片が付いたのは正午近くだった。大規模な事故ではないが、スタッフの一人の不注意によるトラブルだったことが明らかになり、アリーチェがそのスタッフをプロジェクトから外すよう強硬に主張した。
「安全を考えれば一度のミスも許されるべきではないわ」
「人数が限られているのに? 今回はそこまで──」
スタッフたちが喧々囂々となる中、キリコは我関せずで伸びをし、コーヒーを一口飲む。かなりの眠気に襲われていた。プロジェクトの進行については相当の権限を持たされているが、人事に関しては一切触れられない立場だった。興味もなかった。仕事中にはほぼ一緒に行動するアリーチェの名前を覚えたのもつい最近だ。
覚えるまでは心の中で密かに「金髪のプレイメイト」と呼んでいたなどと口が裂けても言えない。だがキリコからすれば、白い肌と金髪の彼女にはその程度の能力しかなかった。自分の機嫌を取るために配置されたことはすぐに分かった。依頼によってはよくあることだ。
アリーチェもおそらく理解しているからこそ、自分の能力を人事に認めさせるために躍起になって仕事をしている。強硬な態度もその一環だろう。キリコはその努力を否定する気はなく、彼女の行動には一切口を出さなかった。
「ドクターはどう思うの? 外すべき? 継続するべき?」
「どちらでも。私は人事に口を出せないのでね」
「参考までに、ってことよ。意見は?」
「帰ってシャワーを浴びて煙草を吸ってひと眠りするべきだという意見だ。──私を巻き込むな。契約以上の仕事はしない」
言い捨て、返事を待たずにコーヒーを飲み干すと、キリコは帰宅する旨を告げて立ち上がった。今日の仕事はもう終わりでいい。BJはアパートメントにいるだろうか。まだホワイトハウスにいるようなら迎えに行った方がいいだろう。
それから、不可抗力とはいえ随分可哀想なことをしてしまったと反省した。あのBJが自分を追って空港まで、そのまま一緒にワシントンまで来るという、普段の彼女からは想像もできないほど愚かで健気な真似をしてくれたのに、一人で夜を過ごさせてしまったとは。せめて大統領一家と朝食を取って、少しでも明るい気分になってくれていればいいと思う。拗ねた女の顔を思い出して胸が痛んだが、同時にあの顔はひどく可愛かったな、とどうしようもないことを思ったのも確かだった。
徒歩で20分程度のアパートメントはメゾネットになっている。何軒も連なったメゾネットをまとめてアパートメントと呼ぶ通りで、場所柄それなりに裕福な者、同じく裕福な観光客が多く使っていた。治安も良く、警察官が重点的に警邏をする場所でもある。とはいえ観光客を装った犯罪者が潜り込み、強盗を働いた過去もあり、護身用の銃は必須で、キリコも自宅に短銃を置いてあった。
「ドクター、さっきはごめんなさい」
使っているメゾネットが見えた時、後ろからアリーチェに声をかけられた。わざわざ追いかけて来たようだ。キリコは面倒を覚えたが、突き放すほど冷たくする理由もなかった。騒ぎになって警察官に目を付けられる方が面倒だ。
「いや、別に」
「結局、継続になったわ」
「そうか」
「人事権はともかく、正しいと思う?」
「私が判断することじゃない」
「でも──きゃあ!」
不意にアリーチェが悲鳴を上げ、派手に転んだ。流石にキリコは眉を顰め、アリーチェの横を無理に駆け抜けて転ばせたロードバイクに「気を付けろ!」と声を上げる。ロードバイクは停まることなく、そのまま走り去ってしまった。
「怪我は」
「大丈夫──やだ、もう。膝が」
多くの男にとっては魅力的に映る白く細い脚に、残念な赤い色が生まれてしまっていた。縫うほどではないが多少の手当が必要だと判断し、キリコは彼女に「歩けるか」と問う。歩けないと言ったら救急車を呼ぶつもりだった。肩を貸したり、ましてや抱き上げる気にはなれない。幸いにも歩けると言ったので、指で自分のメゾネットを示した。
「傷を清潔にして保護した方がいい」
「いいの?」
「処置してすぐに帰ってくれるなら構わない」
「あら、恋人でもいるのかしら? じゃあお言葉に甘えるけど、急がせてもらうわね」
