翌日、朝食を終えたBJはエルナンドの往診に出る。経過は今のところ良好で、再手術や他の治療方針を考える必要性はなさそうだった。今日の結果次第では往診も切り上げ、後は村の医者に頼んでも問題ないと考えていた。
「ちぇんちぇい、ピノコも行くのよさ」
「ピノコはユリさんとクッキーの試作を頼むよ。私にも少し味見させて」
「あらまんちゅ!」
大事な作業を任されたと悟ったピノコは元気よく了解の返事をし、嬉しそうだ。娘が動くたびに昨夜のオイルの香りが漂い、BJは何となく笑顔になって家を出た。気付いたユリがキリコを呼ぶ声がする。
「にいさん、先生を一人で行かせる気じゃないでしょうね、一緒に行きなさいよ!」
「黙ってろ、仕事は関係ないんだよ!」
朝一番の兄妹喧嘩を耳にしながら、うん、関係ないねと呟いて歩く。それにしてもあの兄妹は仲がいい。一人っ子のBJには分からない感覚で、少し羨ましかった。
「先生、おはよう」
「ああ、おはよう」
家を出たところで若い男が声をかけて来て、少し離れた場所を歩き始める。BJは首を傾げた。
「ありがたいけど、家の見回りだけじゃなかったのか?」
「先生たちの誰かが一人で歩いてるのを見かけたら、必ず目的地まで送るようにってリカルドが決めたのさ」
「ふうん、ありがとう」
村のほぼ中央であるこの近辺に害を成すポルトガル人が入り込むとは思えないが、好意を無下にする必要もないだろう。鞄を持つよと言ってくれたが丁寧に断り、エルナンドの家まで一緒に歩いてもらう。
依頼者の性質によっては護衛が付くケースもよくあることだ。慣れているBJは、普段の人見知りを発動させることなく、快適に道を歩けた。既に村ならではのネットワークで事情を知っている村人たちが若い彼をからかう声も聞こえる。からかっていられるなら平和な証拠だ。
エルナンドの家の前で礼を言って別れ、昔ながらのノッカーを叩いて来訪を告げる。都会で成功した男の家は決して豪華ではなく、幼い頃から住んでいた古い家を住みやすく改修しただけだった。BJを迎えたのはリカルドだった。
「先生、おはよう。一人で?」
「おはよう、リカルド。いや、お仲間がここまで送ってくれた」
「それなら良かったよ」
自分の指示が上手く回ったことに気を良くし、リカルドは笑う。
「親父の調子はかなりいいよ。早くしっかりした食事がしたいってうるさくって。パン粥はうんざりらしい」
「この村は美味しいものばかりだから、食べた方が元気になるかもな。今日の診察で問題がなければもう少し堅いものにしていいし、胃腸に問題が出なければ普通食に戻していい。カジョスの祭りまでには充分間に合うさ。酒は来月まで我慢だけどね」
「祭りか。先生たちもそれまでいるんだろ?」
「その予定だよ。それから先は決めてないけど、とりあえずカジョスはしっかり食べたい」
「店にいた連中が言ってたけど、先生たち、よく食べるよね。キリコさんが一番食べてないって」
リカルドは笑い、BJは「そうかな」と言いつつ、女性として微妙なラインの羞恥心を刺激されたような気になり、咳払いをしてしまった。
「ああ、先生、おはよう。わざわざありがとうございます」
「おはよう、エルナンド。具合は?」
「哀しい気持ちが続いているくらいかな。パン粥はもうたくさんだ」
BJは笑い、リカルドに先に言った通りのことをエルナンドに告げた。エルナンドは喜び、生きていてよかった、と大袈裟でなく本心から言う。
「都会でそのまま暮らすことも考えたんだがね。でも、どうしても村のカジョスが恋しくて、今は人に任せてこっちにいるんだ」
「そんなに美味しいなんて、今から祭りが楽しみだな。──目を失礼、上を見て」
手早く、だが慎重に診察を行う。やはり食事を通常食に戻しても大丈夫だと判断した。難易度の高い手術だった割には回復が早い。BJの神の指の成果もあるが、何よりエルナンドが元々健康で、回復に使える体力を持っていたからだった。
「今日で往診は終わり。でも、何かあったらいつでも呼んで下さい」
「ありがとう。──本当にありがとう。先生がいなかったら今頃死んでいたかもしれない」
BJは微笑み、エルナンドの言を無言で肯定した。
「これは診察じゃなくて興味本位の話なんだけど──アンダルシアでどういうビジネスを?」
「観光客向けの土産物で、名物になるようなものを作ってね。手軽に買えて、手軽に持って帰れるような。ほら、そこの窓辺の」
エルナンドが指差した窓辺に、素朴だがカラフルなデザインの陶器の小物入れが飾ってあった。あ、とBJは声を上げる。
「知ってる。昔からあるけど大量生産ができないって聞いたことがある」
「そう、それさ」
名医が知っていたという事実にエルナンドは気を良くして笑顔になる。カラフルで小さな雑貨は観光客の心を掴み、特に女性によく売れたと言う。
「売るだけなら大した成功にならないんだが、私はそれを半分機械化したんだ。全て機械じゃ味気が無いし、それこそアンダルシアじゃなくても手に入るようになってしまう。手作り感を少し残すのが成功の秘訣だった。まず人を雇うまでが大変で──」
それからエルナンドは機嫌よく話をした。リカルドがコーヒーを用意してくれる。成功者の話は自画自賛が強く、面白みに欠けることが多いのだが、エルナンドは自分の失敗を面白おかしく話す男だった。多くの成功者を知るBJでも面白い。往診の時間を大幅に過ぎて話を楽しみ、却って恐縮してしまうほどだった。
「先生、よかったらいくつか持って帰ってくれないか。最新の雑貨が届いたばかりなんだ。お嬢さんと、あともう一人女性が来ているんだって? ぜひ彼女たちの分も」
