僕はすっかり 04

 闇医者二人がホテルを出て、別々の方向へ歩いて行く姿を確認し、彼と彼女は頷き合って仕事を開始した。女は死神の、男は無免許医の後を尾ける。MI6の中で最も尾行能力に優れた二人は、闇医者二人が特に何かを用心した風体でもないことを見抜き、今日の尾行はそれほど難儀をしなくて良さそうだと思った。
 男の方は仕事が楽だった。BJはあっさりタクシーを拾ったのだ。男も同じくタクシーを拾い、前のタクシーに付いて行ってくれ、と運転手に指示すれば良いだけになった。
 BJの行先はヒースロー空港だった。ここで少し男は焦る。昨夜の盗聴から違うと分かってはいるものの、このまま国外脱出する気ではないかと危惧したのだ。目立つ風貌の闇医者は、集まる視線も気にせずに歩いて行く。BJがロッカーに着いた時、男はつい安堵の溜息を漏らしてしまった。国外脱出ではなかったようだ。
 BJが開けようとしているロッカーに近い場所を確保し、いかにも荷物を預けるために空きロッカーを探していますという顔をしながらその手元を見る。思わず眉を顰めた。BJが解錠に使った3つの数字に違和感を持ったのだ。キリコが設定していたはずの823ではない。
 男の違和感に気付くはずもなく、BJは中に入っていた物を見て一瞬きょとんとした顔になる。それから唇をひん曲げて、嬉しくて笑いたい衝動を我慢する女の顔になった。しかし、一緒に入れてあったカードを見て今度こそ口元が笑う。満足そうに息を吐いてからカードをコートのポケットに入れ、荷物を──菓子店のショップバッグだった──手に取り、ロッカーを閉める。
 そこで男は仕事を忘れ、仰天するところだった。BJが自分を見てにんまりと笑ったのだ。
「ご機嫌いかが、ジェイムズ・ボンド」
 男は大きく息を吐き、降参の意を示した。監視されていると気付いていたとしても、正面から話しかけて来るとは。──そうだ、昨日、この女が電話ボックスで最後にかけた電話先は普通の民家だった。あれは先にかけた電話先を知られないためのカモフラージュだったのか。昨日から、あるいはそれ以前から監視に気付いていたということか。
「これから買い物だ、金は持ってるか? 経費で落ちるだろ?」
 ふざけやがって。男は心の中で呟いた。そして昨日、同僚がキリコにしてやられた話を思い出していた。こいつら、ふざけやがって。──最初から分かってやがったのか。解錠ナンバーが007だなんて、馬鹿にしやがって。


 死神と呼ばれる男の後を尾ける女は、この男が元は軍人だと言う情報を実感していた。行動のいちいちが洗練されているようでいて、その実、全く隙が無い。突然の襲撃にも確実に対応できるだろうし、コートの下にはガンベルトが隠されていることも分かる。この国で銃を持ち歩くのは御法度だが、あの風体でありながら、警官に職務質問を受けるような雰囲気でもない。この国では歓迎される、分かりやすい白人の上流の男に見える。無免許医の女の方が警官の点数稼ぎの的になるだろう、と思った。
 キリコはジュラルミンケースを片手に悠然とメインストリートを歩く。途中で観光客に道を聞かれ、丁寧に教えてやっていた。ロンドンの道にも明るいようだ。
 やがてキリコは大英図書館に入った。通常の利用者だけではなく観光客も多く、女にはうってつけの環境だ。女が驚いたことは、事前の利用登録が必要な閲覧室にキリコが難なく入って行ったことだった。慣れた様子に何度もここに来ていることが窺える。女も仕事上、過去に手続きを済ませて入手している登録証を見せて後を追った。
 死神は本を探しに行く以外に席を外すこともなく、本当にシンポジウムの資料作りをしているように見えた。時たま自分が持ち込んだ日本語の本に目を落とし、他の本の情報と照合しては手元のノートに書き込んで行く。女は本を読む振りをしつつ監視を続けたが、こんなに楽で良いのかしら、と自分の今日の仕事に疑問を持ちそうだった。
 昼が近くなり、利用者たちがランチについて考え始める頃、キリコは本を片付けて立ち上がる。そして様子を窺っていた女に近付いた。女が驚く前に死神は微笑み、図書館に相応しい穏やかな声で言った。
「マタ・ハリにご挨拶を」
 女は数秒考え、諦めて溜息をつき、カモフラージュ用の本を閉じた。
「私の女王がジェイムズ・ボンドとのデートに飽きるまで、カフェでお茶でもお付き合い頂けませんか?」
 断る理由はなかったし、断る勇気もなかった。優しい言葉で礼儀正しく女性を誘う死神のひとつだけの青い瞳が、明らかに敵を見るものであったのだから。


