小さな酒宴の後、ピノコは自ら昼寝を希望した。日本の夏よりも過ごしやすい気候とはいえ、やはりそれなりの気温の中、朝から精力的な活動をして疲れたようだ。BJがピノコを寝かしつけに行ってから、キリコはユリに治安についての説明と注意をした。海外を良く知るユリは素直に納得し、一人では出掛けないこと、ピノコにも目を配ると約束した。
「じゃあ、わたしから言うと角が立つから、にいさんから言っておいて欲しいんだけど」
「誰に、何を」
「さっきの市場の男の子たちに。うちの周りをたまに見て回って頂戴って」
「──なるほど、おまえが言ったら角が立つな」
ユリが直接男たちに言えば、今はユリを崇拝の目で見ている若い娘たちが一気に敵に回るだろう。女心は薄氷の上にある。キリコは過去の女性経験で思い知っていたし、ユリは薄氷の上で生きる女そのもので、格下の女たちが何をどうすれば従うか、またその逆になるかをよく知っていた。
「おまえは男より女で苦労してるくちだな」
「もう少し不美人に産まれてたらこんな苦労もなかったわね」
家の外では決して言えない本音を口にし、ユリは酒宴で残った白ワインを口に運ぶ。買い込んだワインが相当減ったことに気付き、キリコはユリに言った。
「ちょっと出て来る。ルカスの店にいるから」
「ワイン、在庫があったら買って来てよ」
「買いに行くんだよ。それから見回りのことも訊いてみる」
「あら、よろしくね」
家を出る前に二階のピノコの部屋のドアを僅かに開け、中を覗く。ピノコを寝かしつけながら自分も寝てしまったBJを見て微笑み、静かにドアを閉め、一階のリビングにいたユリに二人とも寝ていると告げてから家を出た。
ルカスの店までは近い。クローズの看板を承知で店内を見ると、カウンターの奥でディナータイムの仕込みをしているルカスと目が合った。軽く会釈をすると指で中に招かれる。
「すまないな、時間外に」
「構わんさ。ワインか? さっきは大盤振る舞いだったんだってな」
「もう知ってるのか」
「田舎は話が回るのが早いんだよ」
「ある意味じゃ便利だな。ワインは在庫があればもらいたいんだが、少ないようなら遠慮するよ。明日、また市場で買えばいいんだし」
「カジョスの祭り用に多めに仕入れてある。気にすることじゃない。いらない気を使いやがるから都会の奴は面倒くさいんだ」
ぶつくさと言いつつも地元の飲み物を気に入った観光客たちに好意を持っていることは明らかで、ルカスはセラーにワインを取りに行く。戻ったルカスはグラスを2つ用意し、キリコと自分の前にワインを置いた。そして仕込みのためにナイフを持ち、大量のジャガイモを剥き始める。何となくキリコも一緒に剥き始め、ルカスを「上手いな」と驚かせた。
「仕事は? 軍はもう上がってるだろう。そんな髪の軍人はいない」
「医者だよ」
「へえ? それなら皮剥きが上手いのも納得だ」
「そういうものか」
「そうさ。先生だって上手いだろう?」
「あいつには料理をさせない方が人類のためだと思ってるからな、俺が知ることは一生ないよ」
「ふむ、なるほど、──まあ、あれだけの才能があれば料理ができなくても大丈夫だろう、うん」
キリコは思わず笑い、ルカスも遅れて笑った。
「村長に訊こうか迷ったんだが、先に別件で世話になって、立て続けじゃ心苦しいからね。あなたに訊いてもいいだろうか」
「内容による。おまえさんが買った精油は女がベッドでその気になるやつかどうかなんて、俺はまったく分からんよ」
「田舎の情報網がCNI(スペインの情報部)より優秀だってことは分かった。あの精油は──まあ、調合次第じゃそうなるが、女連中の日焼けのケア用に買ったんだよ。勘弁してくれ」
「そいつは悪かった。おまえさんの名誉のためにCNIに訂正連絡をしておかないとな」
「できるだけ早めに頼むよ」
「おお、分かったとも。早急にな」
ルカスはまた笑う。いかめしい表情で店に立つ男だが、気を許した相手にはそうでもないらしい。キリコとは戦地経験が距離を埋めていた。
