君が愛を語れ 02

 キリコを見送ってから再び眠り、BJが次に起きたのは6時半だった。既に大統領を支えるスタッフたちが邸内で動き回る気配を感じる。特に今日は英国首相が来るということで、緊張感がホワイトハウス全体を包み込んでいるようだった。
 ──今日が終われば後は帰るまで気楽にできるかな。表情筋以外は。
 上等の寝具の中で再び眠りたい衝動を振り払いつつ、ベッドから這い出る。夜の夕食会までは行儀よく待っている以外にすることがない。流石にうんざりしたが、これも今後の営業のためと考えて、よし、と声を出して気合を入れた。
 午後になればキリコも帰って来る。今日のキリコの仕事が危険極まりないものであることは意識的に忘れ、少しでも遅くなったら日本語で「早漏のくせに遅ぇんだよ!」と言ってやろうと決めた。


 法律で厳密に定められた手順を済ませ、キリコは契約上の仕事に全精力を注ぐ。僅かでも見逃しがあれば大変なことになる状況を管理する立場であり、契約上の責任を果たすことはもちろんのこと、男として何かしかの名誉を刺激される仕事でもあった。
「チェックワン、クリア」
 防護服の中から最初のチェックを何重にも確認し、一つ目の許可を出す。僅かなミスも許されない。これから開封されるサンプルケースの扱いを間違えれば、この研究室に足を踏み入れるほぼ全ての人間が死ぬことになるだろう。
 午後になればホワイトハウスに戻ることができる。夜まで待機を強制されるBJはさぞ暇を持て余し、機嫌が下降していることだろう。少し甘やかしてやっても良いかもしれない。仕事が終わって防護服を脱いでからどう甘やかすかを考えようと決めて、それを限りに仕事以外の要素を全て思考から追い出し、二つ目のチェックに取り掛かった。


 大統領は眠っていた夫人を優しく起こし、身支度をしてパティを起こしてあげておくれ、と囁く。寝起きの良い夫人はすぐに起き上がり、夫にキスをしてからベッドを降りた。大統領もひとつ伸びをしてからベッドを抜け出す。
 今日の客人は気心の知れた──とまでは言わないが、国益と個人の目的の一部を共有することができる有能な女首相だ。今回の会談で更に同盟を強め、強い母国を成長させることができるだろう。
 妻が先日から招いている客人の部屋のフルーツや甘味、それから客人とその恋人の煙草について質問している。ああ見えて甘いものをよく口にするBJへの心尽くしだと分かって嬉しくなった。とにかく今日は彼女と彼を退屈させないで頂戴、と言っている妻がとても愛しかった。


 インカムの無線から入った連絡にグラディスは僅かに眉を顰めた。何それ、と問い返すと、無線の向こうの男は困ったように同じ言葉を繰り返した。撃ち落としちまいなよ、とグラディスが言うと、そうもいかない、と返事をされた。それなら僕に訊くんじゃないよ、死ね、と言い捨てた。
 扉の向こうでは今頃、死神と呼ばれる男が死者を出さないために尽力しているだろう。皮肉なもんだと思いながらもう一度無線の内容について考え、それから腕時計を見やり、無線の通話スイッチを押した。
「領空に入り次第撃ち落とせ。この意見が通らないなら他の連中に押し付けろ。文句があるなら死ねって言っといて」


