「って言うのは冗談として。ユリちゃんがご飯作ってくれてるうちに仕事の話、詰めちゃおう。脱線してばっかりで嫌になる」
「冗談で俺の心を殺そうとした奴の言うこっちゃないな」
「先生が話を振ったんだよ」
「違う!」
酷過ぎる責任転嫁にBJはまた赤くなる。何て性格の悪い男だ、と殴ってやりたいほどだった。
「この仕事が終わったら俺はロンドンに行くことにした。早いところ行きたい。話を詰めろ」
「何だよ、ドクター、何でロンドン」
「アンディの口を縫うんだよ」
「間に合うかねえ。──先生、さっきの続き」
突然戻された話に闇医者二人は気分を切り替え、改めて書類に目を落とす。キリコに自分の見立てを説明すると、大体同意だと言われた。大体、と言うのは、キリコは移植手術が実現できない限り、延命のための外科治療を積極的に行う必要がないという考えだからだ。グラディスの前で口論になることを避け、敢えて言わなかったが、BJは言外のキリコの主張を理解し、溜息をつきそうになった。
「国の都合が優先されて、本人の意思が関係ないと言うのなら、私は同意できない。あくまで本人か家族の依頼が基本だ」
「なるほどね。──ドクターは?」
「──先生、外して」
キリコはBJに要請したが、断られた挙句にここで口論が始まることを予想していた。案の定、BJは口を開きかける。だがキリコを驚かせたのは、開きかけた口を閉じて黙って席を外したことだった。驚き、今までにない違和感に戸惑ったことは確かだが、今は仕事の話が優先だ。グラディスに自分の所見を詳しく説明し始めた。
「俺は俺の患者になるべき対象だと思う。ただ、本人が望まない限りは絶対に関わらない」
「家族だったら?」
「よほどの事情がなければ無理だ。俺は人殺しじゃない。本人がこの世界から高い次元に住み替えるための道案内をするだけだ」
グラディスは暫しキリコを見詰めた後、なるほど、と呟いて頷いた。
「臓器移植の目途が立ったら?」
「本人の選択だ。俺は関わらない」
「なるほどね」
「ここまでが俺と先生の所見なわけだが、そろそろ話のコアを披露したらどうだ?」
キリコ自身、全てを聞いていたわけではない。むしろ情報量に限って言えばBJとほぼ同等だった。臓器移植をしなければ余命いくばくもない女性の患者がいる。それだけだ。
キリコの要請にグラディスは涼しい顔で真実を告げた。
「元々、デルタの仕事じゃないんだ。CIAから大統領経由で回って来た話」
「それはまた──面倒なんだろうな」
考えたくもない、これは断るべきだ、とキリコは思う。米国の情報部などと誰が関わりたいものか。しかもグラディス個人を更に経由する話となると、明らかに「いざとなったら外部の人間に責任を押し付ける」つもりであることがよく分かる。
俺は降りるよ。だがそれを言う前に、グラディスが言ってしまった。何も知らないと言い逃れをすることができなくなった。
「ソ連の男スパイのハニトラに引っかかった馬鹿女。FBI事務員で身寄り無し。金があるのは株で一発当てたかららしい。生きてるなら話せる限り尋問して情報を引き出す。死ぬならそのまま殺す。そんだけ」
「──クソッタレのキチガイ野郎。国家間の面倒に引き込むのは遠慮しやがれ」
心の底から忌々しいと言った声を出すキリコに笑い、キリコに「キチガイ」と言われる男は続けた。
「僕としては実際のとこ、先生に依頼したい内容だった。でも臓器移植の後のリハビリやら何やら、かなり大変だっていうのは分かる」
「だろうな。とにかく、俺と先生が関わるのは御免被る。臓器移植の順番待ちをするなり、自然に旅立つのを待つなり──」
そこでキリコは不意に気付いた。倫理にもとる行為がある。自分も過去に見聞きしなかったとは言わない。国家の前に倫理なぞ踏みにじる者が確かに存在する。
グラディスを見る。グラディスはキリコが気付いたと知り、静かな声で告げた。
「適合する臓器ならもう見付けてある」
「──それ以上言うな。聞きたくないし、聞く義理もない」
「それはどうも。じゃあ、ドクターは断ったってことでいいね」
「その通りだ」
「それなら先生次第だ」
その瞬間、キリコはグラディスの胸倉を掴み上げた。敢えて避けなかった赤毛の男はにやにやと笑い、されるがままになっている。キチガイ、とキリコは呻いた。そうかなあ、とグラディスは答えた。
