君は薔薇より美しい 04

 キリコはフロントに電話をかけ、ガンナームと連絡を取りたいと言った。事情を把握したBJはキリコに負けず劣らず焦り、かと言ってできることが何もなく、部屋に常時サーブされている焼き菓子を口に放り込んだ。口の中でアーモンドの香りが蕩け、こんな時でも美味しくって幸せって思っちゃうわたしは最低かもしれないと悩む横で、キリコは「何だって?」と電話の向こうに苛立った声を投げ付けている。
「連絡が取れないって──空港? 彼が出国するのか? 違う?」
『お友達がいらっしゃるそうで、お迎えに行かれました。その後、こちらのホテルにお戻りになってまたお二人様とお話ができればとおっしゃっておられました』
「時間がないんだ、すぐに連絡を取りたい」
『それは私どもでも少し難しいかと存じます』
「だったら俺に外部に電話をかけさせるんだ。交換手に繋いでくれ」
『いいえ、それは禁じられております』
「誰に?」
『ガンナーム様でございますとも』
「──Fxxk」
 らちが明かないと見たBJは焼き菓子を飲み込み、紅茶を片手にキリコから受話器を奪った。
「バスマはいないの? わたし、英語が分かる女の人と喋りたいのよ。アラブの男の人って怖くって。彼はそういう人を手配して欲しかっただけ。ガンナームに言えばすぐだと思って彼に頼んだんだけど、連絡がつかないんじゃバスマに来て欲しいわ」
『奥様、彼女は今日からしばらく出勤しません』
「本当にアラブの男の人って意地悪で怖いのね。分かった、もういいわ」
『いえ、奥様、その──分かりました。バスマに連絡してみます』
 キリコに向かって指でOKサインを出し、受話器を置く。長時間話したわけでもないのに要求を通したBJの手腕にキリコは思わず拍手をした。
「お見事」
「任せろ。──間に合うかな」
「祈るしかないさ」
「でも、どうして正午までなんだ?」
「──質問は無しでいいなら」
「……とりあえず」
 不満がないと言えば嘘だが、キリコは軍にも絡んでいる。言ってはいけないこともあると知っているBJは仕方なく譲歩した。
「正午に救援行動が始まる。作戦じゃなくて行動だが、軍が動くのは間違いない」
 BJには作戦と行動の違いが分からない。これは説明してもいいか、とキリコは付け加えた。
「作戦は記録に残る。行動は残らない。つまり軍は今回のことを記録に残したくないんだ」
「どうして?」
「質問は無しだ」
「腹立つ。赤毛に訊いてやるからいいよ」
「デルタは来ない」
「──え?」
「デルタが動くと作戦になる。あくまで行動にしておきたいんだ。来るのはアメリカ中央軍、中東に駐留している統合軍だ。俺も馴染みがない」
「いつの間にコンタクトしたの、なんて質問は?」
「無しだ」
「馬鹿」
「悪いね」
 キリコはフォート・デトリックでの仕事上、本業以外で国内外を移動する時には移動先を前もって連絡している。緊急時に備えるためだ。今回も当然連絡はしておいた。BJもその事情や手順は知っているが、今この状況で、なぜキリコが「正午に救援行動が始まる」と知っているかが分からない。
 こんな時、互いの生き方の違いが浮き彫りになって嫌になる。完全なアウトローとして生きる自分と、アウトローでありながら国家を捨てない恋人の差が感情の大きな溝を作りそうになってしまうのだ。
「キリコ」
「うん?」
「ちゅーして」
「おいで」
 全部言えなくてごめん、とキリコは言ってキスをした。BJは頷いた。
 キスをしたところで、抱き締められたところで、この溝は決して埋まらない。それでもこの男を手放したくない、手放されたくないのだから滑稽だ。BJは改めて思い、感情に蓋をした。今は目先の感情に翻弄されるべき時間ではなかった。
