君が愛を語れ 01

 人間と言うものは身勝手だ。愛し合わないと決めた相手なのだから、どれほど自分が愛していたとしても、決して自分のものと言うことはできない。さりとて奇妙な独占欲だけはしっかりあって、愛した相手が知らない誰かと腕を組んでいる姿は非常に気分が悪くなる。
 そもそも、なぜ海外でこんなにも頻繁に会わなければならないのか。稀に依頼人が生命の行く末に迷い、無免許医と死神を同時に呼ぶことがある。その時は出会っても仕方がないと思う。だがそんな理由もない時に、なぜこんな、互いが居住する日本から遠く離れたこの土地、ワシントンDCで偶然出会わなければならないのだろう。
 細身のスーツに身を包み、片目であっても決して魅力を損ねることのない見目の良い男が、やはり見目の良い女と腕を組んでいる。女が明らかに甘えた顔で男にしなだれかかり、男は──BJを見付けた瞬間、そっと女の腕を外し、とても魅力的な笑顔を浮かべて「シュガー、迎えに来てくれたんだね」と声を掛けて来た。次の瞬間に唇が声無く「Please」と動いたので、BJは溜息を押し殺して手を振ってやる。それにしても今回の呼び方はシュガーと来たか、随分と甘ったるいのを選びやがって、と思いながら。
「約束があったなら悪かったわ、キューティ・パイ。お邪魔じゃなかった?」
 見た目からは想像できないほど女らしい声音で言うと、キリコに纏わりついていた女は眉を顰めた。ああ、あれ整形だ、目と鼻と──とBJはつい医師の目で観察してしまう。その視線を挑戦か何かだと勘違いしたのか、女はキリコに侮蔑の言葉を投げ付け、それからBJを睨み付けると、細いヒールが折れてもおかしくない勢いで地面を踏みしめながら立ち去った。
「いいのか?」
「悪かったら声なんてかけないよ。助かった」
「ふうん」
 キリコが頬に落とすキスに軽く背伸びをして同じく返し、とりあえず再会したことを実感する。数週間振りだ。普通の恋人同士なら堪える期間かもしれないが、愛している、愛されていることは分かっていても、愛し合わないと決めた二人の関係は、ある意味で自由をもたらしていた。
「ナンパされたんだ」
「結構腕がいい医者だったな」
「ああ、整形?」
「そう。鼻のプロテーゼはもう少し新しいものに換えた方が良さそうだったけど」
「俺も同じこと考えてた」
 二人は同時に笑い、同時に笑いを収める。そして始まる、とキリコは身構えた。途端にBJの眦が吊り上がった。
「何でこんなところにいる」
「何でって言われても」
「また誰かを殺すつもりじゃないだろうな!」
 定番のやり取りだ。だが本人たちにとっては何度繰り返そうといつも真剣だ。BJは本気で安楽死を否定し、人殺しと言い切ることを決してやめない。キリコもBJの何もかもを救おうとする、キリコから見れば傲慢で不自然な方針を認め切ることができない。いつまでも平行線だ。
「毎度言うけどね、俺は医者だ。先生とはやり方が違う、考え方が違うんだよ。人聞きの悪いことを言いなさんな」
「事実だろうが! あのけったくそ悪い機械か? それとも薬か? どっちにしろ──」
「何てことだシュガー! 俺もきみも誤解し合ってる!」
「キューティ・パイ、ああ、とんでもないわ!」
 衆目の中に警官の目があると察したキリコがあっという間に演技を再開し、もちろんBJもそれに乗って男の腕に抱かれる。軽い口笛で囃し立てる人々のお蔭で、警官は肩を竦め、また警邏に戻った。
「慣れたとは言え毎回よくやるよ、おまえさん」
「先生の乗りがあってこそだね」
 こんなこと他の女にできねえよ、とキリコが呟き、BJはまだ抱かれたままの腕の中で少しだけ笑い、そんなことしたら殺すわよ、キューティ・パイ、と演技の中に本音を混ぜて言った。キリコが笑って腕に力を込めた。
 そのまま当たり前のように並んで歩き出す。確認するまでもなく、歩く方向が同じだっただけだ。違っていればその場で別れていた。いつものことだった。
 ホワイトハウスが近いこの場所は観光客が多く、様々な人種が入り混じり、アジア人であるBJもそこまで目立つことはなかった。すれ違う人がたまにしげしげと顔を覗き込んでくることもあったが、差別や侮蔑の言葉をあからさまに投げ付けられるわけでもなく、いつか行ったロンドンよりも余程歩きやすかった。
「いや、本当のところなんだが。仕事は仕事でも安楽死関係じゃないんだよ」
「じゃあ殺人?」
