次の瞬間にすべてが終わるなら 04

 朝一番で驚いたのは、医局でわたしに意地悪を言った彼女が家に来たことだった。昨夜のうちに岡本先輩が電話をして、色々話したって教えられた。
「悪かったわ」
 彼女は大きなバッグをごそごそしながら、小さい声で言った。
「ちょっと嫉妬したの。忘れて」
 忘れるもなにも、そんな──わたしが返答に困っているうちに、彼女はバッグから取り出したメイク道具の数々をテーブルに広げる。それからわたしに、明らかに演技めいた明るさと気の強さで「メイクくらいしなさいよ!」って言って、飛びかかるようにしてメイクを始めた。岡本先輩はけらけら笑っていて、わたしはお礼を──2人に──言う暇もなかった。
 ああ、──ああ。
 つまらない映画のちょっとした感動シーンだ。嫉妬で意地悪したライバル役がヒロインの先輩に説得されて自分の非を認めて、意中の彼とデートに行くヒロインに協力するなんて、この上なくつまらない恋愛映画の、ヒロインだけに都合のいいシーン。なんてことだろう。なんて。
 なんて──なんてひどい。
 誰が彼女の心を救うんだろう。
 今までは有頂天になれた展開だったけど、どこかで終焉の訪れを認めているわたしは、そんな展開に自己嫌悪を感じざるを得なかった。
 だってこれは、こんな展開は、きっと──

 わたしが夢見た、愚かで都合のいい光景の象徴だから。

 それからもつまらない恋愛映画の定番のシーンが続く。ライバルだった、今はきっと良い友達になった彼女にメイクをしてもらって、面倒見のいい先輩に借りたワンピースを着て、鏡の中の自分を見て、まるで普段のわたしじゃないみたいってびっくりして、2人が自分たちの仕事の成果を誇るように得意げな顔をしていて──
「間さん?」
 岡本先輩がちょっと焦ったような声を出した。きっとこれはNGシーンだ。
「どうしたの。どうして泣いてるの」
 どうして?
 きっと愚かなヒロインなら言うだろう。
 どうしてだなんて! だって!
 わたし、とっても幸せなんだもの!

 だから言った。

「先輩」

 もうすぐキリー軍医が迎えに来る。
 きっともう、今しか言えない。だから言った。
 わたしのために色んなことをしてくれた人々──わたしのために、わたしが。
「わたし、そんな先輩、本当は好きじゃないのに」
 わたしが都合よく作り上げた人たちに、心から言った。
「ごめんなさい。ありがとう」

 ごめんなさい。
 わたしの、馬鹿みたいな、愚かな願望のために。
 あなたを都合のいい役回りにしてしまって。
 ごめんなさい。
 ありがとう。

 インターフォンが鳴った。
 岡本先輩とライバル役の彼女たちの表情が蝋人形のように消えたことなんて気付かない振りをして、わたしは玄関へ走った。
 わたしが都合よく作り上げた配役の一部は役割を終えた。
 もう時間がない。きっとどこかにまたあの鋭い目をした男が現れる。
 今度はきっと、消せない。
 そうだ。
 ここは、この世界は──
 わたしが、キリー軍医が──

 キリコが。

 都合よく作り出した、夢の世界。
 もうすぐ目覚める時間がやってくる。


 キリー軍医はわたしを見て、これ以上なく褒めそやしてくれた。わたしは嬉しかったし、それから、昨日までは気付かなかった──気付かない振りをしていた──ことを真正面から認めた。
 彼はわたしをそうやって甘やかしたかったんだってこと。
 褒めそやしたかったんだってこと。
 彼の文化で言うところのステディになるまでの時間を一緒に楽しみたかったんだってこと。
 そう、まるで、

 普通の、恋人未満の、男女のように。

「いつまでか分からない」
 わたしがそう言うと、キリー軍医は優しい微笑を浮かべたまま微笑んでくれた。だからわたしも笑い返した。言いたいことをこれだけで分かってくれる彼がとても愛おしかった。いつまでこの時間が続くか。そんなこと。
「最後ってわけじゃない」
 キリー軍医は言った。それからわたしの手を握って、指を強く絡めた。
「夢から覚めた先がまだ夢かもしれないしね」
「そう?」
「いつでも思うよ」
「何を?」
「好きになった女を人生最後の女だと確信して、残りの人生を生きていけるのは」
 この上なく──キリー軍医は──
 彼は言った。
 この上なく。

