確かに俺の──俺とBJの患者であることは確かだったが、まさか病院に移送した後、俺が主治医になるとは思ってもみなかった。断っても良かったが、クリードの強い要請と聞いて気が変わった。
血まみれのタキシードはデルタに没収された。検証や証拠に使うと言っていたが、もう俺には関係ない。着替えに迷彩服を渡されたことには辟易した。二度と着ないと思っていたのに。
「主治医と言っても、そこまで役に立てないと思うがな」
明日以降はFBIの事情聴取やフォート・デトリックでの通常の仕事があるため、一日中病院にいることはできないし、状況によっては病院に来られない日もある。それでもいいとクリードは言った。
「あの状況で私を助けてくれたんだ。信用に値する」
「流石に偽名で通すぞ。記録に残るものにいつもの名前は使えないんだ」
「そこはあなたの自由に」
「俺に毒でも盛られると思わないのか」
移送時に俺が書いたカルテを改めて眺めながら問う。別に脅しでも何でもない。患者の精神状態や主治医に望むことを知っておきたかっただけだ。
「ルルのことで?」
「理由付けが必要ならまさにそれだ」
クリードが笑った。妙に穏やかな笑い方だった。オールドマネー独特の傲慢さがなりを顰め、年齢相応の青年の笑い方になっている。
「あなたはそんなこと、できないよ。──私が患者になってしまった以上ね」
「否定しない」
精神状態は特に問題ないようだ。事件についてのショックは計り知れないが、この男の精神力は大したものだった。とはいえ、心の整理をする必要はある。金持ち御用達のカウンセラーを用意すればいいだろう。俺はできない。間に女を挟んでいる以上、心療分野において医師と患者として向かい合うことは不適当だった。
「もう遅い。寝た方がいい。よく起きていられるものだ」
もう日付も変わる頃だ。あれだけの騒ぎとこんな重傷を負いながら起きているのは結構な体力だった。
「薬をくれないか」
「どんな?」
「彼女を忘れる薬があれば、ぜひ」
「そんなものはない。死ぬか新しい女を愛するか、どちらかを勧めるね」
「優しくないね」
「俺も人間さ」
「へえ?」
「俺がおまえを憎まないと思ったか?」
クリードは黙り、それから「いいや」と言った。
「憎まないはずがないよ」
「殺意を持ったよ」
「そうだろうね」
俺はカルテをベッドボードに置く。医師として逸脱した話をしているように見えるだろうが、実際はそうでもなかった。心療治療に近い。クリードはカウンセラーをつけられる前に、おそらくカウンセラーには言いたくない感情を片付けてしまいたかったのだろう。
「──最初はかあさんの事故を隠すだけのはずだったのに」
「そうか」
「調べたらブラック・ジャック。大統領のお気に入り。二人の間によろしくない噂がなくもない。私の家が欲しがるのは当たり前じゃないか」
「理屈は分かる。俺は否定する。金持ちの傲慢と単なる犯罪さ」
「そう言わないでくれ」
言われ慣れているのだろう。クリードは傷付いた顔もしなかった。恵まれている男でも、この男なりに傷付いた顔をしなくなる経験を積んでいるのかもしれない。
「今からでも言いたいくらいだよ」
「何を」
「愛している、私の家のホームドクターになって一生そばにいてくれって」
「俺が許可しない」
「だろうね」
俺は患者が望む反応をしてやった。思い通りの反応を得られたことを喜んで、クリードがくすくすと笑った。
「あの生き方で、彼女は幸せなのかな」
「さあね」
「あなたがそれを言うのか?」
「人の幸せなんて本人にしか分からない。不幸に見えても話を聞いたら案外そうでもないこともある。だからおまえは一生、あいつが幸せかどうかなんて分からないさ」
二度と会わせない。言外にそれを告げた。クリードを傷付けるためではなかった。
患者を満足させるためだった。
