好きになる 03

 翌朝、アンディの熱は下がっていた。バイタルチェックをしたキリコは感心する。
「さすがSASだな。鍛え方が違う。改めて病院に行って脚と肋骨だけはレントゲンを撮った方がいい」
「ドクターに褒められるとくすぐったいね。本当にありがとう。助かったよ」
「後は先生に一度診てもらえ。主治医は先生だ。それからバトラーにも礼を言っておくんだな。気にかけてくれていた」
 バトラーと聞いてアンディは少し嬉しそうな顔になった。たった一日だけとはいえ、同じ部隊にいた先輩が気にかけてくれたという事実に喜んだのだ。キリコはそれを理解し、彼の肩を軽く叩いてコネクティングルームを出た。
「ちぇんちぇい、起きるのよさ! 顔を洗って朝ごはんにするのよさ!」
「無理……ピノコ、あと5分……頼むから……」
 BJはリビングのソファでまだ睡魔と戦っていた。シンポジウムの資料を明け方までまとめていたのだから当然と言えば当然の眠気なのだが、もうすぐバトラーが朝食を運んで来てくれる時間だ。メイン寝室で眠ったピノコは元気すぎるほど元気だった。キリコはカウチで寝たり起きたりし、たまにアンディの様子を見ていたので眠くないとは言わないが、ほぼ徹夜のBJよりはよほどましだ。
 キリコはテーブルの上の本と資料をとりあえず片付け、ピノコに乗られて揺すられているBJの髪を撫でる。
「一度起きて朝飯だけ付き合え。アンディがもう持ち直してるから様子を見てやれ」
「──うう」
 患者の名前を聞いた途端、呻きながらもすぐに起き上がるBJの医者魂にキリコとピノコは拍手を送る。ついでにピノコはBJが起き上がったために転がり落ち、床に落下する前にキリコの腕に拾われて事なきを得た。
「ロクター」
 コネクティングルームにBJが姿を消すと、ピノコがこそりとキリコに囁く。
「うん?」
「あのね、ピノコ、寝室で見付けたのよさ」
「何を?」
「ちぇんちぇいが持っれないはずの、シュカート」
「……」
 買ってやったあのフレアスカートがクローゼットに掛けてあったのだろうか。キリコはどう説明すればいいのか分からず、思わず沈黙した。ピノコはそれで察したのか、悟った顔で頷いてみせる。
「ちぇんちぇい、たまにはシュカートも履けば良いのよさ。一緒にあったカラーシュトッキングもブラウスも、とってもすてきらったのよさ。ロクターのセンスに拍手なのよさ」
「……お嬢ちゃん、それはその、うん、大人の事情でね」
「れも、ちぇんちぇいが持ってる靴じゃ駄目なのよさ。奥たんとして許せないのよさ」
「……そうかもね」
「らからね、ロクター。靴を買ってあげれほしいわのよ」
 キリコは呻き、完全にこの娘に降参した。買ってあげようとしたんだ、でも、と説明する気にもなれなかった。自分と靴屋の店員のミスを思い出すだけで頭痛がする。だがピノコは容赦なく、畳みかけるかのごとく言った。
「ちぇんちぇいの髪をなでなでするなんれ、奥たんのピノコへの挑戦なのわよ。らったら最後まで戦うのわよ。ちぇんちぇいのシュカートに合う靴を買うのわよ!」
「──先生が買わせてくれるならね。それにどう考えたって奥さんには勝てないよ」
「ピノコはボンカレーで一勝してるわのよ。ロクター、敵前逃亡はダメダメ男のするころなのわよ!」
 ダメダメ男。思わずキリコはまた呻いた。子供ならではの言葉の選択だが、だからこそシンプルに心を抉る。ああ、あんな店に行かなきゃよかった、もっと別の店だって俺は知ってたのに、ユリがあそこの靴を喜ぶからつい、あとついでにちょっと遊んだ女たちも、いやこれは何でもないです。
「分かった。分かったよ」