「この話は終わりだ。先生にまで詳細を回す必要なはい」
「いいや、これから先生に同じ話をする」
「ブチ切れておまえを殴るだろうよ」
「あんな女王様に殴られたら興奮しちゃう。──仕事の話なんだ、するべきじゃないか?」
「──先生が受ければ誰かが殺される。それを言うってのか」
「言わないよ。臓器提供者はもう見つかってる、って言うだけだよ」
「心臓だ」
キリコは言った。患者が必要としているのは心臓の臓器移植だった。そして移植は脳死判定後、迅速な対応が必要で、早ければ数時間内に手術が行われる。今のようにだらだらと、ふざけた話を交えて交渉する余地などないはずなのだ。それはどういうことなのか──キリコは分かり過ぎるほど分かっていた。『ブラック・ジャックが依頼を受ければ適合した心臓を持つ者を殺す』。
「殺すと同じ意味だろうが。いいか、先生には絶対に言うな。舐めた真似をしたら俺はフォート・デトリックの件からも降りる」
「まあいいや、分かった。その点は言わないでおくから、とりあえず先生ともう一回話をするよ」
「それもお断りだ。この依頼は俺も先生も断る。いいな」
「何でドクターが決めんのさ? 自分の女だからって決めるこっちゃなくない?」
思わず言葉に詰まった。そうだ、と理解してしまった。仕事のことは──先ほど自分が言ったはずだ。ルール違反だ。互いの仕事に口を出すことだけは御法度のはずだ。
グラディスはキリコに掴まれた胸倉をあっさりと外し、BJとユリがいるキッチンへ向かった。
キリコは溜息をつき、煙草に火を点ける。どうかしていた。そう思った。俺がまとめて断ろうとしたと言ったら、仕事に口を出すなとBJは怒るだろうか。
急に、怒らないで、と言ったBJを思い出した。
「キリコ」
キッチンからBJだけが戻って来た。キリコの隣に座り、小さく溜息をつく。
「グラディスが、おまえさんに細かい話を聞けって」
有害物質の中に溜息を隠し、キリコは長く煙を吐いた。自分を落ち着かせるためにBJにキスをし、「そうか」と言う。うん、とBJは頷き、キリコの話を待つ姿勢を見せた。キリコはこれにも違和感を抱いた。いつもなら仕事のことになれば「早く話せよ」くらいは言うだろうに。だが今はそれについて考えるより、とにかく先に自分の考えを伝えてしまうことが重要だと思った。
「請けない方がいい。気分が悪いことにしかならない」
どうせBJは「詳細も説明していないくせに」と噛み付くだろう。キリコは予想した。だがそれでいいのだ。とにかく、自分自身は請けないと決め、商売敵に親切にも忠告してやったという事実が残る。
しかしBJはキリコの予想を裏切り、信じられないことを言った。
「──If you say so」
あなたがそう言うなら。BJはそう言った。キリコはつい、眉を顰めるところだった。ここまで彼女らしくない言葉もそうそうない。ボーダーラインでの演技だとも思えない。そもそも演技の中に現実の仕事を持ちこむなど有り得ないことだ。
「どうした?」
「何が?」
「らしくない」
「そうかな」
「そうだよ。こんなこと言われたら、俺に『ちゃんと説明しろ、この早漏』って言うだろ?」
違和感に焦りを覚えそうになり、キリコは敢えてふざけた言い方をした。BJは笑ってみせたが、作り笑いであることがキリコに分からないはずがなかった。
「何かあったのか? ──まだ気にしてる? その、俺の昔の。悪かったよ」
「違う、そうじゃない。謝るなよ」
慌ててBJが否定した。これも珍しかった。そしてキリコはようやく、BJが何かに怯えているのではないかと感じ取った。それこそ言うことは憚られるし、昔の話になるものの、男の態度に不安を感じた時、女性はこんな態度を見せることもある。どんなに気の強い女でも、不意にその気の強さを忘れたように、自分を貫かなくなる瞬間を何度も見ていた。そしてその理由は大抵同じだ。でもまさか、とキリコは信じられなかった。自分の経験が間違っているのではないかとまで思う。まさかBJに限ってそんな──
──嘘だろ。この女が。
「結局、移植しか道がない。心臓移植なんて難点が多すぎる。そう考えれば請けないのは当然だ。──人工心臓を使うとしても限界がある」