クリードは──俺の患者は満足して笑った。そこにオールドマネーに属する一家の当主としての力強さが戻った。いや、初めて会った時よりも、更に強くなったようにも見えた。
「寝るよ」
「そうするといい」
「寝る前に最後に言っておく」
「どうぞ」
「キスもさせてくれなかった」
「素敵な話をありがとう。どうぞ良い夢を」
これだけは医師としての立場を忘れた声で言い、俺はクリードの病室を出た。
アビゲイルがそこにいた。何か言いたげに俺を見た。俺は何も言わずに彼女の前を通り過ぎた。謝罪する気はなかったし、謝罪する理由が思い付かなかった。
おまえは俺を苦しめた。俺はおまえを利用して、それがおまえへの報復になった。お互い様さ。世界中のフェミニストに弾劾されようとも、俺は俺が正しいと信じてこの件を終わりにしてやる。
俺が正しいんだ。
──わたし、寂しいの。
俺の女にあの言葉を言わせただけで、俺の世界では大罪に値するのだから。
正直、お嬢ちゃんとユリがいなければ、BJのケアまで手が回らなかっただろう。それから数日、俺はやることが多すぎた。BJのそばにいられない時には必ず二人のどちらかが同じ部屋にいる。ルルとしての事情は説明しておいた。男性恐怖症に関しても、ユリには簡単に話した。原因と考えられる過去の被害については言わなかったが、ユリは看護師で、そして女性だ。ある程度は想像がついたのか、俺に何も質問せず、必要な対応をすると約束してくれた。
FBIの事情聴取への手続きで腹が立つことが目に着き、まずそれで揉めた。俺よりもBJの扱いが目に余った。
俺が要請しておいた、BJの事情聴取に必ず女性捜査官を同席させると言う約束は最初から反故にされ、男性捜査官とまだ記憶を取り戻していないBJが密室で事情聴取を行うと言う致命的なミスをした。まずここで揉めに揉めた。BJはパニックになりこそしなかったものの、明らかに怖がり、以降の協力を拒否した。
それなら俺もお断りだと告げたら、その一時間後には入院中の赤毛から電話が来て「ミスした奴は後で殺しておくから頼むよ、ほんとお願い」と電話越しに説得、いや、懇願された。
強い鎮痛剤を飲んでいるから眠い、寝かせて、だからOKって言ってと受話器越しに縋られてほだされそうになったのはここだけの話だ。グラディスじゃなければほだされた。つまり断った。
しかしこれで「入院中の患者に何をさせるのか」とBJがFBIに激怒してまた大騒ぎになった。この女のこういう部分は何も変わっていない。
この合間を縫ってクリードの病院へ行き、傷の様子を見て、また家に戻る。しばらくの間フォート・デトリックから届けてもらえることになった──読んだら焼却処分が義務付けられている──日々の書類をチェックして、気になることがあれば電話をして、と溜息をつく暇もない。
「ロクター、ピノコがいても煙草吸って良いのわよ。気を使ってくれてるのでしょ、知ってゆのよさ」
「ああ、そう、じゃあ吸いたくなったらお言葉に甘えるよ」
お嬢ちゃんにも気を使われる始末だ。余裕のない姿を見せたことに自己嫌悪した。お嬢ちゃんの前ではスマートな死神でいたかったのに。──これも家族になった証明なのかもしれないと思えたので、悪い気分ではなかったのも事実だった。
それから俺は考える。忙しさに流される振りをして考えないようにしていた。BJの記憶障害のことだ。
考えないようにしていたのは俺の身勝手だった。そう、人の幸せなんて本人にしか分からない。
認める。
俺は今、幸せだ。
記憶を取り戻せないことを不安がり、俺を信用して俺だけを頼り、どこにも行かない、離れるなんて考えるだけで怖がるBJがいる今が恐ろしく幸せだ。
人の幸せなんて──そうだ。分かっている。俺は間違っている。
記憶を失っても医者であるBJを閉じ込めたくてたまらない。クリードたちと何が違う?