 夢みたいに幸せなことなんだってね。

「じゃあ、きっと」
 わたしも言った。
 きっと──

 わたしも、夢みたいに幸せなんだと思う。

 絡められた指を強く絡め返して、彼を見上げて笑った。
 彼は笑い返してくれた。
 嬉しかった。


 彼が連れて行ってくれたのはマンハッタンだった。行きたいところなんて考えてなかったけど、きっと彼はそれも予想して、わたしが──ろくすっぽ遊びを知らない極東の田舎の小娘が──喜びそうな場所を選んでくれたんだ。
 マンハッタンは昼間でも、ううん、昼間ならではの顔があって、エンターテインメントなストリートとしてもビジネス街としてもお洒落で映画みたいで楽しくって、息ができないくらいたくさんの人たちにもみくちゃにされても、わたしは終始笑っていた。笑うわたしを見て笑ってくれる彼が素敵で素敵で、本当に胸が熱くなって、ああ、この人が好き、って、愚かなヒロインが心から何度も何度もモノローグを呟いていた。
 ああ、この人が好き。
 大好き。
 夢から覚めても──そこがどんな現実でも。
 わたしは、

 あなたを愛している。

 鋭い目をしたあの男が視界の端に見えた。わたしは振り返ろうとした。キリー軍医がわたしを抱き竦めて、それはできなかった。
 そしてその瞬間、身が竦むような音が響いた。
 身が竦むような──違う。
 身が竦んだ。
 それは爆発音だった。


 そんなに遠い場所じゃなかった。でも悲鳴や怒号の中、人々はわたしたちを押し流すようにその現場から遠ざかろうとする。わたし、わたしは──あんな爆発、きっと怪我人がたくさん──わたしは──愚かなヒロインのわたしならきっと、きっと──
 きっと、逃げ出さなきゃいけない、もしくは抱いてくれている恋人未満の彼に助けてもらわなきゃいけない。
 煙と炎が見える。逃げ惑う人々がわたしとわたしを抱いたキリー軍医を押しのけて逃げていく。彼らが叫ぶ言葉の端々から、ここからそう遠くない場所にあるビルで爆破テロが起きたことが分かった。わたしたちはいつの間にか道の端に追いやられて、煙と炎を眺めている。それは決して小さくはない。確実に怪我人が、ともすれば犠牲者が出る。
 ああ、ああ──わたしが、愚かなヒロインが呆然とそれを見上げていたとき、逃げていく人々の流れを逆流するように駆け抜ける2人の男性を見た。若い軍人と、それから、赤毛の青年だった。
「ごめん」
 キリー軍医が言った。
「安全な場所まで送れない」
 それはキリー軍医だったのか、それとも──
 それでも、確かに「彼」だった。

 わたしが愛している「彼」の声だった。

「行ってくる。きみは逃げて。人の流れに合流して逃げるんだ、それで安全な場所へ行ける」
 彼は腕の中のわたしを見ていた。その青い瞳の、

 ふたつの青い瞳の、

 その中に、混乱しきった小娘が映っている。
 小娘。
 この──この小娘。

 役立たず!

