次の瞬間にすべてが終わるなら 01

 追われていた。今回はまずった、と走りながらわたしが減らず口をたたいたら、今回もだろうが、と減らず口で返された。わたしよりも早く走れるはずなのに、しっかりと手を握って走ってくれるキリコに悪態をつく気にもなれず、まったくだ、と言うにとどめた。
 もう少しで──先にキリコに教えられていた道を思い出しながら走る。もう少しで安全圏だ。その場所へ行けば少なくとも今の危機を脱出できることは分かっていた。それがキリコのお陰であることも分かっていた。あと少し、もう少し。
 でも、くそ、と不意にキリコが罵りの声を吐いた。キリコにしては珍しかった。わたしも似たような気分だったけど、文化的にそんな習慣がなかったことと、数分前から感じていた目眩が強くなったせいで同じことはできなかった。
 さっきのガスかな。我ながら弱々しい声でそう言うと、まあそうだろうな、と忌々しげな声で返事をしつつ、くそ、とキリコはもう一度呟いて、抱き寄せてくれた。もう少しだ。頑張れ。キリコは言った。自分こそ頑張れよ、と言う前に、目眩はひどくなり、そして急激に世界が暗くなり、ああ、駄目だ、起きろ、せめてキリコを先に行かせなければ──そう思うことすらむなしいほどに、あっさりと意識は遠のいていった。


 起きろ、起きろ──誰かがそう叫んでいるような気がする。うるさい、わたしはもっと寝ていたい。邪魔しないで。それでも声は無慈悲で、やがてそれは目覚ましのけたたましいベルだと分かって慌てて飛び起きた。なぜかそうしなきゃいけないって思ったから。
 どうにか目覚ましを止めて溜息をつく。何だっけ、ええと──何だろう、妙に疲れてる。カーテンの向こう側が明るくなっていて、それから目覚ましが鳴ったことを思い出して、とりあえずわたしが起きる時間なんだって気付いた。
 妙に疲れてる。何だろう。昨日は──昨日。何だっけ。疲れるようなことでもした? 昨日は──
「間さん、起きた?」
 ドアの向こうから声が聞こえた。誰、と考えるまでもなく、ああ、はい、と返事をしていた。ドアが開き、日本人女性が顔を出した。ええと──ああ、うん、そうだ。
「おはようございます、岡本先輩」
 そうだ。岡本先輩だ。そうだ。
 そうだ、ルームシェアしてるんだ。だから慌てて目覚ましを止めたんだ。ここは壁が薄いから、あんまり鳴らし続けていると迷惑になる。
 そうだ。
 ルームシェア。大都市で。アメリカの。
 ──そうだよね。
「病院から電話が来てたけど、わたしが出ちゃったわ」
「電話?」
「キャシー。看護師の」
「キャシー」
「そうよ」
 キャシー。
 そうだ。病院の看護師で、いつかNPOを作りたいって言ってる──NPO──ベトナム帰還兵のための──ベトナム?
「どうしたの? まだ寝ぼけてる?」
「え、あ、──ええ、ちょっとそうかも」
「早く目を覚まして、少し急いで病院に行った方がいいと思うけど?」
 岡本先輩が妙に悪戯げな顔になった。病院。
 そうだ。
 病院。わたしは今、留学してるんだ。医大生として。交換留学。岡本先輩も。
 そうだ。──そうだ。なんだか寝ぼけてた。変な夢を見たからだ。
 変な夢だった。
 変な夢だった、と思う。
 長くて変な夢だった。いつも何かに追われていて、とてもじゃないけど平穏な毎日なんかじゃなくて、テレビでしか見ないような裏社会の連中と渡り合って──戦争に行ったりして。
 ベトナム戦争に。まさか。わたしが。
 ただの医学生のわたしが。
 本当に変な夢だった。
「急いで? どうして? 何かあったんですか?」
 まだ6時半だ。こんな時間にキャシーが電話をかけてくるなんて。キャシーは夜勤だったんだろうけど、今まで早朝に電話をかけてくるようなことはなかった。留学生にまで連絡しなきゃいけないような喫緊のことがあったのかも──一気に目が覚めたわたしに、岡本先輩はまた悪戯げに、今度は少し意地悪に笑ってみせた。
「今日、病院にキリー軍医が来るそうよ。8時半には来るんじゃないかって。軍人は早起きよね」
「え」
 キリー軍医。
 キリー。
 急に夢を思い出した。さっきまで見ていた夢で、わたしは──
 ぽかんとした顔になっていたのかもしれない。岡本先輩が笑って部屋を出て行った。
 それからわたしは急に思い出した。
 そう、思い出したんだ。
 だから一気に耳まで真っ赤になったことが自分でも分かるくらい熱くなった。
「先輩!」
 ベッドを飛び降りて部屋を飛び出す。ちょうどリビングに入るところだった岡本先輩がにやつきながら振り返った。それでますますわたしは顔が熱くなった。
「違いますんで!」
「何がぁ?」
 もう、もう、って地団駄を踏みたくなるくらい、岡本先輩の顔と声が憎ったらしい。
「キリー軍医とわたしはそんなんじゃないんで! 何度も言ってるのに!」
 そう、そんなんじゃない。
 そんなんじゃ──そう。違う。何度も言ってる
 何度も。
 何度も?