「父さん、そんなの荷物になるだけだ。迷惑だよ」
「いえ、中々アンダルシアに行ける機会もないし、成功のお裾分けならぜひ頂きたいし。娘たちも喜ぶでしょうから」
患者の誇りとも言える成功の証をいらないとは言いにくい。それにBJから見ても、世辞抜きで魅力的な雑貨だった。カラフルで華やかな陶器はピノコとユリも喜ぶだろう。リカルドは肩を竦め、「母さんに用意してもらうよ」と言って部屋を出て行った。
エルナンドの妻、リカルドの母が、用意した陶器を持たせてくれながら、あのう、と少し悪戯げな笑みをたたえながら玄関でコートを羽織るBJに囁く。
「ご主人がお迎えにいらしてますわ。お医者様ってお聞きしたから部屋に入って頂くようにお声がけしたんですけど、先生──奥様が嫌がるだろうから外で待ちます、って。テラスで待ってらっしゃるから、お早めにね」
「──いつから待ってました?」
驚き顔のBJを初めて見た夫人はやや呆気に取られたが、すぐに笑みを深くする。──こんな名医さんでも旦那さんが迎えに来てくれれば嬉しいのね、待たせて悪いって思っちゃったのかしら、なんてお可愛らしいの。
「30分くらいかしら。ごめんなさい、主人が長話をしてしまったのでしょう?」
「いえ、面白いお話だったから──お手間をありがとう。今日で往診は終わりです。でも何かあったらすぐ連絡して下さいね」
「ありがとうございます。お時間ができたらご主人もご一緒に遊びにいらして下さいね」
それはないよ、とは言えず、曖昧に頷くと、夫人と見送りに出て来たリカルドにいとまの挨拶をして玄関を出て、庭からテラスに回った。
「キリコ」
「──ああ、お疲れさん」
テラスのテーブルには夫人が出してくれたのであろうコーヒーカップが置いてある。だがキリコはテーブルで待っていたのではなく、季節の花が咲き誇る庭の中に立っていた。花を見ていたようだ。BJは一瞬、その姿に見惚れる。花が似合う、似合わないという感覚からではなく、ひとを慰撫するやわらかな力を抱く花々の中に立つ彼も、ひとを慰撫する存在として花々に受け入れられているような錯覚に陥ったのだ。
「邪魔して悪かった」
「……邪魔って言うか──驚いたけど」
同じ依頼者からそれぞれの仕事を依頼されたのであればブッキングもよくあるが、今回はそうではない。BJ単独の仕事にキリコが足を踏み入れるような真似をすることに驚いたのだ。
「クッキーのにおいに疲れた。家を出る口実にさせてもらったよ」
エルナンドの家を後にし、行き交う村人に挨拶をしながら手を繋いで歩く。今日は少し風が強く、昨夜のオイルの残り香がBJからほのかに届き、キリコの鼻腔をくすぐった。
「いい庭だったな。花と草のバランスが良かった」
「うん。初めて行った時には驚いた。ピノコも喜んでたよ」
「裏庭の方も花壇があったな。見たか?」
「そっちは行かなかった」
「ふうん。まあ、表の庭の方が見応えがあるのは確かだから、別に裏庭まで行かなくても良さそうだ」
「初めて入った家の庭をそこまで探索してるのも図々しいな」
「良かったらどこでもご覧になって、って奥さんがね」
キリコの姿を見て、家の前にいた若い男二人が軽く手を挙げて挨拶をし、その場を去った。思った以上に熱心に依頼を果たそうとしている姿に満足し、キリコは本格的に彼らへの報酬を考えることにする。
「いいにおい!」
家に入るなり、充満している甘い香りにBJが可愛らしい声を上げる。そういやこいつは甘いものが好きだった、と、殺人的な香りとしか感じられないキリコは思い出した。ユリとピノコが出迎える前に素早くBJの耳の後ろにキスをし、昨夜の残り香で鼻腔を満たそうと試みる。だが敵は圧倒的質量でキリコをも包み、あっという間に家の中の全員をクッキーの香りに変えてしまった。
「ちぇんちぇい、ロクター、お帰りなしゃい!」
「お帰りなさい。にいさん、ちゃんと行ったのね。良かったわ」
「迎えに来てくれるなんて知らなかったから、だいぶ待たせてしまって」
「にいさんなんてそれくらいがいいんですよ」
「ちぇんちぇい、もう焼けたのもあるのよさ。食べてみてなのわよ!」
「わあ、食べたい。いつもの? 林檎とキャラメルの──」
「それも! それからねえ──」
「ピノコちゃん、すっごく上手なんです。びっくりしちゃった!」
女三人寄れば何とやら。先人の言に心から同意しつつ、キリコはテラスのカウチに逃げた。ピノコがいない場所でしか煙草を吸えない。クッキーのにおいにも辟易だが、エルナンドの家の庭の香りも実のところは好ましくなかった。煙草のいつものにおいで忘れたかった。
「キリコ、これ。一枚だけでいいから食べてあげて」
好んで甘いものを食べるわけではない男の元に、BJがてのひらよりも小さなココットを持って来た。まだ冷めきっていないチョコレートクッキーが一枚だけ入っている。
「お嬢ちゃんの?」
「そう」
気配を感じて背後を振り返ると、テラスから続いているリビングの端からピノコが期待半分、不安半分の顔を覗かせている。笑って一口齧り、美味しいよ、と本音を言った。甘さが控えめになっていて、男女を問わず多くの年齢層が食べられそうだ。
「やったぁ!」
美味しいと言われてピノコは飛び上がって喜ぶ。
「ユリしゃん、ロクターが美味ちいってぇー!」
転がるように走って報告に行き、キッチンからはユリの喜ぶ声も聞こえる。
「俺はこれくらいがちょうどいい。甘いのが好きなら粉砂糖でもかければ喜ばれるんじゃないか」
「あ、それいいな。言って来る」
