you & me 01

 聖人より酒だ。魚だ。肴が魚だ、肴をさかなって読むことに決めた先人の賢さたるや、もっと語り継がれても良いはずだ。口に出すことはないものの、BJは魚介のマリネと朝一番の安物の白ワインを胃袋に収めて幸福に浸る。朝からフルボトルを楽しんでも人目が気にならない外食は心底最高だ。朝一番と言っても大幅に寝坊し、既に10時を回っていた。
「ちぇんちぇい、プリンが食べたいのよさ。10時らからいいれしょ?」
「私が起きるまで待っててくれた忍耐への報酬として認める。──フランをこの子に頂戴、わたしはいらないわ」
 ここ数日で何とか習得したこの土地独特のアクセントで店員のアデラに頼むと、若い彼女は嬉しそうに「すぐ持ってくわ!」と返事をした。自分の土地の訛りを日本人が馬鹿にするわけでなく真似たことが嬉しかったのだろう。ひとつの土地に長めに滞在する時、BJがよく使う手段だった。
「ちぇんちぇいのシュペイン語はえねっちけーの講座と違うのわよ。ピノコ、難しいのよさ」
「NHKの方が世界的に通用するスペイン語だよ。別にガリシアのアクセントを覚える必要はないさ」
 数日前、仕事でこのガリシアを訪れた。聖人を讃える観光地として有名だが、観光の中心地を外れた土地は典型的な田舎で、観光客はほぼ訪れない。
 海外の仕事にピノコを連れて来ることは滅多にないが、自然が豊かな土地でしばらく過ごすのも良いかと思い、夏の間、休暇がてらの滞在を決めた。
 幸いにも仕事は成功した。無論高額の報酬になったが、裕福とは言えない田舎では例外的に小金持ちの──都市部で起業を成功させて生まれ故郷に戻って来たのだと聞いた──依頼者の家計には問題がなかったようで、既に支払いも終わっている。しばらく滞在すると言ったら喜んで村の有力者に話を通し、あっという間に天才外科医と妻だと名乗る娘の宿泊先が用意された。
「はい、どうぞ。父さんの自信作よ」
「わあー!」
 おそらく普段の注文よりも豪華な盛り付けをしてくれたプリンが現れ、ピノコは歓声を上げる。いかにも田舎のデコレーションで、言うなれば野暮ったい。だがピノコは大喜びだった。BJはカウンターの中から様子を窺っていたアデラの父、店長兼シェフに目をやり、ありがとうと視線で伝える。店長は不愛想に頷くと、ランチの仕込みに戻った。
「先生、お友達はいつ着くの? ランチに間に合うならマリスカーダを用意するって、父さんが言ってたのよ」
「マリスカーダ?」
「シーフードのグリル。先生のお友達ならちょっと豪華にするんですって」
「想像するだけで美味しそう。白ワインもボトルで頼まないと」
「今のと合わせて2本目? 夜にはもう1本ね。うちのは評判がいいからぜひ食べて欲しいわ。先生もまだ召し上がってないわよね?」
「まだね。ランチには間に合うはずよ。間に合わなくたってわたしとこの子が頂くから、ぜひお願いして頂戴」
「分かったわ。──先生、今のはちょっとアクセントが違うわ。ガリシアなら──」
 土地のアクセントを冗談のように教えてから空いていたグラスにワインを注ぎ、アデラは父に伝えに行った。
 ほどなくして店内に村人たちが集まり始める。この土地の朝は早く、既にひと仕事を終えた人々が休憩の一杯を楽しむ時間だった。ランチは14時前後の習慣で、それまでは軽食をつまみ、軽くワインを引っ掛けて仕事をする人々が多い。日本人には向かない生活なんだろうなとBJは思いつつも、こんな生活も悪くないと、ピノコと共に充分楽しんでいた。
「ちぇんちぇい、こんな生活も悪くないのだわよねえ」
 可愛い娘が測らずも同じ気持ちを言葉にし、流石は私の奥さんだ、とBJは笑ってしまった。
「ね、ロクターとユリしゃんは都会に住んでゆのれしょ。らいじょうぶかちら?」
「どうだろうね。乾燥がないだけましじゃないかな」
 内陸は乾燥がもはや名物だが、この周辺は海に近い。緑が多く、気温も安定し、日本人や日本を拠点にする者には過ごしやすい場所だった。ただ、とにかく田舎だ。それほど都会的な生活をしていないBJとピノコでも不自由を感じることがままあったが、そこは世界中どこにでも飛んで行くモグリの医者とそのパートナーだ、すぐに慣れた。
 二人が慣れたことを感じ取った村人たちは喜び、閉鎖的な輪の中に喜んで二人を迎え入れてくれた。最初はよそ者ということ、そしてBJの傷を気にして遠巻きにしていた彼らは、今ではすれ違えば挨拶をしてくれるし、不自由はないかと気にかけてくれる。