「誰も信じないわよ。ほかの男なんて相手にしないあなたが、キリー軍医の前だけは可愛い女の子なんだから」
「違うったら!」
「朝ご飯は食べなくていいんじゃない? きっと誘ってくれるわよ。味気ない食堂でも2人ならきっと最高の──」
「家で食べます!」
「あら、そうなの?」
 岡本先輩がまたにやついている。わたしは何とか顔の熱さを抑えたくてバスルームに飛び込んだ。飛び込むと同時に電話がまた鳴ったけど、それは先輩に任せた。
 シャワーを頭から被って、どうにか顔の熱さを身体の熱さと一体化させる。病院のみんながわたしとキリー軍医のことになるとからかいたがるのが恥ずかしくって仕方ない。
 恥ずかしい。──だってそうじゃない。
 キリー軍医ってすごい人なのに。
 ベトナムに従軍してたくさんの友軍を救って、勲章もたくさんもらって、軍医の中でも有名で、どんな大病院でも名前を出せば顔パスになるような──それなのに驕ることがない、かっこいい男が、なぜかわたしにいつも優しいなんて。
 わたしみたいなツギハギだらけの日本人に。
 珍しがってるだけかもしれないけど。
 それから、あの人はすごく優しいからだろうけど。
 優しい。
 そう。わたしはそれを知ってる。
 ああそうか。
 知ってるんだ。
「間さーん?」
 また岡本先輩に呼ばれた。少しシャワーを弱めて返事をする。
「何です」
「少し、支度を急いだ方がいいと思うわよ」
「どうして?」
「あなたと一緒に朝食を食べたくて、あと30分したら迎えに来る人がいるから」
 時間はわたしが指定したわ、早く会いたいでしょ、と涼しい声で言う岡本先輩の声が憎たらしくて憎たらしくて、シャワーの勢いを最大にして聞こえないようにしてしまった。また顔が赤くなったような気がした。
「少しメイクすればいいのに」
「したって変わりゃしません」
「もっと可愛くなるわよ」
「ツギハギが消えるわけでもなし」
 私が着替えている横で、岡本先輩は何かとうるさい。特に最近はメイクをしろ、もう少し服に気を遣えと口を酸っぱくするようになった。──なった、と思う。そんな気がする。多分それでいい。
 少しオーバーサイズのボトムスに薄手のニット、それからパーカーを羽織った時、ちょうどインターフォンが鳴った。楽しそうに出ようとする先輩を押しのけて、ショルダーバッグをひっつかんで、わたしは玄関へ向かった。
 ドアノブに手をかけて、唇を噛んで、それから──腹を決めた。
 決めた。
 だから言った。
「軍医?」
 返事までは少し間があった。数秒くらいだったかもしれない。
 それから声が聞こえた。
「おはよう、医学生くん」
 わたしは息を吐いてからドアを開けた。
 俳優みたいにかっこいい銀髪の軍医がわたしに笑いかけた。
 ふたつの青い瞳の中で、わたしがちょっと照れた顔で笑っていた。


「昨日の夜にこっちに戻って来たんだ」
「昨日までどこに?」
「フォートフラッグ基地。ノースカロライナの」
「ふうん」
「で、起きたらびっくりした。一瞬、どこにいるか分からなくてね」
「ふうん」
 並んで歩きながら取り留めのない話をする。
 たぶん、取り留めのない話なんだと思う。
 どちらかと言うとキリー軍医が話していた。これは彼がおしゃべりなんじゃなくて、わたしが彼の声を聴いていたいからだ。彼はそれが分かっているように、優しい声でゆっくりと話してくれた。仕事の時には力がある声で、たまに早口にもなるけど、仕事以外の時にはこんなふうに話す。わたしはそれが好きだった。
「食べたいものは?」
「何でも。──軍医が食べたいものがいい」
「それは男の台詞だよ」
「店を知らない。留学生は金がないから自炊ばっかり。家賃も高いしね」
「ああ、この辺じゃみんなルームシェアだね。彼女と?」
「そう」
「同じ国の人といられるのは良いことだよ」
「英語が上手くならないけどね」
「充分上手いよ」
「だったらいいけど」