BJが戻って来ていても疚しいことはないと説明できる。それにBJなら、彼女の膝を見れば何が起きたかすぐに理解するはずだ。その点、キリコは気楽だった。
帰宅してもBJの気配はなかった。後でホワイトハウスに連絡をすることに決め、キリコはリビングにアリーチェを通す。アリーチェが自分で処置できると言ったので医療道具だけを貸した。
家に銃を置いてある時の癖で、テーブルの裏に隠してある銃を手に取り、弾倉を確認する。手慣れたその姿にアリーチェが目を丸くした。
「護身用だ。客人を撃つ予定はないよ」
「そうよね。驚いた」
テーブルの裏に隠し直すのも面倒で、そのまま置いてソファに座る。アリーチェに早く帰って欲しかった。BJに連絡をしたかったし、何より徹夜明けでかなり眠い。BJが付き合ってくれるなら一緒にベッドで昼寝をしたかった。──早漏ではないという証明は夜でいい、と思った。
アリーチェが金切り声の悲鳴を上げたのはその瞬間だった。一気に覚醒し、銃を取って立ち上がる。アリーチェの視線でリビングの入り口を見て悲鳴を上げたのだと知り、確認する前に過去の訓練がキリコを動かした。
動いた瞬間に後悔した。出会ってから最大の後悔だったかもしれない。動くな、と叫んでまた後悔した。その時点で分かっていた。安全装置を外したのは俺じゃない、叫んだのは俺じゃない、俺の過去だ──誰にその言い訳をすればいいのか分からなかった。
動きは全て完全に、無意識下にインプットされたもので、自力ではもう止められなかった。傷付いた顔すらしないでそこに立つ女に、安全装置を外した銃を向けていた。
「──Fxxk!」
それは自分への罵りだ。罵りながら銃を降ろし、ごめん、と言った。
「ごめん、先生だと思わなくて──」
「誰!? 勝手に入って来て! 強盗!?」
アリーチェは完全にBJを侵入者だと勘違いしていた。このアパートメントでは珍しいアジア人、しかも顔にある大きな傷は目を奪い過ぎる。勘違いするには充分な理由がある。それはキリコも分かった。だがアリーチェを殴りたいと思ったことは仕方ないということも自分で理解できた。
「誰なの! 出て行って!」
「アリーチェ、黙ってくれ。──悪かった。今帰って来たのか?」
BJは答えない。呼びかけに反応もせず、まだキリコの手にある銃を凝視していた。気付いたキリコはもう一度「悪かった」と言ってテーブルに置く。同時にメゾネットのドアが強く叩かれ、警察だ、と叫ぶ声が聞こえた。キリコは心底アリーチェを殴りたくなった。彼女の金切り声を聞き付けた警邏中の警官がやって来たのだ。
「先生、彼女とここにいて。俺が出る」
「冗談でしょう、ドクター、わたしは嫌よ!」
「黙ってくれ。つまり、先生──」
アリーチェのヒステリックな声に苛立ちを感じながらもBJに説明しようとしたが、警官が再びドアを強く叩く。出なければ突破される。キリコは「とにかくここに」と言い置き、リビングを出てドアへ向かった。
「お世話様。来てもらって悪いんだが、ちょっとした勘違いだ」
「ちょっとした? どんな? 強盗って聞こえたんだ」
「勘違いだ。仕事先の女が俺の女と顔を合わせてね」
「それはお気の毒。しかしね、悪いんだが、中を改めさせてくれ。規則なんだ」
ここで拒否しても何も良いことはない。他の警官も騒ぎを聞きつけたのか、それとも誰かが通報したのか、今度はパトカーまでやって来る始末だ。既に野次馬も現れている。キリコは溜息をつき、警官を中へ通した。
リビングではある意味、BJがいるのなら予想できた光景になっていた。アリーチェの膝の傷を手当していたのだ。アリーチェは警官が入って来たと知ると、自分の勘違いがどれほどのトラブルを引き起こしてしまったかを理解し、何てことを、と呟いて顔を覆う。
キリコが今度こそBJに説明しようとしたその瞬間、信じられないことが起きた。警官がBJに銃を向けたのだ。
「両手を挙げて立て」
「おい、勘違いするな。俺の女と仕事先の人間だ」
「いいから立て。この紳士の恋人に何をしている、中国人か?」