「文句を言ったら叩き帰せばいいのさ。ユリさんには内陸の良いホテルを紹介すればいいし、キリコはどこへなりとも」
「ちぇんちぇいは彼氏に冷たいのよさ」
「おまえさんねえ、どこでそんな言葉を覚えて来るんだ」
「ピノコ、18歳なのわよ? 知ってて当たり前なのよさ。まったく、懐の広い奥たんに感謝ちて欲しいのよさ」
 彼氏を作っても怒らないんだから、とピノコは頬を膨らませる。
「れも、ロクターらからなのよさ。だめんずらったら許さなかったのよさ!」
 BJは何とも言えない気分になり、そりゃどうも、と言ってグラスを空けた。
 駄目な男という評価とは無縁な恋人とその妹は、今頃こちらに向かっているだろう。仕事を終えた後に何となく電話をし、何となく──ただしBJにとってはとても勇気がいる何気なさで──「往診もあるし、休暇も兼ねてしばらくいるから来れば?」と誘ってみた。意外なことにキリコは二つ返事で承諾し、更にユリを連れて行ってもいいかと訊いて来た。事情を聞くともっともなことで、BJが反対する理由はなかった。
「よう、先生、グラスが空いてるぞ。頼んだボトルは空けるのがここいらの流儀だ」
「そんな流儀があるなんて素敵な土地ね。──ああ、ありがとう。あなたもどうぞ」
「いいのかい?」
「日本の流儀よ。ご返杯って言うの」
 注いでくれた常連客に日本文化を気取って1杯渡し、店内を喜ばせる。あまり賑やかな場所を好まないキリコを思い出したが、この村ならきっと気に入ってくれるだろう、と思った。


 停めるように指定された空き地で、車から先に降りたユリを見た村人たち──特に若い男たち──は遠慮なくどよめいた。映画女優並に垢抜けた銀髪の美女が現れれば当然の反応だ。BJもしみじみと「美人だなあ」と思う。自分がもう少しユリを嫌いだったら、コンプレックスも相まってきっと嫉妬していた。だが無論そんな感情はなく、むしろユリに見惚れる男女に、どうだ、すごい美人だろう、私の彼氏の妹なんだぜ、と筋違いと言われてもおかしくない自慢をしてやりたいほどだった。
 その後に降りて来たキリコへの反応は半々だった。若い男たちはたちまち品定めをする目付きになり、細身に見えながらも確実に引き締まった筋肉を備えていることが分かる長身と、戦傷をにおわせるアイパッチを見て評価を考え中のようだ。若い女たちは男たちほど近い場所からではないものの、遠慮なく兄妹を観察し、小声で「なかなかいいわ」「兄妹かしら、素敵ね」と言いあっていた。
「あ、いた! 先生、ピノコちゃん、お招きありがとうございます!」
 迎えに来ていたBJを見付けたユリが大輪の花が咲き誇るかのごとき笑顔になり、駆け寄って来る。先にピノコが「ユリしゃん!」と歓声を上げて飛びつき、ハグし合って再会を喜ぶ。良い光景だ、と美女と愛娘が抱き合う姿に満足し、BJも笑顔になる。
「お招きってほどじゃないですけど、ようこそ。良いところですよ」
「にいさんが急に『行くぞ』って言って、びっくりしちゃった。にいさんと旅行なんて子供の時以来だわ」
 そのにいさんは車から荷物を出そうとし、親切、かつ外部の男がどんな人間かを探ろうとする壮年の男たちに手伝いを申し出られていた。礼を失しない程度に友好的に受け入れ、彼らに任せた様子を見せ、やっとBJに微笑んで手を振ってみせる。BJも振り返した。うまく微笑み返せず、はにかんだような顔になってしまったことはキリコしか気付かなかった。
「湿度があって助かるよ」
 開口一番がこれだ。内陸を通った時、乾燥によほど辟易したのかもしれない。乾燥が酷いと左目が痒くなるんだと言っていたことを思い出し、BJは「そりゃよかった」と言うにとどめた。キリコは笑ってBJにキスをし、それから屈んでピノコと握手をした。
「奥様、お招きをありがとう。お手伝いできることがあれば何なりと」
 紳士然としたわざとらしい口上にピノコは満足し、「ようこそなのわよ」と奥様ぶって返事をする。最近は見慣れた光景だった。アメリカの移植手術の件が終わってから、キリコは崖の上の家によく足を運ぶようになり、そのたびに必ずピノコを立て、家の権力者はあなたですよと態度で分からせてくれている。それですっかりピノコはキリコを受け入れた。BJが感心するピノコの扱い方だった。