 キリー軍医は病院の近くにあるカフェに連れて行ってくれた。ちょっと嬉しい。いつも賑やかで楽しそうで入ってみたかったけど、お洒落すぎる店構えだったし、何よりわたしの見た目じゃ1人だと入りにくい。好奇の目にはもう慣れたけど、だからって引け目を感じないわけじゃない。
 でも病院の近くだからかもしれない。この店の店員たちは特にわたしをじろじろ見たりしなかったし、眉をひそめることもなかった。明るい笑顔とほどよく元気な声で迎え入れてくれた。
「何してた?」
「え?」
 日当たりの良い席で店員からメニューをもらいながら、キリー軍医は言った。わたしは何を訊かれたのかすぐに理解できなかった。すると彼は続けてくれた。
「俺がノースカロライナにいた間」
 ああ、そうか。そういうこと。
「午前中は大体、病院で」
「うん」
「午後は大学で講義とか、自主勉強とか、かな」
「うん」
「割と」
「うん」
「──割と、うまくできそう」
 キリー軍医はしばらくわたしを見つめたあと、少し微笑んで、そうか、と言った。うん、とわたしは頷いた。それから2人でメニューを覗いた。わたしの財布じゃドリンクがせいぜいだったけど、先に見抜いたキリー軍医があっさり「俺が払わせると思う?」なんてかっこいいことを言ってくれて、なんだかくすぐったくなった。
「わたし」
「うん?」
「結構食べるよ?」
「俺は」
「うん」
「よく食べる女性が好きだな」
 その顔で、その声で、そんなことを平気で言う。わたしは唇をひん曲げて、熱くなりそうな顔をどうにかコントロールしようと努めた。それだけではなかなか難しかったから、ちょっと意趣返しをしてみる。
「そうやって」
「うん?」
「いつも女性を口説いてる、ってことは分かった」
 キリー軍医は数秒わたしを見て──かなり熱を込めて見つめて、って、自惚れ抜きで言ってもいいと思う──言った。
「きみを口説いてる」
「わーお!」
 わたしより早く、オーダーを取りに来た店員が目を丸くして派手に声をあげた。だからわたしは慌てふためかなくて済んだ。軍医は苦笑して長い脚を組み直し、椅子に深く座り直した。かっこいい、って素直に思った。


 朝からお腹いっぱい食べて、我ながらわたしはご機嫌だった。あまりにも露骨に機嫌がいいものだから、キリー軍医が少し笑っている。
「もっと食べれば良かったのに」
「うーん、胃が2個あればそうしてた!」
 またキリー軍医は笑った。わたしも笑った。今日は午前中から病院に入る予定だから、店を出て一緒に歩く。当然のような顔で自然にわたしのバッグを持ってくれた。ありがとう、と言ったら、少し面食らった顔をされた。そうか、彼にとっては当たり前のことなんだろうな。わたしはそういう付き合いをしたことがない。日本で少し付き合った男は──ええと。
 ──ええと──
「夜は?」
「え?」
 物思いにふけりかけたわたしを、キリー軍医の声が現実に引き戻してくれた。わたしははっとして顔を上げた。そこにあったふたつの青い瞳が本当に綺麗だと思った。
「夜は空いてる? 何か先約は?」
「──ないけど、あの」
 でも、勉強をするかも。図書館に行って。この国は大きくて蔵書数が多い図書館がたくさんある。留学している大学の図書館もそうだ。ここでしか読めない医学書もたくさんある。
 でも、それでも──
「あの」
「うん?」
「迷ってるかも」
 そう答えるわたしは案外素直かもしれない。勉強をしなくちゃ。でも今、キリー軍医はどう考えたってわたしの夜の予定を気にしていて、それってつまり──
「何を迷ってる?」
 つまり、わたしの予定が空いていたら誘おうと思ってる、ってことだろうし。それくらい、恋愛経験が少ないわたしでも分かってる。こういうふうに訊いてくるってことは、きっと素直に言ってもいい。
「勉強しようかと思ってた。大学の図書館で」
「そうか」
「でも」
「うん?」
「あの」
「うん」
「……あの」
 するとキリー軍医は笑みを深くした。ああ、かっこいいなあ、って思った。格好良い。すごく。すごく。──どうしてわたしみたいな醜い女にそんなふうに笑ってくれるの、って、どこかでわたしが思うくらいに。
「俺は多分、20時近くまでかかると思うんだ」