「そうだな」
「ただ、彼女と話してみたいとは思う。彼女が手術をして生き延びたいと言うのなら、ぎりぎりまで臓器提供を待って、国に関わらず個人的に依頼を受ける」
「俺は賛成しない」
「だろうね」
「だろうね、って?」
「この状態なら死神が適しているって言う奴もいるだろう。私はそうは思わない、でもおまえさんはそう思う、それだけ。いつものことだよ」
言っていることは分かるが、キリコの違和感を拭えるものでは到底なかった。それこそいつもなら、ここでBJが喰ってかかるはずなのだ。何度も繰り返した口論になり、最終的には何かを産むようで何も産まない時間を過ごすだけになる。愛し合わないと決めた理由だった。
「いや、今回はそれだけじゃない」
BJの様子が気にならないわけではなかったのだが、とにかく今は仕事の話をしなければならなかった。この仕事は決して関わるべきではない。それを彼女に分からせたかった。
「患者の身元も依頼元もまずい」
「どういうことだ」
「だから──」
キリコはグラディスから聞いた話をBJに教える。大統領が関わっていると言った瞬間、BJが「嘘」と呟いた。フォート・デトリックのことは一生言わない方が良さそうだ、とキリコは決めた。
「ロンが、……そうか。まあ、ソ連が相手ともなるとね。仕方ないかも」
「グラディスが嘘をついてるかもしれないが、一応情報として抑えておくといい」
「おまえさんは優しいね」
BJが笑って言った。やはり違和感が拭えなかったキリコは、髪に唇を落として考えた。
──嘘だろ。冗談だろ。この女が──まさか。
「先生、ちょっと話をしたい」
「今してる」
「仕事の話は置いて。俺を見て」
隣に座ったBJの目を見て話をする。勘違いならBJが怒り、一発引っ叩かれて終わりにすればいいと思った。
「何があった? 先生らしくない」
「私らしくない? 何が?」
BJが眉を顰める。キリコは言葉を探したが、結局どちらにせよ彼女は気分を害する言い方しかできないと思い至り、そのまま言うことにした。
「俺の言うことにいちいち謝ったり、──“If you say so”、俺の言うことを素直に聞くお人形さんの振りをしたり。仕事のことだっていつもならもっと──」
「──気のせいだ。口論が面倒なんだ、それだけだよ」
それでキリコが納得するはずがなかった。目を逸らした挙句にその言葉、BJという人間を、BJという医師を知っていれば到底納得できるものではなかった。
「納得できない」
「おまえさんを納得させる義理なんかどこにある」
「そうじゃない。誤魔化すな。俺とちゃんと話をするんだ」
「何を話せばいい? おまえさんは疑問を言って、私はそれに答えた。これ以上に何がある?」
「分かった、じゃあはっきり言う。俺の勘違いなら殴っていい。──俺の昔の女関係でまだ気分が悪い、そうだろう?」
正解なら赤くなるだろう。不正解なら怒りの形相で殴って来るだろう。キリコの予想はその二択だ。だがBJの反応はそのいずれでもなかった。
「気分が悪いのは当たりだ」
正面からあっさりと、潔いと言っても良いほどBJは素直に認めた。キリコの予想を悉く裏切り、赤くなる気配もない。
「──ちゃんと謝るよ。悪かった」
「違う。キリコが謝ることじゃない。私の僻み根性が良くない」
自分がねじくれた女だと言うことは理解していたのか、とキリコはこの状況で口にしたら取り返しのつかないことを思う。無論口には出さない。
「僻み? 何が?」
「あと、タイミングも良くない。今日は駄目だ、無理。仕事の話とこんがらがりたくないから、これで終わりだ」
「先生、頼むから──」
「駄目だ、帰る」
言うなりBJは立ち上がり、つられて立ち上がろうとしたキリコを押しとどめるように肩を押す。
「機会があったらまた会うだろ。いつもの通りだ」
「どこに泊まってるかくらい、教えてもいいんじゃないか」
「どこかのホテルさ」
「──俺はまだ宿を決めてないんだ、教えろよ」
「明日の朝にはチェックアウトする。さよなら」
