せめて代わりのホテルの手配を任せて欲しい、荷物も全てこちらでまとめて運びたい、と支配人が申し出た。彼の顔を立てる意味でBJがそれを受け入れたため、キリコは彼の申し出を拒否することができなくなった。上階のラウンジに移動して待ってはどうかと支配人に打診されたが、面倒だとBJは言い、勝手にロビーの一番端、相当混雑しても誰も行かないほど奥まった場所に腰を落ち着ける。キリコに隣に座るように促し、僅かに笑ってみせた。
「おまえさんにこんなことで礼を言うとは思わなかった。ありがとう」
「俺から謝る機会を奪うな。罵れよ。期待してるんだ」
「アンディが喜びそうなプレイになっちまう。やめとくよ。──そういえば、ホテルを移ったらアンディに連絡した方がいいのかな」
「俺がしておくよ。先生は早く寝た方がいい」
「ああ、そう。よろしく」
それからBJはロビーの時計を見る。22時だった。日本じゃ朝の6時か、あの子、もうすぐ起きるだろうな。BJが呟き、早起きな子だな、とキリコは言った。そのうちフロントでの騒ぎを見守っていた客たちが数人、勇気を出した顔をしてから声をかけて来る。誰もがBJを励まし、キリコを讃え、みんながあんな考えじゃない、もうそんな時代じゃないんだ、元気を出して、と懸命に言いたがった。BJはいちいちそれに返事をし、礼を述べ、たまにハグに応えて彼らを安心させてやっていた。
しばらくした頃、あの老夫婦がまだロビーにいることに気付いた。紅茶を前に少し休んでいる風体だった。彼らなりに疲れる体験であったことは確かだろう。キリコはもはや関わるつもりもなく、あれだけ対応を急いだくせに、とちょっとした溜飲を下せたような気がした。
「荷物もいらないんだけどなあ。パスポートと査証と鞄だけあればどうでもいいし」
BJの足元にはいつもの医療鞄がある。そういえばあの店でも、そしてMI6とSASの男たちと話をしたあの部屋でも、必ずこの医者はこの鞄を携えていたことをキリコは思い出した。
「そりゃいいけどさ、着替えはどうするんだ」
「買えばいい。そんなもんだよ」
「──たまには違う服も買えば? 気分転換になる。ツイッギーが訪日した時みたいなノースリーブとミニスカートもいいんじゃない?」
「想像するだけで我ながら怖気が立つ。絶対に似合わない。歳も歳だしどんな化け物だ」
「似合わなくても笑わないでおいてやるよ」
「私が好きじゃないんだよ」
「ん?」
「どんな女でもそんな服を着なくちゃいけないのか」
その言葉にキリコは黙り、だがどうしても言いたくて慎重に言葉を探す。彼女の言葉には嘘がなくて、だからこそ自分も嘘をつきたくなかった。
「俺の好みの話だ。女性が着てたら嬉しいってだけの話だよ」
BJは返事をしなかった。キリコは煙草を咥え、火を点けてから、思い出した振りをして煙草の箱をBJに向ける。BJが手を延ばしたのは箱ではなくキリコの口元で、煙草を奪い、一口だけ吸って、また男の唇に戻した。
「お美しい白人女優なら別だけど、こんな醜いツギハギの日本人女が騒ぎを起こして支配人を煩わせた挙句、ロビーで煙草を吸うなんてできるかよ。私はともかく支配人に悪いだろ」
だから後で、とBJは言った。ああそう、としかキリコは言えなかった。
「今更言いたくないが、何でこのホテルにしたんだ。こうなることが分かってた?」
「おまえさんが騎士道精神に目覚めるのは予想外だったけど、まあまあ分かってたし、初日からずっとこうだったよ」
「他のホテルは考えなかったのか?」
「最初は本当にシンポジウムのために来てたから、自分で手配していつもの安宿だったんだ。でも巻き込まれてからアンディが手配しやがったのがここ。関わる以上、このランクのホテルが最適だよ」
「否定できないのが辛いね。そう考えるとここのホテルは悪くない。盗聴器以外」
「次だって、そこそこのホテルならどうせ仕掛けられてるよ」
「そうだろうな。嫌な時代だ」
「お二方様、代わりのホテルのお手配を完了致しました」
わざわざ二人の席まで来た支配人に呼ばれ、二人は顔を上げる。支配人の後ろにはBJの部屋から荷物を纏めて運んで来た女性の室内係が立っていた。