「じゃあ何だ。ポルトガルの連中のことか」
「話が早いな。村の中には入らないって話だが、妹が怖がっていてね」
特に怖がる様子はなかったがそういうことにしておいた。見回りを頼みたいと言うのなら、多少ならず警戒をしている証だ。
「あのお嬢さんが。なるほど」
「若い奴の中で時間がありそうなら、たまに家の周りを見てくれないかって言っててな」
「その話ならリカルドだな。腕っ節はいまいちだが、若い連中に信用されてる。ほら、あれだ、上官と兵隊の間を取り持つのが上手い下士官、いなかったか」
「──ああ、いた。俺は軍医だったからあまり関係なかったが、あれが上手い下士官は人気があったな」
「リカルドはまさに下士官さ。若い連中と、俺らのようなオヤジ世代をつなぐのが上手い」
「なるほど。じゃあリカルドに話を通しておけばいいのか」
「それもそうだが、──今はちょっと連絡がつかないかもな」
壁の古い時計をちらりと見たルカスは言った。
「いつ頃なら?」
「うちの馬鹿娘が帰って来たら間違いないさ。若い奴が集まる空き地──おまえさんの車が停めてあるあそこにいるよ」
キリコは頷き、ジャガイモの皮を剥く。ルカスの声が苦々しかったことを楽しいと思った。だが分からなくもなかった。
「俺も妹が初めて彼氏を作った時には似たような顔をしてただろうな。成長したのは嬉しいのに、こればっかりは全然面白くないんだ」
「ったく、ディナーの仕込みの手伝いもしないで毎日抜け出しやがって。死んだ嫁が好きそうな若僧だからまたむかつくんだ」
堪え切れず、キリコは遠慮なく笑ってしまった。やがてルカスも笑い出す。ワイングラスに新しい液体を満たし、二人で話し込む時間が産まれた。BJやユリが見たら珍しい光景だと驚いたかもしれない。誰かと楽しそうに話し込むキリコは珍しかった。
少しベトナムの話にもなる。国は違えど分かる話もある。キリコは自分がベトナムの話をすることによってPTSDが忍び寄るのではないかと思ったが、ルカスは意図的にか、あるいは無意識にか、悲惨な話よりも笑える話ばかりを振り、キリコも確かにあった穏やかな時間を思い出して笑った。
「女たちがうるさくなったらまたジャガイモを剥きに来いよ。男が書斎を持つ理由が分かるだろ?」
「確かにな」
やがてアデラが帰って来た。早速ルカスが小言を言うが、頬を上気させた若い娘に通じるはずがない。キリコは在りし日のユリを思い出し、今思えば俺の説教なんか右から左だったんだろうな、と何となくしみじみした。
「じゃあ、俺はこれで。書斎が恋しくなったらまた来るよ」
「いつでも来てくれ。魚の鱗取りの時もあるからな」
頼んだよりも多いワインを持たされたが、遠慮せずに受け取って礼を言った。都会人め、ここの流儀が分かってきたみたいじゃないか、とルカスが上機嫌で笑った。
一度家に戻り、ワインを地下室に入れる。天然の冷蔵庫と言うほど冷えるわけではないが、ワインを貯蔵するには最適の温度と湿度だった。この家を建てた昔の住民も同様の使い方をしていたのか、ワインセラーが最初から備え付けられていた。
BJとピノコはまだ眠っている。ユリもリビングでうたた寝をしていた。可能性は低いが外からの侵入者の可能性を考え、起こして少し説教し、二階の自分の寝室で寝るように言い付ける。ユリは「もう起きるわ」と言って顔を洗いに行った。キリコは時計を見る。17時に近い。日没まで2時間程度はあるが、そろそろ女だけにして良い時間帯ではなくなっていた。
「先生とお嬢ちゃんを起こしてルカスの店に行っててくれ。夕飯はあそこにしよう」
「あら、作ろうと思ってたんだけど」
「昼にも色々作ってるだろ。そこまで家事を気にしなくていい。行って先に食べてろ」
「にいさんは?」
「リカルド──先生の患者の長男にあの話を通してくる」
話している間にBJとピノコが二階から降りて来た。ピノコはまだ眠そうだが、流石にこれ以上眠ると夜の就寝に差し支える。二人に同じことを言うと、ふうん、と同時に頷いた。
「私も行こうか? リカルドなら知ってるし」