 いつもなら学校へ行くパティは、今日は親の──国の都合で休まされている。最初は家庭教師と真面目に勉強をしていたのだが、10時にもならないうちにBJの部屋に避難して来てしまった。父も母も朝から英国首相の出迎えのために大忙しで、つい娘をないがしろにして不満を抱かせていた。BJは諦め、しばらく子守りに専念することに決めた。パティのSPが感謝の視線を送ってくる。気にすんな、これも営業さ、と心の中で呟いておいた。何より全身で愛情を伝えてくれるパティ自身がとても可愛らしく、BJが彼女を愛おしく思うには充分だった。
「先生、かくれんぼしましょ」
「今日は他のことで遊びましょう。パティが他に好きな遊び方をわたしに教えてくれる?」
 日本に残して来た娘を思い出しながら、BJは作り物ではない微笑を少女に向ける。可愛いものだ。とはいえ、今日はさすがにかくれんぼで遊ぶわけにはいかない。SPたちの苦労を考えると、できれば絵本や絵画など、おとなしく座っていられる遊び方が良いのだろうかと思った。
「パティ、本は好き? いつもはどんな本を読むの?」
「ピーターラビットが好き。先生は最近どんな本を読んだの?」
「……昨日、お夕飯のメニューを書いたメモを読んだわ」
 渡米中の飛行機で多臓器への同時手術に関する論文を集めた医学書を読んだのだが、この娘に言っても仕方ない。だがその選択は正解で、パティは顔を輝かせた。
「あれはお母様が書いたのよ!」
「そう。だからあんなに読みやすくて素敵だったのね。字を見ただけで美味しそうだったわ」
「昨日は何が一番美味しかった? わたしはね、オレンジのシャーベット!」
「うーん、どれも美味しかったけど──」
 今日の夕食会はどんな献立になるのだろうか。精神をすり減らすホワイトハウスの生活の中、せめて好みのものがあればと思った。それから、キリコが好きな一品があればいいのに、とも思った。


「チェックスリー、クリア」
 長い時間をかけてキリコはようやく3つ目のチェックを終える。小さな空調がついた防護服の中でも汗をかきそうになり、意識してそれを抑えた。今の汗は精神的な緊張から発生したと考えられる。少しのミスも許されない。生命の終焉を求める患者に寄り添って、共に高い次元の入り口まで歩む時よりひどく高揚するのは、医者の、根本的に研究者である者のさがなのだと強く実感した。


 無線の向こうでまた似たような報告がもたらされた。グラディスは舌打ちする。だから撃ち落とせって言ってんだろ、分からないなら死ね、と言っても、それを認める者と連絡が取れないと返された。さすがに焦った方がいいのだろうかと考え、時計を見る。11時。
 サンプルの開封が終わっても、ドクターをホワイトハウスに連れて帰らない方が良いかもしれない、と考えた。だがキリコが納得しないだろう。事前の調査では、ドクター・キリコはBJと相当親しい関係、つまるところは男女の関係にあるらしい。危険かもしれないからホワイトハウスに帰らないでくれと言っても、あの女がいる限り、イエスとは言わない気がした。
「僕が僕の立場で言うべきことは全部言った。後は上に任せる。責任云々抜かすようなやつがいたらこっちに回せ、死ねって言ってやるから」


 パティは家庭教師とのランチより、BJと一緒にいたいと言って周囲を困らせた。困るSPや彼女の世話係にわたしは構わないわと言い、夜まで一緒に過ごすことにした。帰って来たキリコは驚くかもしれないが、ああ見えて小さな子供に優しい。さすがに早漏という言葉をパティの前で言うわけにはいかないと思い至り、少し残念だった。
 それが本当かどうかBJは知らなかったし、知る機会に遭遇するたびに、なぜかその機会が潰れる羽目になることが不思議で仕方なかった。二人を知る者たちの予想を裏切り、いまだに完全な男女の関係が成立していなかった。
 パティの取り止めのないお喋りに付き合いながらランチを取る。時計を見ると13時に少し届かない時間だった。もうすぐ終わるかな、と、期待する自分がいた。


 全てのチェックが終わったのは12時を過ぎた頃だった。それからようやくサンプルの開封が行われる。実際は開封そのものより事前チェックの方に手間を取られるという良い証明を行ってしまった。
 かと言ってキリコの仕事が終わったわけではない。防護服に身を包んだ研究員が全神経を集中してサンプルを手にする姿を見詰め、しばらくは何事も起きてくれるなよと祈ることしかできなかった。


 英国首相がホワイトハウスに到着した。儀仗兵の歓迎の中、彼女を乗せた車は悠然と進み、大統領夫妻が待つ正面玄関へ向かう。やがて到着した車から降り、後世の歴史家には親しい二人だったと書かれるであろう相手に笑顔で再会の握手を求める。
「ロン、アン、お久し振りね。また会えて嬉しいわ」
「こちらこそ。ようこそ、メグ」
 政治的な話など先に高官同士で煮詰めているもので、今日も例外ではない。特に変更点もない両国の関係について深い話をする予定も特にないが、納税者のために、二国が強く結びついている声明を出す必要があった。逆を言えばそれ以外に特に重視することがない。
「BJ先生とドクター・キリコが来ているんだ。夕食会に出席してくれるから、その時に話をしたらいかが」
「まあ、私の可愛い抱っこちゃんと恋人が。先に教えてくれればお土産を持って来たのに」
「抱っこちゃん? 先生が?」
「そうなのよ。あの子ったら──」
 政治の話よりも先に客人の話になる。政治家同士の世間話にはちょうどいい、むしろ距離を一気に縮めるにはかなり有用な存在にされていることを、無論本人たちは知らなかった。


