回答は早かった。女性秘書官が帰ってから一時間後には報酬の振込が行われたということ、アンディを解放したと言うこと、彼の自宅の電話番号が伝えられた。その連絡を受けたのはキリコだった。BJは寝室にこもりきりになり、たまに枕を壁に叩き付けるような音が聞こえるだけだ。ピノコは慣れているのか諦めているのか、キリコに買ってもらった兎の絵本を読んで時間を過ごしていた。キリコはBJのケアをするかピノコの相手をするか迷ったが、今はBJに好きにさせておいた方が良いと結論付け、ピノコが分からない英単語を教えてやって時間を過ごした。
「ロクター、ちぇんちぇいはまた哀ちいことになゆの?」
「──どんなことだって、立ち回りを間違えればそうなるよ。先生次第だ」
今回ばかりはキリコもBJを擁護しきれなかったし、ボーダーラインに立って積極的に慰めようという気にはなれなかった。本名も知らない、しかも嫌な思いをさせられる原因の一端となった男のために、あの女は一体何を考えているのか。いや、考えていることは分かっている。少しでも関わった男を見捨てることができなかった。それから──キリコは本当は知っていた。
──アンディは気にしないと言った。差別をしないというわけではない、だが違う人がいることには慣れている、だから気にしない。あいつはそんなことを言いやがった。
幼い頃からこれでもかと言うほどの差別、偏見を受けた女だと言うことは充分に、分かり過ぎるほど分かっている。BJがキリコに語ったことはないが、綺麗ごとすら白々しい環境で生きていたことは容易に考えられた。いいや、きっと綺麗ごともうんざりだろう。アンディが綺麗ごとすら言わず、気にしない、と言ったことが、あの女がアンディを見捨てられない理由になっていることは想像に難くない。
「ね、ロクター」
「うん?」
「さっきのお菓子、ちぇんちぇいに出してあげたいのよさ。三人で頂くのよさ」
「──先生は少し酒を飲んでもいいかもな。お嬢ちゃんはジュースね」
ピノコが精一杯、愛する相手を励ましたがっていることが分かる。この娘を見ていると、キリコはBJがどれほどまでに愛情深い人間であるのかを強く実感するのだ。愛情を持たぬ者が愛情を持つ誰かを育てることなどできはしない。
だがそれはこの世界で、彼女が傷付きながら生きて来たこと、そしてこれからも傷付きながら生きて行くことの証明に他ならないのだ。哀れだとは思わない。彼女が選んだ道だ。だが、それがどうした、と言えるほど、キリコは商売敵を心底憎んでいるわけではなかった。
BJを呼びに行こうとするピノコを制し、キリコが寝室へ向かう。ノックをしても返事はない。だが眠っているわけではないようで、身動きをする気配があった。
ベストな方法とは言えない。だが、彼女が甘えられる舞台を整えるべきだった。これだけはピノコにできないことだ。
「出ておいで、カドルズ。俺を寂しくさせるのはやめてくれ」
クイーンと呼びかける気分ではなかった。感情を持て余している女など、カドルズ(抱っこちゃん)で充分だ。リビングにいるピノコには聞こえていないだろうが、もし聞かれたらどんな顔をするのだろう、と少しおかしくなりながら、勝手にドアを開けて寝室に足を踏み入れた。
BJはベッドに埋もれ、ごろごろと落ち着きなく転がっては意味のない呻きを漏らしている。機嫌の悪い猫だってこんなことはしやしない、と思いながら、キリコもベッドに上がった。
「お嬢ちゃんが一緒にお菓子を食べようって。おいで、カドルズ」
「……そんな気分じゃないのよ、ハニーベア」
芝居がかった甘い呼び方に答えたことで、脈はある、とキリコは判断した。あまり苦労しなくて済みそうだ。それにしてもハニーベアとは。随分可愛く返してくれたものだ。抱っこちゃんへの意趣返しだろうか。
「あの苺のショートブレッドとレモンクッキーだ。お嬢ちゃんと買って来たんだぜ。どうすれば機嫌を直してくれる?」
