好きになる 01

 父親だの夫ってのは大変なものなんだな、俺は独身で良かった──キリコは半ば現実逃避のごとく紅茶のカップを手に取り、唇を湿らせることに専念していた。およそ世界の人が考えるであろうロンドンの高級子供服店にはラウンジがあり、買い物に熱中する妻を退屈に待つ夫たちがそこかしこで暇を持て余し、キリコと同じように紅茶で唇を湿らしている。
 店に入った時、BJの顔の傷と自分のアイパッチに驚かれるかと思ったが、ここ数日の騒ぎですっかり顔が知れ渡っていたらしく、店員たちはすぐに好意的に迎えてくれた。しかもBJの金の使い方が半端ではないと見抜いた店員たちは、他の客を置いてでも付きっ切りで我先にと接客を始めてしまった。心得た店長がキリコをラウンジに案内し、紅茶を置いて行ってくれたのだった。
 ──お嬢ちゃんの服を買うって言うから付き合ったが、それにしてもとんでもねえな。
 自分は着た切り雀のくせに、BJは愛娘への投資を惜しまないようだ。値札を確認することすらせず、あれもこれもと店員に指示をする。店員たちは大喜びでBJを褒めそやし、きっと可愛いお嬢さんなんでしょうね、と言ってはBJを喜ばせる。
「では先生、お支払いの方を」
「ああ、彼が」
 よし殺すぞクソビッチ。笑顔のBJに指名されたキリコは眉ひとつ動かさず決意し、しかし場所柄騒ぐこともできず、社会的マナーを教え込んでくれた育成環境と自分の社交性をやや恨みながら、店員が差し出す上品な木製トレイにカードを置いた。総額を知る気にもなれず、教えようとした店員に、ああ、いいよ、と手を振り、彼らの商業的好感を無意識のうちに上げたのだった。
 買い込んだ服は数着では済まない。自力で持って帰るなど論外で、ホテルに送ってもらうことになっていた。その送料も含んだ総額だったようだが、キリコはもはや考えたくもなかった。
「いくらだった?」
 店を出てようやく訊いてきたBJに「知らん」と返す。
「知る気も起きなかったし、どうせ知ったって返す気もないんだろう」
「私のことをよく分かってるじゃないか」
「そりゃあもう。ったく、たかりやがって」
「じゃあ払わなきゃよかったんだ」
「クソビッチが」
「早漏が」
「違う。断じて違う」
 高級店という店柄、「外国人なのに緊急時にロンドン市民を助けてくれた良いお医者さんたち」として知られてしまった顔、そして男の見栄。全てが支払い拒否を不可能にする条件だ。そんなものはどうでも良いと開き直れる程、まだ社会から剥離した生活をしたいと思えなかった。
「お嬢ちゃん、21時だったか」
「うん、遅れがなければ。時差ボケが心配だな」
「夜更かしさせて朝早く起こして、明日昼寝させればいい」
 あの店の前を通りかかった。「閉店」のプレートがドアにかかっている。夕方になってももう開くことはないだろう。二人で視線をやったことに同時に気付き、同時に少し笑った。
「アンディにはもう会えないかなあ」
「仲良く付き合う相手でもない。SASの友達なんていない方が幸せだ」
「そうかな」
「裏稼業より危険な仕事だ。いつ死ぬか分からない友達なんか増やすもんじゃない」
 キリコの言葉にBJは少し間を置いてから頷き、軽く息を吐いた。元軍医の過去の経験に踏み込みそうになったことに思い至り、そっとその足を引くことにした。
「そうだ、あれ。キリコ、あの店どこ」
「あの店、とは」
「苺のショートブレッドとレモンクッキーの店」
「──ああ、通り一本向こうだ。気に入った?」
「うん。ピノコにも食べさせてあげたい」
「本当、お嬢ちゃんには甘いな」
 苦笑いし、キリコは道を思い出しながら歩く。BJは機嫌よく隣を歩いた。ここ数日があまりにも酷かったからか、愛娘が来ると知ってからずっと上機嫌だ。その横顔を見て、ああ、可愛いな、とキリコは思った。やがて来るはずのカードの請求書については考えないことにした。
「先生、靴。菓子の前に買っておいた方が良いんじゃないか」
「え」
「靴。どこで買おうか。ご希望は? なければ俺が知ってる店にするけど」
 するとBJが急に赤くなった。思わずキリコは笑いそうになってしまう。図々しくて蓮っ葉な女が、急に可愛い反応をする瞬間が気に入り始めていた。
「──やっぱりいい、いらない。自分で買うから。さっき届いたのでもいいんだし」
「あれは駄目だって言っただろう。帰ったらバトラーに処分してもらう」
「いらないって」
