次の瞬間にすべてが終わるなら 02

「あんなにけしかけてたくせに、ちょっと白々しいんじゃありませんか」
 さすがにキリー軍医が気の毒で、図書館へ向かう道すがら、わたしは岡本先輩にちょっとばっかりの苦言を呈した。すると岡本先輩は歩きながらわたしの肩に自分の肩を軽くぶつける。女の子同士のボディタッチってやつ? 案外嫌いじゃないかもしれない。
「うまく行けばいいと思ってるわよ?」
「じゃあ、どうしてあんな──」
「だからって、12歳も年上の、しかも国籍も文化も違う男性に、そんなにさっさと食わせるわけにはいかないじゃない」
「食われるって──」
「わたしはあなたの先輩で、あなたはわたしの後輩。外国でわたしがあなたの安全に気を配るのは当然だと思わない?」
「そんなもんです?」
「逆の立場なら、あなただって同じこと言うわよ」
 そうかな。そんなこと──……ああ、でも、そうかも。異国の地で自分よりも年下で、しかも(たぶん)危なっかしい後輩がいれば、やっぱり気になって世話を焼きたくなるのかも。
「先輩」
「なあに」
「ありがとうございます」
「やめてよ、間さんに言われると変な気分!」
「何です、そりゃあ!」
 二人してわあわあ言い合いながら図書館へ歩く。途中で顔見知りの講師や学生に声をかけられて、少し立ち話なんかもして、それなりに楽しい。この時間が嫌いじゃないわたしに気付く。──なんだか、そう、充実した学生って感じで。
 図書館に入ろうとしたとき、わたしたちをじっと見ている男に気付いた。ううん、わたしたちじゃない。わたしを見ている。
 わたしは息を呑んだ。その男は明らかに、医大のキャンパスに相応しくない、どこかしら尖った──そして澱んだ空気をまとってる。目が鋭い。見ている。
 見ている。
 わたしを。
 男がわたしに向かって歩き出す。
 いやだ。そう思った。いやだ。嫌。いや。──嫌だ。まだ──まだ!
 その瞬間だった。
 ぱちん、と何かが弾けたような音がした。
「すみません!」
 何の音か判断できないうちに、唐突に、とても明るい声がわたしを恐怖──焦燥感? ──から引き戻してくれた。
 はっとして顔を上げたらヒスパニック系の男性が立っていた。迷彩服を着ている。軍人だ。でもあまり地位が高い人じゃないってことは雰囲気ですぐ分かった。とても若くて、たぶんわたしとあまり歳が変わらない。彼はわたしに向かって笑いかけた。
「ええと──お医者さん? かな?」
「──クロオ・ハザマ」
 わたしは反射的にそう答えていた。彼はまた笑った。でも、さっきとは違った笑い方だった。どこかしら安堵したような笑い方と言えばいいのかもしれない。
「ああ、ドクター・ハザマ?」
「医者じゃない。留学生」
「ふうん?」
「ちょっと」
 ずい、って擬音が文字になって見えたような気がした。それくらいの強さで岡本先輩がわたしと彼の間に入った。
「どちらさま? 彼女を知っているの? 何かご用? わたし、彼女の先輩なの。彼女は人見知りだから、わたしが代わりに話を聞くわ」
「いや、──失礼しました。知り合いに似ていたから、つい」
「知り合い?」
「正確には、知り合いの知り合い、かな?」
「あなた──」
「あの」
 先輩が彼を詰問する前に、わたしは言った。たぶん大事なことなんだと思った。
「なんて呼べばいい?」
 先輩は驚いたようにわたしを見る。人見知りのわたしがこんなことを言えば、さっきのカデットの時みたいにそりゃあ驚くだろう。
 彼はふっと笑った。
 明らかに、安堵の笑い方だった。
「ベネット」
「そう」
 だからわたしは言った。
「カデット。キリー軍医も、わたしも会った」
 ベネットは僅かに真剣な顔になり、それからまた笑顔を浮かべて言った。
 その笑顔が、本当に、本当に──ひとは心底安心すると泣きそうな笑顔になるんだ、って分かるくらい──心からのもので、わたしはこの彼を嫌いになることは難しいかもしれない、って思った。
「ありがとう。どうぞ良い時間を」
「あなたも」
 それからベネットは岡本先輩に丁寧に詫びると、そのまま歩いて行ってしまった。
 そしていつの間にか、あの澱んだ空気をまとった男が消えていたことに気付いた。
 ああ、よかった。
 そう思った。
 よかった。
 わたし、まだここにいたいんだもの。