 女は同僚の男がBJに付き従って歩きながら抱えている本の山を見てうんざりし、男は同僚の女がキリコと同じテーブルで、11時のお茶にしては高級なスイーツにしっかり手を付けている姿にうんざりする。オープンカフェで遭遇した──キリコとBJがあらかじめ待ち合せ場所に決めていた──二人のMI6局員は、今日の報告をしたらどれだけ局長の不興を買うだろうかと暗鬱な気持ちになった。
「どうだった、先生。楽しかっただろ」
「つまんねえことしやがって。後でホテルで食べてやるよ」
「素直に喜びなさいって。──そちらはジェイムズ・ボンド?」
「そう。私のためにこんなに本を買ってくれたよ。素敵なスパイだね」
「それはどうも。俺のクイーンのためにわざわざお付き合い頂いて」
 キリコは立ったままの彼に握手をする素振りを見せたが、「荷物でいっぱいだね」とわざとらしく笑って手を引っ込める。
「こちらはボンドガール?」
「そんな添え物じゃ失礼だ、マタ・ハリだよ。先生がいない間、俺が寂しくないようにずっと一緒にいてくれたんだ」
「こんな綺麗なおねえちゃん、随分役得じゃないか。──ドクターの世話をありがとう。こいつ、こう見えて寂しがり屋でね」
 BJが手を差し出すと、女は「どうも」とだけ呟いて握手をせずに席を立つ。男をひとつ小突き、本は後からホテルに送らせるわ、と忌々しげに吐き捨てて速足で歩き去ってしまった。男は溜息をつき、BJに「楽しかったよ」と言って女の後を追う。
「あの女、払わないで行きやがった。経費で落ちるくせに」
 ウェイターを呼ぶサインを出しながらぼやくキリコにBJは笑い、女が座っていたソファに腰を下ろす。心得たウェイターは女が手を付けていた食器を片付け、キリコがBJの紅茶とケーキを注文している間に、ソファの隙間に素早く手を押し入れた。
「失礼、誰かの忘れ物みたいなんだ。そちらで預かって差し上げて」
 戻した手にあった物をウェイターに渡す。ウェイターは笑顔で受け取った。
 BJがランチ前の紅茶とケーキを味わい始めた頃、鬼の形相のマタ・ハリが再度来店し、店が預かっていた小型の盗聴器を奪い返して帰って行った。
「あいつじゃボンドガールが精々だ。女スパイにゃなれないね」
 したり顔で言うBJにキリコは軽く笑うことで同意し、ランチの店はどこにしようかと考え始めた。
「先生、何食べたい」
「ボンカレー」
「ちょっと無理だな。どうするかな、この国のランチじゃ軽食になるけど」
「──ルームサービスでディナーを食べておかないか?」
 BJの言葉の意味を、キリコは「うん?」と返事をしながら素早く考える。ディナーと言うと夕食を指すことが多いが、この国では一日で最も重視した食事をディナーと称することもある。BJはランチタイムにしっかりした食事をしてしまおう、と言ったのだ。つまり、夜にゆっくり食事をする時間がないと言うことか。
「それもいいか。夜の予定は任せた」
「楽しい夜になる」
 紅茶を飲み干したBJは、キリコに向かってにんまりと笑ってみせた。
「夜はアンディと三人で遊ぼう。きっと楽しんでくれる」
「──俺も楽しみだよ」
 この笑い方の時だけはどうしても可愛いと思えない。夜に会うはずのアンディに、キリコはつい同情したくなってしまった。彼がろくな目に遭わない未来が簡単に予想できた。


 ろくな夜にならない。アンディはうんざりして両手を挙げた。特殊部隊員とはいえ、銃を携帯しているとはいえ、正面のベッドからBJに銃を向けられ、後頭部にキリコに銃口を押し付けられてはたまったものではない。
「先生が寝込んでるなんて言うからさ。見舞いに来たらこれかよ。しかも何だよ、ドクターのその押し付け方が本職っぽくてすげえ嫌だ、隙が無さすぎて反撃できない」
「訓練の賜物だ。軍医でもしっかりやるんだよ」
「アンディ、とりあえず脱げよ。三人で楽しく遊ぼう」
 ベッドの上のBJが笑顔で言った。盗聴器の向こうでは驚いているかもしれないが、BJの言う意味が分かったアンディは「ああもう!」と完全に降参の声を挙げた。隠し持った銃を没収されるだろうということと、裸にされた人間が抵抗心を奪われると知ってのことだった。
「分かった、脱ぐよ。でも何でここなんだよ」
 盗聴器、とアンディは唇を動かす。するとBJはあっさりと言った。
「ああ、盗聴器? 別にいいだろう。私もキリコもMI6とSASの対立なんざ知ったこっちゃねえんだよ」
「──ちょっと待って、何それ、あのさ──」
「早く脱いでくれ、お喋りアンディ」
