起きる前のキスなどといった浪漫的なことは不可能だった。ベッドにBJを運んだ後に眠れず、6時頃、テラスのカウチで時間を潰していたキリコの元へ寝惚け眼のピノコがやって来て、「ちぇんちぇいが点滴してほちいってゆってるわのよ」と告げてまず驚いた。すわ体調を崩しでもしたかと寝室へ急げば、死にそうな顔でベッドに沈むBJがかろうじて左腕を突き出し、「キリコ先生、抗酸化ビタミン点滴して下さい」と言って来る始末だ。
疲労回復に即効性がある点滴だが、生憎キリコの医療道具にはそんなものは入っていない。ないと言うと「この無能ヤブ医者早漏野郎」ときたものだ。ピノコの前であるにも関わらず反射的に「早漏じゃねえっつってんだろうがこのクソビッチ」と言い返してしまったことを反省しつつ、代わりにアミノ酸とビタミンBをぶち込んでやった。これでも充分効果がある。
それから支度で大騒ぎだ。BJはピノコに着せる服の選択に忙しく、ピノコはBJが選ぶ服が好みに合わず、そこでぎゃあぎゃあとひと騒動が起きる。最終的にキリコが「こっち!」とピノコが選んだ服を指してその場は終了したが、次はピノコのリボンの色でまた同じ騒ぎが始まる。遂にキリコが「お嬢ちゃんの支度は俺がするから先生は風呂! 着替え!」と強く主張し、控えめに見守っていたバトラーが「ではお風呂へ」とBJを促して終了した。
結局BJはいつもの服を着た。ピノコは残念がったが、キリコは満足した。リボンタイを締めてやりながら、やっぱりこの服が一番似合うよ、と言ってキスをしておく。BJはふんと強気に鼻を鳴らし、起きる前にし忘れやがって、と言って、先生が先に起きたんだろうとキリコを苦笑させた。カドルズもハニーベアもそこにはもういない。終わったんだな、とキリコは理解し、自分の着替えをしてしまうことにした。
テラスで朝食とキリコを待っていたBJは、キリコがアスコットタイを締め、スーツの上着を手にしている姿を見て首を傾げた。どこかへ行くのか、と訊かれたので、シンポジウムに、と短く答える。BJは唇をひん曲げて、嬉しいという顔を隠した。
シンポジウムは非公開だけあって、しっかりした会場とは言い難い場所で行われた。医療系のシンポジウムが開かれるなどとは誰も考えられないような地下の盛り場だ。広さだけは充分で、収容人数には問題なかった。
先に来ていた非合法の医者や関係者の中に見知った顔を見つけ、BJとキリコは何かと挨拶に追われるはめになる。中には非合法ではなく、正規の医者もいる。表舞台の知識だけでは満足できない医療馬鹿ばっかりさ、とキリコに教えられ、ピノコは「ちぇんちぇいみたいなのよさぁ」と妙な感心の仕方をして周囲を笑わせた。そしてここでは誰もBJを悪く言わないことに気付き、ピノコは嬉しくてたまらなかった。
不意に会場の空気が変わる。アウトローに慣れた参加者たちは面倒そうに、だが半ば期待する顔で出入り口を見、正規の医者たちは登場した首相と議員に驚いた。そして首相が真っ先にBJに声をかけた時、会場はどよめく。
「先生、おはよう。ご機嫌いかが?」
「おはよう、おばさま。お陰様で。おばさまのバイタルチェックをしてしまいましょう」
首相にしっかり親し気に対応するBJに、転んでもタダでは起きない女だとキリコは心底感心した。首相もその態度が気に入ったのか、「お願いね、私の可愛い抱っこちゃん」と言ってBJをハグして更に周囲をどよめかせ、BJの営業効果を上昇させた。聡い鉄の女は自分に比べればまだまだ若い小娘の考えなど御見通しで、それが可愛いと思って乗ってやったのだ。
「こちらの彼はあなたとドクターが救った議員の──」
「よろしく」
キリコが暗殺する予定だった議員は二人の闇医者と握手をする。二人に感謝していることは明白で、今度ぜひゆっくり話をしたい、と言った。
