君は薔薇より美しい 03

「……部屋の中で遭難できそう」
 次に通された部屋はいわゆるホテルの特別室だ。ブライダルスイートと言う呼称のその部屋で、BJは茫然と突っ立っていた。とにかく広い。コネクティングルームの数は10、最上階のフロア全てがこの部屋だと言う。全てのコネクティングルームを見て回る気力もない。
 大家族が多いアラブ圏、カタールらしい文化で、普段は結婚式を行う男女と一族郎党の多くが泊まるための部屋として使われる。新婚となる男女のメイン寝室は白を基調にしながらも、これでもかと黄金が部屋中にあしらわれ、まるでお伽噺の宮殿だ。その隣になるリビングは数家族は入れるだろうと言う広さで、重厚で豪奢な家具が置かれていた。食事のためのメインダイニングは言わずともがな、広すぎる、そして豪華すぎる風呂は案の定大理石尽くめで、──この辺りでBJは探索をやめ、半ば現実逃避のようにキリコの姿を求めてリビングへ戻った。
「キリコ」
「うん」
「風呂でライオンがマーライオンしてる」
「そうか、すごいね」
 でもライオンの吐水口って中世ローマだよなあ、マーライオンはシンガポールだし多分あいつが表現したいのは別のことだよなあ、まあセキュリティが上がったんならどうでもいいけど──キリコの方がやや早く現実に戻り、支配人と高位のホテルマンたちが用意して行ってくれた紅茶を口に運ぶ。既に入れられていた大量の砂糖に気付かず味覚への総攻撃を受け、結果として素直に噴いた。やだ、何してんの、汚い、とそれでBJが完全に現実に戻る。
「まあ、外国の政治家も泊まるような部屋だ。セキュリティも高いし、多少の時間くらいは稼げるだろう」
「ユリさんとピノコ、大丈夫かな。ガンナームの手が回ってるとは思いたくないんだけど」
「まだだと願うしかないな。在日米軍の神奈川基地に連絡して、できれば移動するようにメモに書いておいた。神奈川基地には陸軍が駐留してるし、デルタが陸軍所属だ。早ければ今日中にグラディスまで情報が上がる」
「赤毛に目一杯文句言われてよ。私は聞かないからね」
「口を縫う準備をしておくよ」
 あの男に散々嫌味を言われる未来が見え、闇に大枚はたいて依頼すれば良かったか、とも思ったが、気付いたガンナームが彼らをも買収しないとは言い切れない。闇への依頼はどんな時でも金の問題が付き纏い、今回のようなケースでは安心して任せることができなかった。
「ガンナーム、同じホテルには泊まってないらしいけど」
「そりゃそうだろう。泊まるならこの部屋を使うさ」
「確かにね。──全く、腹が立つったらないよ」
「Z国に行かないでドーハにして良かった、って思うことにしよう。おまえ一人でZ国に行ってたらどうなってたことか」
「やだやだ。もうZ国なんて行かなくていいや」
 確かにそうだと気付き、BJはついキリコに抱き付く。要は甘えた。流石に疲れている。分かっているキリコは抱き締め返し、キスをしてヒジャブ代わりのスカーフを取った。
「もっと洒落たヒジャブを手配してもらおうか。俺のスカーフじゃ素っ気ないだろ」
「やだ、これがいい」
「これでいいの?」
「これがいいの」
 BJはスカーフを奪い返し、ふざけてまた髪に被せてみせる。キリコの香水のにおいがするからこれがいい。甘い琥珀の香りがキリコに抱かれているような錯覚を起こしてくれる。言おうとしたが妙に恥ずかしくなり、結局違うことを言った。
「ガンナームの野郎、これから何をして来ると思う? 何も言って来ないのが気持ち悪いくらいなんだけど」
「殺されることはないだろうけどな。俺たちに依頼をしたい以上、殺すのは不適当だ。もう一回交渉か、それか拉致か」
「交渉って言ったって脅しにしかならない気がする」
「この状況じゃそうだろうな」
「依頼されるのはキリコだけ。私は関係ないからどうなるか分かんない」
「──まあ、そうだな」
 キリコはだからこそ、セキュリティが上がったことを喜んでいるのだ。BJは関係ない、つまりガンナームにとって既に医師としての価値がない。殺されることはない? それすらもBJに関しては保証ができない状況になっているのだ。殺されることはないとしても、酷い目に遭わないとは言い切れない。
