「どうしてこうなったんだろう」
「私が訊きたいですね」
クリードの苦笑混じりのぼやきに、俺は医者しての言葉でぼやき返した。はっきり言ってあまりにも馬鹿馬鹿しい状況で、タイニーと一緒に俺も出て行けば良かったと思った程だ。
とはいえ、クリードを見捨てて行くわけにもいかなかった。これでも患者だし、俺は主治医だ。俺は何て素晴らしい医者なんだろう。ただでさえ破格の報酬に上乗せしてやろうと考えたことは否定しないが。
クリードの病室を遅い時間に訪ねて来たのはクリードと同じくオールドマネーの階級の中年の男で、ヘンリーと言う名だった。クリードよりも尊大な態度で俺とベネットに病室を出るように言い付け、俺たちは従ってやった。
その数分後、いやに興奮したヘンリーの声が響き、クリードが宥める様子が分かり、ベネットを置いて──明らかに護衛だと分かるような人間は入らない方が良かった──病室に入って流石に驚いた。オールドマネーの上品な紳士であるはずのヘンリーがクリードに銃を向けていれば当然だ。
だがすぐにベネットを呼ぶ気にはなれなかった。ヘンリーは明らかに銃を使い慣れていない手つきだったし、クリードが俺に目で「騒がないでくれ」と要請して来たからだ。病室を覗いたベネットが動きかけたが、俺は「連絡するべき場所に連絡して来い」と言って追い出し、鍵をかけた。
そのヘンリーは今、銃を手にしたまま項垂れて椅子に座っている。流石オールドマネーが使う病室、付き添い用の椅子まで高級だ。そんなことを考える程度には俺は飽き飽きしていたし、おそらくクリードも同感なのか、特に焦った様子もなかった。
「だから、ブラック・ジャックを探しているんだ」
ヘンリーは呻くように言った。俺は黙っていた。少し前にも同じことを聞いたが、俺に問われたわけではないので答えなかっただけだ。
「クリード、きみのバースデーパーティにいた女性はブラック・ジャックだったんだろう?」
「いたね、確かに」
「パートナーだったじゃないか。連絡くらい取れるだろう。いくらドクター・キリコとやらに連れて行かれたとしても」
ここではドクター・キリーの俺はそっぽを向き、クリードは「まあ、うん」と傷口を抉られたような声を出した。
「情報が速いね」
「界隈はこの話で持ち切りだよ。きみの求愛を蹴った女がアビゲイルのパートナーに掻っ攫われたって」
「ドクター、痛み止めをくれないか」
「効かないでしょう。無駄な処方はできません」
心の痛みに効く鎮痛剤の持ち合わせがない。そう言えばアビゲイルとアメリアの件を綺麗に片付けていない。俺はもう何もする気はなかったが、赤毛はアメリアに対して何かするんだろうか。あいつのことだ、綺麗に始末をつけるだろう。
「ドクター・キリコの家にいるんじゃないのかい。フォート・デトリックの近くのアパートメントにご滞在だったはず」
「ミスター、個人情報をお守りになるべきかと思いますがね」
「それはすまないね、ドクター。とにかく、ドクター・キリコに話をするべきじゃないのかい。私はもう連絡して良い立場じゃないし、そんなことをしたら毒を盛られかねない。ねえ、ドクター?」
「ええ、じわじわ効く毒を盛るでしょうね」
俺は笑顔でクリードに応えた。クリードも笑顔で「忌々しい医者だよ」と返した。
ヘンリーは溜息をつく。
「今頃、うちのSPがドクター・キリコの家に行っているはずなんだ」
「──誰が? 何のために」
俺がしたかった質問をクリードが口にしてくれた。元々頭がいい男だ。状況もよく把握している。しばらく任せることにした。
「ブラック・ジャックがいれば連れて来るように言ったんだ。でも連絡がない」
「ヘンリー、まずいことをしたな」