「──ああ、いや、来なくていいよ。ルカスの店で俺が剥いたジャガイモを食べててくれ」
「何それ」
少し話すと女たちは笑い、そういうことなら、と納得してくれた。夕飯を先に食べていろと言う話をしただけなのに、女が集まると納得してもらうまでにこんなに時間がかかるのだな、とキリコはやや溜息をつきたくなったのだった。
BJに来なくていいと言ったのは、男同士の話だからとしか言いようがない。キリコが若い男たちに改めて睨みを利かせる必要が出ないとは言えないし、観光客とはいえ、女にそんな場面を見られることを善しとする若い男は少ないものだ。
車を停めてある空き地に行くと、15人ほどの若い男たちが集まって思い思いに過ごしていた。川に飛び込む連中もいればゲームに興じる者、木陰で少し遅い昼寝を楽しむ者、本を読む者とそれぞれだ。なんて健全な姿なんだ、とキリコはつい感動しそうになる。
男の一人がキリコに気付き、おい、とリカルドに声をかけた。それでキリコはリカルドが本当に一目置かれる立場なのだと知る。家の財力もあるだろうが、それ以上にリカルドが信用されていると見て取れた。財力で集めた偽の人望なら、こんな時には一番腕っ節の強い男がリーダー格として扱われるものだ。
「キリコさん? どうしたんだ」
「おまえさんたちに頼みたいことがあってね。大したことじゃないんだが」
そこで一度言葉を切り、若い男たちが注目する時間を取ってから言った。
「ユリ──俺の妹が国境のポルトガル人を怖がってる」
彼らの生活ではブラウン管以外で見ることのないほどの美女の話は効果絶大だった。しかも最近、村に悪影響を及ぼす存在が関わっているとなれば、彼らの目の色が一気に変わる。
「仕事もあるだろうから無理は言えないんだが」
「そんなに忙しい仕事をしてる奴は村の外に出てるよ。家の周りを見たりすればいい?」
察したリカルドが素早く話を繋げた。キリコは感心する。確かに頭の回転が速く、それでいて話をきちんと聞く様子を見せる。なるほど、下士官向きだ。
「話が早いな。勝手で悪いんだが、俺がどうしても家を空ける時には頼みたいんだ」
「キリコさんがいたってあいつらは平気で入り込んで来る。まだ村の中での被害はないけど、国境近くはもう危ないし、市場に行った時に顔を見られてたら何があるか分からない」
リカルドが言うと男たちも一斉に頷いた。ポルトガル人の一部とかなりの対立が既に出来上がってしまっていることを知り、キリコは思った以上に用心が必要かもしれないと考え直す。
「家の中には入らないよ。もしユリさんが──先生と、あと、ピノコちゃん。誰か一人でも嫌がるようなら、できるだけ見えないように気を付ける」
「有り難いよ。報酬の話をしたいんだが、リカルドでいいのか」
「馬鹿言うなよ」
リカルドは急に怒った顔になる。男たちも同様だ。ブーイングを起こす者もいた。これは良い傾向だ、とキリコは驚いた顔を作って内心では冷静に判断した。これを狙って敢えて報酬の話をしたと言ってもいい。要は男たちのプライドを刺激したかったのだ。女を守るのなら金などいらないと言いたい年頃だろうし、刺激されたプライドが全力で女たちを守ろうとする。きっと自分が同じ歳なら同じ気持ちになった。懐かしいとまで思った。
「金なんかいるもんか。俺たちの村で、俺たちの客で、しかも女の人が怖がってるんなら、金なんかもらえるもんかよ。なあ?」
最後は仲間たちへの同意を促す呼びかけだ。彼らは口々に賛同し、士気を上げる。キリコは本気でリカルドを称賛したくなった。BJの患者である父のエルナンドに伝えたら喜ぶかもしれない。自分の父ならきっと──そこで考えるのをやめた。まだ思い出したいほど、記憶が美しい何かに変わってはいなかった。
「ありがとう。助かるよ。俺が住んでる場所じゃこうはいかない」
「都会だろ? そりゃ仕方ない、田舎には田舎のやり方があるんだ」
都会に憧れて地元を出る人間も多い時代、決して豊かではない村に誇りを持つリカルドと彼の仲間たちに心から礼を言い、キリコはルカスの店に向かうことにした。