「これから?」
「そう」
「そうなんだ?」
「うん。──図書館が閉まるのは20時半だったはずだ」
「うん」
「その頃には図書館の前にあるカフェに迎えに行けると思うんだけど、どうかな」
 どうかな、って言われても。
 どうかな、なんて。
 頷く以外にできることなんて、恋愛経験がほとんどないわたしには何もなかった。
 これはたぶん、恋愛、と言ってもいいものだと思った。勝手な思い込みだとしても、今はそれでよかった。
 出勤するスタッフで賑わい始めた病院の職員用エントランスをくぐり、そこで分かれる。軍医はたぶん偉い人や有名なチームと話があるんだろう。わたしは医局へ向かう。留学生でも積極的に受け入れているこの病院には色んな人種がいて、わたしや岡本先輩のような日本人でもとくに不自由はしなかった。わたしの見た目についても何も言われない。
「あら、医局まで送ってもらわなかったの?」
「──ねえ、先輩。わたしをからかうの、そろそろやめてくれませんかね?」
 先に来ていた岡本先輩にまたからわれたと思ったわたしは、我ながら勢いよく眉を跳ね上げた。でも先輩は涼しい顔──と言うより、どこか不本意そうな顔をしていた。よく見たら周りにいた数人の女性たちもそうだった。みんな留学生仲間だ。岡本先輩よりも彼女たちのひとりが先に口を開いた。
「あの軍医、クロオのステディを目指すならそれくらいするべきよ」
 そうよ、当然よ、って周囲が口々に言ってわたしは面食らう。その中に先輩もいたものだから余計に。先輩、こんなことに興味があるタイプだっけ?
 それより──ステディ? 何だっけ、ええと──公認の──
 そういうわけじゃない、そんな関係じゃない、って声高に言えるほど白々しくできなかった。そもそも、彼が明らかにそういう関係を目指しているってことはよく分かったし。
 ステディな恋人。つまり、公認の恋人。
 わたしなんかと。
「でも」
「でも、何?」
 岡本先輩も彼女たちも、一気に興味津々な顔で身を乗り出す。わたしはまるで囲まれて詰め寄られてるみたいだ。決して暇じゃない朝の医局で何をしてるんだか。
「アメリカの人って、日本とは違うから」
「確かにねえ」
 一番に同意したのは岡本先輩だった。さすが日本人、わたしが言いたいことを分かってくれる。
「ステディな恋人になる前に、あそこまで押せ押せで来るのはあんまりないわよね」
「そう、それ」
「そうよね。日本じゃ家に迎えに来た時点で決まったようなものだし」
「ええ、日本じゃそうなの?」
「将来はどうか分からないけど、今の日本なんてそんなものよ」
「信じられない、ハイスクールの子たちだってもっと進んでる」
 医局の女性だけじゃなく、男性までもが話に入ろうとして来た。そこから一気に国際間の恋愛事情について盛り上がる。あとから出勤してきた先輩医師に呆れて叱りつけられるまで、医局にしてはずいぶん若い話題に包まれていた。
「でも、間さん」
 それぞれの業務に取りかかる準備をしながら、岡本先輩がわたしだけに聞こえる小声で囁いた。
「嫌な思いをしたら蹴っ飛ばしなさいよ。わたしも助けに行くから」
 わたしは思わず笑った。嬉しかったから。
 嬉しかった。
 恋のことで心配してくれる先輩がいるって、こんなに嬉しいことなんだ。


 午前中は外科手術の見学をした。岡本先輩は留学生で一番熱心で、執刀した教授に遠慮なくどんどん質問をしては喜ばれていた。わたしはとくに質問することがなかったけど──わたしも同じオペをするだろう、って思ったから──、やる気がないと思われたら評定が下がるだろう。それっぽい質問を一応しておいた。本当は評定なんてどうでもいいんだけど、気難しい教授ならやる気のない学生をすぐに国へ送り返してしまうこともある。
 今はまだ、わたしはここにいたかった。
「間さん、午後は?」
 そろそろランチタイムになる頃、岡本先輩が話しかけてくる。
「大学の図書館に行く予定です」
「なあんだ、朝のデートのこと、聞かせてもらおうと思ったのに」