「これから世界の医療は変わって行く。あなたたちの意見をぜひ聞かせて欲しい」
「機会があれば」
彼はIRAのテロ対応と共に、医療にも力を入れている政治家だった。BJとキリコは彼の申し出を拒否する態度は見せなかったが、今後関わることはないだろう、とも思った。もし誘いがあっても断らなければならない相手だった。テロ対応、医療。これは決して両立できはしない。不発弾に全てを吹き飛ばされた女と、地獄を見続けた元軍医はよく分かっていた。
数人のSPが鬱陶しいことは確かだが、シンポジウムは熱気の中で開催された。非合法であっても医療関係者である彼らは熱を込めて自説を展開し、質疑応答で議論を楽しみ、普段は受け入れられる場所がない情熱を思う存分発散する。キリコとしても参考になる説や意見を耳にし、来て損はなかったようだと思うことができた。
ピノコは分かる部分だけを聞き、分からない部分は後でBJに訊こうと決めていた。何よりも、BJが質問をした途端、周囲が一斉に耳を傾けたり、発表者に同情の視線を向ける光景が楽しくてたまらない。BJが楽しそうなことも嬉しくてたまらないし、キリコと目が合った時、同じことを思っているのだと分からせるように微笑んでくれたことも、とてもとても嬉しくてたまらなかった。
BJの発表は案の定、まず配布された資料を見た参加者たちが目を疑うところから始まった。キリコが改めて見ても嘆息する密度と完成度だ。もはやシンポジウム用の資料の範疇を超えていると言っても過言ではなかった。
キリコが驚いたのは、それだけの密度の資料を完全な時間配分で発表して行くBJの進行能力だった。今日の明け方まで作成していたのだから、リハーサルの時間もなかったはずだ。資料の中から要点を更に抜き出し、説明し、完全な構成で展開させていく。会場の全ての者が引き込まれ、資料に線を引き、BJの言葉に頷いたり首を振ったりする。
それから質疑応答になった。あちこちから手が上がり、司会者が指名した者から質問が始まる。BJは簡潔に、だが的確に答え、時に議論となりかけても譲る姿勢を見せ、数ある質問を捌くことに集中しているように見えた。
そしてキリコはひしひしと感じる。視線だ。あらかた質問が出尽くした頃、会場中から期待に満ちた視線が集中していることに気付かずにはいられなかった。
「他に質問は」
司会者が言った。キリコは動かなかった。
「では、質問がもうなければ私はこれで──」
言いながらキリコを見るものだから、大きく溜息をついて、手を挙げるしかなかった。
会場が嬉しそうなどよめきに包まれ、首相が「あらあら」と笑い、議員が「ほう」と身を乗り出し、ピノコはどっちが勝つのかと急に緊張してしまう。キリコが聞けば「勝負じゃないよ」と言って苦笑したかもしれない。
凄まじいと言うべきだった、と参加者の一人は後でそう回想した。最近良い仲なんじゃないかと噂されていたモグリの外科医と安楽死医だったが、そんな噂の方がどうかしていると思うような大激論に展開したのだ。BJが述べた終末医療に関する術式についてキリコが大いに異論を唱え、それに反論するBJが更に話を展開させて行った。筋から逸れるわけではなく、的確に展開して行くスピードがあまりに速く、理解を脱落する者が出る始末だ。
キリコの反論にBJが更に反論し、またキリコが反論する。お互いに手心など加えはしない。過去に何度やり合ったか分からないほど繰り返した議論でも、今、どこまでも更に広がって行く。自分の主張の矛盾にも気付きかける。それでも言葉の、声の応酬は止まらない。
認めたくなかった。根本は同じだ。きっと同じだ。お互いに思っていた。きっとわたしたちはおんなじなんだ。
あなたは、わたしは、さいごまで。
生命というものを愛する医者でいたいのだ。
認めたくなかった。認めれば酷く残念な気持ちになりかねなかった。