「キリコ、夕飯。もうできてる」
「──ああ、今行くよ」
「わたし、料理ができないみたい。ユリさんとピノコに何もしなくていいって叱られちゃった」
「その前に何をした?」
「何も。包丁を持っただけで取り上げられちゃったから」
「ユリとお嬢ちゃんを褒める」
「そうなの?」
「おまえの才能は医者としての分野に全部吸い取られてるんだよ」
記憶を失っても変わっていない部分を見て嬉しいと思う反面、全てを思い出せなくたっていいじゃないかと思う自分が醜くて仕方ない。俺にとって都合のいい愛でこいつを愛していると言っているようなものだ。
それの何が悪いと言いたくなる俺がいる。だがそうじゃない、そうあるべきじゃないと言う俺もいる。
「いつ、思い出せると思う?」
夜、ベッドで書類を読む俺に甘えながらBJが言った。
「うん?」
「わたし、いつ思い出せるのかしら」
「──こればっかりは、な」
嘘だ。確立しているわけではないが、期待できる治療法がないわけではない。俺は知っているし、おそらくBJ自身も知っている。それでも自分から言い出さないのは、その方法で取り戻されるかもしれない記憶に躊躇しているからなんだろう。何かあったのではないか。どんな生き方を。実際に思い出した時、目を背けたくなるような記憶があったら──記憶障害が長く続き、それなりに生活に安堵を得た患者にはたまに起こり得る現象とも言える。
「あなたにとって、わたし、どうだった?」
「いい女だったよ。今もね」
書類をサイドボードに投げ、抱き寄せてキスをする。このまま眠ればいいのに。醜い俺がそう思っていた。
「そうじゃなくて──わたしに愛されたくなかった時があった?」
俺は言葉を探した。BJが何を言っているのか、すぐに分かった。クリードに告げて泣いたあの言葉を思い出しているんだろう。あれは俺の人生の中でも類を見ないミスだった。よりによってあれを覚えているなんて──いいや、思い出せなくても、確実に傷になっていたなんて予想外だったし、気付いていなかった俺自身は愚かだった。
「そんな瞬間は一度もなかった」
「そうなの?」
「でも、そうじゃなきゃいけない、って思ったことはあった。その時に言った」
「どんな時に、何て?」
「ロンドンでね。お嬢ちゃんと三人で過ごしたことがあって」
「うん」
「俺を愛さないで、ってその時に言ったよ」
「……ふうん」
BJが俺にぎゅっとしがみつく。俺も抱き寄せる力を強くした。
話の方向をどうするか、正直言って迷った。このまま綺麗な部分だけを話して眠らせてしまえば、明日も俺は幸せでいられる。こいつも起きてしばらくは穏やかで、安心した一日を送れる。
だがふとした時に思い出すんだろう。自分が自分のことだけを分かっていないと言う事実を。それがどれほど不安であるのか、本当は俺は分かっていなければいけない。
「わたしがあなたを愛しちゃいけない理由って、何だったの」
迷っている間にBJが話を進めてしまった。あまり俺が幸せになれない方向だった。まだ誤魔化せる。そう思った俺の醜さを誰かが笑えばいい。
だが無理だった。俺自身が分かっていた。誤魔化したって無駄だ。
この女を誤魔化せても、俺が俺を誤魔化せない。
愛している。今が幸せだ。俺の身勝手な愛し方で、俺は幸せだ。でも知っている。俺は俺のことをよく分かっている。
嘘で作った土台に積み重なる幸せなんて、俺にとって、──俺とこいつにとって幸せなんかじゃないんだって。
どれほどぶつかり合ったか。憎み合った瞬間もあったのかもしれない。それでもベトナムのあの時から、出会った時から俺たちの間にあったのは本音だけで、嘘なんて何ひとつなかった。
幸せかどうかなんて確認し合ったことがない。するまでもなかった。どんな時でも当たり前のように、俺たちはきっと幸せだった。
当たり前じゃないってことに気付けないままに、幸せに生きて来ていた。
「──きちんと話そうか」
俺は言って、もう一度強くBJを抱き寄せた。
「何から話せばいいのか分からないから、最初から。途中で眠ってもいい。でも話そう」