「わたしも」
 言った。必死で言った。
 愚かなヒロインはヒロインの座を捨てて、ただただ、脚本にはない台詞を縋るように、これだけは脚本にない真実の心で、愛している男に言った。
「わたしも行く!」
 わたしも行く。もう終わる。この時間はもう終わる。
 もう映画のシナリオは破綻した。誰が作ったか知らない、でもわたしたちを楽しませてくれる愚かな恋愛映画の脚本はこの先を書き換えられている。
 わたしたちがきっと、書き換えた。
 これはわたしと彼が共に持つ記憶が作り出した光景だ。
 あのロンドンで、初めて共に過ごしたあのロンドンで、共に経験した、それでも少し違う光景だ。
 きっと──彼があの時そうしたかったように、そうできなくて悔いていた瞬間が、今、作り出されている。
 彼は少し驚いた顔をした後、それからわたしの唇にキスをした。きっとつまらない恋愛映画のラストシーンだったはずのキスだろう。
 素敵なラストシーンになるはずだったキスの余韻を味わうことも、彼に抱き締められることもなかった。ほんの少しだけ視線を合わせたことだけが、きっと予定されていたラストシーンと重なったかもしれない。
 でも、そこにある感情はまったく違う。甘い感情じゃない。とろけるような恋愛の熱じゃない。
 わたしと彼がするべきこと、生きるべき道のこと、それを焼きごてで刻みつけられているような、逃れようのない、忘れようのない、熱い、あつい熱だ。
 悲鳴と怒号と混乱と、そしてどこか空間が歪んだような感覚の中、わたしたちは走り出した。鋭い目をした男が立ち塞がった。
「どけ!」
 彼が叫んだ。まるであの日の自分に──ううん、考えない。わたしには分からない。わたしが決めていいことじゃない。でもその声で男は消えた。


 現場は混乱を極めていた、と言ってもいい。まだ警察も消防も軍も、頼れる組織が到着していない。そんな中、勇気を出して集まった人々にベネットが中心になって指示を出している。爆発して倒壊しかけた建物から運び出される人の救助、救助に協力する人たちが二次被害に遭わないための指示──ベネットは精一杯だ。見れば分かる。彼は必死だ。おそらく彼の経験や階級以上の責任を負ってしまっている。グラディスもその指示を聞いていて、従っているように見える。
「様子は?」
 キリー軍医はベネットではなく、グラディスに訊いた。わたしもグラディスを見た。そうすることに慣れている自分を思い出して──本当は最初から知っていて。
 でもすぐに、ああ、と思った。グラディスが──18歳の青年が、この光景にショックを受けて、どうにか自分の混乱を抑えようとすることに精一杯なんだって分かったから。ああ、そうだ。
 彼は今、ここで18歳だ。化け物みたいにパーフェクトな陸軍少佐なんかじゃないんだ。まだ10代の学生だ。見た目は青年でも、心も経験もまだ少年と言ってもいいくらいの。いくら優秀でもこんな現場を目にすれば混乱して当たり前の年齢なんだ。
「すまない、少尉の指示を受けるよ。彼女といてくれ。暴動が起きるかもしれない、守ってくれ」
 少年の様子に気付いたのか、キリー軍医はそう言ってグラディスの肩を叩いてベネットの方へ走って行った。
「ごめん」
 グラディスが言った。わたしは「そんなこと」って言ったけど、彼に聞こえたかどうか分からなかった。驚いてうまく言えなかったから。グラディスが本当に悔しそうに──もしかしたら泣きたかったのかもしれない──顔を歪めたから。きっとわたしは彼のこんな顔を見たことがなかった。
 視線の先でキリー軍医が救護活動を始めたことが分かった。横たわった怪我人たちにかなり手早く、そして見るだけで正確だと分かる処置をしていく。救護にあたる人たちに大声で指示を出していく。それだけで分かる。彼がどれほど優れた軍医であるのか──人を救う立場である人なのか。
 不意に身体の奥から熱い何かが沸き上がる。自分でも戸惑うほどの感情の渦だ。すぐに分かった。認めたくなかった。でも認めざるを得なかった。
 嫉妬だ。
 あのひと、あの男──あの医者、すごい。
 わたしが勝てないかもしれない。
 わたしより──

