ふたり 04

 久し振りのボンカレーは文句なく美味しかった。泣きながら私の横で同じくボンカレーを頬張るピノコに悪いことしちゃったなと思いつつ、今はまず味覚の幸福の追求を優先した。大丈夫、後で死ぬほどフォローする。
 ユリさんも涙目でなぜか一緒にボンカレーを食べていた。この人、あまりレトルトは食べないと思ってたけど今日は凄く食べてる。女三人で泣きながら──私は泣いてなかったけど──ボンカレーを貪る姿って、ちょっと凄いかもしれない。
「お食事中、本当に申し訳ないんだけど」
 仏頂面で入って来たグラディスが、テーブルの端で崩れ込んで頭を伏せた。
「先生、鎮痛剤頂戴。本気で痛い。滅茶苦茶痛い」
「ああ、部下の前じゃ飲めないもんな。1シート100ドルに負けておいてやるよ」
「軍に請求して」
「空腹時は飲まない。3錠、6時間置き厳守」
「覚えてれば守る。絶対忘れる」
「嫌な患者だ」
 事態を収拾して取り敢えずキリコのアパートメントに戻り、そこでやっと泣き言を言えた男は私から強い鎮痛剤のシートをもらい、半ばふらつきながらキッチンへ消えた。そこにいたキリコに何か言われたのか、死ね、と言い返していた。知ったことじゃない。あいつらはあれで仲良しなんだ。たぶん。
 大体と言うより、ほぼ全ての記憶は残っていた。思い出せば恥ずかしいことも山ほどあって、あまり詳しく言いたくなかった。男性恐怖症? 私が? 笑わせんなって話だ。あんなにパーフェクトで格好いい恋人がいるってのに。
 それより私を誘拐したオールドマネーに誘拐と監禁罪の慰謝料の請求の用意を──やめておくか。敵に回したい階級じゃないし。まあ、クリードも痛い目を見たから充分だろう。アビゲイルとアメリアの件は、うん、そうだな、あれだ、男たちに任せる。私はノータッチ。早くいい男見付けなよ、くらいは思える自分でありたい。
「ちぇんちぇい、お代わりもあるのよさ、いっぱい食べるのよさ」
 ピノコがまだ泣きながら私に言った。もうお腹いっぱいだからいらないよと言ったら更に泣かれたので、嘘、もっと食べたい、と言わざるを得なかった。ピノコは泣きながら私の食器を持ってお代わりを作りに行ってくれた。本当に満腹だったから次は少し完食のための努力が必要かもしれない。皿に盛った米を残すべからず。だから私は年中体重を気にすることになるんだ。間違いない。でもピノコが盛ってくれるんだから仕方ない。
 キリコは食べず、キッチンで請求書を作ると言っていた。何の請求書かと思えばクリードの主治医としての報酬予定額と、その他諸々で上乗せする経費だそうだ。その他諸々って何だ。あいつも何だかんだで金をもぎ取るタイプだから、それなりにえげつない請求書になるんだろうな。
「はい、ちぇんちぇい、どうぞ」
「ありがと」
 ピノコが持って来てくれたカレーの皿は通常の半分量しかなかった。ありがたいと思っていたら、ピノコが申し訳なさそうに言う。
「ロクターに半分取られたのよさ。もっといるならもっとあっためるのわよ」
「──もっと食べたくなったらまた頼むよ。残すのも嫌だから」
「あらまんちゅ!」
 私の胃の容量まで把握している男に内心で感謝して、私は新しいボンカレーにスプーンを差し込んだ。お腹いっぱいでも美味しい。ボンカレーはどこで食べてもどう食べても美味いのだ。この会社の株、買っちゃおうかな。株はキリコの方が得意だから勧めてみるのもいいかも。もちろん配当を受けるのは私。