 岡本先輩は自分の研究があるからと、早めに図書館を出て行った。「変なことをされそうになったら大声を上げて逃げるのよ!」って、ちょっと強い口調でわたしに言い含めて。きっと彼女をお節介だと言う人はいるんだろうけど、わたしは嬉しかった。心配してもらえることは幸せなんだと思うから。
 閉館の20時半より少し前、待ち合わせのカフェに行く。キリー軍医はもうそこにいて、オープンエアの席からわたしを見つけて軽く手を振ってくれた。ちょっと恥ずかしかったけど、わたしも振り返した。すごくかっこよくって、こんな人がわたしを好きだなんて嘘みたい、って思った。
 でもそれから、生来の──性格かもしれない──マイナス思考がちょっとばっかり顔を出した。わたしを好きじゃないかもしれない。アジアンの小娘を引っかけて、留学期間中だけ遊んでやろうって考えてるのかも。見た目がこれなんだから、実は露骨にルッキズムが興隆するこの国なんだから、何があったってきっと彼の味方をする人が多いに違いない。──『変なことをされそうになったら大声を上げて逃げるのよ!』──でもそんなマイナス思考、彼がわたしに開口一番にくれた言葉でどうでも良くなった。
 わたしはきっとそんなマイナス思考を楽しみたかったんだ。つまらないけどお洒落な、よくある恋愛映画のヒロインみたいに。
「胃袋はマンハッタンまで我慢はできそう?」
 つまらなくてお洒落な恋愛映画なら、こんな台詞は言われない。わたしは笑った。
「美味しいものが待っててくれるなら」
「こんな格好で入れる店に限るけど、努力するよ」
 こんな格好で、って言われても、キリー軍医は朝から迷彩柄の軍服だった。いわゆる軍人の証明。この国はファッションで迷彩柄を身につけることは禁止されている。そして軍人への敬意がとても高い国だ。この服を着ているだけで、そしてこんなに恵まれた容姿なら、きっと色んなところで優遇されることは容易に想像が付いた。たとえ隣にわたしみたいなツギハギの女がいたって。
「いつも迷彩服じゃないよね?」
「もちろん。仕事着だよ」
「私服はどんなのを着てるの?」
「うん? ──うーん、普通。休みの日にしか着ないから、あまり数もないし」
「見てみたい」
「そう?」
「うん」
 わたしにしてはダイレクトな誘い方だったと思う。休日もあなたに会いたいの。そう言ったも同然なんだから。
 キリー軍医はまるで「分かっているよ」って言わんばかりに、優しく微笑んでくれた。
「日曜日は休みだ」
「うん」
「今日の夕飯で見切りをつけられなければ、日曜日も誘えるかな」
 ねえ、あなた、わたしのことが好きなんでしょう。
 そう思わせてくれる男が、本当に、本当に素敵だと思った。