クリードの声がやや真剣味を帯びる。俺も同意だった。身の安全については心配していない。俺の留守中はデルタが一人、必ずあのアパートメントの警備をしている。何かあれば既に緊急配備がされているはずだ。デルタフォースの隊長は気に入らないが、あの小隊の能力は信用していた。
「失敗したとなると、あなたの家をFBIが訪ねる口実ができてしまった。彼女はFBIの保護対象だったんだ。──まったく、家に来られたい立場でもないだろうに」
流石は同じ階級だ。嫌なことをよくご存知のようで。なるほど、FBIに来られると困ることをどこの家でもしているということか。
「分かってる。でも──どうしてもブラック・ジャックが必要なんだ。僕のルーシーを綺麗にしてくれるのはもうブラック・ジャックしかいないって分かってるんだ」
「ルーシー……ああ、そうか。お気の毒だよ。命に別状はないって聞いたけど」
「ありがとう。不幸中の幸いだよ。でも妻は殺してあげた方が幸せだと言っているがね」
不意に俺は思い出した。小児科部長と間久部から手に入れた情報が記憶の引き出しから顔を出す。それにしても銃を持って脅し脅されている状況で「お気の毒に、ありがとう」。上流階級ってやつの頭はどうなっているんだか。
「お話し中、失礼ですが」
こればかりはクリードが掴んでいる情報だとは思えない。俺が口を挟むことにした。
「ブラック・ジャック先生に依頼をなさりたいと言うことですか?」
「きみには関係ない」
「ヘンリー、彼はドクター・キリコ──その、彼をよく知っている人だ」
ヘンリーがはっとして俺を見、俺はクリードの誤魔化し具合があまり上手くなかったなと評価する。だがヘンリーが疑問を持つほどではなかったので善しとした。
「失礼した」
「気にしません。ご家族がお辛い状況にあるのならお見舞い申し上げます」
「──まだ12歳なんだ。オーブンが爆発して、酷い怪我を。女の子なのに火傷と裂傷が──」
話しながらヘンリーの声が揺れた。今なら銃を奪えるだろうが、敢えてこのままにしておく。今は好きに話をさせておいた方がいい。俺は心療的な相槌を打ちながら彼の話を導いた。クリードが俺をちらりと見た。自分も過去に同じことをされたと気が付いたんだろう。そう言えばあれも医療行為だった。あの分も上乗せしてやるか。
「一度、ブラック・ジャックに依頼したんだ」
「──断られた?」
「いや、その前に妻がとんでもない無礼をして。全て台無しになってしまった」
「無礼を──ある程度の無礼なら、ブラック・ジャック先生は見逃すはずですが。患者第一の医者ですからね」
事情を知っているのに敢えてそう言う。別にヘンリーに話をさせやすくするためではない。罪悪感を持たせてやるためだ。今の状況でさえ既に後悔しているだろうに、ここに罪悪感をプラスすれば、クリードの部屋からおとなしく出て行かせやすい心理状態にできる。とはいえ俺としてはあまり面白い話でもないことは分かっていて、少々マインドコントロールを自分に課した。
「ブラック・ジャックの傷を見た妻が驚いて──こんな顔になるなら殺してやった方がましだと」
「それを彼女に言ったのか! ヘンリー、あなたは──」
クリードが怒りの顔でやや大きい声を挙げた。俺はクリードを宥めつつ、よく俺の代わりに怒ってくれたと心の中で褒めてやる。おまえが死ね、とヘンリーに対して抱いた感情を効率よく鎮めることができた。
「あの傷があっても十二分に美しい女性だと思いますがね」
「まったくだ。彼女は美しい。どうしてみんな分からないんだ」
正しいことを言ったクリードを更に心の中で褒めつつ、だがおまえはさっさとあいつへの恋愛感情を捨てろ言いたい感情を我慢する。俺は何て冷静な男なんだろう。自分で自分に惚れそうだ。
