君は薔薇より美しい 02

 バスルームから出てキリコが半分趣味の領域に達している「恋人の機嫌を全力で取る」努力をし、良い結果を出した後、BJは依頼人との顔合わせまで少し眠った。12時間弱のフライトにこの暑さ、その上バスルームでの穏やかならざる大人の遊びが立て続けで、流石に体力に限界が来ている。キリコとしてはそこまでではなく、そこは性差による体力の違いだと思った。
 だがドーハの暑さは確かに厳しい。晩秋も訪れようという時期なのに、まだ日本の夏を彷彿とさせるような気候には辟易だった。BJが眠ってからよく冷えた炭酸水を片手にスーツケースの荷物を整理する。滞在は三日という短期間、全ての荷解きをすると帰りが面倒だ。護身用の銃──カタールでは持ち込みが禁止されているが蛇の道は蛇だ──と神聖なる商売道具の確認をする。
 普段ならこのジュラルミンケースは空港に預けるのだが、中東のセキュリティや職員の意識に精通していない。安心して手元から離せる気がしなかった。ただ、手元にあると分かればBJが嫌がることも知っている。中身を確認し、再びスーツケースの奥に戻した。
 スイーツ混じりの軽食をルームサービスで注文し、届いた頃にはちょうどBJを起こす時間だった。寝室に行こうとした時に電話が鳴り、外線が入っていると告げられる。最近仕事で関わった男の名前だった。ここに宿泊することは事前に教えてあったため、納得して取次ぎを頼む。
「──いや、特に何も。あと一時間で連れが仕事の打ち合わせだが、今のところはそれくらいだよ。夜はホテルのレストランで取るつもりだ。そっちは──ああ、それなら問題ない。出立は明後日の夜になる」
『酒は大丈夫か? 移民系のホテルスタッフに金をやれば部屋に届けてくれるぞ。バレたら罰金だがな』
「有益すぎる情報をありがとう。今日で一番いい知らせだ」
『良い一日を』
「そちらも」
 簡単な仕事の話と有益な情報収集を終えて受話器を置き、今度こそBJを起こす。深く眠り込んでいたわけではなかったのか、朝の目覚めよりもよほどスムーズに起き上がった。
「おなかすいた」
 開口一番のその言葉に、キリコは苦笑しながら「用意してあるよ」と言って寝起きのキスをした。体重がXXキロってのは奇跡だな、と取得したばかりの極秘情報に対して感心してしまう程度にはBJはよく食べる。思考能力にカロリーが消費されているのだろうと自分を納得させた。
 欧米食と中東食が半分ずつになった軽食とスイーツは、欧米からの旅行者の食生活に配慮されたものだった。欧米食に慣れたBJにもありがたい。英国のアフタヌーンティーのような上品な盛り付けは英国が実行支配していた歴史の名残だろう。
「あ、これ美味しい」
 慣れない文化の食べ物を積極的に楽しみたがるBJは、中東独特の菓子を一口食べて嬉しそうな声を挙げた。麺を縒り合わせたように形成された生地にチーズとナッツ、クリームを挟んで焼き上げた菓子だ。それにシロップがかけられている。見ただけで口の中が甘くなったキリコは「俺のも食べていいよ」と言って恋人を喜ばせてやった。
「クナーファ。アラビアンナイトに出て来る菓子だってさ」
 軽食と一緒に届けられた品書を見たキリコが言う。観光客には嬉しい情報だろう。
「日本じゃ見かけないよね。ピノコとユリさんにも食べさせてあげたいな」
「ああ、あの二人なら絶対好きだろうな」
 スイーツにかける女性の情熱は理解できない──口に出せば女性差別だと言われる時代になりつつある。だがキリコがしみじみそう思ってしまうほど、BJを含め、女三人の甘味に対する情熱は理解が難しかった。
「そうだ、マフィン」
「ん?」
 中東菓子で有名なピスタチオのヌガーを英国風スコーンに塗りながらBJが返事をする。また恐ろしく甘そうだな、と思いながらキリコは話した。
「ブルカはどうする」
「やっぱりした方がいい?」
「相手はおまえが大好きな金持ちだ。営業するなら着用した方が無難だな」
「人となりもわからないのに初対面から営業することはないよ。また会いそうな時とか、後々助けてくれそうな相手だけ」
「後々搾り取れそうな、の間違いじゃないのか」
「そうだったかも」
「ロンは?」
「合衆国大統領は別。全力で営業するのは当たり前」
「クソビッチめ」
「早漏が何だって?」
「違うって分かってるだろ? ──まあ、別の理由もな。この国は女性の医者が多い。逆に外国の女医がこの国に来る機会も滅多にないだろう」
「──ブルカだと目以外は全部だな。暑いからヒジャブにする。スカーフ貸して、目立たないやつ」
「食べてていいよ」
 BJの頬にひとつキスしてから席を立ち、キリコは寝室に置いた自分の荷物を漁りに行く。
 自分のためにスカーフを探しに行ってくれたキリコの背中を見送ってから、BJは溜息をついた。キリコが一緒に来てくれて良かった、と思った。一人ではきっと考えもしなかっただろう。
 この国の女性は伴侶以外に肌を見せることを禁じられている。女医が多いのはそのせいもある。女医自身も布で肌や髪を隠しながら誇り高い人生を送っているが、イスラム女性には禁じられる行為である髪を晒した姿の外国人の女医が、伴侶以外の男性と仕事の話をしていれば、様々な感情を呼び起こす可能性が否定できない。
