恋 01

 今回は骨の折れる手術だったが、結果は大成功、患者の予後も問題ない。気前よく一括で支払いも終わり、さすがマンハッタンの金持ちはレベルが違うぜ、とBJは機嫌が良かった。契約上の報酬より多い金額が渡されたことも上機嫌の理由だった。今回の患者は政財界やあらゆる方面に顔が利く男で、帰国前の最後の診察の時に少しばかり営業をしておいても良さそうだ。
 だがその前にピノコに土産を買ってやりたくなり、いつもより少しグレードを上げた店へ向かう。普段の吝嗇を捨てるほど機嫌が良かった。以前からピノコに着せてやりたいと思っていた子供服を取り扱う高級店だ。
 店内はさすがマンハッタンと言うべきか、金や心に余裕のありそうな大人たち、彼らに連れられた子供たちがマナーよく服を吟味している。BJも大人たちと同様、真剣な顔で娘に似合いそうな服を探索し始めた。
「ここにはあなたが必要な服はないと思うわ」
 突然かけられた声に驚きはしなかった。ああ、またか、と思っただけだ。手にしていた可愛らしい服を棚に戻し、「何なの?」と女言葉で訊き返す。白人の店員がそこにいれば、これから何を言われるか分かっていた。女言葉にしたのは咄嗟の計算だ。店内には男性客や男性スタッフもいて、そしてこの店員の言葉で自分に注目したことが分かった。うんざりするほど多い過去の経験から、どんな結果になっても女言葉である方が便利だと知っていた。
「どういうこと? わたしは日本で待ってる娘に服を買ってあげたいだけよ」
「分かるでしょう? 全部言うのなんて嫌だわ。ここの服はあなたの娘に似合わない」
「あなたに何が分かるの。きっと可愛いわ、マンハッタンに来た時からここの服を買って帰ってあげようって決めてたのよ。酷いこと言わないで」
 心の中では「ピノコに似合わないわけねえだろうこの××が目ェ腐ってんのか診てやろうか前払いで1億ドルだ」と胸倉を掴み上げたい勢いだったが、店内の視線が集まり始めたことと、視界の端で私服の警備員がゆっくりと歩み寄って来ることを確認し、敢えて我慢して店員が好みそうな反論をしておく。店員は明らかにBJの顔の傷と肌の色を見て眉を顰め、「あのね」と言った。
「あなたの顔のそれ、メイク? だったらやめた方がいいわ。どちらかの色に統一したら? それからあなたに相応しいお店に行きなさいよ」
「何てこと言うの」
 BJの脳内にある電卓が凄まじい勢いで金額を弾き出した。──いける。これはいける。まだ馬鹿みたいに色の差別が残るアメリカだけど、ここまで露骨に言う奴は少なくなってる。心の中じゃ差別を支持していても口に出したらまずいって分かってる上流階級の奴が増えてる。これはいける。絶対いける。余裕。──高額慰謝料。いける。ここの店長に後でクレームの電話を入れてやろうじゃねえか。もちろん私からじゃなくて何でも受けてくれる闇のマネージメント事務所に依頼するんだ。あいつら、私なんかよりよっぽどえげつねえぞ。
「手を挙げて」
「──酷いわ、あんまりよ」
 心の中では勝利宣言をしながら、BJは警備員にボディチェックを強制された泣き顔の無実の女になった。周囲は当然だと言う顔をする客と、あれはやり過ぎだと口にする客、そして子供に見せたくないと店を足早に出て行く客に分かれた。
 変なところを触られたら慰謝料上乗せだな、それとも触られたことにしちゃおうかな──BJがのんびり考えていた時、背中から触れていた警備員が不意に呻きを漏らした。私は何もしてないんだが、と思わず振り向いた瞬間、警備員が腕を捻り上げられている光景が目に入った。そして捻り上げている人物を見て、思わず「うわ」と声を出しそうになり、慌てて堪える。
「あなた、わたしの義姉に何するの。兄にこれが知れてご覧なさい、地の果てまで追い詰められた挙句に死んだ方がましな思いをさせられて死ぬことになるわよ」
 どっちにしろ死ぬならさくっと殺して欲しいよな──BJは思いつつ、ハリウッドスターさながらの美貌の女性の登場に驚くどころではなかった。彼女の兄とは偶然会うこともあるが、彼女自身とは初めてだ。
「ユリさん?」