「ハザマ様のお部屋のものは全て、彼女がまとめました。誓って申し上げますが、お客様の尊厳を傷つけるような真似は一切しておりません。彼女はその道のプロフェッショナルでございますので」
室内係はBJに丁寧な挨拶をし、残念なことになりましたが、いつかまた必ずお目にかかりたいものです、と言った。BJは彼女に短く礼を述べ、支配人にもマナーより少し丁寧な感謝の意を伝えながら医療鞄を携えて立ち上がった。
「次のホテルの車がお迎えに参っておりますので、恐れ入りますが正面玄関までご足労下さい」
「どこのホテル?」
手を出しかけた支配人を制してBJの手から医療鞄を取り、キリコは問う。
「フォーシーズンズを手配致しました。あちらの支配人によく話をしておきましたので、どうぞおくつろぎ下さい」
「それは素晴らしいね。お騒がせした。彼女の荷物を車に。鞄は俺が持つのでその他を」
「かしこまりました」
もう遅い時間だと言うのに、騒ぎをの結果を見届けたくていつまでもロビーに居座る下世話な客たちの衆目が集まる中、キリコはBJの肩を抱いて歩き出す。どうにも、いつの間にか、と思った。どうにも、いつの間にか、今日は何度も彼女に触れている。当たり前のように。本当は当たり前であるはずがないのに、あの店での演技が抜けていないのかもしれない。抵抗しない彼女もそうなのかもしれない。
弱っている姿を見たからだ、弱っているからだ、などと、本当は気付いていた。だがそれを認めてどうなるのか、意味がないことだ、ということも同時に思っていた。
ドアマンではなく支配人自らがエスコートし、BJが先に車に乗る。そしてキリコも乗り込もうとしたまさにその時、背後が──ロビーがざわめいた気がした。あまり良い騒ぎではない、とキリコの肌が感じると同時に正面玄関の厳かな扉が開き、一人のホテルマンが急いだ顔を必死で抑え、いかにもお見送りに間に合いましたでしょうかといった態度を装い、速足でやって来る。ホテルマンが支配人に耳打ちをするまでもなく、キリコは溜息をついた。
「先生のお人よし」
「とんでもない」
BJのために少し横に退き、彼女が素早く降りると同時に医療鞄を渡す。受け取ったBJはキリコににやりと笑い、言った。
「私は医者だよ」
先ほどまでの弱った姿など、まるで浅い眠りの夢の中のものだったのではないかとキリコや支配人が思うような、強い、医者の笑い方だった。
キリコもにやりと笑い返した。可愛い顔じゃあないな、と思った。
「一本吸ったら見物に行くよ」
可愛い顔じゃあないな。──けど、ほら。
「手伝えよ、馬鹿キリコ!」
ほら。
医者のお前の顔は、最高に綺麗だな。
ホテルマンが耳打ちを終える頃、BJは既にロビーに戻っていた。支配人はしばらく迷ったが、やがてキリコに一言詫び、事情を説明することにした。
「ロビーで──」
「病人だか怪我人だか。彼女がもう行った。運が良かったな」
「え」
「慣れてるのさ」
こういうことにはね、と呟きながら煙草を咥える。すると火を点ける前に支配人が背筋を伸ばして告げた。
「恐れ入ります。正面玄関前ではお煙草をお控え頂くよう、お客様方にご協力頂戴しております」
有能で仕事熱心な支配人の厳然たる宣言に、これはまたお恥ずかしい真似を、とキリコは苦笑して煙草を箱に戻したのだった。
「遅い!」
先ほどまでの弱った姿はどこへやら、怒鳴りつけて来る天才外科医がいる。医師免許を持たないが確かに医師である彼女は、意識を失っている男性にまたがり、一目で緊急と分かる状態で胸部を強く押していた。キリコはコートを脱ぎ捨てながら速足で近付き、「代わる」と告げた。
「救急車は」
「あいつが呼んだって。──心臓だ。救急車がすぐに来るなら病院で開く」
位置を交代しながら目で示された先を見ると、野次馬の中に緊張の面持ちで、だが職場での出来事を把握するために真剣に自分たちを見ているあのフロントマンがいた。彼は仕事をしたと言うことだ。忌々しい、とキリコは思った。──忌々しい。憎み切れない。これだから人間ってやつは面倒くさい。
「ホテルのホームドクターは?」
「退勤したってさ」