 日本語を聞き慣れない人々が不安を覚えてはいけないので、と言う理由で、おおむね英語で話すことにした。ピノコも他の三人ほどではないが、BJの教育のお陰でかなりの英語を操ることができる。ピノコがどうしても分からない時には日本語で、と決めた。
「ユリさん、スペイン語は?」
「日常会話なら。しばらくスペインの病院で働いていたこともあったし、何とかなります」
「え、そうなの」
 兄に負けず劣らず、拠点を持ちながらの風来坊の一面を見せる。BJはユリと親しく話すことが多くなってから、何度も新しい驚きに直面していた。日常会話なら、とやや謙遜してみせたが、病院で看護師として働いた経験があるのならかなりの語学力だ。医療機関が他国の人間を看護師として受け入れる時、語学に関するチェックがとても厳しいことをBJは知っていた。
「それなら私たち以外と話す時はスペイン語の方がいいかも。アクセントが違うけど喜んでくれますし」
「英語は通じないんですか?」
「日本人と一緒。学校で習うけど、使わないからそんなに話せないし、あまり聞き取れないみたい」
 中には英語が分かる村人もいたが、堪能とは言い難かった。キリコとユリがスペイン語を話せることは僥倖だと言えるだろう。観光地でもないこの村を楽しむのなら、村人と少しでも同じ言葉を共有できる方が良いことは明白だ。
「手伝いと言えば早速」
 思い出し、BJは手をぽんと叩いた。
「早速かよ」
「借りてる家の窓枠が少しずれてるんだ。雨が降ったら大変だから早く直してよ」
「はいはい。一軒家? ホテルじゃなくて?」
「ホテルなんかないよ。患者にしばらく滞在するって言ったら、使ってない家を手配してくれたんだ。おまえさんとユリさんの部屋もあるから。ついでに窓枠がずれてるのはおまえさんの寝室」
「俺の予想で申し訳ないんだが、俺の寝室の窓枠がずれてるんじゃなくて、窓枠がずれてるから俺の寝室にしたんじゃないかって思うんだ」
「いやよ、ハン。わたしの口からそんなこと言えないわ」
「マフィン、こんなに嬉しくない正解はそうそうないよ」
 昔よりも気楽に、こんな時には遊びの口調が顔を出す。二人とも妙に気に入った時間で、他人には分からない遊び方だった。だがピノコとユリが顔を見合わせ、ふふ、と笑う。大切な人に大切な人ができて、その二人が互いに大切だと分かり合ってる姿は見ているだけでも嬉しいものだった。
「先生、旦那さんと妹さんの荷物は家に運んでおいたよ。悪いけど車はここに置いといてくれ。村の決まりなんだ」
「──分かったわ。どうもありがとう」
 今のこの状況、閉鎖的な田舎で「夫ではない」と言えば、何かと好奇の目が向けられることが予想できる。BJは訂正せずにそれを受け入れ、キリコは表情を変えずに「田舎だなあ。お嬢ちゃんは先生の連れ子だと思われてんだろうな」と思ったのだった。
「思ったより涼しいんだな」
「今みたいな夏の季節でも30℃に届かないんだって。海が近いけど日本ほど湿気もないし、過ごしやすい」
 それはいいな、と日本の夏に辟易している外国人の男は喜ぶ。あの蒸し暑さだけはどうしても慣れないし、国内に患者がいなければ海外で過ごすようにしている季節だった。今年はBJがガリシアに呼んでくれたお陰で、行先を考える必要がなくなった。
 いつの間にか集まっていた多くの村人たちに急かされるようにしてランチを取りに向かう。道中、キリコとユリがスペイン語を話せると知った彼ら、彼女らは喜んで話しかけ、村の良いところを説明したがった。ユリが愛想よくそれに応じ、キリコは静かに頷く程度だ。それでも嬉しいのか、村人たちは機嫌良く話し続けた。
 店ではアデラが予告した通りの料理が4人を待ち構えていた。港から仕入れたてのシーフードを山のように、惜しげもなくグリルし、安くて酸味が強いが確実に美味しいと言える地元の白ワインのボトルがずらりと並べられている。女三人は目を輝かせて歓声を上げ、不愛想な店主とアデラを喜ばせた。店主は銀髪の男が目で挨拶をしてきたことに満足し、ようこそ、と彼にしては愛想を込めて返事をしたのだった。
 女三人は早速席に着き、ボトルを開け、ピノコにはジュースを用意して容赦のない食欲を満たすランチに突入する。
 しばらく会っていなかったBJとユリが近況報告をし合う中、キリコは常連客の間を縫ってカウンター向こうの店主の元へ行き、女たちの様子に苦笑しながら話しかけた。