「そういうのは受け付けてない。この辺、警官が多いからそういう言い方はNGだ」
 合衆国大統領がおわすホワイトハウスが近いともなれば、厳重警備で当然だ。しかもロンドンほどではないとはいえ、二人して目立つ風貌をしている。納得したBJは頷いておいた。
「結構面倒でね。軍が絡むから」
「うっわ」
 思わずBJは本気で嫌な顔をした。ロンドンで情報部と特殊部隊の対立に巻き込まれたことを思い出す。BJの顔を見たキリコは似たような顔になった。
「あまり詳しく言えない。ここまで」
「ああ、そう」
「先生は?」
「仕事じゃないよ」
「え、休暇?」
「いや、呼ばれたから義理を果たしに」
「どこに泊まってる? 夜に行くよ。夕飯時は無理だと思うけど、少し後くらい」
「ここ」
 BJが足を止め、目の前の建物を指さす。その建物の名前を思い出したキリコは、BJが義理を果たしに来たという招待主が誰なのかを悟り、ああ、そう、と呟いた。
「さすがに後で行けそうもないな」
 そこに鎮座する「ここ」がホワイトハウスとあれば、簡単に訪ねることなどできはしない。招待主は間違いなく大統領だ。BJは笑い、キリコの肩を叩いた。
「入れるように言っておくから」
「隻眼のいい男が来るって言っておいてくれ。また後で。大統領によろしく」
 BJの頬にひとつキスをすると、キリコは雑踏の中へ消えた。姿勢の良い死神の背中を見送りながら、大統領に言ったらキリコもホワイトハウスに泊まってくれって言い出しそう、と思った。もし大統領がそんなことを口にすれば決定も同然だったのだが。
 観光客とは違うルートを通り、ホワイトハウスの内部に堂々と入って行く。見えない場所から警備兵が狙撃体制で周辺を警戒しているという話は先に聞いていたが、下心はあれど悪意はないBJには関係なかった。
 敷地内には人影がほとんどなく、観光客から向けられる奇異の目から解放されたBJは息を吐いた。何だかんだでどこでも見られることは仕方がないが、さりとて見られるために生きているわけではない。
 美しく整えられた庭園を眺め、正面玄関へ向かう。途中で閣僚らしき人物を乗せた何台もの車に追い越された。
「お帰り、先生。散歩は楽しかった?」
「ただいま。悪くなかったわよ」
 正面玄関の警備兵たちの挨拶に営業時の可愛い顔と日本語訛りで答え、彼らの笑顔を引き出しておく。ここに来て2日目だが、BJは早々に立ち回りやすい環境を整えていた。
 私室として割り当てられた部屋へ向かう。大統領夫人が使うブロックにあった。廊下を歩きながらコートを脱ぎ、大統領や国の重鎮が政務を行う中央部を抜け、警備兵やスタッフたちと軽口を交わしながら歩いて行く。昨日はあからさまに警戒されたものだが、素早い営業努力により、既に友好的な態度を獲得することができていた。
「先生、お願い、診てくれる?」
 ピノコの見た目より少し大きい少女が、大統領夫人の私室から駆け出して来た。
「パティ、どうしたの。あなたのお医者さんに診て頂いたら?」
「先生がいいわ。診て欲しいのはお母様なの。頭が痛いんですって」
「それこそわたしじゃなくて、お母様のお医者さんじゃないとね」
「先生がいいのに」
 出会ったばかりの大統領の娘は短時間でBJに懐き、何かと纏わりつきたがった。最初BJはパティが顔の傷に驚くかと思ったが、立場上、傷痍兵や復員兵に会うことが多い少女は全く気にしていなかった。
「でも」
「じゃあ、お母様のお見舞いをして差し上げたら?」
 まだ愚図るパティに、日本で留守番をしている愛娘の姿が浮かぶ。パティはBJに向かって手を延ばし、だっこして、と言った。遠目で見ていたパティのSPがやや身動いたが、BJは笑って抱き上げてやった。
「ねえ先生、連れて行ってよ」
「お部屋の前までね。わたしはお母様のお部屋に入っちゃいけないから」
 夫人の部屋の前までほんの数メートルほど抱いて歩き、ドアの前にパティを降ろす。するとドアが開き、夫人の秘書が顔を覗かせた。BJに礼を言ってパティを部屋の中へ連れて行く。BJは僅かに息を吐き、私室へ向かった。普段よりもずっと穏やかで優しい女の顔をし続けるのは中々に骨が折れるものだ。少し休みたかった。夜にキリコが訪ねて来てくれればいいのに、と思った。
 私室から警備の詰め所に内線電話をかける。1コールで担当のSPが出た。
『やあ先生、パティに纏わりつかれてるね。防犯カメラに映ってた』
「可愛いお嬢さんよね。防犯カメラ? わたしの部屋にもあるの?」