ベトナムで会った。俺はそこから話し始めた。本当に最初から。BJは驚いたが、黙って聞いていた。長い話になるなあ、と俺は思ったが、そう思うほど長い間、俺たちの人生が重なっていたことに気付き、少しだけ鼻の奥が痛くなった。
途中で眠ってもいいと言ったが、BJは眠らなかった。じっと俺の話を聞き続けた。ベトナムでの話、俺の父親の話、グマの話の時には、少し身動きをした。随分長いこと話してもまだ話し足りなかった。ただ、俺たちは決して最初から仲良く過ごしていたわけじゃないということはもう理解したようだった。
「わたし、あなたの邪魔ばっかりしていたのね」
「そうだな。随分煮え湯を飲まされたよ」
「でも謝らないわ」
「へえ?」
「安楽死は受け入れられないから、きっとまた同じことをすると思うの」
思わず俺はBJをまじまじと見た。BJは少し怯えたような──俺を怒らせたと思ったんだろう──顔をしたが、それでもはっきりと、また言った。
「何度だって、きっと止める」
「──怒ってないよ」
俺がそう言うと、安心したように息を吐いてしがみついて来た。抱き締めて髪にキスをした。怒るはずがない。誰が怒るものか。今の俺がどんなに嬉しいか、どう言えばいいのか分からない。記憶がなくたって──心底そう思えた。
記憶がなくたってこいつはブラック・ジャックなんだ。医者としての顔を見るたびにそう思っていたのに、今のこの瞬間が最も嬉しかった。安心できた。俺が人生を捧げるものを否定されたと言うのに皮肉なものだ。
「多分、俺はおまえのことをずっと愛してた」
「そうなの?」
「ベトナムの時から──これは機密だからおまえにも話せないけど、でもちょっとしたことがあって」
ちょっとしたこと。まさか。そんな言葉で片付けられるはずがない。密林の中で出会った女を思い出す。彼女の存在だけはBJに告げることはない。どこかで誰かが記した何かに書かれていて、いつかBJが見るかもしれない。あるいはもう見ているかもしれない。だがこれだけは、俺の口から言うことは絶対にない。
恋ではなかった。男女としての愛でもなかった。いや、そうだったのかもしれなかった。今となっては分からない。それでも確かに俺は彼女を、ホアを愛した。今でも愛している。生涯愛し続けるし、忘れることはない。あれは愛だった。それは確かに言えるのだ。
そのことをBJが理解できるとは思えなくて──いいや、理解はできるだろう。してくれるだろう。だが生涯、俺とは別の意味で彼女を忘れられなくなるだろう。俺のひとつの愛がBJの心にひとつの闇を産む。そんな残酷な真似をしたくなかった。
「おまえのことを何度考えたか分からない。どんなことをしていても、どんな目に遭っても──おまえのことを考えない時がなかった」
こんな患者を見たらあいつならどうするだろう。あいつなら。今何をしているだろう。どんな医者になっているだろう。俺が患者の生命を他の次元へ案内する時、あいつは患者の手を握って引き留めようとするだろうか。
そうだ。俺はいつでもおまえのことを考えていたんだ。男女の愛と言うには方向が違う種類だったかもしれない。だが俺はおまえを愛していたのだろうし、その愛の種類がいつの間にか変わった時、違和感なくそれを認める土台になっていたはずだ。
それからも俺は話し続けた。毒薬を盗まれて二人で駆けずり回った話をしたら、BJは少し笑って、でも患者が無事で良かった、きっとあなたもわたしも必死だった、と言った。そうだなと俺も言えた。
あれもこれも話した。でも指一本触れなかったと言ったら、きっと、と言われた。
「きっとわたし、触れて欲しかった」
急に胸の奥が痛くなって、腕の中の女にキスをする。女は微笑み、それから俺に頬ずりをした。くすぐったくて俺は笑い、女も笑った。
静かに、だが確実に過去をなぞりながら、俺は、──俺たちは、今、幸せだった。
「そこでまたニューヨークさ。今度はもっと凄いぞ。おまえは大統領を引っ掛けたんだ」
「引っ掛けた?」