 いっそガンナームの依頼を請けようかとも考えた。BJの身の安全のためにはそれが一番いい。だが医師として譲れない一線もある。患者に不誠実なことだけはできない。良くも悪くも俺は医者だ、どうしようもない、と溜息を煙草の煙に隠した。
 玄関とも言える部屋の扉には最新式の電子ロックがかけられている。12桁のパスワードを入力しなければ開かず、そのパスワードを知っているのは支配人だけだった。キリコとBJも教えられなかったのだ。玄関の次はウエルカムホールになるが、万一玄関のドアが不審な開き方をした場合、非常ベルが鳴ると共に警察に連絡が行く。
「問題は移民系のホテルスタッフが全員信用できないってことか。支配人と高位のホテルマンが対応してくれるって言っても、限界もあるしね」
「早いとこ出て行くのが一番だな。今日はもう寝るか」
 ふざけて寝ると言ったわけではない。日本からの移動で思ったよりも疲労しているし、明日以降どうなるか分からない。米軍に連絡がつくまでは体力を温存しておくべきだった。
「寝たいけど」
「うん?」
「おなかすいた。レストランの予約したのに。酒も飲めるはずだったのに」
「……まあ、それはちょっと諦めようか」
「アラブ料理食べたかった!」
「ルームサービスなら持って来てもらえるだろ。兵糧攻めってわけでもないだろうし。頼むか?」
「酒も!」
「それは無理。この国じゃ決められた場所でしか飲めないから」
「もう、絶対ガンナーム許さねえから!」
「そうだな。──ルームサービスを」
 半ばヒステリーを起こしている女に適当に相槌を打ち、電話をフロントに繋ぐ。どうせ移民系のフロントマンだろうが、部屋の中にいろと言うならそれなりの責任を取らせようと思った。
「アラブの料理で素晴らしく美味しいものを。女性が喜びそうな。彼女がひどく機嫌を悪くしているものでね、期待外れだったら部屋を飛び出して俺の国の大使館に文句を言いに行くかもしれない。くれぐれもよろしく頼むよ」
 少々の意趣返しをして受話器を置く。大使館と言う単語で自分たちが何を仕出かしたかを悟るよう期待したのだ。小金に目が眩み、外国人、しかもアラブに少なからず武力を展開しているアメリカの国民を軟禁する──政治的な問題に繋がる可能性に気付けばいい。
 およそ一時間後、支配人によって届けられた食事は想像を絶する豪華さだった。もうほんとアラビアンナイト、とBJが唖然と呟き、いくら何でもここまでは、とキリコは自分の注文方法が失敗したと悟る。
 ペルシャ湾に面した国だからこその豊富なシーフード、遊牧民にルーツを持つ民族だからこその独特の香辛料を使った肉料理、チーズの数々。部屋のグレードに相応しく豪勢に並べられ、普通の旅行ならこれだけで感動しただろう。だがBJとキリコはもはや何も言えなかった。
「……ラクダって食べ物だったんだ……?」
 BJの呟きは日本人としては珍しくないかもしれない。キリコは「そうみたいだね」としか言えず、どんな味なんだろう、と思いながら、テーブルの真ん中に支配人とホテルマンが誇らし気に置いたラクダの丸焼きを見詰めたのだった。
 確実に思い出に残る食事を終え、支配人が淹れてくれた紅茶──ティーポットに大量の砂糖を当然のように入れた支配人を見た時点で「これはこの国の法律に違いない」と考えたキリコは心を無にした──を飲み、二人はガンナームの目的について再び推測を巡らせる。
「何も接触して来ないのが不気味」
「俺が音を上げて連絡するのを待ってる?」
「──って言うか、これ言っていいか分からないんだけど」
 味方だと分かっていてもカタール人の支配人には訊かれない方が良いと判断し、BJは日本語に切り替えた。
「もしアメリカが救出に来たとして、カタールと国際間で何か起きることはない? 私はともかく、キリコはアメリカ人なんだし」
「カタールは平気だろう」
「カタールは?」
「Z国と何かあるかもしれない。ここ数年、ただでさえキナ臭いしな。でもそれは俺たちが考えることじゃない。──マフィン、大丈夫だ。家族には何もないよ。きっとね」