『いいや、流石にそれはね。廊下だけだよ。これは本当だ。何か気になることでも?』
「夜に彼が来たいって言ってるの」
 電話の向こうで口笛が聞こえる。お約束のそれにBJは笑った。
「入館許可の手続きをお願いできる? 背が高くて銀髪で、右目だけのすっごいハンサムよ」
『右目だけのすっごいハンサム? 左目は?』
「目がふたつあったら素敵すぎて、女性がみんな好きになっちゃう。ひとつでちょうどいいの」
 BJののろけとも冗談ともつかない言葉に、SPは律儀に笑ってくれた。
『保証人は?』
「合衆国大統領でいいんじゃないかしら」
 SPはまた笑い、ドクター・キリコだね、と言った。
「よく分かったわね」
『入国した時からチェックしてる。さっき先生とキスしてたことも知ってるよ。彼が整形美女と浮気しない素晴らしい男だってこともね』
「浮気したら教えて頂戴。わたしがした時は内緒ね」
 予想していなかったと言えば嘘になるが、流石は合衆国の首都。自分はともかく、キリコにも既に監視を付けていたとは。もう少し用心しようと思った。自分もキリコも、決して政府が歓迎できない相手の依頼を受けることもあるのだから。
『大統領に伝えておくよ。夕飯を一緒にっておっしゃるかもしれないけど、ドクターの方はどうかな』
「夕飯には間に合わないって言ってたから、それはいいわ」
『分かったよ。良い一日を』
「ありがとう」
 内線を終え、BJは靴を脱ぎ、柔らかいソファに思い切り沈み込んだ。既に日本に帰りたかった。大統領やその一家が嫌いというわけではなく、むしろビジネスのことを除いても好ましい人々であることは間違いないのだが、どうにも肩が凝る。邸内ではコートを脱ぐようにきつく要請され、SPや訓練を受けた軍人たちの警備で安全だと分かっていても何となく落ち着かなかった。
 今回は仕事で来たわけではない。大統領の私的な招きに応じただけだった。ロンドンの一件で首相に促され、営業も兼ねて機嫌伺いの電話をしたらひどく喜ばれ、その電話で招かれたのだ。
 冗談だろうと思っていたら翌日に在日外交官から連絡があり、その場で日程を決定されてしまった。昨日を含めて一週間、BJはホワイトハウスに滞在し、大統領にもてなされる振りをしてもてなす立場になってしまったのだった。
 途中でボロが出なきゃいいんだが、と煙草に火を点けながら心の中で呟く。客人とは言えどうせ監視されていると分かっていたので、盗聴を用心してうっかり独り言も言えなかった。そして暇だ。観光以外はやることがない。さりとてあまり遠くまで行くのもSPに嫌がられる。しばらくは邸内の散歩か昼寝で時間を過ごすしかなかった。
 図書室で本でも借りようかと考えた時、ドアがノックされた。寝転がったソファから起き上がって靴を履きながら「どうぞ」と答えた。そして笑顔になる。パティだった。
「どうしたの、パティ。遊びに来てくれたの?」
 小さな娘はうふふと笑い、それを合図にその後ろから大統領夫人が顔を出してBJを驚かせた。
「アン、頭痛はいかが?」
「治ったわ。大したことなかったの。先生こそ何か不足はない? アメニティはどう? 飲み物は? 煙草も切らさないように言ってあるけど、もし何かあったらすぐに教えて頂戴ね」
「何もかも充分よ。良くなってよかった、頭痛は辛いもの」
 夫人とパティにソファを勧め、BJは紅茶の準備をしようとし、それはホステスのわたしがやることよと夫人に止められ、素直に譲った。パティは少しもじっとせず、客間をうろついては探索する。ピノコのようで可愛くてたまらず、BJは彼女の好きにさせておいた。
「SPから聞いたわ。ご主人が来るんですって?」
「ちょっと間違い。わたしは独身よ」
「あら、そうだったわね。ハビーってことかしら」
 結婚を意識する男女が使う「恋人以上、夫未満」の呼び方に、BJは苦笑した。
「彼は彼よ」
「その言い方とっても素敵ね! ロマンティックだわ!」
「アンはロマンティックな話がお好きなの?」
「そうよ。わたしとロンが出会った時なんて──」
 部屋を飛び跳ねる娘をそっちのけで好きにさせたまま、紅茶を前に夫とのロマンスを語る夫人に、BJは笑顔で頷き、まあ素敵ね、と時に相槌を入れ、パティがドア横の医療鞄に触らないかさりげなく横目で見つつ、早く来やがれキリコ、私の表情筋が崩壊する、と心底思った。貼りつけた笑顔のせいで顔が筋肉痛になりそうだった。