「まあ、あなたたちの階級では容姿も重要でしょうし、何よりお嬢さんのことだ。奥様は少々言葉が過ぎましたが、理解できる者も多いでしょう」
「冗談じゃない、ドクターも理解できるのか?」
「馬鹿をおっしゃるな。私は理解できない者に入りますよ」
「ならいい」
憤懣やるかたないと言いたげな息を吐いてベッドに深く沈むクリードを一発殴ってやりたい気もしたが堪えておく。どうしておまえが偉そうなんだ。
ヘンリーはすっかり落ち込んでいた。性質の悪い男ではないということは銃を向けていた時から分かっていた。オールドマネーならではの容姿への縛り事、希望をくれるはずだった名医を妻が侮辱したこと、だが他に娘の傷を何とかしてくれるような医者が見つからないこと──重圧に慣れているはずの人生でも、全く種類の異なるストレスに翻弄されたと言ってもいい。同意することはできないが、理解してやる程度なら吝かではなかった。
「ブラック・ジャックは依頼を請けなかった。また改めて依頼をするように言って出て行ってしまった。妻が落ち着くまで待ってくれるって」
「彼女らしいですね」
「でもそれきり、足取りが掴めなくなった」
「何かあったのかもしれませんね」
その帰り道にクリードの母が乗る車に轢かれ、クリードの家に誘拐されることになったのだから掴みようがない。ついクリードをちらりと見ると、「鎮痛剤をくれ」と呻かれた。効きません、処方できません、と言っておいてやった。無駄な処方は患者のためにならない。俺は何て優秀な医者なんだろう。
「だからクリード、きみのバースデーパーティで見た時には驚いたんだ。傷はなかったが確かにブラック・ジャックだった。あの襲撃事件さえなければきみを通して話をしたかったのに、ドクター・キリコに──」
「ドクター、すまない、本当に鎮痛剤を」
「しつこいですね。ではレメディでも」
「砂糖玉なんか効くか!」
冗談で誤魔化してやろうと思ったのによく知っているものだ。賛否両論あるホメオパシーについての知識もあるとは、流石はオールドマネー。そう言えばこいつの家は製薬会社にも関わりが深かったはず。
「非礼を詫びたいし、改めて依頼をしたい。妻には絶対に会わせないし、どんな高額でも支払うつもりなんだ。だからドクター・キリコから繋ぎを取りたかった」
「なるほど。最初からそう言えば良かったのに」
クリードが溜息をついた。
「事情は話せないがドクター・キリコに会わせてくれなんて言われたら、私だって流石に断るしかないよ。私と姉にとんでもない失恋をさせてくれた相手に、事情も知らずに連絡なんか取りたいものか」
それはそうだろう。ヘンリーは急ぎ過ぎたのか、それともやはり上流階級ならではの容姿への考え方が悪影響を及ぼしたのか。いずれにせよ褒められる行動ではなかった。
「お姉様はお元気ですか」
「とても元気さ。アメリアと一緒にフォート・デトリックに行こうとしているのを執事に止めさせているよ」
「あなたと執事の行動に敬意を。赤毛のSPも非常に感謝することでしょうね」
後で赤毛に教えてやろう。どんな顔をするのか楽しみだ。それともアメリアに彼は陸軍病院に入院しているよと教えてやった方が面白いかもしれない。
「クリード、済まなかった。どう詫びればいいのか」
「話を聞いた以上、私はあなたを責められないよ。私だって家族がそんなことになればとても哀しい。私が退院したら食事に付き合ってくれ。それで手打ちだ」
オールドマネーの美しい友情だな、と思いかけたが、ヘンリーが溜息をついて「あの事業についての資料を揃えておくよ」と言ったので、そこには友情ではなく利権の譲渡があるのみだと知った。