BJもキッチンへ向かう。キリコは溜息をついた。カジョスのパーティまであと3日、これが毎日続くのだろう。そう言えばいつまでここに滞在するのかを決めていない。それは後でBJと話すとして、再び家を出ることにした。
「ちょっと出る。時間が読めないから昼飯はいらない」
「──帰って来たばかりなのに?」
BJが訝しむ顔になる。昨日のポルトガル人のことを思い出したのだ。キリコは頷き、「すぐ帰るよ」と言ってまず自分の寝室へ向かった。案の定、BJが付いて来る。
「首を突っ込むつもりじゃないだろうな」
「ないよ。市場を外れる予定もないし、精油を見て来るだけだから」
「今必要な精油? 市場じゃなきゃいけないわけ? 車で内陸まで行けば?」
「ここから内陸まで何時間かかると思ってるんだ。──窓の外を見てろ」
「最低」
察したBJの視線を外させてから、ベッドのマットレスの下に隠していた銃を取り出す。手早く弾倉を確認し、日本から持って来ていたウエストバッグに入れた。もういいよ、と言うとBJはまたキリコに視線を戻した。
「そんなもの持って、どこに行くつもりだ?」
「市場。護身用だよ。昨日だって持って行っただろ」
「必要ある場所じゃないと思うけど? 川にでも行かない限りね」
「おまえのコートの中のメスもな。こんな場所で襲撃なんかあるのか?」
「話を変えないで」
「俺にどうして欲しいんだ? 行くな? 一人で行くな? どっち?」
その訊き方がずるいとBJは思う。大きく息を吐いて敗北を認め、負け惜しみのように苦々しい口調で言い捨てた。
「連れて行くつもりなんかないくせに」
「ないね」
無情と言えば無情な返事だったかもしれない。BJはキリコをそれ以上見ることなく、寝室を出て行った。女が不機嫌になったことが分かり、キリコは少し言い方を間違えたことを少し反省する。帰って来るまでに機嫌が直っていなければ全力で機嫌を取ることになるだろうな、と思った。
市場を歩くと視線が集まる。余所者の宿命だが、元々アイパッチのお陰で慣れている。敵意のある視線でなければ不愉快になることもない。
昨日精油を買った店は見当たらなかった。今日は出店していないのだろう。売り物があれば出店する、なければしない。そんな店もよくある。
昨日、ユリたちがガールズトークを繰り広げた即席のカフェもどきはそのままの状態だった。市場に来た人々が早速小休憩の場所にしたようだ。数名がワインや葡萄ジュースの入った紙コップを片手にひと息ついていた。その中にアデラがいた。思わず足を止める。疲れているようだし、顔色が良くない。周囲の人々も気にしているようで、辛かったら早く帰った方がいいと声をかけていた。
「アデラ」
「──あ、キリコさん?」
アデラが顔を上げ、他の人々はほっとした表情を浮かべた。キリコがBJ同様、医者であることは既に知れ渡っている。
「具合が悪いのか」
「分かっちゃった?」
「見れば分かる。買い出しか?」
「うん、店で使うフルーツ。いつもは父さんが買いに来るんだけど、たまにはわたしが」
若い娘が持つには重過ぎる量のフルーツが詰め込まれたバッグを目で示す。キリコは少し考え、「送るよ」と言った。自分の用事はその後でも構わない。アデラは一度断ったが、周囲の人々の勧めと、何より本当に具合が悪かったために受け入れた。
「ありがとう。ちょっと辛くって」
「そうか。持病はある?」
「何もないわ」
「亡くなったお母さんも?」
「たまに疲れやすかったくらいだったと思う。何て言ったかしら、甲状腺が良くなかったんですって」
「ふうん」
アデラの荷物を持って歩き出す。具合が悪い彼女の歩調に合わせ、ゆっくりと歩いた。アデラは何度も礼を言い、キリコは何度も構わないよと言いながら、気付いてしまったことに対して溜息を押し殺さなければならなかった。
店の前に着くと、アデラは「もう大丈夫」と言った。店の中にいたルカスが気付き、訝しむ顔をしてやって来る。目の前のドアが開く前に、キリコはアデラに小さな声で言った。
「お父さんとリカルドに話をしておくべきだよ。お父さんの家族はもうきみしかいないし、リカルドはきみの恋人だ」
アデラがはっとして顔を上げた時、彼女の父がドアを開けた。キリコは「市場で具合を悪くしていたから送って来た」とだけ告げ、また市場に向かって歩き出した。
市場へ戻るなり、アデラはどうなんだと声をかけられた。田舎ならではの濃い付き合いを敬遠する現代人も多いが、これはこれで良いところもあるんだろうなとキリコは思う。
「軽い貧血だよ、若い女性にはよくある」
簡単に説明すると、彼らは一様に胸を撫で下ろした。
「ところでリカルドは? 市場に来てるかな?」
「ああ、さっき見かけたよ。アデラと小川の方に行っていたんだろう。そういやアデラだけ戻って来たな、喧嘩でもしたか。そりゃあ具合も悪くなるか」
どっと起こる少し下品な笑いに苦笑を作り、キリコはその場を後にした。小川の方へ向かいながら、ウエストバッグの中にある銃を思い出す。使う予定はないが、使う危険性はあるな、と思った。
途中で昨日の女店主の店を見付けた。彼女はキリコを覚えていて、顔を見るなり声をかけて来る。
「バッグは役に立った? 2つも売れたって聞いて娘が喜んでたよ、ありがとうね」
「とても。──そうだ、ちょうどいい。女が機嫌を悪くしてね」
女店主はすぐに理解し、したり顔で「そりゃああんたがやらかしたのさ」と断定する。キリコは本気で苦笑する。
「どうして分かった」
「おや、本当にやらかしたのかい。そういうことにしておけば、家のことは丸く収まるよって意味だったんだけどね」
「──女のプロフェッショナルにはかなわないね。つまりそういうわけで、喜びそうなものがあれば教えてくれないか」