最後にもう一度肩を強く押し、追うなと言う意思を示してから、BJはコートを羽織って部屋を出て行った。追っても無駄な上に機嫌を更に損ねるだけだと知っているキリコは溜息をつき、ひどく気分が悪いことに気付いた。買い物中、ユリに洋品店での話を聞いてから敢えて忘れていた不快感を思い出し、今の気分と混ざり、あの店に嫌がらせをしてやらなければ気が済まないとまで思った。
「にいさん、お話は終わった? ──先生は?」
ユリがキッチンから顔を出す。いつの間にか良いにおいが漂っていた。話し込んでいる間にだいぶ料理ができていたらしい。
「帰った。臍を曲げさせちまったよ」
「そうなの? それで出て行っちゃったってわけ?」
「そういうことだ」
「──追いかけないのね」
「は?」
いやに冷静なユリの声に、思わずキリコは歳の離れた妹を見た。そういえばBJと同じ歳の頃なのだと思い出した。ユリは僅かに、ほんの僅かに軽蔑する色を兄と同じ色の瞳に浮かべ、もう一度言った。
「追いかけないのね?」
「そんなことをしたら余計に怒る」
「そう? ふうん。別に、にいさんがそれでいいならいいわ。──ご飯にしましょ。先生はカレーがお好きだって聞いたからシーフードのカレーピラフにしたのに、残念だわ」
愛しい女には訳も分からずに逃げられ、可愛い妹には軽蔑の眼差しを向けられ、そしてこの後はあのデルタ隊長に面白がられることは間違いない。今日の俺は不幸だ。キリコはしみじみそう思った。
ところが予想外にグラディスはキリコをからかわず、そしてあっさり「ザ・キタノの18階だよ」とBJが泊まるホテル名を告げることによって、既に多くの情報を調べ上げている事実を教えたのだった。そのホテルならキリコも知っている。このフラットから徒歩で行ける程度の距離だった。
「それはどうも。行かないがね」
「あ、行かないんだ? ──美味しい! ユリちゃん、料理上手いんだ!」
ユリの手料理を味わい、グラディスは感嘆する。無論ユリは悪い気分になるはずもなく、うふふ、と笑って兄の複雑な心をやや苛立たせた。
「グラディスくんって上手よね。にいさんとは大違い」
「お世辞じゃないよ。最高に美味しい。──ドクター、あまり食べてないね。マフィンに蜂蜜でもぶっかけて食べた方がいいんじゃない?」
「おい」
キリコが苛立ちを顔に出す前に、ユリとグラディスは顔を見合わせてから笑い合った。それがまたキリコの苛立ちを増大させる。
「にいさん、はっきり言うけど。──最低」
「はあ?」
いくら可愛い妹でも看過できない言葉だ。眉を顰めてみせたがユリは引く気配を見せず、むしろ強気な顔をして兄を追い詰めようとした。
「喧嘩の原因は知らないわよ。お仕事のことかもしれないけど、それはわたしが口を出すことじゃないわ」
「そうだな」
「でも、どんな理由でも、出て行った女性を追いかけない恋人なんて恋人じゃないわ。恋愛ごっこのお人形が欲しいだけなら他の女性に──恋愛を楽しめる相手になさいよ。先生みたいな優秀で素晴らしい女性を使い捨てにするなんて許せないわ」
さて、何から反論すべきか。キリコはうんざりした。そうじゃない、そんなつもりはない。俺たちには俺たちのルールがあって。そう言うべきか。そもそもおまえが余計な話をしたからだと言うべきか──考えているうちにユリが追撃に出た。
「わたしが余計なことを言ったのは事実だし、謝るわ。でも、今のにいさんがわたしの恋人だったらわたしはがっかりするし、次の男を探すわよ」
はい、といつの間にか持ち出していたキリコのジュラルミンケースとコートを差し出す妹に、キリコは深く深く溜息をついた。
「通り一本向こうの店のマフィンが美味しいよ、お勧め」
にやにやと笑いながら言うグラディスに何も答える気になれず、そして妹と二人にしても無体はするまいという確信がなぜかあり──この気狂いが利用したい人間の身内に手を出すような面倒を背負い込むはずはないと知っていた──「食事をしたら21時までにユリを送れ」と言い付け、ケースとコートを手にしてダイニングを出た。いつの間にあんな女の顔をするようになったのだろう、と、妹の成長を少し寂しく思ったことには気付かない振りをした。
グラディスに聞いたホテルに行き、呼び出しを頼む。ホテルマンは手配をしてくれたものの、BJが不在であることを告げた。もし帰って来たら自分が来たことだけ伝えて欲しいと言い置き、キリコは街へ出る。自分の宿泊先の手配をする必要もあった。