 支配人が訝しむ前に後半を米語に切り替え、家族に関する話だったと繕っておく。察したBJも米語で「日本が懐かしいわ」と呟いた。支配人はひどく同情の顔を見せ、哀しい時には美味しいものを少しでも召し上がるのが一番です、ご主人とご一緒にどうぞ、と甘すぎる菓子を用意し、キリコの心を再び無にしたのだった。
 支配人が就寝の挨拶をして退室し、寝酒がないから眠れないとぼやきだしたBJをキリコが適当に宥め始めた時、リビングの電話が鳴った。煙草でも吸って諦めろとBJに言い置き、キリコが出る。
「Hello?」
『ドクター、食事はどうだった? ラクダの丸焼きは夕方から用意させておいたんだよ』
「──驚き過ぎて味が思い出せないね。こんばんは、ガンナーム」
 ガンナームの名を聞き、BJが煙草を咥えて顔を上げる。
「何が目的だ?」
『目的? 楽しい時間を過ごしてもらいたいだけだ。ドクターとまた話がしたいと思っているし、今夜はよく眠って疲れを癒してくれ。部屋も移動したようだしね。あんな狭い部屋で窮屈じゃないかと心配していたんだ、良かったよ』
 石油の国の金持ちの部屋感覚について疑問を呈したくなったが、会話が長引くのも面倒だ。キリコはその疑問を口にすることなく、他のことを言った。
「おまえさんと話すことはもう何もないはずだ。今ならまだ間に合うかもしれない、考え直すことを勧めるよ」
 今の段階で解決できるのならそれが最も多くの人に益がある。国際間に問題が発生することもなければ、キリコ自身が国家間の取引の材料に使われることもない。
 アメリカとZ国はいずれ戦争になると予想できる程度に険悪になりつつある。キリコの知ったことではない、だが積極的にそんな未来に関わりたいわけでもない。自国民救出のために、Z国抗議もできる、とこれ幸いとばかりにアメリカが乗り出す前に片を付けておくべきであることは間違いないのだ。
『考え直すことはできない。頼むよ、ドクター。また明日、そうだな、食事でもしながら話をしよう。BJ先生は部屋で待ってもらって、男同士の話をしようじゃないか』
「この状況で女を一人にしろって? アラブの男とは思えない言い草だな。女は宝石だ、盗人でも現れたらかなわない。お断りだ。さっさと考え方を変えるべきだ」
『待ってくれ。分かったよ。では先生も一緒に。明日8時、ロビーで会おう』
「受け入れるつもりはないし、それまでにきっと状況が変わる。考えを変えるなら今しかない」
 流石にバスマはもう電話をかけただろう。ユリも妹ながら機転が利く女だ。必ず言われた通りに神奈川の米軍基地へ連絡を入れた後、すぐにピノコを連れて家を出るであろうことは想像に難くない。不安がないと言えば嘘になるが、家族に関しての心配は一度やめることにした。
『そんなに早く変わるものか。とにかくあなたとゆっくり話をしようと思っている。それでは』
「おい──Shame on you!」
 一方的に電話を切られ、思わず「恥を知れ」と吐き捨ててしまった。聞いていたBJはやや驚いたものの、ガンナームが無礼だったのだろうと予想する。キリコは他人に対して滅多に荒い言葉を吐かないのだ。
「どうだった?」
「明日8時、ロビーで会おうだと。おまえもだ。どうする?」
「キリコと二人で会いたいように聞こえたけど、私も?」
「あいつを部屋に入れるのは業腹だし、おまえを一人で部屋に残すのも俺としては不安だ。会うか会わないかはおまえ次第にするよ」
「確かにね。──明日の朝までに米軍が何もしないとは思えないけど、すぐに救出に来るわけでもないだろうし、話を聞いてみる価値はあるんじゃないか」
「その場で拉致される可能性がないわけじゃないぞ」
「二人ならいいんじゃない? 行先がロンドンからZ国に変更になるだけだよ」
 キリコは苦笑し、煙草に火を点けて、肝の据わった女に「愛してるよ」と言った。わたしも、と言ってBJは笑った。