 マンハッタンは平日でもきらびやかで、アジアの端っこから来た留学生の目をぐるぐるに回すくらいに刺激的で、歩いているだけなのにすごく興奮してしまいそうで、あまりそういう興奮に慣れていないわたしは、キリー軍医が予定していた店に着く前に疲れてしまった。もちろん態度に出すような真似はしていなかったつもりだけど、名医と言っても過言じゃないキリー軍医の目はごまかせなかった。
「明日明後日に閉店するわけじゃないし、俺は明日も明後日もきみを誘う。つまり今日じゃなくたって構わない」
 世界有数の大都会、そして観光地の空気ですっかり疲れ果てたわたしを気遣ってか、キリー軍医はそう言って笑ってくれた。
 結局、キリー軍医が予定していた店じゃなくて、ベンダーのホットドッグとジュースのディナーになる。歩きながら食べるなんて、日本じゃ眉を顰められそうなことをした。それだけで楽しかった。
 でも、わたしは充分だけど、きっとキリー軍医のディナーとしては不釣り合いだ。
「ごめん」
「何が?」
「わたし、思ったより田舎者だったみたい」
「俺だって初めてここに来た時はそうだった。気にしないで。──この街のベンダーは観光名所でもあるんだよ。経験しておくのも悪くない」
 観光なんて全然していないだろう、ってキリー軍医は言ってくれる。ああ、すてきなひと、ってわたしは思う。
 すてきなひと。
 まるで、わたしをつまらない恋愛映画のヒロインにしてくれるようなひと。
 つまらない恋愛映画は雲の上にいるような男性に見初められたヒロインが幸せを噛み締める。観客のことなんてどうでもいい。
 だからわたしは今、幸せだって思える。
 ランチタイムに手を重ねただけで、ほかのタイミングで一切、本当になにも肌に触れていないけど。
 それでもわたしは今、幸せだって思えるし、──ああ、このひと、わたしのことが好きなんだ、って思える。
「そういえば」
「うん?」
「図書館に行く時に」
 ベネットの話をした。キリー軍医は聞き終えるまで質問をしなかった。やがて彼は頷き、ああ、そうか、と言った。
 それからわたしたちは少しの間、本当に少しの間だけ見つめあった。
 何かの意思を確認するように。
 やがてキリー軍医は静かに言った。
「──きっと」
「うん」
「それくらいの年齢なら、士官学校を出ていれば少尉だね。どんな階級章だった?」
 わたしはまた、少しキリー軍医を見つめる。キリー軍医はふっと笑いかけてくれた。だから、ああ、と思った。
 ああ、あなたも。
 あなたも、まだここにいたいんだ。
「階級章?」
「ここについてなかった? 形は違うはずだけど」
 キリー軍医は自分の右腕を指してみせた。迷彩服の上に縫い付けられたそれは銀色で、2枚並んだ長方形だった。どの階級を示すのかわたしには分からなかったけど、記憶の中のベネットのものと色と数が違うことだけは分かった。
「ブロンズで、1枚だけだった」
「ああ、じゃあ少尉だ」
「それは?」
「うん?」
「あなたは?」
 キリー軍医はわたしをまじまじと見たあと、それから苦笑した。
「言ったことなかったっけ」
「知らないってことはそうだと思う」
「大尉」
「すごいの?」
「軍医じゃ普通だし、これ以上はほとんど出世しない」
 それから少しだけ、階級について教えてくれる。わたしがあまり興味を持たないと思ったのか、簡潔な説明だった。でも最後に、小さな声で付け加えた。
「通達が来た」
 わたしは首を傾げる。キリー軍医は静かに続ける。
「ベトナムの功績が評価されてね」
 ベトナムの──そう。
 そうなんだ。
 何も答えないことにした。
「来月、昇進する。──軍医じゃそこそこの出世だ」
 きっと、つまらない恋愛映画のヒロインだったら破顔して言うだろう。素敵、素晴らしいわ、おめでとう、あなたの功績が認められるなんて──
 だから言った。
「素敵」
 キリー軍医はわたしを見つめる。ふたつの青い瞳の中にいるわたしは笑っていた。
 好きな男が栄誉を手に入れる話を聞いて喜ぶ、ヒロインが笑っていた。
「素敵じゃない?」
「そうかな」
「おめでとう」
「──ありがとう」
 キリー軍医が微笑んだ。ああ、素敵、と思った。
 わたしが好きな男は、軍医として栄誉を手に入れるすごい人で、医者として本当に素晴らしい人で、そしてこんな見た目で何の取り柄もないわたしが好きだっていう悪趣味な男で──でも、それでもいいって言ってくれる、夢心地にさせてくれる人で。
 素敵。
 なんて素敵。
 わたしはきっと、こんな恋愛に憧れていたんだ。