取るべき手段が違う。相手の手段を認められない。同じことを思っていても、考えていても、目指していても、同じ生命を愛したとしても、わたしたちは永久に平行線でしかいられない。認めたくなかった。
ああ、認めたいなどと誰が思うものか。
こんなに、──目の前に、こんなに──素晴らしい医者いるのに。添うことができないなんて。添ってもらうことができないなんて。
認めたくなどないのだ。
なんて残念なあなたとわたし。
わたしとあなた。
でも、今、ああ。
あなたとわたしは正面から向き合っている。心から力を、言葉を尽くして、なんにも誤魔化さないでぶつかり合っている。
すごい熱量。何て熱い。何て。
あなたもわたしもひどい汗をかいているね。
熱くて熱くて。
溶け合ってしまいそう。
きっと溶け合っている。
あなたとわたしの境界線が分からなくなる。
ああ、何て──心地良いんだろう。気持ち良いんだろう。
「──時間です」
司会者の宣言に、会場中から凄まじいブーイングが沸き起こった。司会者は肩を竦め、自分も同じ気持ちだと示してみせる。首相が立ち上がって拍手を始めた。それはすぐに広がり、ブーイングは総立ちの大喝采に変わった。
多数の握手に阻まれ、かなりの時間をかけてBJは自分の席へ戻る。隣の席のキリコが立ち上がって右手を出したので握手をすると、彼は握ると同時に腕を強く引っ張り、左腕で腰を抱き寄せ、そのままBJの唇を塞いでしまった。会場は再び大喝采だ。
ピノコはあっちょんぷりけとやった後、でもちぇんちぇいもすぐにロクターの首にしやみついてキスをちかえちたんらから、これでいいわのよさ、れも奥たんはピノコなのよさ、と大人びた顔で肩を竦めたのだった。
「素晴らしかったわ。専門じゃない私でもとても興奮した! 次の予算はやっぱり医療研究費を増やすべきかしら!」
閉場時間までの自由歓談の中、首相とあの議員がSPたちを従え、BJとキリコに話しかけて来る。二人と話したくて囲んでいた他の参加者たちは仕方ないといった風情で遠巻きに眺めることにした。
「抱っこちゃん、ドクター・キリコ、本当に素晴らしいお医者様だわ。ロンが絶賛して当たり前ね」
「ありがとう、おばさま。後でロンにも電話をしてみる」
「そうしてあげて。私からもしておかなきゃ。いいものを見せつけられたって話もね」
首相が悪戯げに唇の前で指を立ててみせたものだから、今更恥ずかしくなったBJは「それはやめて」と赤くなって言い、キリコは咳払いをする。
「ところでね、抱っこちゃん」
「何、おばさま」
「あなたにお願いしたこと、もしかしたらすぐに実行してもらうことになるかもしれないの」
BJとキリコは顔を強張らせる。BJはマントの中にピノコを入れ、その時に備えた。首相は苦笑いをし、議員は溜息をつく。あのねえ、と首相が言った。
「私、今、背中に銃を突き付けられているの。なぜだかSPたちにね」
「内通者か裏切り者か分からないがね。私もなんだ」
議員も困ったように息を吐く。SPだったはずの男たちは二人の重要人物の背中に銃口を押し付け、一人が代表して口を開いた。
「我々は首相と議員を守るために尽力した」
「へえ?」
BJがSPたちを睨み上げながら応じる。
「だが、『たまたま非合法の集まりの場に足を踏み入れた首相たちをお守りすることが難しかった』」
「何のせいで?」
「さあ。ここには非合法の人間が山ほどいる」
「そうかい」
「逃げるなら逃げろ。捕まえる必要もない。首相と議員が死んだ事実だけあれば充分だ」
「今日はシンポジウムだ。質疑応答はOK?」
「──どうぞ」
馬鹿な連中だ。キリコは思った。──馬鹿な連中だ。普通ならもう周囲がギャアギャア騒いでパニックになって逃げだしてるだろうに。どうしてみんな静かだと思う? どうしてみんな先生の口上をおとなしく聞いていると思う? 分かっているからさ。次に起きることが。