 直接この国の女医と交流する予定はないが、噂はすぐに広がるものだ。女医という存在の評判をこの国で落としかねない可能性は、彼女たちのためにも、彼女たちに命を預ける患者のためにも排除するべきだった。
「……死神って、似合わない」
 不吉な呼称を持つ男は、「ひと」をこの上なく愛している。こんな時、こんなことで思い知る。自分の家族でも友人でもない、知人ですらない、顔すら知らないひとのことも当たり前のように思いやる。
 それなのに、その指先は確実にひとの生命の糸を切る。
 きっと一生分からないし、納得できないだろう。BJはそう思った。それでも共に生命に添い続けるパートナーであることは確かだ。不思議な関係かもしれない。だが真実として愛し合っていて、それを後悔することもないと分かっていた。
 それとも、もしかすると、いつか──
「──知るもんか」
 ピスタチオのヌガーをたっぷり塗ったスコーンに噛り付く。異様に甘い。考えても仕方ないことだってある、と自分に言い聞かせながら立て続けにもう一口齧り付くと同時に、スカーフを手にしたキリコが戻って来る。スコーンで頬を膨らませたBJを見て、欲張り過ぎだろう、と言って笑った。


 時間より少し前にフロントから依頼人の到着が告げられた。アラブ人にしては時間を守るんだな、と思いながらヒジャブ代わりにベージュのスカーフで髪を覆い、BJはキリコと一緒に部屋を出る。スカーフからは男性的だが少し甘い、琥珀系の香りがした。キリコの香水だ。これ好き、と口には出さずにBJは密かに嬉しい。
 エレベーターを降りるなり、チャドルと呼ばれる民族衣装を身に着けた女性が分かり切った顔で近付いて来る。BJの名前を確認した後、通訳の者だと英語で言った。顔以外を全て隠す服装の彼女は、宗教の教えで伴侶以外の男性と握手ができないと言い、最初にキリコに謝った。キリコは無論気にしなかった。
「バスマです。お相手から通訳を依頼されましたので、ご一緒します」
「──お兄さんはジャーシム?」
「まあ」
 入国管理官を思い出したBJが言うと、バスマは左人差し指を眉に当て、顔を輝かせた。驚愕や歓喜を現すアラブ独特のジェスチャーだが、BJとキリコには分からず、輝いた顔で彼女が喜んだのだと分かった。
「そうです。嬉しいわ。兄もお役に立てたかしら」
「もちろん。こんな怪しい二人をあっさり入国させてくれたんだから」
「お医者様が怪しいなんて」
 バスマが楽しい話を聞いたと言わんばかりに笑い、BJとキリコは苦笑した。
 それからバスマはBJがヒジャブを着用していることを大袈裟と言えるほどに褒め、それがキリコのアドバイスだというBJの説明を聞き、宗教が違うのにありがとう、と感激しきりだった。布一枚でこれなのかとBJは文化の違いに驚き、改めてキリコの慧眼に感服する。
「お客様はあちらでお待ちです。どうぞ」
 ブルカの裾を翻し、バスマが先に歩き出す。ロビーでも一番の上客が利用することが暗黙の了解で決まっている席へ案内された。
「見るからに金持ち」
 BJが日本語で呟き、キリコも内心で同意した。Z国はカタールに負けず劣らず裕福な国だ。そこにいる男も明らかに、経済力を持つ人間独特の空気を醸し出していた。
 遠目でも富豪だと分かる、アラブの白い民族衣装のカンドゥーラをまとった若い男性は、その席に悠然と腰掛けていた。周囲には同じく民族衣装姿の男が3人立っていたが、彼らは護衛だろう。3人を確認したキリコは、じゃあ俺は日本から来た天才外科医の護衛でも気取ることにしよう、と改めて決めた。特に口出しをするつもりはない。
 BJとキリコに気付いた男は顔中に歓喜の色を湛えて立ち上がった。アラブ人の感情表現は大袈裟なのだとBJは心の中に書き留める。キリコは何も言わない。既にBJの意識が可愛い恋人ではなく、仕事の話を聞く天才医師のものに切り替わったと理解していた。
「ブラック・ジャック先生?」
 通訳など不要ではないかと思わせる流暢な英語で話しかけて来た男に、BJはあっさり言った。
「ご自分から名乗るべきだと思いませんかね?」
 男は一瞬鼻白む。そりゃそうだろう、とキリコは思う。男性優位のアラブ圏、しかも日本に石油を輸出して潤うZ国の人間が、その日本人の女にぴしゃりと初手で叩かれたのだ。だがすぐに気を取り直したのか、頷いて名乗った。
「失礼した。ガンナームです。今日は遥々、日本からありがとう」
「それはどうも。ブラック・ジャックです。彼はドクター・キリコ、今日はただの付き添い。気にしないで」
「ドクター・キリコ。あなたもありがとう」
 キリコに対して握手を求めるガンナームに、キリコは取り敢えずといった気分でそれに応じる。BJに握手を求めないのは無礼なのではなく、伴侶以外の男性との接触を禁じられる女性への配慮だ。宗教は違っても貫くイスラム教徒は少なくなかった。
「彼らは私の護衛の──」
「興味ない。座っていいですかね? それから冷たいコーヒーでも頂ければ嬉しいんだけど」
 いつ見ても傍若無人で図々しい女外科医で結構なことだ、とキリコは表情を動かさず、心の中でいっそ感動する。だがこの態度が彼女の身を守り、天才外科医として稼ぎ続けられる理由のひとつだと分かっていた。