「お近づきに、皆さんに1杯ずつ。もちろんマスターと可愛い店員さんにも」
 これだけでキリコへの視線は和らぎ、「都会から来た洗練されたお客さん」にランクアップした。
 娘を可愛いと言われた店主は仏頂面を保つことが難しくなったのか、唇の端を震わせながらその注文に応えたのだった。
「あ、じゃあ、あの後ってずっと日本? キリコの家に?」
「そうですね、大体はそんな感じ。しばらくはワシントンのにいさんのアパートメントにいたんですけど──先生が先にお帰りになられたでしょ? 邪魔してしまったみたいで心苦しかったんです」
「邪魔なんて、そんなことないですよ。随分日本を空けたからピノコが心配だったし、それで帰っただけです」
「じゃあ、本当はにいさんといたかった?」
「え、何、いえ、別に、そういうことじゃないから」
 口ではそう言うものの、瞬時に耳まで赤くなったBJを見てユリは嬉しさの余り何度も頷いてしまう。ピノコとしては複雑だが、最近BJが稀に女らしい言動を見せる時がある理由に納得し、それはそれで良いことなのだわよ、魅力的なのだわよ、と一人で納得していた。
 山盛りのシーフードと白ワインは女たちに任せ、キリコはカウンターの一席を陣取り、地元の人々が食べている小さな料理、いわゆるタパスと、皆が飲むデイリーワインが欲しいと店主に告げた。常連たちは一気に勢い付き、あれが美味しい、これが美味しいと教えたがる。店主が選び、素早く出してくれたのは茹でたタコにオリーブオイルとパプリカパウダーをかけたものだった。あまり期待せずに口運び、期待しなかった数秒前の自分を愚かだと罵りたくなった。日本や他の国では食べられない柔らかさと風味に一口でやられてしまった。
「彼女に──彼女たちにも、ひとつ」
 その要請に店主は仏頂面のまま頷き、周囲は愛妻家だと解釈して囃し立てる。
「すまないな、ランチタイムに腰を据えてしまって」
「初めて来てくれた客をもてなすのにすまないも何もあるものか。余計な気を回すんじゃない。都会の人間は変に気を使うからやりにくいんだ」
「それは失礼。じゃあ、これからは気にしないことにするよ」
「そうしてくれ。──どこだ?」
 店主が一瞬だけ自分の左目をなぞる仕草をしてみせた。あまり言いたくはなかったが、この店主なら踏み込んだことは聞くまいとなぜか分かった。
「ベトナム」
「──あの時は悪かった。うちの国はあまり前に出る力がなかったもんでね」
「行ったのか」
「もう忘れたよ」
 しばらくの沈黙の後、かつての軍医と他国の見知らぬ当時の兵士は軽く拳を打ち合わせた。国が違っても兵士の挨拶が変わらないことを、互いに面白いと思った。
「妹さんかい」
「ああ」
「女優さんかと思ったよ。気を付けるんだな。あれだけの美人で、更にこの村じゃ女不足だ」
「本気の恋なら構わないがね。そうでもない相手には気を付けるよ」
「奥さんもな」
「──うん?」
 奥さんと言われ、咄嗟に分からなかった。すぐにBJだと思い至り、店主を見る。
「村で一番の金持ち──マドリードで起業して成功して、帰って来た奴なんだが。そいつの病気をあっさり治しちまった女神様なのはみんな分かってるんだ。でも女に必死な奴ってのはどこにでもいるもんさ」
「コブ付きで、あの傷で?」
 ピノコの存在とBJの傷を揶揄するのは本意ではなかったが、話が通じやすいことは確かだ。店主は頷いた。
「俺も最初はあの傷にびっくりしたが、おまえさんならよく分かってるだろう。あの先生、すげえ美人だろ。子供がいたって関係ねえさ」
「おや、バレてた。あまり気付かれたくないんだがね」
 キリコは素直に口にした。惚れた欲目を覗いてもBJは美女の部類に入ると思っている。顔を大きく横ぎる縫い傷と、元々とは違う色の肌に注目されがちで、本来の顔の造作は美しいのだと気付かれることが少ないだけだ。
 傷そのものは本間教授の芸術として誇るBJだが、女性としての一般的な美醜に関しては劣等感を持っていると知っていた。キリコはいずれその劣等感も解消してやりたいと思っていたが、急いだところで良い結果は得られないと分かってもいる。ゆっくりと向き合っていくつもりだったし、何よりBJ自身に向き合いたいと言われた時に手伝うつもりだった。
「それに気が付いた奴がいたら気を付けるんだな。ここはポルトガルも近い。あっちの性質の悪い奴が来ることもあるんだ」