BJが言った。
「おまえさんたち、IRAの過激派だろ?」
「そうだ」
「──SASだ!」
どこからか鋭い声が響いた瞬間、非合法の人間たちは一斉に床に伏せた。キリコもピノコを抱えて伏せたBJを身体の下に隠すようにして素早く伏せる。ピノコに「頭を挙げないでね」と穏やかに言い、BJが「ピノコ、元素記号を頭の中で順番に言って」とキリコには理解し難い教育方針を披露しながらピノコの耳を塞いだ。
人生の中で何度も聞いている発砲音がする。その音で大体の銃の種類が分かったキリコは「ああ、MP5か」と思わず口にし、すぐ隣で伏せていた男に「おお、分かりますか。実は俺も好きで」と話しかけられてしばしその体勢で盛り上がる。そろそろモデルチェンジって聞いてましたがまだこれなんですね。そうですよね、次も同じ系統なのかな。相変わらず頭上では短機関銃の音が響いている。男たちの会話を聞いたBJが「アホか」と呟いた。
一頻り銃声が収まり、「クリア、クリア!」という声が響く。SASの隊員がもう頭を挙げても良いと言っているのだ。キリコはまず自分が起き上がり、周囲を確認してからBJを、次にピノコを起こしてやった。
「みんな覆面ちてるのよさ!」
ピノコの驚愕は最もだったが、他の非合法医師たちは誰も驚かない。特殊部隊員が覆面をしていることなど、彼らの世界では常識だったからだ。そしてSASが待機していたことも大半の参加者が気付いていた。首相と議員が揃った時点で考えられる配備だった。闇の人間の感覚などそんなものだ。
隊員たちはSPに偽装したテロリストたちを殺害することなく行動不能にしただけで、非合法医師たちが「死にゃあしねえよ」「縫ってやろうか」と囃し立てる中、彼らを手際良く連行して行った。首相と議員はすぐさま避難させられたのか、既に姿がない。残った隊員たちがフロアにいる者を一人ずつ調べ、テロリストの仲間はいないか確認し始めた。
BJたち三人の前に膝をついた隊員が、一瞬だけ覆面をめくってみせた。ピノコが「ああっ!」と言う間にまた覆面が顔を覆ったが、にやりと笑ってみせた口元は、しっかりとBJとキリコにも見えたのだった。
「流石プロだね、隊長」
BJの称賛に隊長は頷く。きっと覆面の下で笑顔になっているのだろう。
「あなたたちはこのまま帰って構わない。私が保証する。どうぞご安全に」
用件だけを素早く言うと、隊長は歩き去り、次の確認を始めた。少し離れた場所にいた隊員がやはり覆面姿のままキリコに向かって軽く手を振って来た。ギルヴィットかな、と思い出し、やはり軽く振り返しておいた。
「行こう」
キリコがBJを促して立ち上がり、ピノコを抱いて歩き出す。BJは一瞬迷ったが、ぎゅっとキリコの服を掴んだピノコの指を見て、頷いてキリコの後を追った。
足止めされている他の参加者たちが、いいよなあ、あいつらどこまでコネあるんだよ、と口々に騒ぐ中、お幸せに、という言葉まで聞こえて来たような気がするが、きっと空耳だとBJとキリコは同時に思った。
「ああ、それねえ」
陸軍病院のベッドの上で、アンディは見舞いのレモンクッキーを齧りながら言った。
「前から言われてたってのは聞いたな。SPにしろ医者にしろ、IRA関連が入り込んでるんじゃないかって」
「前から?」
「でもほら、MI6の前の局長が協力してたからさ。何かと証拠が掴めなかったんだって。──これ美味いね」
「こっちも美味ちいわのよさ」
「おお、これが先生を虜にした苺のショートブレッド! ──美味い……!」
入院患者にしては元気な様子を見せるアンディは、見舞いの菓子をピノコと分け合いながら楽しそうだ。個室なので思う存分くつろげるため、ピノコはいつもの行儀の良さはどこへやら、アンディと意気投合して見舞いそのものを楽しんでいた。