「先生、駄目よ、こういうことは強く言い返さなきゃ駄目なんです」
 警備員の腕を解放し、「店長を呼んでらっしゃい」と厳しく言い付ける。普段は穏やかな女性だが、やはりあの男の妹であると納得できる声音でもあった。それからユリは店員に向き直った。
「何か言うことがあるんじゃないかしら? わたしの義姉が有色人種だから万引きしたって濡れ衣を着せて、男性の警備員にボディチェックをさせたわね? 間違いないわね?」
「ユリさん、あの、何でここに。って言うか強くない……?」」
 女言葉も忘れ、ぽかんとしてしまう自分を何とか律しながらBJはユリに問うが、ユリに「先生は落ち着くまで喋らなくていいんですからね」と優しく、だが厳然と言い渡される。最初から冷静だったんだが、あとキリコと結婚なんかしてないから義姉じゃなくて──とも言えず、はい、そうします、と素直に答えてしまった。要は気圧された。
「わたしの義姉が何をしたの? わたしが知ってる限り、わざわざこの国の人のために小さい娘さんを日本に残して仕事をしに来てくれて、素晴らしい結果を出したばかりの義姉が何をしたの?」
「あなたのお義姉さん? 冗談でしょ? お兄さんが彼女と結婚したって言うの? まさか!」
「失礼にもほどがあるわ! 娘さんのために素敵な服を買ってあげるのを楽しみにして入った店で、こんな差別的な扱いをされて!」
「差別じゃないわよ、区別よ! 防犯のためなんだから仕方ないわ!」
「何が区別よ! 自分よりもずっと大きな体格の怖い男性に身体を撫で回されて、ほらご覧なさいよ、義姉はこんなに小柄なのよ! それなのにあんな大きな男に身体を──口にするのもおぞましいわ! 可哀想に! そんなことをされる理由は何なのよ!」
 さすがキリコの妹だ、えげつねえ方法で攻め込むもんだ──BJは正直、感心していた。この攻め方は見習っても良さそうだ。BJ自身は小柄と言うほど小柄ではないが、アジア人ならではの華奢な骨格がユリの言に妙な信憑性を与えていた。
 並外れた美貌の白人女性の攻め方は的確で、傍観を決め込んでいた客たち──特に妻の買い物の付き合いに飽きていた男性たち──が、今までの横目はどこへやら、一斉に非難の目を店員に向ける。分が悪くなったと察した店員は、この美しい女に理解してもらわなければならないと察し、必死で自分なりの正義を説明し始めた。
「先週もあったのよ。彼女の、その左側の肌の色の女が万引きして行ったの」
「左側が何ですって!? もういっぺんおっしゃい!」
「仕方がないでしょう! 万引きされる店にするわけにいかないわ! 私の仕事でもあるんだから!」
「あなたの仕事は肌の色をけなすことでも、わたしの無実の義姉を侮辱することでもないはずだわ!」
「じゃあどうしろって言うのよ!? あなたならどうするの!」
「ベストな方法を考えるのがあなたの仕事でしょ! あなた、自分が何をしたか分かってる? よくもこんなことができたわね。兄がここにいないことを神様に感謝するべきよ! 友達の子のプレゼントはいつもここで買ってたけど、もう結構よ! こんな店で二度と買い物するものですか! わたしも義姉もおいとまするわ!」
 待って、あのブラウス欲しいです、絶対ピノコに似合います──とも言えず、「行きましょう!」と手を引くユリに逆らえない。店を出る直前に男性店長が慌てて現れ、女神に足蹴にされた哀れな下僕のごとき声でユリのを呼んだようだったが、無情に閉じた扉が封じ込めてしまった。
「先生、もっと言い返さなきゃ。この国じゃ主張しなきゃ何にも手に入らないんですからね」
「次からそうしますけど──あの、ありがとう。助かりました」
 助かったと言うべきかは分からないが、傍から見れば助かった光景だ。まだ憤懣やるかたない様子のユリの美しい横顔に礼を言い、それから徐々に状況に理解が追い付いて、じわりと嬉しくなった自分に気付いた。
「先生、──の手術をしたって噂、もちろん成功なさったんでしょ」
「守秘義務が。でも、たまには信じてもいい噂もあるかも」
「やっぱり。職場で聞いたわ。素敵ですね」
「職場?」