 小物の依頼人ならここで怒りもするのだが、ガンナームは穏やかに頷き、気付かなくて失礼、とまで言ってのけた。バスマはガンナームに促されて護衛の三人に通訳をしたが、BJの無礼な発言は除き、「座ってコーヒーを飲む」と言うことだけを伝えた事実は二国の言語が理解できるガンナームにしか分からなかった。
「ヒジャブをして来るとは意外だったよ」
「彼のアドバイス」
「ドクター・キリコの?」
「私は医学以外のことはさっぱりでしてね。彼がイスラムへの敬意を教えてくれたので、取り急ぎスカーフで失礼ながら」
「何て素晴らしい。今日で一番嬉しい話を聞かせてもらった」
 豊かな感情表現を見せる男の顔立ちに品があることにBJは気付く。イスラム男性らしく髭をたくわえた若い男は、イスラム文化圏で恵まれた人生を送っているのだろう。声の張りも仕草のいちいちも高い教養を窺わせる。BJは頭の中で素早く対応方針を決め、次の話に移行した。
「電話では話せないと言うからドーハでお会いしているわけですが、どういったお話で?」
「ああ、それは──その、とても繊細な話で。私たちの文化圏では有り得ないと言われるかもしれない」
「──ふうん?」
 BJはソファに深く腰掛け直して脚を組み、ガンナームの話を待つ。カタールを始め、イスラム圏の女性には許されない態度だが、ヒジャブを着用しただけでも評価されるべきだとBJは思っていた。
 他国の文化に敬意を払う。それは重要だ。だが従うわけではない。ビジネスを優位に進めるためにも必要な態度だった。それを理解しているキリコはさり気なくBJとガンナームを見比べ、BJの思惑が成功していることを見抜く。ガンナームは明らかにBJの態度に戸惑っていた。
 バスマは驚いた顔を隠しもせず、それでも忠実に仕事をする。通訳に頼る護衛の男たちは顔には出さず、それでもBJへの警戒心を強めていることを雰囲気で分からせた。
「詳しく。あなたがたの文化には詳しいわけじゃない。聞いてみなけりゃ有り得ないかどうかなんて判断が付けられやしませんよ。あくまで私の知る文化の中の話ですがね。──ああ、ついでに」
 BJはキリコを示しながら続けた。
「私どもには守秘義務ってのがありましてね。あなたから聞いたことを誰かに言うなんてのは絶対に禁止事項ですし、話がご破算になればすぐ忘れます。観光客として出国の飛行機までカタールを楽しむ予定になるでしょうね」
「それなら──」
 ガンナームが安堵の表情を浮かべた瞬間、バスマの通訳を聞き続けていた護衛の一人が厳しい口調のアラビア語で何かを言った。バスマがガンナームを見、ガンナームはバスマに首を横に振ってから、その護衛にやはり厳しく何かを言い付ける。BJはバスマを見てゆっくりと口を開いた。
「何て言ってるんです?」
「え、あのう──」
 どうしよう、とバスマはガンナームとBJを交互に見る。通訳の苦労のひとつだ。護衛の言葉を通訳すれば、BJが気分を害するかもしれないと思った。
「いや、必要ない。先生、気にしないで──」
「気にならないはずがないでしょうに。まるで私が悪人みたいな顔をしやがって、そいつ。冗談じゃない。言いたいことだけ都合よく言いたいってんなら他の医者を探すか、護衛を換えるかどっちかにするべきだと思いますがね」
「──隠し事をされては患者の生命に関わることもある。BJ先生はそう言っているだけですよ」
 周囲の視線を感じたキリコは最初の方針を曲げ、静かに口を挟んだ。欧米や日本なら口を挟まない展開だったが、何しろここはアラブ圏だ。衆目の前で恥をかかせ、万一恨みを買うことになれば、違いすぎる文化から対応が面倒になると察し、できるだけ穏やかに事を収める方向へ導く。
「そう言った方が分かりやすかったかもしれない。その点は失礼」
 BJとしてはここでひと騒ぎ起こした方が相手の本音を引きずり出しやすいという思惑での言動だったが、キリコのアラブ圏への用心を感じ、それを受け入れることを決めた。
「いや、私こそ失礼を。どうぞ通訳を」
 ガンナームに促され、バスマは溜息をついてから護衛の言葉を英語に訳す。
「彼は『あなたが守秘義務を果たすと言う保証がどこにある』と言っています」
 どうせあなたなんて綺麗な言い方をしちゃいないだろうな、とBJは正解を予想しつつ、ビジネスの話をする外科医の顔で「ふうん」と言ってみせる。話を続ける前にガンナームが口を開いた。
「私は信用したい。あなたが無二の天才外科医であることはよく知っている。私の知るアラブ圏の中で、ブラック・ジャック先生に診てもらったという話はいくつか調べさせてもらった。その腕も人格も信用に値することはよく分かっている」
「それはどうも」
 どの件だっけな、とBJは記憶の引き出しをひっくり返す。どれもこれも結構なもんだったけど、ああそう言えばあれはやばかった、あっちのあれはキリコに言ったら絶対まずい、という記憶が一気に溢れ返り、よし、この話は変えよう、と決めた。無論キリコはその感情を見逃さず、何かあったな、聞かない方が無難か、と決めた。
「ほとんど覚えちゃいない。あなたの依頼だって終わればすぐ忘れるし、何なら請けなくたって私は全く構いませんぜ」
「いや、彼の無礼は許して欲しい。どうしても先生にお願いしたい理由がある」
「これ以上、私が分からない言葉で邪魔をさせないこと。それが話を聞く条件」
「それなら──」
「話を聞く、ってだけですよ。まだ請けるなんて言っちゃいない」