「じゃあ今回は証拠が掴めたってことか?」
ちゃっかり苺のショートブレッドに手を延ばし、BJがアンディに確認する。
「俺はそこまで知らない。今回は任務から外れてたから。任務外のことは教えてもらえないんだよ」
「入院するほどの怪我じゃなかったけどなあ」
診断書を書いたBJは不満だった。キリコも同感だ。BJが齧るショートブレッドを奪って一口齧り、また返してから「見立てが甘かったか」と言ったが、アンディは少し決まり悪そうに笑った。
「隊長がね、しばらく入院しろって。軍の補償の関係でさ、入院実績があると色が付くんだよ」
「言わなくていいことを言うもんだな。流石お喋りアンディだ」
ショートブレッドを食べ終え、レモンクッキーに手を延ばしたBJが、不意に「ん」と言った。それから急に考え込む顔になり、やがて悔しそうな顔に変化する。ころころと変わる表情が可愛いな、とキリコは思った。
「もしかして──おばさまにしてやられたか」
「してやられた?」
キリコがレモンクッキーをBJの口元から奪い、やはり一口だけ齧ってまた戻す。キリコとしては「少し食べたいけど一枚はいらない」の気分に過ぎず、BJもそれを理解しているだけに過ぎないのだが、アンディから見れば「勝手にやってろ馬鹿ップル」だ。
「おばさま、シンポジウムを利用したんじゃないのか。証拠を掴めたか、確定じゃないけどほぼ掴めたからあんな非公開の──要はアウトロー連中が集まるような場を利用した気がする」
「……ああ、……ああ、そうか、そういうことか。それならいきなり首相が出席するって言い出したのも納得できる」
BJが言わんとすることを理解したキリコはつい遠い目になってしまった。随分荒っぽい手段に出てくれたものだが、なるほど、なるほど、と何度も頷きたくなる。
失敗しても良かったのだろう。BJもキリコもそう予想した。あの場でどんなことになろうが、SASが待機している以上、首相と議員が殺される心配はなかったのだろう。もし銃撃戦になって参加者に死傷者が出ても構わなかったのだろう。所詮はアウトローの集まりだ。首相たちからすれば使い捨てても構わない、そんな存在にすぎないのだ。
「してやられたなあ。俺も先生も利用されたってことか」
「ふん」
ショートブレッドを噛み砕き、飲み込んでから、BJは鼻で笑った。モグリの医者の顔だった。
「利用されっぱなしで済ませるもんか。今後、何があったって食らい付いてやる。──凄いぞ、ピノコ! この国でやり放題だ! おばさまの名前を出せば何でも一発OKだ!」
「すごいわのよさ! 利用されるもんなのよさー!」
「しょっちゅうやられたらムカつくけどな! 今回は大儲け!」
「おおもうけなのよさー!」
やった、万歳、大儲け! とハイタッチする母娘を見て、キリコはつい笑う。転んでもタダでは起きない。そして同時に、利用された悔しさ、哀しみを忘れる方法を知っている女を可愛いと思う反面、哀れだと思った自分を認めざるを得なかった。
明日は帰国だ。最後の夜はルームサービスで豪勢に。お気に入りのテラスで。一連のトラブルが片付き、シンポジウムをこなした解放感からか、BJはいつになくはしゃいでいた。ピノコも機嫌の良いBJに思いきり甘やかされ、文句なく楽しくて仕方ない。
「これで一億。美味しすぎる。この国大好き! おばさま最低だけど最高!」
正直な感想をアルコールに任せて口にするBJに、あんまり細かいことは言うんじゃないよと言いながらキリコはワイングラスを傾ける。どうせ払いはMI6だ。滅多に飲めない高級ワインを楽しんでいた。
「ちぇんちぇい、ピノコねぇ、こえ食べたいわのよー!」
「ケーキとチョコレート? アイスも? いいよ、今日はいいよ、何でも食べなさい」