 バスマは驚くほど早く駆けつけてくれた。電話から僅か30分で到着した彼女を見て、日本人みたい、とBJは呟き、キリコはつい苦笑する。
「ちょうど、私もお二人にお会いしたかったんです。呼んで下さってよかった」
「私たちに?」
「はい。──今朝、兄からこれを預かりました。ドクターにお渡しするようにって」
「ジャーシムが?」
 入国管理官の男からの伝言だと知り、BJはキリコが何か知っているのか──もしかするとジャーシムが中央軍の人間なのでは──と思ったが、キリコにも心当たりがない。するとバスマがすぐに説明してくれた。
「私が昨日のことを家で話したら、アメリカ人にしていいことじゃないって。もしアメリカ大使館が乗り出すことになったらカタールの立場が悪くなってしまうから、これが役に立つようなら使って欲しいと」
 バスマから渡された袋を開け、キリコはつい口元を綻ばせて「神よ」と心から呟いた。それから目の前の女性が違う宗教の信者だと思い出し、失礼、と謝罪する。バスマは苦笑し、何も言わなかった。
「ありがたいよ。でもバスマ、訊いていいかな」
「はい」
「どうしてお兄さんがこんなものを持っているんだ?」
 バスマから渡された袋の中には衛星無線が入っていた。いくら入国管理官とはいえ、この時代、個人で持つようなものではない。BJも驚いていた。
 バスマは肩を竦める。
「兄さん、つい先月までアメリカで人工衛星の研究をしていたんです。でも、これからアメリカとアラブの関係が悪くなる可能性が高いから帰って来て。帰国の時に政府の許可を得て持って帰って来たんですって」
「──そうか」
 帰国の判断は正しい。キリコは思った。既にアメリカと中東の一部は対立の火花を散らしている。今回デルタフォースを出動させず、自国民保護の記録を残したくない理由はそれだ。『まだ衝突は早い。揉め事を起こしたくない』。だが、まさかあの彼が、と思った。どこにどんな人間がいるか分からない。気のいい入国管理官がそんな経歴を持っているなどと誰が考えるだろう。
「政府の許可を得たってことは、衛星機能は使えないはずだ」
「兄さんも言ってました。でも国内の通常無線発信は確実にできるそうです。私はよく分からないけど、ベトナムに行ったドクターならきっと分かるって」
 キリコは何も言わず、どこか不安そうに自分を見るBJにキスをしてから窓際へ向かった。ホテルの上階に位置し、そして1フロア全てが専用になっているこの部屋は無線の発信に適している。無線の周波数帯を確認するとHF、つまり遠距離発信が可能な型だった。届けよ、と思いながら操作を始める。
「発信。正午からの行動の中止を要請する」
『受信──軍籍番号を』
 問題なく届いた。まずは安堵の息を吐き、キリコは話し始めた。
「ない。民間人だ。ドクター・キリコ、行動対象になっているはずだ」
 数秒の沈黙の後、無線の向こうの人間が変わった。
『社会保障番号を』
 アメリカ人としての証明番号を求められ、キリコは暗証する。3回ほど繰り返しを求められた後、更にいくつかの個人情報を質問される。やがて無線の向こうの人間は笑った。
『酒は飲めたか? 金をやれって言っただろう。移民系のホテルマンなら何でもしてくれるぜ』
「身を持って知ってる最中だよ。知ってるんだろう」
『まあね。すげえな、どうやって無線を手に入れた?』
「神のご加護さ」
『中止ってのはどういう意味だ? Z国に下ったか?』
「馬鹿を言うな。あいつは俺たちを軟禁してるわけじゃなかった」
『そっちこそ馬鹿を言うなよ。あんたが外部に電話もできず、外出もできないのは裏が取れてるんだぜ』
「頼むよ。とりあえず中止の手配をすぐに。こんなことで国に恩を売られたらたまったもんじゃない」
『外に出られるのか?』
「ガンナームに言えば出られる。ほぼ確実だ。ホテルスタッフがガンナームの指示を勘違いしている可能性が高いんだ」