 キリコに銃口を更に強く押し付けられ、特殊部隊員は今度こそ罵りの言葉を吐いた。昨日BJに同情したことが間違いだった。夕方からまた思い出して寝込んでいるから顔を見て話をしてやって欲しい、とあの店でキリコに言われ、つい同情心で油断した。普段のアンディなら絶対に有り得ないミスだった。
 脱いだ時点で反撃は諦めた。銃を置いてベッドから降りたBJが、注射器を片手に笑顔で「お注射しますねぇ」と近寄ってくれば当然の選択だ。だがBJであることに安堵した。この女なら自分が死ぬような薬を投与することはないはず。
「喋らせる系? 動けなくする系?」
「おまえさんなら勝手に喋るだろ」
「じゃあ動けなくする系? 筋弛緩剤か。──俺、注射嫌いなんだけど」
「あらぁ、お注射嫌いでちゅかー、ちょっとちくっとしましゅよー、我慢でちゅよー」
 わざとらしい赤ちゃん言葉でアンディの成人男性としての尊厳を踏みにじり、キリコを笑わせながら、BJは手早く注射を済ませる。アンディはもう諦めていた。死ななければどうにでもなる。キリコに腕を後ろ手に縛られ、ご丁寧に親指同士もまとめて固定された上に、更に足首を縛られて、とどめとばかりにロープで腕と足首を繋げられた。軽い海老ぞり状態で床に転がされる。さすが高級ホテルのメイン寝室の床だ、毛足の長い絨毯だ。こんな状況で堪能するとは思ってもみなかった。
「あれ」
 使用済みの注射器を片付けながらBJがふと言った。
「アンディ、体重は?」
「10ストーン」
「イギリスの単位はめんどくさいなあ。ええと、大体70キロか。見た目より重いんだな、筋肉か。──キリコ」
「うん?」
「これ」
 空になったアンプルをキリコに見せる。キリコが「おや」と眉ひとつ動かさずに、アンディにとって恐ろしいことをさらりと口にした。
「70キロには多過ぎる。医療ミスだ」
「パンクロニウムだったら?」
「死ぬ」
「──あっさり言うな!」
 流石にアンディは叫んだ。世間話の延長のような雰囲気の中で自分の生命を奪われてはたまったものではない。急激に心拍数が上がり、どっと汗が噴き出た。筋弛緩剤の恐ろしさは良く知っている。適した使い方をすればこの上なく有用な医薬品だが、間違えれば簡単に人を殺す毒薬になるのだ。
「ふざけんなよ、パンクロニウムって何だよ!?」
「俺がおまえたちに頼まれた仕事に使う予定だった薬だよ。パンクロニウムってのは筋弛緩剤の一種でな、適量なら3分から5分で効果が出る。アメリカじゃ死刑にも使われる安心安全高品質のお薬だ」
「──クソッタレ!」
「怒鳴るな、うるさい。余談だがパンクロニウムには解毒薬もある。まあ、今はそんな話はつまらない。俺たちと楽しくお喋りしよう、アンディ」
「お喋りは得意だろ。さっさと話しな」
 BJがベッドボードに置いてあった菓子の箱から焼き菓子を取り出して口に入れ、この状況には相応しくないほど嬉しそうに「美味しい!」と言った。キリコが空港のロッカーに入れておいた菓子だとアンディには分からなかったが、その菓子が今度BJに買ってやろうと思っていた苺のショートブレッドとレモンクッキーだったことに気付き、憮然として「何を喋らせたいんだ」と呻いた。
 キリコが銃を向けたままベッドに腰掛ける。その隣に焼き菓子の箱を持ったBJが座った。
「本名は──まあ、特殊部隊員だもんな、勘弁してやる。所属、階級と軍籍番号。正確に」
「第22SAS連隊A中隊、軍曹、軍籍番号──」
「もう一回」
「第22SAS連隊A中隊、軍曹、軍籍番号──」
「OK。次。年齢は?」
「その質問には答えられません」
「今回、SASから出向しているのはお前だけか?」
「その質問には答えられません」
「そもそもこういう仕事はSASの任務内容じゃないはずだ。MI6からの依頼か?」
「その質問には答えられません」
「何こいつ、馬鹿かよ」
 BJがレモンクッキーを齧りながら不平を漏らしたが、キリコが「そうでもない」と言った。
「優秀な軍人。ビッグフォー以外は答えないで救助を待つ、正しい軍人の姿」
「ああ、名前と何とかと──さっき聞いてたやつか。救助を待つのはいいとしても、来るまでにくたばりそう。発汗が凄いし呼吸も上がってるし、心拍数も結構キてるだろ、アンディ?」
「その質問には答えられません」
 アンディはBJを睨み付けた。やだぁ、こわーい、とわざとらしく可愛い声を上げ、BJがにやにやと笑う。
「次の質問だ、アンディ。この部屋に盗聴器を仕掛けたのは本当にMI6か?」
「その質問には答えられません」