 それからユリさんがしみじみと、私の記憶が戻ったことを喜んでくれた。あまり多くは語ってくれなかったけど、物凄く心配していて、このまま戻らなかったらどうすればいいのか分からなかった、って泣きながら言ってくれた。ピノコが同じ気持ちだったのか、それを聞いてまた泣いていた。
 私はと言えば──全ての記憶があって、記憶障害を起こしたと言う事実を認識することしかできなかった。取り戻した記憶と言っても、今の私からすれば単なる昨日までの記憶としっかり繋がっている。
 ただ、その中にあった感情は確かにいつもの私と違っていて、私とわたし、同じ人間だったのに、何だってわたしって奴はあんなに卑屈だったんだ、まるで昔の私じゃないか、って、思い出すだけで頭痛がしそうだった。でもクリードみたいな男はああいう女が好きなんだろう。ひとつ勉強したことにしよう。
「鎮痛剤を飲め。おまえも打撲してるんだから」
 キッチンから顔を出したキリコが私に言った。
「まだ効いてる」
「もう切れる」
 時計を見て逆算し、私は溜息をつく。ご明察としか言いようがない。病院で飲んだ鎮痛剤がもう少しで切れるだろう。キッチンに行き、グラディスに渡したものよりは少し弱い薬を飲む。グラディスはキッチンテーブルに突っ伏して薬の効果が現れる時を待ち望んでいるようだった。気持ちは分かるし想像もできる。ガラス傷、あれは滅茶苦茶痛い。むしろこれだけのガラス傷を受けながら、この程度の痛がりようで我慢できているこの男は結構凄い。嫌いだけど。
「痛いでちゅか。お注射ちてあげまちょうか?」
「クソビッチ、死ね」
 注射は本音の申し出として、言い方で軽くからかってやる。心からの呻きと毒が返って来て満足した。これなら注射の痛み止めはいらないな。こいつは毒を吐けなくなったら心配するべきタイプだ。
「病院に戻れよ。おとなしく寝てろ」
「この家の安全確認ができたら迎えが来る。しばらくほっといて」
「ここで突っ伏して安全確認? 何の冗談だ」
「部下が今やってんの。うるさいよ、藪医者のくせに」
「藪医者にハゲを助けられたのは誰だ? 他の医者ならまだらハゲになってたぜ」
「Fxxk」
 罵り言葉に本気の殺意が僅かに滲んだので、ここいらでからかうのはやめてやった。聞いていたキリコが出来上がった請求書を封筒に入れながら笑った。私はキリコが笑ったのが嬉しくて笑った。キリコも笑った私を見て、今度は微笑んでくれた。嬉しかった。グラディスが「僕が帰ってからやれよ馬鹿夫婦」って言ったから、キッチンテーブルの下の脚を思い切り踏んでやった。文句があるならさっさと帰ればいいんだ。赤毛の男が呻いて、キリコが「ざまあみろ」って言った。仲良しじゃないのかもしれない。どうでもいいけど。
「ああ、そうだ、赤毛」
「何だよ、藪医者の旦那」
「結婚してねえよ。──アメリアとアビゲイルがフォート・デトリックに突撃しようとしてるらしい。何とかしておけ。おまえさんが陸軍病院に入院してることをクリードに言わなかった俺に感謝しろよ」
「感謝するからもうトラブルに巻き込まれないで。奥さん共々平和に真っ当に穏やかに生きて」
「俺たちを巻き込む連中に言うんだな」
 旦那とか奥さんとか、特に突っ込む気にもなれなくなってる。最近こういう勘違い、と言うか、分かってて言う奴が多いから。これで別れたらどうなるんだろ、ってちょっと思ったけど、考えるのも嫌だったから想像をやめた。
「ほんと痛い」
「黙って突っ伏してりゃいいじゃないか」
「主治医の言うこっちゃない。──いや、早く病院に戻って寝たいからこそ言いたい。先生がヘンリーの家に行く時って、ドクターも一緒に行くの?」