 わたしは。
 わたしは──憧れて──

 ──決して手に入らないと知っていたから──

「移動しよう」
 不意にキリー軍医は言った。同時に肩を強く抱かれた。どうしたの、と言うまでもなかった。
 夢のようなわたしの世界の隅に、明らかに異質な存在が入り込んでいる。鋭い目をした男。ベネットに会う前にキャンパスに現れた──あの──
「奇遇であります、軍医殿」
 ぱちん、と何かが弾けるような音が聞こえたような気がした。あの音だ。ベネットが現れた時の。顔を上げると、きっと丸坊主が似合わない、あの赤毛の士官学校生がいた。病院で見た服装のままだった。
「平日なのに寮から外出できるのか? よっぽど上手くやってるんだな」
 わたしが何か言う前に、キリー軍医が言った。少し笑った声だった。士官学校の2回生は、少しだけ眉を跳ね上げてみせた。
「お声掛けして大変失礼致しました」
「いや、構わない」
 感謝してもいいところさ、とキリー軍医は小声で言った。わたしは何も言えなかった。グラディスも返事をしなかった。
「今後」
 グラディスは言った。
「お見かけした際、お声掛けした方がよろしいですか?」
 わたしたちは全員、言葉を控えた。今ここにいる3人全員が黙った。
 言ったのはキリー軍医だった。
「貴官がここにいたいと思う間であれば、いつでも」
 また沈黙が下りる。やがて口を開いたのはグラディスだ。わたしは自分を卑怯だと思った。
 彼らに判断を委ねる自分が、
 まだこの世界に揺蕩っていたいと思う自分が、
 卑怯だと思った。
「かしこまりました、サー」
 上官への──士官学校生でもそういう意識があるんだろう、って思った──敬意を貫くように言ったあと、士官学校生は軽く敬礼をする。その後ろにベネットがいたことに初めて気付いた。彼はわたしの視線に気付かない振りをしていた。グラディスを──士官学校生だけを見ていた。するとグラディスはわたしの視線に気付いたのか、わたしに向かって言った。
「後ろにおられる少尉殿が、僕の外出許可を申請して下さったんだ」
「なるほど、事情が理解できたよ」
 キリー軍医は少し笑った。わたしはその事情とやらは分からなかったけれど、士官学校生のグラディスは全寮制で、きっと平日の外出が難しいこと、それから、少尉の立場のベネットがグラディスの外出許可を取ったんだろう、ってことは何となく予想がついた。
「何かあっても」
 グラディスは続けた。
「お役に立てることは少ないと思います」
「お互い様だと思うよ」
「左様でございますか」
「分かったよ。もう行ってくれ」
「失礼致します、サー」
 きっと完璧な敬礼だって言われるんだろう、ってわたしでも分かるくらいに見事な敬礼をして衆目を集めたあと、グラディスは身を翻してベネットの方へ歩いて行った。ベネットはわたしとキリー軍医に目で挨拶して、グラディスと連れ立って姿を消した。
 何を言おう。どうしよう。わたしの肩をまだ抱いたままでいるキリー軍医に、わたしは何か言いたかった。でも何を言えばいいのか分からなかった。どうしよう──迷っていたら、キリー軍医が優しく言ってくれた。
 本当に優しく。どうしてそんなに優しいの、って思ってしまうほどに、優しく。