「ありがとう、気を付けるよ。──良ければもう一杯どうぞ。好きなものを」
「都会の男は気が利いていけねえな」
「話が分かる男と一緒に飲めるのが嬉しいのさ」
「ルカスだ」
「キリコ」
 名乗った店主は初めて笑い、言われた通りに自分のためにワインを一杯注ぐと、軽く宙にかざして外から来た男への敬意と今後の協力を示した。
「ねえ」
 いつの間にか傍に来ていたBJに腕を軽く叩かれる。ねえ、という二人だけの時の呼びかけにも、いつの間にか違和感を覚えなくなっていた。
「何でこっちにいるんだ」
「男同士の話」
「いやらしい」
「何がだよ」
「美味しいから」
 一緒に食べよう、という誘いに頷き、キリコは姦しき女たちのテーブルへ移動した。彼女たちでは食べ切れない分を押し付けられることは分かっていたが、今のところ、招待主に逆らう選択肢はなかった。


 古い家を検分すると、BJが言った窓枠以外には全く問題がないことが分かった。空き家だったとはいえ丁寧に管理されていたようだ。ユリは少し不便を感じるかもな、と兄として思ったが、妹の順応力と好奇心がすぐに不便を上回ることも知っている。何か言われない限りは放っておくことにした。
 家の中を整えている間、かわるがわる村人たちが顔を出す。あれは足りているか、これをどうぞ、と引きも切らない。そのたびにBJが対応し、少し話をしては礼を言っていた。おそらくBJが人疲れするだろうと予想し、キリコはピノコと一緒に掃除に精を出していたユリに「少し代わってやれ。男の時は俺を呼べ」と言い付ける。ユリも同じことを考えていたのか、文句を言わずにBJに声をかけに行った。
「キリコ」
「うん?」
 割り当てられた自分の寝室の窓枠を直しているキリコの元へBJが顔を出す。
「夕飯なんだけど、さっきの店しか食事できる場所がなくて。何か作ってくれるなら明日の朝、市場に行けばいんだけど」
「俺が作るってことになってるのが既に分からないんだが、まあ妥当だろう。ユリも飯担当だな」
「キッチンがね。ピノコが使うには古過ぎて危ないし、ご存知の通り私はボンカレーを温める以外の料理はできない」
 本当にそうだった、とキリコはワシントンのアパートメントで一緒に過ごした数日を思い出す。患者を前にすればあれだけの奇跡を見せる手は、自分を養う食事を作るという能力が完全に欠如していた。包丁を持ってとりあえずといった風情で見詰めた瞬間、ユリが悲鳴を堪えながら素早く横から奪ったほどだ。
「その代わり後片付けは私とピノコでやる」
「招待主の仰せのままに。今日の夕飯はさっきの店でいいだろう。美味かった」
「ああいう店が近所にあったら人生潰しそう。絶対朝から飲んじゃう」
「おまえは飲み過ぎだ。少し考えろ」
 キリコとユリがいたとはいえ、ランチだけで3本のワインを空けている。確かに美味かったが、BJは少し飲み過ぎだ。キリコが常に気にすることでもあった。
「何だこれ、面倒な歪み方だな。──マフィン、ここ抑えて」
「……うん」
 わざとの呼びかけではないとBJは分かっている。国民性だ。キリコやユリが生まれ育った環境では、ふとした時に恋人を当たり前のようにペットネームで呼ぶらしい。まだ慣れないなあ、と溜息を押し殺しつつ、言われた通りに窓枠の一部を抑えた。
 その途端、近付いた頬にキスをされてBJの時が停まる。
「慣れろよ」
 その反応にキリコは苦笑し、今度はゆっくりとキスをくれた。村で会ってから初めてキスをしたことに気付いたBJは、この男の恋人でいるには色々と感性をアップデートする必要があるのだとしみじみ思った。
「にいさん、お客様よ!」
 階下からユリが呼んだ。男性の客が来たと言うことだ。部屋に上がって来ないあたり気を使ってくれているんだなと知りつつ、キリコは「今行くよ」と答えてから、男の客は自分が対応することをBJに告げた。
 男性客は村長だった。よそ者の自分にも礼儀正しく挨拶をしてくれた老いた男を相手に、さすがに自分だけでは失礼かと思い、BJも呼ぶ。BJもすぐに理解し、余所行きの顔で「ようこそ」と挨拶をした。
 キリコは小声でユリに「コーヒー」と頼む。立ち話で帰していい相手ではないだろうし、礼を尽くしておいて損はないはずだ。ユリは背後のキッチンで既に火にかけてある薬缶を得意顔で示し、兄よりも一枚上手であることをアピールした。