ザ・キタノは日本人向けのやや高級ホテルで、吝嗇家のBJが自分で手配したとは思えない。おおかた今回の仕事のクライアントが手配したのだろう。キリコ自身はここに泊まる気にはなれず、宿を探すのも面倒になり始め、ユリが使っているマンスリーで取り敢えずの仮眠を取ればいいかと考えた。
マンハッタンでBJが行きそうな場所など見当もつかない。諦めることを自分に許し、公衆電話から特定の番号をコールした。
「マンハッタン、ブロックは──至急ブラック・ジャック先生を探してくれ。俺は飲んで待ってる」
待つ予定の店の名を告げて電話を切り、こんな依頼でも数百ドルの請求が来ることにうんざりしながらも、俺もつくづく歳の離れた妹に甘い馬鹿だと思ってしまった。
客のプライバシーが侵害されない分、一杯の値段が高めの店で進まない酒を前に時間を過ごす。闇のマネージメントの連中は今頃笑っているかもしれない。それでも構わなかった。あてもなくマンハッタンを歩き回るよりは余程ましだったし、実際はBJ自身の身の安全が確保されることにも繋がっていた。
マンハッタンは一等地、観光地として有名だが、犯罪がないわけではない。観光客と思われて侮られがちな、そして今の時代、金を持っていると思われやすい日本人が狙われることも多い。闇の人間が探すことになれば情報がすぐさま行き渡り、滅多なことでは犯罪に巻き込まれなくなるという皮肉な効果があった。
やがてキリコが以前に顔を合わせたことがあるマネージメント会社のスタッフの男が、新鮮で生々しい引っ掻き傷を顔に顔いっぱいに満たして現れた。黒いコートを羽織った仏頂面の女がその後ろにいる。キリコは心底「すまない」と彼に謝り、料金とは別にかなり多めの紙幣を渡した。彼はそれに機嫌を良くし、こんなの慣れてますから! と言って夜の街に消えて行った。
「さすがにちょっと、先生。引っ掻くのはどうかと」
「声を掛けて来たから無視して逃げたら追いかけて来た。驚いたから」
「誰かなんて分かってただろう。あいつらはそういうミスはしないはずだ」
「そう、そうかもね。私が怖かったとしても何だとしても、おまえさんには関係ないし、分かりもしないさ」
キリコはすぐに自分のミスを悟り、「悪かった」と言って隣に座るように示す。BJはそれに従ったが、キリコの挨拶のキスを避け、機嫌の悪さを知らしめた。キリコは溜息を押し殺し、店員にBJの飲み物を頼む。彼女が普段は飲まない少し甘めのカクテルを頼んだのは無意識だ。赤ワインとレモネードのカクテルが手元に届き、一口飲んでから、BJはまた「怖かったのに」と言った。
「怖かった?」
「当たり前だろう。知らない男に声をかけられて、逃げたら追いかけて来るんだ。それが怖くない女なんかいないだろうよ」
「悪かったよ。ホテルに行ってもいなかったから、どこにいるのか分からなくて。あいつらに頼んだんだ」
「ホテル? 言ってないのに?」
「グラディスが調べてた」
「そう。──それで? 私に怖い思いをさせて、ここに呼んで、何の話があるって?」
おまえが怖い思いをだって? ──だがそれは言ってはいけないと分かっていたし、おそらく本気で怖かったのではないか、と不意に思い至った。強いけど、強くない時もある。彼女の娘がそう言っていたことを思い出す。今の関係に甘んじる自分はいつの間にか傲慢になり、彼女の言動を都合よく扱っていたかもしれない。
「悪かったよ。今日は謝ることばっかりだ」
「怖かったんだ」
「うん」
「凄く嫌だった」
「うん」
「本当に、ああいうのは怖いんだ」
「うん」
「キリコが信じなくても、私だって、ああいうのは怖いんだ」
「信じるよ。悪かった。ごめん。怖い思いをさせた」
「馬鹿みたい」
「そうだな、俺が馬鹿だ。──悪かった。ごめん。すぐ追いかけるべきだった」
こんな彼女を見たことがあっただろううか。初めてだ。怖かった、と必死で何度も訴える姿はただの女のもので、妹の言葉の数々を思い出せばただ胸に突き刺さるだけだ。
反面、やはりBJの様子が普段と違いすぎることも事実だと思った。いつものBJなら声を掛けて来た男に悪態をつき、殴り飛ばすことも珍しくない。闇稼業の男が相手だったとしても同様だ。それなのに「怖かった」と何度も訴える姿には嘘がなく、どう言えばいいのか──そうだ、まるで男に自分の気持ちをただただ分かって欲しいと訴える、ただの女だった。