「士官学校は基本的に週末しか外出できないんだ。ベネット少尉の申請があったとはいえ、平日の外出許可がもらえる彼は相当優秀だよ」
「そうなの?」
 そう答えられた自分は悪くない。そう思えた。
 そう答えて、キリー軍医が誘導したかった方向へ会話と意識を向けられた自分は悪くない。
「まったく」
 不意にキリー軍医は苦笑した。わたしの肩を抱いたまま、腕時計を眺めている。わたしもそれを覗き込む。覗き込んだらキリー軍医の胸に頬を寄せるような姿勢になった。
 さすがに近すぎるかと思って離れようとしたけど、さりげなく、でも明らかに意志を持って、肩を抱く手に力が入ってそれを止めた。だからわたしは動かなかった。腕時計が23時を指していて、もう帰らなきゃいけないと思いながら、キリー軍医のにおい──香水だろうか──に気付いて頭が混乱する。
 ねえ、ねえ、って、つまらない恋愛映画のヒロインが騒いでる。──ねえ、わたしを好きな男がわたしの肩を抱いて離さないの。それから、彼ってとっても素敵な香りがする。どうしよう、もう23時なのに。帰らなきゃいけないのに。どうしよう。
「家まで送るよ。日が変わったら女軍曹に懲罰を喰らうからね」
 岡本先輩のことだ。わたしは笑って、でもどこかで失望感もあって、自分でも分かるくらい露骨な──でもわざとやろうと思ったわけじゃなくて──上目遣いでキリー軍医を見上げた。軍医はとても、とても優しく笑った。見惚れるくらいかっこよかった。だからわたしは見惚れた。ああ、ろくに恋愛経験のない女子大生なんてこんなに簡単にぽうっとなっちゃうんだ、ってくらい簡単に、本当に。
「可愛いね」
 低くて甘い声が小さな声でそう言って、わたしの聴覚から入り込んだと思ったら、わたしの顔はあっと言う間に熱くなる。赤くなったんだ。恥ずかしい。慌てる間もなくキリー軍医の顔が近付いてきて、顔が──
「……っ」
 本当に、恋愛をろくに知らない女子大生ってやつは。
 間抜けだ。
 ぎゅ、って目をつぶって身体を硬くするなんて!
 キスされるって思ったからって!
 ふ、って少し笑ったような息を吐いたキリー軍医は、そのまま顔を離した。ああ、絶望。ろくすっぽ恋愛経験がなくて間抜けな姿を晒した女子大生は心底絶望だ。
 キスくらい、今時日本の高校生だってしてる。中学生だってしてるかもしれない。それなのに──この間抜けな女子大生は。
 わたしは。
「可愛い」
 キリー軍医の声は笑っていた。嘘、ってわたしは呻いた。そうしたらまた、可愛い、って笑いながら言われた。肩を抱いた手は離れなかった。
「送るよ」
「……うん」
「そんな顔しないで」
 どんな顔してるんだろう、わたし。赤いんだろうか。まだ顔が熱いからきっとそうなんだろうな。
「タクシーを拾うよ」
 キリー軍医はわたしの肩を抱いたまま歩き出した。きっと素敵な時間をくれようとしたのに、それを台無しにした間抜けで馬鹿な留学生に怒ってる様子がなかった。
 だからわたしは安心できた。かまととぶってる女子大生の本心が呟いていた。
 大丈夫、わたしのこと、まだ可愛いって思ってる。
 なんて傲慢なんだろう。とても口に出せない傲慢な感情。
 でも、思った。
 これも楽しい、って、思った。