「よし、決めた。あの店だ。行こう」
「いらないって!」
 嫌がる女の肩を抱き、手を挙げてタクシーを停める。いらない、本当にいらないから、と顔を真っ赤にしたまま繰り返す女に嫌がらせをしたいわけではなかったが、これくらいは言ってもいいはずだと自分で自分を甘やかし、片手でタクシーのドアを開けながら耳元に囁いた。
「お願い、俺を喜ばせてよ、クイーン」
 Come on、と彼女が返事をすることはなかったが、また赤くなってタクシーに飛び込んだものだから、キリコも笑ってその後に続き、ドライバーに「マノロへ」と上機嫌で告げた。


 ホテルに戻るなり、BJはルームサービスで昼食としてサンドイッチを頼み、皿ごと寝室にこもってしまった。数日後に迫った非公開シンポジウムの資料をまとめるという名目だったが、不機嫌の余りにキリコを自分の世界から遮断するためであることは明白だった。キリコは定位置になったテラスのカウチで煙草を片手に天を仰ぎ、自分と靴屋のミスを呪う。──いいや、俺は悪くない。あの店員が悪い。
 俺は絶対に悪くない。キリコは自信を持って自らに言い聞かせた。そうだ、絶対に俺は悪くない。連れて行ったあの店で、BJがまあまあ機嫌を良くして靴を選んでいたら、店員が「ドクターは靴をプレゼントする時、いつもうちにいらして下さって」などと言ったのが悪い。
 聞いていた店長が慌てて「いつも妹さんとご一緒にいらっしゃいますものね」とフォローに入ってくれたが、どんなに鈍感な女でも分かるミスだし、ましてや頭が良すぎるあの女が気付かないはずもなかった。結局買わずに無言で店を出る女を、また今度、と店長に言い置いて、情けないながらも追うしかなかった。
「……一番高いルームサービスでも頼んでやろうか」
 思わず八つ当たりめいたことを考えてしまった。この部屋の支払いは帰国当日までMI6に回せることになっている。MI6の計画は頓挫したが、BJが今朝方、買い物に出る前に抜け目なく交渉し、口止め料ということで、彼らへの協力が終わった後の滞在中の宿泊費も全額負担を認めさせた。交渉の電話を聞いていたキリコはBJのえげつない交渉術に震えたものだ。煙草を片手に交渉する姿はまさに悪魔そのもの、モグリの無免許医の本領発揮と言うしかなかった。
 何とも不思議だ。キリコは思った。不思議なもんだ、俺は別にあいつの恋人ってわけじゃない。でもボーダーラインの上でそんな関係を演じることが嫌じゃない。あいつもそうだと思ってたし、多分それは間違いじゃない。
 ──でも、本当のところはどうするべきなんだろうか。俺たちは慣れ合うべき立場じゃないはずなんだ。それでも──
 深く煙草を吸い込み、長く吐き出して溜息を誤魔化した。いい歳をして何をしているんだ、と自分で自分を笑いたくなったが、いくつになっても構わないさ、と言う自分もどこかにいた。
 大体、この程度で気分を害するBJが理解できない。ボーダーラインの上で遊んでいるだけではないのか。あの女の本音が見えない。顔を合わせれば人殺しと罵って来るような女が、なぜこの程度で俺に怒るのか、と思った。遊んでいるだけだろうに──そうだ、遊んでいるだけだろう。俺もおまえも。ボーダーラインを超えない場所で遊んでいるだけなのに。
 いい加減うんざりした時、バトラーがやって来た。ワゴンひとつでは収まらず、他のホテルマンと共に2台で運んで来た愛らしい包装の箱の山を見て、キリコは溜息をついた。
「先生」
 バトラーたちが退室してから、天岩戸になった寝室のドアを叩く。
 これからあの子が来るのだから、と言い訳した。あの子が来るのだから、不機嫌なままじゃあの子が可哀想だから。そう言い訳した。
「お嬢ちゃんの服が届いたよ。──俺が悪かったから出て来てくれよ。寂しくっていけない」
 ボーダーラインの上にいるのならいくらでも言える。本当の恋人なら言うべき台詞を省略して、言いたいことだけを言って酔っていることができる。今の遊びをやめたくなかった。
 やがてドアが開き、唇を尖らせて出て来た女の頬にひとつキスをする。すると女が「あの店は嫌だ」と言ったので、じゃあ他の店にしよう、ごめんね、と言って、まだ遊びを続けることができるのだと安心した。
「──でも、ピノコを迎えに行くまで出掛けてる暇がもうないな。本当に資料を完成させないと」
「どこまで出来た?」
「半分くらい」
「ちょっと心もとないペースだな」