「次。MI6の局長があの店の店長の従弟で、店長は元IRAだったことを知っているか?」
 初めてアンディの答えが詰まった。キリコは続けた。
「元IRAの経歴を消すために局長が手を回したことを知っているか?」
 アンディは答えなかった。心拍数が一気に上がった気がする。信じられなかった。同時に凄まじいまでの屈辱感、怒りが沸き上がる。歯軋りをした。俺は──俺たちはそんなことで──
「あの店を連絡先に指定したのは局長か?」
「……その質問には答えられません」
「──次。おまえたちが暗殺したい政治家にはIRAとの繋がりがなく、局長の不正を嗅ぎ付けて独自に調査している立場だと言うことを知っているか?」
 アンディは黙り込んだ。呼吸、心拍、発汗、もう限界だ。ちくしょう、ちくしょう。何度も心の中で絶叫した。口から出た言葉は別のものだった。最後の、おそらくは最期の力を振り絞って絶叫した。
「その質問には答えられません!」
「そうか。じゃあ最後の質問だ」
 キリコが銃を降ろした気配が分かった。もう俺は死ぬんだろう、とそれで知った。警戒を解かれたならそう言うことなのだろう。
 死神はゆっくりと言った。
「この部屋の盗聴器は全部取り払ってあることと、俺たちの銃に弾が入っていないことと、おまえに注射したのはただのビタミン剤だと言うことには気付いているか?」
 空耳かな。アンディは思った。ばり、とBJが焼き菓子を齧る音がした。キリコが俺にも頂戴と言っている。すぐにまた、ばり、と言う音と、これ美味いな、こっちも美味しいから食べろよ、という呑気な会話が聞こえた。
 アンディはようやく答えた。
「その質問には答えたくありません」


「私は一言もパンクロニウムを注射したなんて言ってない」
「あの流れならパンクロニウムだと思うだろ……」
「この量のパンクロニウムを注射したらどうなるかな、ってキリコに訊いただけ」
「発汗とか動悸は? ビタミン剤じゃあそこまでならないだろ」
「プラセボ効果って言うのがあって。要は思い込み」
「……駄目だ、俺、精神的訓練またやり直さないと駄目だ……」
 テラスで夜風と軽食を楽しむ気分になれるはずがない。カウチに並んで座って酒を飲み、軽食をつまむ二人を前に、アンディはうなだれるしかなかった。
「盗聴器、いつ外したんだ」
「おまえさんが来るちょっと前。そもそも外したのは私たちじゃないよ」
「え?」
「バトラー。あの人、多分元軍人か何か。夕方にいきなり『外してもいいか』って訊かれてさ。渡りに船ってことで頼んだんだ」
 説明するBJの横でキリコは頷き、その話をして来た時のバトラーを思い出していた。以前より気付いてはおりましたが、と彼は言った。
 ──気付いてはおりましたが、国家の方針と思って目を瞑っておりました。しかし昨夜、お客様が酷く困憊なされておられたのは盗聴器の件に無関係ではないと感じましたし、それ以前に、お二方様は会話にいつもお気をお使いでおられました。
「プロ魂ってやつだな。素晴らしいバトラーだよ」
 ──おくつろぎ頂くのが当ホテルの役目であり、誇りでございます。出過ぎた真似ではございますが、何卒勝手をお許し願えますでしょうか。全てわたくしが外します。お二方様は何もなさらなくて結構でございます。全てわたくしの一存ということに。
「しかも外す時にさ、盗聴器に向かって怒鳴ってんの」
 BJもバトラーを思い出し、笑った。彼は最初のひとつを外す時、盗聴器に向かって怒鳴りつけたのだ。──「私のお客様を煩わせるな、ドブネズミ!」
「アンディ、またホテルを手配する時はゴーリングじゃなくてこっちにしろよ」
「もうしないよ。こんな仕事、二度としたくない。って言うか──バトラーの名前、何て言うの。盗聴器に気が付くなんて普通の軍人だと思えないよ」
「確か──」
 キリコがその名前を言うと、アンディは「神様!」と叫んで背もたれに倒れ込んだ。
「俺の大先輩」
「え?」
「SASだよ。70年代のオマーンの内戦に参加してて──嘘だろ、あの人かよ! そりゃ盗聴器なんてすぐ分かるよなあ!」
 BJとキリコはすぐに信じることができず、顔を見合わせてしまう。ちょうどそこへ御用聞きにバトラーがやって来たものだから、更に顔を見合わせてしまうことになる。
「アンディ、彼に言ってもいいのか?」
「いいよ、もう。薄々分かってんだろうし?」
「──彼、本名は知らないけど。あなたの後輩だって言うんだ」
 するとバトラーはにこりと笑った。