 キリコは溜息をつき、腹を括った。こんな子供の挑発に、と誰かが聞けば笑いそうだが、目の前の子供が本当の子供ではないことをよく知っていた。もしBJが買った服を着なくても、遊びの小道具としか思っていなくても、その小道具を完璧に揃えてやっても良いような──否、揃えたいと思う自分に気付いた。
「先生に靴を買う。でも今日はちょっと難しいかもしれない。俺はアンディと一緒に出掛けるつもりだから。その後でもいいな?」
「明後日のシンポジウムに間に会えば良いわのよさ」
「シンポジウム? 何で?」
 するとピノコが溜息をついた。見た目は子供、中身は18歳。肝心な鈍感な男に腹が立つほどだった、と分かる者は今ここに誰もいなかった。
「人前でお洒落をするのよさ。こんな機会れもなかったら、ちぇんちぇい、シュカートを履くころなんて一生ないのよさ!」
 そしてピノコは「先生の靴のサイズを教えてあげる」と、驚くほど正確に、紙にBJの足のサイズと甲の高さ、足幅を書き付けて行ったのだった。
 ピノコの観察力と記憶力に驚きながらも、孤高の天才外科医の足が思った以上に小さいのだと気付き、キリコは何とは無しに切なくなった。


 アンディは出勤すると言い張り、主治医を自認するBJは渋ったが、キリコが同行すると言ったので不本意ながらも許可を出した。本当は自分が行きたかったが、何しろシンポジウムが迫っている。とにかく資料をまとめる必要がある。面倒な依頼も受けてしまったし、その打ち合わせもしなければならない。
 ピノコは昨日、キリコに買ってもらった絵本を読んで過ごすと言う。せっかく来たのに悪いことをしているな、とBJは思いながらも、賢い娘に感謝して資料をまとめることにした。気を利かせたバトラーがピノコのために様々な絵本やお菓子を用意してくれたり、ホテルの中庭で安全に散策できる場所を教えてくれた。
 改めて見直した診断書と意見書をアンディに持たせ、キリコと共に部屋を出る彼を見送ってから、BJはリビングで本気で資料作りに取り組むことにした。
 こうなるとピノコは絶対に近寄らない。BJ自身に自覚はないが、書類関連に追い詰められているBJは常に「話しかけたら殺す」「近寄ったら殺す」「ただし食べ物の差し入れは除く」の状態だ。有能なバトラーはピノコに相談するポーズを取ってから、山のようにチョコレートやマシュマロ、ギモーヴを置いて出て行った。頭脳を使う時には異様に糖分を消費するということを知っているからこそのサーブだった。
「認めたくない」
 誰にともなくBJは呟く。
「認めたくない……絶対認めない……明後日がシンポジウムなんて絶対……認めない……無理……」
 予想以上に進んでいない資料を前にひたすら呻く。頭の中は高速で回転しているのだが、何しろ時間が足りない。MI6に振り回されたここ数日の時間を全て返せと心底思った。
 そんな時にバトラーが電話を取り次ぎに来た。ふざけんな、私の都合で非常に失礼だが誰だてめえ邪魔すんな殺すぞ、と思いながら相手の名前をろくに聞かずに受話器を取る。
『あなたがBJ先生?』
「ああ、私ですがねえ。それが何か重要ですかい」
 煙草を咥え、座った目で受話器の向こうに声を投げ付ける。おそらく初老の女の声が冷静に続いた。
『今日の昼あたりに一度ご挨拶をしておきたいのだけど、どう思うかしら?』
「電話口で名乗らないおばちゃんの身勝手なんかに付き合っちゃいられませんぜ、こっちはクソ忙しいんだ。用事があるなら訪ねておいでなさい」
 究極まで意識が目の前の資料に向いている。自分がどんな対応をしているか把握しきれなかったが、横で聞いていたピノコが背筋を震わせるほど酷いものだったとは思いもしない。バトラーは無表情を貫いた。
『あらあら、まあ、そうね、確かにそうだわ。では今日の13時に伺うわ。おばちゃんと少し早めのアフタヌーンティーをいかが?』