「生憎、都会の女が喜ぶようなものは何も置いてないよ。この辺はみんなそんなもんさ。──花なんてどう? この村じゃ夏の花を女に贈る習慣があるんだ。大体はカジョスの日に贈るんだけど、やらかしたんなら今日のうちに片を付けた方がいいんじゃないかい?」
「他の手段を考える暇も反論する隙もないね。ありがとう、そうするよ。じゃあ」
女店主に挨拶し、再び歩き出す。行先はあの小川のある森だ。その行先こそがBJを連れて来なかった理由だった。昨日のように上手く行くとは限らない。
──実際に誰かを撃つことになったら、あいつは見ない方がいい。
確実に暴力じみたことに直面するかどうかも分からない。だがキリコの直感──闇の世界を知る者の直感があった。
つまらないことが起きている、と。
市場を外れ、小川の森に足を踏み入れる。人の気配は感じない。リカルドとアデラがしばらくここにいたことは事実だろうが、そのアデラは既に家に帰っている。キリコはリカルドが見つからなければ帰るつもりだった。直感が外れるにこしたことはない。
だが数分ほど奥入った場所に入った時、直感が正しかったことを確信した。数秒迷った後、ウエストバッグから銃を出し、腰のベルトに挟む。BJを連れて来なくて良かった。
「これ以上は下がらない。ギリギリだ」
リカルドの声が聞こえる。それから複数の男たちの気配があった。昨日のポルトガル人かと思ったが、木陰から窺ったキリコは思わず眉を顰める。村の若い男たちも数人、そこにいた。
──昨日で懲りたか。数を連れて来るのは正しいな。やっぱり頭がいい部類なんだろう。
「もう少し下がった方が顧客がつくだろ。半分とまでは言わないが、三分の二までは下げろよ」
「無理だ。それじゃ話は終わりになるよ」
ポルトガル人たちが自国語で相談し始めた。キリコは溜息をつき、木漏れ日を注ぐ樹々を見上げる。こんなに美しい自然の中だって言うのに、人間ってやつはいやらしくっていけない。そう思った。
銃を構え、木陰から出ると同時にポルトガル語で言った。
「帰りな、ポルトガリーズ。少なくとも俺と俺の家族がこの村にいる間は二度と来ないでくれ」
突然現れた男が銃を構えているばかりでなく、米語訛りのポルトガル語を発したことに誰もが驚き、ことにリカルドたちは飛び上がらんばかりだった。ポルトガリーズと呼ばれた男たちはキリコの銃を見て怯む。明らかに真っ当に働いている気配がない男たちだったが、元々ポルトガル人は銃を持ち歩くことが少ない。リカルドのような青年になったばかりの若い男を相手に良からぬ話をするのなら、銃を持つような闇社会の人間ではないだろう──キリコはそう踏んだのだ。そしてそれは正しかった。
「キリコさん、これは──」
「黙れ、リカルド。話はどうでもいい。とにかく俺たちが村にいる間はそいつらと接触するな。俺は誰にも言わない。そいつらがヘロイン中毒だろうが、おまえの家の裏庭にオピウム・ポピーが咲いていようがな」
リカルドはキリコの眼光と話に絶句し、村の青年たちも動揺する。大人に悪戯を見付けられた子供のような顔で、キリコはそれにうんざりした。見た目は立派な男でも──ガキばっかりだ。知っちゃいたがどうしようもない。
女たちの警備に精を出すのも子供ならではだ。完全な大人ならあんなやり方はしない。自警団を呼び、キリコと話し合い、正当な報酬を要求する。だがキリコは彼らの幼さを利用しているという自覚もあり、それを責めようとは思わなかった。ただ、今の状況は彼らにとっても村にとっても、決して望ましいものであるはずがなかった。
キリコはポルトガル語で続けた。
「ポルトガリーズ、このまま帰るなら見逃してやる。そっちの国の安い麻薬も買えなくなって、ガキどもの話に乗ったんだろう? 安く売ってやるって言われたんじゃないか?」
「撃つな。俺たちは丸腰だ」
「おまえらの態度次第だ」
「──その通りだよ。俺たちは後がない。薬をやめる勇気もないし、ろくな仕事もないんだ」
「薬をやってるからろくな仕事がない、そうだな?」
ポルトガルの男たちは僅かに沈黙した後、それぞれが図星を刺された苦い顔をしながら頷いてみせた。
「帰るか、それともこのまま街に出て、スペインの麻薬更生施設に助けを求めるか。必要なら赤十字に連れて行ってやる。心配しなくていい、あそこなら外国人が逃げ込んで来ても無下に叩き出せない」
ポルトガルは治安が良い一方で麻薬が蔓延している。薬をやめたくて麻薬更生施設に入ろうにも、目的が達せない場合が多かった。それは彼らもよく知っているが、なぜ目の前の男がそんなことに詳しいのか不思議でならなかった。
「あんた、何者なんだよ」
男の一人が呻くように言った。敵意が消失したと判断したキリコは銃を降ろし、肩を竦めて言った。
「休暇中の医者だ」
こんなのは専門外だがな。それは心の中で呟いておいた。
ポルトガルの男たちは「考える」とだけ言い、その場を去った。既にリカルドたちを見ることすらなかった。おそらく彼らは二度と来ないだろう。そしてスペインの更生施設に行くこともないだろう。キリコはそんな人間をいくらでも知っていた。
それからキリコはリカルドに「おまえ以外は帰せ」と言って、リカルドはその通りにした。村の彼らは不満そうな、そして不安そうな顔を見せたが、キリコがリカルドを害することはないと宣言し、銃から弾を全て抜いてリカルドに渡したので、どうにか指示に従って帰って行った。
「何で銃なんて持ってるんだ。スペインじゃ法律違反だよ」
「じゃあ通報するんだな。おまえの家の裏庭にお巡りが入る可能性が怖くないなら。俺は司法取引するぞ」