それからキリコは気付いた。こんなに甘えるようなことを言う時、無意識を装って意識的にお互いが必要としているキーワード──ボーダーラインで遊ぶ時の呼びかけがなかった。これだってルール違反だ、とキリコは思った。だがそれを口にする気になれなかった。それが頭の中で警鐘を鳴らすものだとしても、今は無視する以外の選択をすることができなかった。
「悪かった。今日は機嫌を直さなくていいよ。その代わり俺の横にいてくれ」
「何それ」
「明日の朝にはワシントンに戻るんだ。時間がない。細かいこと抜きで横にいてくれるだけでいい」
「──腹減った」
それがBJなりの受け入れの言葉だと知っているキリコは安心し、マフィンが美味しい店があるらしい、と言おうとしたが、それはやめた。彼女がボーダーラインでの呼び方を思い出してしまったら──そう思ったからだ。思い出すことが正しいと知っていても、今はただ、知らない振りをしていたかった。知らない振りをする自分にこそ警鐘が鳴っているのだと気付かない振りをした。
「何か食べに行くか」
「ユリさんのご飯、食べたかったな」
キリコは腕時計を見る。まだ20時にもなっていない。21時までにはユリを送るようにグラディスに言ったが、まだフラットにいるだろうか。
「あいつらが食い散らかした後で良ければ、まだあるかもな」
「聞いてみてよ」
「そうだな」
唐突に、ボーダーラインでの遊びの時ほどわざとらしい女言葉ではなく、さりとて普段よりずっと女性が使うような言葉が零れた唇が急に愛おしくなる。無言で唇を寄せると首を傾け、普通の恋人たちが寝室以外でするには多少深すぎるキスを許してくれた。
店を出て電話をすると、背後にユリの機嫌の良い声が響く中、グラディスがうんざりした声で応対する。随分飲ませたな、とキリコが苦々しく言うと、グラディスは「勝手に飲んだんだよ。それにしてもひでぇな」と答え、キリコの頭痛を引き起こしたのだった。
キリコがBJに「いいか、妹だ。そこは分かれ」と一方的に宣言し、BJが理解しきれないうちにフラットに入る。そして部屋主であるグラディスに挨拶もせずにリビングへ行き、そこで結構な酔い方を披露していたユリに問答無用で「寝ろ」言い、その途端、ユリの美しい顔が般若に成り替わった。次の瞬間、BJがグラディスに腰を抱かれ、デルタフォースの本領発揮とばかりにソファの影に押し込まれる。
数秒ほど空気が激しく揺れ、デルタフォースの隊長に「もういいよ」と言われてそろそろと顔を出すと、荒れたリビングの中、くたりとしたユリを米俵のように肩に担ぎ、グラディスに向かって「客間はどこだ」と言うキリコがいた。そのアイパッチが僅かにずれているのはユリの仕業だろうとなぜかBJは予想した。
「キリコ」
「ああ、うん、騒がせた。すまない」
「何した」
「当て身」
「え、いくら酔ってたからってそれは──」
「こいつ、合気道の段持ちなんだよ。護身でやらせたら異様に強くなりやがった。酔ってる時の方がやばいんだ。グラディス、客間がなければどこでもいい。こいつを転がしておける場所はどこだ」
グラディスが適当な拍手をしてからキリコに「あっち」と示し、先に歩き出す。BJはあのハリウッドスターのように美しいユリの意外すぎる特技を知った衝撃に目を白黒させ、米俵ならぬ妹を担いでリビングを出るキリコを見送るしかなかった。そしてやっと理解した。──そうか、洋品店で警備員の腕を捻り上げるなんて簡単だろうなあ、キリコのアイパッチに触れるくらいなんだから。
「あんまり暴れないでよ、軍の借り上げなんだから」
「おまえの家じゃなかったのか」
「こんな馬鹿高いとこに住めるほど、給料もらってないよ」
ユリを寝かせて戻って来たキリコとグラディスは二人してぶつくさと言いながらそれぞれ煙草に火を点け、そして改めて全員で立ったまま顔を見合わせた。
「で、結局どうするの、先生」
「おい、その話はもう終わりだ。俺と先生は飯を食いに帰って来ただけだ」
「食べ終わってから言うより今言った方がいいでしょ。断られたって何も食べさせないで追い出すような真似はしないよ」
