりの周囲をなぞる。たまに首筋に唇を落として舌を這わせて、ああ、泡が無くなっちゃうねとわざとらしく手を止めて繰り返しソープを足しているうち、BJの息は上がりきり、奥からは愛液がだらだらととめどなく溢れ続け、壁についた手が震えるほどになっていた。
「きり、こ、──あ……!」
「どうしたの」
 切羽詰った女の声にここまでだと分かっていながら敢えて問う。片手を離して降り注ぐ湯に濡れ切った銀髪をかきあげた時、壁に手をついたままのBJが肩越しに恋人を振り返った。その顔を見た途端、ああ、もう駄目だ、俺が無理、とキリコは一瞬で余裕のある男の振りを捨てざるを得なかった。
「き、りこ」
「うん?」
「いじわる、やめて……」
「──うん?」
「ああぁ……っ!」
 片方の乳首を摘まみ上げた瞬間、BJは驚くほど大きく喘いで壁に縋りついた。慌てて抱き寄せて支えながらもキリコは「最高」と呟く。密着させた身体がびくびくと何度も痙攣し、達したのだと男に教える。それでもBJは荒い息を吐きながら喘ぎ、泣き声で男を呼んだ。
「キリコ」
「うん?」
「お願い、もう、いじめないで」
 やり過ぎた。流石にキリコは反省する。怖がらせる一歩手前の声だと気付き、立つのもやっとになっているBJを振り返らせて抱き締めた。
「ごめんね、あんまり可愛いからやり過ぎた」
 いつまで経っても慣れない女が可愛くて仕方なく、いつまで経っても可愛さのあまりやり過ぎてしまう自分が情けなくて仕方ない。
 宥める深いキスをして、やがて落ち着いたBJが抱き付いて来る頃、やっと指を女の快楽を追うためだけに肌に這わせた。触れてやらないまま敏感すぎるほどに堅くなった乳首を今度は何度も強く弾き、柔らかく捻りながら摘まみ上げる。そのたびにまるで死んでしまいそうな喘ぎを響かせるBJの中に今すぐにでも入りたい衝動を抑え、深く唇を合わせて舌を絡め、シャワーの中でもはっきり聞こえるほどに水音を立てながらキスを繰り返した。
 舌を出して、と言うと素直に従う女が可愛い。いつもなら唇の中で隠れて絡む舌を空気に触れたまま舐め上げると、女がまたひどく感じたことが分かった。
 壁に背を付けて立たせ、片脚を持ち上げる。焦らされ続けたそこが温かい空気に触れ、それだけでBJは小さく喘いだ。涙を浮かべる目元に唇を落とし、待ち焦がれて溢れる秘所に指を潜り込ませる。途端にきつく締め上げられ、焦らせすぎたとまたキリコは反省した。それでも自分も限界が近い。普段よりも強く指を出し入れすると、ぐじゅぐじゅとひどい淫らな音がしてBJが喘ぐ。指を動かしながら上に向けたてのひらで秘芯を押し潰すように捏ね繰り回すと遂に泣き出した。
「あぁ、あ、──ひ……っ、や、やぁ……っ!」
「掴まっていいよ」
 湯で滑って転ぶことを危惧して腕を自分の首に回させ、それでも手は止まらない。指を増やすとBJは身も世もないと言わんばかりに大きく喘ぎ、それから、もうだめ、だめ、と泣き声でキリコに告げた。告げた途端、そこから勢いよく透明の水が噴き出した。
「やだぁ……っ!」
「嫌じゃないよ。可愛い。すごく」
「や、ゃ……っ」
 びゅくびゅくと断続的に何度も潮を噴き出しながら、やだ、見ちゃだめ、と何度もひどいことをした男を責めるように泣いて、ほかならぬキリコに抱き付いて隠れてしまおうとした。ああ、可愛い、俺の──いとしい。愛している。こんな時にいつも改めて思う。
 潮を噴いて恥ずかしがり、まだ泣いている唇の可愛さに耐え兼ねて塞ぐ。それから抱え上げたままの脚を大きく開かせて、何も言わずに一気に腰を進めた。
「──ひぁ……っ……!」
「……っ」
 奥まで入るよりも早くきつく締め付けるそこに目眩がするような快感を覚え、キリコは息を呑む。ああ、と思わず喘ぐと更に締め付けられ、首筋に縋り付くBJがぶるりと震えて、途切れ途切れに、それでも確かに甘える声でキリコの耳朶をくすぐった。
「おく、まで、……キリコ、来てる」
 ああもう、ああもう──愛しさばかりが募って何も言えない自分をキリコは罵りたくなる。でもきっと、と言い訳をしたくなった。でもきっと誰だってそうだ。好きな女がこんなことを言ったら? 抱いている最中にこんなことを言ったら? きっと誰だって俺みたいに、何も言えなくなるに決まってる。
 充分に焦らした女の身体はとうに男を食むために降りて来ていて、キリコの先端に容赦なく、それこそ今まで好きにさせてやったのだからと言わんばかりに強く包み込んで行く。軽く腰を揺らせば強く、そして柔らかく飲み込まれた先端にぞくぞくと強い快感が走り、同時に女が高くこの上なく濡れた喘ぎを浴室内に響かせた。