 私はキリコを見て、キリコも私を見た。先にキリコが言った。
「行った方がいいか?」
「助手に入るなら行ってもいいかもしれないけど、依頼料どうなるんだ。私の分から私が出す形?」
「面倒だな」
「でもヘンリーに依頼を請ける前提でさっき話をしちゃったし、度合にもよるけど、確か──うん、結構大掛かりになるんだよな。痛み止めとか感染症予防の抗生物質の薬の部分、キリコに依頼した方がいいって言っておけばよかったな」
「ああ、じゃあ、一緒に行って売り込んで。そういうことにして。はい話は終わり。行く日程が決まったら教えて。ベネットがドクターの警備で付いて行くから。僕は二週間傷病休暇だからこの間だったら行けない。休暇が開けてたらベネットじゃなくて僕が行く。以上。帰る。安全確認はそのうち部下が終わらせる。本当は傷病休暇中なんだ、畜生」
 グラディスは明らかに意志力で痛みを抑え込んだ様子で一方的に言って立ち上がった。もう寝たくてたまらないんだろう。それくらい痛いんだ。この家で寝かせてやろうかと一瞬思ったけど、家主が──フォート・デトリックの予算で割り当てられた家の対象者が──何も言わないなら仕方ない。でもすぐキリコが口を開いた。
「明日の朝まで寝て行け。経口じゃもう少し時間がかかるし、動くのも辛いだろう」
 やっぱり私の男って最高。格好いい。優しい。名医。安楽死さえしなければ。
 でもグラディスが「ノー」と強く言った。やっぱり部下の手前、そうもいかないのかも──と思った私が甘かった。
「これから絶対セックスする。あなたたちは絶対する。ユリちゃんとピノコちゃんがひとつ屋根の下にいようが絶対する。僕がこれだけの重傷を負ってるのにお構いなしにする。予想だけでも殺意しか沸かない。とっとと病院に帰る」
 流石に私は何も言えない。顔が一気に熱くなって、赤くなってしまったことが分かった。キリコだって──でも流石と言えば流石、私の男はどこまでも格好良かった。
「分かってるなら帰れ」
 あ、するんだ、明け方にもしたのに。私がそう思っていると、グラディスは今度こそ本気の声で「まとめて死ね」と言って、キッチンから出て行った。
「するの?」
 私が訊くと、キリコが笑って私を指で招く。遠慮なく膝の上に座ってキスをした。
「おまえが起きていられるなら。疲れただろ」
「じゃあそうしよう」
 どちらからともなくキスを繰り返す。食器を片付けに来たユリさんがシンクにそっと食器を置いて、何も見ない顔で出て行って、私は顔がまた熱くなったけど、キリコが「洗っておけってことさ」と言って溜息をついたので笑ってしまった。それからキリコと二人で、食器洗いに取り掛かった。
 セックスすると宣言した割にはそんな雰囲気にならなかった。昨日は朝まで起きて仮眠を取っただけでロンに会いに行って、それからあの騒ぎだ。疲れているのは当然だし、いつ眠くなってもおかしくない。おまけにキリコはフォート・デトリックから届けられた新しい書類を片付けなければいけなかった。
 私はと言えばFBIの事情聴取への協力をどうするか、ヘンリーの家に行く日程を詰める程度しか考えることもやることもない。ああ、あと、日本に帰るのはいつになるかな。ヘンリーの娘の件でしばらくこっちにいることになるかも。
 二人の部屋で難しい顔をして書類と格闘する私の男の横顔を盗み見ては「格好いい」と一人悦に入り、煙草を吸って、一階から持って来た酒を少し飲んで、ベッドに腹這いになって本を読む。あっという間に日常が戻って来た。記憶障害を起こす前は二人でいる時もこんなものだったし、私の中では別に何も変わってない。