 テラスで紅茶を飲みながら、今までに出来た分だけの資料をチェックする。キリコからすれば今の時点でシンポジウムの資料としてはかなりの出来だったが、BJは満足していないようだ。参加者が理解しきれるかどうかとキリコが危惧するほどだった。
「これ以上詰め込む必要があるか?」
「でも、こっちと──これもこっちに繋がるから、結局入れないと」
「じゃあこっちを削れば」
「そうしたらこっちが足りない」
 話をすればするほどキリコはBJの頭脳の出来に舌を巻く。そして、この女は「できない者」の心を慮ったことなどないのだろうと知った。この資料を本当の意味で理解するには、かなりの知識と経験値が必要になる。良くも悪くも孤高にしかなれない性質の女だった。
「俺は出ないからな」
「どうして。出ればいい。非公開なんだし、おまえさんが好きそうなテーマなんだから」
「終末医療と外科的治療の兼ね合いが? 俺の好きなテーマ? 勘弁してくれよ」
「何をどう勘弁なんだ」
「先生が発表した後の質疑応答で口論になる予想しかできないからさ」
 BJは大きく息を吐き出し、そうかもね、と言って資料をテーブルに投げた。死神とは究極まで平行線だろうと分かっていた。だがキリコに出席して欲しいことも本音だった。口論になっても構わないし、むしろそれを出席者が聞けばいいのだと思っている。
「私だって分からないんだ」
「何が」
「おまえさんの考えが。だから聞きたい。質疑応答がそれで潰れてしまっても構わないんだ」
「そんなの、いつだって話してやるよ。別にシンポジウムじゃなくてもいい。ただし途中で人殺しって言うのは無し」
「そうじゃなくて──他の連中にも聞かせてやりたいんだよ」
「うん?」
 キリコは隣に座るBJを見る。当たり前のように隣に座っている女は眉を顰め、言葉を探しているように見えた。ようやく見付けた言葉はストレートで、キリコの心を騒がせるには充分すぎる力があった。
「おまえさんみたいに人に寄り添ってくれる優しい男が、どうして敢えて安楽死を選択するのか」
 敢えて──その短い言葉がキリコの心を騒がせた。ああ、そうか、分かっているのか。そう思った。──この女は分かっている。俺がしたいこと、していることを分かっている。でもこの女の信念とはあまりにも違い過ぎて──納得ができないのだ。
「俺は優しくないよ。何を勘違いしてるんだか、馬鹿だね」
 キリコも言葉が見つからなかったが、生まれそうになった沈黙を嫌って、敢えておどけてそう言った。逃げなきゃ、と思った。逃げなきゃいけない。ボーダーラインから引っ張り戻そうとする現実から。
 不意にBJが身体を預けて来た。だから安堵した。彼女もボーダーラインから戻ることを嫌がったと分かったからだった。肩を抱き、胸に埋められた髪に唇を落とす。もう彼女の資料作りを手伝うのはやめよう、と決めた。現実に戻るにはまだ、この時間を愛おしく思い過ぎていた。
「お嬢ちゃんが来る前に靴を買おうよ。資料作りは明日からでも間に合うさ」
「シンポジウムが終わってからでいい」
「どうして」
「あの服のために買う靴なんだから、着ない時には必要ない」
「……そうか。そうかもな」
 じゃあいつ着るの、とは訊かなかった。きっと着ないだろう。そんな気がしたからだった。ボーダーラインで遊ぶためのアイテムのひとつにすぎないのだから、とキリコは思うことにした。ただ、あの服を着た彼女を見たかったな、と少し残念に思ったのも確かだった。
 また沈黙が降りそうになる。何か言わないと──焦った。沈黙が現実を連れて来るような気がした。言葉を探していると、不意にBJが唇を寄せて来た。彼女からのキスが初めてだと気付いて驚きはしたが、言葉を探す必要がなくなったことに安心して、彼女を抱き締め直して何度もキスをした。


 結局、靴を買いに行くことはなかった。夕食としてのハイ・ティーを供されながら、ピノコにあの焼き菓子を買うこともできなかったとBJが少し後悔していたが、それはまた明日買いに行けばいいよとキリコが言うと、少し安心したように頷いた。
 飛行機の到着は時間通りだった。たった一人で海を渡った幼い少女には、航空会社のスタッフが付きっ切りで面倒を見てくれていた。ゲートまで一緒に来てくれたスタッフに丁寧に礼を言い、BJは飛びついて来たピノコを思い切り抱き締めて頬ずりした。
「ちぇんちぇい、会いたかったのよさー!」
「私も! すごいな、一人で来たのか!」