 わたしより、
 すごい医者だ。
 悔しい。

 悔しい。ああ、そうだ、思い出す。わたしじゃないわたし──ううん、それもわたし。
 蒸し暑い密林の中の光景、そこにいる銀髪の男、皮肉な物言い、目の前の患者に全力を尽くす姿、それから──驚くほど優しい笑顔。
 蓮っ葉な小娘だったわたしがあっと言う間に好きになった優しい笑顔。
 今だってこの世界では小娘で、あっと言う間に好きになった。
「グラディス」
 でももう違う。思い出したからにはもう違う。
 わたしと彼が──キリー軍医ではなく、キリコが共有するテロの記憶が作り上げたこの光景で、わたしたちはやり直すんだ。
 きっと望んでいた。
「手伝って」
 きっと望んでいた。愚かな、そして幸せな恋愛映画のような恋と友達と栄誉を夢見たことがあった。それは望んでいた世界のひとつだ。
 でもそれよりも、もっと、わたしたちは──道が交わったその瞬間から、もしかするとあの密林で出会った瞬間から共有していた望みがあったんだ。
 戸惑ったようにわたしを見る少年に、わたしは強く言った。
「悔しいんだ。挽回したい。手伝って!」
 返事も待たずに走り出す。やっと到着した警察や消防隊が非常線を張ろうとした中、「医者だ!」と叫んで走り抜けた。グラディスがすぐに追いつき、わたしよりも早くまだ未処置で横たわるの怪我人のそばに膝をついた。声をかけて意識を見て──わたしがその指示を出す前に、優秀なカデットは警察官からカラータグを借りて怪我人の手を取り、「聞こえたら僕の手を握って」と声をかけ始めた。緊急時の、そして戦場のトリアージ方法だ。優秀な陸軍士官学校生は学校で学んだ通りに正しいことをしている!
 もう何人目かも分からない怪我人を処置したのだろう、患者の血をそこかしこにつけたキリー軍医と目が合った。だからわたしは叫んだ。
「指示を!」
 キリー軍医は一瞬だけ驚いた顔をして、それからにっと笑って言った。
 優しくない笑顔だった。どこか挑発するようで、それでも──
「俺が言う必要なんかないだろう、医学生くん!」
 わたしを信じていてくれる声だった。だからもう一度、わたしは叫ばなければいけなかった。
「こういう時は!」
 認めたくない。
 きっとわたしは永遠に認めたくない。
 密林の中で出会った軍医を超えられない領域があるということを。
 それでも目の前に怪我人がいれば、患者がいれば、わたしは、わたしたちは、