「今、この近くの病院で働いてるんです。今月末で契約が切れるから、少しにいさんの家に転がり込む予定だけど」
 看護師の資格があるユリは仕事に困らない、とキリコに聞いたことがあったかもしれない。金を貯めたら仕事をやめて、金がなくなるまで遊んでまた仕事をする馬鹿な奴だよと苦笑いしていたことを思い出す。
「ね、にいさんの家にいたら、先生にもお会いできるかしら?」
「ユリさんが望むならいつだって」
 とはいえ、BJは滅多にキリコの自宅兼医院には行かない。そこで行われているのは安楽死に関する業務だけではないと聞いてはいたが、やはり行く気にはなれなかった。キリコが崖の家に来ることの方が多かった。
「それにしてもさっきの店員、腹が立ったわ。にいさんがいれば良かったのに!」
「ユリさんがいてくれたから充分ですよ。キリコだと──ううん、男性のクレームって、女性が相手だと立場が入れ替わって面倒になりがちだから……」
「それ! そうなんですよね! 加害者のくせに被害者顔する女って最低。だからいつまでも女が馬鹿にされるんですよ!」
 見た目よりもずっと強い意思と近代的な思想を持つ美しい女に、BJは「そうですね」と言って微笑んだ。あまり交流はないが、強くて美しいこの女性がとても好きだった。キリコが彼女の話になると途端に表情を和らげることにも納得できる。
「Hello、ツギハギのお姉さん。僕のフラットでお茶でもいかが?」
 突然響いた、明らかにBJを揶揄するその言い方に、BJよりもユリが先に眦を吊り上げ、口を開きかけた。だがBJは声をかけて来たその男が誰かを瞬時に理解したので、ユリに「待って」と言う。すぐ隣に停まった車の運転席から、赤毛の男がにこりと笑いかけてきた。BJは溜息をつく。
「何でおまえさんのフラットなんぞまで行かなきゃいけないんだ。喉も乾いてない、茶もいらないよ」
「いや、すぐそこだし」
「こんな高級住宅街に住んでるって? そんなに高給か、あの仕事」
 あの仕事、と濁した言い方をしてやったBJに、特殊部隊の隊長は笑みを深くした。感謝の笑みではなく、何かを褒める笑みだった。気付いたBJはグラディスに唾棄してやりたくなる。まともではない男とこれ以上関わりたくなかった。
「先生、お知り合い?」
「ああ、──キリコの友達」
「にいさんの!? にいさんに友達なんていたの!?」
「驚くのがそこですか……!」
「だってにいさんって復員してからほんっとに人付き合いがなくなって、友達と連絡してるところなんて見たことなくって──昔は明るかったんです。そう、この人みたいに車の中から女の人に良く声をかけて。たまに家に連れて来る女の子もチアをやってるような派手な子ばっかりで──」
「へえ、そうなんだ?」
「そうなんです。それがね、たちの悪い女を引っ掛けちゃって、大騒ぎになって──」
「へえー、そうなんだー?」
 グラディスは「何で女が二人以上集まるとこうなるんだろう」と古今東西の男に共通する疑問を抱き、煙草に火を点けた。吸い終えるまでに中々面白い話が聞けそうだし、ユリの話が進むにつれて強張って行くBJの笑顔が何よりも面白かった。結局三本ほど煙草をゆっくりと吸うことになり、一通り聞いた後、BJに言った。
「とりあえず、僕はドクターの友達じゃないってところから訂正したら? あとね、僕のフラットでドクターが待ってるから早く行こう。妹さんも一緒でいいから」
「後半を早く言って欲しかったよ、アホ赤毛」
 BJのそれは心底からの感想だった。妹という立場から悪気なく暴露されたキリコの過去の女関係に頭が痛くなりそうだった。


「あのね、にいさん、ごめんなさい。偶然会ったのよ」
「ああ、そう」
「その、──悪いと思ってるわ。本当よ」
「思ってなかったらさすがに俺の家にはもう来るなって言った」
「ごめんなさいってばあ」
「ちょっとドクター、何とかしてよ。バーが占拠されてるんだけど」
 グラディスのフラットに来てキリコを見るなり、再会のキスも許さず──それどころかキリコの顎に一発アッパーを決め──BJは高級フラットに備え付けのバーに籠城を決め込んだ。特に扉で仕切られているわけではないが、勝手に酒を取り出し、早速飲み始めた始末だ。どうにも近寄り難いのは確かだった。