 お母様のところに行ってくる、とパティは部屋を出て行った。さすがに母が恋しくなったらしい。英国首相が到着し、大統領と歓談を始めたという連絡を受けていたので、夫人の手が空いたと知っいたBJは彼女を見送り、解放感に溜息をついた。パティに含むところがあるのではなく、マイペースな子供を相手にし続ける緊張からの解放感を味わっているのだ。
 メインルームで朝食後以来の煙草を吸い、コーヒーを飲んだ。13時半。もうすぐ帰って来るはずだ。キリコに限って何かあるはずがない。大体、フォート・デトリックで何かあればワシントンの住民が避難しなくてはならない大惨事に直結してもおかしくない。そんな危険なことに外部の男が関わるものか。様々な悪条件を敢えて無視し、BJはそう結論付けた。それが希望的観測だったとは思いもしなかった。


 全ての作業が無事に終わった。所定の退室手続きを終え、クリーンルームで全身洗浄をした後、閉鎖された空間から出ることを許される。ドアの前で待っていたグラディスに「待たせたな」と声をかけたら、いやに素っ気ない声で「いや、多分これから大変だから」と言われた。
「何があった?」
「何かある予定」
「どんな」
「僕だけホワイトハウスに戻ることになると思う」
 グラディスはキリコを見た。短機関銃を無造作に持つ特殊部隊員にキリコは眉を顰める。
「俺も戻らないと面倒が起きそうなんだが」
 キリコの言にグラディスは「そうだろうね、あの人それっぽい」と呟いた。キリコは溜息をつき、目の前の特殊部隊員に要請した。
「詳しい話を。できれば分かりやすく」
「その前に確認したい。銃は使える?」
「一通りは」
「どうぞ」
 軍服の腰から素早く短銃を取り出し、空気を滑らせるようにキリコに渡すと共にグラディスは動いていた。乾いた発砲音が響く。悲鳴すら聞こえなかったが、確かにキリコは生命の終焉を見た。研究員の一人がグラディスの短機関銃に一瞬で生命を刈り取られていた。そして特殊部隊員は無線に向かって静かに言った。
「最優先発信、緊急。フォート・デトリック全出入り口閉鎖。セーフティレベル4エリア、パンデミック危険指数ハイレベル指定ウィルスの封じ込めを行う。一人も出すな。指示に従わない者は射殺しろ」
「彼は何を?」
「ポケット見て」
 今しがた死んだばかりの研究員のポケットを言われた通りに探り、キリコは一瞬心底ぞっとした後に、グラディスが迷わず撃ち殺した行為に納得した。そして指先に当たったその試験管が完全密封されていることに胸を撫で下ろす。
「エボラウィルス属の持ち出しなんてどう考えたって禁止だろ。俺だって持ってないぞ。そりゃ殺されても文句は言えないな」
 この時代ではいまだワクチンのない、臨床例も少ない、人間が扱い切れていない未知のウィルスを持ち出そうとした者がいた。これだけで一大事だ。一大事という言葉では済まないほどだ。もし外部で拡散すれば、大袈裟ではなく数百人、数千人の犠牲者が出かねない危険すぎる状況を短機関銃が止めたのだった。
「エボラ?」
「エボラだ。これはエボラウィルス属。知ってるのか?」
「名前だけはね。──エボラウィルス属を持ち出そうとした奴がいる。僕が射殺した。──ドクター、封の状態は確認できる?」
「完全に密封してある。パンデミックの心配はない」
「ありがとう。僕は──デルタはここの備品に触れない規則だから研究室に戻してもらえるとありがたい。──エボラウィルス属、セーフ。ドクター・キリコが確認、一任する」
 無線に話す声を聞きながら、キリコは唸りたくなる感情を抑え、さてBJに何と言っただろうか、と思い出そうとする。そうだ、確か──心配しなくていい。そんなことを言った。昼過ぎには戻るよ。そんなことも言った。
 俺はどうしようもない嘘つきにされそうだ。自分の不運にうんざりしながら研究室から慌てて逃げようとした研究員に、流れるように安全装置を外してから銃を向けた。