「ドクター、どう思う?」
「あなたにとって良い結果になるのなら喜ぶことは吝かではありませんし、私にできることがあればそれなりに尽力できますよ」
言外に「金次第」と伝えると、クリードは俺をちらりと見て、「しっかりしているね」と言った。俺は否定しなかった。別に金に困っているわけじゃない。だが金が相手の信用を証明するケースが往々にしてあるのが人生と言うものであり、この男は金の価値を知っている。それだけの話だ。
「ドクター・キリコに連絡が必要ですか」
俺はヘンリーに問うた。ヘンリーは顔を上げ、縋るような目で俺を見て頷いた。俺も頷き、手を差し出した。
「銃を片付けましょう。私が預かります。お帰りになる時にお返しします。──あなたがここに来た理由は『友人であるクリードの入院中、テロ組織の報復を心配し、彼に護身用の銃を渡そうとした』。『危険だから居合わせた主治医の私が一時お預かりした』。そういうことでしたね?」
クリードが拍手をして「素晴らしい口先だ」と俺を褒め、──褒めたつもりなんだろう。そしてヘンリーは泣き出しそうに顔を顰めた。
「──ありがとう。本当に。僕は何て愚かな──」
「誘拐に比べればどうということはありません」
「ドクター、頼むから鎮痛剤を」
「効かない薬の処方はできませんのでどうぞ我慢を」
クリードの呻きを心地よく思いながらヘンリーから銃を受取り、安全装置が外れたままだったので肝を冷やしながら──素人が安全装置を外したまま長時間話していたなんて冗談じゃない──ロックし、取り敢えず白衣の下に仕舞う。後は外部に連絡をして一件落着だ。それからBJに医者として話をする必要がある。そこから先はBJの気持ち次第で流れが変わるだろう。あいつが依頼を請けるかどうか、それは俺が関知する領域じゃなかった。記憶があろうとなかろうと。
ヘンリーがふらふらと窓際に歩き、深呼吸をする姿を見ながら次にやるべきことを考える。まずはベネットかデルタに連絡だ。医局の電話で──そこまで考えた時だった。
「──騙したのか」
「は?」
俺とクリードは同時に間抜けな声を挙げた。だがヘンリーの声は怒りに震え、次に同じく怒りに満ちた目で俺たちを振り返った。
「警察が来てる」
「……そりゃ来るだろうよ」
俺は思わず素の言葉で返してしまった。ベネット──護衛役が追い出されたことなど分かっていただろうに。多少頭が回ればとうに警察に連絡が行っているなんて分かるはずだ。そこまで考えて、でもまあ仕方ねえな、と思ったのも確かだった。あの時のヘンリーにそれを理解しろなどと無理なことだ。
「警察? 軍じゃなくて?」
「警察だ!」
クリードの質問は間が悪かった。軍を呼んだはずなのに、とクリードが言ったと取られてもおかしくない言葉選びだったからだ。俺は天を仰ぎたくなる。こいつ、わざと言ったんじゃないだろうな。
「ああ、そうなのか。じゃあ幸運じゃないか。話をして追い返せばいいよ。軍より警察の方が応じやすい」
「そうだな、それなりに持ち合わせが──」
「いや、私は聞かないぞ。私の代でそういうのは終わったんだ」
「きみの潔さはいっそ妬ましいよ」
さすがオールドマネー。堂々と収賄の話をしている。しかも過去にやらかしている口振りだった。口止め料も上乗せして請求しておくか。
ヘンリーの相手をクリードに任せ、俺も窓から外を見降ろした。夜の闇の中、ライトを消したパトカーが数台見える。病院の広い敷地の中、この病室のほぼ真下だ。ライトを消しているということは隠密なんだろう。被害者がクリードならそれも頷ける。それからすぐ近くに、やはりライトを消したバンを見付けた。一見すれば普通の車両だが、カモフラージュされている部分を考えると──観察している間に、到着した他の車から降りて来た、夜目にもはっきりと分かる銀髪の女が乗り込んだ。ユリだ。なるほど、デルタのバンか。その後にお嬢ちゃんの手を引いたBJが、最後に赤毛が乗り込む。