『とりあえず確認する。まだ中止はできない。本国の赤毛の少佐くんが滅茶苦茶機嫌を悪くてしてるからな。さっさと連れて帰って来てあんたら夫婦をホワイトハウスに監禁しろって騒いでやがる。安全が確保できるまでは中止じゃなくて停止にするよ。今中止にすると少佐に報告を求められて時間を取られちまうんでね』
「あいつの方がガンナームよりたちの悪いことをしようって? 精神安定剤でも処方してやってくれよ」
『そりゃあお医者さんの仕事だろ。──すぐ行く。連絡をありがとう』
「こちらこそ。朝のメモをありがとう」
 どういたしまして、と笑い、無線は切れた。キリコは息を吐き、今しがた話していた彼は、サレハと言うタクシードライバーの格好でホテルに来るだろうと予想した。救出行動の実行時間、デルタが来ないことをにおわせる暗号、電話番号に模した無線番号が書かれていたメモは燃やしたが、自分に届けたホテルマンが見て覚えている可能性がある。後で無線番号を変更した方が良いと伝えた方が良さそうだと思った。
「それにしても、俺が無線を手に入れられなかったらどうするつもりだったんだ」
 もしかすると──キリコは思った。ジャーシムはバスマが知らない顔を持っているのかもしれない。アメリカにいた時に何かがあったのかもしれない。その何かが今も彼を動かしているのかもしれない。
 追及するつもりにはなれなかった。例えこの無線が偶然ではなく、必然として手元に届けられたものだったとしても、きっとバスマは何も知らない。もうジャーシムに会うこともない。知る必要も、知る手段もない。
 終わったと察して抱きついて来たBJを抱き締め返しながら、そう思うことにした。


 そんなことは誤解だ、とガンナームは驚愕しきった顔で大声を上げ、すぐにBJがいることを思い出し、すまない、と謝ってから、もう一度「誤解だ」と今度は悲しそうに言った。
「私は二人を軟禁しろなんて誰にも言っていない」
「実際、俺たちは電話は駄目だ、部屋にいろと言われたわけだが」
 空港に友人を迎えに行っていたと言うガンナームをロビーで待受け、彼とその友人を前にさっさと話を進めてしまう。
「誤解だ。ストレスなく気分良く過ごして、私の話を改めて考えてもらおうと思っただけだ。どうしてそんなことになったんだ!」
 どうしても声を荒げてしまうガンナームに支配人が溜息をつき、買収されたホテルマンが視線を逸らす。バスマはBJが朝食時に見せた様子を支配人から聞いていたため、誇りあるカタールのホテルスタッフとしてBJをガンナームから隠すように立った。ちょっと悪いことしてるかな、とBJはバスマに対して思ったが、ここはしばらく甘えることにした。
「気分良く? 何がだ。電話もできない、外にも出られない、そのためにホテルスタッフを買収して、これのどこが軟禁じゃないって言うんだ?」
「だって外は暑いじゃないか。アメリカ人や日本人が耐えられる暑さじゃないだろう?」
「──は?」
 思わずキリコはぽかんとしてガンナームを見る。ガンナームは誠実とも言っていいほど真剣な顔で続けた。
「旅行中に電話なんて無粋だろう。二人きりで純粋に楽しまなくっちゃ」
「……は?」
「ホテルスタッフにはあなたたちが外部に関わらない分、室内で受けられる最高のサービスをしてくれるように前払いで金を払っただけじゃないか。受け取らない人間はあなたたちをないがしろにしているのかと思ったよ!」
「……」
「プレゼントだってタイミングが悪かった、それは認める。でもずっと前から用意していたんだ。私には財力しかないんだから、ドーハまで話を聞きに来てくれただけでも感謝を示したかった」
「……」
 キリコはもはや頭痛を感じるほどになっていた。BJも同様だ。これはあれだ、と二人は同時に思った。これはあれだ。ガンナームは──