 怒ってないって分かって、ああ良かった、って安心した自分なんて、ほんの一瞬で忘れられるくらいに楽しかった。

 優しい男としか付き合ったことがない。
 今ここにいる間抜けな留学生は、
 怒ったからって殴るような男を知らない。
 だから、

 わたし、優しい男しか、知らないの。


 キリー軍医はそのままわたしを家の前まで送ってくれた。ありがとう、って言う前に、おでこにキスしてくれた。やっぱり顔が熱くなったけど、さっきみたいに間抜けなことはしないですんだ。タクシーの中にいる時からずっと手を握ってくれていて、やっぱりわたしにキスしたいんじゃないかな、映画みたいに別れる時にしてくれるんじゃないかな、って思ってたから。
 きみが家に入って鍵をかける音がするまで帰れないよ、なんて、やっぱり映画みたいなことを言うから、わたしはまた顔が熱くなって、でもちょっと得意に──まるでわたしが本物のヒロインみたいで! ──なって、今度こそありがとうって、それからおやすみなさいって言って家に入って、少しもったいぶってゆっくり鍵をかけた。しばらくすると足音が遠ざかって行った。
「あら、本当に帰って来た」
「何です、そりゃあ」
 ヒロインの余韻をぶち壊すがごとく、ううん、これもヒロインが進めるストーリーには必須の展開かもしれない。寝間着姿の岡本先輩がリビングから顔を出す。
「帰るように言ったのは先輩じゃないですか」
「そんなこと言ってないわよ。キリー軍医に日が変わる前に送って下さいね、って言っただけ」
「同じことだと思いますがね?」
「間さんが帰りたくないって駄々を捏ねちゃいけないなんて言わなかったはずだけど?」
「──だからね、わたしをからかうの、いい加減にしときましょうよ」
「それよりどうだったの。どこに行ったの?」
 岡本先輩は遠慮がない。興味津々の顔でわたしをリビングに引っ張り込む。普段はこんなことに興味はないって顔をしてるくせに。誰が話すもんか、そんなプライベート。
 そう思ってたのに、何だかんだでわたしは話してしまった。岡本先輩は途中で茶々を入れたり感嘆の声を挙げたりして、わたしはそのたびに顔が熱くなって、でも本当は聞いてもらえるのが嬉しくて、二人して随分遅くまでリビングで恋愛談義を繰り広げてしまった。


 次の日の朝も迎えに来てくれた。約束はしていなかったけど、きっと来てくれるんじゃないかな、って思ってたからすごく嬉しかった。ドアの向こうにいるキリー軍医に向かって自分でも驚くくらい可愛く「すぐ行くから待ってて」なんて言っちゃって、朝っぱらから岡本先輩ににやにやされた。知らない、気にしない。
 昨日と同じように一緒に歩いて、カフェに入って朝食を食べて、今日も職員用のエントランスで別れた。仕事は仕事、エントランスに入ったらプロの顔、わざわざ医局まで送らない。そんな感じ。それもかっこいい。
 でも急にわたしの方に戻って来て、何かと思ったらおでこにキスされた。それからまた歩いて行ってしまった。わたしはどうしても熱くなる顔を何とか冷ましたくて、効果がないって分かってても、自分の頬をぺちぺち叩きながら医局へ向かった。見ていた人たちににやにやされた。
 お昼は医局に来てくれて、食堂で一緒に食べて、途中で小児科の若手のドクターに声をかけられた。彼はポスターをくれた。映画に行って見つけて、わざわざわたしに買ってくれたんだって。中を開いたら銀髪に近い金髪の俳優が出ている映画のポスターで、彼に似てるから好きなんじゃないかと思ってね、ってドクターは笑って歩いて行ってしまった。
 俳優に似てるって言われたキリー軍医は苦笑していた。わたしはちょっと、わたしにしてはすごく、かなり、頑張って言ってみた。
 この人よりかっこいいと思うけどな。
 キリー軍医はわたしをしげしげと見つめて照れさせたあと、ありがとう、って笑った。わたしも照れながらも笑い返した。なぜか周りから、ああ、うう、青春、なんて何人もの声が聞こえたけど、きっと気のせいか、他の話でそんなことを言ったんだと思う。オッサンのくせに、って声も聞こえた。こんなかっこいい人は全然オッサンに見えないから、うん、他の話だな。
 午後は図書館で勉強。キリー軍医は仕事の続き。図書館が閉まる前に出て、昨日のカフェで合流して、夕飯は近くのカジュアルなレストランに連れて行ってもらった。マンハッタンは日曜日に行こう、って言われて、急に休みが待ち遠しくなった。食事の後は家まで送ってくれた。別れる時にまたおでこにキスされた。先に帰っていた岡本先輩はもう何も訊いてこなかったけど、何か嫌なことがあったらわたしに言うのよ、あの人相手じゃそうそうなさそうだけど、って寝る前に言われた。
 その次の日もそんな感じで、でも確実に周囲の目も態度も変わって、わたしをからかう人はいなくなった。同期の女性陣にはあれこれ訊かれたけど、岡本先輩の尋問よりはずっと手ぬるかった。
 それから、びっくりしたことがあった。図書館を出てカフェで合流した時、彼がわたしを「医学生くん」じゃなくて、何ていうの、あの、ペットネームで。そう、いきなり「プリンセス」なんて、ザ・アメリカン! って感じの発音で呼んで。もう本当に映画みたいで。
 映画みたい。
 夢みたい。