「俺のせいじゃないね」
「過去の下半身のせいか。早漏なのにお盛んだったんだね」
「違う。SASといいデルタといい、俺を早漏にしたがるのを今すぐやめろ」
「え、デルタ? デルタフォース? あの、映画の?」
 ユリがきょとんとしてグラディスを見る。グラディスはキリコを睨み付けたが、とばっちりで不本意な立場に立たされたキリコは我関せず、ちょっとした溜飲を下した気分になれた。
「映画じゃない。こいつは本物のデルタだ。先日のホワイトハウスのテロで一応活躍した奴だよ。一応」
「一応って何だ、失礼な」
「傷はどうだ、先生に診てもらえ」
「Fxxk。いいから自分の女を何とかしてくれよ」
「機嫌の悪いクソビッチなんか手に負えないね。飲ませるだけ飲ませりゃ勝手に出てくる」
「にいさん、何てこと言うの! そんな汚い言葉で先生を!」
 女性への侮蔑の言葉を耳にしたユリがいきり立ち、キリコがうんざりして「うるせえよ」と言う。そこへグラディスが追加燃料を投下した。
「やらずぼったくりのクソビッチとか頭蓋骨の中身は蟹味噌とか着た切り雀とか言ってたよ」
「にいさん! 許せないわ!」
「グラディス、今すぐ俺に口を縫わせるか黙るかにしろ。ユリ、おまえは帰るか黙るか次の仕事先を見付けるかのどれかにしろ」
 溜息をついて言い捨て、諦めたキリコはバーへ向かった。ここでこの二人を相手にしているより、少し下出に出て甘やかせば機嫌を直す女を可愛がった方がいい。たとえ今回、「少し下出に出て甘やかせば」で済みそうもないと予想をしていたとしても。
「──俺の女が好きな酒を分けてくれよ、マフィン?」
 敢えてトラブルの素を思い起こさせるようなことを言いながら、そしてやはり敢えて、年上の男性が少し年齢差のある年下の恋人に向ける呼称を口にした。有名な高級ジンを惜しみなく飲んでいるBJは眉を顰め、思い切り不機嫌をアピールした。
「チアリーダーが飲む酒なんか知らねえよ」
 愛し合わないためのボーダーラインで遊ぶ時のお約束、女言葉と可愛い呼び方が返って来なかった以上、これは本腰を入れるしかない。何しろ仕事の話なのだ。決してグラディスのフラットに遊びに来たわけではない。
「ユリが失礼したな」
「したのはおまえさんだ。ユリさんは私を助けてくれたんだから」
「助けた?」
「関係ねえよ」
「後でユリに聞く。──過去の俺には謝らせるから、今の俺には怒るなよ。あの頃はそういう女と遊ぶのがステータスだったんだ」
「過去のおまえさんなんか知るか。私はそういうのに疎いし、……昔の男はこの間、死んでたし」
「──へえ、そうだったのか」
 笑いそうになる口元を誤魔化すために煙草を咥える。
「ニュースになってた」
「俺には朗報だし、先生は忘れていい話だよ。もう関係ないんだ」
 事故だったのか、事件にしたのか。キリコは確認しようとは思わなかったし、BJに言ってはならないと思っていた。金の分、しっかり仕事をしてくれる連中がいただけのことだ。
「マフィン、仲直りだ。キスしてくれよ」
「喧嘩なんかしてねえだろ? 飲みたいだけだ、あっち行ってろ」
「俺があっちに行ったら寂しいのは誰だ?」
「おまえさんだろ」
「そうだよ。俺を寂しくさせるのはやめてくれ」
「ユリさんとチアに慰めてもらえばいい」
「今の俺も謝るよ。もう機嫌を直してくれ」
 そこから散々機嫌を取った。面倒だが、キリコはこの時間が嫌いではなかった。やがてBJは徐々に機嫌を直し、過去の女に嫉妬した自分が急に醜く思え、恥ずかしがって他ならぬキリコに「俺は嬉しいよ」と慰められるまで身動きが取れなくなっていた。
「今度こそ仲直りでいいな、マフィン。キスしてくれよ」
「──ちょうどそう言おうと思ってたの、嬉しいわ、ハン。どうして分かったの?」
 羞恥心で耳まで赤いものの、ようやく甘い遊びに乗ってくれたBJに笑ってキスをする。ハンはハニーの略称だ。BJに自覚があるのかどうかはキリコには分からなかったが、「ちょうどそう思っていたから嬉しい」「どうして分かった?」──どちらも男心をくすぐるもので、無論キリコも例外ではなく、気分が良くなった。