 翌朝はBJの方が先に起きた。朝から風呂に入り、広すぎる湯船を持て余して不作法にも泳ぎ、後から起きてシャワーを浴びに来たキリコに「ほら、ライオンがお湯吐いてる、マーライオン!」と吐水口を嬉しそうに示す。キリコはだからそれはローマの文化で、マーライオンはシンガポールで、と改めて思いつつも、恋人の無邪気な楽しみに水を差さないために「すごいね」と言ってシャワーブースに入る。昨日のジュニアスイートよりもボディソープの数が更に多く、選ぶのも面倒だった。俺は富豪になれない、とこんなことで実感した。
「おまえ、どれにするんだ。洗ってやるから」
「ローズでいいよ、もう。いやらしいことされそうだから自分で洗う」
「今はしないよ。時間もないし」
「時間があったらする気?」
「いつでもしたいよ。おまえとならね」
 途端に赤くなって湯に沈むBJを可愛いと思いながら、先に自分の身体を洗う。ガンナームの手の者の襲撃を用心して敢えて深く眠らないようにしていたためか、あちこちに疲労が残っていた。上等を超える上等なベッドだったと言うのに残念だ。BJも夜中に何度も目を覚ましていた。
 風呂を出ると既に支配人が朝の紅茶と朝食代わりの茶菓子を用意して待っていた。キリコは心を無にした。ヒジャブを被ったBJはカタールの紅茶は甘くて美味しいと喜び、支配人を喜ばせていた。
「しっかりしたお食事はこの後、ロビーにご用意するようにとあの男──失礼致しました、ガンナーム様からご連絡を頂きましたもので、菓子で申し訳ございません」
「ありがとう。ところで質問をいいかな」
「何なりと」
「甘くない紅茶を飲みたい時にはどうすればいいんだろう?」
 支配人は暫く考えた後、ゆっくりと言った。
「そんなものはこの国にございません」
「……そうか」
「甘いものは人を幸せに致します。だから私どもはいつも甘い紅茶を飲み、甘い菓子を食べます」
 俺は富豪にもなれないし、アラブに住むこともできない。キリコは強く思った。後でミニバーの水を飲むしかない。今すぐ飲みたいのが本音だったが、支配人の親切の手前、それは避けることにした。
 時間ちょうど、二人はロビーに降りることにする。キリコはやや考えたが、上着の下にガンベルトを装着し、銃を携えた。BJは僅かに嫌がる素振りを見せたが何も言わない。キリコが銃を持つことが嫌いだった。キリコもそれを知っているが、今ばかりは持たざるを得ないと判断する。
「気を悪くするな。仕方ないだろう」
「何も言ってない」
「顔に出てる。可愛くしてくれよ」
「キスでもすれば?」
「喜んで」
 上着を着てキスをし、アスコットタイを締める。暑い国に似合わない姿だが、誰かと交渉する時には慣れた服装が一番だった。BJはヒジャブ代わりのスカーフを被る。琥珀の香りが少し薄くなっていた。後でキリコに香水を振ってもらおうと決めた。
 支配人に案内されてロビーへ降りる。昨日の席ではなく、レストランスペースも兼ねた奥の席へ通された。これがまた無意味に広く、大きなテーブルには既にこれでもかと料理が並べられている。ラクダの丸焼きがないことに思わず二人は安堵した。昨夜の豪勢すぎるディナーよりも朝食に向いた料理ばかりだった。それでも通常の朝食を遥かに凌駕する質であることは間違いない。
「ドクター、先生、おはよう。よく眠れたかな」
 待っていたガンナームが立ち上がり、機嫌よく声を掛けて来る。BJは答えず、キリコが「それなりに」と言った。
 すぐに本題に入ることはなく、まずは食事を、となぜか上機嫌のガンナームの宣言で朝食が始まる。ガンナームは何くれとなく世間話を振り、キリコは不愛想に答え、BJは食事に専念した。状況はどうであれ美味しいものは食べられる時に食べておく。女の性なんだろうか、と朝からよく食べるBJを横目で見たキリコは思った。
 キリコの心など知らず、BJはアラブの朝食を堪能する。煮込んだひよこ豆のホットサラダが気に入り、素直に「美味しい」と口にした途端、ガンナームが笑顔になって「それはナキだよ」と言った。
「ハンミエール(ピタパン)に挟んで食べても美味しい。ドクターもどうぞ」
「勝手にやりたいたちでね。放っておいてくれ」