「動かない方がいい。すまないな」
「ど──どうしたんですか。ドクター」
 研究員が突然の状況に仰天しながら問う。キリコは射殺された研究員を顎で示してみせた。
「エボラ属を持ち出そうとして射殺された。あんたは?」
「有り得ない。身体検査して下さい。お願いします。何も持ってません、本当だ」
「それは俺の仕事じゃない。とりあえずあの赤毛のデルタの指示に従ってくれ」
「赤毛って言うな、差別用語なんだぞ。──全員、ドクター以外だ。壁に手を着いて並べ。喋るな。喋ったら殺す。──ドクター、今日のサンプルのウィルスの名前、正確に言ってもらえる?」
 状況が把握できずに怯える研究員たちに短機関銃を向けて壁際に並ばせながら、無線のスイッチを入れたグラディスが言った。
「マールブルグ出血熱ウィルス」
「マールブルグ出血熱ウィルス。致死率──クッソ高い?」
「90%の報告」
「90%の報告あり、ドクター・キリコより言質。フォート・デトリック完全閉鎖まで目標3分、可能な限り急げ。逃げる奴は殺せ。セーフティレベルがいくつのエリアからだろうが、逃げようとした奴は警告なしで殺せ。4は現状で僕が見てる。協力者としてドクター・キリコ、僕のベレッタ92Fを貸与中、現時点で未発砲。応援を2人、すぐに。途中で逃げる奴がいたら殺せ」
「物騒だな。デルタフォースってのはみんなそうなのか」
 乱暴すぎる物言いにキリコは呆れたが、グラディスは先に殺した研究員に2発、今更とどめのように短機関銃を撃ち込み、眉を顰めるキリコを前に涼しい顔をしていた。
「デルタはこんなもんさ。──これからもっととんでもないことになるよ。ここにいるのが一番安全かもしれない。ここにいれば?」
 僕は行かなきゃいけないけどね。グラディスは呟き、キリコは肩を竦めた。
 グラディスの無線に連絡が入る。しばらく聞いた後、グラディスはまた涼しい顔で言った。
「撃ち落とせって言っただろ。何でやらなかったの? 死ねば?」
 本気で切迫した状況であることをやっと実感し、キリコは渡された短銃を初めて目視で確認した。ベトナムで使った銃の後継モデルだと知り、冗談じゃない、と左目を抑えたくなる衝動と、これなら使いやすい、と冷静な判断の狭間で、愛している女の顔を思い出した。
 グラディスの無線がまた反応した。そしてグラディスが宣言した。
「フォート・デトリック完全閉鎖。フロア移動を禁じる。文句がある奴は手を挙げろ。順番に殺す」
 間違えても手を挙げるのはやめよう。キリコは心に決め、さてどうするべきか、何が起きたかこの男は教えてくれるだろうかと考え始めた。
 だが、ふと脳の中で何かが閃いた。
「グラディス」
「何」
「研究室の病原体サンプルと近日中の職員の出入り状況を確認したい」
「──詳しく」
「既に持ち出されている可能性は?」
 死神と特殊部隊員は暫し視線を交錯させる。それからグラディスは壁に手を着いている研究員たちに向かって言った。
「サンプルリストの参照権限がある人、手を挙げて。とりあえず殺さない」
 キリコは速足で研究室に入った。また防護服を着なくてはならない。その後ろでグラディスが無線に向かって出入りした人間の名簿を調べるように要請していた。


 遅い。時計を見上げ、BJは唇をひん曲げた。腹が立ちそうだった。今日のようなキリコの仕事にはイレギュラーが付きものであることは知っているが、やはり感情は納得しない。元々BJは感情的だ。心配が嵩じて腹が立ってしまうことがよくあった。キリコに「やめてくれ」とたびたび言われる悪癖だった。
 そろそろ首脳会談も佳境だろうか。今のうちにピノコに絵葉書を書いてしまおう。帰国したらだらしない座り方で、あの子が作ったカレーを食べたいと思った。