「──キリコさんは俺を通報しないの?」
「休暇中で面倒は御免だし、そもそも俺の知ったことじゃない」
「充分関わってるじゃないか」
リカルドは嘲笑した。だがそれはキリコに向けたものではなく、自嘲だった。分かっていたキリコは腹が立つはずもない。
「休暇中、俺と俺の家族に何もなければいい。あいつらにカジョスを食わせたら帰ってやる」
俺の家族、と言う言葉に自分で驚いていた。不思議だとも思った。家族はユリだけのはずなのに、今は違うのだと知った。ユリと、それから──BJとピノコが自分の家族だと思っている自分を知った。
「裏庭のケシのこと、ご両親は知ってるのか」
「去年、親父が倒れてから裏庭は俺しか入ってない。知らないよ」
「そうか。不幸中の幸いだな。大病をしたばかりの人間が積極的に知りたい話しでもない」
「俺の家は金がある」
不意にリカルドが言った。青年の懺悔タイムか、とキリコはややうんざりしたが、自分たちの穏やかで楽しい休暇のために聞いておくことにした。たとえ既に全容を理解していたとしても。この程度の出来事で理解できてしまうほど、リカルドたちの計画は杜撰で幼稚で、そして危険だったのだ。
「でも村にはない。あいつらも、もう少しすれば都会に仕事を探しに行かなきゃいけない。でも、それじゃ村はどうなる? どんどん寂れておしまいだ。ガリシアは観光地だけど、この村くらい都市部から離れていたらその恩恵も受けられない」
「だから麻薬を事業化しようとでもしたのか? おまえの家の裏庭でケシを栽培して?」
「大体当たりだよ。そのうち、うちじゃなくてこの辺で栽培しようと思ってた。地元の奴だって来ない場所があるんだ。それをポルトガルの奴に流通価格より少し安く卸して、拡大させたかった。金が貯まったら全部焼いて引き上げて、村興しの資金にしたかったんだ」
「ガキの浅知恵にもほどがある。それがどれだけ危険なことか分かっているのか?」
キリコの声が不意に厳しさを帯び、リカルドは続けようとした言葉を飲み込んだ。年上の男は強い言葉でリカルドに言った。
「おまえたちが村を殺すことになるんだ」
「──まさか」
「相場より安く買えるなら、確かに売れるだろう。金も貯まるだろう。だが目的を達成したからと言って、ヘロインを欲しがる連中がおまえたちを忘れると思うか」
キリコは続けた。子供の浅知恵に呆れ切っていた。同時に急激に腹が立っていた。
「相場より安い薬を求めるような、金のない奴の性質の悪さを知らないだろう。ジャンキーの中でも最下層の連中で、薬のためなら何でもやる奴らだ。まだこの辺り、国境付近で話が済めばましだ。──おまえらが薬から手を引く時、何でもやる奴らが必ず村に入り込む。言っている意味が分かるか」
リカルドは答えない。だが頭のいい彼はキリコの話を理解し、青ざめていた。それでいんだ──キリコは思った。それでいい。怯えろ。おまえが招こうとした未来を想像して後悔しろ。
「この森も小川も、あの市場も、薬のために正気を失った奴らが踏み躙る。おまえの大事な村も、おまえの家のあの見事な庭も。それから──おまえが大切だと思う人も全て」
リカルドは唇を噛み締め、何度も頷いた。自分がいかに浅はかだったか、頭がいいとおだてられ、自分でもその気になっていて、村を愛しているという理由を言い訳に、自分の能力を見せつけようとしていただけだったのかもしれないと思い至る。
「薬で正気を失った奴が何をするか、俺はよく知ってる」
ベトナムでどれほど見ただろうか。実際に麻薬に手を出す兵士も少なくなかった。こともあろうに軍は麻薬を希望する兵士に支給した。前線の狂気そのものが麻薬だったことも、嫌と言うほど知っている。
「俺は仕事で麻薬を使うことがある。神聖な仕事だ。患者を見守る神聖な薬だ。──だからこそ麻薬を汚いものにする連中を憎んでいる。言っている意味が分かるか」
「ごめん──ごめんなさい」
リカルドは俯き、何度も謝る。子供の声だった。あれほどよく出来る、よく立ち回れる彼は、今はただの子供でしかなかった。
「俺に謝ることじゃない。おまえは頭がいい」
「違うってことがよく分かったよ。嫌味を言わないでくれ」
「いいや、頭がいい。だからこそこれからできることがある。まず、この計画に乗った連中に、計画が中止になったこと、生涯忘れること、二度と同じような真似をしないことを納得させるんだ」
おまえならできる。キリコは言った。
「裏庭のケシは処分しろ。焼くのは絶対に禁止だ。ヘロインの成分が拡散する」
「分かった。腐らせて埋めるよ」
「それから、最後だ」
リカルドは顔を上げる。子供の顔だ。こんな顔をする子供のくせに──キリコは思い切り溜息をついた。もう溜息を堪えられなかった。
「ルカスに殴られに行け」
元軍人だ、かなり痛いぞ。キリコが言うと話を理解したリカルドは更に青ざめ、天を仰ぎ、産まれる子のためにもルカスに殺されないようにしなくちゃ、と呟いたのだった。
二人で連れ立って市場に戻りながら、これからのことについて話す。裏庭のケシの処分が難しいと思ったらすぐにキリコに連絡すること、そこから先はキリコ適切な処置をすると約束した。仲間たちへの説得は時間がかかり、喧嘩になるかもしれないが、犯した罪の償いとして必ず解決することもリカルドは誓った。
だがアデラの件になると途端に弱気になる。こればかりは仕方ないとキリコは苦笑いした。
「殴られて怪我をしたら治療してやる。安心しろ」
「そこまでかなあ……」
「俺の場合は妹だが、同じような男が俺に話をしに来たら殴り殺すね」
「そこまでかなあ……!」