「何か不自由はないかと思ってね。何しろ滅多に客なんて来ない村だし、長く滞在してくれるなんて嬉しくて、役に立ちたいんだ」
「ありがとう。とても嬉しいわ。ずっと色んな人が気にかけてくれて助かってる」
「それは良かった。都会の人には鬱陶しいこともあるかもしれないが、悪気はないんだ」
 人好きのする笑顔で村長は言い、仕事以外では人見知りのBJの心の垣根を下げる。ちょうどピノコとユリがコーヒーを用意してくれたので、中庭に面したテラスに案内した。キリコはテラスの日除けが少し傷んでいることに気付いた。直しておいた方がここでの生活を楽しめそうだ。
 椅子が4つしかなかったのでユリが家の中に戻る。ピノコがユリに譲ろうとしたのだが、ユリが「あなたは奥さんでしょ? ホステスとして一緒にいなくちゃ駄目よ!」と言って制止した。聞こえていたBJはユリを更に好きになる。村長もピノコに丁寧な態度を見せ、村長のことも好きになれた。
「この辺りは田舎で、内陸と比べるまでもないくらい時代遅れでね。退屈しないといいんだが」
「ここでしかできないこともたくさんあるでしょう。ピノコに自然の中で遊ばせてあげたいの。ここは最適だわ」
 営業モードに入ったBJがすかさず本音でフォローし、村長は悪い気分ではない。キリコはBJの手腕に毎回ながら感心する。人見知りであることは間違いないはずなのに、ひとたび営業モード、仕事モードに入ればそんなことも忘れてしまうようだ。仕事モードは少し攻撃性が過ぎるかもしれないが。
「食事はどうだい? ルカスの店にずっと行っているそうだが、不足はない?」
「全くないわ。食事のことはルカスに頼ろうかしら。他のことは村長に頼ってしまうかもしれないけど、ご迷惑な時にはおっしゃってね」
「迷惑なんてあるはずがないよ。エルナンドの病気を治してくれたんだ、村の恩人だよ」
 それから村長はBJの患者、エルナンドがいかに村にとって重要な人物かを力説した。貧しかった村に財産を持って帰って来てくれた上に、最低限しかなかったインフラに私財を投じた上で、行政と交渉して補助金を獲得したのだと言う。これにはBJもキリコも感心することしきりだった。
「それなら、彼の依頼を請けて良かったわ。あと少しだけ往診するけど、パン粥が終わって普通の食事ができるようになればもう大丈夫。ここは空気もいいし、静養に最高の環境よ」
「私は大戦で兵役に出た以外、この村しか知らないから、どう最高なのかがよく分からない。でも先生が言うならそうなんだろうね」
 生まれ育った村を褒められた村長は笑顔になる。
「そうだ、それから──週末の予定を聞いてもいいかな? うん、ちょうど五日後なんだ」
「予定なんて何もないわ。のんびりするだけ」
「それなら、ちょっと我々の集まりに顔を出して欲しいんだ。カジョスを食べるパーティがあってね。毎年やっている祭りなんだよ」
「カジョス?」
「モツとひよこ豆と、生ハムを煮込む料理でね。内臓が苦手なら他の料理もある。──みんなきみたちと交流したいんだよ。無礼な人間がいたら叩き出すから、ぜひ来てくれないか」
 BJとキリコは顔を見合わせた後、同時にピノコを見た。BJが簡単に日本語で説明すると、察したピノコは胸を張り、家庭を仕切る奥様としての威厳を見せて、村長に宣言した。
「お招き、ありがとうございますなのよさ!」
 知っている限りのスペイン語を駆使して返事をしたピノコに、村長はいたく感激し、小さな手を取って、素晴らしい、ありがとう、何て素敵なお嬢さんなんだ、と何度も言った。


 話を聞いたユリは招きを歓迎した後、「わたしたちも」と言い出した。
「わたしたちも何か持って行くべきじゃないかしら? 大勢の人が少しずつ手に取れるような何か。用意した方がいいと思うの」
「食べ物か?」
「そうなるでしょうね。消え物が一番。でもこの辺の食材は地元の人たちも知り尽くしてるわけだし──難しいなあ」
「クッキーなんてどうなのよさ?」
 ピノコの提案に、大人たちは一斉に賛同した。種類や質はこの際どうでもいい。心を尽くしたという態度が大切なのだ。
「内陸まで行って何か買って用意するってのもできなくもないが、そういうのは求められちゃいないだろうしな。金で解決しない方が良さそうな気がする」
「だろうね。ピノコはクッキーならよく焼いてくれるから大丈夫だし、私も捏ねて成型くらいなら──」