本当に面倒くさい。この女も、俺も。そう思った。
今自分が救命している相手が、伝統ある慣習を御教授下さった先ほどの老紳士だということが、何よりも面倒くさいと思った。
BJがバイタルチェックをしながら、隣で震える老婦人にいくつかを質問する。だが老婦人はろくに答えられず、ただ震え、神様、神様と言うばかりだった。
彼女が最大の意思表示をしたのはそのすぐ後だ。日本人の女医が人工呼吸用のマウスピースを夫に装着させた時、彼女は叫んでいた。
「やめて! ──やめて! あなたのような人が夫の唇に触れるなんて!」
手を止められないことが残念だよ。キリコは心底思った。繰り返す強い動作で噴き出た汗が老紳士の上質な衣服を濡らす。
まるで老婦人の声が聞こえなかったのように処置を続けたBJはキリコを目で呼んだ。何を言いたいのか分かったキリコは、まずはこの老婦人を遠くに追いやることが最初の作業になってしまうだろうと予想した。
「先生の患者でいいよ」
「死神なんぞの患者にさせるかよ。──救急車が遅い。間に合わない」
「ってことは、だ」
あのフロントマンが野次馬を掻き分けてやって来る。瞬時迷った後、BJに声をかけた。それでキリコはこいつを許してやろうと決めたし、誰がこの場の決定権を握っているかを見抜いた上、緊急時には最善の行動ができるということは、ホテル従業員としては優秀な奴なのだろう、と知った。
「途中の交通事故で救急車が足止めされているそうです。救急隊員が徒歩でこちらに向かっていますが、しばらくかかってしまうとのことで」
「ありがとう。──キリコ」
「ああ」
視線を合わせる。同時に頷いた。
「第一助手にしてやるよ」
モグリの天才外科医がにやりと笑い、綺麗だな、と思いながら、キリコも同じように笑い返した。
支配人の判断は早く、すぐにロビーでの手術を受け入れた。BJが無菌手術室を膨らませる中、キリコは処置を続けながら支配人に早口で必要なものを指示し、そして特にあの老婦人を遠ざけるように念入りに頼んだ。全てを見ていた支配人は一も二もなく頷き、すぐに手配を始める。
老婦人が辛うじてくれた情報として、夫の血液型が分かったことは不幸中の幸いだ。提供者を募ると従業員を始め、居合わせた宿泊客たちが続々と名乗り出てくれた。
そこから先は二人にとって、特段の努力を要するものではなかった。決して簡単ではない手術だったが、いつも通りにすぎなかった。──いつも通りに全力を尽くすだけにすぎなかった。
何度見ても、いつ見ても、とキリコは思う。神の手だ。この女の手には神の意思が宿っている。俺ならそうじゃない、そっちを優先できない、というハイリスクな選択を易々とやってのけ、当たり前のように貪欲にハイリターンを獲得する。
その手が止まる瞬間はなく、キリコへの指示も澱みがなかった。人の指示を受けることなど面白くないはずの自分が、今この瞬間はひどく楽しい。手術中に楽しいなどと考えることはご法度かもしれないが、だがとにかく今、キリコは楽しくてならなかった。
BJが初めて手を止める。麻酔で眠る老紳士の顔を見てから大きく息を吐き、言った。
「完了」
ご苦労さん、とキリコが言うと、マスクを外しながらBJが笑った。
「流石ドクター・キリコ。麻酔のコントロールが完璧だった」
「BJ先生に認めてもらえるとはね」
「言ってろよ」
彼女がまた笑った。綺麗だな、とキリコは思った。
既に朝陽が差し込む中、とうに到着して手術を見守るしかなかった救急隊員たちに症状と手術内容を伝え、患者を引き渡し、まだ狂乱から抜け出せない老婦人と共に救急車に乗せた瞬間、二人して同時に「疲れた」と言い、救急隊員を恐縮させた。彼らの責任であるはずもないのに何度も謝罪の言葉を口にし、礼を言い、老婦人ごと患者を運び去って行く。正面玄関で見送った二人は、またしても同時に「疲れた」と言った。
「午後に診に行かないと。──おまえさんにもらった本、早いとこ読んでまとめたかったけど、夜からじゃないと無理かな。シンポジウムまであと一週間もないのに」
「それくらい手伝ってやるよ。──ああ、一服したい」
「吸えばいいだろ」
「正面玄関では吸えないんだってさ」