 白熱するような問題は何もない。一国の指導者として軽率な発言に気を付けつつ、大統領は決まり切った政治的話題をこなして行く。軽率な発言を期待しつつ、首相はそれに頷き、特に変更点などを考える必要はないと判断していた。夕食会は何の憂いもなく楽しめそうだ。
「失礼致します」
 通常なら決して有り得ない状況だった。会談中にSPが入室し、大統領に耳打ちしたのだ。緊急事態だと見抜いた首相はドアの方をちらりと見る。にわかに騒がしくなっていると知った。そしてドアの影から英国から連れて来た護衛が現れ、やはり自分に耳打ちした。
「避難を」
 同時に大統領が礼儀を失わない顔で立ち上がりながら、首相に穏やかな声で告げた。
「メグ、良い会談をありがとう。お茶でもいかが?」 
 首相は肩を竦め、同意した。
「核シェルターでティータイムだなんて、中々できない経験ね」


 激しくドアが叩かれたと思った次の瞬間には開き、SPが一人飛び込んで来た。新しい煙草に火を点けたばかりだったBJは眉を顰め、こいつはろくなことにならねえな、と確信した。
「先生、避難訓練だ。一緒に行こう」
「何ですって?」
「ちょっとした訓練だよ。怖がらなくていい」
「そう、安心ね」
 そんなわけねえだろう──心の中で呆れたが、対象を慌てさせないための手段だと知っているBJは、SPの下手な芝居に乗ってやった。だが緊急であることは理解していると態度で教えるために、花瓶の水に煙草を素早く投げ入れ、身を翻してドアへ急ぐ。同時にドアの横を定位置と定めた医療鞄とコートを引っ掴んだBJの姿を見て、SPは「助かるよ」と本音を漏らした。この女が緊急事態を理解していること、その上で冷静であることに感謝した。