 日本の元患者──キリコが予想するに今ではパトロンだろう──の大物ヤクザが何から何まで手配してくれたため、ピノコがロンドンに辿り着くには何も問題がなかった。ファーストクラスに乗ったのよさ、凄かったのよさ、とピノコは興奮冷めやらぬようにBJに話している。BJもうんうんと嬉しそうに聞いていた。
「ロクターも一緒なのは知らなかったのよさ?」
「ああ、うん──同じ部屋なんだ」
「あっちょんぷりけ!」
 ピノコは飛び上がるようにしてBJの腕から飛び降り、自分よりも相当背の高いキリコを見上げる。
「ロクターもおんなし部屋で寝ゆの?」
「ああ、──いや、別の部屋を取るよ。お嬢ちゃんは先生と──」
「違うのよさ!」
 確かに嫌がるだろうな、気が回らなかった、と思い至って反省したキリコが慌てて言いかけると、上を行くように慌てたピノコがキリコの言葉を遮った。
「ちぇんちぇいと一緒がよかったのれちょ? ピノコお邪魔なのよさ!」
「──そんなことはない、ないから。お嬢ちゃん、ませたことを言うもんじゃない」
「ピノコ、子供じゃないのよさ! ちぇんちぇいがロクターと寝たいなら──」
「ピノコ、やめなさい! 違うから!」
 見た目は子供、中身は18歳。女の勘か耳年増なのかBJは判断しかねたが、空港でとんでもないことを言いなさんなと焦りに焦る。そしてこの娘に、キリコとのボーダーラインでの遊びを見せて良いものなのだろうかとやっと考えるに至った。キリコも同様で、これは少し考える時間になったのかもしれない、と半ば諦めて頭の中で他のホテルの手配を検討し始めたのだった。
「ピノコはちぇんちぇいのお嫁さんらけど、ちぇんちぇいが一緒にいたい人をポイはちないのよさ」
「あのね、お嬢ちゃん……ああ、先生のお嫁さんなの? 先生もお嬢ちゃんも女の子なのに?」
 先生は女の子って歳じゃねえけどな、と思ったが、もちろん口に出すような愚を犯すことはない。今日のミスは靴屋の件だけで充分だ。
「将来は女の子ろうちでも結婚できゆのよさ。ちぇんちぇいが言ってたのよさ。マイノリチーもビョードーになっていくのよさ」
「未来を生きてるね。素敵だよ」
 確かにそんな運動も始まることだろう。キリコ自身がその運動に参加することはないだろうが、主張して権利を手にしたい人間がいることは分かっていた。それにしてもBJはそんなことまでも娘に教えているのか。
 ピノコの荷物を持ち、手をつないで歩く二人の後ろをついて行く。ホテルはどうしようかと考えながらも、娘を見降ろすBJの横顔が今まで見たことがないほどに穏やかで、ああ、可愛いな、あの子が来てくれて良かったんだ、と思った。
 ホテルに着き、余りにも豪勢な部屋にピノコは歓声を上げた。バトラーも笑顔で幼女を迎え、夜ですが、と言いながらも用意していた小さなケーキとジュースをテラスに置いてくれる。バトラーにプリンセスと呼ばれたピノコは大いに喜び、きゃあきゃあとはしゃぎすぎてBJに叱られ、キリコの笑いを誘った。
「親分にお礼の電話をしないとな。時差があるから──ううん、1時くらいでいいか」
「起きていられるか?」
「私は平気だよ。酒も飲んでないし」
「そう言えば今日はお互い健康な肝臓をしてるな」
「だからおまえさんは──寝るなら先に寝ればいい」
 ぷいとそっぽを向いて言い捨て、BJは自分のケーキをピノコに渡す。ピノコは大喜びだ。
 キリコは投げられた言葉の意味を考えるまでもなく、ああ、そう、と呟き、耳まで赤くなっている女の横顔をひどく可愛いと思った。
 それからはピノコのファッションショーだ。昼に買い込んだ服を片っ端から着ては喜び、BJが可愛い可愛い本当に可愛いと褒め倒し、こいつは本当にお嬢ちゃんが可愛くて仕方ないんだな、とキリコを呆れさせた。やがて飛行機疲れからピノコは服に埋もれるように眠ってしまった。時差ボケを心配する必要がなくなり、大人二人はほっとする。
 BJがメイン寝室にピノコを寝かせに行っている間、流石に俺はコネクティングルームで寝ないとなとキリコは考えていたのだが、戻って来たBJが「あのさ」とキリコを見ないで言ったため、その考えは捨て去ることになった。
「あの、ベッドで朝食をサーブしてもらうサービスを」
「うん?」
「ピノコにもやってやりたいから。明日、おまえさんが先に起きたらバトラーに──三人分、頼んでおいてくれないか。私は寝坊してしまいそうだから」