普段は食事時に甘いものを欲しがると叱られるピノコは大喜びだ。バトラーは笑顔で小さなプリンセスの要求を満たし、クイーンのグラスを空けないように専念する。キリコは勝手にやりたいからと先に言い置いていたので、良い意味で放置されていて楽だった。
「言っていいか分からないんだが、言ってもいいかな」
キリコはバトラーに耳打ちする。バトラーは何かを予想し、頷いて、キリコに耳を近づけた。
「あなたの後輩たち、頼りになった。素晴らしかった」
「──最高のお褒めに与り、光栄でございます。まことに、──まことに、ありがとうございます」
バトラーの声は確かに彼のものだったが、BJやピノコが知るそれではなかったかもしれない。キリコはその声で、伝えて良かったと思えた。
今は上位のホテルマンとして生きる彼は、それでも過去を捨て切れるはずがない。キリコはそれをよく知っている。だから伝えたかった。あなたが生きた場所に今生きる彼らが、あなたの誇りある記憶を汚すことなく生きているということ。BJに言うつもりはなかった。きっと理解されないし、言っても困るだろうと知っていた。
やがてピノコが船を漕ぎ始め、BJが歯を磨いていない、起きなさいと酔った中でも言う姿に感心しながら、今日くらいはいいじゃないかとキリコは恋敵への甘さを見せる。メイン寝室にピノコを運ぶ役目を買って出た。これにもいつか慣れてしまうのだろうか、と思った。
テラスに戻ると既にバトラーは退室し、酒と少しの肴が残ったテーブルを前にBJが煙草を吸っていた。娘がいた間は毒物を我慢していたのだと思い至り、無論自分もそうだったので、隣に座って火を点ける。
「せわしなかったなあ」
BJがしみじみと言う。キリコも心の底から同意した。ほんの数日、僅か一週間程度で、随分濃密なトラブルに立て続けに見舞われたものだ。
「明日はあの夫婦を見舞ってから帰国だな。まだ飛行機のチケット取ってないけど」
「あれ、先生、まだ取ってないのか」
「いつもそうだよ。どうなるか分からないから。今回はピノコもいるからエコノミーじゃ可哀想だしなあ。直通は取れないだろうし、トランジットも待ち時間が可哀想だから一泊しようかな」
「吝嗇の先生とは思えないね」
「ピノコがいなけりゃエコノミーだし、空港で48時間でも過ごせるよ」
それから二人は話し込む。どうでもいい話ばかりだった。今回のトラブルの話題になっても、嫌な思いをしたことには触れない。上質の酒と肴を前に、商売敵と楽しい話を選んで喋り続けた。
かなりの量を飲んだはずだと言うのに、キリコは酔える気がしなかった。隣に座る女が酔った振りではしゃいでいることも分かっていた。
「あ、そうだ、あのショートブレッドとレモンクッキーも買い溜めして行かなきゃ。凄く美味しかったし、ピノコも気に入ったんだし」
「俺も買って帰るかな。あれはユリも好きなんだ」
「ユリさん? 元気?」
「たまに家に来るけど、そのたんびに小言を言って行くから元気だろ」
「何それ」
BJは笑う。その顔が可愛くてキリコも笑う。
ハニーベアと呼んでくれればいいのに。マイ・ナイトでも良かった。一言呼んでくれればいいのに。そうすれば抱き寄せてキスができる。またあのボーダーラインを楽しむことができる。
「キリコ」
BJは呼んでくれなかった。
だが、名前を呼ぶその声がひどく甘やかに聞こえて、ああ、俺はこれだけで充分だ、とキリコは思った。もう認めるしかなかった。
ああ、俺は。
この女を愛しているんだ。
「キリコ」
「うん?」
「私の話を聞いて欲しい」
「もちろん」
不思議なものだ。俺はこんなに臆病だったのだろうか。自分で自分が情けない。
ハニーベア、それともマイ・ナイトと呼んでくれれば良かった。そうすれば今きっと、何も躊躇うことなくキスをすることができた。
それでも、名前を呼ぶ甘やかな声に、キスをする自信がない臆病な自分を忘れられるほどの幸福感を覚える。