「そうだわ、先生。明日、イギリスの首相がいらっしゃるのはご存知?」
「おばさまが? ああ、そう言えば首脳会談が近いってニュースは日本で見たかも」
 ロンドンでババアと呼んだこともあるあの鉄の女は、今ではBJの影のパトロンのような存在だ。何かと都合を付けてもらう代わりに要請があれば応じる必要があるものの、今後も繋ぎ続けたいパイプだった。
「あなた、首相とお親しいんでしょう? 夜の食事会に出て下さらない? プレス用の撮影に最初に何枚か撮るけど、嫌なら写らなくてもいいの。ね、お願い」
 まさか前日に言われるとは思わなかったが、どうせ前々から計画していたに違いない、と思い至る。以前から言えばBJが嫌がり、下手をすれば渡米しないと思われたのだろう。そしてその通りだ。だが今、この立場で断ることは非常に難しい。ホストとホステス、つまり大統領夫妻の要請を蹴るなど、この国で、このホワイトハウスの中でできるわけがない。
「──写真は絶対に駄目。あと、スカートもハイヒールも履かないわ。それでもいいなら」
「ありがとう!」
 夫人は少女のように喜び、BJの手を取って強く握った。元女優の経歴を持つ彼女は美しく、そしてとても可愛らしい。BJは自然と笑顔になる。愛される素敵な女性だ、と思った。
「ドクターにもお願いしなくちゃ。フォート・デトリックに電話をかけた方がいいかしら?」
 愛される素敵な女性だけど、ちょっと抜けてるわけか──BJは溜息を押し殺し、消えそうになった笑顔を意思の力で保ち、アンがそうするべきだと思うなら、と言っておいた。
 キリコの仕事先がフォート・デトリック──陸軍の生物兵器研究所だとBJに教えてしまった夫人は、そうね、やっぱりそうしましょう、と楽しそうだった。


「夕飯には間に合わないって言ってたくせに」
「ファーストレディが直接電話して来て、明日の食事会について打ち合わせをしたいなんておっしゃれば。そりゃあ立派な研究者の皆さんも俺をさっさと追い出すしかないよ」
 15時、私室に現れたキリコにキスをされながら、BJは本気でキリコとフォート・デトリックの人々に同情した。数時間早く研究所を出たせいで、仕事にどれほどの影響が出ることか。愛らしいファーストレディには分からないだろう。
「キューティ・パイ、日本語がいいわ。ちょっと英語疲れしちゃった」
「ああ、いいよ、シュガー」
「──殺しの仕事じゃねえだろうな?」
 日本語に切り替えた途端に蓮っ葉な物言いを投げ付けられ、キリコは苦笑する。もしも盗聴されていたら、翻訳者はどんな米語に直すのだろうかと気になるほどだった。
「そういうのは受けないって言っただろ。詳しくは言えないけど、科学者にアドバイスするお医者さんのお仕事」
「ふうん」
「先生は? 調子どう?」
「表情筋が崩壊しそうだったよ」
「営業も楽じゃないねえ。風呂でマッサージした方がいい」
 キリコは笑い、アスコットタイを緩めながらもう一度BJにキスをした。そこでドアをノックされ、溜息をついて緩めたばかりのタイを手早く直す。
 大統領夫人と小さな娘の来訪だった。お茶をご一緒にとのお誘いを断るなどと論外で、BJ同様、キリコも表情筋の崩壊を心配する時間が始まったのだった。
「そうそう、ドクターのお部屋は先生と一緒でいいわよね。後でスタッフにベッドメイクをやり直させるわ。大丈夫よ、キングサイズだもの」
 またこの展開かよ。表情筋を笑顔の形に固定させたまま、BJとキリコは図らずも内心で同じ呟きをしてしまった。それにしても俺はいつホワイトハウスに滞在することになったんだろう、とキリコは不思議でならなかった。
 表情筋が辛い。夕食時には大統領にも同じことをしなければならないし、顔の筋肉痛を防ぐためにも、一度この席を解散させたかった。ロマンチストの夫人の性格を逆手に取ることにし、BJは可愛い顔を作る。そして夫人の耳に何事かを囁く。たちまち夫人の顔が薔薇色に染まり、慌てたように立ち上がった。
「素敵だわ! ──パティ、もう行くわよ、いらっしゃい! かくれんぼはおしまい!」
 SPとかくれんぼをして遊んでいたパティがカーテンの影からひょいと顔を覗かせる。夫人は「お邪魔さま、またお夕飯でね!」とパティを引きずるように退室する。
「先生、何言った?」
「『彼とローズガーデンを散歩してもいい? 映画みたいなキスしてみたくなっちゃった』」