暗鬱たる顔のリカルドと市場の中央へ向かって歩く。そう言えば花を買って帰ろう、あいつの機嫌を取らなきゃいけないだろうし──そう思った瞬間だった。天を仰いだ。そうでもしなければ笑ってしまいそうだったからだ。笑えば女がもっと不機嫌な顔をする。
「お帰りなさい、ハン。男同士のお話は済んだのかしら?」
ユリが作らせた休憩所で、白ワインの入った紙コップとエンパナーダを前に堂々と脚を組んでいる姿は、普段の人見知りの女ではなく、闇を知る、この上なく押しの強いモグリの無免許医だ。そしてその周辺に先に帰らせたはずの若い男たちがいる。彼らがスペイン人に似合わぬ正座で勢揃いさせられているとあっては、キリコが笑いそうになって当然だった。しかも明らかにBJに殴られたのであろう痣を顔に作っている者が少なくない。
「マフィン、どうした。家にいたんじゃなかったのか」
「急にここのエンパナーダが食べたくなっちゃったの。そうしたら彼らがいたから、ちょっとお話をしただだけよ」
キリコの前では女らしい言葉を使うことも増えたBJだが、今のこれはわざと、極端に女らしく話している。察したキリコはそれに乗ることにした。
「どんな話? 楽しかった?」
「全然楽しくないわ。すぐ日本に帰りましょう。日本は馬鹿みたいに暑いから他の国でもいいわ」
「帰る? 本気で言ってるのか?」
「この村の魅力なんてひとつもなくなっちゃったもの。麻薬だなんて、医者を馬鹿にして。こんな村にいたらピノコやユリさんがどんな目に遭うか分かったものじゃないし、さっさと帰りましょうよ」
周囲の大人たちも話を聞いたのだろう。自分の村を悪く言われることは悔しいが、言われても仕方ないという顔になっている。リカルドや若い男たちは俯き、エルナンドを救った名医の怒りを甘んじて受けるしかなかった。その怒りが演技だと見抜いていることはキリコ一人だとも知らずに。
「おまえが言うなら仕方ない。世話になったが、その分の仕事もしたからな。──麻薬の件は片付けたよ。後はガキども次第だ」
「どうでもいいわよ。反省したって次にやることを考えられなきゃ意味がないし、何も変わらないわ。何てつまんない夏なの、こんな最低な休暇は初めてよ」
強気な女が次々と吐き出す呪詛にリカルドたちは反省することしきりで、大人たちは遣る瀬無く溜息をつく。キリコは「そろそろいいか」とBJにアイコンタクトを送り、BJはエンパナーダに噛り付くことでそれを許可した。ここからはキリコにバトンタッチだ。
「俺は生活指導の教師じゃないから、うまいこと言えないんだが。──リカルド、おまえさん、これからどうするつもりだ」
リカルドが弾かれたように顔を上げる。目的は分からないものの、キリコが助け舟を出してくれたことが分かったからだ。
「家のケシを全部片付けるし、二度とこんなことはしないようにみんなに納得させる」
「それから?」
「それから──」
リカルドは考える。思い付きでもいい、とキリコのひとつだけの青い瞳が言ってくれていた。銃を持っていた時はあんなにも怖かった瞳が、今はとても優しい。
「それから、そうだ、俺たちができること──大人の力を借りるけど、何かこの村で売れるものを作って名物にする」
短時間で導き出されたとは思えない言葉に、正座した若い男たちだけではなく、周囲の大人たちも顔を見合わせる。リカルドは続けた。
「親父が扱ってるアンダルシアの陶器と似ててもいい、でもガリシアの、この村でしか作れないような絵柄とか──親父の陶器は半分機械で大量生産してる。でもこの村で売るのは全部手作りにして、同じものがひとつもないようにするんだ。ここでしか買えないんだ」
それを親父の商売のルートで宣伝してもらって──リカルドは水を得た魚のように話し続けた。エンパナーダを食べ終えたBJは興味なさげに煙草に火を点けたが、これは前々から考えていたんだな、と看破した。キリコも同様だ。やはり頭のいい奴だと思った。
「前から考えてたんだ。親父が病気になって、もうアンダルシアの商売も完全に人に譲って引き上げるかもしれないって言ってたから諦めた。──でも、先生が治してくれたんなら、親父が無理でも俺が仕事を教えてもらうことができるし、俺がみんなに教えられるようになる」
その場にいる村の人々が皆、顔を見合わせ、ざわめき始めた。悪くない、難しい、でもやってみる価値はある──大人たちは話し合いを始める。若い男たちは急な話に頭が付いて行かないが、それでも朗報であることを理解し、リカルドにもっと知りたいと口々に言う。
「どうでもいいわ」
煙草を揉み消し、残った白ワインを飲んでBJが立ち上がる。
「それがいいと思うならそうなさいよ。麻薬を売られるよりずっとましだわ。──ハン、帰りましょう。カジョスは残念だけど、わたしたちにとってまだ危険な場所なのは変わらないんだから」
「なあ、少し──」
「先生!」
キリコが流石に宥めようとした瞬間、リカルドが叫んだ。
「すみませんでした。先生が言う通りだ、信用されないのは当然だ。でも──」
BJは派手に眉を顰める。その顔を見て、ああそうか、とキリコは思った。BJのその顔が、演技中に笑いを堪えなければいけない時に出すものだと知っていたからだ。ああ、そうか。──こいつ、リカルドの顔を立てようとしてやっている。
「でも、何よ。わたしに関係ある?」
「あります。──来年、お願いです、来年の夏、また来て下さい。商売が軌道に乗ってるか分からないけど、でも絶対、今年より楽しい休暇を送ってもらえるはずだから!」
数瞬後、若い男たちが一斉に叫んだ。お願いします、と全員が叫んだ。