 でもキリコが飲み物を取りにキッチンに一人で降りた時、ぞわり、と急に強い不安感に襲われた。すぐに原因が分かったので本を閉じ、思い切り息を吐いてから部屋を出る。ピノコとユリさんはもう寝てる。できるだけ足音を立てないように、でも急いでキッチンへ降りた。コーヒーにブランデーを垂らしていたキリコが振り返って「どうした」と言ってくれて、すっと不安感が消えた。また息を吐く。よし、落ち着いた。
「どうした」
 私の様子ですぐに何か分かったんだろう。死神のスキルはどんな時でも人の変化を見逃さない。
「不安感」
「──原因は?」
「分かり切ってる。キリコがいなくなるかと思ったんだ。ドクター・キリコが」
「おいで」
 おいでと言いながら私に近付いて抱き締めてくれるのだからたまらない。今度は安堵の息を吐いて、抱き締めてくれる腕に甘えた。キリコのにおいがした。
 記憶障害の中で一番恐ろしかった感覚がまだ抜け切ってなかったんだ。早く抜ければいいのに。もう大丈夫なんだから。
 二度と言いたくない言葉があった。言った瞬間、キリコがとても哀しそうな目をした言葉だった。
『わたし、寂しいの』
 二度と言いたくない。周りにあれだけの人たちがいても独りぼっちだったわたしは、今でも私の中にいる。あの時の気持ちは、感覚は、きっと言葉で説明しきれない。
「コーヒーでも飲もうか。作り置きの残りだけど」
「ブランデーもちょっと淹れて」
「持って行ってやる。リビングにいろよ」
 そう言われたけど離れるのが嫌で、コーヒーを用意してくれるキリコに後ろから抱き付いて邪魔をした。キリコは怒らなかった。
 間接照明しか点けていないリビングのソファに並んで座ってコーヒーを飲む。キリコの好きなブランデーの香りがした。少し林檎の香りがするブランデーで、私はキリコの隣に座るようになってから知った。
 そうだ、これを飲むキリコを初めて見た時には何て気障な男なんだろうって思ったんだ。まだドクター・キリコと言う死神が嫌いで嫌いで、嫌いなんだって思い込んでいて、顔を見るたびに噛み付いて嫌な顔をされて腹が立っていた頃。どこかの国の仕事帰りにふらりと入ったバー、カウンターに銀髪の死神を見付けて、向こうも私を見付けて、嫌な顔をして帰ろうとした私を手招きしたんだ。
 思い出して急に笑った。キリコが「どうした」と言った。
「思い出し笑い」
「何を思い出した?」
「初めて並んで飲んだ日」
 少し話すと、ああそうだった、とキリコも思い出した。
「俺も大概、酷いことを言った覚えがあるよ」
「『おまえさんでも女性がいた方が酒が美味い、隣にどうぞ』」
 神よ、と呟いて、キリコは背もたれにどさりと倒れ込んで、それから笑った。
「──覚えてるのか。忘れろよ」
「忘れるのは難しいな」
 難しいな。だって私はあの時、すぐ隣に座った。今なら分かる。
 あの時、銀髪の死神は『おまえさんでも』って言ったけど、私の容姿を貶めるようなことは何も言わなかった。口うるさい私でも、って意味だった。あの時から──ううん、本当は知ってる。
 ベトナムのあの時から、私はずっとこの男に、たぶん、きっと、ずっと──厭らしい意味じゃなくて、異性として扱われていた。自分の欲を向けてぶつけて来るだけの男とは全く違う男性だった。
 アメリアに言った。王子様みたいね。そう言って彼女をからかった。でもきっとこの話をしたら、わたしは私に言うだろう。王子様みたいね、って。