 医者は、

「あんたの方が優れてる!」

 愚かなまでに、目の前の患者だけにすべてを捧げるのだ。

 キリー軍医は今度は恐ろしいほど真顔になった。きっとこんな現場じゃなければ、恋愛映画の愚かなヒロインは一生見ることがなかったかもしれない顔だった。怖いと思ったかもしれない。でもわたしはそう思わない。
 ぞくぞくするほど美しい顔だったから。
 そしてキリー軍医は二度とわたしに笑顔を向けなかった。
 その代わり、矢継ぎ早に指示を出し始めた。わたしが知らない、でも記憶の中では知っていることが分かる指示だった。そうだ、的確だ。ここにはいないはずのわたしが言った。ここにはいない──いない振りをしているわたし。でもこの世界にはいない。今いるのは愚かなヒロインをやめたわたしだ。医者のわたしだ。たとえ医学生としての知識と技術しかなくても、持ち得る限りの力を尽くさなきゃいけないんだ。
 不思議だった。どこかで呆れたようなわたしの声がする。金にならない。こんなことに時間を使うなんて。まったく。でも──仕方ない。わたしは医者なんだから。
 ミスをした。キリー軍医に短く、鋭く叱責された。自分でも信じられないくらい素直に返事をしてリカバリーに取りかかった。手術室ではなく地面に横たわった人を処置するのは難しかった。でもそんなことは患者に関係ない。必死で手を動かした。もどかしかった。こうじゃない、もっと──でも今のわたしはこれしかできない、悔しい。わたしの倍にも思える速さで動くキリー軍医の手は神様のもののようだった。悔しくてたまらない。
 グラディスのトリアージは決して完璧ではなかった。それでも学校での優秀さが明らかに分かる程度には群を抜いていた。ただ、黒──心肺停止──の判断をするのがきっと嫌なんだろう、生きているはずの色のタグをつけていても、わたしやキリー軍医が処置に入った時にはとうに亡くなっている人、きっと即死だった人が幾人かいた。
 それは一刻を争う救護活動の時間のロスに繋がる。だからって、わたしは彼を責められなかった。でもキリー軍医はこれも叱責した。まだ18歳の学生に何てことを──わたしは少なからず憤りを感じたのも確かだ。でもグラディスは「イエス、サー!」って声を張り上げて返事をした。キリー軍医は赤毛のカデットの肩を力強く叩いて「乗り切るぞ」って言ってから、また処置に戻った。
「──退避!」
 叫んだのはベネットだ。それから警察、消防──救護活動に協力していた人々、野次馬たちの悲鳴が響く。崩壊しかけていた建物の一部が轟音とともに崩落した。その下にはまだ運び出されていなかった被害者たちがいたはずで──
「くそ」
 崩落の衝撃で周囲に噴出した土埃の中、キリー軍医が咳混じりに呟く。
「1人残らず救ってやる」
 それからわたしの背中を叩いた。大丈夫だ、頑張れ、って小さな声で言われた。それでわたしは自分が泣いていたことに気付いた。気付いた瞬間に腹が立った。こんな時に泣くなんて──そんな暇がどこにある! この馬鹿な小娘!
 消防隊ではなく、軍関係の男たちが今まで以上に慌ただしくなった。きっと彼らが率先して瓦礫の撤去作業を行うんだろう。そうだ、わたしはそんな光景を知っている。キリー軍医──キリコも。あのロンドンで知っている。
 でも彼らも混乱している。見れば分かる。ベネットと誰か──多分現場の指揮を執る任務を負った軍人だろう──が大声で何かを言い合っている。他の兵士たちが待っているのに意見がまとまらないように見えた。
「先生」
 不意にグラディスが言った。グラディスはわたしたちに背中を向けて、崩落した瓦礫を見ていた。
「僕、いち抜けた」
 どういう意味かなんて分からないはずがなかった。
 彼はこの世界を出て行く。
 まだここにいたいのかと問うた時、そう思わない人がどこにいるのかと──自分もそうなのだと──答えた彼は、真っ先に出て行くと宣言した。
「カデット坊や」
 キリコが──キリー軍医が言って、グラディスの背中を叩いた。
「よくやった。勲章ものだ」
「光栄です、サー」
「少佐くらいにはなれそうだな」
「自分には大任すぎます、サー」
 キリー軍医が笑った。グラディスが笑う声も聞こえた。でもそれはもう少年の声じゃなかった。彼はちらりとわたしたちを振り返った。
 お先に。
 少佐はそう呟き、ベネットの方へゆっくりと歩き出す。そして叫んだ。
「ベネーット!」
 その瞬間、ベネットは弾かれたように顔を上げ、すぐに絶叫した。
「イエス、サー!」
「そっちのクソほども使えない指揮官は誰だ、連れて来い! 10秒以内だ、過ぎたら殺す!」
「サー、イエス、サー!」