「私が退役した日に入隊したのですが、背伸びして強がって、私に喧嘩を売って来たことをよく覚えております。結果は──彼の名誉のためにわたくしからは控えましょう」
「ああ……!」
 アンディは顔を真っ赤にし、椅子の上で激しく悶え、その話が真実だと二人の闇医者に教える。BJは遠慮なく大笑いし、キリコは「ああ、そういう奴もたまにいたなあ」と自分の記憶を懐かしみ、バトラーはアンディの頭を子供にするようにひとつ撫でて、御用があったらお申し付け下さい、と言って場を辞したのだった。
「全く、なんて日だ」
 嘆くアンディに笑い、キリコは話を戻すことにした。
「実際、SASとMI6がどうして連携した? 情報部と特殊部隊が関わるなんて滅多なことじゃないはずだ」
「簡単な話だよ。俺たちは情報が欲しい。はっきり言えば人手不足で、情報収集の担当部署がうまく動かない。でもIRAはそんなこと、考えちゃくれない」
「だからMI6から情報が欲しかった?」
「そういうこと。前々から要請してたんだけど、中々うまくいかなくて。それが今回の件で、MI6の局長が話を持ちかけて来たんだ。今回の件を片付けたらうちと正式に連携するって。うちの責任者もOKした。それで俺が来た」
 キリコは相槌を打ちながら聞いていたが、アンディの話に大きな嘘はないだろうと感じた。軍人でもない自分たちに散々酷い目に遭わされ、バトラーにとどめを刺されている。自暴自棄に近い気持ちで、そして自分でも気付いていないだろうが、積み重なったストレスが捌け口を求めているはずだ。
「あの店を連絡場所に指定したのは局長だ。俺の仕事は先生とドクターの監視と護衛、それから──実行した時の後始末」
「後始末」
「うん」
「具体的には?」
 キリコの問いに途端に剣呑な顔になったBJがアンディを見た。おそらく予想されただろうと知ったアンディは肩を竦め、素直に答えることにした。
「ドクター・キリコを事故に遭わせる」
「SASの無駄遣いだな。俺はそんな大物じゃない。──先生、いいから」
 怒り顔で口を開きかけたBJの唇に指を当て、黙らせる。BJが腹立ち紛れにキリコの指に噛み付き、思わずキリコは「いてぇ!」と悲鳴を上げてしまった。アンディは呆れるしかなかった。
「俺が言えるのは大体ここまで。細かいことは質問してくれれば」
「そうか」
「逆に俺からも聞きたいことがいくつかあるんだけど、いいかな」
「答えるとは限らないが、どうぞ。──って、くそ、先生、随分強く噛んだな。血が出て来た、消毒してくる」
「舐めときゃ治るだろ」
「医者の台詞じゃないだろう」
 医療道具を置いた寝室にキリコが消えると、アンディはBJを見た。出来上がってないなんて嘘だ、と思った。──ほら、今だって、ドクターが寝室に入るまで見送ったりしちゃってさ。そんなの、愛してない相手にするこっちゃないだろう。
「先生」
「ん?」
「どうして、ドクターの代わりにやろうと思ったんだ」
 質問するだけ馬鹿馬鹿しいかもな、と思いながらも訊かずにはいられなかった。馬鹿馬鹿しいと分かっていても訊きたかった。あんな状態になってしまうほど、口にも出したくないはずのことを口にしたのはどうしてなのか。寝室に入るキリコを見送ったことと、それはきっと同じ感情なのだろうと。
「女王と騎士の国だ」
「──え?」
「騎士は女王を守る」
「そうだね。ドクターは素敵な騎士だった?」
「それはもちろん」
 BJの口元が綻んだ。ああ、とアンディは思った。ああ、綺麗だな。この人、凄く綺麗だ。
 それからBJは言った。アンディが初めて聞く、どこか甘やかな声だったかもしれない。
「騎士が倒れた時、今度は女王が騎士を守るんだ」
 忠誠を捧げた騎士が倒れた時、守られ続けた女王が忠誠に報いるために前に出る。ただそれだけのことだ。BJはそう話した。
 アンディは何も言えず、ただこの女が綺麗だと思って眺めていた。
 夜風が吹き抜け、女の二色の髪を揺らす。
 先生、とアンディは言いそうになった。先生、ごめんね。もう一度謝りたくなった。
「先生」
「ん」
「俺──」
 アンディが居住まいを正した次の瞬間、BJの大笑いが夜のテラスに響いた。
「そんなわけあるか、バーカ!」
「は!?」
「ないって、絶対ないって! 騎士が倒れたら女王が守るとか! ないって! ああ、おかしい! 私とキリコが! ふざけんなって!」
 カウチのクッションに埋もれるように引っ繰り返り、腹を抱えてBJが笑う。アンディが唖然としている間に何とか笑いを収め、それでもまだおかしくてたまらないのか、くすくすと笑いながら起き上がる。