 たちまち顔を輝かせたガンナームに釘を刺す。男はすぐにそれを理解し、それでも嬉しそうだった。だが護衛を振り返り、厳しい口調で何かを言い付ける。バスマがBJとキリコに「もう口を出さないように、と言っています」と教えてくれた。
 それからようやくガンナームは本題に入った。この話は護衛の彼らも知っている、通訳は不要、とバスマに言い置いて話し出す。
「私の友人の話なんだ」
「ご友人。ご家族ではなく?」
「そう。大学の頃に知り合った友人で──もしかして、友人のための依頼は請けてもらえないんだろうか?」
「内容によりますね。ご友人のご家族が納得していれば、という部分は大きいですよ。まあ、それがなくても私に恨みが降りかからなければ大抵は構いませんが」
「先生に危害が及ぶことはないと約束する。話を続けても?」
「聞くだけなら」
「ありがとう。──男性の友人だ。彼は生まれつき障害を持っていて、その治療を先生にお願いしたい」
「あなたの文化圏では有り得ないと言うのは、その治療に関係があるということ?」
「そうだ」
「ふうん」
 BJはちらりとキリコを見る。キリコもちらりとBJを見る。闇で生きる二人の直感が同時に言っていた。
 ──これ、絶対面倒くさいやつ。
「アラブの文化圏で有り得ないとなると──まあいい、私の予想は置いて話の続きを」
「その、──先生の予想通りだと思う。彼は性自認に悩んでいるんだ」
「イスラム教ですっごい揉めそうなやつ来た……!」
 思わず日本語で言って天を仰いだBJの横で、キリコも顔には出さないものの、アラブ圏でこれは面倒くさい、間違いない、と思った。BJの反応に驚いたガンナームは咳払いをし、それでBJも再び英語に切り替える。
「失礼、今のは日本語。それはご苦労でしょうね、って意味ですよ」
「ありがとう。確かに苦労は一通りではなくて、彼は自殺を考えたこともあるんだ」
「なるほど。まあ、そういうケースはたまに。それで?」
「先生の力が必要なんだ。彼は自分の心を女性だと言って聞かない。治療して欲しい」
「──治療って? まさか彼の性自認を換えろって話じゃあないでしょうね」
 ガンナームは頷く。BJは眉を顰める。様々な感情が渦巻いた。それは生まれつきのもので、障害と呼ぶべきものですらない、とBJは思っている。だがそういった人々の苦労は耳にするし、中には相談に来た患者もいる。その時の依頼を思い出し、BJは苦い気分になった。
「性自認を換えるなんて、それは私の仕事の範疇じゃない。私は外科だ。ご友人は心療内科にかかるべきでしょうな」
「心療内科? 彼は気が狂ったわけじゃない、単に間違えているだけなんだ」
「ああ、心療内科ってのは精神科とは違いますよ。最近注目されている分野でしてね」
 二つの分野の違いを説明しながら、それでもZ国ではまだ未発達の分野であろうことも付け加えた。途中からキリコが更に分かりやすく補足し、ガンナームは時間をかけてようやく理解する。理解した途端に深く溜息をつき、何てことだ、と呟いた。
「じゃあ、彼は本当に女性と言うことなのか。身体が男性なのに?」
「本人がそう言うんならそうなんでしょう。他人が決めるこっちゃありませんよ。ましてや障害なんて第三者が言うもんじゃない」
「私の国では有り得ない考え方なんだ。凄くショックを受けているよ。親友なのに」
「そりゃご愁傷様で。あなたの国では無理なら、あなたが手を回して海外で相応しい医者にかからせてやればいいんじゃないですかね。とにかく私にできることは何もない。話はこれで終わりでいいですね。忘れますよ」
「──いや、まだだ!」
 立ち上がりかけたBJを制するかのようにガンナームは勢いよく顔を上げ、かっと目を見開いた。その勢いに驚き、BJはついもう一度座ってしまう。
「ドクター・キリコ、あなたは!?」
 心療内科についてBJよりも分かりやすく丁寧に説明してくれた医師を見る。期待に満ちたその目にキリコは冷や汗をかいた。
「無理ですね」
 安楽死を依頼されることでもない限り、BJの依頼人を横取りするような真似はしたくない。この件ならBJ自身は気にしないだろうが、どこで闇の連中が見ているか分からない。専門を変えた、それとも増やしたのかと思い込み、金のために面倒な依頼を斡旋しかねない連中だ。それだけは御免被りたかった。
「私も専門外です。お請けすることはできません」
「だが心療内科というものに関してはBJ先生よりも深い知識をお持ちだろう。あなたの専門は知らないが、それでも話を聞いてもらうことはできないのか」
「いや、話は今お聞きした通りですしね。無理です」
「報酬はいくらでも。BJ先生にお支払いする予定だった30万ドルを──」
「金に困ってはいない。専門でもないのに患者に不誠実な真似はできません。話は終わりだ。あなたとご友人に幸いあるよう祈っていますよ」
「ドクター!」
「ではこれで。先生、行こう」
「請ければ?」
 明らかに面白半分の口調、日本語で言ったBJに辛うじて紳士の顔を貫き、行こう、ともう一度促した。BJは「ではどうも」とガンナームとバスマに言い置き、早くヒジャブ脱ぎたい、とやはり日本語で言いながらキリコと共に歩き出したのだった。


「請ければ良かったのに。30万ドル」
「日本円でざっと1億か? だったらおまえがやればいいんだ」
「専門でもないのに不誠実な」
「黙れ」