 王子様の迎えを待つ夢物語に興味はない。そんなものは似合わないし、キリコが王子様なんて流石に惚れた欲目でも思えない。
 でも分かった。私はずっと、そんな夢物語の中に生きている。迎えに来てもらうこともあれば、自分から会いに行くことも、どこかで偶然会うこともあるけど、これは確かに夢物語のような、それでも確実に現実の人生だ。
 現実の中にいる男の頬に触れる。それから潰れた左目。キリコはもう、家の中ならアイパッチをしない。外出する時もプライベートで私やピノコ、ユリさんが一緒なら、やっぱりしなくなっていた。心境の変化を聞いたことなんてないけど、聞く必要もなかった。
 ベトナムのあの時から長い時間をかけて私たちの関係が変わって行ったように、互いの指先が選ぶ命の行方への見方も少しだけ変わったように、私が恋人に愛されることに引け目を感じなくなったように、私たちは少しずつ、少しずつ変わっている。それが現実で、間違いのない現実で、それでも夢物語のように幸せな現実を生きている。
 早朝、わたしはキリコに言った。私は覚えてる。
『わたし、今、幸せなんだもの』。
 左目を撫でる指がくすぐったいのか、それとも別の理由か、キリコが私の指を取って唇に当てた。それからもう片方の手を延ばして、私の唇を指で撫でる。死神なんて名前が嘘みたいに優しく笑いながら。胸の奥が痛くなるくらい優しくて、ああ、この男を愛してるって思った。だから言った。
「幸せ。とても。──愛してる」
 キリコは何も言わなかった。ただ引き寄せて抱き締めてくれた。それだけで私は満足だった。
 会いに来たよ。あの言葉を思い出す。わたしはあの瞬間、泣いた。でもあの瞬間を思い出した私は今、幸せだと思っている。あの時の気持ちを忘れることはきっと一生ないだろうけど、今この瞬間、幸せな気持ちで思い出せる事実を忘れることもない。
 キスをした。愛してるって気持ちを確認するだけのキスがそれだけで済むはずがなくって、いつの間にか深いキスになって、肌は触れられる指を待ち望んで、抱き締められるだけで満足だったはずの私は身体の奥底から生まれる甘い熱を持て余して、ねえ、と我ながらひどく甘ったるい声でキリコを呼ぶ。
 愛してるよ、ってキリコが言った。幸せ過ぎて泣きそうになって、でも泣く時間すらもったいなくて、ねえ、ともう一回呼んで自分から唇を重ねた。


 次の朝、私たちは過去に経験したことがないほど素早い行動を強いられた。自業自得なんだけど。無表情のユリさんに揺り起こされ、キリコは殴って起こされ、やっぱり無表情なままのユリさんに、きっと起こす前に慌てて持って来てくれたんだろうバスローブを突き付けられた。私はもう耳まで真っ赤どころか、きっとてっぺんのつむじまで赤くなっていた。
 乱れてはいるものの服を着ていたキリコは寝起きの残滓のためか呻き、ユリさんにもう一発殴られて、分かった、分かりました、と言って私にキスをしてからバスルームへ消えた。私は立つ瀬も何もないまま何とかバスローブを着て、脱ぎ捨てた──正確にはキリコに脱がされた──服を拾い集めて寝室へ上がる。
 寝室のドアを閉めると同時にピノコの部屋のドアが開いた気配がして、それから廊下をぺたぺたと可愛く歩く音が聴こえ、心底の安堵の息を吐いて、ついでにどっと嫌な汗をかいてへたり込んだ。無表情の女神に栄光あれ。心より感謝を。──ああ、幸福感に任せて眠ってしまった私たちのみっともなさと言ったら!