「──ふざけるな、俺の女はそっちの日本人だ!」
「手を挙げて立て。最後の警告だ」
キリコを無視し、警官は慣れた手つきで照準をBJに合わせる。BJは溜息をついて無言で立ち上がり、言われた通りに両手を挙げてみせた。
「何が目的で家に入り込んだ? その女性に何をした?」
「おい、待て。──勘違いだ。もう何もない、出て行ってくれ。あんたが今銃を向けている女が俺の女で、そっちの金髪が仕事先の人間だよ」
警官が勘違いした理由が嫌になるほどに分かる。ロンドンで目の当たりにした差別と同じ理由だった。白人男性の部屋に白人女性がいれば、大抵はその二人が恋人同士だと思い込む地域と時代なのだ。アリーチェを部屋に入れたことがそもそもの間違いだったとキリコは強く後悔した。
「本当か? 俺を出て行かせたくて適当な嘘をついてるんじゃないだろうな」
「本当だ」
「──連行するならしろよ、お巡り」
初めてBJが口を開いた。キリコのことも、アリーチェのことも見てはいない。銃を降ろさない警官に挑発めいた口調で続けた。
「慣れてるよ。別の州でも一晩ぶち込まれたし、日本でも何回か逮捕されてる。どうってことない」
日本の件はともかく、別の州での拘留経験が初耳だったキリコは驚くが、すぐに自分たちの世界なら有り得ることだと思った。それでもBJの今の態度は余りにも投げやりで、何を考えているのか分からない。
「どこの州だ?」
「A州。仕事の帰りに職質されて、パスポートも査証も見せたのにそのままぶち込まれてさ。慣れてるんだよ。早くしてくれ、腕が疲れる。早撃ちが苦手なのにもほどがあるだろ」
「俺を侮辱するな。公務執行妨害になるぞ。今のは聞かなかったことにしてやる」
「うるせえな。どうせ連行するんだろ、早くしろよ。それからぶち込むのは一晩だけにしてくれ、身体がもたない」
「ホテル並とは言わないが、女ならそこまで酷い環境にはならない。それに今の時間なら、きちんと取り調べに応じれば夕方には出られる。無罪が証明できればの話だが」
「何だ、紳士的だな。A州じゃお巡りどもに一晩中まわされたから、ここでもやられるかと思ってたよ」
「──何だって?」
キリコだけではなく、警官も、アリーチェも息を呑んでBJを見た。BJは飄々とした、まるで仕事の話をする時のような顔で「続けるか?」と警官に問う。警官は口の中で「マジかよ」と呟き、銃を降ろした。
「手を降ろしていい」
「そいつはどうも」
「別の州の話でも、あっていいことじゃない。本当の話なら代わりに詫びる。すまなかった」
「どうってことない。慣れてるよ」
「詫びて済むことじゃないが──」
「済まないなら詫びるなよ。お巡りの自己満足なんぞに付き合う義理はない。──私はもう無罪放免ってことでいいのか? 外に来てるパトカーに乗るべきかどうか教えてくれ」
「あんたは無罪だ。済まなかった」
「ご苦労さん」
「本当に悪かったよ。何かあったら俺に連絡してくれ。必ず力になる。すまなかった」
警官はもはやキリコとアリーチェを視界にも入れず、ただ何度もBJに詫びの言葉を繰り返し、自分の連絡先を書き付けたメモを渡して待機していたパトカーに事情を説明し、帰って行った。
「先生、すまなかった。説明するから聞いてくれ」
「同僚の怪我を処置してやろうとしたらこうなっただけだろ。見れば分かる」
「先生」
投げやりな声を聞きたくなくて、キリコはとにかく話を聞いてくれと願う。だがこうなった時のBJが、まるで針鼠のように棘を出しながら、固く丸まって自分を守ろうとすることも知っている。
「ごめんなさい。──わたしのせいです。本当にごめんなさい、何て言えばいいか分からないけど──」
「別に。黄色いツギハギ女より白人の金髪ねえちゃんが優先されるのは日本も一緒だよ。気にしなさんな」
「お詫びにもならないけど、あなたがA州で遭った被害を訴える手伝いをさせて頂戴。兄が弁護士なの。役に立てるわ」
「──アリーチェ、帰ってくれ」
あまりにも無神経だと思った。キリコは自分でも滅多にないと分かるほどきつい声でアリーチェを促した。成人男性の厳しい声にアリーチェはびくりとし、BJはちらりと一瞬だけキリコを見る。