 ヒジャブ代わりのスカーフを取りながらからかう女の唇に軽く噛み付いて笑わせ、キリコは溜息をついた。確かにイスラム教徒には辛い性自認だろうが、かと言ってキリコにどうしてやることもできない。
「おまえこそ、だったら性転換手術をしましょうって言ってやれば良かったんだ」
「やだよ。本人の依頼ならともかく、いくら友人だからって勧めていい術式じゃない」
「──ふうん」
 BJの医者としての真摯な面を垣間見る。度を超した高額報酬を取るモグリの医者は、その実、ほとんどの患者に対しては誠実なのだ。あまりにも近くにいるからか、キリコはつい忘れてしまう時があると反省した。
「おまえさんも知ってるかもしれないけどさ。性自認が原因で性転換手術をした後、やっぱり本来の性は生まれつきの肉体の性だったって言って後悔するパターンも報告されてる。こんな依頼の仕方をされたら手を出したいなんて思えないよ」
「ああ、そう言えばそんな報告も見たな。先月のあの論文で──」
「そう、それ」
 しばらく二人で医療の話になる。恋人の顔ではなく医者の顔で話す時間も珍しくない。そしてこの時間も嫌いではない。昔は何かとぶつかったものだが、今は安楽死の話題にならない限り、穏やかに議論できるようになっていた。
 途中でドアがノックされた。キリコがドアを開けるとバスマがいた。
「ああ、さっきはありがとう」
「いいえ、ドクターたちの誠実さには感動致しました。それで、その──」
 バスマが視線で示した方を見て、キリコは目を疑う。
「……これは?」
「ガンナーム様が、お二人にぜひと」
「いや、これはちょっと──」
 バスマの後ろには二人のベルボーイがいる。彼らが押している2台のワゴンを見、キリコは言葉を失った。何事かと顔を出したBJも唖然とする。
「え、何これ」
「ガンナームからだそうだ」
「……え、やめておこうよ」
「俺もそう思う。──受け取れない。失礼だがお返しすると伝えて──」
「ドクター、仕事を離れたお話をすることを許して下さい」
 バスマが小声で、そして明らかに二人を心配する顔で言った。
「Z国の人からのプレゼントを無碍に断るのは彼らのプライドを傷付けます。アラブ人の中でもプライドがとても高い人たちなんです。丁重なお手紙を書いた上でお返しした方が無難ですよ」
「……ああ、そうなんだ?」
「あの方は英語が読めますから、このままお返しするならすぐにお書きになった方がいいでしょう。私に預けて下さればすぐお渡しできます。書くのは女性からより男性の方が良いかと思います」
「……そうしといて」
 BJは大きく息を吐き、バスマとベルボーイに礼を言って部屋に引っ込む。キリコは頭痛を覚えそうになりながら、分かったよ、アドバイスをありがとう、と心からバスマに礼を言ったのだった。
 手紙が書けるまで取り敢えずここに置いて行くと言われて運び込まれた2台のワゴンの上には、日本や米国では標準以上の生活ができていると自覚するキリコですら腰が引けるほど高級品が陳列されていた。時計に服は当然のこと、宝飾品、高級菓子に明らかに文化的な価値があると分かる装飾品がこれでもかと並んでいる。
 最初は物珍しがって見ていたBJが不意に眉を顰めた。
「あの野郎、調べ上げてやがった」
「どうした」
 キリコは手紙の文面を考えながら、BJが手に取った品見る。そしてつい、BJ同様に眉を顰めた。
「服? 女の子の?」
「うん。かなりある」
 既製品では望めない生地と縫製で仕立てられた服の数々が他にもワゴンの上に用意されている。そしてBJは忌々しいといった口調で吐き捨てた。
「サイズまでぴったり」
「──すぐ断りの手紙を書く。心配なら日本のボスに頼んでおくといい」
「そうする」
 日本を長く空ける時、よくピノコの身の安全について相談することが多い──要はいざと言う時には守って欲しいと頼んである──元患者のヤクザの親分に電話をかけるため、BJは受話器を手に取る。フロントに海外発信を頼む声を聞きながら、ついでにレターセットを頼んでくれと言おうとした時、BJが「どういうこと?」とやや険のある声を出した。
「回線が不調って、そんなこと──ちょっと、きちんと話して欲しいんだけど!」
「代わって」
「もう!」
 どこの国でも男の方が話が早い。トラブルがあったと看破したキリコはBJから受話器を取る。
「海外発信ができないって? どういうことだ?」
『回線が不調なんです。お連れ様にもご説明した通りですよ』
「国内へは?」
『それもきっと、難しいかと思います』
 キリコは僅かに考える。それから腹を立てていることを相手に伝えるために声のトーンを落とし、おそらく正しいであろう予測を口にした。
「いくらだ?」
『お客様、そういった問題では──』
「ガンナームにいくらもらった、と訊いているんだ」
 隣で聞いていたBJもそれで理解し、「請けなくてよかった」と苦々しく呟いた。
『お客様、回線はきっと遠くないうちに調子を戻します。それまでは──』
「──レターセットを届けてくれ。すぐに。ガンナームに手紙を書く必要があるんだ」
『かしこまりました。ただいまお届け致します』
 普段なら礼儀正しく電話を切るたちのキリコだが、今ばかりは叩き切った。珍しいと思いつつ、よほど腹が立ったのだろうと分かったBJは肩を竦めるにとどめる。