「ご協力、恐れ入ります」
いつの間にか後ろにいた支配人が環境維持の協力への感謝を示し、驚いて振り向く二人へ敬意に満ちた笑顔を向けていた。
「今できる限りのことで恐れ入りますが、軽食をご用意致しました、ホテルを移動なされる前にどうぞお召し上がり下さい。もちろんお煙草も」
ロビーに戻った途端、爆発するような拍手に襲われ、思わず二人は顔を見合わせた。野次馬だった人々が二人を讃える観客に成り代わっていた。もう早朝にもなろうと言うのに、物見高い彼らは数時間に及んだ手術の間もロビーで待ち続けていたのだ。彼らが手術の邪魔にならないよう、ホテルマンたちがずっと対応していてくれたのだと初めて気付き、BJは肩を竦めてから「チップ払う?」と言った。キリコは苦笑するに留めた。
「通常はラウンジでご提供するものなのですが、もう陽が上りますし、こちらもよろしいでしょう」
握手や賛辞を送りたがる彼らをホテルマンたちがあしらってくれる中、支配人に通された中庭にあった軽食の用意を見て、BJが「わあ!」と珍しく心底からの可愛らしい声を挙げた。女じゃなくて女の子の声だ、とキリコが驚くほどに可愛かった。ザ・ゴーリングホテル自慢のアフタヌーンティーは、蓮っ葉なモグリの医師の心すら一瞬で掴んだようだ。
「ハザマ様はご宿泊の間、ご利用になられなかったようでしたので。せめてひとつくらいは当ホテルの良い思い出をお持ち下さるよう、ぜひ召し上がって頂きたいのです」
もちろんドクター・キリコにも、と言う言葉はまるで付け足しだったが、無論キリコが不快に思うはずもなかった。女王と騎士の国なのだから。
「良いホテルだな」
当然のように先にBJに紅茶を注ぐ支配人に言うと、彼は誇らしげにキリコに向かって微笑み、恐れ入ります、と言った。
美しく整えられた庭園の中、キリコは紅茶と洒落た軽食を前に不作法と知りながらもまず煙草を、BJは先に紅茶と軽食を楽しむ。
有害物質を身体の隅々まで行き渡らせた充足感に浸りながら、サーブする支配人と素の顔で世間話をするBJを見る。綺麗ではないと思った。緊張の面持ちでやって来て、数時間前の非礼を深く詫びるフロントマンを肩を竦めただけで許した姿も、お客様がおくつろぎの時間に何を、と部下を軽く叱責する支配人に「私は嬉しいんだから叱らないで」ととりなす姿も、全く綺麗ではなかった。だが、ああ、可愛いな、と思った。
陽が上り、街が動き出す気配を感じる。陽光が眩しくて右目をすがめていると、「そう言えば」とBJが言った。視線をやると悪戯気な女の顔とかち合う。陽の下で見れば更に目立つ。これは確かに酷い傷だ。キリコは不意に認める。こんなに酷い縫い傷があるのに、それでも俺は──お前を可愛いと思うことが多いんだ。不思議なものだ。
「夜通しデートしちゃったわね、マイ・ナイト」
夜通しデートしよう。俺を楽しませてよ。そう言った自分を思い出す。ああ、随分と楽しかった。酷過ぎることばっかりだったのに、随分と楽しかったよ。
「最高に楽しかったよ、クイーン」
しばらく見つめ合った後、耐えかねて同時に噴き出し、紅茶のお代わりを注ごうとしていた支配人を驚かせてしまったのだった。
支配人どころかホテル従業員──無論あのフロントマンも──総出での見送りをされ、ホテルを後にした途端、BJは「寝る」と深く車のシートにもたれ、数秒で寝息を立て始めた。キリコとしても同様の気分だったが、次に向かうホテルまでそれほど時間がかからないと知っていたため、上等なベッドを期待しながら眠気と戦った。案の定、数分で手配されたフォーシーズンズホテルに到着する。ザ・ゴーリングに勝るとも劣らぬ有名な高級ホテルだ。
BJを揺り起こそうとしたが、完全に深く眠り込んだ彼女は返事もしなかった。耳元で起床ラッパを鳴らしてやりたい衝動を抑え、出迎えのホテルマンの手前、彼女を抱き上げて車を降りることになる。話を聞いていたホテルマンと、到着と共に駆け付けた支配人はその光景にひどく感動し、とにかくすぐにお休みになられますよう、とこのホテルではバトラーと呼ばれる高職位のホテルマンを呼んで案内を引き継がせた。