「無理、笑える、おかしい。ちょっと酒取って来る。ああ、おかしい」
 まだ笑いながらBJがミニバーへ向かうと同時に、寝室からキリコが出て来た。BJの様子に気付き、何を笑ってるんだと言いながら一緒にミニバーへ行く。だってアンディが、とBJが笑いながら何か言っている。そのうち声は聞こえなくなり、アンディは煙草に火を点け、しばらく待つことにした。どうせキスでもしてるんだろう、と思いながら夜空に煙を撒き散らした。
 アンディの予想を裏付けるがごとく、キリコと共に戻って来たBJの顔が少し上気して、先ほどよりも更に近い位置に座って──むしろ男に身体を預けるように座って、男は嫌がる素振りもない。無論指摘するほど特殊部隊員は野暮ではなかった。
「盗聴器が取っ払われて、MI6も黙っちゃいないだろう。遅くても明日の朝には何かあるかもしれない」
 アンディの心配に二人の闇医者は頷く。アンディは個人的に心配していたことを続けて言った。
「先生のお嬢さんに何か、っていうのはまだ考えにくいけど、このままじゃ──」
 MI6は日本にも手を回し、BJの愛娘を監視している。監視と言えば聞こえがいいが、つまりは人質だ。初めてBJにその話をした時、可哀想なほどに彼女が必死で怒りを抑えた姿を見た。思い出すだけで気の毒になる。
「ああ、それ」
 ところがBJは「そう言えば説明してなかった」と言わんばかりの顔をする。
「こっちの時間で明日の朝──もう今日か。もうすぐ、MI6の手が及ばない人の家に行く予定だよ」
「──もう驚くのも飽きたよ。説明して」
 今日何度目かも分からない降参を示したアンディに、BJは笑ってみせる。
「やられっ放しで済ませるもんかよ。昨日、日本の知り合いに電話して『私が帰るまでくれぐれも良く面倒を見てくれ』って頼んでおいたんだ」
「それは知ってたけど誰に頼んだのか知らない。誰」
 ブランデーを楽しんでいたキリコが問う。BJはあっさり「前に診てやった患者」と答え、その名前を言った。ああなるほど、じゃあ安全だ、とキリコは納得して頷き、アンディに「日本最大のヤクザの組長」と教え、アンディはもう驚くことを完全に放棄して「あっそう」と適当な返事をした。モグリの無免許医の人脈を考えるのも面倒になった。
「それがあるから先生が我が身を犠牲にした大芝居を打ったんだよ。思ったよりダメージがでかくて大騒ぎになったけど」
「名演技だったろ」
「感動したね。いいもの見せてもらったし、鎮静剤は無料にしておいてやる」
 キリコが悪夢から目覚めた時、BJの手によって大判の膝掛がかけられていたが、その裏側にメモがピン留めされていた。──「Pinoko Safe」。娘の安全が確保できたというメッセージだった。
 アンディには言わないが、キリコは後悔していた。自分があの時間に眠り込まなければ、BJはキリコの代わりに自分が殺す、などと言う必要がなかったのだ。BJの演技はMI6が娘を人質として使えなくなる前に日程を確実に決め、信用させるためだった。だがあれほどの変調をきたす苦痛であったことは、キリコに深く後悔させるには充分すぎた。俺が起きるまで待って相談すりゃあ良かったんだ、と苦々しく思う。
「日程が決まったら、知り合いに頼んで暗殺対象を国外に出してもらうつもりだったんだよ。そうすりゃ私とキリコはどう考えたってお役御免だ。実際に手を下すつもりなんかさらさらなかったね」
「知り合いの名前を聞いていいの?」
「──結局連絡すらしなかったんだから、必要ないだろ」
 珍しく言い澱んだBJに、ああ、あいつかな、ってことは脱獄なり司法取引なりで生きてんのかな、とキリコは予想した。確認するつもりはなかった。必要ならBJが教えたはずだし、そもそも興味を持ちたい相手でもなかった。
「先生の事情はそういうことだ。──で、これに繋がった。これは俺が1万ポンドで買った」
 キリコは寝室から持って来ていた書類をアンディに渡す。情報屋から買った内容を目にしたアンディは深く溜息をついた。
 局長とパブの店長の関係、それにまつわる不正、MI6の幹部二人はそれをおそらく知っていたこと、局長とIRAに癒着の形跡があること、その他、明るみに出れば大騒動になるに違いない情報が事細かに書かれていた。
「領収書があったら俺の中隊宛てに送って。上と掛け合って経費にする」
 闇商売に領収書などあるはずがない。アンディのそれは「よくここまで調べたな」という称賛だった。
「でも、何で調べようと思ったんだ?」