 さらりと答えてアヒルのように唇を突き出してみせる女に笑い、男も唇を突き出してふざけたキスを済ませてから、じゃあ行こうか、と言った。この部屋よりは監視が少ないはずだと思ったからだった。
 あちこちに配置されている警備兵たちにキリコをそれとなく紹介しながら歩き、名前の通りに薔薇が咲き誇る庭園へ向かう。薔薇だけではなく様々な花が長い歴史を彩り、夫人のようなロマンチストにはたまらない空間を提供する場所だ。大統領が会見に使うこともあり、米国内だけではなく、世界的にも有名な場所だった。
「明日、どうしても一回フォート・デトリックに行っておきたいんだ。夕食会に間に合えばいいんだよな?」
「警備担当からすればずっとホワイトハウスに詰めてて欲しいだろうけど、まあ、行ってもいいんじゃないか。フォート・デトリックの件だって重要なんだろ?」
「サンプル開封があるから立ち合わないとまずくてね。明日になって足止めされたら面倒だな、話を通しておくか」
「それがいい。何のサンプル?」
「言えません」
「え、セーフティレベルだけでも知りたい」
「言えません」
「もしかしてユーサムリッドで開封? あの特別中の特別の!」
「言えません」
 仕事の情報を漏らさないなど基本中の基本で、無論BJも分かっている。会話を楽しんでいるだけだ。愛し合わない相手でもこうやって充分に愛を楽しめる。二人はそう信じていた。
「おまえさんが」
 BJが言った。
「人を殺さない仕事の時は、嬉しい」
 キリコはそれに答えなかったし、BJも答えを求めたわけではなかった。愛し合わないと決めた理由がそこにあるのだから、それは当然の反応だった。
「シュガー」
 優しい恋人の顔をしたキリコが言った。
「映画みたいなキス、してあげようか」
 ええ、キューティ・パイ、して頂戴。可愛い恋人の顔をしたBJが言った。
 二人して馬鹿げた愛し方をしていると知っていながら、馬鹿げた遊びの中で、心の底からのキスをした。
 薔薇の中で片目とツギハギがキスしてるなんて、なるほど、映画みたいだな、ただしコメディフィルムだけど。抱き締めながらキリコが言い、BJは確かにそうだと笑ってしまった。自虐的で、誰かが聞けば笑いにくい冗談でも、同じ意味で笑える相手が好きだと思った。


 邸内に戻るために正面玄関へ向かった時、中からSPと話しながら出て来た背の高い男が妙に目立った。赤毛が目を引き、歳の頃はBJより下だ。BJは闇の中で身に付けた感覚で、この青年はあまりまともではないかもしれない、と思った。彼はBJとキリコに気付くと足を止め、そして笑顔を見せた。何だこいつ──BJが警戒する前にキリコが先に反応した。
「グラディス、何だ、こんなところに」
「ドクターに用事があって。良かった、ここで会えたなんて僕はラッキーだ」
 ああ、まともじゃねえや、とBJは断定した。愛する男がまともではないことを良く知っているし、そんな男に親し気な顔を見せる男も絶対にまともではない。自分のことは遥か遠くの棚の上に放り投げた。
「電話じゃ駄目だったのか?」
「ドクターの顔を見たかったんだ」
「良く言うよ」
 歩み寄って来た男と握手をし、キリコはBJに声をかける。
「シュガー、ちょっと彼と話していいかな」
「もちろん構わないけど、この方はどなた?」
 キリコにシュガーと呼ばれたなら、この男の前では営業の態度を貫けという合図だ。慣れた顔で応じ、本音の質問を口にした。
「今回の仕事の警備担当だよ。グラディス、こちらはブラック・ジャック先生」
「グラディスです。よろしく。先生ってお呼びしていい?」
 よし、最高にまともじゃない。笑顔で手を出してみせた男にやはり笑顔で握手に応じつつ、BJは更に強く断定した。ホワイトハウスの正面玄関まで来る資格があり、フォート・デトリックの警備担当、しかもドクター・キリコと直接言葉を交わすような立場。明らかにまともではない。BJの心の内を見抜いたのか、グラディスは更に笑顔を深めた。
「デルタフォースの端っこにいるんだ」
「まあ、冗談でしょう?」
 映画にもなるような有名な特殊部隊の名前を信じない振りで笑ってみせると、グラディスも笑い返した。その笑い方が明らかに表情筋だけで作られたものだったので、本当にまともじゃねえな、とまた強く強く思った。そしてキリコの仕事内容も絶対にろくなものではないと言う思いを最大まで強くした。特殊部隊員が関わる警備など普通では有り得ない。