「私は忙しいんだ、茶ァ一杯飲んだら帰ってくれ」
『分かったわ。では13時に。失礼』
「さよなら」
 電話を叩き切り、新しい煙草に火を点ける。それからようやく言った。
「今のババア、誰だ?」
 BJの呟きを質問だと取ったバトラーが重々しく答えた。
「首相でいらっしゃいました」
 思い切り煙草の煙を噴き出し、何で秘書を通さないで直接電話して来るんだあのババア、と呼吸困難になりそうな噎せ方をしながら思ったのだった。
「……すげえ美味しい奴に営業かけるチャンスだった……のに……」
 私のせいじゃない、全部MI6が悪い、SASが悪い、内閣が悪い、シンポジウムに集中させてくれないこの国が悪い、ひいてはそうだ、このババアが悪い。BJの責任転嫁を認めてくれる者はここに誰もいなかった。


 ああ、懐かしいな、この雰囲気──キリコはアンディの介添えをしながら思い出していた。まだずっと若かった頃、確かにこんな目で部外者を見たものだ。大怪我をした仲間を支えて歩くおまえは誰だ、その怪我をさせた奴の関係者じゃないのか。全てが懐かしく、どこかで温かい。だがそれ以上は決して思い出さないように感情と記憶の行き先に鍵をする。
「アンディ、おい、何だ。昨日の午後にどっかの黒服に連れて行かれたと思ったら」
「飲み過ぎてすっこけたんだろ」
 おそらくSASの隊員たちだろう。ふざけた物言いをして笑いながらも、キリコに警戒の目を向けている。アンディも笑い、引っ掛けた女が強くってさあ、と軽口を返していた。
「そちらさんは? 随分な紳士じゃねえか」
 隊員の一人がキリコを顎で指した。特殊部隊の訓練所には確かに不似合なアスコットタイと上質で細身のスーツの姿、しかもアイパッチとくれば、隊員たちの目が厳しいものになって当然だとキリコは分かっていた。
 だがアンディが真面目な声で「俺を助けてくれた人」と言った途端、隊員たちは一斉に敵意を収め、アンディの介添えを代わり、どうも、ようこそ、と口々に言った。アンディが筋の通らない目に遭ったことを知っているからこその態度だった。
「ドクター・キリコだ。知ってるだろ」
 アンディが紹介するとあちこちで口笛が吹かれ、闇医者の名前を知っている者が多いことが分かる。特殊部隊だからこその情報なのかもしれない。
「どうも、ギルヴィットだ。ギルでいい」
 隊の中では年上であろう男が名乗り、キリコに握手を求める。曹長だと言った。アンディよりひとつ上の階級だ。キリコは無言で握手に応じた。
「うちの隊員が世話になった。ありがとう。まさか死神に助けてもらえるなんてね」
「詳しい話が必要か?」
「俺より上に。隊長にアンディの様子を話してもらえると助かる」
「隊長」
「ああ」
「部下をみすみす理不尽な目に遭わせた隊長か」
 途端、一度収められた敵意が再び一斉に場を支配した。アンディは「ドクター、ここじゃそれやばい」と小声でアドバイスをくれたが、時既に遅しと言うしかない空気に包まれる。それがどうした、とキリコは思った。元軍医だからこそ分かることがあった。譲りたくないこともあった。思い出したくないことの中から、それだけは自然に顔を出していた。
 ギルヴィットは他の隊員よりもマインドコントロールに長けているのか、上司への侮辱とも言えるキリコの言葉に表情を動かすことはなかった。
「軍隊の経験がありそうだな。返事はいらない。──隊長が待ってる、案内するよ」
 キリコのいらえを待たずにギルヴィットは歩き出す。あからさまな敵意の視線の中、キリコは悠然とその後に続いた。アンディは溜息をつき、ドクターといい先生といい、何でこんなに攻撃的なことを平気で言っちゃうんだろう、と思いながら、隊員が渡してくれた松葉杖をついてやはり後に続く。