報酬はいらないとリカルドたちは主張したがそうもいかない。労働には報酬が必要だ。そして彼らの今の熱がやや冷めた時、不満を抱く火種になりかねない。早めに考える必要がありそうだった。
「キリコさん、いらっしゃい。もう皆さん召し上がってるわ」
ほんの少し前までリカルドとどこかで恋の時間を過ごしていたアデラに迎えられる。
テーブルのBJにキスをし、用意されていた食事を見た。昨日よりもジャガイモ料理が多く、苦笑した。
「どれがキリコが剥いたジャガイモなのかなって、三人で探してたんだ」
「皮を剥いただけだ。料理にしたら分からないだろう」
「話は? 上手く行った?」
「ああ。後はリカルドに任せておけば問題なさそうだ。あいつは随分頭がいいよ」
「彼、凄いのよ。難しい医学書も読んでるの!」
キリコにワインを注ぎに来たアデラが聞き付け、我が事のように誇らし気に言う。それでユリは二人の関係を看破し、若い二人の恋だなんて可愛いなあ、としみじみした。BJとピノコはアデラの話に頷き、じゃあ医者や薬剤師になるのかな、と言っては無意識にアデラを喜ばせていた。
カウンターの向こうから視線を感じる。目をやればルカスだ。ちょっと挨拶、と言ってグラスを持ってテーブルを離れ、常連客で賑わうカウンター席の一つに座った。
「あれをくれよ。タコのタパス」
「ああ、言うと思って用意しておいた。──どうだった」
「話が早かった。もうリカルドを借りる必要はなさそうだ」
「そうか。まあ、リカルドとは──上手いことやってくれ。娘のヒステリーが一番苦手なんでね」
「女のヒステリーが得意な男なんていないだろう」
「──娘だぞ」
「男ができりゃ女になるさ」
ルカスが不意に黙り込み、無表情になる。話を聞いていた常連客たちが一斉に笑い出し、娘を持つ男客たちもルカスの心情を理解して、それぞれ笑いながらも、その後、不意に涙にくれたのだった。
食事を終えて家に帰り、女たちの風呂の時間だ。誰が先に入るかで大騒ぎになり、キリコは淡々と我関せず、リビングで読みかけの本を開く。どうせ譲り合って騒いでいるだけだろうと思い、そしてそれは正解だった。
昨日はばたついて全員適当にシャワーで済ませたが、ユリは先にBJがゆっくり入るべきで、ピノコは後から自分と入ればいいと言っている。にいさん? 男なんて最後よ、最後! BJは先にユリかキリコが入るべき、ピノコはいつも通り自分と後から入ると主張する。どっちでもいいだろうにとキリコは内心で呟きつつ、実際に一言でも口に出せば批判の的に晒されることは分かっていたので、一切聞こえない振りをしていた。するとピノコがちょこちょことキリコの元へやって来る。
「ねえ、ロクター」
「うん?」
「ちぇんちぇいと入ってもいいのよさ?」
「うん、お嬢ちゃんが先生と入るのは何ら問題ないし、普通だろう」
「──ロクター、少しだめんずになるのよさ?」
「だめんず?」
ピノコは溜息をつき、これだから、と呟いた。それがまるで女の顔で、その顔を見ただけでキリコは「一番いい女にはかなわねえな」と思ってしまう。
「ロクターがちぇんちぇいと入ってもいいわのよ、って、ピノコは言ってあげてるのよさ?」
「……お嬢ちゃん、俺にも倫理観ってのがあってね」
「入りたくない?」
「そういう話は大人になってからね」
「ピノコ、子供じゃないのよさ! 18歳なのよさ! レレィなのよさ!?」
「レディなら余計にそんなこと言うもんじゃない、とにかく──」
「ちぇんちぇい、ユリしゃん、お風呂はねぇー!」
ピノコのヒステリー声に驚いたBJとユリが振り返る。ちょっと待てと言うキリコの焦り声を遮るかのごとく、ピノコは絶叫した。
「ピノコはユリしゃんと入るのよさ! ちぇんちぇいとロクターが入ればいいのよさ!」
大人三人の動きと時間が全て止まる。構わずにピノコはフンと鼻を鳴らして顎を上げた。その仕草が調子に乗っている時のBJにそっくりだとキリコに思わせたとも知らず、ピノコは宣言した。