「そうとしか言えないね。見事なもんだった」
今の大統領、ロンという愛称を持つ彼と知り合い、俺が巻き込まれた話をしたら、信じられないと言う顔をされた。だから俺は明日大統領に連絡をしようと思った。俺から直接連絡をするのは初めてだが、今回の事情を知っている彼は間違いなくホワイトハウスに連れて来いと言うだろう。BJの記憶にとっていい刺激になる。
「それから──ロンドンに行ったんだ」
ようやく俺は本題に入ることができた。ここまで何時間かかったか、考えるのも馬鹿馬鹿しい。時計は午前3時を指している。きっと二人揃って盛大に朝寝坊をして、お嬢ちゃんとユリに呆れられるだろう。
ロンドンの話は少し長くなった。何を話せばいいのか分からなくて、結局全て話したからだ。二人で長い時間を過ごしたのはあれが初めてだった。英国の特殊部隊や首相の登場で、また信じられないと言う顔をされる。ああ、アンディに連絡をするのもいいかもしれない。あいつの連絡先は知らないから赤毛に頼もう。隊長や首相が絡んで来るようならいっそ英国に連れて行こうか。
「そこで、俺はおまえを愛してるって、やっと気が付いた」
この話をすることが辛いと初めて思った。初めてする話で、初めて思う。今後はきっと二度と話したくないと思うかもしれない。
「おまえに愛してるって言ったよ。それなのに──」
「『俺を愛さないで』」
BJが呟くように言った。神よ。俺は存在もしない何かを心の中で呼んだ。もう俺が話すべきではなかった。
「『愛し合っちゃいけない』」
また、BJが言った。言いながら俺にしがみつき、俺は抱く力を強くする以外に何もできなかった。だが謝ることもできなかった。
あの時の俺は間違いだった。今でも後悔しかない。他に言葉が見つからない。それでもあの時の俺は自分が間違いだと思ってはいなかったし、あの時に全ての関係が終わると思っていた。終わらせるべきだと思った。何のために? ──俺とBJが生きる医療従事者としての未来のために。
「ねえ」
「うん」
「今でも、そう思うの?」
「思わないよ」
即答した。思うはずがなかった。
「あの時の俺は間違ってたし、でも正しかった」
何を言っているのと責められるだろうと思いながら言った。だがBJは俺を責めなかった。
そして言った。
「わたしもそう思う」
俺は思わずBJの顔を覗き込んだ。BJは困ったように俺に笑ってみせた。
「愛した人が生きる道だけを受け入れられないなんて、哀しいわ。あなた、だからわたしを遠ざけようとしてくれたのよ」
何を言えばいいんだろう。何を言えって? キスをして抱き締める以外に何ができる? 俺には分からない。他にできることが何も思い浮かばない。
「あなた、わたしを愛しているから突き放したのよ。傷付くのはその時だけで、二度と傷付けないために」
抱き締めたつもりだった。それでも本当は縋るように抱き付いているのだと、俺とBJだけが知っていれば良かった。BJはただ俺を抱き締め返して、頬を合わせて、何度も何度も、愛してる、と言ってくれた。俺も何度も言った。愛してる。──愛しているよ。いつだって、おまえを知った瞬間から、おまえを愛さないことなんてなかった。愛している。愛しているんだよ。
「きっとわたしはその時、あなたの心が分からなかった。自分ばっかり傷付いたって思って、きっとあなたを恨んだと思う」
「そうかな」
「きっとそう。思い出せないけど、でも分かる。わたし、卑怯な女なの。いつでも被害者でいたい、被害者になるためならどんな言い訳でもする女なの。だから泣いたんだわ。あなたが苦しむように」
それは違うよ。本当はそう言ってやれればいい。おまえはそんな女じゃないよ。そう言えばいいんだ。でも俺は言えなかった。──それは嘘にしかならないから。
そうだよ。おまえはそんな女だ。俺は知ってる。
俺はおまえの涙を見た。まんまと苦しんだ。一生忘れられないほど傷付けたって、間違いなく心に刻み込むことになった。
おまえはそんな女だ。今になれば分かる。傷付いたことは本当だっただろう。それは間違いない。涙だって嘘じゃなかった。それも間違いじゃない。