 無口でおとなしいカデットの優等生なんてどこにいたんだろう。嘘みたいだ。呆然としていたのはわたしだけじゃなかった。キリー軍医も「すごいな」って呟いてるくらいだった。でもすぐにわたしに言った。
「あっちは任せられる。続きだ」
「──分かった」
「救急隊に回せる患者を──」
 キリー軍医がまた素早い支持を立て続けに出し始める。わたしはそれに付いて行くのが精一杯だった。夢中で動いた。声を出した。手を動かした。患者を励ました。どうしようもない興奮の中にいた。高官の出現と指示で一気に動き始めた現場の中、わたしとキリー軍医は合流した救急隊の医療スタッフや軍医、衛生兵たちとひたすらに動き続けた。
 それでもわたしは何度も叫び出したい衝動を堪えていた。
 できる。わたしはできる。──救える。
 救えるはずなのに。
 救えるんだ。
 軍医の指示なんか聞かなくたって自分で判断できる。
 手が動かない。思った通りに動かない。もっと救えるのに。
 もっと──
 救えた人もいる。何人も救った。それは確かだった。
 でも救えなかった人もいた。それも確かだった。
 救えたはずだった。わたしなら。
 小娘じゃないわたしなら!
「……っ!」
 もう何人目だろう。わたしが必死で処置している中、その指の先で、患者が生命活動を終えた。
 違う。救える。救えた。
 救えたはずだった。
 もう、──もう──
「……キリコ!」
 叫んだ。キリー軍医が振り返った。泣いているわたしを見て、眉をひそめて微笑んだ。
「うん」
「もう、──もう──」
「分かった」
 分かったよ。ごめんね。それまでの鬼気迫る医療行為が嘘のように穏やかな顔で、声で、わたしのそばに屈んだ彼は優しく言ってくれた。
「付き合わせて悪かった。ごめん」
「そうじゃない」
「そうだろう? 俺がこうしたかった。ロンドンで──ベトナムでも最後にはもう、できなかったから」
 喧噪はまだ続いている。わたしたちは救助の手を止めている。医者としてあるまじき姿だ。それでもわたしは泣いて、キリー軍医は──キリコはわたしを抱き締めてくれた。そのまま立ち上がって抱き直してくれる。しがみついてまたわたしは泣いた。こんなのわたしじゃない。泣きながら呻くと、うん、そうだね、って言ってくれた。
「こんなの」
「うん」
「こんなの──軍医に嫉妬するわたしなんて、わたしじゃない」
 超えられないなんて思うわたしは、きっと──ううん、きっとわたしだけど。
 それを認めたくないわたしがいるんだ。わたしはそういう人間なんだ。
 キリコがわたしを強く抱き締めた。ありがとう、って囁かれた。少し声が揺れていた。きっと泣いていた。
 この世界はとてつもなく幸せだった。いつまでも目覚めたくないほどに。
 目覚める時間が近づけば近づくほど、まったく、ぜんぜん、幸せなんかじゃないって思い知るばかりになるくらい、幸せだった。
 ああしたかった、こうしたかった。
 過去に置いて来た夢と、変えられない過去への後悔をやり直せるんじゃないかって。
 そんな夢を見続けられる世界だった。
「キリコ」
「うん」
「帰りたい」
「そうだね」
「キリコも帰りたい? ここにずっといたいと思わない?」
 キリコは少し沈黙して、それからわたしの顔を覗き込んで、言った。
「そう思わない人なんて、きっといないよ」
 でも。キリコは続けた。
「夢から覚めた先だって、夢みたいに幸せなことを、俺たちは知っているはずだ」
 わたしは頷いた。何度も頷いた。キリコが笑ってくれた。
 そしてキスをしてくれた。
 ほんの数秒のキスのあと、先に身体を離したのはわたしだった。
「赤毛!」
 現場の指示を出している少佐に叫んだ。この世界では決して口にしなかった言葉だった。少佐はわたしを振り返り、じっと見つめたあとに叫び返してきた。
「赤毛って呼ぶな、クソビッチ! 何!」
「うるさいんだよ、童貞! さっさと怪我人を運び出せ、いつまで待たせるつもりだ!」
「おまえ、少し口の悪さを直せよ。──グラディス、そっちから怪我人を運んだら俺がトリアージをする。急げ」
「童貞じゃないし急いでるし! ふざけんな、馬鹿夫婦!」
 グラディスの服はいつもの迷彩服で、キリコの服もいつもの洒落たスーツで、そしてわたしは──いつもの黒いコート、赤いタイ。
 視界の端でベネットが笑った。わたしはキリコを見上げた。キリコもわたしを見た。同時に笑った。
 それから──わたしたちが果たすべき義務を果たすべく、夢から覚めるために、まだ混乱する現場へ足を踏み出した。
 その瞬間、鋭い目をした男が目の前に現れた。今までで一番近い距離で、手を伸ばせば触れられるほどに。
 目眩がした。ああ、と思った。
 ああ、起きるんだ。
 終わるんだ。
 つまらない恋愛映画と──書き換えられたシナリオが。