ボーダーラインにいる時にだけ許される甘い声で、ベッドに沈む彼女に覆い被さる。気持ちは分かる、でもおまえの娘はどうするんだ、可哀想じゃあないか、と甘い声の裏にこめたメッセージに、BJは深い溜息をつき、言った。
「ハニーベア」
「うん?」
「キスして」
「いくらでも」
丁寧に、だが身体に熱が生まれない程度の深いキスをする。しばらく繰り返すと満足したのか、BJは渋々と言った風情でキリコの身体の下から抜け出した。
「アンディなんかどうでもいい」
「ふうん」
「本当よ、ハニーベア」
「構わないさ。俺はお嬢ちゃんと遊んでるよ」
「それが一番助かるかも」
息を吐き、BJは寝室から出て行った。キリコはピノコの前では控えるべき煙草を少し急いで味わいながら、焼き菓子に合うカクテルを考えた。
嘘しかないボーダーラインの上で、どうでもいいと言っても説得力がない。だがそれすらも考えるのが面倒になり、半分以上残っている煙草を揉み消して、不機嫌なカドルズが喜びそうなカクテルを作りに寝室を出た。
「今回ばかりは」
夕方にわざわざ訪ねて来たアンディは深く深く、二人と、そして初対面の小さな娘に向かって頭を下げた。日本人顔負けの下げ方に、どこかで練習したな、とBJとキリコは看破する。
「俺のあずかり知らないこととは言え、ありがとうございます、すみませんでした」
日本人なら土下座だろう。アンディはテーブルに額を押し付けている状態だ。もういいよ、とうんざりした声音を繕おうともせずにBJが言うと、やっと頭を上げる。目の下に酷い痣があり、二人の医者の眉を顰めさせた。服に隠れている部分にも同じものがありそうだ。
「痛そうなのよさ。らいじょうぶ?」
「うん、平気平気。ありがとね」
ピノコをただの幼女だと思っているアンディは、優しい声で愛想よく答える。だが平気なはずがない。部屋に入って来た時、僅かに足を引きずっていたことを二人の医者は見逃さなかったし、呼吸も浅い。肋骨にダメージを受けている証拠だ。
「お喋りアンディ、随分やられたな。MI6か?」
「内閣の連中さ。やってらんねえよ」
言ってから、しまったと言うようにピノコをちらりと見る。
「その子の前なら気にしなくていい。私の助手だ」
「え、そうなの、こんな小さいのに?」
「ピノコ、子供じゃないのよさ! 将来は8頭身の美人にしてもらうのよさ!」
憤慨するピノコをよそに、BJはリビングから足置きを持って来て、カウチに深く座るようにアンディに指示する。キリコも仕方なく寝室から仕事用の鎮痛剤の点滴を持って来た。注射よりも緩やかに効くため、身体への負担が少ない。アンディがかなりの激痛を我慢していることは医者の目からすれば明らかだった。点滴を見たアンディは先日の注射の件を思い出し、少しばかり用心したが、キリコの顔が医者のものだと気付き、黙ってされるがままになった。
「──楽になった。ありがとう。正直、かなりきつかった」
「内閣に請求しておくから治療費は気にするな」
「やったね。タダでブラック・ジャックとドクター・キリコに治療してもらえたなんてすげえや」
「こっちはピノコがちてあげるのよさ」
「わあ、ラッキー。嬉しいよ、ありがとうね、プリンセス」
ピノコが顔の痣に湿布を貼ってやると、アンディは律儀に喜んでみせる。
「何でアンディがボコされてるんだよ。筋が通らねえな」
「俺も先生と同じ感想なんだけど、誰かが悪役にならないと収まらない騒ぎなんだよ。で、SASから一人だけ出向してる俺がMI6トップの不正を見抜けなかったってことにすれば、みんな安泰なわけ」
「筋が通らな過ぎて寝違えそうだ。それとおまえさんがボコされるのと何の関係があるんだ」
「嘘でも本当っぽく、俺が悪かったですって自白しろってことだよ。その質問には答えられませんって言い続けなきゃいけなかったわけ。だって本当に知らなかったしね」