「あ、──え……!」
「大丈夫。怖くないから」
「きゃ……っ!」
 壁にBJの背を押し付け、キリコは微笑んでひとつキスをしてから両膝を掬い上げるように持ち上げた。三度も達して身体に力が入らない上に、両脚がつかない不安定な姿勢にBJが一瞬悲鳴を上げたが、大丈夫、ともう一度言う。
「首、俺の肩に載せて。落とさないから平気だよ」
 繋がった場所から全て、首と首も添うように隙間なく密着すると、キリコの肌と心音に安堵したBJは息を吐いた。男の鼓動がとても速い。それはわたしを抱いているからだ、わたしに欲情しているからだと思うと、それだけで男がいる場所をまた無意識に締め付けてしまう。キリコが僅かに呻き、自分では自覚できないことながら、かなり強く締めてしまったことが分かった。
「凄い。上手だね。可愛い」
「ん……」
 乱れた息の合間から優しく褒められて嬉しくなる。三度も達して思考がぼんやり、ふわりとし始めていることに気付いたが、こんな時だから言える言葉が素直に唇から零れ落ちた。
「キリコ」
「うん?」
「きもちいい」
「俺もだよ」
「きもちいい。……きもち、い……」
「うん」
 ぴったりと隙間なく触れ合った肌から、もたれかけた首筋から、耳にかかる男の熱い吐息から、飲み込んで放したくなくて締め付けてしまうそこから、全てから与えられる感覚の何もかもが濡れて、こすれて、きもちいい。──こんなの、キリコしかしてくれない。BJはそれを知っていた。
「……あ、ぁ……っ」
 ゆっくりと奥を突かれ、指先まで広がる甘い痺れに呆れるほど濡れた声が止められない。溶けちゃう、とうわ言のように呟いたら、いいよ、と言ってくれた。それが嬉しかった。
「ひぃ……っ!」
 キリコがわざと手を緩めた瞬間に自重でまた深くまで突かれ、今度は動物のような悲鳴を上げてしまった。それが男を喜ばせたなどと分かりはしないのに、同じように何度も突かれて声が止められない。
「ひっ、あ、……あ、んっ、やっ、ひぃんっ!」
 泣き叫ぶような、それでも確実に過ぎた快感を得て我を失っているのだと誰もが分かる声で、自分でも驚くほどの大声でただ喘ぐ。少し角度が傾いて知らない場所を突かれ、また派手に啼いた。止められなかった。
「ひ、あ、ぁ、──あ、ひぁ……っ!」
 キリコが強く腰を抱き掴み、その位置を明らかに狙って今までにない強さで突き上げる。たまに強く押し付けて、ごりごりとなかを抉るような真似をされればもうたまらなかった。止められなかった。絶叫していた。
「やあ、ああぁぁんっ!」
 ──信じられない、きもちいい、わかんない、そればっかりじゃすまなくって、何なの、これ、きもちいいの、わかんない、きもちいい、きもち、い……──
 可愛い、すごい、最高、ここ好きなんだ? ──男の声が熱を帯びている。それすらもきもちよくて、聴覚を愛撫されてまた啼く。何度も止められない声で啼く。繋がった場所から響く水音はそれはもうひどいもので、キリコが動くたびにぐじゅり、ぐじゅりと信じられないほどいやらしい音がした。
「あぁっ、あ、ひっ、ぃ……ひっ!」
 奥にあるそこに当たるたびに勝手に声が上がる。しがみついた背中に強く爪を立てていることにも気付けない。訳が分からない。きっと何度も達している。頭の中が真っ白になって、目の前が弾けるたびに深い場所から快感が湧き出て来て、またいっちゃったね、と動きを止めない男の嬉しそうな声が聴こえるからきっとそうだ。
 浴室内に響く声がひどく甘く、甘すぎるほど濡れていて、何て恥ずかしい声、何て──そう思いながらも止められない。
 きもちいい、きもちいい。もう何度言っているか分かるはずもない。そのたびにキリコが俺もだよと言ってくれることが嬉しい。嬉しくて、経験したことがないほど愛しくてたまらなくて、それから強く思うのだ。こんなふうになってしまう時にはいつも。
 ──ああ、わたしの。このひとは、わたしのもの。
「ごめん、もう無理」
「なに、──ぇ、なに?」
 浅い呼吸の中で喘ぎながら何とか拾えた男の声に、本能的な部分で返事をする。無理なんて初めて言われた、どういうこと──ああ、と不意に思った。深い場所がうねって、キリコが息を呑んだことが分かった。
「クロオ」
 キリコが荒い息で呼ぶ。うん、と返事をする。
「もう出していい?」