「マフィン」
「何」
「腹が立った。キスしてくれ」
「うん」
 珍しい理由の要求を受け入れてキスをしてやりつつ、この部屋どころか二人の発信はホテルから一切できないことになったと理解したBJは、可能な限り早くカタールから出るべきではないかと考える。キリコにそれを言うと同じ考えだと言われた。
「ロンドン行きは三日後まで満席だし、でもこうなったらどこの国でもいいんじゃない? 日本行きがあれば一番いいけど。アメリカのどこかでも。とにかくアラブ圏じゃなければいい」
「ドーハからならワシントン行きがある。──問題は俺たちがスムーズに出国できるかってことだ」
「ま、無理だね。もう空港職員も抑えられてる可能性もあるし」
 二人は同時に溜息をつく。
「ホテルの外から電話するしかないか」
 そうだな、と言いかけて、キリコは芝居がかった顔で手を叩いてみせた。
「マフィン、俺は今すごいことに気が付いたよ」
「何?」
「どうして俺たちがホテルの外に自由に出られるなんて考えたんだ?」
「ハン、あなたって本当に頭が良くって素敵だわ!」
 アメリカのドラマでよく見かけるような賑やかなカップルを演じて抱き合い、絶望を誤魔化そうとして失敗し、二人は改めて溜息をつく。
「久し振りとはいえ我ながらキレの悪い芝居だった」
「最後にやったのっていつだっけ、スペインだったっけ」
「ガリシアだな。あの時のトラブルなんか可愛いもんだ」
「麻薬もどうかと思うけどね」
 仕事柄、様々な危機を経験している。それでも好んでいるわけではない。仕事の話をしてカタールを観光して、それからロンドンに、二人っきりで長めの旅行。そんな平和な予定を立てていたはずなのに、どうしてこうなった、とうんざりするしかなかった。
 やがてレターセットが届けられる。なぜか頼んでもいない菓子や軽食、ビールに模した外国人向けのノンアルコールドリンクも一緒だった。届けたホテルマンにキリコが「外に出てもいいのか?」とダイレクトに問うと、彼はにっこりと微笑み、「きっとお部屋の中が一番楽しく過ごせますよ」と言い切った。
「お手紙が書けるまでお待ちしましょうか?」
「バスマに頼むことになっている」
「彼女には大役すぎますよ」
「女性との約束を違えろとでも? 俺に恥をかかせるつもりか」
 どの文化圏でも男性なら理解できるであろう男性のプライドを主張し、キリコはホテルマンを部屋の外に追い出した。バスマもガンナームに買収されている可能性はあるが、ホテルマンが部屋に居座るよりはましだ。だが聞いていたBJが不意に日本語で言った。
「バスマは信用できると思うよ」
「女の勘か? あてになるなら聞かせてくれ」
「そう? そういうことにしておきたければそれでどうぞ」
「──悪かったよ」
 苛立ちをBJにぶつけるという愚かな真似を後悔し、謝って抱き寄せる。BJはホテルマンが届けた一口サイズの揚げ菓子を口に放り込み、別に、と言った。その声は拗ね切っていて、キリコの自己嫌悪を増大させる。
「ごめん」
「これ食べたら許してあげる」
「うん?」
「Say ahh, hon」
 あーんして、あなた。首を傾げて上目遣いで言われればとても断れない。
「……っ……」
 言われた通りに開いた口に放り込まれた揚げ菓子を咀嚼した瞬間、吐き出さなかった俺を誰か褒めて欲しいと心底思った。甘すぎるナツメヤシのペースト、オレンジの香り、これでもかと言う量の砂糖、シナモンとバター、そして揚げ油が一斉に味覚を叩きのめす。アラブの菓子は甘い。あまりにも甘い。好んで甘いものを食べるわけではないキリコにとって拷問以外の何物でもなかった。これを吐き出せばBJの機嫌は更に悪くなる。出来る限り咀嚼を控え、窒息しない程度の大きさに砕いて飲み込んだ。
「よく食した、褒めてつかわす。無糖のコーヒーを淹れてやろう」
「身に余る光栄ですが、水をすぐに頂戴できれば幸いで」
「美味しいけどなあ」
 今度はチーズをひとつ口に放り込み、BJはミニバーの冷蔵庫に冷えたミネラルウォーターを取りに行く。キリコは一秒でも早く水を飲みたいと思いつつ、トレイに置いてあった品書きを見た。マクルードという名の菓子だと分かり、心の中にある二度と食べない物のリストに書き込んだ。リスト内1の座に鎮座するバロット──雛の孵化寸前で茹でた卵──には届かないが、そこそこ上の順位に入りそうだ。
「はい」
「ありがとう」
 BJがくれた水を一口飲み、大袈裟でなく一命を取り止めた気分になる。それでもまだ口の中は甘ったるく、菓子と同じプレートにあった口直しの一助になりそうなチーズを手に取った。
「あ、それ」
 口に放り込むのとBJがやや焦った声で言うのはほぼ同時で、噛んだそのチーズの中から濃厚なシロップが溢れ出して来たのと、BJが「だめ!」と言ったのもほぼ同時だった。黙ってまた水を飲み、俺が悪かった、と改めて真剣にBJに謝った。もういいから、とBJは半ば必死で言うしかなかった。
「で、バスマが信用できる理由は?」
 並外れた甘さを駆逐するまでにコップ三杯の水を摂取した後、キリコは改めてBJに問う。最初からこう言うべきだったが、それこそ後悔先に立たずというものだ。
「ガンナームに買収されてたら、手紙を書けなんて教えてくれないと思う。大金をくれた相手に嫌な返事を伝える役割なんてしたくないもの」