「お帰り、アンディ」
 案内された先の部屋にいた男は、アンディを見て微笑みかけた。お帰り、と言う言葉にキリコはまた懐かしさを覚える。おはようではなく、お帰り。そうだ、軍人なんてそんなものなんだ。ここが家になる。アンディが嬉しそうに「ただいま帰りました」と言ったことで、その記憶が呼び起こされた。
「そちらは」
「ドクター・キリコです。ブラック・ジャック先生と一緒に俺を診てくれました」
「そう」
 隊長はキリコに歩み寄り、握手のための手を差し出す。
「隊員がお世話になりました。感謝します」
「感謝は不要です。医者ですので」
 キリコは会釈で握手を拒否する意思を示し、察した隊長も速やかに手を引く。それから客人と隊員に質素な応接セットのソファを勧め、自分も向かいに座った。
「まずはアンディから話を」
「はい」
 アンディは訓練された話し方で報告を始めた。隊長は頷き、時に質問を挟み、理解することに努める。内閣の人員による暴力に話が及んだ時、僅かに眉を顰めたが、キリコから見た表情の動きはそれだけだった。
「何も話さなかったのか」
「話しませんでした」
「──ブラヴォ。よくやった」
 軍人として最高の褒め言葉だ。アンディは「当たり前ですから」と言いながらも顔を真っ赤にし、最大の喜びを得たかのようだった。ああ、こいつはこの隊長を信用しているんだろう──様々な軍人を見て来たキリコは、また記憶の中でそう思った。
「その後解放されてドクター・キリコに手当して頂いた、ということか。それでよろしいですか、ドクター」
「私と言うよりはもう一人。ブラック・ジャック先生をご存知で?」
「──もちろん存じております。なるほど。うちの隊員は随分と有名な人たちにお世話になったらしい」
「彼の状態はこちらで。診断書と意見書、BJ先生の作成で、私も同意した内容です」
「拝見」
 キリコが差し出した書類を読み始めた途端、隊長は眉を大きく顰めた。BJが怒り心頭で書いた内容を思い出したキリコは「そりゃそんな顔にもなるだろうな」と無表情を装った下で頷きたくなる。
「アンディ」
「はい」
「この診断書を持って陸軍病院へ行け。BJ先生が『精密検査の必要あり』と書いておられる。結果に関わらず本日午後から傷病休暇、最低でも一ヶ月。同封の意見書は私から上に提出しておく」
 キリコは隊長の評価をやや上げることにした。部下が理不尽な暴力を受けたことは隊長のミスとして考えられるべきだが、今回の対応は正しい。すぐに判断する思い切りも部下にとっては求心力の材料になる。だが言っておかなければいけないことを思い出し、口を出すことにした。
「ご判断は正しいと思います。ですがその診断書と意見書、この国ではおそらく無効です」
「と、おっしゃると?」
「この国で医者として認められるには所定の大学を出て、所定の試験、臨床をクリアする必要があります。作成したBJ先生と同意のサインをした私はその条件を満たしていない。陸軍という公式の場所で使える書類とは思えません」
「構いません。──構うものか。アンディ、今すぐ行け。命令だ。文句を言われたら電話を寄越すように。理解できない者に私が懇切丁寧に説明してやる」
「イエス、サー!」
 命令と言われれば従う軍人らしい模範的な返事をし、立ち上がったアンディは松葉杖片手に敬礼をした後、キリコに「ありがとう」と言って部屋を辞した。
「ドクターには本当にお世話に。まさかアンディが解放後にすぐそちらに向かったとは」
「謝りたかったとのことで」
「謝る?」
「BJ先生に。MI6とSASの対立に巻き込まれて、彼女が酷く傷付いたものですから。彼はそれを気にしていたようです」
