アンディはとにかくBJに脱出するように強く言った。だがBJは従わなかった。
「おまえさんは私の患者だ。無理はさせられない。するなら主治医として一緒に行く」
「頼むよ、言う通りにしてくれ。民間人を救えなかった不名誉をSASに負わせようって?」
「──ついでに言っておくと、おまえさんが脱出したって私は行かない」
「何だって?」
「炭疽菌のワクチンを持ったキリコがグラディスと来る。炭疽菌を完全に封印するまでは一緒に行動する」
「先生、それは──」
「発信。合流地点を決めたい」
「先生!」
発信したBJからインカム無線を奪おうとしたが、負傷した肩の痛みがそれを阻んだ。モルヒネを射たれていなければ更に痛みが大きかったかもしれないが、意識していない時に発生する痛みとしては結構なものだ。
「我儘な患者さん、どうかおとなしくしててくれ」
「クソッタレ!」
「汚い口を利くもんじゃない、せっかく縫ってやった口が裂けるぞ。──グラディス、モニタールームは電源を破壊してある。連中が復旧させない限りは使えない」
『素晴らしいね。どこで覚えたの、そんな技』
「SASの活躍さ」
『前言撤回だ、安っぽい手段でも有効だってことがよーく分かったよ。──今はまだ大統領執務室だね?』
「そうだ」
『そこから核シェルターまで道は分かる?』
「今考える」
BJは暫し記憶の地図を引っ張り出し、目的の場所まで辿り着けるかどうかを検分した。思ったよりクリアな映像が脳裏に浮かぶ。
「多分大丈夫」
『多分じゃ駄目だ。確実に行きたい』
「悪かった。確実に大丈夫だ」
『OK。そこのSASのクソ野郎に、シェルター内の超クソ野郎の無線のチャンネルを教えるように言って』
「アンディ」
BJはインカムを外し、アンディに渡した。アンディは渋い顔で受け取った後、ああ、はい、と話を始める。そして恐ろしく苦い顔で、隊長の無線チャンネルを教えた。BJは彼のプライドが傷付いていることを考えないようにした。今はそれどころではない。とにかく炭疽菌の行方を知り、その封印を行わなければならない。男のプライドは後回しにするしかなかった。こんな時、男のプライドをよく理解できるはずのキリコはどうするのだろう。不意に疑問に思い、今度訊いてみよう、と思った。
「先生」
アンディが無線を返す。再びインカムをつけ、BJは「ハロー」と言った。グラディスが応答した。
『彼氏の声を聞かせてあげられなくて悪いんだけど、3分後に突入する。うちの隊の連中の陽動音が聞こえるはずだ。聞こえてから3分後に核シェルターのエレベーターフロアに向かって走ってくれ。僕かドクターが必ず行くからそこで合流する。到着して5分経っても合流できなかったら戻って脱出しろ』
「おまえさんか、キリコのどちらか? 何を言ってる?」
『どっちかが死んでもどっちかが必ず行くってこと。先生が来るなら別にドクターが生きてる必要もないんだからさ。面倒なこと訊くなよ。じゃあね』
「クソ野郎」
瞬時に怒りで満ちた声は、一方的に無線を切ったグラディスには届かなかった。こいつは気が狂っている。BJはそう思った。それが正しいと知っているのはキリコだということなど想像もせずに。
正確に3分後、銃撃の音が響いた。すぐに執務室の外を銃器が揺れる音と罵りの言葉が通り過ぎ、思った以上に近くに武装勢力がいたのだと知って冷や汗をかいた。
「ああ、どうも。初めまして」
『初めまして』
外部の映像が見えるモニターの前で無線に応じ、隊長は言った。大統領と夫人、自分の警備対象である英国首相はシェルターの奥の奥、それこそ核ミサイルが直撃しても持ちこたえると信じられている部屋に入っている。隊長が考える限りは安全が確保されていた。
「モニターで見えている」
『モニタールームの電源は落としたはずなんだけど?』
「この部屋に繋がるカメラとは違う電源だったらしい。よく見えるよ」
『もっと早く交信しておきゃよかったよ。無駄に苦労した』
一度も会ったことはないが、情報として互いに存在を知っている。似た立場でもあり、二人の特殊部隊隊長は最初の挨拶だけで理解し合ってしまった。
『SASの彼にはお世話になって』
「お役に立てたようで光栄だよ。ところで用件は? あまり余裕がなくて」
『中から開けられる? 開放パスコードが分からなければ危機管理センターに問い合わせさせるけど』