どうするかな、と俺は迷った。あまり長い時間は迷わなかった。
「ヘンリー、すぐに返答がもらえるかと言えば、ある程度の日数は覚悟するべきなんですが」
「──え?」
「話くらいなら聞いてもらえるかもしれませんよ」
「誰に?」
「ブラック・ジャック先生に」
「すぐにドクター・キリコと連絡が取れると言うことなか?」
「先に言うのを忘れていて失礼なんだが、俺がドクター・キリコだよ」
茫然としたヘンリーを見て笑いを堪えようとし、失敗したクリードが噴き出した。
それからの話は早かった。俺は事情を察して困り切っていた医局に連絡をし、ヘンリーとクリードの美しい友情のちょっとした行き違いであること、わだかまりなく解決したことを説明した。ほどなくして包帯と再生テープだらけのグラディスと、それなりに仕事をしたベネットが病室に現れる。
「そういうことでいいならそれでいいんだけど、警察に賄賂は駄目だよ。もちろん僕たちにもね」
話を聞いたグラディスはオールドマネーの男たちをちらりと見て言った。クリードはどこ吹く風、ヘンリーはばつが悪そうだった。年齢的にはヘンリーの方が上だが、上手なのはクリードだろう。
「先生に話をするの?」
「来てるんだろう。あいつの調子が悪くなければ」
「まだ悪くない」
「まだ?」
「周りの警察官に男が多いからね。バンから出たがらない」
「──俺が行くよ」
「そうして。で、もし話すとしたらどこで?」
「重要な話だ。プライバシーを守るためにもこの病室が最適じゃないかな」
「主治医として患者の安静を妨げるような許可は出せないね」
クリードの下心満載の口出しを瞬殺し、俺はヘンリーの銃をグラディスに渡す。グラディスは弾倉から弾を抜いた後、厳しい顔になってヘンリーに渡した。
「撃たなくて良かったね。長い間、掃除してなかっただろ。撃ったら暴発してたよ」
厳しい声にヘンリーだけではなく俺も背筋が寒くなった。クリードも息を吐いたのでおそらく同じ気持ちだったのだろう。俺たちが思っていた以上に危険な状況だったらしい。冗談じゃない。
「きみ、先日の責任者だろう」
俺たちがベネットを後始末のために残して部屋を出ようとした時、クリードがグラディスに声をかけた。責任者と言ったのはクリードなりの気遣いだろう。グラディスとベネットはヘンリーにデルタフォースだと名乗っていなかった。
「そうだけど」
「助けてくれてありがとう。エミリーも感謝している」
「感謝される謂れはないけど、部下たちに伝えておくよ。さよなら、お大事に」
「きみこそお大事に」
おそらく変わったのだろう。俺は思った。クリードは変わった。正義のクリードがマナーとして言った礼ではなかったと感じたからだ。良い方向か悪い方向かは俺には分からないが、それでも変わったことは確かだった。
俺としては感動の再会と言うほどの気分ではなかった──何しろ銃の暴発の危険性を知るまでは全く危機感がなかった──のだが、家族たちには違ったらしい。ユリは心底安心して俺に抱き付き、お嬢ちゃんも喜んで脚にしがみついた。BJは露骨に安堵の溜息をついて俺に抱き付いて来て、ユリとお嬢ちゃんは笑って俺をBJに譲った。
グラディスが警察に一通り説明して追い返してから、俺はBJにヘンリーの娘の話をした。BJは自分が記憶を失う直前の依頼だったと聞いて顔を曇らせる。
「覚えてないわ」
「それは当たり前だよ。気に病むことじゃない」