 再会と謝罪と仲直りのキスを少し長めにして、髪を撫でてから本題に入る。
「デルタからの依頼があるんだ」
「──人殺しの?」
「そう言いなさんな。それも選択肢に入るけど、何より先生に診てもらいたいって」
「なるほどね。おまえさんはそれでここに?」
「最初はフォート・デトリックの後始末でワシントンに来てたんだ。で、今日、グラディスに呼び出されてこっちに来た」
 先日のホワイトハウスの一件で流出した炭疽菌の問題は、まだ片付いたわけではなかった。キリコはおそらく長期間関わることになる。外部に出てしまった炭疽菌と言うものはそれほどまでに厄介だった。
「年単位で関わることになるんじゃないか?」
「だろうな。まあ、ここの仕事中に本業が入ったら優先して良い契約になってるから問題ない」
「どっちもろくなもんじゃない。辞めちまえばいいのに」
 いつものBJの説教が始まりかけたと思ったキリコは溜息をつく。
「請けた仕事に口を出すのは俺たちのルール違反だ。口にするんじゃない」
「──ごめん。怒らないで」
「ああ、いや、怒ってない」
 少し驚きながらキスをしてやる。
「強く言い過ぎたか。ごめん」
 怒らないでと言った声があまりにも意外だった。そんな縋るような言葉を口にするような女だったろうか。
「とにかくきちんとグラディスの話を聞いてくれ。まともじゃない奴だが、話そのものは最後まで聞いてみてもいい」
 BJに言うつもりはなかったが、フォート・デトリックのトラブルの首謀者がグラディスであり、大統領が了承していた以上、それをグラディスの口から聞いたキリコはアメリカの現政権の弱みを握っているも同然だ。そして戦闘技術、殺人技術に長けたデルタフォースが関わるのなら、キリコの身の安全を考えた場合、互いに受け入れ、利用し合うべきだった。グラディスはおそらくそれを見越して、あの時自分に全てを語ったのだろう。
 頭のいい男だ。頭のいい気狂いだ。敵に回せば厄介だが、互いに利用できるうちは友好的であっても問題ない──キリコはそう思いながらBJを促し、グラディスとユリがいるリビングへ戻った。
「ねえねえユリちゃん、マフィン食べたくない? たっぷり蜂蜜かけてさ!」
 友好的であっても問題ないが、わざとらしくにやついて言う青年を殴りたくなったことは責められるべきではない。覗いてんじゃねえぞとやや本気でグラディスに怒りつつ、赤くなったBJがまたバーに逃げないように腰を抱いた。──もうひとつ、誰がユリちゃんだ、俺の前で馴れ馴れしい!
「ユリ、俺に悪いと思ってるなら夕飯を作るか一人で帰るかどっちかを選べ」
「キッチンを借りてもいいの?」
 ユリが夕飯を作る意思を見せるとグラディスは頷く。
「嬉しい流れだよ。こんな美女の手料理なんて信じられないね。──料理ができるような材料が何もないのが問題なんだけど」
「近くのマーケットで買えばいいわ。4人分じゃ結構なものね」
 そしてちらりと兄を見る。キリコは肩を竦め、俺が行ってカードを切って荷物を持てばいいんだろう、と示した。
「ちょっと行って来る。先生、その間にグラディスと話を」


 ユリを仕事の話から離すことが目的であることは分かっていたので、BJは特に異論を唱えることもなく、兄妹が家を出るなりグラディスが渡して来た資料に目を通し始めた。
 30歳、女性。現在はマンハッタンの病院に入院中。経済状態は恵まれていて、高額な医療費が必要となるこの国での入院、手術、投薬も金銭的な心配がない。
「先生から見てどう?」
「余命2ヶ月」
「短いね」
「キリコは何て?」
「ドクターと先生、どちらを選んでもおかしくないって」
「なるほどね」
 BJは再び資料に目を落とす。細かい部分まで真剣に考慮し、もし手術の同意が得られれば、と考え始める。外科治療に耐えられる体力はあるのか。末期状態。どこに手を付ければ良いか。その後のリハビリを完全にサポートできるスタッフを確保できるのか。