 隊長は短い時間、何かを考えるような顔をする。それから頷き、「なるほど」と言った。
「隊員としては間違った手順だった。何よりもまず報告すべきだった」
「そうでしょうね」
「けれど、人としては正しいのかもしれない」
「そうかもしれませんね」
「改めて申し上げます。──隊員がお世話になりました。ありがとうございます」
 キリコはしばらく彼を見詰めていたが、やがて息を吐き、手を差し出した。信頼に足る隊長が強く握り、キリコの過去の記憶の中にある悪夢を再び左目の奥へ押し込めてくれた。ここには、──ここにも、部下を全力で守ろうとする軍人がいた。それだけで充分だった。
「BJ先生が酷く傷付かれたとのことで、それに関しては──」
「アンディが何かしたというわけではありません。ただ、その状況に関わった者として勝手に自責しただけのことでしょう」
「詳しく訊くわけにはいきませんか」
「彼女の名誉を汚さない範囲でよろしければ」
 それでも構わない、と隊長は言った。キリコは煙草が吸いたくなったが、軍人にしては珍しく、隊長から煙草の匂いがしないと気付き、やめておいてやることにした。その程度にはこの男に好感を持ち始めていた。


 首相の前に座るBJの態度は悪かった。すこぶる悪い、と言っても良いほどの悪さだった。BJとしては「もらうものはもうもらってるし、あの電話の後で白々しい営業なんかかけても無駄だし、茶ァ飲んでさっさと帰れ」と言う気分だ。
 鉄の女と称されることもある首相はBJの態度に腹を立てることもなく、バトラーが淹れた紅茶をゆっくりと楽しんでいる。ピノコはSPの男たちを一人一人覗き込み、ふうん、SPってこんなんなのねぇ、と言って彼らの可愛さへの耐性を無意識に試していた。
「BJ先生、お忙しいところにお時間をありがとう」
「お気になさらずさっさと茶ァ飲んで帰って下さい。私は忙しいんだ」
「私も暇ではないのだけれどね。先生にきちんと御挨拶しておきたかったものだから」
「朝の会場でのバイタルチェックと緊急時の処置だけでしょう。前もってあなたのデータは多少頂きますが、それ以上のお気遣いはいらないですよ」
「正直言うと、あなたにゆっくりお会いしてみたかったのよ。有名なブラック・ジャック先生に」
「こんな顔ですし、こんな人間ですよ。ご満足?」
「もう少し優しくして頂けたら満足するわね」
「するわけねえさ」
 BJは眉を跳ね上げた。突然飛び出した荒すぎる言葉に警戒したSPたちが一斉に視線を向けたが、BJは微動だにしない。ピノコに「寝室へ行ってなさい」と言い付け、彼女が従ってから改めて首相を見た。
「知り合いが内閣の連中に大怪我をさせられた。内閣の頭のババアにくれてやる優しさなんぞありしゃしませんよ」
「何のお話かしら」
 とぼけているわけではなく、首相は本気で分からないという顔になった。BJは「知らねえのか」と吐き捨てるように呟き、今度こそ帰れと怒鳴ろうと息を吸う。
 その時、バトラーがBJに近寄り、耳元でキリコが帰って来たこと、客を連れて来たことを伝えた。怒鳴るタイミングを逃したことと、連れて来た客人が誰かを聞いて、BJは「は?」と言ってしまう。それから多少の時間を思考に充て、よし、と言って首相を見た。
「忙しい私に代わって説明してくれそうな奴が来た。そっちに聞くといい。私はこれで失礼。バトラー、客人をお通しして。何の用で来たかは知らないけど、SASの隊長さんなら首相に危害を加えることもあるまいさ」
 そして部屋の中は混沌とした。首相がいることに驚いたキリコと隊長と、隊長が来たことに驚いた首相とSPがまずそれぞれ何とか情報を交換する。首相は隊長にBJが言ったことの説明を求め、何と隊長はそれをあっさり拒否し、BJ先生に謝ることが先なのでお待ち頂きたいと首相に要請し、秘書官がそれに不満を喚き、キリコが俺はもう知らんと煙草を吸いにテラスへ逃げ──遂にBJが怒鳴った。