 結末は思った以上につまらなかった。
 目が覚めたら陸軍病院のベッドの上で、思ったよりも身体にダメージを感じない。起き上がると泣き腫らした顔のピノコと青ざめたユリさんと、死ぬほどつまらなそうな顔をしたグラディスが見えた。ああ、先に起きたのか、って赤毛をぼんやり眺めながら思った。
 わたしが起きたと知ったピノコがまず悲鳴を上げ、泣いて腫れ上がったまぶたからまた涙を流してわたしに飛びついてきた。わたしは言い訳ひとつできなくて、ごめん、ごめん、って何度も謝った。
「ちぇんちぇい、半日も起きなかったのよさ!」
「半日?」
 たったそれだけ? 1週間近くあの世界にいたはずなのに──
「もう起きないかと思ったのよさ!」
「ごめん、でももう大丈夫だよ」
「心配したんらからぁー!」
「ごめんってば」
 ユリさんが黙って、ピノコごとわたしを抱き締めてくれる。よかった、って震える声で呟かれて、ごめん、ってわたしも呟き返した。
 闇関係のトラブルに巻き込まれてこうなったんだってこと、きっとユリさんはグラディスかデルタの誰かから聞いているはずだろう。わたしとキリコが闇関係と手を切るようにユリさんが願っているのをわたしは知っている。でも気付かない振りをしている。ごめん、ってもう一回言ったら、もういいわ、って呟かれた。
 ドアが開いて素敵な男性──うん、起きたばっかりでも頭はしっかりしてるみたい。いつも通りの姿のキリコがものすごくかっこよく見えるから。──が入って来た。わたしを見て笑ってくれた。わたしも笑い返した。ユリさんがすっと、ピノコがしぶしぶわたしから離れる。キリコは当たり前のようにベッドの端に来て、身をかがめてわたしの髪にキスした。
「体調は?」
「平気。先に起きたんだ?」
「1時間くらい前に。赤毛とベネットはそれより早かった」
「ベネットなんて腹減ったってうるさいから先に帰したよ」
 部屋の隅からグラディスがつまらなそうに教えてくれた。わたしたちに好意の欠片もない顔で、それはこの上なく「いつも通り」で、いい具合にわたしを安心させてくれた。
「ドクターにはもう話したけど、一応説明してあげようか?」
「キリコに聞くからいい」
「ああ、そう。じゃあ帰る。二度と顔見たくない」
 いつもより毒舌にキレがない。たぶん疲れてるんだろうな。顔色も良くない。──仕方ないか。あれは今のグラディスからすれば、あまり見たい夢の結末じゃなかったはずだろうから。
 わたしがそうだったように──自分の能力が足りなくて、目の前の悲劇が進行するのを見るばかりだった夢なんて。理想とする行動ができなかった夢なんて。
 わたしとグラディスの気持ちが分かったのか、キリコが小さく言った。
「赤毛」
「何」
「すまなかった」
 わたしが鈍感じゃなければ、今のキリコの気持ちに気付かないでいられた。でも案外、鈍感じゃなかったみたいだった。
 すまなかった。その言葉にどれくらいの感情が込められていたか分かってしまったから。
 グラディスはキリコを見て、次にわたしを見て、それからまたキリコを見た。
「いいんじゃない」
 てっきり毒舌が飛び出すかと思ったら、グラディスはそんなことを言った。わたしは驚いた。でもその次の言葉で、驚きは穏やかならざる感情──憎悪に近い感情に変わった。
「ベトナムでできなかったことして、満足したんでしょ?」
「この……っ!」
「マフィン、いいんだ。──その通りだよ。もう行きな、役立たずのカデット坊や」
 激高してベッドから飛び降りかけたわたしを抱いて止め、キリコは冷たい声で言った。グラディスは視線でキリコを殺すんじゃないかってくらいに睨み付けて、唇を「死ね」って動かして、そのまま部屋を出て行った。
 それからキリコはわたしを落ち着かせるために少し時間を使った。キリコだって疲れているはずなのに──あんな世界で過ごして疲れないはずがない──申し訳なかった。ピノコとユリさんが心配そうに黙って待っていてくれているのも申し訳なくて仕方なかった。
「あの連中に追われてる時に」
 あの連中──わたしの依頼人が寄越した暗殺部隊だ。自分が弱ったことを世間に知らせるわけにはいかない立場の権力者は、たまにそんなことをする。あの時、わたしは追われていた。依頼人は軍事会社の重役だった。最初からこの仕事が怪しいと言って反対していたのに結局一緒に来てくれたキリコはわたしのトラブルに巻き込まれたことになる。
「妙なガスが使われただろう。あれが原因だ。俺も軍からさっき説明されたばかりなんだが」
 キリコが言うには、あのガスは脳と潜在意識を混乱させる効果があるらしい。潜在意識と聞いて、ああ、と思った。ああ、そうか──潜在意識の中にあった願望、脳が覚えていた記憶が混ざり合って、あんな世界を作り上げたんだ。
 あんな世界。
 嘘みたいに幸せな、夢の世界。
「赤毛とベネットは俺の救助時に残っていたガスを吸った。他の隊員は後方で待機させていたらしい。そうじゃなけりゃデルタ全員が出演してくれただろうな」
「──それはちょっと嫌、むさくるしいと思わない?」
 どうにか笑って軽口を叩いてみせると、そうだな、ってキリコは優しく笑い返してくれた。
 結局、わたしはキリコを死なせたくないアメリカの意志で助けられたことになる。わたしのことを、そしてキリコのことをアウトローだと嫌うグラディスがあんな態度をしても仕方ない。