「クソかよ」
「クソだよ、そんなもんだ。SASなんて内閣やMI6からすりゃ使い捨てだしね」
「闇の連中の方がまだ筋が通るじゃねえか。税金使って何してんだか。足を見せろ」
足置きに置かれたアンディの足を、ズボンの裾をめくって検分する。BJだけではなくキリコも眉を顰め、ピノコが「痛そうなのよさ」と同情の声を上げた。
「レントゲンがないから断言はできないが、高確率でヒビが入ってる。折れてはいない」
「ヒビで済んだ? 良かった。腱が傷付いてたら復帰できないかもしれなかった」
「腱は今診てやる」
診察の結果、BJは腱の問題はないと判断した。そして驚くべきことにキリコにも意見を求める。キリコも同じ見解だったので「同じで」と言ったが、特殊部隊員として任務以外での負傷、しかも濡れ衣を着せられるためだけの拷問による負傷とあっては、どれほどの屈辱か、考えるのも嫌になった。好きな男ではない。だが軍人としてのプライドをここまで踏みにじられる理由がない男だとも分かっていた。
「しばらく休暇が取れるのか? 普通の軍人なら一ヶ月の傷病休暇がもらえた後に二ヶ月内勤になる怪我だ」
キリコが言うと、アンディは肩を竦めた。
「どうだろうね。俺がここまでやられたなんて、俺の上司はまだ知らないだろうし。明日報告に行くように連絡が来てるし、その時に相談する」
「馬鹿言うな。即日傷病休暇だ。先生、診断書書いてやって」
「モグリの診断書に効果なんかあるかよ」
言いつつ、BJは診断書を作りに寝室へ道具を取りに行く。ピノコはアンディのために紅茶を淹れ、それを飲んだアンディは、子供が淹れたとは思えない美味しさに驚嘆した。
「これも内閣につけてやる。ついでに意見書も書いてやるか。お値段倍々だ、ざまあみろ」
診断書と意見書を書きながら、BJは勝手に報酬がつり上がるようなことを呟いた。最後にこれ見よがしに丁寧に「Black Jack」とサインを書き、キリコにも書けと渡す。キリコは無言でサインした。筋違いの暴力にどうにも腹が立ってたまらず、闇医者二人のサインに戦慄すれば良い気味だと思った。
「なんか、ごめんね。謝りに来ただけだったのに」
鎮痛剤の効果で少しぼんやりとした声でアンディが言う。
「仕方ない。俺も先生もうっかり医者だ」
「うっかり」
患者をリラックスさせるための冗談に、アンディは笑った。
「キリコはヤブだが私は名医だ。運がいいな」
「先生、後で話し合おう。──アンディ、多分これから発熱する。コネクティングルームに泊まって行け。俺が責任を持って診てやる」
「私が先に診たんだ、私の患者だ」
「先生は資料を。どっちにしろシンポジウムには出るんだから」
「でも」
「主治医は先生でいいから。お嬢ちゃん、先生とアンディの相手をしててくれないか。ベッドの準備をして来るから」
「あらまんちゅ!」
元気よく返事をするピノコの頭を撫で、キリコはコネクティングルームに向かう。私物をメイン寝室に運び込み、ベッドを整えるためだった。アンディは泊まらなくていいと固辞したが、アンディの今の状態にBJがイエスと言うはずがなかった。怪我からの発熱は確実で、万一を考えると目を離したいとはとても思えなかった。
案の定、アンディは発熱した。急な宿泊客の増加をバトラーに謝ると、バトラーは「お気になさらず」と答え、それから彼の状態はいかがでしょうか、と問うた。バトラーが初めてBJに私的な質問をした瞬間だった。
過去に一日だけとは言え面倒を見た後輩が気になって当然だと気付いたBJは、怪我をして発熱している、命に別状はない、とだけ言った。バトラーは一礼してその場を辞したが、次に現れた時には水分補給ができそうな飲み物と大量のタオルを持って来た。そして無言で深々と、バトラーらしからぬ仕草でBJとキリコに頭を下げてから退室した。