「あのカフェで腹いっぱい食べました、それだけ」
「だから──」
「あら、ねえ。あなたたち、初めてじゃない? 見ておいた方がいいわよ」
 にやついた岡本先輩にいい加減本気で呆れていたら、同じ大学のアメリカ人女性がわたしたちをつついた。何かと思って彼女の指す方向を見る。
「あの制服、陸軍士官学校なの。平日の昼間に見かけるのは珍しいのよ。普通なら週末しか外出許可が下りないんだから。それでも外出してるなんて、あの彼、きっと首席かその次くらいよ」
 灰色の上着に白いボトムス、制帽姿の青年がいた。律された外見で──変な言い方だけど、「由緒正しい」若い軍人候補って感じ──病院内では明らかに異質で、目立つ。青年って言っても、白人換算でたぶん18歳くらい。
 彼は通りがかりのナースを呼び止めて、何か聞いているみたいだった。でも思った通りの答えが得られなかったのか、少し息を吐いて頷いて、そう、って言っているのが聞こえる。ナースも少し困っている。
 だからわたしは言った。
「何か手伝えることは?」
 わたしの背後で岡本先輩がものすごくびっくりしている様子があった。周囲もそうだったみたい。まあ、人見知りなのはそれなりに知られてるから仕方ないのかも。
 彼はわたしの方を見て数秒黙ってたけど、それからわたしに言った。
「ありがとう」
「クロオ・ハザマ」
「先生って呼んでいい?」
「留学生だよ。先生じゃない」
「じゃあ、適当に呼ぶよ」
「そちらは何て?」
 彼は礼儀のつもりか、軽く制帽を上げた。士官学校生らしく短く整えられた髪は珍しい赤毛だった。それから短く言った。
「グラディス」
「分かった。何を手伝えばいい?」
「手伝うって言うか──そう、いれば、だけど」
「いれば?」
「キリー軍医」
「──ああ、彼?」
 正直、同じ敷地内でもどこにいるか正確には分からない。軍医は基本的にあまり一般の科と関わらない。大抵は最先端医療の研究をしている教授との情報交換や、入院している傷痍兵の経過観察のはず。どうしようかな、って考えてたら、グラディスが先に言った。
「いるならいいや」
「いいんだ?」
「確認したかっただけだし」
「ここにいるってことを?」
「そう。確認さえできればそれで──」
「何だ、医学生くんがカデット坊やと何してる?」
 グラディスが帰る素振りを見せかけた時、ちょうどキリー軍医がやって来た。ランチタイムだから仕事を一時切り上げたんだろう。ああ、って感じでグラディスが頷く。
「いた」
「いたよ」
「いつもここに?」
「用事がある時ならいつでも。多分、しばらく通う」
「ありがとうございます、サー」
「ご苦労さん」
 グラディスが敬礼した姿に驚いた。士官学校生の敬礼なんて、日本人じゃ滅多に見られない。それに答礼? って言うの? やっぱり、でもグラディスよりはだいぶフランクな敬礼を返したキリー軍医の姿にもびっくりした。
 白状すると、びっくりするよりかっこよすぎて見惚れた。戦争は嫌いだし軍人も嫌いだけど、いい男が普段は見せないポーズをしたらもっとかっこよく見えるのは仕方ないと思う。たぶん。後で岡本先輩に聞いてみようかな。──やめよう、絶対からかわれるから。
 グラディスはそのまま帰った。本当にキリー軍医の居場所を確認しに来ただけみたいだった。
「カデットって?」
 当然のようにランチに誘われて、医局中の視線を感じながらも、断る理由がないからキリー軍医に付いて行く。朝と違って病院の食堂だけど、わたしの自炊よりずっとバランスの良い食事ができる。ボンカレーとチキンラーメンはどうしてアメリカにまだ進出してないんだろう。きっと世界中の食卓征服だって簡単なはずなのに。
「士官学校生のことだよ。生徒って言うこともあるけど、それは海軍かな」
「陸と海で違うんだ?」
「空も宇宙も違うな。でもまあ、カデットはどこも共通してる」
「宇宙?」
 わたしが思わず笑うと、キリー軍医は「心外だ」って顔で言った。
「いや、うちの国はあるんだよ、宇宙軍。知らない?」
「本当に?」
「本当。まあ、空軍内の構成だけどね」