「私にシンポジウムの資料を作らせてくれー!」
 おお、遂にヒステリー。でもありゃあ仕方ないよな──煙草に火を点けながら、キリコはしみじみとBJに同情し、一服したら宥めに行くことにした。


「ちぇんちぇい、チョコ食べゆ?」
「いらない」
「ちゅーすゆ?」
「うう、してして」
 可愛い幼女が可愛らしく頬にキスしてくれて、BJはこの娘の手前、やっと落ち着く努力ができた。政治家と軍人の立ち入りを禁じたテラスでバトラーに濃く淹れてもらった紅茶を飲む。
「抗不安剤でもいるかい」
「そんな眠くなるもんいらねえよ」
 キリコの親切な申し出を蹴り、ぬるくなった濃い紅茶を一気に飲む。
「何でSASの隊長がお出ましなんだよ」
「何で首相がいるんだよって気分だね、こっちは」
「勝手に来たんだよ」
「こっちも勝手に来た」
 首相と隊長はリビングを勝手に会見の場に設定し、長々と話し込んでいた。キリコから隊長が来たのは先生に謝りたいかららしい、という話を聞くと、BJはまたうんざりする。
「また時間が取られる。泣ける。もうやだ」
「資料は?」
「もう全部燃やして最初から存在しなかったことにしたい」
「同情するよ」
 しばらくするとバトラーがやって来て、首相がお話をしたいとのことで、と告げた。BJはリビングに向かって大声で言った。
「話があるならこっち来い、ババア! 嫌なら帰れ!」
「先生、俺、ちょっと胃痛がするかもしれない」
 一国の首相に対する態度ではない。目の当たりにしたキリコはそろそろこの女の破天荒振りに可愛さを見いだせなくなりつつあった。合衆国大統領を相手にした時の営業っぷりはどこへ行ってしまったのか。ピノコは慣れているのかいないのか、それとも荒れている時のBJを視界に入れない方が良いと学習しているのか、テーブルの上のミニケーキを食べては「おいちぃ」と可愛らしい。
 怒鳴りつけられた首相は怒ることもなく、むしろ秘書官たちの方が怒り顔で、BJとキリコ、ピノコがいるテラスへやって来た。
「ババアが来ましたよ」
「何の用」
「謝るわ」
「はあ?」
「知らなかったなんて事実は言い訳にもならない。あなたとドクターと、それからアンディと言う彼にしてしまったこと、謝らせて頂戴。彼も同じ気持ちよ」
 首相の後ろにいた隊長が頷く。首相は更に続けた。
「あなたの態度も理解できたわ。当たり前ね、私に対して礼儀正しくなんてできるはずもない。本当にごめんなさい」
 キリコはBJの表情から怒りの色が消え、次に困惑に覆われ始めた瞬間を眺める。これだから、と思った。──これだからこの女を可愛いと思っちまうんだ。ほら、今度は自己嫌悪だ。怒り過ぎた、無礼だった、どうしよう、って顔だ。
 少し助け舟を出してやることにした。BJも首相も隊長も、きっと器用ではないと思ったからだ。
「お嬢ちゃん」
「なあに、ロクター」
「先生はお嬢ちゃんを叱り過ぎちゃった時、いつもどうしてるんだい」
 聡い娘は恋敵のロクターの言いたいことを察し、ふふ、と笑ってみせた。
「ぎゅーって。ピノコのこと、ぎゅーってしてくえゆのよさ。そいでピノコに心の中でごめんってゆってくえたのが分かゆのよさ!」
 BJよりも先に首相が笑った。そしてカウチに座ったままのBJに近付き、膝を折る。それからまるで子供にするように両腕を広げた。BJはピノコを見て、それから隣のキリコを見て、そして困ったように笑ってから、首相に「ごめんなさい」と言ってその抱擁を受け入れ、自分からも返した。