「ピノコは良い奥たんらから、旅行先くらい、ちぇんちぇいがロクターといちゃいちゃしても怒らないのよさ。でも日本に帰ったら! ダメ! なんらからね! 分かりまちたか!」
静寂がリビングを支配する。やがてBJが静かに、とても静かにユリに笑顔で言った。
「じゃあ、私とピノコが先に頂きますね。ちょっと長くなりそうだから申し訳ないんだけど」
「ええ、ごゆっくり。お疲れでしょうし、ピノコちゃんとお話もあるでしょうし」
ユリは引き攣った笑顔で返す。ピノコは予想外の空気に疑問を感じたが、自分に向けられたBJの笑顔の種類を思い出し、ヒェェ、と震え上がった。
風呂で説教コース確定。いくら愛があっても家族でも、不用意かつ無礼な発言許すまじ。これ間家の家訓。BJの笑顔はそう語っていた。
流石にその笑顔を可愛いとは思えず、キリコは溜息をついた後、買い込んだ精油で日焼けの後のケアオイルを作っておいてやることにした。
風呂で散々叱られたピノコはべそをかいて寝室に引き上げ、泣いたって今日は甘やかさないぞと決めたBJはリビングで煙草を咥える。ピノコが寝ればリビングでも喫煙解禁だ。後から風呂を終えたユリが苦笑し、わたしがピノコちゃんと寝ましょうかと言ってくれたが固辞した。
「やり過ぎた時は朝まで一人でいさせるんです。自分で考えられるから。朝になったら終わり」
「大人の扱いなんですね」
「あの子、大人なんですよ。ああ見えてもね」
「確かにそうかも。凄く大人っぽいこと言うし、大人顔負けの行動力だし」
BJは微笑み、真実を隠した。
「先生、これ。にいさんが作ってくれたんです。もう塗りました?」
「え、何それ」
「オイルです。日焼けした日の夜に塗ると凄くいいの。昔から夏は必ず作ってくれるんですよ」
大きめの遮光瓶の蓋を開けると精油の香りがした。市場で買っていた精油を使ったのだろう。
「ラベンダーと──何だろう。でもいい香り」
「毎年ちょっとずつ違うから、わたしも分からないことが多くて。でもラベンダーは入ってますよね。後は何かしら」
「サンダルウッドとローズウッド」
「うわ、びっくりした」
いつの間にか風呂から上がっていたキリコが煙草に火を点けながらそこにいた。BJと二人きりなら風呂上りには取ってしまうアイパッチをまた着けている。ユリさんには見せないのか、とBJは初めて知った。
「ラベンダーとサンダルウッドだけあれば良かったんだが、店主が色々くれたからな。ローズウッドも足しておいた」
「ふうん」
「にいさん、分けてよ。わたし、自分の部屋で塗りたい」
「ほら」
既に作ってあった別の瓶をユリに渡す。慣れたユリは「ありがと」と言い、それからBJに悪戯げな笑みを向けた。
「わたしは大人だから言っちゃいますけど」
「え?」
「先生、普段あまりこういうケアなさってないでしょ。──にいさんに塗ってもらったら?」
「──え」
「ここで恥ずかしければ寝室で」
「え、──え?」
何を言われたかようやく理解したBJの顔と首が一気に赤くなる。こういう反応をする女性も今時珍しいわ、とユリはしみじみ思った。──可愛い。先生って可愛い。にいさんが今までのどんな人よりもはまってるのが凄く分かる。
「ってことでしょ、にいさん。二つに分けてあったってことは」
「その通り。さっさと消えろ、はいお休み」
兄ならではの無礼さで追い払うように手を振り、ユリも文句を言う気配がない。理解のある妹の顔で兄におやすみのキスをし、BJを軽くハグして自分の寝室へ消えた。
「保湿と消炎にいいんだ。女性には特にな。ここじゃ内陸ほど暑くないし、日差しも焼けるってほどじゃないが、それでも日中は紫外線がそれなりにきつい。おまえの縫合痕も焼けて乾燥したら面倒だろう。塗っておいた方がいい」
「そう、──そう、ありがと。自分で塗るから」
「この話の流れでそう言えるおまえが可愛い反面、少し俺の心も汲んで欲しいと思うのも事実なんだが」