「……天然?」
 BJが日本語で呟き、それだ、とキリコも日本語で呟いた。クリードの方が思惑があった分、まだ理解できる──BJはそう思ったが、キリコに言うと面倒なことになりそうだったので黙っておいた。
 しばらくキリコはガンナームを見つめていたが、やがて溜息をついて言った。
「おまえの好意は分かった。あくまで好意だった、そう理解していいんだな」
「もちろんだとも」
「じゃあ、おまえも理解するべきだ。おまえの独善的行為で俺とブラック・ジャックは迷惑を被った。俺たちの家族は日本で緊急の移動を余儀なくされた。ここまでいいか」
「家族に? 緊急の移動? どういうことなんだ?」
「だから──」
 キリコはユリとピノコが神奈川基地に移動した件を話した。ガンナームは青ざめ、そんなつもりはなかった、本当だ、どう償えばいいんだ、とキリコに何度も謝罪の言葉を口にした。キリコは既にうんざりしていたが、それでも言うべきことは言っておかなければならない。
「それだけじゃない。俺と彼女の救出のためにアメリカ中央軍が動いていた」
 正確にはキリコの救出だけど、とBJは心の中で呟く。自分はあくまでおまけだと理解していた。
「──何だって!?」
「途中で誤解だと分かったから停止になった。一歩間違えれば国際問題だ。これに懲りたらもう独りよがりな真似をするのはやめてくれ。俺だって肝が冷えた。本当にタイムリミット間近だった。バスマがすぐに連絡をしてくれたから助かったんだ」
 キリコの言にバスマは曖昧に頷いてみせた。兄の無線機のことは他人に言わない方がいい、良く思わない人もいるはずだから、とキリコとBJに言い含められ、今回はバスマが中央軍に連絡をしたのだと口裏を合わせることにしたのだった。だがガンナームは感激し、バスマをこれでもかと言うほどに褒めちぎった。
「ドクター、お話し中、申し訳ございません」
 フロントマンが現れ、キリコに声をかける。
「今朝方のタクシードライバーが参っております」
「ああ、分かった──ガンナーム、話はこれで終わりだ。俺たちは観光に出る。暑さは気にしてくれなくていい、日本の夏はこんなものだ」
「待ってくれ、ドクター、もう少し話を」
「マフィン、行こう。サレハが良い場所を案内してくれると思うよ」
「素敵ね。じゃあさよなら、ガンナーム。もう二度と会わないわ」
「待って下さい」
 悲痛とも言える声で二人を呼び止めたのはガンナームではなかった。ガンナームが空港へ迎えに行ったと言う友人だ。彼も白いカンドゥーラ姿で、教養と恵まれた生活を窺わせる品を備えていた。
「ガンナームに聞きました。彼は私のためにブラック・ジャック先生とドクター・キリコに依頼しようとしたんです」
 立ち去りかけた二人は取り敢えず足を止め、彼を見る。BJが見れば性自認に悩んでいるとは思えない、アラブ男性らしい顔立ちだ。傲慢にも見えるガンナームとは対象的に柔和な雰囲気を纏い、しかしやはりガンナームと同様、恵まれた育ちを窺わせる品があった。
「私のせいでこんなことになってしまって、本当に申し訳ありません。彼に罪はないんです。ガンナームは私たちの宗教では生きることが難しい私のために──今日だって、先生と良い話ができるはずだからと私をZ国から呼んでくれたんです。まさかこんなことになっているなんて」
「言うな、ハーディ。私の独りよがりだったんだ。私が愚かだった」
 大学時代からの親友だと言う二人は自分が悪い、いいや自分が、とまるで日本人が会計を譲り合うような様子で労り合っている。そういうことならそれで、と闇医者二人はその場を立ち去ろうとしたが、ふとBJは気づいた。ハーディと呼ばれた彼に対して、それは直感だったかもしれない。
「キリコ」