だがそれ以外にも、きっとおまえは、無意識に俺を責める──いいや。
俺を手放さないための涙を流していたんだ。
記憶がない中でも自分についての真実を、きっと記憶がある時のBJなら口にできないことを、今のBJは言っていた。
そんな女なんだって、俺は知ってる。でも、それでも──
「そんな女だから、俺はおまえを愛してるって気が付いたんだ。きっとね」
「──もうちょっと取り繕ってくれても良いのよ」
「取り繕って欲しかった?」
「そうでもないかも。あなたがそれでいいなら、わたしは楽に生きて行ける。──メイクをしなくても、ワンピースを着なくても。哀しい時には泣いていいでしょう?」
「どうして駄目なんだ?」
俺の問い返しに答えはなかった。首に腕を回して、微塵の隙間も厭うように身体を押し付ける女がいるだけだった。可愛い、愛しい、愛している──こんな言葉じゃ足りなかった。何を言えば、どう言えば、俺の心を全て伝えられるのか分からない。
「寂しい時には、寂しいって、すぐ会いに来てって言ってもいいのね」
「言えなかったのか?」
「言えなかったのよ。きっと。あなたに呆れられそうで」
「──言えば良かったんだ」
「呆れないの?」
「呆れる暇があったら会いに行くよ」
「本当は会いに来るんじゃ嫌よ。迎えに来て、連れて帰って」
今度は俺が身体を押し付ける番だった。衣服が邪魔だった。ひとつに溶け合ってしまいたいのはまさに今だ。服も呼吸も自分の存在すらも邪魔で、皮膚も何もかもが融合してしまえればいい。
「抱いてから、続きを話して」
BJが、俺の女が、甘える声で、だが強くねだった。
「あなたとわたしが、愛し合うって決めた瞬間を、教えて」
ユリとお嬢ちゃんはまだ眠っていた。結局一睡もしなかった俺たちは静かに外へ出る。大通りに面したアパートメントから一歩出れば、まだ5時過ぎだと言うのに都会の人々が動く気配を感じられた。
特に目的もなく手を繋いで歩く。途中で早起きのベンダーを見付けてコーヒーを買った。あと数時間もしないうちに排気ガスにまみれるはずの空気はまだ辛うじて爽快で、寝そびれて身体が重い俺たちの目をコーヒーと協力して覚ましてくれた。
「フォート・デトリックまでどれくらい?」
「歩いて20分」
「近いのね」
「何かあれば駆け付けろってことさ」
「ふうん」
「行ってみたい?」
「──ううん、いい。もう分かったから」
ホワイトハウスでテロに遭った時、俺はフォート・デトリックにいた。おまえはホワイトハウスにいた。記憶を辿る中でそう言った時、ああ、だから、とBJは呟いていた。『だからわたし、ずっとフォート・デトリックが気になっていたのね。あなたがそこにいたから』
「何だか、夢みたいな話ばっかりだった。フォート・デトリックもホワイトハウスも、SASも、デルタフォースも」
「確かにな。俺だって他人が話したら信じられないよ」
二人で笑い、歩いた。ただの散歩だ。手を繋いで歩く。ただそれだけだ。
ただそれだけなのに、俺たちは充分に幸せだった。
なぞった過去はまだBJの心の中に実感としての何かを完全にもたらしたわけではない。
それでも目を背け続けて来たいくつかのことに俺は向き合い、BJは記憶があった時には秘めていた願望を口にすることができた。どちらも大したことじゃないと、誰かが聞けば言うかもしれない。だが俺たちにとっては大したことで、きっと今しかできないことだったのだ。
愛するなと突き放した瞬間を思い出しても、突き放された瞬間を思い出しても、俺たちはもう哀しいと思わないだろう。そんなことがあった。そう思える。抱え込む傷ではなくなった。もし思い出して辛くなっても、隣にいる俺の、そしておまえに手を延ばせばいい。
「──知ってる?」
「何を?」
「記憶障害って、思い出したら忘れちゃうの」
「……そういうケースもある、ってだけだ」