「ふむ」
隊長はモニターを前にして、椅子に深く腰掛け直した。頭上に向けられた手が一緒に動いたが、自分のものではないので気にしないことにする。
「そこを右だ。前方から2人」
『ありがとう』
無線から礼の先渡しがされた途端、モニターの中でデルタフォースの隊長が短機関銃を難なく起動させ、角から現れた武装勢力のメンバー2人を薙ぎ払った。倒れた彼らにとどめとして2発ずつ撃ち込む姿に感心する。さすが我がSASをモデルとして設立された特殊部隊だ、と事実を思った。口にすればモニターの中でデルタフォースの隊長が怒り出しそうだったのでやめておいた。
そのモニターの中で、グラディスの後ろを歩いていた隻眼の男が不意に後方を向き、手にしていた拳銃を一発だけ発砲した。ブラヴォ、と思わず声を漏らす。
「ドクター・キリコに敬意を」
『僕もそう思うよ。ドクター、ありがとう』
背後から現れた武装勢力の一人を振り向きざまに片付けた死神は、モニターの中で特に返事をすることはなかった。明らかに厳重な持ち運びが義務付けられているであろう梱包の箱を背負っている。隊長はしばらく考え、無線の向こうに言った。
「ここの開放は勧めない」
『理由は?』
「まず、私の頭に銃口が突き付けられていること」
『ざまあないね、SAS』
「そう言うな。大統領夫妻とうちの首相を最後の部屋に入れただけで勲章物なんだぞ」
言いながら、頭に銃口を押し付けている男を見上げる。その男は絶望と緊張からか、充血した目で隊長を見降ろし、荒い息を吐いていた。
「重要な話をしてもいいかな」
『前振りが面白ければ聞くよ』
「実は一度、この部屋の扉は開いたんだ」
『最高に面白い。続けて』
隊長はグラディスには見えないと分かっていながらも肩を竦め、モニターの中に自分の部下とあの女がいることを確認し、さてどうするか、と考えた。
「武装勢力の仲間の一人だった。バイオテロに使えるものを持って入って来たんだ。炭疽菌だとか言っていたな」
『へえ。よくエレベーターとその部屋のパスコード知ってたね?』
「蛇の道は蛇と言うやつだろう。それはSASが関知することじゃないよ」
『デルタの管轄でもないね。それで?』
「私は今、その男に銃を突き付けられている」
さしものグラディスも言葉を失ったのか、と思うほどに沈黙が産まれた。だが隊長の予想は裏切られ、次に聞こえた声は闇医者のものだった。
『炭疽菌がそこに?』
「この彼が持ち込んだことは間違いないよ」
『殺しておいてくれ』
「構わないよ」
次の瞬間、目にも止まらぬと言う言葉がこれ以上に相応しいことはないほどの速度で隊長の右手は動き、座ったまま男の銃を奪い、ろくに狙いも定めずに発砲した。男の眉間を貫通した銃弾が背後の地面に落ちる音がした。それから緩慢に男の死体が隊長に覆い被さろうとしたが、隊長はもう2発ほど撃ち込んでから、無情にそれを突き飛ばした。
「最大の問題は──炭疽菌の試験管が、既に割れてしまっていると言うことなんだよ。大統領たちが最奥の部屋に入っていたのを知って、随分怒ってしまってね」
キリコが無線を返したのか、グラディスの声が再び聞こえる。
『やっぱりSASなんてろくなもんじゃないね』
「そこを左、で、ブラック・ジャック先生と私の部下」
『──Fxxk!』
モニターの中、短機関銃を構えたグラディスが渾身の力で発砲を自力で止め、SAS隊員の姿を認めて悪態をつき、そして顔に目立ちすぎる傷を持った女が隻眼の医者に抱き締められる光景を見た。隊長は笑い、ブラヴォ、と画面の中の部下だけを称賛しておいた。生意気なデルタフォースの小僧など目に入れたくもなかった。
とはいえ、この状況で抱き合って、映画の主人公たちだってそんな熱烈な演技はしないと言いたくなるくらいのキスをしている男女を見て、これはこれで悪い光景ではないな、と思った。隊長は案外ロマンチストだった。
核シェルター内には既に炭疽菌が既にばら撒かれている。それは確実だ。BJは自分がワクチンを持って入れば良いと言い張り、キリコはそれに正面から猛反対した。現状で一人も入るべきではないとまで言った。炭疽菌の恐ろしさは元軍医であるキリコが良く知っている。感染したからと言って即時死亡するわけではないが、問題は環境への影響なのだと強く主張した。