外見についての事情がトラブルの原因だったことも隠さずに話した。ユリとお嬢ちゃんが溜息を押し殺したことが分かった。BJ自身は「ふうん」としか言わなかった。
「すぐに返事をする必要はないと思う。おまえの都合が一番だし、ヘンリーはともかく、後で奥方が何かしら言ってくるかもしれない」
BJは頷き、それからしばらく自分の指先を見ていた。いや、指先ではなく、傷を見ていた。それからこの場では意外な人物を呼んだ。
「ユリさん」
「──え、何?」
「わたし、自分じゃできないからお願いしたいんだけど」
「ええ、何でも」
「今度、メイクをしてくれる?」
驚天動地と言った顔をした後、ユリはそれでも大きく頷いた。
「もちろんよ!」
「ありがとう。──傷の具合を覚えてないから、依頼を請けるか決める前に一度会いに行きたいの」
俺に言う顔は医者の顔だった。どうしてメイクが必要なのか俺には分からなかった。だが質問する前にBJが少しだけ悪戯気に笑ってみせた。
「メイクしたわたし、綺麗だったでしょ?」
「──とてもね。思い出すだけで震えるよ」
ああそうか、そういうことか──どこまでも医者なんだ。この女は。何度思ったか知れないことをまた思う。
外見的な美しさを生み出すことはできるのだ。きっとそれを教えに行くんだろう。年頃の少女とその母親は少しくらい安心できるかもしれない。だがその少しくらいがどれほど大きな信頼を産むか、どれほどの希望を持たせることができるのか、俺は──俺たちはよく知っている。ユリとお嬢ちゃんが嬉しそうに笑って頷いていた。
「ヘンリーはまだ病院にいるのね? 先に話を聞いて来る」
聞いて来る、と言いながら俺の袖を引っ張るのだから仕方ない。だが自分で男性への恐怖心を対処しようという意味でもあるんだろう。俺を連れて行けば怖くない。それを知っていて、実行するだけだ。もちろん俺に異論はなかった。
「ピノコ、ちょっとお腹すいたのよさ」
「あら、そうね、わたしたちは食べたけど──どうしよう、わたしたちは帰る? ピノコちゃん、ボンカレー持って来てたでしょ。ご飯はあるし、すぐ食べられるわよ」
「そうしたいのよさ。ちぇんちぇいのボンカレーらったけど、いっぱいあるからピノコも食べるのわよ」
「ボンカレー?」
BJが首を傾げた。あれだけの好物なのに覚えていないとは。美味しいレトルトカレーで先生も大好きなの、とお嬢ちゃんが力説し、聞いてたらお腹すいてきちゃった、とBJが笑った。
「ボンカレーって美味しいの? わたし、凄く好きだったみたいだけど」
「俺が唯一食べたことのあるおまえの手料理だ」
クリードの病室に行く気はなかったが、同じフロアにある応接室でなら話ができるはずだ。グラディスにまた院内に入ることを言い、ベネットを呼ぶから合流してくれと言われて、俺たちは病院の階段を上がっていた。
「手料理? レトルトなのに?」
「おまえに温めさせたら右に出る者はいないね」
「……複雑な気持ちになれる食べ物なのは確かね」
既に院内の空気は平穏になっている。夜の巡回の看護師や急患以外は静かなものだ。こんな中で銃が暴発などしていたらどうなっていただろう。
「それにしてもそのヘンリーって彼、とんでもないわね。きちんと手順を踏めば良かったのに」
「調べた限りで分かる俺の経歴がまだドクター・キリーのままだったんだろう。赤毛の手落ちだ」
「傷病休暇中のわたしの患者に文句を言うの?」
「後でまた診てやった方がいい。涼しい顔をしていたが、多分今頃──」
「そうでしょうね。病院で飲んだことを考えても、鎮痛剤がとっくに切れてる時間だし、かなり痛みが出てるはずよ。少し置いて来てあげれば良かったかも」