「でも、こんな──女性が被害に遭ったまま泣き寝入りする時代はもう終わりにするべきなのよ」
「だったら泣き寝入りしたくない女を探せ。これ以上俺を惨めな男にしたいならいつまでもいればいいが、彼女を傷付けるのはやめてくれ」
「傷付きゃしねえよ、この程度で。──私はマンハッタンに戻る。じゃあさよなら」
「待つんだ」
帰せるはずがない。キリコは医療鞄を持とうとしたBJの手元からそれを奪う。出て行こうとする恋人に縋る情けない男だと思われても良かった。だが、ここで帰してしまうことだけは避けたかった。鞄をテーブルに置き、もう一度BJに話しかける。
「アリーチェはもう帰る。俺と話をしよう」
「ええ、ごめんなさい、お暇するわ。さようなら。──気が変わったら連絡を頂戴、あなたの役に立てるはずだから。これが連絡先──」
「──Get out of my face!」
俺の前から消え失せろ! 名刺をBJに渡そうとしたアリーチェを遂に本気で怒鳴り付け、腕を掴んで引きずり、玄関から文字通り叩き出した。まだ外で様子を窺っていた野次馬たちに笑われ、美しい女は羞恥に耳まで赤くなり、唇を噛み締め、速足でメゾネットを立ち去った。
「先生、頼む。話を聞いてくれ」
「手短に」
「銃を向けたのは間違いだった。すまなかった」
「あれならきっと誰でも間違える。仕方ない」
「ありがとう。──彼女はフォート・デトリックのスタッフで、プロジェクトが一緒なだけだ。この近くで転んであの怪我をしたから」
「そうか」
「わざわざマンハッタンから来てくれたのに、嫌な思いをさせて悪かった」
「そうだな」
「──嫌な話をさせて、悪かった。許してくれ」
「知りたくなかった?」
BJがキリコを見上げた。キリコは慎重に言葉を探した。ひとつでも間違えたことを言えば傷付ける。これ以上傷付けたくなかった。見付けた言葉はキリコの本音で、彼女に伝えても良いものだった。
「先生が知らせるべきだと思うなら俺が知るべきことだ。でも今、先生に言わせるべきじゃなかった」
「そうか。他になければ話は終わりだ」
「先生、だから──頼むよ。俺ときちんと話をしよう」
「私の話を聞く気はあるか」
「何でも聞くよ」
だからとりあえず座って、と言う前に、BJは静かに言った。全ての感情を押し殺したその声はキリコを絶望させた。
「さよなら」
流石に驚いた。空港でゲートを出たその場所に、ユリとグラディスがいれば当然のことかもしれない。だが彼らにマンハッタンに戻る連絡などしていないし、そもそもユリの連絡先も知らなかった。
「先生、お帰りなさい。──にいさんが連絡をくれたんです。ホテルの手配を手伝ってやってくれって」
「……ああ、そう。わざわざありがとうございます」
ユリが事情を知っていることは明白で、まるで自分が罪を犯したように沈んだ顔をしていた。BJはそれを腹立たしく感じた。ユリがこんな顔をする必要がどこにあるのか分からなかったのだ。
「僕はドクターの近くに配置されてるうちの隊員に連絡を受けてね。ここに来たらユリさんがいたってわけ」
「おまえさんには何の説明も求めちゃいないんだが。口を縫うところから始めようか」
「いつもの減らず口よりパワーがないな、アルコールと楽しいイベントが必要だ。ユリちゃん、付き合って」
「酒もイベントもいらないよ。ホテルを探さないと。他にやることもあるし」
「言うこと聞きな。罪滅ぼししてやろうってんだから」
「は?」
グラディスはBJの医療鞄に手を延ばす。BJは抵抗しようとしたが、流石はデルタフォースと言うべきなのか、軽く指を押されたただけで瞬時に手から離され、鞄を奪われてしまった。
「無責任なことを言った。悪かったよ」
何のことかと暫し考えたが、すぐにあの車の中での会話だと分かった。確かに言われなければキリコを追うことはなかっただろうし、こんな状況にならなかったかもしれない。だがBJはこの男を責めようとは微塵も思えなかった。
「いや、楽しかった。行って良かったよ」