 突き放した返答をしながら、キリコはガンナームに違和感を持ち始めた。BJも同様だったのか、ハンミエールに齧りつきながらキリコをちらりと横目で見て来る。キリコも視線を向け、互いに違和感を得たことを確認し合った。
 デザートとしてシロップがたっぷりかかったナッツ入りのパイ菓子が目の前に置かれ、キリコは今日二度目の心の無を経験する。パイ菓子と共に供された、フレッシュミントを大量に混ぜたレモネードだけがキリコの味方だった。正確に言えば恐ろしく甘い液体の中、辛うじて青い清涼感を感じさせてくれるミントだけが味方だった。──と思ったら、早々に自分の分を食べ終えたBJがさっとキリコの皿からパイ菓子を攫って行く。流石俺の女、とキリコは心からBJを絶賛したくなった。単に食べたかったから攫ったという事実など気付かない振りをする。
 BJの素早い行動を見たガンナームがまた笑顔になった。
「お代わりなんていくらでもあるのに」
「キリコのが欲しかったから」
 いけしゃあしゃあと二人の関係を強調するようなことを言うBJに、ガンナームはやはり笑顔で「そうか」と言う。
「先生は甘いものが好きなのかな」
「嫌いな人なんている?」
「先生の隣の男性がそうかもしれないね」
 嫌いってほどでもないんだがな、とキリコは心の中で呟く。アラブの「甘いもの」がキリコの耐性を超えた甘さであるだけの話だ。
「失礼致します、ドクター・キリコ」
 フロントマンがやって来て、先にガンナームに目礼してからキリコに話しかけた。
「お約束していたタクシードライバーと言う者がフロントに」
「──サレハかな?」
 空港からホテルまで乗ったタクシーのドライバーだ。ほぼ専属の口約束はしたが、今朝の約束をした覚えがなかったBJはキリコを見る。キリコは暫し考え、BJに軽く頷いてみせた後、「多分ね」と何とも曖昧な言い方をしてガンナームに真実を分からせないようにする。
「さようでございます」
「ドクターもBJ先生も行かない。断るように」
 言ったのはガンナームだ。もとよりこのホテルどころか、ガンナームと会う以外は部屋からも自分たちを出すつもりがないと分かっていたキリコとBJは特に腹が立つこともなく、キリコが「そうしてくれ」とフロントマンに言った。フロントマンはサレハに伝えに行った後、またすぐに戻って来て、キリコに「昼間の連絡先はこちらがよろしいとのことです」とメモを渡す。ちらりと目を通し、キリコはスーツの胸ポケットにそれをしまった。
「ドクター、そろそろ本題に入っていいかな」
「さっさと頼む」
「昨日の話だ。欲しいものがあればまた何でも届ける。考え直してくれないか」
「いらないものを押し付けに来た話か? 手紙に書いた通り、俺たちの国では歓迎されない時もある行為だ。特に仕事の話を断ったばかりの相手からはな」
「あの手紙はあなたの国の考え方がよく分かるよ。勉強になった。今後の参考にさせてもらう」
 何書いたんだろ、とBJは気になったが、スタッフが気を利かせてBJの前にだけ置いたクッキーの山に目を奪われ、後のことは全てキリコに任せることにした。ピスタチオのクッキーがすこぶる美味しい。ピノコとユリさんにも食べさせてあげたいなあ、としみじみした。
「しかも子供服──やり方が露骨だ」
「それも覚えておくよ。BJ先生のお嬢さんに似合うと思っただけだ」
 確かに似合うだろうけど脅しで使うもんじゃあないさ、と言ってやろうと思ったBJだったが、それよりも今はクッキーが美味しい。いつの間にか置かれていたベリーのヨーグルトドリンクも美味しい。
「相手が気に入るような贈り物をするのは当然だろう。仕事を断られはしたが、お互いに遥々カタールまで来たんだ。気持ちいい結果で終わるべきじゃないか?」
「そう思うなら今すぐ考え方を変えるべきだ。もう間に合うかも怪しいが」
「ドーハにはいつまで?」
 いつまでいるのか、と言う意味だ。流石にキリコは眉を顰めた。ホテルから出さないで軟禁している男の言う台詞とは思えない。だが一般の宿泊客の視線が遠巻きに集まって──いくら豊かな国でも朝からここまで豪勢な食事をしている者は少なく珍しいからだろう──いることを感じ、物騒な感情は口に出さないでおくことにする。