 そりゃあキングサイズのベッドなら、大人二人に子供一人でも充分に寝られるけどさ、三人分でもバトラーは対応してくれるだろうけどさ、でも一緒に寝るのかよ、川の字かよ、俺も一緒に寝ろってことかよ──言いたいことは山ほどあった。だがどれ一つとして、今、口にするべきではないと分かっている。だから今、最適の答えを返すことができた。
「予約した方が確実だ。8時でいいか」
 うん、とBJは頷き、キリコの顔を見ないまま、資料をまとめるために寝室へ戻って行った。その耳が赤かったことに妙に満足しつつ、ああ、今のうちにキスしておけばよかったかな、とキリコは思ったのだった。
 あの子が増えてもうまいこと、ボーダーラインで遊びましょう。女はそう言いたかったのだろうし、男は喜んでそれを受け入れた。


 翌朝、一番に目が覚めたのはキリコだった。BJとピノコが抱き合うようにして眠っている姿を見て我知らず微笑む。しばらくその姿を眺めていたらピノコが目を開き、驚くような寝起きの良さで飛び上がった。BJを起こそうとした彼女を止め、口元に指を立てて「シィ」とやると、心得たピノコも面白そうな顔で同じように「チィ」とやってみせた。
 声を出さずに意思を疎通させる遊びを楽しんでいると、やがて8時になる。時間ちょうどにバトラーが入室し、寝室の扉を開け、片目の男と小さなプリンセスに声無く挨拶をした。今日はアシスタントのホテルマンも一緒だった。相変わらずBJは夢の中だ。
 前回サーブされた時と同じように、BJはトーストを焼き始める頃に目を覚ました。バトラーだけかと思ったら他のホテルマンもいると知り、前回と同じく慌てて胸元を直してから挨拶をする。キリコは笑い、ピノコがちぇんちぇいはごはんのにおいで起きるのよさ、と大人たちの笑いとBJの羞恥心を誘った。
 高級ホテルならではのベッドの中の朝食サーブにピノコは喜び、本当にお姫様になったみたい、とはしゃいでいた。バトラーは通常のサーブメニューに加えて小さなプリンセスが喜びそうな甘いものも「特別に」と言って用意し、更にピノコを喜ばせてくれる。その心遣いにBJも喜び、キリコは「どうせ特別料金だろうけど払いはMI6だもんな、いくらでもやってくれ」と笑顔で思っていた。女王様とお姫様が喜ぶ光景を見て、嬉しいと思わない男はいないものだ。それが自分の懐を傷めないものであるのなら尚更のこと。
「満足なのよさー! ちぇんちぇい、ロンドンでしゅてきなことちてたのねぇ!」
「こんなの毎日じゃないぞ。おまえさんが喜びそうだから今日だけだ」
「ロクターとこんなのちてたのねぇ。ピノコ、ちょっぴち妬いちゃうのよさ?」
「──今日だけ! 今日! だけ!」
 朝食と朝の身支度を終え、リビングで母子の会話を聞き、どっちが年上か分からんなとキリコは笑った。真っ赤になって反論するBJがひどく可愛い。無論ピノコも可愛いが、可愛さの種類が違うことはよく分かっていた。
 それからピノコは改めて部屋の探索を始めた。とにかく広く贅沢な部屋は、女の性を持つ者には魅力的で仕方がないのだろう。メインのバスルームの広さに驚き、充実したミニバーに驚き、手ぶらで泊まっても問題ないアメニティに驚き、探索に付き合うBJにいちいち報告する。キリコが私物を置くコネクティングルームに入ろうとした時だけBJに止められていたが、構わないよ、とキリコが声をかけると、ほんの少しの間だけ探索し、すぐに出て来る礼儀正しさを見せた。
「お嬢ちゃん、俺とロンドンの散歩に行かないか」
 ピノコが探索に満足した頃、キリコはピノコを誘う。
「先生はシンポジウムの資料を作らなきゃいけないんだ。俺は先生に構ってもらえなくて暇になっちまうから、お嬢ちゃんがデートしてくれると嬉しいな」
「あらまんちゅ!」
 聡い娘はそれで全てを悟り、元気良く返事をした。BJは眉を顰めてキリコに向かって微笑み、それからピノコを抱き締めて、思い切り頬ずりしたのだった。
「ちぇんちぇい、忘れてたのよさ。ピノコ、いーっぱい持って来たのよさ!」
「何を?」
「ボンカレー! お昼にいーっぱい食べるのよさ!」
「──何ていい子! 賢い! 流石私の奥さん! 何でも買っていい、キリコのカードで!」
 キリコは更にぎゅうぎゅうと娘を抱き締めるBJと、抱き締められて得意げな顔をする娘を見ながら、この高級ホテルのルームサービスよりボンカレーか、いやそれ以前に俺のカードってどういうことだ、と、言いたいことは山ほどあったのだが、ここで口にしたらメスが飛んでくるような気がして何も言えなかった。