思い出したら忘れる。随分と説明を削ったが、医者同士なら分かることだった。記憶を取り戻した時、記憶障害の間に培った記憶が消えてしまうことがある。稀なケースに過ぎない。俺はあまり心配していなかったし、忘れたら忘れたで構わないと思っていた。だがBJは違うようだった。
「忘れたくない?」
「そうね」
あの家のことを忘れたって、俺は構わないと思っていた。BJは違うのだろうか。あの男、姉、妹たち──それなりに愛しい時間を過ごしたのだろうか。
『わたし、寂しいの』──そんなことを口にした記憶を、忘れたくないのだろうか。
昏い感情に支配されかけた時、BJが不意に俺の腕にしがみつき、悪戯げな笑い声を上げた。
「怖い顔しないで」
「してないよ」
「してた。──クリードのことじゃないわよ」
「oops」
思わず呻く。BJはますます笑う。嫉妬を隠し損ねたみっともない俺は、腹立ち紛れに唇を思い切り頬に押し当ててやった。BJは嬉しそうに身を捩って、だって、と言った。
「わたし、今、幸せなんだもの。忘れたくないわ」
何を言えばいいのか分からず、ああもう、としか俺は言えなかった。ああもう、おまえは卑怯だよ。俺を簡単にコントロールする。おまえから離れるなんて考えられなくなる。
「俺が覚えておいてやるよ。安心して忘れろ」
「何それ、あなたが覚えてるだけで何になるのよ」
「おまえは幸せだったって、俺がいつでも教えてやるってことだ」
足を止め、BJが俺を見上げた。それからこの上なく嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「愛してる?」
「もちろんだ。愛してるよ」
B級恋愛映画のようなやり取りだ。誰かが聞けば笑うかもしれない。それでも俺たちには重要で完璧なやり取りで、そして幸せだと思える時間だった。
それこそ夢のようだ。生命の行方で何度いがみ合ったか。何度罵り合ったか。そんな記憶すら今は愛おしい。その全てが今の時間の土台になっているのなら、愛おしいと思う以外にするべきことは何もなかった。
「帰ったら少し寝るか。その後に出掛けよう」
「どこに?」
「ホワイトハウスに。先に電話をして、彼のスケジュールの都合をつけてもらえるならの話だけどな」
「彼──本当に? 嘘みたい。聞いた中で一番の嘘」
「そうか。じゃあ、嘘に付き合ってくれる素敵な紳士だと思えばいいよ」
俺はあの大統領の前で女言葉で話すBJが好きではなかった。これからはそう思うこともないような気がしていた。一晩で随分な心境の変化があったものだ。俺の昏い独占欲と執着心がなくなったわけではないのだろうが、何かが変わったことは確かだった。
開店したばかりのベーカリーショップで焼き立てのパンの香りに逆らえず、結構な量を買って帰る。ユリはもう起きて朝食の準備をしていた。BJがお嬢ちゃんを起こしに行った。
ユリには「出掛けるなら書置きくらいして行って」と朝一番の小言を言われた。俺も「早く次の職場を見付けろ」と小言を返し、今はその話じゃないでしょう、と朝から喧嘩になった。戻って来たBJに「朝からよくやるわね」と呆れられ、起き出したお嬢ちゃんには寝惚け眼で「仲良しなのわね」とのお言葉を頂く。
朝食を取りながらユリとお嬢ちゃんの一日の予定を聞かされ、俺は頷くだけの単純作業に徹し、BJはお嬢ちゃんの小遣いを気にし、お嬢ちゃんは健気にも、貯めたのがあるから! と断る。ユリが自分の分をなぜか俺にねだる。納得行かない。だがこれで黙るなら100ドルくらいくれてやる。
結局BJはお嬢ちゃんに小遣いを渡し、お嬢ちゃんはいらないと言い張りながらも嬉しそうに受け取って、先生、帰って来てもお家にいてね、とあの舌足らずの可愛い声で言って、だが小さな女の子の顔ではなく、きっと彼女の本質である、少し大人の顔で抱き付いていた。
「ユリ」
「何」
「明日は俺に付き合え。赤毛の見舞いだ」
少しお嬢ちゃんと二人にしてやりたかった。正確に言えばBJと二人にしてやりたかった。ユリも気付いていたのか、楽しそうに抱き合っている二人をちらりと見て、そうね、と言って微笑んだ。