でも飲まないと思ったし、とBJは溜息混じりに言った。俺も同意だった。部下の前で痛がることも、鎮痛剤を飲むこともないだろう。あいつに限らない。部下を持つ軍人ってのはそういう意地を張る。ただ、BJがそれに気付いたことが意外だった。
「何となく分かるわ。わたしだって心配をかけられない人の前では飲めないと思うもの。──隊員を家族の元に帰すことが自分の役目だって思ってる人が、部下がいる時に飲むはずないわよ」
そんな話をしていたな、と思い出した。つい先日、デルタがクリードの家に突入する直前、BJが一緒に行くと言い張った時だ。無線で聴いていた俺は奴が軍人だと強く思ったし、ベトナムのあの日々の中、そんな男たちを確かに知っていたと思い出した。BJがグラディスに言い張ったからこそ聞けた話だったはずだ。
不思議なものだ。
思い出すだけで悪夢に繋がる記憶だったはずなのに、BJと愛し合ってから、少しずつ悪夢以外の記憶が呼び起こされて行く。この女が存在するだけで、生きているだけで、俺は悪夢しかなかったはずの時間の中から様々な愛を、誇りを拾い上げ始めることができている。
この女がいるからだ。この女が俺を愛したからだ。
「マフィン」
「え」
久し振りにこの呼び方をしたら、一瞬BJはぽかんとしたが、やがてはにかんで「何よ」と受け入れた。
「わたしは何て呼んでた?」
「ハン」
「悪くないわね。──どうしたの、ハン」
込み上げる幸福感を我慢できなくて、並んで階段を歩く女にキスをした。BJは驚いて足を止め、それから「もう」と怒った顔を作ってから、背伸びをして隣の俺にキスを返してくれた。
その時だった。見回りかナースコールか知らないが、いやに速足で降りて来た看護師がBJにぶつかった。看護師の方がなぜか悲鳴を上げ、BJは驚いた顔になり、俺は慌てて手を延ばし──間に合わなかった。看護師がまた悲鳴を上げた。俺だって叫びたかった。だがそれよりも身体が勝手に動いた。階段を転がり落ちて踊り場に仰向けの姿勢で倒れ込んだBJに駆け寄り、動かさないようにして声をかける。
「動かなくていい」
目は開いているが返事がない。仰向けの姿勢であることが俺の不安を駆り立てた。後頭部を打っている可能性がある。手を握り、聞こえるなら指に力を入れて、と言った。やがて思ったよりも強い力で握り返され、取り敢えずはほっとした。看護師が応援を呼びに行くと言って速足で立ち去る気配があったが構っていられなかった。
「どこを打った?」
「──どこ──……え?」
「階段から落ちたんだ。俺の指を見て」
目の前に指を立てて左右に動かす。BJの目がしっかりとそれを追った。これも安心できる材料だ。だが不意にBJの目が見開かれ、それから、ああ、ああ、と呻き始めた。
「どうした」
「──あ」
異常が出たのかもしれない。MRIで脳を見るべきだ。しばらくBJは呻き続けた。ストレッチャーが来ない以上安全な移動ができず、俺はそのまま見守るしかできなかった。
遠くから複数の足音、それからストレッチャーを引きずる音が聴こえる。
BJの唇から小さな、だがはっきりした声が漏れた。
「おまえさん、ちゃんと支えろよ。下手打ちやがって」
咄嗟に何も言えない。俺の戸惑いなど知るはずもなく、BJは勝手に起き上がった。そして溜息をつき、言った。
「すっごいボンカレー食べたい。何でだろ」
歓喜の悲鳴を上げなかった俺を褒めて欲しい。何しろここは病院だ。入院患者が眠る時間だ。その分、BJを抱き締める力が強くなり過ぎたことは許されるべきだ。
何だよ、苦しい、と文句を言うBJに構わず、俺は抱き締め続けた。到着したスタッフたちの中にベネットがいて、大丈夫か、と声をかけられたが返事ができなかった。
声を出せば泣いてしまうと分かっていたから。