「やらなくていいのよさ」
「やらなくていい」
「やらなくていいです」
 ほぼ同時に三人に言われ、あ、はい、分かりました、とBJは返事をするしかなかった。自分の家事能力の低さはよく分かっていたが、異口同音、三人にここまで言われると流石に自分を省みるべきかと悩みたくなる。
「ちぇんちぇい、落ち込んでるならちゅーしてあげゆわよ」
「落ち込んでない、落ち込んでない。料理できなくても死なない」
「落ち込んでるのわよ。ちゅーすゆ?」
「うう、ちゅーして」
 可愛い、とユリが呟く。キリコも全くもって同意だった。ピノコが可愛いのは当然として、BJのあの「ちゅーして」は傍で聞くだけで最高に可愛い。
「マフィン、俺にもちゅーしてって言ってみてくれよ」
 本音を含めつつからかうと、BJが眉を跳ね上げて、だが顔を赤くして怒る振りをした。
「馬鹿じゃないの、誰が言うか、馬鹿キリコ、馬鹿」
「今の会話だけで3回も馬鹿って言えるのかよ。いっそすごいぞ」
「キリコが馬鹿だからだ!」
「おお、怖。まあ、して欲しけりゃいつでも言って。喜んでちゅーするよ」
「馬鹿!」
「クッキーの話なんですけど」
 痴話喧嘩を見せつけられてうんざりしたユリが話を戻す。計画を進めるにつれ、材料の調達の問題が出た。村に小さな食料品店があるが、パーティで配るほどの材料が手に入るとは考えにくいし、そもそもこの規模の村なら村人が日常生活で必要な分しか置いていない可能性も高い。よそ者が手を出さないにこしたことはないだろう。
「さっきキリコには言ったんだけど、明日、市場に行こう。ポルトガルからも出店する人たちが来るらしいし、どうにかなるだろ」
「足りなかったらポルトガルに入って買っちゃえばいいのわよ」
 ピノコの提案にまたしても大人たちは賛同し、今度は拍手をしたのだった。
 キリコの寝室の窓枠を直し、家の中を掃除している間に日が暮れる。夕飯はまたルカスの店だ。BJとピノコは今日の三食をここで済ませることになるが、兄妹に「毎日そうだった」と言って驚かせる。だがそんな村には独身や高齢者にもそんな人が多いとアデラが教えてくれたので、初日から文化と習慣の違いを楽しめることになった。
「いつもより混んでるから、ちょっと待たせちゃうかも。ごめんなさい」
 オーダーを取ったアデラに先に謝られた。確かに店の中はBJが知る限り今までで一番混雑している。
「何かあったの?」
「先生の旦那さんとその妹さんが来たら、そりゃあ一大事よ」
 田舎だもの、とアデラは笑って父に注文を伝えに行った。
「キリコ、煙草吸わないで」
「お嬢ちゃんの前で吸うかよ」
「この店はピノコがいてもいなくても駄目」
 店内は賑やかだ。かわるがわるBJたちのテーブルに声をかけ、楽しんで、と言って行く男女が後を絶たない。よそ者がゆっくり食べるには少し時間が必要な様子だった。BJはピノコにだけはきちんと食べさせようとやや奮闘し、ユリがさり気なくそれをサポートし、ピノコにかまけ過ぎて自分の食事を忘れてしまいそうなBJにも食べさせる。
 キリコはユリに微妙な接触を試みようとする若い男が次々と差し出す手を横から握り、世話になるよと目が笑わない笑顔で挨拶を繰り返した。男の力関係を一瞬で理解し、引き攣った顔で撤退する若い男たちがほとんどで、これはこれで田舎の良いところだ、とキリコは思った。慣れたユリは兄に任せきりだ。彼女にとってはBJとピノコが食事をする方が余程重要だった。
 だがユリにも対外的な出番が訪れる。BJやユリよりも若い娘たちが、同年代の男たちの視線を集めるよそ者の女たちに向かって明らかに敵対心を抱きつつあることを見抜いた。
「にいさん、ちょっとよろしく」
「何だよ」
「ガールズトークよ」
「──ああ、行って来い」
 集団でテーブルについている若い娘たちの方へグラスを片手に歩いて行く妹を見送り、キリコはやっと自分の食事を始めた。
「ユリさん、どうしたんだ」
「女友達を作りに行ったのさ」
 上下関係を構築しに行った、という言葉をうまく言い換え、キリコはワイングラスを口に運ぶ。市場から仕入れたボトルワインもあったが、昼に飲んだ店の自家製白ワインが気に入った。BJもそうだと言った。
「マリネに凄く合うから、朝は最初にそれって決めてる。それから必ずマリネ」
「だろうな、これはそういう料理に合う。ここじゃないと飲めないな」