 とはいえ、ピノコはBJよりも社会性が高かったようだ。キリコのカードで無尽蔵に買い物をしたがるわけでもなく、むしろBJから渡されていた小遣いを貯めていて、欲しいものは自分で買おうとした。それが可愛くてキリコはついカードを切ってしまう。
 ロンドン市内の観光名所に連れて行くと、見た目からは想像できないほどの知識を口にし、子供にはできない観点からの喜びを見せ、やはり外見とは違う精神年齢を持っているのだとキリコに知らしめる。あの女の手はどこまで神に近いのか──医者として、キリコは嫉妬にも似た感情を抱いた。
 ランチ前の一休みに入ったカフェで、小さなプリンセスは店員に手厚くもてなされた。子連れでも入りやすい店だったということもあるが、何よりも彼女自身のマナーが良かったのだ。そういえばBJもあれだけ蓮っ葉でありながら、外食のマナーがとても良いことを思い出し、キリコはBJが熱心に躾をしているのだと知った。
「ロクターとロンドンで会うなんて、ちぇんちぇいは言ってなかったのよさ。びっくりなのよさ」
「まあ、色々あってね。俺も急に呼び出されたから」
「なんれ?」
「──シンポジウムで使う資料が足りなかったんだってさ。先生にしちゃうっかりだね」
「ちぇんちぇい、変なろこで抜けてゆから困ゆわねぇ」
 小さなプリンセスは大人びたことを言い、姿勢良くアップルジュースを飲む。
「れも、ロクター」
「うん?」
「ちぇんちぇい、哀ちいことがあったのれしょ?」
 キリコは思わず答えに詰まった。ピノコは見た目に似合わぬ深い溜息をつき、分かるのよさ、と呟いた。
「ちぇんちぇい、ピノコには何もゆわないのよさ。れも分かるのよさ。哀ちいこと、あったのれしょ。ロクターは知ってるのれしょ」
 さて、どう答えるべきか。子供を誤魔化す言葉ならいくらでも知っている。だがこの娘には適さないような気がした。かと言って全てを言えるわけでもないし、言うべきでもないだろう。この娘はきっとBJの心の痛みを想像し、まるで我がことのように哀しんでしまうかもしれない。
 正直、この娘に思い入れはない。キリコにとってはあくまでBJの娘という位置付けにすぎなかった。だが、だからと言って傷付けたいわけでもなかった。
「──あったよ」
「ろんな?」
「先生はお嬢ちゃんに言わないと思うから、俺も言えないよ」
「……ロクターも教えれくえないの?」
 途端にピノコは顔を曇らせ、俯いた。見ている男に可哀想だと思わせるには充分すぎるほどの姿で、キリコは我知らず溜息をついていた。
「痛みを共有することだけが、そうだな、奥さんの役目じゃあないよ」
 奥さんと言う言葉にピノコが顔を上げる。今にも泣き出しそうなその顔に、キリコは不思議な気持ちになった。似ていると思ったのだ。血が繋がっているわけでもないはずなのに、あの女にとても似ていると思った。
「先生は傷付いた。とても哀しいことがあったよ。嘘だったとはいえ、先生が貫こうとする医者としての立場で、決して言ってはいけないことを言ってしまったんだ。でも、何を言ったかは俺からお嬢ちゃんに言えない」
 それは先生の人生の根源に関わることだから、俺は言えないんだ。そう言うと、ピノコはしばらく考えた後に頷いてみせた。だからキリコはこの娘が本当に賢いのだと知った。
「でも、お嬢ちゃんが今こうやって来てくれたから、先生はとても喜んでる。とても元気になった。痛みを話して共有してもらうよりも、いてくれるだけで痛みを消してくれるお嬢ちゃんが来てくれたからなんだ」
 ピノコはまた少し考え、頷いた。その目にみるみるうちに涙が溜まる光景を見て、キリコはユリが幼かった頃を思い出してしまう。あの子もこうだった。あの子も賢かった。賢いし、優しいから、好きな人の痛みを正面から癒せない自分を歯がゆく感じてしまうのだろう。
「お菓子を買いに行こう。先生がお嬢ちゃんに食べさせたいって言ったくらい、美味しいお菓子が売ってるんだ。たくさん買おう。先生も食べたいだろうからね」
 ピノコは頷いた。その途端に涙がアップルジュースの中に飛び込んだが、ぐいと目元を拭ったピノコが勢いよくジュースを吸い込み、すぐに分からなくなってしまった。