「いいか、先生。炭疽菌兵器が実用化されていない理由を知ってるか? 環境修復の目途が立たないからなんだよ。半永久的にこのシェルターは汚染されたことになる」
「だからって隊長は? もう感染してる。大統領夫妻はどうする? 首相は? 乱暴なのは承知の上だ! 全員感染したってワクチンを打てば──」
「健康な人間を意図的に炭疽菌に感染させるって言ってるのと同じなんだぞ、分かってるのか!」
「分かってるさ! じゃあ他にどうしろって言うんだ! 駄目だめダメで代替案も出せねえくせに! 引っ込んでろ、この早漏!」
「早漏じゃねえって何億回言えば分かるんだ、このやらずぼったくりのクソビッチ! 頭蓋骨に詰まってんのは蟹味噌か! とにかくここは今開けるべきじゃないんだ! バイオ対応班を編成してからじゃないと危険すぎるんだよ!」
「早撃ちのキンタマよりはマシだろうが! とにかく代替案がないなら黙ってろ、ワクチンだけ置いてとっとと消えやがれ! 役立たず!」
「対応班と俺が入れば充分だ、消えるのはそっちだ! 着た切り雀!」
部隊間の感情を忘れ、アンディとグラディスは思わず顔を見合わせた。グラディスが煙草を咥え、アンディに箱を差し出す。アンディは「ども」と言って一本取り、久し振りの有害物質を楽しんだ。
「やらずぼったくりのクソビッチだの早撃ちのキンタマだのって、僕らでも滅多に言わなくない?」
「言わないっすねえ」
「さっきすんごい熱烈なキスしてなかったっけ、あの人たち」
「してたっすねえ」
「先生がああ言うってことは、ドクターって早漏かあ」
「いや、ドクターの主張によれば違うらしいんすけどね。先生以外に証明できないから難しいっすよね」
「え、まじで? ドクターって遊ばないの? 絶対モテるだろ、あの人」
「遊ばないんじゃないすかねえ。すんごい馬鹿ップルなんすよ、あそこ」
そんなもんかね、そんなもんすよ、と適当な会話をしながら、グラディスはふと思い出した。──シェルター内の隊長、既に感染してるわけだけど、死ぬまであとどれくらいだろう。
「ねえ先生、ドクター。隊長ってあとどれくらいで死ぬの?」
グラディスの遠慮のない質問にアンディが驚愕し、そしてすぐに憎悪の目を向けた。だが二人の闇医者が口論を一瞬中断し、同時に叫んだことによって、その憎悪は一時消えることになる。
「急いでも明日!」
まだ間に合う。急いでもと言う言葉には突っ込みたくなったが、心の底から安堵の溜息をつくと、アンディは急に怪我の痛みを感じた。モルヒネが切れたのだとは思い至らなかった。グラディスは「何だ、残念」と言って煙草を深く吸う。
その瞬間、グラディスの無線に「敵!」と怒鳴り声が飛び込んだ。それが急いでも明日まで死なないSAS隊長の声だと気付く前に、本能レベルまで叩き込まれた訓練の成果が勝手に身体を動かした。意識は信じられないほど冷静に、まるで観客のように見ている自分を確認しながら、角から躍り出た男が銃を向けたこと、発砲したこと、自分が短機関銃をトリガーを確実に引けたこと、胸と右腕上部にこれ絶対痛いやつだと自覚できるほどの熱を感じたこと、全てが嘘のように穏やかに、ゆっくりと意識を侵食しようとした。
刹那、最低でも二人の人間が自分に、むしろ鮮血を噴き上げた傷に飛びかかるかのように身体を支えられたことが分かった。そしてインカムの無線から「お大事に」と言う声が聞こえ、あまりにも腹が立ち、無線に向かって「死ね」と呟いてからその意識を手放していた。
口論も何もかも、その瞬間に終わった。デルタフォースの隊長が右上腕部付近と胸を撃ち抜かれた。そして患者になった。その事実があれば充分だった。
腕から噴き上がる鮮血を浴びながら先に対応したのはキリコで、即座に強く圧迫し、上腕動脈に損傷が及んだこと、しかし呼吸への影響がないことを確認した。
「上腕動脈だ。圧迫止血する。──自発呼吸確保」
BJが頷く。キリコが適切な処置をすると知っている。だから処置の結果を待たず、次の質問をした。
「胸は?」
「弾が抜けてない。心臓──手前で止まってるな。防刃ベストのお陰とはいえ、このキチガイ、幸運すぎる」
「こんな重装備でよく動くよ。体力はお墨付きだな、何とかなりそうだ。胸は入れたまま止血して後で。ここじゃ取れない」
「異議なし」
「先に上腕動脈を縫合する。出血は?」
「目視で5秒強、中等度から重等度」