「軍人ってのは連帯感が強いからな」
アンディの様子を書き付けたカルテを眺め、キリコは言った。
「一日だけでも同じ場所にいた奴なら気になっちまうもんだし、おまけに後輩なら面倒を見たくなっちまうのさ。しかもSASなんて特殊な場所じゃ当たり前だ」
その感覚はBJに理解できるものではなかったが、キリコも特に理解して欲しいわけではないだろうと分かっていたので、ふうん、と相槌を打つに留めた。
ピノコは患者がいることには慣れていて、広い部屋とはいえ、コネクティングルームで眠るアンディが起きないように静かに振る舞う。BJは寝室からリビングに移動して資料を作り始め、キリコはたまにアンディの様子を見に行く。誰も窮屈だとは思わなかった。患者がいれば当然の、医師たちと助手の態度だった。
やがて夜も更け、ピノコが船を漕ぎ始める。寝室で寝なさいとBJに言われ、ピノコはおとなしく従った。
「せっかく来たのに難儀だな、お嬢ちゃん」
「まさかの展開だしなあ。ひと段落したら埋め合わせしないと」
「明日にはアンディも動けるだろうし、お嬢ちゃんは俺が面倒見るから、先生は資料を完成させた方がいいよ」
「──世話になってすまない」
何を今更、と言いたかったが言わないでおいた。本気で謝るBJの姿に慣れていなかった。
「キリコ、しばらく私がアンディを見るから。風呂に入っておいたらどうだ」
「先生が先に入った方がいいだろうに」
「私はまだいいよ。風呂に入ると眠くなるから」
「じゃあお言葉に甘えて。何かあったらすぐ呼んで」
「誰に言ってるんだか」
「おっしゃる通り」
笑いながらひとつ額にキスをして、キリコはバスルームへ向かった。
豪勢だが品の良いバスルームで少し熱めの湯を流し、急に左目が重くなったことを感じて、アイパッチを外し忘れていたと気付いた。代わりのものは寝室だ。舌打ちをしてバスタブに放り投げ、普段よりも乱暴に髪を洗った。アンディがされた仕打ちを考えるとどうしても苛立ってしまう。とうに忘れたはずの軍医としての怒りが沸き上がるのだ。
同時に──認めた。患者としてとは言え、BJがあの男に心を砕くことが面白くないのだ。少しボーダーラインからはみ出してしまったのかもしれない。気を付けろ。自分に言い聞かせた。自分で線を引き、管理しなければならない。遊びは楽しい。楽しいからこそ管理が必要だ。この件が終われば、この国を出れば、二人はまた元の関係に戻るのだから。
少しばかり長い時間をかけ、シャワーを終えてリビングに戻ると、BJの姿はなかった。テーブルには資料と本が置かれたままた。テラスを覗いてもいない。ああ、そうか、と思った。アンディの様子を見にコネクティングルームに行っているのだろう。
キリコ自身も様子を見ようと思い、コネクティングルームに向かう。僅かに扉が開いていた。聞かなければよかった。心底思った自分が滑稽で、線を引こうとしたほんの少し前の理性はどこへ行ったのかと自己嫌悪に陥りそうだった。
アンディは高熱でうなされていた。いわれのない拷問を受けた精神的ショックもあるのだろう。違う、知らない、知らなかった、とうわ言を繰り返している。
「大丈夫だよ」
あの声だった。キリコも与えられたあの声だった。
「大丈夫。──大丈夫だよ。大丈夫」
うなされる男に何度も優しく声をかけ、きっと髪を、頬を撫でてやっている。キスをしてやっているかもしれない。過去の悪夢にうなされた自分にもきっとそうしてくれていた。どれほど安心できたことか。どれほど穏やかに眠れたことか。それをキリコは知っている。
線を。キリコは強く思った。強く自分に言い聞かせた。
線を引くんだ。線を。ボーダーラインを超えるんじゃない。
おかしいんだ。今の俺はおかしいんだ。
普通じゃないだろう。おかしいんだ。
おかしいんだ。
患者に嫉妬するなんて。