 ランチタイムになる頃、ホテルに戻るとちょうどBJが資料作りの手を休め、テラスで一服しているところだった。手を洗いに行くピノコの隙を突いてキスをし、本当にボンカレーを食べようとしているBJに苦笑する。バトラーに白米を頼んだらしい。流石にピノコのランチには別口でホテル特製のキッズプレートを注文してあると言う。
「おまえさんは好きに頼むと思って何もしてない」
「良い心掛け」
 キリコはフルーツとチーズ、ハードブレッドを注文し、ミニバーで昼に適したカクテルを大雑把に作る。白ワインにトニックウォーター、ライム果汁を入れるだけだ。BJも欲しがったので、一杯だけだぞと念を押してから、彼女の分は丁寧に作ってやった。
「どこで食べても、どう食べても美味いのだ……!」
 久し振りのボンカレーにBJは心底の感動の声を漏らす。届けたピノコは胸を張り、得意げに「奥たんらから!」とキリコに自慢した。キリコは拍手で称賛した。
「これで午後も頑張れる。ピノコ、やっぱりおまえさんは最高の奥さんだ」
「当たり前れしょ! ちぇんちぇい、奥たんがちゅーしてあげゆわよ」
「わあ、してして」
 これは何と言う可愛い生き物たちなのか、とキリコはしみじみと目の前の光景を噛み締める。良い物を見せてもらったお代として、母娘がフルーツとチーズを掻っ攫って行ったことは不問に処した。
 バトラーが入室し、来客を告げたのはその時だ。名前と職位を聞き、BJは眉を顰め、キリコはふむと唸った。
「先生、何した」
「心当たりがありすぎて。おまえさんこそ何した」
「心当たりがありすぎて。でもこんな奴に関係ないはずなんだが」
「私だって関係ないはずなんだが」
 二人は顔を見合わせた。
 この国の首相秘書が訪ねてくるようなことに、一切心当たりがない。


「最初に言っておく」
 リビングのソファで腰を落ち着け、挨拶もそこそこにBJが口火を切った。
「私の本来の仕事に関する何かしらの依頼なら話を聞く。それ以外や政治が絡む話なら今すぐ帰れ。以上」
 分かりました、と言うように女性秘書官は頷き、次にキリコを見るキリコは特に付け加えることもなかったので、「先生と同じということで」と終わりにした。秘書官はそれにも頷き、口を開いた。
「今回の非公開シンポジウムにつきまして──」
「さよなら」
 あっさりBJは立ち上がり、ピノコとスイーツが待つテラスへ消える。キリコも同様の気持ちだったが、首相秘書官という存在が愚かすぎるとは考えにくい。敢えてBJが即時断るような言い方をしたのではないかと予想した。
「失礼。ご存知かとは思うが、今回の非公開シンポジウムに関しては嫌な思いをしすぎている。彼女がああなることはご理解頂きたい」
「理解しております。その件につきましては詳細を調査中ですが、既にMI6局長後任も決まっており、今後は決してご迷惑をおかけすることはありません」
「そう信じたいものですがね。その上で非公開シンポジウムの話を出して来た理由は?」
「出席者に関する情報はお持ちですか?」
「例の狙われた議員が出るということと、あまり表立って医者だと名乗りにくい──要は彼女のような人間が出席するということ以外は存じませんね。彼女なら知っているかと思いますが」
「気にならない、と?」
「いや、私は出席する気がありませんので」
「──ドクター・キリコがおいでにならない、と。それは意外ですね」
「興味がありませんので。ここにいるのは彼女がシンポジウムのための資料を作る手伝いに過ぎませんよ」
 薹が立っているものの、明らかに才媛と言える容姿を持つ女性秘書官は、そうですか、と首を傾げた。
「では、正直申しますと、ドクターにお話できることがなくなってしまいました」
「なるほど。物別れということにしかなりませんね。ご足労をお疲れ様、お気を付けてお帰りを」
「BJ先生とお話をするわけには参りませんか?」
「私が決めることでもありませんし、何より私は彼女のマネージャーではない。先生と話をしたければどうぞご自分で」
 秘書官は頷き、では失礼、と立ち上がる。礼儀として見送るために立ち上がったキリコは、彼女が廊下に続くドアではなく、BJとピノコがスイーツを楽しんでいるはずのテラスへ向かったことに溜息をつき、俺はもう知らないぞ、と思った。
 ほどなくして案の定、機嫌の悪さを隠さないBJの声が聞こえて来る。ピノコがちょこちょことテラスからリビングに戻り、キリコに向かって「ちぇんちぇい、また機嫌が悪くなったのよさ」と絶望の顔を見せた。あの気難しい女には娘も苦労しているらしい。せめてもの慰めにピノコに少し凝ったノンアルコールカクテルを作ってやった。