「よく言うよ」
「私のことが嫌いなくせに随分しおらしいじゃないか、どうしたんだ」
「自己嫌悪から逃れる方法を探してるんだ。嫌味を言ってる暇がないよ」
ストレートな言い様に、BJは少し笑ってみせた。
「初めて手を繋いで歩いたんだ。楽しかった。おまえさんのお陰だ」
「何それ、恥ずかしくて聞いてらんない」
言うなりグラディスはさっさと歩き出した。身を翻す前に何かを後悔するような、おそらくは彼らしくない顔が一瞬だけ見えて、BJは意外に思った。意外に思いながらも、いつかキリコに言ったことを思い出していた。
悪い人じゃないんだ。ほとんどの人はね。
「先生、ごめんなさい」
ユリが震える声で言った。驚いて彼女を見ると、兄と同じ色の瞳に涙を溜め、それでも泣いてはいけないと必死で堪える顔をしていた。それがこの上なく美しく見えて、そしてその美しさに素直に綺麗だなと思えたことに安心して、BJは微笑んで首を横に振った。
「本当に楽しかったから、いいんです。もう彼と並んで歩くことはきっとないから、いい思い出になった」
「そんなこと言わないで。お願い。にいさんともう一度だけでいいから、話をしてあげて」
「ユリさん、やめて下さい」
今度こそ泣き出したユリを抱き締め、BJは優しく言った。この女性は何て優しくて素敵なんだろう、と思った。
彼の妹だからだろう、彼も優しくて素敵だから。そう思えた自分を褒めてやりたくなった。
「あなたが泣いたら、私まで泣きたくなってしまうから。泣かないで」
声が震えたのはきっと、気のせいだ。
──こんなことで泣くなんて私らしくないし、有り得ない。
悪い人じゃないんだ。ほとんどの人はね。
そんな人たちに甘えて、良いように使って、被害者ぶった顔で生きる私だけが、悪い人なんだ。
そりゃあたまにはこんなしっぺ返しもあるさ。
それからの時間は酷いものだった。酷い、としかBJは言いようがなかった。だが決して嫌な時間ではなく、もしかしなくても自分は生まれて初めて男のことで自棄酒を飲んでいるのだという事実が妙に楽しくなった。楽しくさせてくれる彼らに感謝した。
グラディスがBJとユリを連れて行ったのは、マンハッタンの中央から少し離れた場所にあるパブだった。観光客よりもマンハッタンの勤め人や住民が利用する店だ。店に入るなりグラディスが「早漏の白人野郎を振った勇気あるヤマトナデシコのお出ましだ!」と叫び、顔も名前も知らない、居合わせただけの客たちが瞬時に盛り上がる。もちろんそれは下卑たものではなく、ひとつの恋を終えた日本人女性に自棄酒と醜態を許す合図だった。BJの風体を気にする様子を見せた者もいたが、すぐにアルコールの海の中に消えた。
客の中にはグラディスの部下たちが3人いた。少佐から聞いてるよ、少佐なんか助けないで殺しておいてくれればよかったのに残念だよ、俺たちの訓練が楽になったのにさ、と言ってまずBJを笑わせてくれる。ユリは自分の酒よりもBJの酒に気を配り、グラディスのフラットで見せたような酔い方を意識的に自制した。
いくら飲んでも酔わなかった。酒に強いBJがこれだけ飲めば流石に、と自分でも分かるほどの量を飲んでしまっても、アルコールが全く効果を発揮しない。だが見知らぬ店の空気と口々に話しかけてくれる隊員や客たち、わざと彼らを高飛車に叱り付けて周囲を笑わせてくれるユリのお陰で、さよならと言った時に見た男の顔をとりあえずは思い出さなくて済んだ。
店員が保留にした電話の子機を持ち、BJに声をかける。だが横からグラディスが掻っ攫い、本日に限りこの電話番号は使われておりません、良い夜を、と言って叩き切り、店員に返した。
監視の連中から聞いたんだろうけど大統領だった、とグラディスがBJに告げ、何であの人相手にあんな口が利けるんだよ、とBJは思い切り笑ってしまった。笑い過ぎて涙が出た。
なぜか涙が止まらず、慌ててレストルームに逃げようとしたが、グラディスが顔を見ないまま片手で無理に椅子に押しとどめ、それからユリに抱き締められ、酷いものだと思いながら、客たちが喧騒で嗚咽を隠してくれる中、少し長い時間、泣いた。