「予定では明日、出ることになっている」
 ああ、早くロンドンでお酒飲みたい。BJは思った。だが新しく置かれた色とりどりのミニケーキを見て悩むことになる。──でもアラブのお菓子も美味しい。ああ、これ食べながら白ワインが飲めれば最高なのに。
「ではまだ時間はあるだろう。ドクターが改めて私の依頼を請けてくれる時間が」
「昨日も言ったが無理だ。専門外だ。患者に不誠実な真似だけはできない」
「どうしても?」
「どうしても」
「私の友人を救ってくれるつもりは?」
「ノー。俺にはできない」
「昨日も言っただろう。彼は自殺を考えるほどなんだ。医者として思うところはないのか?」
 実は熱血なお医者さんのキリコの弱点をよく突いたもんだ、ああ、このケーキ美味しい──BJは恋人とスイーツのことを器用に同時に考える。キリコは表情を動かさないように努める。
「何度でも言う。俺は心療内科の専門じゃない。俺ができるのは薬の相談と安楽死だよ」
「──安楽死?」
 やだやだ、朝から嫌な単語聞いちゃった、とBJは眉を顰め、気分を良くするためにケーキを頬張る。──幸せになるためには甘いもの、この国の文化って最高。
「安楽死とは──いや、まさか──彼の自殺を認めるということか?」
「聞いての通りだ。俺がその彼にしてやれることと言えば、彼が本気で死を望んだ時に安らかな道案内をしてやることだけだよ」
「──冗談じゃない! あってはならない! 彼が地獄に落ちてしまう!」
 途端にガンナームは顔色を変え、キリコを感情のままに怒鳴り付けた。声の大きさにBJは驚き、あ、これ、食べてる場合じゃない、と最後にミニケーキを一つ口に押し込んでから、いわゆる女優スイッチを入れ、顔を覆って俯いた。
 キリコはこんなことには慣れている。患者の家族とぶつかり合うこともよくある仕事だ。だがガンナームが顔色を変えた理由は仕事の知識としてよく分かっていた。イスラム圏では自殺をした者の魂は地獄に落ちると教えられている。日常の中に当然のように宗教が根付いている民族の反応としては当然だろう。
「ドクター、何てことを──神がお許しになるものか!」
「──マフィン、どうした」
 だが今は血相を変えて大声を上げるガンナームよりも、隣で顔を覆って俯いているBJに優しい声をかける方を選んだ。始めたな、と分かったからだ。案の定、BJは弱々しく震えた声を漏らしてみせた。
「ハン、怖いわ。あの人、本当は昨日から怖かったのよ」
「分かってる。おまえが昨日、よく頑張ってたことも分かってるよ」
 二人の会話を聞いたガンナームは我に返り、そして昨日はあれほど傲岸不遜な態度だった女医の今の姿の落差に驚きつつ、男性としての恥を感じて「いや、その」と呻く。キリコはそれを聞き逃さなかった。
「悪かったね、俺の話し方が良くなかった。彼らの宗教では哀しいことだったんだよ」
「だからってこんな──もう嫌よ。怖くって。こんなところにいたくない」
 スイーツも目一杯食べたし、話の進展もなさそうだし、とりあえず部屋に戻って煙草吸いたいな。BJがそう思っていることはキリコにしか分からなかった。
「BJ先生、その、──失礼した。どうしても譲れないことだったものだから」
「ハン、帰りたい。アラブの男の人は怖いわ。怖いのよ、嫌よ」
 ガンナームは心からショックを受けた顔になる。ガンナームに買収されているはずの給仕のホテルマンたちでさえ、非難を湛えた目でガンナームを見ていた。女性を宝石扱いする国だけあり、こういう時は欧米より強く男が非難されるものなのだろう。
「部屋に戻ろう。──ガンナーム、これ以上は無駄だ。最後にもう一度だけ言う。考えを変えるんだ。それも可能な限り早く。俺たちはトラブルを大きくする趣味はない。最善の選択を期待する」
「待ってくれ。まだ話は──」
「俺の女がおまえを怖がっている。俺がこれ以上ここにいられる理由がないと言うことだ」
 様子を窺っていた支配人がすっと近付き、二人を案内する素振りを見せる。ガンナームは彼が買収に応じなかったカタール人の一人だと思い出し、息を吐いて「分かったよ」と言った。