「さっきも言ったが──MI6とSASが本来連携するような件じゃない。出向しているのがおまえ一人。これだけで充分おかしい」
「元軍人の勘か。ドクター、結構深いところにいたんじゃない?」
「その質問には答えられません」
 三人は同時に笑う。特にアンディは苦笑する。
 空が白み始めていた。随分長く話し込んでいたことに気付く。他にアンディがいくつか質問し、BJとキリコがそれに答え、酒もあらかたなくなった頃、アンディは暇を告げた。
「先生とドクターはこれから寝るの?」
「だな。流石に疲れた」
 BJが初めて疲労を思い出して伸びをする。かなりの酒量も急激に眠気を引き起こしていた。キリコも同様だ。
「じゃあ、起きた頃にはすっかり片付いてるよ。それからあの店にはもう行かない方がいい」
 軍人の顔になり、特殊部隊員は言った。BJとキリコは疑う余地を持たず、その申し出に頷いた。また連絡する、と言ってアンディは夜のロンドンに消えて行った。


 9時を回る頃、キリコがBJよりも先に目を覚ました。眠る時も外さない腕時計を見て時間を確認し、それなりに眠れたと満足する。BJはまだ深く眠っていた。数秒考え、髪に唇を落とし、まだボーダーラインで遊びを続けようと決めた。
 眠らせておいてくれたバトラーに電話をし、テラスに簡単な朝食を用意してくれるように頼む。シャワーを浴び、そしてこのホテルに来て初めてテレビをつけた。先日のカフェ爆破のテロに関してIRAが声明を出していた。この国の混乱はいつまで続くのだろうかと思う。
 MI6に関わるニュースは特になかった。表に出せるものでもないのだろう。しばらくするとBJが起きて来て、寝惚け眼のままキリコにキスをし、まだ遊びを続けても良いのだと教えてくれた。
 テラスで遅い朝食を取りながらシンポジウムの資料について話し合う。キリコが図書館で調べた内容についてBJが質問し、ああそうか、じゃあそれなら──そんな話をしていると電話が鳴った。アンディだった。終わったよ。ありがとう。シンポジウム頑張ってね。それだけ言って電話は切れた。これ以上は知ることができないのだろう、と二人は理解した。二度とアンディに会うこともないのかもしれない。
 ほどなくしてバトラーが「お届け物です」とワゴンに大量の本を載せてやって来た。昨日MI6の経費で買い込んだBJの本だ。BJは大喜びだった。
「無能なジェイムズ・ボンドとデートして良かった、大儲けだ!」
「凄いな。最新書ばっかりだ」
「日本で翻訳版が出るまで待ってられないよ。元々買うつもりだったんだ。あのメモがあって良かった」
 メモと言われてキリコは笑う。焼き菓子と一緒に入れたカードには、「ジェイムズ・ボンドとデートをしても怒らないよ」と書いておいたのだ。尾行がつくと分かっていたからこそのメッセージだった。それにしても、尾行を逆手に取ってこれだけの買い物をさせるとは。ざっと見る限り、日本円にして20万は下らない書籍代になる。MI6の経理はさぞ眉を顰めることだろう。
「これは?」
 本の他にひとつ、箱を見付けた。開けようとするとBJが慌てて奪おうとする。察したキリコは身長差にものを言わせ、箱を高く上げてそれを阻止した。
「返せよ! 馬鹿キリコ!」
「見られて困るようなものを買う先生が悪い。何これ。シューズボックスだな。──またあの色気のない靴かよ」
「分かってるなら返せって!」
「ストラップの調整してやるから。先生、たまに緩くてかぱかぱ言わせてるじゃないか」
 BJの靴はいつもストラップのついた、ヒールのないパンプスだった。機動性を重視しているためだということはよく分かるものの、女子学生じゃあるまいし、とキリコは密かに思っていたものだ。
「いいからもう──開けるな! 馬鹿!」
 なぜか必死で止めようとするBJの態度に悪戯心が更に刺激され、箱を開ける。またあの色気のないいつものストラップパンプスか、と予想して中を見て、思わず「え」と間の抜けた声を出してしまった。飛び上がるようにBJが箱を奪い、顔を真っ赤にして怒る。
「関係ないだろ! 馬鹿キリコ! 早漏!」
「言い飽きたが早漏じゃないからな。──何それ、先生が履くの?」
「履かない!」
「じゃあ何で買ったんだよ」
「履かない、──履かない! 関係ない!」
 BJの反応が面白くて、そして可愛くて、キリコはつい笑ってしまった。その笑いに馬鹿にされたと思ったBJはまた怒り、履かない、と何度も言う。余りにも顔を赤くし、涙目にさえなっていて、キリコは少しからかいすぎたと反省した。それでも緩んだ頬を引き締めることができなかった。