 多数のSPと英国人の護衛に囲まれ、地位に似合わない駆け足で目的の場所に向かう大統領と首相、そして大統領夫人に偶然合流した。シェルターまで降りるエレベーターの前だった。
「先生、良かった」
「抱っこちゃん、変な時に会うものね」
「ロン、ご無事で良かったわ。おばさまもご一緒でびっくりよ」
「まあ、先生、先生──」
 SPがエレベーターを開放するパスコードを打ち込む間、政治家二人に返事をしながらも、やはり大統領夫人は可愛らしいものだとBJは思う。泣きながら自分に縋りついて来たのだ。
 そして首相の護衛の中に見知った顔があり、さすがに驚いた。彼らも無論気付いていて、同時に人差し指を口の前に立てて沈黙を要請する。BJは軽く頷き、スーツ姿のSASの隊長とアンディに了解の意を示した。
「先生、わたし、どうしましょう──先生」
「アン、どうなさったの。大丈夫よ。すぐシェルターに入れるわ」
「違うの。先生、パティがいないの」
 驚愕して一同を見回す。ぞっとした。確かにここにあの娘がいない。SPたちは慌てることなく、「後からお連れします」と言ったが、それが難しいと表情が言っていた。娘を連れ出す余裕がなかったか、それともどこかで担当のSPと共に足止めされてしまっているのか。
「アン、大丈夫だ、あの子は大丈夫」
 父である大統領が妻に言い聞かせる。その目が父としての激情を必死で抑える政治家のものであることは誰もが気付いていた。
 エレベーターの扉が重々しく開く。ここから要人は地下深くの核シェルターに降り、危機が過ぎるまでの時を過ごすのだ。
 ──映画みたいだ。
 思いながら、BJは抱いていた夫人の身体をそっと離した。SPが大統領と首相をエレベーターに押し込み、自分たちも乗り込みながらBJを促す。
 その瞬間、BJは身を翻して走り出していた。背後から夫人が「先生!」と叫んだ声が聞こえたが、すぐにエレベーターの扉が閉じ始める重い音にかき消された。
 深い階層にあったエレベーターフロアから生活エリアに戻る。スタッフたちも避難を開始しているのか、かなりの喧騒が聞こえる。パティを知っている人がいるかもしれない。BJはそちらへ向かって走り出した。
 不意に空が鳴いた気がした。思わず足を止め、窓から空を見上げようとし──背後から突き飛ばされる勢いで押し倒され、驚愕する間もなく耳をつんざくような爆音が響き、びりびりと激しく揺れる空気の中で、引き裂かれたあの記憶が脳裏をよぎった。背中かから覆い被さる熱があの記憶の中の母の身体よりも堅いことが、皮肉にも現実を思い出させた。
 思い出したはいいが理解ができない。落ち着けと自分に言い聞かせながら顔を床に伏せてただ待った。周辺にばらばらと硬いものが落ちる音がひっきりなしに続く。割れた窓ガラスだと考えている間にもまた爆音、そして激しい空気の揺れ。数秒後にそれは収まり、同時に覆い被さっていた誰かが身体を離しながら声をかけて来た。
「走るの速いね、先生」
「──アンディ?」
「首相と隊長にエレベーターから蹴り出されちゃってさ。大丈夫?」
 守ってくれたSAS隊員の言い草に苦笑し、同時に申し訳ないと思った。他国に仕事に来ていただけのはずが、自分たちの任務には全く関係ない女を守るように命令されたと言うことだ。
「おまえさんこそ怪我は? タダで診てやるよ」
「今のとこ大丈夫。頭を低くして窓の方の壁に寄って」
 言いながらアンディはスーツから拳銃を取り出した。その目が特殊部隊員のものになっていると知り、BJは息を吐いて緊張を逃そうと努め、破壊され尽くした窓際の壁に寄った。アンディは窓の影から外を窺い、まじかよ、と呟く。
「映画じゃねえっての」
「何が起きてるんだ?」
「俺の予想だと、高速ヘリが2発ホワイトハウスにぶち込んで、中から15人──見えないな、16から18、20くらいか。武装した奴らが出て来てこれからハウスに入って来そう」
「──映画ならヒーローが気付く頃合いかな」
 BJは我ながら必死で考える。パティはどこだ。部屋にいるのだろうか。SPが一緒なら最善の行動ができていると信じたかったが、緊急時のマニュアルとして訓練されているはずのルート──核シェルターに移動するということができていない。何かがあった。
「パティを探したい」
「分かってる。心当たりは?」
「かくれんぼだ」
「ええ?」
「あの子は上手いんだよ」
 BJは窓の影から外を除く。武装した男たち、女もいるようだ。統制された動きでホワイトハウス内への侵入を開始していた。警備とSPが応戦すると分かった上での行動だ。建物の影に入り、銃撃と狙撃を避けている。同じく覗いたアンディが眉を顰めた。
「訓練されてる」
「そうか」
「あと──遮蔽物の場所を理解してる。前もって知ってたってことだ」
 それが何を意味するのか、僅かに遅れてBJは理解した。
 マニュアル通りに現れなかったSP。前もって物の位置を把握している武装勢力。考えるまでもなかった。
「──パティ」
「急いで。俺は内部が分からない、案内して」
 どうか、とBJは強く願った。どうかあの賢い少女が逃げていますように。守ってくれるはずの大人を疑い、離れる勇気を出せていますように。


 研究室内に保管されているサンプルは、射殺された研究員が持ち出そうとしたもの以外は全て定位置で確認できた。エボラウィルス属のサンプルが入った試験管を厳重に元の位置に戻し、温度管理を確実に設定してから、流石に安堵の溜息を吐き、キリコは防護服を脱ぐために脱着エリアへ入る。
 部屋を出るとうんざりした顔でグラディスが待っていた。研究員たちは床に座らされ、応援に駆け付けたデルタフォース隊員二人に短機関銃を向けられた上で完全に監視されている。
「どうだった?」
「全サンプル無事だ。紛失なし」
「オールクリア。ドクター・キリコが確認」
 無線に向かって投げやりに言う姿に、キリコは違和感を抱いた。
「何かあったのか」
「高速戦闘ヘリからミサイル2発、約20人の戦闘員の侵入の危険、現在正面玄関前で交戦中」
「フォート・デトリックで?」
 グラディスは肩を竦め、煙草を取り出して口に咥える。
「ホワイトハウス」
「──ここは禁煙だ」
 何を言えばいいのか分からず、とりあえずそう言ったキリコに、グラディスは不機嫌な舌打ちをしてから煙草を戻した。