「うん?」
「あれ、あれだ」
「何だよ」
「女の勘」
「……また俺がコメントに困りそうなことを」
「いや、だから。あのね、どうしようかな。──あ、でもそうか、心は女性だから私でいいか」
「だから何なんだ?」
「多分」
 BJはキリコに耳打ちする。キリコは一瞬「何言ってんだこいつ」と言わんばかりの顔をしてBJを怒らせた後、それでもふと気づき、「あ、なるほど」とBJの説を認めた。ガンナームの過去の言動を考えればその可能性はある。キリコの表情に怒ったものの、それでもキリコが認めたと分かったBJは「多分だけどね」と念を押す。それから顔を見合わせ、同時に頷いた。
「ガンナーム、俺と少し話を」
「ハーディ、わたしとちょっとお話を」
 護衛やホテルスタッフ、様子を見に来たサレハが見守る中、二人はそれぞれZ国人を連れてその輪から少し離れる。ハーディがイスラム教徒の男性らしからぬ素直さで異性に従った姿を見て、本当に心は女性だな、とキリコは納得しながらもガンナームに話を始めた。
「他言はしないし、面倒だから一度しか訊かない」
「何だ? ドクター、先生はハーディに何を──」
「先に俺と話すんだ、ガンナーム。いいか、一度だけだ。これで答えなければ俺はもうおまえたちを忘れる」
 依頼に関することだと直感したガンナームは戸惑いつつも頷く。キリコはゆっくりと言った。
「おまえはハーディを愛している、おまえこそがおまえの宗教に反する性愛を持つ者だ。そうだな?」
 雷に打たれたとはまさにこのことだろう。ガンナームは目を見開き、唇を震わせ、何かを言おうとした。だが声が何ひとつ出ない。言葉すらも見つからないのだろうとキリコは思った。
 ガンナームが信仰する宗教で、同性愛は固く禁じられている。公になればどんな立場の者でも侮蔑の対象となり、国によっては逮捕されるほどだ。
 必死で隠して来たのだろう。その努力と苦しみは想像を絶するものだったのかもしれない。キリコは同情する気にはなれなかったが、彼の苦痛を考えてやることはできた。
「俺にできるのはカウンセリングだ。専門外だが、ここまで関わったら仕方ない。闇への説明には一役買ってもらうぞ。──だが結局、おまえたちの解決するのはおまえたちの意志だ」
「ドクター、私は──」
「おまえの国の宗教では罪かもしれない。それに苦しむのはおまえの勝手だ。だがひとつ教えておいてやる」
 視線を少し離れた場所で話しているBJとハーディに向ける。ハーディはキリコに背を向けた位置にいて顔が見えなかったが、BJの表情が明らかに優しい医師のもので、自然とキリコの口元も綻んだ。
「二人の間に愛があって、それからついでに金があれば、人生は何とかなるんだぜ」
 ハーディがガンナームを振り返る。その目が潤んでいた。ガンナームが震える声で彼を呼ぶ。
 キリコは感動的なシーンの始まりには不似合いな早足で歩き出し、速度を落とさないままBJの肩を抱いて、サレハに目配せをしてその場を離れた。引きずられるように歩くBJが「ちょっと」と言うが、キリコは心から言った。
「このまま仕事の話に入られたらたまらないだろ。二人でゆっくり話をさせてから改めてでいい」
「でも──ハーディ、やっぱりガンナームを愛してるって言ってて──」
「女の勘に感服したよ。──だから二人にさせてやんなさいって。俺たちも何の心配なしで二人になりたいだろ? 同じことだよ」
「それはそうだけど」
「決まりだ」
 頬に派手にキスをすると、アラブ圏なのに、とBJは怒ってみせる。顔が真っ赤で説得力がない。他のホテルマンや利用客はイスラム教で禁じられた光景に唖然としている最中で、外国人観光客の不埒な真似など見てはいなかった。
「二人きりじゃなくて悪いんだが、俺のことなんか置物だと思ってくれていいぜ?」