「似合うよ。絶対だ」
「履かない」
「履くから買ったんだ、そうだろ?」
「……履こうと思った、けど」
「けど?」
 BJの手の箱から靴を取り出す。BJは逆らわなかった。似合うよ、ともう一度言うと、分かるもんか、と減らず口が返って来た。
「……そんなの履いて、まともに歩けるか分からない」
「練習すればすぐだよ。素敵な靴だ。先生が選んだの?」
 この女がダークベージュの靴を履いている姿など見たことがない。しかも細くて高いヒールなどと考えもしなかった。でも、と思った。──でも、俺が買ったあの服に最高に似合うだろう。
「選んだのは私じゃない」
「店員?」
 するとBJはくいと高慢に顎を上げ、キリコから靴を奪い返して言った。
「無能なジェイムズ・ボンド。随分熱心にアドバイスをくれたよ」
「──よし、先生、それは駄目だ。履くべきじゃない。俺と買い物に出掛けるべきだ」
「そんな暇があるならシンポジウムの資料を作らないと」
「駄目だ。──頼むよ、クイーン。そんな靴なんて履くな」
 また靴を奪い、今度は遠くに投げ捨てて、クイーンと呼んだ女を両腕で抱き寄せる。女は笑い、どうしようかしら、と言ってあのボーダーラインに一緒に立った。俺に買わせてよ、と額を合わせて囁くと、女は答えず、代わりに声無く満足そうに笑う。そのまま唇を合わせた。触れるだけのキスを何度も繰り返し、やがて深く、まるでリネンに埋もれて愛情を確かめ合う時のようなそれに変わる。幾度もキスを繰り返して、キリコはBJを抱き上げた。
「バトラーが来たら?」
「あの彼が邪魔をするはずがない」
 寝室のドアを蹴って開け、二人は笑いながらベッドに沈む。ひとしきり笑ってまたキスを繰り返した。
 やがてBJが笑いを収め、女が男を待つ顔でキリコを見上げる。キリコは不意に見せられたその女の顔に微笑み、今までよりも深い口付けを与えた。
 深く合わせた唇の隙間から湿った吐息と濡れた音が漏れる頃、BJが僅かに身を捩り、身体に熱が産まれたことをキリコに教えた。男として喜ぶべきその反応に満足し、熱を共有するためにリボンタイに指をかける。
 その時だった──ベッドの横の電話が無情にも鳴り響いたのは。
 神よ、とキリコは呻き、BJの上にばたりと倒れ込んだ。BJは「重い」とキリコを乱暴に押し退け、するりとベッドを抜け出す。電話なんか無視すればいいとは言えなかった。アンディからの連絡かもしれないし、他の重要な連絡があってもおかしくない状況なのだから。
「Hello──え、どうしたんだ!」
 だが予想に反し、BJが弾んだ声を挙げた。
「え、そうなの。──何時? 直行便? すごい! うん、待ってる。迎えに行くから。凄い部屋に泊まってるぞ、おまえさんも絶対楽しめるから!」
 キリコは緩慢に起き上がり、苦笑しながら煙草に火を点けた。この女といると本当に苦笑ばかりだ。だが今の苦笑は自分でも分かるほど、なぜか楽しそうな笑い方だったと思う。
 電話をしているBJは本当に嬉しそうだ。ああ、可愛いな。キリコはそれで満足した。どこかで、一線を超えなかったことに安堵した自分もいた。
「21時にヒースローだ」
 電話を切り、灰皿をキリコに手渡しながら、BJが弾んだ声のまま言った。
「訊く必要もなさそうだけど、誰」
「あの子! あの人が飛行機に乗せてくれるって!」
「それは良かった」
 キリコが微笑むと、BJも嬉しそうに微笑み返した。
「買い物に行きたい」
「お嬢ちゃんの着替えやら何やら、あれこれを買うんだろ。分かってますって」
 気の利く男はしっかり理解していて、理解されていることが分かって、BJはまた笑う。
「それもそうだけど、でも」
 不意にBJがはにかむような顔をした。キリコが思わずまた、可愛いな、と思ってしまう顔だった。
 そしてBJは言った。
「靴を買ってくれるんでしょう、マイ・ナイト」
 まだボーダーラインの上で遊びましょう。女はそう言っていた。男はひとつ笑ってみせる。
 これは遊びだ。ボーダーラインの上だけでできる遊びなのだ。忘れそうになったら酒を飲もう。そう思った。──酒を飲んで酔って、酔ったからボーダーラインに立って遊べるんだ。
「クイーンのために最高の靴を探さないとな」
 女王と騎士の国で演じて遊ぶ。もう少し同じ時間を過ごす中、きっと楽しめることだろう。彼女は女王様、俺は騎士、それからあの子は何だろう。これから訪れる幼女の姿を思い浮かべながら、キリコは煙草を灰皿に押し付けた。