「明日なんだけど、やっぱりドクターにはどうしても一度来て欲しいんだ。──失礼、先生。ほんのちょっと彼を借ります。お茶の一杯分くらいかな」
「一人にしてすまない。また後で」
 BJになおざりに頬にキスをすると、キリコは今までの演技振りはどこへやら、完全に仕事の顔でグラディスと一緒に邸内に入って行ってしまった。
「先生、中庭の噴水も素敵だよ。見て来たら?」
 最初にグラディスと話していたSPが気を使ったのか、BJにホワイトハウス自慢の噴水を勧めてくれた。その方が彼らも監視がしやすいか、とBJは思い、「そうするわ」と言って中庭に歩き出した。
 ──演技中の割には随分適当なキスしやがって。
 少しばかり機嫌が悪くなりそうだったが、仕事の話ならそれも仕方ないことは分かっていた。自分ならキスなど忘れるだろう。その点、キリコは器用なのだ。
 それにしてもあのグラディスと言う男、絶対にまともではない。年齢からしてデルタフォースでも下っ端なのだろうが、目立つ見た目と仕事が不釣り合いすぎる。
 キリコに関わるのならまともではない人物であることは当然だとしても、どうしても何かがBJの胸の中で引っかかった。
 中庭の噴水はホワイトハウスのシンボルとも言える存在で、完璧な手入れで完璧な美しさを誇っていた。水面を覗き込むと澄んだ水面にツギハギの顔が映り、今日も本間先生の芸術は最高、とBJは傷跡に満足する。友人から与えられた色の濃い皮膚も大好きだった。そして不意に、あの男、と思った。
 ──あの男。私の顔を見ても驚かなかった。
 ロンドンで会った若い特殊部隊員は「気にしない」と言っていた。特殊部隊員なら当然の感覚なのだろうか。だがやはり、何かが引っかかる。
 ──キリコ、変なことに巻き込まれてるんじゃねえだろうな。
「先生!」
 不意に腰に抱き付かれ、あやうく投げ飛ばすところだった。パティだと気付いて安堵の息を吐き、まあ、と笑ってみせる。離れた場所にいるSPが注視していたが、もし投げ飛ばしたら撃たれていたかもしれず、BJは幼女の好意にもう少し気を付ける必要があると思った。
「どうしたの、パティ」
「お父様が! 今日はドクターがいるから早めにお仕事を終わりにするんですって!」
「まあ、素敵ね。マッサージをしておこうかしら」
「何のマッサージ?」
「表情筋が心配で」
「なあに?」
「何でもないわ。行きましょう、お夕飯前のお着替えは?」
「その前にかくれんぼをしましょうよ、先生。わたし、隠れるの上手なのよ」
 ちらりとパティ担当のSPに目をやると、軽く頷いて来た。やれ、と言う意味か。BJは表情筋のマッサージを諦め、SPたちの警護を楽にしてやるために、パティを邸内に誘った。
 確かにパティはかくれんぼが上手かった。邸内のあらゆる場所を知り尽くしているようだ。
「パティ、もう無理。降参よ。わたしの負け。出て来て頂戴」
 鬼役をしたBJが降参すると、廊下の壁の一部がぱかりと開き、満足そうに笑いながら「わたしの勝ち!」と飛び出して来る。一見すると普通の壁にすぎず、珍しいものを見たBJは感心した。
 パティはまだ遊びたがったが、かくれんぼはおしまいとBJとSPに同時に言われ、じゃあ今度はお散歩をしましょう、とせがんだ。
「こっちがランドリールームよ。それから──」
 少女に手を引かれ、BJはホワイトハウス内を延々と歩くことになった。とはいえ、本来なら入れない建物の中を見て回るのは楽しいものだ。防犯上入れない場所はSPが止める程度の注意だけが払われ、それなりに楽しい散歩になった。
「パティ、こっちは駄目だよ」
 SPが数度目のストップをかけた。パティは頷き、子供ならではの無邪気さでBJを見上げる。
「モニタールームなの。ハウスの中の防犯カメラの映像が全部ここで──」
「パティ、そんなこと言っちゃいけないわ。彼が困ってる」
 唐突に防犯の要を説明されそうになり、BJは慌てて止めた。SPの顔が強張って、冗談じゃねえぞと思ってしまう。仕方がないので付け加えた。子供の相手に慣れていて良かった。
「ここまでの道がもう分からないの。連れて帰って頂戴。こんなとこ、わたし一人じゃ二度と来られないわ」
 パティに言っている態でSPに「忘れるよ」と告げ、彼を安心させてやった。
 それから夕飯の着替えのためにパティを彼女の部屋に連れて行き、自分もブラウスくらいは換えておくべきかと自室へ戻る。そこで驚いた。キリコとグラディスが話をしていたのだ。てっきり別の部屋、応接室だの何だのですると思っていたのに。