煙草を消してBJに優しく笑いかける。それから「おいで」と言った。この声と呼びかけにBJは弱い。案の定、まだ赤い顔をしたまま素直に傍に来た。このままいわゆる大人の遊びに入る方向性も男心を浮き立たせるが、まずは本当に日焼けのケアをしておいた方がいい。
見たところ焼けているというほどではなかった。コートを羽織っていたことも助けになったのか、耳の後ろや首筋に多少のダメージがある程度だ。
「くすぐったい」
「諦めろ」
耳の後ろにオイルを塗り込むと、体温で熱せられた精油がふわりと香る。普段は消毒液や石鹸の清潔なにおいをまとう女が、花の香りを放つことが新鮮だった。
「首も。ちょっと顔上げて」
「うん」
首筋に塗り込むキリコの手がくすぐったくて、つい手を添えて抑えながら顔をしかめ、ううん、うん、と息の合間から声を漏らす。これで誘っているわけではないのだからとんでもない女だ、とキリコは暴走しそうな欲を抑えるために敢えて冷静に分析する。性行為の記憶に尋常ならざる傷を持つBJに対して、欲の暴走だけは御法度だ。紳士たれ、と自分に言い聞かせながらオイルを塗り込んで行った。
「終わったよ。他に塗って欲しいところがあれば塗ってやるけど」
「塗って欲しいっていうか──」
「うん?」
「それ、合成繊維についても平気?」
「合成──ああ」
何を言ったのかと思えば、と苦笑を隠した。大人の楽しい遊びなどキリコでさえ一瞬で忘却の彼方に旅立った。だからこの女が好きなのだと改めて思った。
「希釈してあるし、そんなにやわな身体でもないだろう。どっちかって言えば、普通の子供の皮膚の部分を心配した方がいい。3倍くらいに薄めれば問題ないはずだ。ちょっと待ってろ」
そうだな、当たり前だ。キリコは思う。──女の肌のために作ったって聞けば、そりゃあ娘を思い出すだろう。気が付かないで悪かったよ。あんないい女をないがしろにするなんて、一番やっちゃいけないことだった。
「お嬢ちゃん、許してやるのか」
「許すも許さないも、説教して寝て朝になれば終わり。でも」
「うん」
「せっかくの休暇だし、こんな素敵なものがあるんだから、今日くらい特別でもいいかな、って」
「──なあ、マフィン」
「ん?」
「ちゅーして。おまえが可愛すぎて死んじゃいそう」
「馬鹿かな」
おどけた口調に溢れそうな愛しさを隠し切れなかったキリコにキスをして、娘を厳しく叱った時にいつも抱きがちな謂れのない後ろめたさを払拭する。
死にそうなのはこっちよ、と、二人の時にしか唇から零れない声と言葉で甘く囁いた。ねえ、ハン、死にそうなのはこっちよ、素敵過ぎて死んじゃいそう。それからしばらくキスを繰り返し、少しばかり甘い時間を過ごした。
道具を出してキリコが希釈の作業を始める。横に座り、邪魔を承知で腕に頭を押し付けて来るBJに「こら」と言いながらも笑う。BJは嬉しそうだ。好きな男が愛する娘を気遣ってくれることが何よりも嬉しいのだ。そこまでキリコには分からなかったが、彼女が喜ぶのならそれで良かった。
不意に階段が鳴り、一階の気配を誰かが窺っている様子を教える。キリコはまた笑い、起きてるよ、と声をかけた。すぐにとんとんとリズミカルな足音と共に階段を下りたユリが顔を出し、「ごめんなさいね」と言いつつも、大人の時間がまだ始まっていなかったことに安堵する。
「にいさん、このオイル、子供にこのまま塗っても平気?」
その途端、BJがこの上なく嬉しそうな笑い声を上げ、キリコの腕にしがみつく。道具を落としそうになりながらキリコも笑い、ユリは訳が分からないまま、それでも二人が笑っていることが嬉しくて、一緒に笑った。
薄めたオイルを持ってBJとユリがピノコの寝室へ行くと、キリコはソファに深く腰掛け、やれやれと溜息をついた後、もう一度少し笑って煙草に火を点けた。
こんな休暇も悪くない。むしろここ数年で最高に楽しい、幸せな休暇かもしれない。
だからこそ少しばかり思考を外に向ける。
──俺は楽しくて幸せな休暇を過ごしたいんだ。邪魔をするポルトガル人は引っ込んでろ。それから、馬鹿なガキもな。