 キリコと入れ違いにシャワーを浴びる。あちこちに紅い痕があって、珍しいな、って思った。そう言えば昨夜は随分強くキスされたと思ってたけど。でもその強さが嬉しかったし、幸せだったから文句を言わなかったんだ。
「ちぇんちぇい、おはようなのよさ」
「お、はよう」
 リビングに行くとユリさんと一緒にキッチンで朝食の支度をしていたピノコが顔を出し、可愛く私を迎えてくれた。可愛い。でもごめん、ほんとごめん。ユリさんのお陰できっとおまえさんの純粋な心は守られた。そのユリさんは私をちらりと見てから肩を竦め、「飲み過ぎよ。ちゃんとベッドで寝てね」と言って話を終わりにしてくれた。申し訳ないったらありゃしない。
 キリコは既に涼しい顔で、コーヒーを前に新聞を読んでいた。フェミニストが見たら怒りそうだけど、力仕事や汚れが酷い場所の掃除はキリコが全部やってるし、この家ではこれでいいんだと思う。ちなみに私は料理能力がマイナスに突っ込んでいるので、別の意味でこういう時は何もしない。
「不安感は?」
 キリコが新聞から目を離さずに言った。私は咄嗟に何を言われたか分からなかったけど、すぐに思い出せた。うん、思い出せるって素敵なことだ。
「今は平気」
 隣に座り、新聞を覗き込む。株価のページだ。クリードの家が所有する会社の株がちょっと落ちてた。退院すればまた上がるんだろう。株の世界ってよく分からない。でもボンカレーの会社のは欲しい。
「でもしばらくありそう。こういうのって結構続くし」
「俺の患者になる?」
「うーん?」
 少し考える。それも魅力的だけどね。普通は恋人や家族の主治医にはならないものだけど、キリコなら平気。そもそも私たちに普通の病院のルールが当てはまるはずがない。まあ、フランスではこのことでちょっと喧嘩にもなったけど。
 そう言えば私はキリコの主治医になったことがあるけど、キリコは私の主治医になったことがない。
 でも──いいかな。
「いらない」
「そうか」
「その代わり」
「うん」
「薬になってよ」
 キリコは相変わらず新聞から目を離さず、でもちょっとだけ唇を笑いの形に歪めた。
「即効性にご期待を」
 私は笑ってしまった。キリコも笑った。キッチンからいいにおいがする。お腹がすいた。朝からきちんと食べる兄妹のライフスタイルは私とピノコにぴったりで、家族になってから全く戸惑わなかったことのひとつだった。戸惑ったことももちろんあるけど、思い出してみれば話し合ってあっさり解決したり、キリコの鶴の一声で決定されることばっかりで、トラブルの経験はほとんどない。
 うまくやってる。うまくやってる、なんて考えないくらいに。
 幸せなんだって考えてもみなかったみたいに、うまくやってる。
「ロクター、もう出来たのわよ、新聞を読むのをやめるのわよ!」
「先生、これ持ってってくれる? 熱いから気を付けてね。──もう、にいさん、コーヒーを飲んだらカップを片付けてよ!」
 立ち上がりかけた私の手を取って、キリコがキスをしてくれた。私もキスを返した。幸せだった。
 私とキリコのキスを見て怒ったピノコの金切声も、後でやってよと呆れるユリさんの声も、全部ぜんぶ幸せに聞こえて仕方ない。
 朝の光が差し込むリビングで美味しい朝食を食べて、今日はどうしよう、何をしようって話せることがとても嬉しい。ちょっとしたことですぐ始まる兄妹喧嘩も楽しいし、私に叱られて泣きべそをかくピノコをキリコが苦笑して慰めるのも幸せ。
 私たちはうまくやってる。昔の私なら何ひとつ想像できなかったことばっかり。本当に夢物語。
 でもこれが現実で、私は間違いなく現実を生きている。幸せだって言える現実を。
 昔の私に、それからわたしに言ってあげたい。
 大丈夫。あなたたちが寂しいと思う瞬間があっても。
 今は幸せだから。とっても。夢みたいに幸せな現実を生きているから。
 もう寂しくないよ。
 だから私も、あなたたちを、過去の私を、わたしを、これから思い出すことがあっても、きっと寂しくない。いつだって素敵な記憶を先に思い出せるようになる。
 だって気が付いたから。あなたたちが気が付けなかったことに気が付けたから。
 ずっと愛していたこと。
 ずっと愛してくれていたこと。
 もう寂しくないよ。
 本当はずっと、寂しくなかったんだよ。

 私たちはうまくやってる。
 夢物語みたいな現実の中で、愛する人と生きてる。
 何て、なんて幸せ。