 理性などもうどこにもなくて、ああ、そうなんだ、いいよ、と思って、身体の奥深く、そこで驚くほど穏やかな、それでも身体中が歓喜でうねるほどの大きな熱がまた産まれる。待つための熱だ。こんな熱が自分の中にあったなんて知らなかった。幸せだと思えた。だから、うん、と言った。返事と同時にその熱の場所にキリコがぐっと身を乗り出すようにして入り込む。途端に新たな、明らかに今までとは違う熱が爆発するように全身に一瞬で広がった。
「あ、っ、──あぁぁん!」
「……っ!」
 BJを抱え上げたままのキリコがひときわ強く奥を穿ち、BJはひときわ大きな声で啼く。啼きながら奥深くで待ち受ける熱がまたうねって、ああ、このひとはわたしの、わたしはこのひとの──浮遊する感覚と快感といとおしさの波が弾けた瞬間、キリコが息を止め、壁に強くBJを押し付けながら唇を塞ぎ、ぐ、と喉を鳴らして勢いよく腰を引き、身体を震わせた。
 噎せかえるほどのローズの香りの湯気と降り注ぐシャワーの中、キスを繰り返しながらキリコは抱え上げていたBJの両脚を丁寧に降ろす。
「……ふぁ」
 腰に力が入らない。床に立っていることができなくて、BJはそのままへたり込んだ。温かい湯が流れる床は優しく受け止めてくれる。いましがたキリコがいた場所に湯が当たり、敏感になったままのその感覚がむずがゆくて少し身を捩った。
 夢心地の中で腹と胸に飛んだ白い粘ついた飛沫を指で掬い、降り注ぐ湯に流れるさまをぼんやりと眺める。いやそれはやばい、とキリコが呻くように言った気がしたが、意味が分からなかったので聞き流した。
「大丈夫?」
 立ち直ったキリコが屈み込んで髪に唇を落とす。うん、とBJは力なく頷いて息を吐いた。頭上から柔らかい雨のように注がれる湯が温かい。まだふわついた意識の中、顔を上げてキリコを見た。キリコは微笑んで、今度は頬にキスをしてくれる。それもきもちよくて、ふわふわとした感覚をまだ楽しめる。
「すっごい可愛かった。本当に。最高だよ」
「……そっか」
 頬を撫でる大きな手にうっとりと頬ずりする。それを見たキリコはまた可愛いと言ってキスをして、BJを支えながら立ち上がった。キリコに寄り掛かってシャワーを浴びながら、徐々に理性を取り戻して行く。ここまでになってしまうセックスをした時はいつもそうだ。少しずつ夢の世界から抜け出して、少しずつ思い出して、それから恥ずかしくなることばっかりで──
「ちゃんと洗おう。今度は何もしないから」
 キリコがそう言った途端、かっと顔が熱くなった。いつまで経っても、とキリコが笑い、だって、とBJは口の中でもごもごと反論しながら、今度は柔らかいボディタオルにローズのソープを泡立てる男を照れ隠しに軽く叩いたのだった。
「それにしても」
「うん?」
「腕力あるね。お姫様抱っこは何回もしてもらってるけど、ここまでできるのは知らなかった。」
「持ち上げるのにコツがあるんだよ。首を起点にして上半身を密着させてると体重のかかり方が楽になる」
「それにしても。だって私、XXキロあるのに」
「女の子はそういうこと言わない」
 唐突なトップシークレットの告白に苦笑し、BJを洗ってやる。繋がっていた場所に手を延ばすと自分でやると嫌がられたので、諦めて自分の方に取り掛かった。
「そう言えば、キリコ」
「うん?」
「首を起点に上半身を密着させてると体重のかかり方が楽になるって、どこで練習した?」
 いや、あのね──キリコはなぜか自分を笑顔で見つめる恋人に、やはり笑顔で向き合う。恋人の笑顔が表情筋だけで整えられたものであることなど知りたくなかった。自分の笑顔が青ざめていることなど自覚したくなかった。そもそもだ、どこでどんな練習をしていようと、それはとうに過去の話で──だがキリコは知っている。
 この病んだ女にそんな理屈が通じるはずがないことを。
 次の瞬間、BJの顔から笑顔が消え、代わりに般若の如きそれに成り代わり、ああ、そういやユリも怒るとこんな顔だなあとキリコが意識を逃がすと同時に、聞き慣れた罵倒の言葉と罪のないボディソープの数々が投げ付けられる時間が始まったのだった。
 このメンヘラクソビッチ、俺じゃなけりゃとっくに振られてるからな──謂れのないヒステリーの波が過ぎ去る時を待ちながら、この無茶苦茶で筋が通らない病みっぷりも含めて可愛いくてたまらないんだから俺も焼きが回ったもんだとしみじみ思った。
「いや、病んでるから筋が通らないのか、どっちだ」
「何なの!?」
「何でもない。おまえが何しても可愛いって話」
「……誤魔化すな、変態死神!」
 それでも顔が赤くなる。罵倒する声のトーンが急に落ちる。うん、やっぱり可愛い、メンヘラなんて全然大丈夫、俺ぶっちゃけメンタル方面も得意なお医者さんだから。そう思ってしまう自分が嫌いではなかった。