「馬鹿キリコ」
「ひどいね」
「最初から、キリコには何も関係なかった」
BJは新しい煙草に火を点けた。深く吸い、体内のアルコールを全て出してしまうように、長く、細く煙を吐き出す。
「あの子がどうなろうと、本当はキリコに関係なかった」
キリコは答えなかった。それが肯定であることをBJは知っていた。
「でも、ずっと一緒にいてくれた」
それだけでいい。キリコは思った。それだけでいい。俺はその言葉だけでいいんだ。この女は分かっている。愚かな俺が馬鹿みたいに、きっと器用に生きる人間が笑いそうな馬鹿で愚かなことを繰り返す生き方を、この女は決して笑わない。
「私に恩を売るなんて言って、そんなつもりがないのは分かってた」
BJは煙草を揉み消した。キリコはただ黙って、言葉の続きを待った。いくらでも待てる。そんな気がした。それでこの女が満足できるまで言葉を探せるならそれでいい。
「ずっと、心強かった。でも怖かった」
怖いと言う言葉に、キリコは視線をBJに向ける。髪に隠れた横顔が見たくて、アルコールのせいだと言い訳して、その髪に触れて彼女の耳にかけた。女は嫌がる素振りを見せなかった。
「いつ、いなくなるのかって。怖かった」
何を言えばいいのだろう。言わなくてもいいのかもしれない。ただ、何か言いたかった。何かを言えばこの女を安心させてやることができるような気がした。
安心させてやりたかった。こんなに短い期間に、どれほどこの女の傷の根源を見せつけられただろう。自分の愚かな行為で覗いてしまったこともあった。それを挽回できたのだろうか。俺はこの女を傷付けたままでいるのではないだろうか。
「キリコ」
女は言った。甘やかな声ではなかった。いつもの蓮っ葉な、誰をも遠ざけるようなきつい声でもなかった。ああ、と思った。ああ、これは──この女の、心底の、素のままの声なのだろう。
「最後まで、一緒にいてくれて、ありがとう」
何を言えばいいのか。分からなかった。感情のままに言うのならただ一言だ。
愛している。ただそれだけだ。思いもしなかったのだ。まさか愛しているなどと。だがそれを言うべきではない。どこかでブレーキをかける自分がいる。
今日のあの討論で思い知ったはずだ。俺たちは決して同じ立場に立つことはない。あの融合した感覚は確かにあった。思い出すだけで身体の芯まで震えるようなあの快感、きっと一生忘れはしない。
だが現実はどうだ。俺は、おまえは、あまりにも違うのだ。同じ根源であると知っても、結局は違うものが人生の表層に現れるのだ。曲げることなどできるだろうか? 俺とおまえと。信じるものを、貫くものを、愛しているという理由で曲げることなどできはしないだろう。
「先生」
キリコは言った。万感の想いを込めた。こんな声を自分が持っているなどと知らなかったほど、全ての想いを込めていた。
「俺を愛さないで」
Please。そう言った。お願い。お願い。頼むから。
「俺たちは愛し合っちゃいけない」
お願い。Please。あの店で聴いたあの歌のフレーズを思い出す。愛して欲しがる歌だった。それでもキリコは言った。分かってくれる。そう思った。目の前の女はきっと分かってくれる。
「愛してるよ」
全ての想いを込めて、言った。
「でも、俺たちは愛し合っちゃいけないんだよ」
女は答えなかった。ほどなくして静かに泣き出したことが分かったが、キリコは気付かない振りをした。
あの融合する感覚を何よりもいとおしいと思ったからこそ。
俺たちは愛し合っちゃいけないんだよ。
静かに、声無く泣き続ける女の傍らで、言った。
「愛してるよ」
でも。
「愛し合っちゃ、いけないんだよ」
女は何も言わなかった。ただ泣き続けるだけだ。その肩を抱いてキスしてやれないことを、男はひどく悔しく思った。