こいつならやりそうだけど、とBJとキリコは図らずも同時に思っていた。
「私は国からの仕事としては請けない」
「と言うと」
「患者が私に会いたいと言えば会って話を聞いて、患者からの依頼があれば請ける。でも国の仲介は絶対に入れない」
「OK、食事しよう。ユリちゃんが綺麗に取り分けてくれてるよ」
BJとキリコはつい顔を見合わせた。もう少し粘られるのではないかと思っていたのだ。特にキリコはグラディスの性質から、適合者が既にいる話をしないはずがないと考えていた。どちらも拍子抜けだった。そんな二人に気付いているのかいないのか、グラディスはダイニングへ歩いて行った。
ホテルが決まっていないなら私の部屋に、と言う間もなく、キリコはぐっすり眠り込んでいるユリを彼女のマンスリーまで連れて帰ると行った。BJはグラディスが自分をちらりと見た後、「あっそう」と言ったことに妙な苛立ちを感じたが、この男を相手にしても仕方がないと学習していたので気にしないことにした。それにしてもキリコは妹を米俵のように担ぐのをやめた方がいい、と思った。
「送れなくてごめん。何かあったらこっちに」
ワシントンでの宿泊先の住所と電話番号を書き付けたメモをBJに渡し、キリコは米俵と化した妹を連れてフラットを出た。BJも長居をする理由がなかったのでグラディスに暇を告げる。
「じゃあ送るよ」
「タクシーを拾う」
「僕の報告書のために頼むよ。先生が仕事を断った、礼儀を失しないようにホテルに送ったってことまで書かないとお叱りが来るんだ」
「宮仕えは面倒だな。送らせてやるよ」
「それはどうも。ありがたいね」
性格から予想するよりずっと、グラディスの運転は丁寧だった。助手席に乗るとよく分かる。ユリと二人で後部座席に乗った時にも思ったが、癖や操作のタイミングがキリコに似ているのだ。そう言えばアンディもそうだった。そこまで考え、ああそうか、と納得する。
「軍人の運転か」
「何?」
「おまえさんとアンディの運転はキリコに似てるんだ」
「ああ、入隊すると最初に叩き込まれるからね。どこの国もそうなんだろ。あと、僕の運転にドクターとクソSASの木っ端隊員が似てるって言いなよ」
「アンディもえらい言われようだな」
「──彼氏と他の男の運転を比べる女って結構いるけど、先生もそのタイプなんだ?」
「何だろうな、おまえさんと話してるといちいちムカつくよ」
「そりゃそうだ、ムカつかせようとして喋ってるんだから」
「はあ?」
思わず眉を顰めて運転席の男を見る。グラディスは涼しい横顔でその視線を受け止め、やはり涼しい声で言った。
「僕、アウトローって大嫌いでね。つまり先生もドクターも大嫌いってわけ」
「なるほど。今までで一番ムカつかない話をありがとう」
「どういたしまして」
「理由は?」
「自分の過去を言い訳に、真面目に生きてる人間を踏みにじって稼ぐ奴ってまじで嫌い。どんなに辛い過去でも、理不尽な扱いを受けていたとしてもさ」
「なるほど」
グラディス個人か、それとも米国政府かは判断しかねたが、BJは自分とキリコの過去が調べ上げられていることを知った。グラディスも隠す気がないようだった。
「先生もドクターも、一部の人には凄く感謝されるべき存在だって分かってるし、踏みにじってるわけじゃないってことも、法がカバーしきれない部分を救ってるってこともよく知ってる。それに僕も救ってもらった。それは心から感謝してる。──まだお礼を言ってなかった。ありがとうございました」
「……いや、別に」
最後の礼があまりにも唐突で、丁寧で、そしていつもの毒気がなかったからか、BJはつい戸惑ってしまった。おかしな男だ、と思った。
「陸軍に治療費の請求、出してないでしょ。出さないと払わないよ」
「そのうち」
緊急事態の中での出来事だったからか、すっかり忘れていた。別口で大統領から充分すぎる謝礼をもらっていたという理由もある。
「分かってんのさ。本当は先生とドクターのこと、尊敬すべきなんだって」
「それは気分じゃなくて気持ちが悪いな、やめておくといい」
「僕じゃなくて先生が茶化すのは珍しいね。まあ、そういうこと。──理性や知識じゃ分かってるんだ。感情が納得しない。それだけ」