「なるほど。他には?」
「そもそも、バスマは移民じゃない。お兄さんのジャーシムが入国管理官、移民ができる仕事じゃない。だから金に困ってない。この国で金に困るのは移民だけだもの」
 キリコはBJの推測を頭の中で反芻する。確かに一理ある。特に移民ではない、金に困らないはず、と言う理由は納得できる。カタールは裕福な国だ。移民ではない人間ならまず生活に困ることはないし、欧米諸国、アジアと比較しても収入が桁違いだと言われている。
「とにかく、親分──ううん、英語ならユリさんの方が早いかも。ユリさんに代わりに電話をかけてもらうだけでも頼んでみない?」
「最善だろうな」
「ワシントンのキリコのアパートメントにピノコと行ってくれれば安心できる。あの家に人が入れば、どうせ自動的に米軍に連絡が行くんだろうし。Z国相手なら放っておけないだろうし、そもそもキリコに何かあったらフォート・デトリックが困るわけでしょ?」
「ワシントンに行くには時間がない。神奈川の在日米軍基地に行かせた方が早い」
「赤坂のアメリカ大使館は?」
「お嬢ちゃんの国籍で面倒が起きるかもしれない」
「米軍基地の方がいいか。グラディスにすっごい嫌味を言われそうだけどね」
「あの赤毛、俺たちに『もう家から出るな、おとなしく暮らせ』って怒るだろうよ」
「頑張って聞いてね」
「代わってくれても構わないよ」
「絶対嫌だ。──早く手紙を書いてよ。バスマを呼んで」
「分かったよ」
 返事をしてデスクに向かい、ペンを持った。


 手紙を取りに来たバスマは一人だった。どう切り出すか、と考える二人の心構えは必要なかった。バスマ自身が「私はお金をもらっていません」と小声で言ったのだ。
「ホテルのみんなには失望しました。今までこんなことなかったのに。──支配人と高位のホテルマンたちと、あとはスイートルーム以上を担当する警備員ももらっていません。お金をもらってしまったのは移民系のスタッフがほとんどです」
 この部屋はジュニアスイートだから移民系の担当なんです、とバスマは肩を落とした。聞いたキリコは今後、どの国でもBJがいる時にはスイートルームを取ろうと決めた。
「電話やホテルの出入りを管理するのは移民系の彼らだから、支配人たちにもどうにもできないんです」
 悔しそうに俯くバスマの声に嘘は感じられない。二人は視線を交わし、彼女を信じることに決めた。これで騙されるのなら自分たちに人を見る目がなかったと思えばいいだけの話だ。
「あなた自身は安全なの? 買収されなかったことで逆恨みをされたりは?」
「まだ大丈夫。でもそのうちそうなるかもしれません。明日から、ガンナーム様がドーハにご滞在の間は仕事を休もうかと思って。──お役に立てなくてすみません」
「そんなこと言わないで。こうして手紙を取りに来てくれただけでも有り難いんだから。──キリコ、バスマに手紙を」
 キリコは封をした手紙をバスマに渡す。バスマは受け取ってから僅かにキリコを見上げ、封筒の下に重ねられた同じサイズのメモに気付いたことを教えた。
「くれぐれもガンナームによろしく」
「ええ、伝えますね。──じゃあ、確かにお預かりしました。すぐにガンナーム様にお届けして参ります。置いてあるお品もすぐベルボーイ──もしかしたら支配人か高位のホテルマンかもしれないけど、取りに来るように伝えておきますね」
「ありがとう」
 言外に「買収されていない人間をこの部屋に来させる」と伝え終えたバスマは頷き、身を翻して部屋を出る。ドアが閉まってからキリコはBJにひとつキスをし、どうした、と訊いた。BJが何かを考える顔をしていたからだ。
「買収されていない支配人か高位のホテルマンが来るなら味方につけておくか」
「どうやって?」
「話をする。ヒジャブをしておきたい。スカーフをまた貸して」
「ヒジャブの目的は?」
「この国は別に男性が強いわけじゃないような気がする。それなら私が得意だよ」
「──後半は聞き捨てならないが、俺が怒るべきことじゃないんだな?」
 念押しのようなキリコの問いにBJはにんまりと笑ってみせる。久々に見るその笑い方に、キリコは色々と思い出して苦笑した。ろくなことを考えていない、もしくは何かを企んでいる時の笑い方だということも思い出したからだった。
 ほどなくして支配人と高位のホテルマンが二人、ガンナームのワゴンを取りに来たという名目で部屋を訪れた。キリコは彼らを部屋に招き入れ、少し話し相手をしてもらえないだろうかと持ちかける。
「彼女がすっかり参ってしまってね。もちろんあなたたちの事情を優先して頂いて構わないんだが」
 ヒジャブを着用したBJを部屋の中に認めた彼らは感服し、我々でよろしければと承諾した。
「奥様、ご不自由はございませんか。このたびはまことに──」
「不自由? ないとでも思う? どうしてこんなことをされなきゃけないのよ!」
 支配人の挨拶を遮るかのように、女のヒステリックな泣き声が響いた。支配人とホテルマンたちは狼狽し、キリコは「早速始めるとは」と半ば感心しながらBJを抱き締める。
「マフィン、彼らの責任じゃないんだ。そんなことを言うんじゃない」
「だって、ハン、あなた。電話もできないなんて。日本の家族の声を聞くこともできないの?」
「もっと楽しい話をしよう。せっかく彼らが来てくれたんだ。カタールのことを聞きたいと思わないか?」