 流石に隊長とは握手で済ませ、それからは少し穏やかな態度で話をすることになる。百戦錬磨のBJも鉄の女にはまだまだかなわないのか、随分とおとなしかった。たまに素の顔で笑ってみせることすらあった。
 首相はアンディに手厚い補償と名誉を約束し、筋違いの暴力に及んだ者を厳重に罰すると言い、BJと隊長を満足させた。MI6とSASの今後の連携についての話にも及びかけたが、知りたくない、とBJが言ったため、ここでは話さないことになる。
「あなた、ロンに聞いた通りだわ」
「ロン──ああ、ええ」
 合衆国大統領の愛称を聞いたBJは頷く。この国の首相と合衆国大統領が話をしていても何ら不思議はない。それにしても自分の話までしていたとは驚きだった。
「気が強いけど可愛らしくて、それから素敵な恋人がいるって」
「……え」
 BJはぽかんとし、キリコはぎょっとする。ピノコはふむふむと二人を交互に見て頷き、でも奥たんはピノコなのよさ、と呟く。
「たまには遊びに来て欲しいってロンが言ってたわ。機会があったら三人で行ってらっしゃい」
「……あの、何、それ、ババア、じゃなくておばちゃん、じゃなくて、おばさま?」
「さあ、もうお暇しなきゃ。長い時間ありがとう」
「え、待って、おばさま、待って」
 咄嗟に頭が回らないBJとキリコに暇を告げ、首相は隊長にももう帰るように促す。見送りはいらないわと言い置き、来た時と同じように秘書官とSP、そして増えた隊長を引き連れ、忙しい鉄の女は風のように帰って行った。
 急に静まり返ったテラスは三人の沈黙が降りるのみだ。
 沈黙に耐えかねたのか、それとも全ての経緯に呆れたのか、それはもう誰にも分からなかったのだが、ピノコがほうっと見た目に似合わないほど大人びた溜息をついた。
「ピノコは奥たんよ」
 じゃあ恋人は。ピノコの言外の質問に、BJは何も言えず、キリコは額を抑えて天を仰いだ。ボーダーラインの遊びが思わぬところで思わぬ話を産んでいたなどと思いもよらなかった。


 それ以上二人の間が進展することはなく、それどころかボーダーライン上での遊びをする暇もなかった。結局その日のBJは徹夜で資料をまとめ続け、朝食前に主治医と化したキリコに最低1時間半の仮眠を命じられ、死に態で起き出してカフェイン剤をコーヒーで流し込むと言う荒業を行い、そして主治医に目一杯叱られる。
「お嬢ちゃんは大きくなってもあんな真似するんじゃないぞ」
「ちないのよさ。ちぇんちぇいにも言われれゆのよさ」
「人には言っておきながら自分はやるってのがなあ。先生らしいと言うか」
 すっかり茶飲み友達になった二人は特に目的もなく街へ出る。しかしホテルを出た途端、ピノコが「靴」と言い出し、キリコはまたぞろ降参の気分だった。あの店にはもう二度と行く気になれない。さて、どこで買うべきか。ピノコを連れて行っていいものなのか。とりあえず小洒落たカフェに入り、可愛らしい小さなプリンセスをロンドンっ子に見せつけることにした。
「シンポジウムは明日なのよさ。今日買わなきゃ!」
「確かにそうだけどね。先生が明日スカートを履くとはとても思えない」
「でもちぇんちぇい、一生懸命なのわよ。晴れ舞台なのわよ日本にいゆ時かやいっぱい資料を集めれ、全然寝れなかっらのよさ」
「──え?」
 キリコはつい、意外だと思った。あの天才のことだ。今回のようなイレギュラーはともかく、英国に入国してから片手間でやるつもりだったとばかり思っていた。
「ちぇんちぇい、普通のシンポジウムは出れれないかやってゆってて。本当は楽しみにしてゆのよさ」
 ピノコはアップルジュースのストローをぐるぐるとかき回しながら続ける。その顔はまるで連れ合いの努力を認めて欲しがる妻のようで、彼女の見た目の年齢にはあまりにも不釣り合いだった。