嫌われることには慣れているが、ここまで分かりやすい説明をされることは滅多にない。白拍子くらいだったかもしれない。そう言えばあの男は元気だろうか。連絡を取る気など毛頭ないが、うまく元気にやっていれば良いと思う程度には嫌いになれない男だった。
「私とキリコへの感情はともかく、納得できないのは悪いことじゃないだろうさ」
「そう?」
「そうさ。納得できない自分を許すべきだ」
「自分にも言ってあげたら?」
「え?」
「納得できないくせに、嫌われるのが怖いからって、物分かりのいいお人形さんの振りをしなきゃやってられないくらいなら、自分を許してあげるのも悪くないと思うよ」
何を言われているのかすぐに分かった。BJは黙り込み、感情を持て余して煙草に火を点けた。もうすぐ宿泊先のホテルに着く。急に居心地の悪さを感じ、早く着いてくれないだろうかと思った。
「おまえさん、私より年下だろうに。随分な口を利くじゃないか」
「年下でも男だし、それこそドクターほどじゃないけどそれなりに女性と楽しんでるからね。先生みたいな分かりやすい女性になら、呆れて言いたくなることもあるってだけ」
「……どこに突っ込んだらいいか分からないよ」
ドクターほどじゃないけど、という部分に反応するべきなのか、それとも気難しいと自他共に認める自分を分かりやすいと称した部分に反応するべきなのか。BJの戸惑いに構わず、グラディスは続けた。
「恋愛でやりたいことを素直にやる女性は素敵だ。だから先生は全然素敵じゃない。そういうこと」
「口を縫ってやりたいってキリコがよく言うのが分かったよ。ムカつきを通り越していたたまれない時に言いたくなるんだ」
グラディスが声を上げて笑った。BJは憮然とし、ろくに吸わないまま短くなってしまった煙草を備え付けの灰皿に突っ込み、いつかこいつの口を縫ってやろう、と決めた。
「ドクターの飛行機は明日の朝、7時。アメリカン航空。ワシントンまで1時間半くらいかな」
「──次に会ったら口を縫ってやるよ」
礼を言えばいいのか分からず、BJはかろうじてそれだけを言い返し、デルタ隊長を笑わせた。
朝の空港は慌しい。特に首都へ短時間のフライトを利用する客たちは誰もが急いている。キリコはそこまで急ぐ理由はなかったが、この仕事が始まってから毎朝カフェに寄って一服する習慣ができていたため、仕事開始の時間に余裕を持って行く必要があった。施設全域が禁煙なのだから、喫煙者にとっては死活問題だ。
搭乗手続きをしようとカウンターに向かった時、背後から声をかけられた。キリコ、と短く呼ばれた。にわかには信じられなかった。嘘だろう、とまで思った
「先生──驚いた。どうしたんだ」
「……グラディスに聞いたから」
「え?」
「この時間の飛行機だって、昨日。聞いたから」
「……もしかして、それで見送りに?」
「……暇だったから」
「──最高だ。たまらないよ」
視線を逸らしながら、そして普段よりも小さな声で告げるBJが余りに可愛く見えて、キリコは頬にキスをする。緩む口元が抑えられなかった。BJがこんなことをしたのは初めてだった。──暇だって? こんな朝っぱら、こんな時間に空港まで来て俺を見送るほど暇だって? 有り得ない!
「仕事がないなら一緒に来る?」
そんなことを言ってしまったのは口元の緩み、気の緩み、二人の関係の認識への緩み。その全てが理由だと自分ですぐに理解したが、今は自分を許した。どうせすげなく「行くわけねえだろ、早漏」と断られるだろうとも分かっていたが、言わずにはいられなかった。
BJはしばらく口をひん曲げ、感情の動きをキリコに見せつけていたが、やがて小さな声で、本来なら必要のない、だが彼女にとっては必要だった勇気を乗せて言った。
「うん」
驚天動地とはこのことだ。うん、と言っただけで顔を真っ赤にしたBJを見たキリコは一瞬絶句した。昨日からBJの知らない一面ばかりを見せつけられている気がしてたまらない。
本当に行くのかと確認するのは悪手だ。過去の様々な経験から──要は男として異性を知る経験から──そう判断し、彼女が持っていた医療鞄を優しく、だが素早く取り上げてしまった。BJは何も言わなかったが、それは承諾の意思表示にしかならなかった。