 決して洗練された味ではないし、雑味も酸味も美食家には敬遠されるワインだ。だがこの店で、この店だけで食べられる料理と合わせれば、この上なく美味しかった。
 とはいえBJは飲み過ぎだ。朝にもボトルを1本空けていると聞き、流石にもう飲むなと言ったが、聞くような女でもない。喧嘩になる前にキリコが一歩引き、ボトルは1本まで、それ以上飲みたければ持ち帰って家で飲むこと、炭水化物を必ず摂ること、と約束にこぎつけた。
 しばらくするとユリが戻って来た。楽しかったわ、とBJとピノコに報告し、質問する隙を与えずに明日の予定について話を始める。
 女三人に勝手に決められて行く明日の予定を適当に聞き流しながら、キリコはユリとガールズトークを楽しんだはずの娘たちのテーブルをちらりと見た。誰もが頬を上気させ、先ほどよりも明らかに興奮し、きゃあきゃあと若い女独特の賑やかさ──キリコや男性客からすれば姦しさ──で騒いでいる。『年上の素敵なお姉さん』にすっかり掌握されたようだ。
「おまえ、よくやるよ」
「美女のライフハックよ。居心地は自分で良くしなきゃ」
 涼しい顔でユリは言い、ぐいとワイングラスを空けたのだった。ユリも相当飲む。その上酒癖が悪い。度を超す前に引き上げさせなければ、とキリコは決めたものの、どうして俺はこいつらの保護者のような真似をしているんだろう、とやや疑問を抱いたのだった。
「ロクターも大変なのわよねぇ」
 唯一ねぎらってくれるピノコが天使に見える。最高の女がここにいるとは今日最大の驚きだった。


 旅疲れとアルコールからか、ユリは随分と早い時間に寝室に引き上げてしまった。ピノコは規則正しく、21時には自分の寝室へ向かう。キリコは戸締りを確認し、もうひとつ補助鍵を付けたいと思ったが、それはそれでやり過ぎだと村人に受け取られそうで悩ましかった。
「どうした」
「ああ、いや。補助鍵を付けるかどうか。──座って食べろよ」
 パンを齧りながら声をかけて来たBJに苦笑しながら返事をする。ピノコがいる間は折り目正しい生活態度なのに、いなくなった途端にだらしない真似を始める女だと知った時には驚いたものだった。
「炭水化物を食べろって、おまえさんがうるさいからじゃないか」
「立ったまま食べろとは言ってない。パンに失礼だ」
「言われればその通り」
 リビングにある年代物のソファに座り、ノルマとして課せられたパンを胃袋に片付け、BJは「鍵はいらないよ」と言った。
「他の家もつけてない。うちだけつけたらそら見たことかヨソモノが、ってなって面倒だよ」
「確かにな」
 隣に座って溜息をつく。流石に旅疲れが出ていた。
「ユリさんの調子は?」
「ああ、もう寛解だ。気を使わせて悪かったな」
「それなら良かった。いくら看護師でもあれは酷かったから」
 ソフィアとセルゲイの一件で、ユリはなぜか責任を感じ、しばらく不眠を訴えるようになった。BJと共にしばらくキリコのアパートメントに滞在したが、BJがいる間、ろくに眠れていなかったはずだ。フォート・デトリックでの仕事があるキリコに代わって様子を見ていたが、昨今注目されているPTSDの可能性が否定できなかった。
「深くなる前におまえが診てくれたからな。助かったよ」
「死神の医療計画書に従っただけ。悔しいけど、これ系と薬の方面はおまえさんにまだ勝てないな」
 恋人相手でも医療が関われば負けず嫌いが顔を出す。可愛いものだとキリコは笑いそうになったが、笑えば機嫌を損ねると分かっているので我慢しておいた。
「しばらくここで過ごせば大丈夫だろう。俺もゆっくりするよ」
「そうするといい。──最後まで診たかったけど、ピノコを随分長い間、日本に一人にしちゃってたからね。途中放棄だから割引しておいてやる」
「いきなり恐ろしい話に突っ込みやがって。いくらだ」
「専門分野じゃないから本来300万円くらい。割引価格で──そうだな、明日、テラスの日除けを直すっていうのはどう?」
「それじゃ支払いにならない。元々直す予定だったからな」
 嬉しい偶然にBJが笑う。キリコも笑い、抱き寄せて深いキスを仕掛けた。情を交わすようなキスは久し振りで、いつもよりも早く熱が身体に回るような気がする。どっちの部屋に行こうか、とキリコが問うと、少し考えた後、キリコの部屋の方がピノコとユリさんの部屋から遠い、とBJが消え入りそうな声で答えた。