 それからキリー軍医は少し、軍について教えてくれた。できるだけ面白い部分だけを話してくれているのはよく分かった。そういう気遣いをしてくれるのが嬉しかった。
 この人、いい人だ。素敵なひとだ。そう思えるのが嬉しい。
「に、しても。カデット坊やか」
「──さっきの彼?」
「そう。随分若かった。あの髪の長さなら2回生だろう。1回生だと丸坊主だし、それより上だとみんなもっと洒落てるから」
 キリー軍医はランチプレートのサーモンを口に入れて、少し笑う。わたしも何となく笑ってしまった。さっきの彼の顔立ちじゃ、丸坊主よりも少し長い方が似合うような気がした。
「午後はやっぱり大学の図書館に?」
「うん。午前中に見たオペのレポートを書くかもしれない」
「どんな天才のレポートになるんだろうな」
「ならない。普通だよ」
「普通? ご謙遜を」
「からかわないで」
 少し、わたしの語調が強くなったかもしれない。ご謙遜、って言われて何だか嫌だったから。するとキリー軍医はわたしの手を取って、ごめんね、って言った。手を取られたのが初めてだって気付いた。──ううん、肌に触れたのが。
 少し乾燥した指先の感触は優しくて、わたしの肌に馴染む。あたたかくて好き。そう思ったから、慌てて手を引っ込める真似はしなかった。
「怒った?」
「怒ってない」
「怒ってくれても良かったな」
「何それ、変なの」
 口説いているはずの女を怒らせたいなんて、変な男。でもきっと、これもこのひとの駆け引きなんだ。嫌な気持ちじゃなかった。少しくすぐったくて、でも、ねえ、あなたってわたしのこと好きなんでしょう、って得意な気持ちにさせてくれる。
「怒ったらお詫びができる」
「お詫びなんていらないけどね」
「ああ、いや、言い方を間違えた。お詫びにかこつけて『夜の食事はマンハッタンに行こうよ』って言える」
 マンハッタン。貧乏な留学生には無縁の場所だ。でも夢みたいな都会の真ん中で、不夜城のように輝き続ける街に憧れない留学生なんている? きっといない。わたしだって、もちろん。
 行きたい、って言おうとしたけど、すぐにわたしは丸っきりこういうことに向いていないんだって分かった。馬鹿なこと言っちゃったから。かまととぶってる鬱陶しい女子大生みたいに!
「約束の時間から行ったら」
「うん?」
「帰りが遅くなる。朝から大学だから、あんまり遅いのは」
 我ながら呆れるくらい、こういうことに向いてない。
「なるほど、確かにね」
 キリー軍医にも呆れられるかな、どうだろう、って思ってたら、少し笑われた。でもそれもかっこよくて、それから、まだ手が重ねられていることに安心した。呆れたらきっと手を放されているはずだから。
 それから、キリー軍医は言った。
「朝、どこにいても間に合うようにキャンパスまで送って行くよ。どう?」
 それって、──……つまり、朝まで──
「早い! それはまだ早い!」
「陸軍野郎って本当に手が早いわね!」
「年の差を考えろよ、アジア人は若く見えるんだ!」
「下手したらホテルのフロントマンに警察を呼ばれるわよ!」
 わたしは飛び上がりそうになりながらびっくりした。わたしよりも早く、周りの人たちが一斉にキリー軍医に突っ込みを入れればそりゃびっくりもする。それまでわたしたちのことなんて見てもいなかったのに!(って思ったけど、本当は見られてたんだろうか?)
 キリー軍医は天を仰ぎ、うるせえな、あんたたち野暮すぎるだろう、ってブーイングに言い返してる。わたしは熱くなった顔が早く冷えてくれればいいのにって思いながら、ランチプレートの残りを片付けにかかった。味なんて分からなかった。
「あの、キリー軍医?」
 笑顔で颯爽と現れたのは岡本先輩だった。どこにいたんだ、この人。
「『うちの』ハザマとお出かけのご予定があるみたいですけど──ええ、信じてますわ! 日付が変わる前に家に! い・え・に! 送って下さるって!」
 笑顔。すっごい笑顔。
 でも分かる。
「……イエス、マァム」
 キリー軍医がそう返事せざるを得ない笑顔は、表情筋だけで作られてたって。