「そんなつもりじゃなかったんだ。BJ先生、どうか泣かないで」
「そんな──」
 顔を見せないまま答えようとしたBJが遂にしゃくりあげ、彼女がこの上なく怯え切ってしまったと知ったガンナームは慌てるはめになり、その場のアラブの男たちはますます非難の目を向ける。キリコはBJを促して立ち上がり、ガンナームに一瞥もくれず、BJの肩を抱き、いかにも愛する女を慰める男の顔で声を掛けながらエレベーターに向かった。
 支配人が12桁のパスワードで部屋のロックを開け、泣き続ける女性に大いに同情して甘い紅茶と焼き菓子を用意して退出した後、ようやくBJは顔を上げた。キリコは呆れながら煙草に火を点ける。
「食べ過ぎでしゃっくりが出るって相当だぞ」
「だって美味しかったから──っく」
 しゃくりあげて泣いているように見えたのは単なるしゃっくりだった。話そうとした途端に始まったのだ。紅茶を飲んで横隔膜が鎮まるまで待つしかない。
「キリコ、全然──っく、──水分取ってなかったんじゃない?」
「……まあ、スープは飲んだし」
 ひっくひっくと続けるBJを尻目にミニバーから炭酸水を出して一口飲んだキリコは、これほど美味い炭酸水を飲んだことはないとしみじみした。甘くない飲料がこんなにも美味だったとは。
 BJがしゃっくりと戦う間、キリコはタクシードライバーのサレハが渡して来たメモを改めて見る。時間と番号が書いてあった。それを暗記してから灰皿で燃やす。万一ガンナームが番号を知れば彼に迷惑をかけるかもしれないからだ。
「本当に、早いところ考えを変えてくれるといいんだが。俺だって別に軍の介入が嬉しいわけじゃないからな」
「サレハ、何で──っく、──来たんだろ」
「営業だろ。観光に付き合えば儲かると思ったんだろうさ」
「観光したかった──っく、──な」
「ガンナームが考えを変えればいくらでも。ロンドン行きを延ばしてもいいんだし」
「その前に、──っく、──赤毛が来そう」
「治まるまで喋るな」
 やがて支配人がワゴンを押した高位のホテルマンと共に部屋を訪れた。ワゴンには昨日に負けず劣らずの高級品が山のように積まれている。支配人が説明するまでもなくガンナームからだと分かった。
「奥様へのお詫びとのことで、こればかりはお受け取り頂きたいとのことです」
「断りの手紙を書くよ。少し待っていてもらっていいかな」
「かしこまりました。紅茶をご用意致します」
「──ああ、いや、今はいらない。彼女に淹れてやってくれ。この国の人たちは紅茶が好きなのかな」
「ええ、一日中飲み物を楽しみます」
「素晴らしい文化だな」
 甘くなければ俺もそれを受け入れたいね、とキリコはしみじみ思い、昨日よりは短く、礼儀を薄めた手紙を手早く書いた。最後に「良い昼食のためにも考えを変えることを強く望んでいる」と書き添えて支配人に託す。
 ようやくしゃっくりを治めたBJは深く息を吐き、煙草に火を点ける。
「ねえ」
「うん?」
「ピノコとユリさん、大丈夫かな」
「神奈川基地なら大丈夫だろう。陸軍に接触するように伝えたはずだしな」
「陸軍じゃないといけないわけ?」
「赤毛に連絡が届きやすいから陸軍、ってだけだ。海軍出身の副大統領が俺を嫌っているものでね」
「──バートだっけ?」
「そう。バートはロンには忠実だが、ロンに関わる俺の素性が気に入らない。おまけに海軍出身だ、今回の件を陸軍より海軍の手柄にしたがる可能性もある。デルタは陸軍だし、何だかんだで揉めるかもしれない。そこはグラディスの交渉次第になるだろうな。──陸と海は仲が良いわけじゃないし、俺は偉い元軍人に嫌われるタイプだ」
 分かるようで分からず、BJは首を傾げる。キリコはもう少しだけ、そしてBJにとってこの上なく分かりやすく説明することにした。
「バートの息子が空軍の州兵としてベトナムに行ったのは有名なんだが、バートが手を回して戦闘地域に配置させなかったこともそこそこ有名でね。その上、戦傷を受けたわけでもないのに任期が通常の兵役より8ヶ月も早く終了した。──メディカルスクールから軍医、戦傷を受けても満期除隊して、おまけに今の仕事をしている俺が嫌われるのは仕方ないよ」