 彼女が語る話は医師の資格を持っているキリコが忘れてしまうような一面の話で、ああそうか、と何度も思った。無免許医、そして国際医師連盟の申し出を蹴った過去があるBJは、一般的なシンポジウムに出ることがない。禁じられているわけではないが、混乱や人目を考えると面倒なのだと言うらしい。だがピノコは知っていた。面倒なんじゃない、哀しくなるからだ。
「ちぇんちぇい、強いけろ。強くない時もあゆのわよ」
 知ってるよ。キリコは心の中で呟いた。
 神の手を持つBJの話を聞きたい者は多いだろう。だが神の手を厭う者も多く、そしてそんな者ほど力が強い。争うことになるくらいなら出ない方がいい。その間に何件手術ができると思う? シンポジウムなんて一銭にもなりゃしない。一度シンポジウムに出ることを勧めたピノコに、BJはそう言った。
 だから今回の非公開シンポジウムのオファーに応じた時、ピノコは驚いた。たまにはね、とBJは素っ気なく言いながらも熱心に資料を集め、読み耽り、結局は渡英前から酷い寝不足が続いていたと言う。
 ああ、そうか──キリコはやっと納得した。BJが今まとめている資料の密度、難易度。あれは入念な下調べがあったからこそだったのか。天才と言うレッテルで錯覚していた。彼女に失礼なことを思っていたかもしれない。
「医者なんだな」
 キリコは呟いた。
「人を救いたいから、そうなんだ」
 俺とは違う方法だけどね。それは言わなかった。ピノコに言うべきではないと知っていた。
「シンポジウムに出ゆのが?」
「そう。──先生が持っている知識をみんなに分けたら、先生じゃない誰かも、先生みたいに誰かを救えるかもしれない」
 だからこそ、あの資料は難易度が高い。密度が濃すぎる。削ればいいと言った自分を殴りたくなった。今度はいつ、彼女自身の知識と経験を他人に伝えることができるか分からない。だから今できる限りを。伝えられる限りを。あの紙の中に彼女は必死で詰め込んでいる。
「お嬢ちゃん」
 俺も行こう。不意に決めた。明日はシンポジウムに出席しよう。質疑応答は他の参加者も白熱するだろうから、俺は遠慮しておいてやる。でも楽しみだ。──本当に楽しみだよ。
「靴は買わない。明日、先生はいつもの格好で出るよ」
 色気も素っ気もない着た切り雀。ニューヨークでそう言ったら彼女は少し怒っていた。
「お洒落なんかしなくたっていいんだ」
 あの格好が何よりも彼女らしいのだと、今、強く思った。
「あの服が一番素敵だからね」


 明け方、BJはリビングのソファに倒れ込んで意識を失っていた。気になって起き出したキリコはその姿を見て苦笑し、間に合わなかったのか、それでも充分すぎる内容だろう、とテーブルの上に散らばった紙を手に取る。そして「お見事」と心からの称賛の言葉を嘆息と共に口にした。完璧すぎる資料がそこにあれば、医者としてそう言うしかなかったのだ。
 ノンブル通りに揃え、高級ホテルのリビングの一角とは思えないほどの惨状となっているテーブルを簡単に片付ける。
「……キリコ」
「ごめん、起こした? まだ明け方だから寝てていいよ。ベッドに行きな」
 呻くような声に優しく返事をし、髪を撫でてやる。そのまま再び眠りかけているBJを見て、自力ではもう動けないだろうと判断し、抱き上げて運んでやることにした。さあカドルズ、ベッドに行くよ、と声をかける。こんなことにも随分慣れてしまったような気がする。
「キリコ」
「うん?」
「……Kiss me before I rise」
 起きる前にキスして。
 キリコが返事をする前に、BJは寝息を立て始めた。
「……ハニーベアに言いなよ」
 キリコの呟きは眠るBJに届かない。
 起きる前にキスして。それはボーダーラインの上なのか、それとも踏み外した場所なのか。