 ベトナムでできなかったことして
 満足したんでしょ

 そんなことに巻き込まれたなんて、きっとあの男は思い出したくもないだろう。何もできなかった自分。未熟だった自分。わたしのように。
 幸せだった。
 好きな男がわたしを好きだと教えてくれる世界。
 優しい人しかいない、都合のいい世界。
 わたしとキリコの願望が作り上げた世界だった。
 何て幸せだったんだろう。
 あんな世界を──わたしは望んでいた。
 わたしたちは望んでいた。
 もしかすると、グラディスとベネットも自分たちの奥底に眠る願望を形にして、改めて経験していたのかもしれない。だから幸せだったのかもしれない。
 でも、キリコはもう少し、もう少し望んでしまった。
 あの時できなかったこと、ベトナムで、ロンドンで。
 後悔の瞬間を、喪失の瞬間を、あの世界で挽回して満たしたくなった。だからあの現場を作り出してしまった。
「マフィン」
 キリコの指がわたしの目元に触れた。どうやらわたしは泣いていたらしい。
「ごめんね」
 わたしは優しい指を握って、唇を噛んで、首を横に振るのが精一杯だった。
 キリコは眉をひそめて笑った。とても素敵で、そして、とても悲しそうだった。

 幸せだった。
 幸せなはずだった。
 でも目が覚めたから分かった。

 次の瞬間に世界が終わっても、わたしは今の時間、いま、この人と愛し合いたい。
 過去に夢を求めたって、目が覚めたら悲しいばっかりだから。

「キリコ」
「うん?」
「幸せだった?」
 幸せな瞬間も確かにあった。あの世界は確かに幸せだった。だからキリコもそうであって欲しい。せめてそうであって欲しい。キリコは穏やかに、静かに言った。
「ベトナムでは」
「うん」
「おまえにも、誰にも会わなかった」
 誰にもね。その言葉は小さく、掠れるような声だった。
 幸せだったよ。その言葉を聞きたかったのに、キリコは言わなかった。
「あれはあれで、悪くなかったと思うよ」
 きっとね。
 その声はやっぱり掠れるように小さくて、わたしは返事ができなかった。

 誰にも会わなかった。誰にもね。

 それで悪くないなら、それでいいじゃない。
 あなたがそれでいいなら、わたしはそれでいい。
 だって夢だから。
 夢だったのだから。

 夢から醒めた今が現実かどうかなんて分からない。
 夢じゃないなんて誰にも分からない。

 次の瞬間に世界が終わっても──それでもいい。
 わたしは今のあなたと愛し合いたい。

 誰にも会わなかった。
 誰にもね。

 悪くないなら、それでいい。
 そう言ったあなたが、何かを慈しむような、愛する何かを思い出すような目をしたとしても。
 
 それがきっとわたしのことじゃないって分かっても。
 あなたがいいなら、それでいい。