「電話をしたいの。家族と友達と、お世話になってる人に。こんなことってないわ、酷過ぎるわよ」
 二人の演技の意味を知っている人間ならともかく、知らない彼らに猿芝居と言われない自信はある。しかもアラブ圏の人間が大切にする家族、友達、恩人といったキーワードもふんだんに盛り込んだ。その上、BJは丸っきり女性──しかも他国人でありながらイスラム教に敬意を払ってヒジャブを着用している──として分かりやすいヒステリーを起こしながら泣いてみせている。これならたぶん、と先に打ち合わせをした時にBJはキリコに言った。
 ──これならたぶん、カタールの男性はいたたまれなくなると思う。この国、っていうか、たぶんだけど、アラブ圏って男性優位だけど男尊女卑ってわけじゃなさそうだから。
 そう思う理由を問う前に、支配人たちが素早く到着してしまった。バスマの行動が早かったようだ。あとは彼女があのメモの通りに動いてくれればいいのだが。
「奥様、力が足りなかったことをお詫びします。ヒジャブまで着けて下さったというのに、こんなことになってしまって」
 支配人が心からの詫びを口にする。ホテルマンの一人がそっと部屋を出て行ったが、BJとキリコは放っておいた。支配人に目配せをした後、二人に礼をして出て行ったからだ。少なくともガンナームの買収に応じていないと分かる態度だった。
「せめてお慰めできればと思いまして、お部屋の移動を。普段はブライダルのためにファミリーで宿泊するお部屋なのですが、ちょうど空いております。きっと奥様のお慰めになるでしょう」
「移動?」
「──海外からいらした政治家の皆様もご利用になられるお部屋でございます」
 急な申し出、しかも一般で言うところのスイートルームともまた違う部屋への移動を促され、キリコは顔に出さずに疑念を、それからすぐにひとつの可能性に思い至る。キリコの腕の中で顔を伏せていたBJも同様で、分かったと言う合図にキリコの腕をぎゅっと掴んだ。
「それはありがとう。彼女がこんな状態ですまないが、お願いしていいだろうか」
「もちろんでございます。先に行った者がもう準備を始めたはずですので、どうぞすぐにでも。お荷物は寝室でよろしいですか。少々失礼致しますね」
 支配人とホテルマンは寝室へ入って行く。荷解きを最低限にしておいて良かったと思いながらキリコも続いた。スーツケースを開けられることはないだろうが、万一にでも銃が見つかったらまずいことになる。安楽死装置の心配はしない。見たところで彼らには使い道が分からないだろう。
 BJはキリコを見送り、涙まで流せる嘘泣きを一度収め、あの野郎、とガンナームを心の中で罵った。ここまで移動を急がせると言うことは、支配人たちは何かを警戒している。簡単なことだ。ガンナームが二人を襲撃、あるいは誘拐する可能性があるということに他ならない。政治家が利用するのなら、部外者が入りにくい特殊な部屋だと予想できる。支配人たちの気遣いはありがたいが、ガンナームのやり口には心底腹が立った。支配人たちも同じく腹を立てているからこそ、ここまで便宜を図ってくれているはずだ。当初の目的だった「味方につける」は達成されたも同然だが、ガンナームの身勝手な行為が支配人たちの誇りを傷付けた事実は度し難かった。
 ──バスマが早めにキリコのメモ通りに、ユリさんに電話をしてくれるといいんだけど。
「マフィン、終わったよ。すぐに行こう。きっと素敵な部屋だ」
 キリコが寝室から出ると同時にまた涙を流してみせる。支配人たちの本当に同情した顔に、自分の見立てが正しかったことを知った。キリコに抱き付きながらも支配人たちにしっかり聞こえるように泣き声で言ってみせる。
「ハン、この方たちにきちんとお礼をしてね。彼らのホテルが大変なことになってしまっているのに、外国人のわたしたちにこんなに良くして下さるんだから」
「とんでもございません、奥様」
 支配人が誇らし気に背筋を伸ばし、高らかに宣言するかの如く言った。
「アラブの男にとって女性は宝石でございます。宝石は守られるべき美しいものなのです。しかも奥様のように、外国の方でありながら我々の慣習を大事になさって下さる方であれば、更なる輝きをお持ちであることは間違いございません。そのお召し物にヒジャブで肌も髪も隠してらっしゃる奥様に、私どもがどれほど感服致しましたことか」
 さしものBJも内心で腰が引けるような褒め言葉の羅列に、キリコも半ば唖然としてしまう。そしてBJの予想はこのことだったのだと知った。この国は男性優位ではあるが男尊女卑というわけではない、おそらく彼らの戒律を守る女性を大切なものとして扱うはずだ──BJはそう予想したのだ。
「真の輝きをご覧になられるのはご主人だけですが、それでも奥様が稀有の宝石であることはよく分かります。ご主人が私どものホテルのお客様でいらっしゃる以上、私どもが宝石を守るお手伝いをするのはアラブの男として当然でございましょう。さあ、どうぞお部屋のご移動を。私どもの尊厳にかけて、お二人をお守りしてみせます」
 目を輝かせて熱弁する支配人、そして同様に目を輝かせながら真剣な顔で頷くホテルマンの迫力に気押されつつ、BJは「嬉しいわ」と答えたが、彼らの気迫につい声が細くなり、それがますますアラブの男たちの誇りを刺激したのだった。