一人で泣くよりずっと楽だ、と、幼馴染がフランスに行ってから初めて思い出した。
翌朝、アリーチェの姿がなかった。ある程度予想はしていたが、仕事に支障が出てはかなわない。入退室表を見ると、彼女の名前と今日以降の入退室チェックの部分に斜線が引かれていた。誰の不興を買ったことやら、と心の中ですら白々しく呟く。
正直、彼女に非はなかったと思う。自宅に招き入れたのは自分だし、不審者の侵入に大声を上げて周囲へ注意喚起する行動は、この国ならむしろ正しい。彼女は何ひとつ間違えていなかった。近年盛んな女性の権利の向上運動に共感し、心からの親切でBJに弁護士を紹介しようとしただけだった。それもきっと別の人間が見れば正しいことだと言ったはずだ。
朝、管轄の警察署長から電話が入った。はっきりと言われなかったが、おそらく大統領が介入したであろうことはすぐに分かった。自分とBJにホワイトハウスの監視が付いているのはよく知っていたし、自分を政治的に、そしてBJを個人的に手放したくない大統領であれば、軽率と言われる可能性があるこの行動もよく理解できた。彼にとっては手駒に逃げられないためのフォローに過ぎない。
署長はキリコのメゾネットに詫びに行きたいと言ったが、既に警官本人が恋人に何度も詫びた姿を見ていること、彼は仕事をしただけだと言うこと、出勤時間が迫っていること、そして何より恋人に既に別れを告げられたことを理由に断り、署長を絶句させてからフォート・デトリックに向かった。そして昨日、あの状況でただ一人、正しい行いをした女性がこのプロジェクトから外されていることを確認した。
「ドクター、アリーチェの代わりにすぐ誰かが配置されるはずなんですが、スキルの希望があれば人事に──」
キリコがアリーチェの処遇を知ったと感じたスタッフの一人が説明しようとする。だがキリコは最後まで聞く気になれなかった。
「プレイメイトは必要ないと言ってくれ」
「……あ、はい、言っておきます」
やっぱり気付いてたのか、という顔をするスタッフに肩を竦めてみせる。
「昨日、本命に振られたばかりなんだ。女は当分懲り懲りだよ」
それからしばらくして、事務員が今度はしっかり保留にした子機を持って現れる。受け取ったキリコは電話の向こうに挨拶もせず、丁寧に言った。
「この番号は当分使われる予定がございません。良い一日を」
一方的に通話を切り、子機を事務員に返す。事務員はまるで自分が取り返しのつかない失態を犯したかのように青ざめ、子機の向こうにいた大統領はこのドクターを許すのだろうか、と心の底から心配してしまった。
適当に決めたホテルは分かりやすい安宿だった。ホテル探しを手伝ってくれたユリはセキュリティを心配したが、しっかりした鍵があればどこでも良かった。今まで滞在していた高級ホテルや昨日泊まったホワイトハウスが既に夢のようで、他人の金とはいえ私はこの国で贅沢をし過ぎていたな、と反省した。
日本に帰る前に少し片付けなければならないことがある。予想があった。予想と言うよりは予感かもしれない。
──あの女性の患者は必ず私に連絡をして来る。誰かが私のことを教えるはずだ。
公権力が関わるなら依頼を受けない、あくまで彼女個人からの依頼なら、と宣言したことは確かだ。だが確実に政府の誰かが親切を装い、彼女の生命を救うため──それは延命にしかなり得ない可能性が非常に高かったが──ブラック・ジャックの存在を吹き込むだろう。金銭に余裕がある彼女であれば一度は連絡を取りたがるかもしれない。
予想は正しかった。翌朝、フロントから外線の着信連絡を受けた。煙草に火を点けてから取り次ぎを受け、受話器に向かって名乗った。
少し話をした後、10時に病院に向かうと告げる。電話を切ってから瞼がひどく腫れ上がっていることに気付き、うんざりして溜息をついた。泣き腫らした目をした闇医者など誰が信用するものか。風呂で徹底的にむくみを取ってから出掛けなければ。
男は当分懲り懲りだ。いつもより熱いシャワーを浴びながらそう思った。