 現実味がない、夢の中。

 夢の中にいるみたい。
 そう思っていたのに。そう浸っていたのに。
 視界の隅に、また──鋭い目をした男が映る。わたしたちに近付いて来る。
 キリー軍医が息を吐く。それから呟く。
 分かってるんだよな。どうするべきか、なんてさ。
 でもさ。
 でも──うん、分かってる、わたしも。
 でも──

 わたし、まだここにいたい。

「こんばんは、サー」
 何かが弾けるような音。男が消える。カデットの制服を着たグラディスがそこにいる。その後ろには迷彩服を着たベネット少尉がいる。
 もう慣れた。そう思ったし、それは事実だった。キリー軍医はグラディスに頷いてみせた。
「また外出許可をもらえたのか?」
「いいえ。しかし気付きました。2回生になるまで気付かなかったとは不覚でありました」
「何に気付いたんだ?」
「バレなきゃ良いんじゃね? と」
 すごく真面目な顔でそんなことを言うから、わたしは笑いそうになった。でも笑うのも失礼かもしれないから我慢した。それなのにキリー軍医が笑いながら言った。
「やっと気付いたのか。おまえさん、案外抜けてるな」
 そんなことを言うものだから、そしてグラディスが律儀に「恐れ入ります、サー」なんて答えたものから、もうたまらなくてわたしは笑い出してしまった。ベネット少尉は苦笑していた。
 グラディスとベネット少尉と別れて、二人でわたしの家まで歩く。
 途中で自然に手を繋いでくれた。最初の日、帰りのタクシーの中で繋いだきりだったから嬉しかった。明日の朝もきっと繋いでくれるって思えた。
 朝、きっとキリー軍医はわたしを迎えに来てくれる。明後日も。きっとその次の日も。
 ずっと。
 つまらない恋愛映画にもならないようなことを、ずっと。
 つまらない恋愛映画にもならない。でもきっと──わたしが──わたしたちが──幸せだと思えることを。
 別れ際、頬にキスされた。
「今週の日曜日」
 平静を装おうとして失敗し、顔をこの上なく熱くしているわたしにキリー軍医は言った。
「誘ってくれる?」
 そんなのもちろん。恋愛映画のヒロインみたいに可愛く、でも主人公らしく誘ってみせる。
「も、もち、もちろん!」
 失敗。無理。つまらない恋愛映画のヒロインにすらなれないのか、それともコメディか。いずれにせよ、わたしはロマンティックな恋愛映画のヒロインにはきっと向いてない。でもキリー軍医はわたしを笑わなかった。どうやらコメディにならずにすんだ。
「ありがとう。行きたい場所があれば考えておいて」
「うん」
「おやすみ」
 もう一回、今度は反対側の頬にキスをされる。また明日ね、と言われて、わたしは頷くしかなかった。
 明日は唇にキスされるかもしれない。
 してくれるかもしれない。
 して欲しい、と思った。
 つまらない恋愛映画なら、きっとそうだ。
 日曜日まであと3日。
 ほとんどの人にとってはつまらない恋愛映画でも、わたしと、それから、彼にはこの上なく満ち足りた時間を過ごせる幸せが続く。
 きっと。