コネクティングルームから出たBJは、テラスにいるキリコを見て、自分も少しテラスで気分転換をしようと思った。アンディはうなされているものの、大事に至るような状態ではない。後は様子見で良いはずだ。
「キリコ」
カウチに座る男を呼ぶと、キリコは緩慢に振り返った。BJは思わず目を奪われた。アイパッチをしていないキリコを──その潰れた左目を見たのは初めてだったのだ。
「……アイパッチ」
「ああ、濡れたから。そういやバスルームに置いて来たな。後で取りに行くよ」
「私が入る時に持って来るよ」
言いながら隣に座る。この数日で出来上がった決まりのようなもので、互いに意識していないとは言わないが、互いに許される距離だと知っていた。そして当然のようにキリコが肩を抱き、引き寄せられる。いつもよりも強く引き寄せられたような気がしたが、気のせいかもしれない。
「アンディはちょっとうなされてるけど安定してる。明日一日寝てれば体力は回復すると思う」
「問題は脚だな。明日の出勤なんて無理だろう」
「タクシーで何とか、かな」
「アンディさえ良ければ俺も行くがね」
「──ふうん」
そしてBJはキリコの顔を見上げ、潰れたその左目を見る。気付いたキリコがふっと笑った。
「初めて見ただろ」
「うん」
「どう?」
「触りたい」
「いいよ」
明らかに医者としての興味と衝動だ。理解したキリコは快く許した。BJはすぐに手を延ばし、あったはずの瞳を探すように丁寧に触れる。そのうち医者が触診する手つきに変わり、思わずキリコは笑っていた。
「診察しないでくれよ。そんな金ないぞ」
「義眼は?」
「今は考えてないな。アイパッチの方が死神らしくて格好いいだろ」
「早く廃業しろよ。そうしたら最高の義眼を入れてやる」
「何億取られることやら」
「タダだ。廃業祝いさ」
「気前のよろしいことで」
笑いながらBJの頬にキスをする。唇を離すと、BJがまだ自分の左目を見ていることに気付いた。
「どうしたの。まだ触る?」
「キリコ」
「ん?」
「格好いいな」
一瞬、何を言われたのか分からずにキリコはぽかんとする。するとたちまちBJの顔が真っ赤になり、いや、その、と口の中で何事かを呟き始めた。やがてキリコは言われた単語の意味を思い出し、ひどく驚き、それから──ひどく、嬉しくなった。
「先生、もう一回言えよ」
「何でもない、何でも! ない!」
「言ってってば。何、凄く嬉しい。死にそう」
思わず言ってしまったのだと白状したも同然だ。初めて見た傷。それを含めても、あるいはそれがあるからこそなのだろうか。どちらでも良かった。女が思わず口にした言葉が、本音だと言うことが分かったからだ。
「言ってよ」
「違うから、何でもないから!」
「言ってよ。──言って、カドルズ」
──ほら、ボーダーラインに立てば言いやすいことなんてたくさんある。だからお願い、一緒にまたボーダーラインに立って。
BJは顔を真っ赤にしたままだった。それを見たキリコは、彼女が異性との近すぎる交流に慣れていないのだとようやく理解した。女を武器にした営業の姿も見て来たと言うのに、まさかこんな顔を持っているとは考えもしなかった。
ああ、可愛いな。心底思った。
ねえ、と言った。ねえ、カドルズ、可愛い抱っこちゃん、俺に言ってよ。
「……素敵よ」
絞り出されるような細い声で、女は言った。ボーダーラインでの話し方だったが、キリコはそれで満足することができた。
「素敵よ。とても。──どんなあなたも素敵よ、ハニーベア」
ボーダーラインでのやり取りだ。単なる遊びだ。
たとえ彼女が真っ赤なままでも。たとえ俺が幸せだと思っても。これは遊びだ。単なる遊びだ。
これは遊びだ。
だからキスをした。キリコがBJを強く抱きしめて、BJがキリコを強く抱きしめ返して、心から愛し合う恋人のようなキスをした。
これは遊びだ。
そう思った。