「──ごめんなさい。ここで話してるなんて思わなかったのよ」
「ああ、先生、失礼。もうお暇するところだったんだ」
 グラディスは相変わらず笑顔を浮かべたまま言うと、キリコに「じゃあそういうことで」と言って部屋を辞した。キリコは見送る姿勢も見せずに難しい顔をしていたが、やがてBJの存在を思い出し、「悪かったな」と言った。
「別に。お茶一杯分にしては長かったけどな」
「何してた」
「子守り」
 グラディスが座っていたソファに勢いよく腰を下ろし、煙草に火を点ける。大統領一家の前では遠慮する有害物質を、長くなるであろう夕食の時間の間に切らさないように体内に染み込ませておきたかった。
「明日、4時に出る。先生は寝てていいよ」
「……何だ、その早さ」
「上からフォート・デトリックに予定を早めるよう指示が出たらしい。俺が独立空調と研究員の入退室管理をしないといけないから──」
「独立空調と入退室管理なんてセーフティレベル4じゃねえか。何て仕事やってんだ、おまえさん」
 思わず大声を上げてしまい、キリコが口の前に人差し指を立てて渋い顔をする。迂闊だったと反省して「ごめん」と小さく言い、ソファに深く座り直した。
「とにかく13時までに所定の手続きを終えないといけなくなった。4時に出たってギリギリだ。そういう話」
「ろくでもねえや」
 溜息を煙に隠す。何て仕事をしているんだ、心配になるじゃないか、と、彼に言ってはいけない感情も隠してしまった。セーフティレベル4となると、外部から完全に隔離され、化学防護服の着用を義務付けられた上、研究サンプルも排気コントロールがされた小さな箱の中に手を突っ込んで扱うことしか許されていない。そこで明日キリコが立ち合って開封するサンプルが、どれほど危険なものか想像できないはずがなかった。
「まあ、それが終われば依頼完了だから。後は適当に過ごすよ。先生も大統領一家の相手以外は暇だろ、観光でもしよう」
 仕事が終われば当然のようにしばらく一緒に行動すると教えてくる男に、BJは少し満足した。


「ドクター、お久し振りだ。ちょうど仕事で来てるなんて嬉しい偶然だよ」
「お久し振りです、閣下」
 食事前の歓談を楽しむ部屋で政治家としての魅力を振りまく大統領と握手をし、キリコは礼儀に則って微笑んでおく。大統領は妻に「彼はベトナムに」と軽く話し、妻は驚いていた。パティはキリコの袖を引き、ねえ、と言った。
「そのおめめはベトナムに落として来たの?」
「正解だ。よく分かったね。でもお父様が探して下さってるから、いつか見つかるよ」
 この大統領がベトナム帰還兵のために尽力していることを知っているキリコはそう言い、大統領の自尊心を満たし、大統領を愛する夫人を感動させた。こいつもしっかり営業するんだよな、とBJは笑顔に固定した表情筋の下で思う。
「先生、今日は何をしたんだい? ドクターとデートはできた?」
「そうね、彼が浮気を我慢してくれたから結構楽しかったわ」
「ほう、浮気」
「シュガー、勘弁してくれよ」
 何だかんだで話は盛り上がり、食事を始める頃にはパティを含めてすっかりリラックスした空気になっていた。無論BJとキリコの表情筋は全力で稼働しているが、愛すべき大統領一家への好感は間違いなく存在していた。
「そう、明日のことなの。昼過ぎに首相をホワイトハウスにお招きして、ロンと会談。わたしもそれなりに。ちょっと邸内が緊張するけど、先生、ごめんなさいね」
「いえ、おばさまがいらっしゃるなら警備が厳しくて当たり前だし、安心だわ」
「SPが言うには、ドクターにも本当は朝からずっと邸内にいて欲しいってことなんだけど──難しいのよね?」
「SPの彼らを喜ばせられなくて残念ですが、4時に一度出る予定なんです」
 すると大統領がワイングラスを傾け、「ああ、あれはなあ」と呟いた。聞き逃さなかったBJはにこりと笑って大統領を見た。
「ロン、あれってなあに?」
 クソビッチ、とキリコはワシントンに来て初めてBJを罵りたくなった。
「ああ、その──すまないね、ドクター。ついうっかり。先生なら言ってしまってもいいんじゃないか?」
 BJに甘い大統領はたちまち弱気な顔になり、まるで救いを求めるようにキリコに話を振る。これが世界を牛耳る国の大統領なのだから──キリコは呆れ半分、しかし半分、だからこそ嫌えない。
「私は契約に関する守秘義務を厳守するだけですが、この国で閣下のご判断に勝るものはありませんよ」