「──環境によるが、私がオペすれば生きる。ただし臓器移植が必須だ」
「臓器移植なしで延命手術だけだとどれくらい?」
「本人の体力と薬効次第だから断言はできないが、短く見積もって3ヶ月」
「2ヶ月よりましって程度か」
 グラディスは一瞬考え込む顔をする。
「臓器提供があれば生きる可能性が高くなる?」
「そうだ。でもそんなに簡単にできるものでもない」
「そうだよねえ。見つかるのを祈るしかないねえ」
 BJはその物言いに違和感を覚えた。口だけの薄っぺらい見舞いの言葉にすらならないほど、情というものがない声に聞こえたのだ。
「これは誰のカルテだ?」
「名前、書いてあるでしょ」
「おまえさんにとって、どんな関係の人のカルテだ?」
「いや、僕にとってって言うか。この国にとってって言うか?」
「──最後まで聞くのが嫌になって来た。あの早漏野郎、グラディスの話を聞けなんて言いやがって」
 本気で嫌な顔をして呟いたBJにグラディスが笑った。
「まじで早漏? あの人が? 死ぬほど意外なんだけど」
「知らねえよ」
「何それ、カノジョの言うこっちゃなくない?」
「知らねえよ、やったことねえんだから」
「──え?」
 ぽかんとしたグラディスの反応に、ああしまった、とBJは一気に真っ赤になった。それでグラディスはBJの言が本当であることを知り、え、まじで、まじで!? と突然年齢相応の若い男の顔になる。
「まじで? え、やってない? 嘘、まじで!? ホワイトハウスのあの無線の告白って何だったの!? あれでやってないとか有り得なくない!?」
「──うるせえな! セクハラだ、この赤毛野郎! どうでもいいだろ!」
「え、まじでまじかよ、後でアンディに電話しないと!」
「何でデルタの隊長がSASの下っ端と仲良くしてんだよ!」
「仲良くないけど前回の件で何となく、歳近いし──って、まじか、うわあ……まじかあ……」
 いい加減耐えられなくなったBJが怒鳴ろうとしたその時、買い出しを終えたキリコとユリが帰って来た。BJよりも早くグラディスが反応し、「ねえねえ!」とまだエントランスにいるキリコに大声を上げた。
「ドクターさあ、先生とやってないって本当!?」
「──何の話をしてたんだ、おまえら!」
 焦って速足でリビングに入ったキリコが見たのは、耳まで真っ赤になって俯き、両手で顔を覆うBJと、見たことがないほど年齢相応の若い男の顔で下世話な話を楽しむグラディスだった。
「だってすごくない? やばくない? 真面目な話さあ、情報を書き換えなきゃいけなくて──」
「何でデルタにそんな情報が必要なんだ! 口を縫うぞ、そこに直れ!」
 遅れてやって来たユリがぽかんとして兄とデルタの男のやり取りを眺めていたが、やがて「ああ!」と感動に満ちた声を上げ、BJに駆け寄り、その手を取った。
「素敵! ──何て素敵! 日本人女性が慎み深いっていうのは聞いてたけど本当だったんですね……!」
「ユリさん、やめて、恥ずかしくて死にそう」
「どうして恥ずかしいなんて言うんですか! 素晴らしいじゃない! 結婚までは清い関係でいようってことでしょう!? にいさんが……あのにいさんがそれを受け入れるなんて……」
 最後は涙声だ。美しい瞳から大粒の涙が溢れ、感動のあまりBJを抱き締めてありがとう、ありがとう、と繰り返す。何がありがとうなんだと混乱するBJに、ユリは相変わらずの涙声で言った。
「にいさんがこんなに女性を大切にするなんて。嬉しいわ。つまみ食いしてはやり捨ててたあのにいさんが……! 先生はにいさんを治療して下さったようなものだわ……!」
 BJは今すごいことを聞いた気がすると思いつつ、キリコが「こいつらの口を縫ってから俺は死ぬ」という顔をしていることに気付きつつ、グラディスが電話で楽しそうに「ドクターって不能なんだって! やばくない!?」と歪曲しきった情報を提供し、受話器から漏れる「まじですかやべぇまじですかぁ!」と言う大笑いの声は英国のアンディのものだなと思い出しつつ、一体私はこのフラットに何をしに来たのだろうかと基本的な疑問に頭を悩ませたのだった。