 密林の中の青い光を知っているからだ、とは言わなかった。言う必要がなかった。これだけは死んでもBJに言うつもりはない。BJはじっとキリコを見詰めた後、「ふうん」と言った。
「軍の所属の問題と、父親としての引け目と、死神への嫌悪感ってことにしておけばいい?」
 心の中で白旗を上げ、キリコは「そうだよ」と呟く。そうだよ。それでいいよ。ありがとう。──他に事情があるに違いないと察していながら、追及をやめた女に感謝した。BJは無言でキリコにキスをし、シャワーを浴びると言って浴室へ消えた。
 キリコはそれからガンナームについて考える。あの違和感は何だったのか。BJも感じたことは分かっていた。だがそれを明らかにするための情報が少ない上に時間もない。キリコとしては今日中、できれば正午までに、ガンナームが自分たちを解放することを願うしかなかった。
「あのライオン、キリコの家の風呂にもつけてよ。面白い」
「自分の家につけろ」
 シャワーから出て来たBJにキスをし、彼女が纏ったローズの芳香に、この国を出られたら同じ香りの香水でも贈ろうか、と思った。仕事柄どうせつけてくれることはないと分かっていても、贈りたくなる程度にはこの香りが似合っていた。
 10時過ぎ、電話が鳴る。キリコが出るとフロントマンだった。
『ガンナーム様が、何かご不自由はないかとのことで。必要なものは何でもお届けすると──』
「俺たちが必要なものは分かっているはずだ。譲歩はできないし、交渉の余地もないと言ってくれ」
 応えを待たずに電話を切る。内容を察したBJは「ねえ」と言った。
「何かおかしい気がする」
「おかしいって?」
「キリコも感じただろ。あいつ、ちょっと変だ」
 朝食の席で感じた違和感だ。キリコも頷いた。
「──俺たちを客人と間違えている気がした」
 用意した料理をBJが美味しいと言ったり、民族独特の菓子を好む様子を見て嬉しそうだった。礼儀としての喜び方ではなかった。その後も恫喝することなく、正面から改めて依頼をして来たことも確かだ。そしてもはや用がないはずのBJに詫びの品を送り届けている。金と権力を持つ傲慢な富豪とはやり方が違うのだ。
「ホテルを丸ごと買収して軟禁なんて客人にすることじゃないけど、でも私もそう思う。心理分析的にどう?」
 自分よりもキリコが詳しい分野だと自覚があるBJは、判断をキリコに任せた。キリコはやや考えた後、煙草に火を点けて深く吸う。
「純粋な人間だ。善に近い」
「近い?」
「こんなことをするんだから善とは言えない」
「なるほど」
 今度はBJが考える顔になる。やはり少しの時間考えてから、やや苦笑して言った。
「ガンナームって、クリードに似てるかも」
 その瞬間、キリコは何が何でもすぐに米軍に連絡を取る必要があると知った。
「クリード」
「そう。善、正義なんだけどズレてるって言う感じの──ちょっと、怒らないでよ」
 二人の間ではあまり歓迎できない名前であることは確かで、表情を硬くしたキリコを見たBJは慌ててしまう。だがキリコは「そうじゃない」と言った。
「バスマは」
「今日から休むって言ってなかった?」
「まずいな。支配人たちに頼むのも──」
 彼らは確かに買収されていない。だが仕事中、買収した連中に監視されていないとも限らない。代理として連絡を頼むにはリスクが高い。
「何? 外に連絡したいってこと?」
「そう。軍に、早く──まずい。違う。マフィン、気付かないか?」
「え?」
 訳が分からず、BJは唖然としてキリコを見た。ここまで焦っているキリコを見たのは久し振りだ。薬を盗まれ、二人で駆けずり回った時以来かもしれない。
「意味が分からない、説明して」
「神よ」
 BJの生活には馴染みのない言葉を呟き、キリコは時計を見た。10時を過ぎている。正午までに何とかして連絡をつけなければ。焦る。ただ焦った。
「ガンナームは俺たちを軟禁しているつもりなんかなかったんだ」