BJは自分の目で詳細を確認することなく医療鞄を開け、医療器具を取り出し始めた。アンディはただそれを見るしかできない。モニター越しに隊長が見ているのかもしれないと思ったが、無線で話しかける気にはなれなかった。ただ、グラディスが最後に撃ち返した男の生死だけは確認した。顔に短機関銃の銃弾を浴び、その原型を失って死んでいた。あの状態で顔に当てるなんてデルタは化け物か、と嫌になった。
そしてアンディは思う。こいつら、まとめて全員まともじゃない。しみじみ思う。
本来の戦場なら軍医の手が間に合わず、死んで当然だと思われるような重傷の患者に処置をしながら、血まみれのキリコがグラディスから取り外した無線で外部と交信し、シェルター内部の状況と取るべき対策について説明している。メインで執刀しているBJもやはり血まみれで、たまに口を挟み、意に添わない回答をキリコから返されるたびに口汚く罵っていた。それでも彼女の手は止まらず、サポートするキリコにも迷いが見えない。そしてまだ処置が完全に終わらないうちに意識を取り戻したデルタフォースの隊長が、呪詛さながらに「撃った奴、絶対殺す」と呻いた声をしばらく忘れられないだろうと思いながら、「あんたがもうやっちゃってます」と教えてやった。
そこで隊長が無線を発信して来た。彼が言ってくれたことを噛み締め、アンディは溜息をつく前に、三人に聞こえるように言った。
「全掃討完了。ホワイトハウス内部、外部共に陸軍が制圧した」
それから思い切り溜息をつく。完全にモルヒネが切れ、痛みを緩和していてくれたアドレナリンも減少したようで、肩と顔の負傷が耐え難いほどの激痛を発し、ねえ先生、ドクターとお祝いのキスが終わったらモルヒネ頂戴、と情けない声を上げてしまったのだった。
その日の宿泊先として提供されたのは、大統領の支援者である富豪が有するホテルの一室だった。こんな騒ぎの中でも関係者への配慮を完璧に、当然のように手配する事務方に敬意を表したくなりながら、BJとキリコのみならず、大統領一家も含め、一同高級ホテルに落ち着くことになる。だが大統領夫妻は今日の件で忙殺されることは必至で、いつこのホテルで休めるか分からない状態だった。
20時、キリコは提供された部屋の寝室で物も言わずベッドに倒れ込み、柔らかい高級寝具を堪能する。ほんの少し前まで本当にあんな大騒ぎがあったとは信じられないほど優しい感触で、このまま眠ってしまっても誰も俺を責めてはいけないと考える。
「せめてシャワーくらいしろよ」
当然のように同じ部屋にされていたBJだけが責めた。先に使っていたバスルームから出て、濡れた髪を拭いながら、寝具に沈んでいるキリコに声をかける。
「シャワーね。とてもしたい。でもここからとても動きたくない」
「気持ちは分かるけど、私もそこを使うんだ。汗臭いのは御免だよ」
「慈悲がないね」
「私のために頑張れ」
「依頼なら金を払いな、クソビッチめ」
「ぐずぐず言わずに行って来い。早漏ならシャワーも早いだろ」
「早漏じゃねえっての……」
死力を振り絞って起き上がり、何とかベッドから降りる。考えてみれば起きた時間は3時。その上でこんな事件に巻き込まれ、疲れていないはずがなかった。むしろ今起きていることを褒めて欲しいほどだ。
「夕飯はどうする」
「先生が何か食べたきゃ持って来てもらいなよ。俺はいいや、とにかく寝たい」
疲労で目眩がするほどだ。手早くシャワーを終えたかったが、あまりにも疲れて緩慢な動きになり、いつもより時間がかかってしまった。バスルームで眠り込まなかっただけで自分を褒めたくなる。
寝室に戻るとナイトテーブルの上にジュースが置いてあった。窓際で煙草を吸っていたBJがそれを指す。飲めということだ。見た目の色が鮮やかなオレンジで、柑橘系のジュースだとすぐに分かり、キリコは文句を言わずに立ったまま飲み干した。疲労時のビタミン摂取は世界中で推奨するべきだと主張したくなるほど身体中に染みた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「すぐ寝落ちしそうだ」
「ベッドで吸うなよ」
「分かってますって」
ナイトテーブルにあった煙草を咥え、BJがいる窓際に行く。シガーキスで火をくれることは分かっていた。火を点けてからひと吸いし、煙を吐き出してからBJに軽くキスをする。
「疲れた」