 カタールのタクシードライバーの顔をしたアメリカの軍人が笑う。サレハの正体を知らないBJは「そんな失礼なこと言わないってば」と慌てて言った。サレハは意外そうな顔をした後、キリコに笑ってみせる。
「いい女だな、旦那さん」
「まあな」
 キリコはにやりと笑い、BJは顔を赤くし、サレハは肩を竦めてから、車を出入り口に着けるために小走りに先を急いだのだった。


 サレハは実際にカタールの観光名所や穴場に詳しく、一般の旅行者やツアーでは中々見つけにくい場所にまで案内してくれた。顔も広く、行く先々で二人を紹介する。異文化に敬意を払うBJを土地の人々は手厚くもてなし、焼き立ての菓子や甘い紅茶を我も我もとふるまいたがった。
「出身は?」
 BJが地元の女性とその仲間たちに捕まり、言葉の壁を超えて身振り手振りでヒジャブの洒落た被り方を指導されている間、道の端で煙草を吸いながらキリコがサレハに問う。サレハは肩を竦めた。
「Z国。亡命組だ。12歳の時に一族とアメリカに行った。もちろんイスラム教だった。でも14歳でキリスト教に改宗した」
「そうか」
「あとはお決まりさ。市民権が欲しくて入軍した」
「獲得できたか」
「できたよ。ベトナムは行かなかったがアフガンには派遣された。そこで取れた。これでも大尉だ。亡命組にしちゃ出世してる方なんだぜ」
「だろうな。──中央軍はこれから大変だろう。下手を打つなよ」
「死神のアドバイスも不思議なもんだな。──大丈夫、俺はアメリカ人だ」
 アメリカ中央軍の現状はそれほど重要視されていない、むしろ冷や飯食いの扱いだ。それはキリコが軍医の時代からそうだった。だがこれから情勢が変わる。中央軍が展開する中東は新たな火種を抱え過ぎている。最終的にはアメリカとZ国は──そこまでキリコが考えた時、サレハが言った。
「俺みたいな出自の奴も多い。迷う奴がいないとも言い切れない。生まれた国が故郷なのか、望んで市民権を取ったアメリカが故郷なのか」
「どちらでもいいさ」
「──へえ?」
「愛する方へ行くべきだ。俺だっていつかの時、どうなってるか分からない」
 BJを見る。人見知りが強い女なのに、だからこそか、面倒見のいい地元の女たちにあれやこれやと世話を焼かれている。日本人が幼く見えることも構われる理由かもしれない。
 サレハはキリコの心情を理解できるような、できないような不思議な感覚に襲われたが、仕事で得たこの二人の情報の断片を思い起こし、自分とはあまりにもかけ離れた世界に生きる彼らの心を真の意味で理解することは難しいだろうと結論づけた。
「アラブ圏に住む予定は?」
「俺は無理だ。紅茶が甘すぎる」
 思わずサレハは笑った。確かにあれを苦手とする欧米の男性が多いことを知っていた。
 だがすぐに笑いをおさめ、それがいいよ、と言った。
「女は宝石だ。この国だけじゃなく、アラブ圏じゃ女はとっても大事にされる」
「そうだな。よく分かったよ。随分助けられた」
「でもそれはあんたたちが外国人だからだ。綺麗事しか言わなくていいからさ」
「──否定しないね」
 アラブを知るアメリカ人が何かを話そうとしている。死神は優しい医師になり、彼がきっと誰かに話したかった、だが立場上誰にも話せなかった、幼い彼が過ごした国の記憶を受け止める空間を作った。
「女は子供が産めなければ一方的に離婚される。ヒジャブだって『夫にだけ美しい姿を見せればいい』って意味の文化だけど、恋愛の自由なんてひとつもない。知ってるか? アラブの離婚率は恐ろしく高い。アメリカといい勝負なんだ」
「初耳だよ」
「大抵、女が一方的に追い出される。女は宝石だ、それは確かさ。でも傷がついてると決めつけられれば放り出される。物を捨てるみたいにな。──そうだな、女一人でも生きて行ける道を見つけやすい欧米の方がいいのかもしれない」