あまりの声量にキリコもBJも耳が痛くなったが、顔を見合わせ、お互いに微笑まないように唇をひん曲げ、その顔がお互いに面白くて、また笑いを堪えるはめになる。
「ふうん。じゃあ、そうね」
BJは考える顔をし、それからもったいぶって言った。
「あの家は来年までキープしておこうかしら。村長に相談して買おうと思ってたところだったし」
あ、そうなの、とキリコはついBJを見る。この女の不動産に対する購入意欲は理解できない勢いがある。
「来年楽しければ買わせてもらうし、来たくなったらいつでも来られるわね」
「先生──」
「ただし!」
顔を輝かせかけたリカルドを制するように、BJは少し声を大きくする。
「ただし、来年がろくな夏じゃなかったら承知しないわ。二度と来ないし、旅行が好きな友達連中にも、ここはろくな村じゃないって警告する。いいわね?」
「──はい!」
リカルドだけではなく、若い男たちが全員大声で返事をする。大人たちは興奮し、中にはBJとキリコのやり取りがこの結論を導きだしてくれるための演技だったと見抜いた者もいて、ありがとう、ありがとうと呟く。
「じゃあさよなら、来年はあなたたちと楽しく過ごせるって信じてる」
その言葉だけは嘘ではなかった。キリコはそれを知っていた。
試作品のクッキーの山と一緒にランチの魚介のパスタが待っていた家に帰り、ユリとピノコに説明する。二人ともかなり残念がったが、BJの意思が固いことを知り、ピノコでさえ文句を言わなかった。特にユリは麻薬が関わっていると聞いて看護師として怒りを感じ、それならここにいる必要はないと判断した。
すぐに荷物をまとめ、家を掃除する。テラスのカウチを見て、来年もあればいいな、とBJが呟いた。じゃあ傷まないように家の中に入れておこう、とキリコは事も無げに言い、本当はまだ村を出たくない女の心に寄り添った。
「買い込んじゃった食材、どうしようかしら。とりあえず明日の分まであるのに。にいさん、車の中で食べるなら少し何か作るけど、どうする?」
「どうせ途中でこの街のあれが食べたいこれが食べたいって騒ぐだろうが。持って行ったって腐るだけだ。焼けたクッキーだけ包んで、もったいないけど後は捨てろ」
「それしかないわね。ピノコちゃん、クッキーを入れられるものを探してくれるかしら。わたしは食材を処分しちゃうから」
「あらまんちゅ!」
話を聞いた時には村を出ることを嫌がったピノコは、健気にも笑顔で働き回っている。一度日本に帰っても、今年の夏はまたどこかへ連れて行ってあげよう、とBJは決めた。
本当はこれでめでたしめでたし、楽しい夏を過ごしましょう、としても良かったのだ。それでもBJにはそれができなかった。許されない時があることと、許される可能性に向かって真摯に歩むことを、ひとつ間違えば村を破滅させていた彼らに教えなければならないと思ったからだ。今までの自分ならそこまで考えなかったかもしれない。自分とピノコさえ快適に過ごせればどうでもいいと思ったはずだ。だが今は違う。
村の若者たちを締め上げ、キリコがポーランド人を追い返した、リカルドに話をしている、と聞いた時、本当にあの男はお人よしなのだと呆れた。呆れながらも馬鹿にする気にはとてもなれなかった。それなら仕方ない、と思った自分がいた。
それなら仕方ない。あなたがそうするならわたしも。そう思った。わたしもそうするのが当然でしょう。
──だって逆の立場なら、あなた、きっとそうしたわ。
「おや、働かない女がここに」
「脳が働いてる。邪魔するなよ」
担当のテラスと風呂、庭周りの掃除を終えてリビングに入って来たキリコに毒づく。BJは家の中の掃除を既に済ませていて、あとはピノコとユリがキッチンを片付けてくれるのを待つだけだ。
「何を考えてるんだ?」
ピノコがキッチンにいることを確認して煙草に火を点ける。もうここでくつろぐ予定もない。それならいいか、とBJも煙草を咥えた。
「あの子の夏休み。これじゃあね。可哀想だからどこかに連れて行ってあげたいんだけど、観光地はもう一杯で宿も取れないだろうし、どうしようかなって」
「ワシントンなら俺のアパートメントが使えるが──お嬢ちゃんが楽しめるような場所でもないな」
「下手に行ったらホワイトハウスに呼ばれそうだからやめとく」
「それもそうだ。俺がフォート・デトリックで仕事の時に来てくれ」
「気が向いたらね」
「向くよ。何週間も離れてる自信がある?」
「お互いに無いね」
軽くキスをし、二人で笑う。不思議なものだ。以前は何週間、何ヶ月も会わないことなど当たり前だったのに、今は数日顔を見ないだけで寂しくなる。
「あのオイル、持って帰りたいな」
「新しく作るよ。エタノールを入れてないから長持ちしないんだ」
あの香りを身にまとったBJを思い出す。普段は清潔な香りしかしない、香水など無縁の女だが、たまにはああいった花の香りも悪くなかった。今度二人でいる時につけてくれよ──言おうと思ったが、やめた。きっとすぐに物足りなくなる。いつかのロンドンで服を買ってやった時もそうだった。結局は彼女が選ぶ彼女自身が、キリコにとって一番美しくて愛おしいのだ。
「それにしても、本当にどうしよう。北海道なんてもう満員御礼だろうし」
「この辺からダイレクトに行くならフランスかポルトガル」
「今回の流れでポルトガルは有り得ない」
「フランス?」
「どうするかなあ」
その時、ドアのノッカーが鳴った。テラスに出て玄関を見ると、村長とルカスがいる。ルカスは山のように荷物を持っていて、明らかに土産と分かるそれを見たキリコは、気を使ってるのはどっちだ、とおかしくなった。