「同感だよ。フォート・デトリックで何があった?」
「話せば長いし、多分守秘義務に引っかかるから無理」
気狂いがいたよ、という話だけはしてもいいかもしれない。結局あの気狂いは目的を達成しつつあるのだろう。今の大統領なら。強いアメリカを。気狂いは気狂いの目で、それを実現して行こうとするのだろう。
大統領は救出された後、英国首相と共にすぐさま会見を開き、自分が無事であること、決して屈しない国であること、強い国であることを猛然とアピールした。今も対応に追われているだろう。だが今この時こそ、彼が最も能力を発揮する時だとキリコは知っている。政治家はそれでいい。最前線で戦うのは兵士でいい。そして傷付いた兵士を救うのは医者なのだ。
「明日にはお暇しないとな。後片付けで客人どころじゃないくらい疲れるはずだし。ピノコに電話しなきゃ」
「先生も疲れただろ」
「ホワイトハウスに来て毎日疲れてるから、もう何に疲れたか分からない」
キリコはつい笑い、もう一度キスをした。BJも笑って同じことをする。互いに思った。生きていてくれて良かった。帰って来てくれて良かった。帰って来て良かった。
約束なんてあてにならないと、この歳になって改めて思い知った。きっと今日、初めて、二度と会えないかもしれないと覚悟した。
二人が選択した別離なら、それは受け入れざるを得ないのだ。だが突然、予想もしないことで降りかかる別離がないと言い切れない。こんな生き方なのだから、これからもそんな覚悟をする瞬間があるのかもしれない。
愛していると言ってはならないと、愛し合わないと決めていても、愛していることは真実なのだ。愛している限り、またこんな感情に襲われる日が来るのかもしれない。それがどんな意味を持つのか二人には分からなかったが、それでも今、目の前の愛する人を愛していると強く思えた。
二人でほぼ同時に煙草を消すと、笑ってしまうくらい同じタイミングで唇を合わせようとした。遠慮なく笑いながら唇を掠め合わせ、やがて深いキスをする。
ねえシュガー、と唇を一度離したキリコは甘い声で囁いた。
「勘違いだってことを証明したいんだけど、いいよね?」
BJは少し考える顔になったが、やがて噴き出しそうに口元を歪める。キリコはまた笑ってその唇を塞ぎ、しかし耐え切れなかったBJがそのまま噴き出してしまって、結局二人で笑い転げた。
笑いながらキスを繰り返し、じゃれ合いながらベッドへ歩く。今日は最高だった、とキリコは言った。
「キューティ・パイ、まだ今日よ?」
BJがこの上なく可愛く言って、男が好きにしても良いことを教えた。ああ、本当に、今日は本当に最高だ、とキリコは言った。
もう一度、今度はもっと深いキスを。
二人が唇を重ねかけた時、BJが思い切りキリコを突き飛ばし、キリコは「神よ」と呻いて突き飛ばされた先のソファに沈み込んだ。
「パティ、どうしたの、眠れないの?」
可愛らしいナイティ姿の幼い少女がドアを開けると同時に、BJが優しい声を全力で捻り出す。キリコは立ち上がる気にもなれなかった。もうこのままここで寝るしかないと決めた。パティが泣き顔だったのだからそう決めるしかなかったのだ。
「お父様もお母様もまだ帰って来ないの。寂しいの」
「今日はお忙しいでしょうし、仕方がないわね」
パティの後ろから、彼女の世話係が顔を覗かせる。キリコと目が遭い、それが恨みがましいものだと知った世話係は、気まずい顔を見せて謝意を示した。それでキリコは怒る気がなくなった。
「先生、一緒に寝ては駄目?」
「も──もちろんいいわよ! もう寝る時間ね、ベッドにいらっしゃい」
「何か、お話をしてほしいの」
「そう、どんなお話がいいのかしら」
パティをベッドに押し込み、その隣に潜り込むBJを眺め、キリコは今日で一番大きな溜息をついた。その溜息が聞こえたBJが振り返る。決まり悪そうな顔をして見られたものだから、キリコはそれが可愛いと思って微笑んでやった。
「シュガー、俺にもお話してよ」
てっきり馬鹿にされると思ったが、BJはにやりと悪戯げに笑って言った。
「順番ね。良い子で待ってて、キューティ・パイ。大人のお話をしてあげる」
最高に楽しみだよ、シュガー。そう答える前に強すぎる睡魔が来襲し、キリコは大きな欠伸をした。パティが眠るまで起きていないとなあと思いつつも、そのまま眠りの谷への急降下を止められなかった。