「そうか」
 サレハは煙草を加え、火を点ける。視線の先には顔に大きな傷を持つ女がいる。
「誰もBJ先生の顔の傷を指摘しなかったんじゃないか?」
「入国管理官以外はな」
「あいつはもう感覚がアメリカ人だ。うちでも役に立ってもらってる」
「聞かなかったことにするよ」
「そいつはどうも。──まあ、とにかくいなかっただろ」
「そうだな」
 確かにそうだった。改めて思い出し、キリコは驚愕した自分に驚いた。どこかでBJの見た目が指摘されて当たり前だと思っている自分がいた。だがすぐに気づく。
 ああ、──それは優越感だ。おまえたちが見た目で謗る女の稀有な価値を知り、手に入れているという優越感だ。キリコはそれを速やかに受け入れた。自分だけが分かっていればいい優越感を誰かに説明する必要がどこにあると言うのか。
 誰かが聞けば歪んでいると言うかもしれないが、それすらも既にキリコは自ら気づき、進んで受け入れていた。
「女ってだけで、生まれつき宝石なんだ。だから見た目なんて関係ないし、誰も気にしない。先生にはそれだけ覚えて帰ってもらってくれよ」
 亡命前、俺の年の離れた姉に子供ができなくて、離婚されて自分で死んだ。あの宗教の教えじゃ今頃地獄だ。そう言って、サレハは静かに話を終えた。キリコは何も言わず、サレハの言葉を燻らせた煙草の煙の中に隠した。
「──聞いてくれてありがとう。俺はアメリカ人だし、キリスト教徒だ。でも一度でいいから、誰かに産まれた場所の話を聞いて欲しかった」
 キリコは煙草を深く吸う。それから細く、長く煙を吐き出してから静かに言った。
「世話になったのと、明日までの運転の礼だ。興味深い話だったよ」
「それなら良かったよ」
 二人の視線の先でBJがヒジャブ代わりのキリコのスカーフを外せと言われているようだ。女たちは絹に美しい刺繍を施したヒジャブをBJに被せたいらしい。だがBJが「これがいいから」と日本語で困ったように言っている。一人の若い女がキリコに気付き、まるで「彼の?」と言うようにキリコを指差した。BJが頷くと、途端に女たちは冷やかすように笑い、手を叩き、口々に何かを言った。聞こえたサレハが笑いながらキリコに教えてくれた。
「ちょっといい男ね、って言われてるよ」
「そりゃ光栄だ」
「あんたの香水の話もしてる。スカーフに残ってるのかな」
「──ああ、そうかもな」
 BJもそんなことを言っていた。もっと洒落たヒジャブを、と言ったキリコに、これがいいと譲らなかった。こんな小さなことでも、思い出すだけでまた愛しいと思ってしまう自分がいる。
 女の一人がまた何かを言い、家の中に入って行く。他の女たちは絹の美しいヒジャブをBJに持たせようとし、断り切れなかったBJが受け取った途端に大喜びだ。ほぼ同時に家の中に入った女が戻って来た。手に小さな瓶を持っている。蓋を開けてBJに香りをかがせ、途端にBJの顔が赤くなった。彼女たちはまた冷やかしの笑いを上げ、だが優しく外国人観光客を送り出してくれた。
「何をもらったんだ」
「ヒジャブと──香油」
「香油? 香水じゃなくて?」
「アルコールが禁止だから香水は駄目なんだよ」
 サレハの解説に二人して感心する。じゃあ消毒用アルコールはどうなるんだろう、とやはり二人して思ったが、今はそれよりも目の前の香油の方に興味があった。
「何の香りだ?」
「……あの」
「うん?」
 なぜか僅かに赤くなり、BJは小さな声で言った。
「……琥珀と、ローズのブレンドだって」
「──参ったね」
 流石は香りの文化の国だ。思わずキリコは笑い、それからBJの髪にヒジャブごしに唇を落とす。本当は抱き締めてキスをしたかったが、イスラムの教えが強いこの地では不適当だ。