「どうも。お騒がせしたようで」
玄関に出てキリコが対応する。ピノコが背後でBJに「何でロクターだけが出ゆの」と問い、BJがピノコをキッチンへ促しながら「うちは男の人が来たらキリコが出るルールだから」と答える声が聞こえて、何だ、そう思っていたのは──家族という単位で勘違いしていたいのは──俺だけじゃなかったのかと思った。
「今回は申し訳なかった」
村長が丁寧な謝罪をする。前回来た時には立ち話をさせて良い相手だとは思わなかったし、今も実際のところはそう思っているが、来年までは今の態度を貫かなくては意味がない。心苦しさを感じながらもキリコは「そうですか」と言った。
「若い連中の過ちとはいえ、ああまで悩ませていたなんて知らなかった。もし警察か麻薬取締機関に通報するなら、我々は反対することができない」
「ああ、いや、その予定はないですよ。来年まではね」
村長は詳しい話を既に聞いていたのか、キリコの言に胸を撫で下ろした。来年という言葉にどれほどの意味が込められているのか、歳を取っているからこそ分かる。この男と、あの天才医師が猶予をくれたのは若い男たちに対してだけではなかった。
「貧しさを理由に努力をしていなかった。来年は認められる場所になっているよ。自警団とも話し合って、国境から入って来るポルトガル人にもっと警戒することも約束する」
「ぜひ。本当は帰りたくないんですよ。彼女と──この家の全員がね」
「いてくれ、と言えるほど図々しくなくてね。でも来年、また来てくれると信じている。その時はカジョスを思い切り食べてくれ」
「それが一番残念だ」
「こんにちは、村長、ルカス。──村長、家のことで話があるの」
BJが後ろから顔を出した。キリコが彼らを家の中に入れない理由を知っていて、キリコがそう決めたのならそれでいいと思う。
「来年まで借りるわ。家賃はそちらで決めて、日本の私の住所へ請求書を送って頂戴。毎月振り込むようにする」
「家賃なんていらないよ。そんなものを先生からもらうなんて──」
「駄目よ。いない間に誰かに入られたら嫌だもの。要は居住権をレンタルするってこと。──来年また来て、美味しいカジョスを食べさせてもらえたら買うかもしれない。夏くらいしか来られないけど、それでもここに家が欲しくなると思うわ」
村長はこの上なく驚き、その後、まるで女神に罪を許されたような顔で目に涙を浮かべてBJを抱き締めた。BJは大袈裟ねと笑い、老いた彼の身体を抱き締め返す。
「もう行くのか」
ルカスが不愛想に言った。キリコは頷く。
「キッチンの掃除が終わったら、もう行くよ。今から出れば夕方には内陸に入れる。早い方がいい」
そう言えば次の行先をまだ決めていない。そして、当然のように自分がユリを連れてBJとピノコの次の旅行先へ行くつもりになっていることに気付いた。それでも、きっとBJも同じだろうという妙な確信があった。確信と言うよりは、当然という言葉が似合うかもしれない感情だった。
「そうか。じゃあこれを持って行け、遠慮はいらないぞ、都会人」
「気を使ってるのはどっちだよ。おめでとう、アブリエート」
おじいちゃん、と呼ばれた途端にルカスは天を仰ぎ、村長とBJは「え」と呟いて顔を見合わせた。ルカスは息を吐き、重い荷物をキリコに押し付ける。村の特産ワインに日持ちがするパン、魚介の燻製やチーズがぎっしり詰まっていた。
「さっき、久し振りに本気で人を殴った。退役してから初めてだ」
「怪我してないだろうな。喜んで飛んで行く女医がここにいるんだぞ」
「しばらくまともな飯は食えないだろうが、これから稼がせないといかん。それで我慢してやったよ」
「優しいおじいちゃんじゃないか。──アデラが妊娠したんだよ。相手はお察しだ」
話が見えないBJと村長にキリコが教える。
市場で体調を崩したアデラを家まで送る途中、いくつか簡単な問診をして、ほぼそうだろうということは分かっていた。だからかもしれない。リカルドにはどうしても、麻薬関係から手を引かせなければならないと強く思ったのだ。
「え、やっぱり」
BJが破顔し、村長は驚くばかりだ。アデラの恋人がリカルドであることは知っていたが、まさか子供ができていようとは。
「やっぱりって?」
「最初に見た時から多分そうかなって。──じゃあ、来年にはもう産まれてるわけだし、私たちが来る頃は2ヶ月くらい? 最高に可愛い時じゃないか!」
既に嬉しそうなBJに「そうだな」と頷きつつも、女医ってのはやっぱり男の医師よりも鋭いのかな、と思ったのも事実だった。それからふと気付く。
「だからルカスの店で煙草を吸うなって言ったのか」
「知っちゃうと、どうしてもね。他の客は吸ってても、妊婦さんがいる場所で身内が吸うのは何となく嫌じゃない?」
キリコは笑い、それもそうだな、と言って頬にキスをする。
あのオイルの香りが愛する女からふわりと立ち上り、この上なく甘い感情に満たされる。
来年この家に、家族で戻って来ることが急に楽しみになった。
ピノコとユリは笑いながらクッキーを山のように焼くだろう。自分はテラスのカウチでひとつだけ味見をして、美味しいよと言うだろう。それを聞いた愛しい女は隣に座って嬉しそうに笑うだろう。
その時には産まれている小さな新しい生命のために、祝いを考えることも楽しいかもしれない。きっと女たちはきゃあきゃあとかしましく話し合い、自分は溜息を押し殺して結論を待つのだ。
来年、この家に、家族で。
そんなことが驚くほどに、幸せだと感じた。
身体を寄せて来る女が同じことを考えていると、なぜか分かった。
それがとても、幸せだと思った。