 この大統領の軽率な発言は世間でも有名だ。マイクテストで「あと5分で爆撃が始まる」とふざけて口にし、大騒ぎになったこともある。キリコは半ば諦め、俺には責任なんかねえからな、と心の中で開き直ってしまった。
「いやはや。──私はそこまで詳しくないんだがね、先生。マールブルグはもちろん知っている?」
「──そうね、お聞きしなきゃ良かったと思う程度には知ってるわ」
「すまないね」
「もう聞きたくないわ。明日、彼を仕事に行かせるのが嫌になっちゃった」
「大丈夫だよ、シュガー。手順を守れば何も心配ないし、昼過ぎには帰って来るから」
 恋人を安心させる声で言いながら、キリコは既に覚悟を決めた。
 マールブルグ出血熱ウィルス。ワクチンが開発されていない。致死率は90%を超える。専門以外も網羅する天才医師たるBJが知らないはずがない。
 さあ、部屋に戻ったらどんな詰問タイムが始まることやら。


 豪華なディナーを大統領一家と楽しんで、歴史がありながら現代的な感性を足して快適に過ごせる部屋を提供されて、立派なバスルームで入浴を楽しみ、柔らかい寝具が敷き詰められたキングサイズのベッドが鎮座する寝室で二人切り。ああ、とてもロマンティック──キリコのそれは現実逃避にすぎない。
「よし、話せ」
 完全に据わった目のBJがベッドを陣取り、尋問の開始を宣言した。ソファに腰掛けたキリコは深く溜息をつき、煙草で少し時間を稼ぐ。だが言えることは少ないし、そもそも言うべきでもない。
「守秘義務ってのがあってね、先生」
「ロンの言質でチャラだ、そんなもん」
「大統領と俺の立場は違う。クライアントにバレたら仕事が来なくなる」
「いいじゃねえか、廃業しろ。ったく、人殺しの仕事じゃないから良かったと思ってたのにこれかよ。ろくな仕事なんてやったことあるのかよ?」
「俺は全ての仕事をろくだと思ってるからな、意見の相違だ。とにかく大統領が言った以上のことは言えない。明日開封するサンプルはマールブルグ出血熱ウィルス、セーフティレベル4。俺はもう喋らない」
「英国首相が来るこの時期。そんな重要サンプルの開封に外部のドクター・キリコが関わる。しかも上から急ぐように言われた。デルタフォースが警備につく。これでどう思えって!?」
「いいか、最後にもう一回言うぞ。俺はもう喋らない、以上だ!」
 女のヒステリーに釣られて語気が荒くなり、最後は半ば怒鳴ってしまったことだけは反省する。怒鳴られた女が言葉に詰まり、唇を噛んだ姿には多少心が痛んだが、それもほんの一瞬だ。愛している女でも仕事のことだけは譲れない。そしてそれが分からない女ではないはずだし、今の関係はそれが根本にあるからこそ継続されている。
「怒鳴って悪かった」
 煙草を揉み消し、こめかみを指で押す。怒鳴られてショックを受けている女より早く冷静になる必要があった。女性を怒鳴った自分を嫌悪した。
「分かってくれ。先生が分かってくれなかったら、俺はここにいられなくなる。そういう約束だ」
 愛し合わないと決めた理由を思い出して欲しかった。BJは唇を噛んだままキリコを見ていたが、やがて小さな声で「分かった」と言った。
「ロンのせいだ、余計なこと言うから」
 拗ね切った声で羽枕を抱き、寝具に埋もれるように転がる女の姿を見て、キリコは苦笑した。
「合衆国大統領に責任転嫁できるなんて、世界で先生くらいのものだろうね」


 キリコは寝室ではなく、メインルームのソファで眠った。BJと眠ることを厭ったわけではなく、起きる予定の時間があまりにも早かったため、上等の寝具で眠り込んだら起きられなくなると思ったからだ。普通の女なら喧嘩をしたからまさかわたしと寝たくないの、と勘繰って落ち込むところだが、BJはあっさりと、それもそうだな、分かったよ、と広いベッドを独り占めしてさっさと眠ってしまった。
 キリコが目を覚ましたのは3時だった。予定通りだ。シャワーで眠気を追い出し、メインルームにあったフルーツバスケットのオレンジを朝食代わりにしてから身支度を整えた。
 出掛ける前の一服を済ませてからコートを着込み、部屋を出ようとした時、寝室のドアが開いた。思わず微笑んだ。眠気と戦う顔でふらふらとBJが出て来れば当然だ。
「午後に帰って来るから。心配しないでいい」
 抱き締めてキスをして、行って来るよ、と言ったら、BJは頷いてキスを返してくれた。ああ、可愛いな、と思った。