 ヒジャブに残る自分の香水の香りと、BJから香るローズのソープの香りが混ざって鼻腔をくすぐる。ホテルに戻ったら思う存分キスをしようと決めた。


 夕方までドーハの街を楽しんだ。どこへ行っても目新しく、そしてカタールの人々は親切で、完全な観光を楽しむ機会が滅多にないBJは終始機嫌が良かった。キリコはBJの楽しそうな姿を見て機嫌が良かった。ピノコとユリへの土産物を買い込み、スーツケースから溢れるんじゃないかとキリコが危惧し、それならあの無粋な商売道具を捨てればいいさとBJが言ってキリコを苦笑させた。
 夕飯は愛を確かめ合ったばかりのガンナームとハーディがホテル内のレストランにセッティングを済ませていた。昨日のルームサービスの上を行く豪奢な料理の数々はこの上なく美味しかったが、宗教上の理由でアルコールを摂らない二人の前での飲酒は気が引ける。結局BJもキリコも飲まず、こんなに美味しい料理なのに酒が飲めないなんて、とBJは心の中で号泣した。
 食事をしている間、親友同士から恋人同士に関係を変えたガンナームとハーディは初々しいと言えば初々しい姿を見せつける。祖国に帰ったら気を付けろよ、とキリコが心配するほど、純粋だが熱のこもった視線を交わし合っていた。だがBJがロブスターに食らいつきながらあっさり言った。
「じゃあ性転換する?」
 ガンナームとハーディは顔を見合わせ、思わずキリコはBJをまじまじと見る。昨日、その術式を否定したのはBJ自身だ。BJはスパイスと共に蒸し上げたロブスターを綺麗に食べ終え、手を拭った後、今度は羊肉のピラフに取り掛かる。
「おまえ、昨日否定したじゃないか」
「そりゃね。だって本人に確認できない状況だったわけだし。友達なんて言ってたんだから」
 宗教の教えに忠実だからこそ悩む二人の恋人同士はBJの言葉に苦笑する。
「先生」
 ガンナームが口を開いた。
「それで、ハーディは救われるのだろうか」
「さあね。でも二人でいたければ現実的な選択肢は3つくらいしか思いつかない。性転換するか、二人で外国に逃げるか、別れるか」
「──どれも随分と重大な決意が必要になるな」
「心の中の神様と相談するんだね。私が決めることではないけど、選択肢だけは置いて行くよ。私にできるのは性転換の手術くらい。その前にキリコのカウンセリングが必要なら報酬は前払いで30万ドル、口座に一括。私には別報酬、実際に依頼した時に同じように一括」
「おまえが決めることかよ」
「何か不都合でもある?」
 勝手な言い分にもいい加減慣れたキリコは「ないね」と溜息混じりに答え、BJは「じゃあ黙ってれば」と言ってピラフを口に運ぶ。会話だけで意図せずとも深い付き合いを見せつける医師二人を、困難な道を選ぶことになる新しい恋人同士はどこか憧憬の目で見ていた。
 どのような道を選ぶにしても、ハーディの性自認に関するカウンセリングは必要だと判断したキリコは改めて依頼を請けることにした。ただし自分が休暇中であることと、専門外のため準備が必要であること、ハーディが一時の熱に浮かされた判断をしないよう冷却期間も必要であることを鑑み、正式な依頼までは時間を置くことになる。
 ガンナームは迷惑をかけた詫びと、相談を受けてくれた礼として、二人にそれぞれ10万ドルを払いたいと言った。天才外科医は断る気など毛頭なく、喜んでそれを受け入れ、何だかんだでしっかり収支を意識する死神も慇懃に頷いたのだった。
「まあ、悲観することもないと思うよ」
 言いながら、BJはクリームがたっぷり載せられたクッキーを口に放り込む。
「愛と金があれば、人生なんて何とかなるから」
 図らずもキリコに同じことを言われていたガンナームは二人の絆を見たとばかりに感動の呻きを漏らし、ハーディの手を握った。本当に祖国では気を付けろよ、とキリコは思った。