 テラスからは相変わらず、BJの不機嫌な声──キリコの経験からすればヒステリー一歩手前──と、秘書官の落ち着いた声が聞こえる。話の内容までは分からないが、BJが早く秘書官に帰って欲しがっていることは明白だった。ピノコの縋るような目に諦め、キリコはテラスへ向かう。
「先生、断るなら断っちまえ。ご機嫌斜めすぎてお嬢ちゃんも俺も怖くてたまらねえよ」
「うるっせえんだよ早漏。だったらこの女、つまみ出せってんだ」
「早漏じゃねえぞ。──レディ、これ以上先生の機嫌が悪くなったら私たちがたまらない。諦めてお帰りを」
「医療行為だと認めては頂けないのですか?」
 さすが一国の首相の秘書官と言うしかない。これだけ機嫌の悪いBJを前にまだ食い下がる。BJは「御免だね」と返す。
「どうしても?」
「御免だって何度言ったか分かりませんな、お引き取りを」
「出席する首相に万一があった時、あなたに診て頂きたいということは、医療行為に当たりませんか?」
 流石にキリコはぎょっとした。MI6の不正を嗅ぎ付けて独自に調査をしていた議員が出席することは知っていたが、まさか首相が? あの鉄の女が? 非公開、しかも表立って歩けないような医者が出席するシンポジウムに出ると言うのか。
「そんなの、首相に主治医がいるでしょうさ。私は発表する側なんだ、出席者の健康なんか自分で気を付けろとしか言いようがない」
「その主治医が、先日のMI6の件で関係者だと考えられているのです。調査中なので確信を持つことはできませんが」
「そんな情報あったか」
 BJはキリコを見る。キリコは情報屋から手に入れた情報をざっと思い出し、いいや、と首を横に振った。秘書官はそれでも引き下がらなかった。
「可能性がある時点で、内部の医者には頼めません。BJ先生ならと思ったのはそれが理由なのです」
「関わりたくない。もう御免だね」
「さもしい話で恐縮ではありますが、日本円で3000万円を用意しています。首相の当日朝からの健康管理、もし何かあった時、それだけで結構なのです」
「その辺で簡単な手術を3件、下手すりゃ1件やりゃあお釣りが来る。馬鹿におしでない。とにかく帰ってくれ、気分が悪い」
 BJは先日の一件を思い出し、心底気分を悪くしていた。キリコも同様だ。政治を背景に持つ連中の押しの強さ、図々しさは、たまに出くわす常識を知らない傲慢な患者よりも不愉快だった。
 女性秘書官は帰らなかった。最後の切り札と言わんばかりに話を続けた。
「あなたたちにはアンディと名乗っていた、SASの隊員を覚えていますね」
 BJとキリコは答えなかった。ここで答えてはいけない、と経験と勘が告げていた。秘書官は続ける。
「彼が背反の罪に問われる可能性が出ています。MI6が盗聴器を仕掛けていたことを見逃していたのです」
「そちらの都合。私にもドクター・キリコにも関係ない。つまらないことを言いなさんな」
「彼が罪に問われた場合、背反罪として非常に重い処分が下されます」
「知るかよ」
「除隊で済めば御の字、15年以上の懲役になりかねません」
「そいつは残念だ」
「先生がお話を受けて下さるのなら、私どもが手を回して彼を無罪にできます。逮捕されることすらないでしょう」
「友達でもないし、連絡先すら知らない相手にどんな同情をしろって? あいつには嫌な思い出しかないよ。最後の通告だ。帰れ」
「分かりました。ああ、最後にひとつ」
 ようやく女性秘書官は諦めた様子を見せたが、明らかにわざと隠していた最後の情報を口にした。
「先生にきちんと謝りたかった、と言っていました。何のことかは分かりませんが」
 BJは女性秘書官を睨み付けた。それは既にアンディが身柄を拘束され、事情聴取が始められていることに他ならない情報だったからだ。
 キリコは溜息をついた。話の流れが予想できすぎてしまい、先生は少し情というものを切り捨てるべきなのだ、と心底思った。モグリのぼったくりを気取るくせに、こういうところは弱すぎていけない。
 やがてBJは言った。
「アンディの即時解放、全額前金、日本円で1億円。これ以下はやらない。一円、一シリングでも値切ろうもんなら破棄してMI6の局長どもがやらかしたことをアメリカとソ連、ついでにフランスの闇に流す」
 秘書官は「持ち帰って検討します」と言ったが、おそらくその通りになることは、ここにいる誰もが分かっていた。