「2部屋とのことだったのですが、あいにく満室に近い状況でございました。ただ、コネクティングルームもございますので、他の部屋が空くまではこちらでおくつろぎ願えませんでしょうか」
「──いや、私たちが何を言うこともできないでしょう。どうぞホテルの都合を優先して下さい」
案内された部屋を見てキリコは茫然とし、BJが起きた時の反応が楽しみだ、とまで思った。このホテルでほぼ最高級の部屋とあれば、その楽しみ方も許されるのではないだろうか。
荷物を置いたバトラーに礼を言うことでこれ以降の案内は不要だと示してプライベートを確保し、格式と伝統で覆われた独立リビングを抜けてメインの寝室へ入る。思わず唸るところだった。キングサイズのベッドがひとつだけ鎮座していれば当然のことだ。とりあえず腕の中で眠りこける女をできるだけ丁寧にベッドに降ろし、やっぱり睫毛が長いな、と改めて確認してから間接照明を点ける。彼女の唇に見惚れないうちに寝室を出て、リビングの豪奢なソファに沈み込んだ。
アンディに連絡をするために、一度ホテルの外から電話をする必要がある。だが待ち構えていた睡魔にほんの少しだけ勝ちを譲りたくなっていた。コートくらい脱がせてやれば良かったかな──今からでも──最後まで考えることすらできず、疲れ果てた闇医者は意識を完全に手放していた。
鳴り響く電話を誰かが取ったようだ。女の眠そうな応答が寝室から漏れ聞こえ、ああ、寝室にも電話があるのか、と何とか眠りの谷から這い上がろうと努力しながらキリコは思う。努力は割合すぐに報われ、寝室のBJが電話の向こうに怒っている声が聞こえた。溜息をついて寝室へ向かう。どうせコートのまま寝ていたのだ、あられもない姿ということはあるまい。
「先生、誰から──失礼。悪気はなかった。本当に。失礼」
ノックが終わらないうちにドアを開け、そしてすぐに謝って閉める。閉めた瞬間にドアに柔らかいものが激突した音がした。おおかた上等の枕だろう。枕も気の毒なものだと懸命に無機物に同情し、今しがた見たBJの全裸の後姿を本能から一番遠い場所に必死で封じ込めた。
間接照明で薄暗かったから全部見えてない、見てない、残念じゃなくてそれで良かったんだ、と自分に言い聞かせていると、電話を終えたBJが乱暴にドアを開けた。シーツを巻き付けているだけのその姿に、こいつはかなり頭がおかしい、とキリコは断定せざるを得なかった。
「……誰から電話だった? バトラー?」
「お祈りは済んだか、痴漢」
「お祈りより懺悔だ。俺が寝かせた時はコートのままだった。俺に責任があるかと言えば、ノックを丁寧にしないでドアを開けたこと以外は責められるべきじゃないはずだ」
「一回起きたらあんたが寝てたし、別に用事があるわけでもなかったし、楽な格好でまた寝たんだ。考えてみりゃ何で同じ部屋にいるんだ」
「用意された部屋がここ。心配するな、俺はコネクティングルームにベッドを入れてもらうから」
あんたという呼び方に、彼女が心底怒っていることを知った。久し振りに呼ばれたような気がする。
「ところで、楽な格好が全裸か? 慎みについて考えた方がいい」
「見てんじゃねえか! 慰謝料払え!」
「──ほとんど見てねえよ! 薄暗くしておいて良かったぜ、しっかり見てたら何億脅し取られるか分かったもんじゃねえ!」
「あんた──」
「とにかく電話! 誰からだった!?」
「アンディ! 30分したら来るってよ! 居所が分からなかったから探すはめになった、って私が怒られたじゃないか! 早漏のくせに何でとっとと連絡してねえんだよ、馬鹿キリコ!」
思い切りキリコを罵ってから、シーツを翻して裸足でバスルームへ向かう。キリコは溜息をつき、リビングにあった電話からバトラーにコールし、30分経ったら客が来る、紅茶と茶請けを見繕って持って来て欲しいと伝えた。そして電話を切り、「早漏じゃないです」と自分のために呟いた。
アンディはテラス席で不機嫌な顔をしているBJを見て笑う。バスローブに濡れ髪のまま、手づかみでケーキを食べる姿を見れば笑うしかない。
「こんな凄い部屋、初めて入ったよ。しかもこんなにセクシーな格好の先生とお茶が頂けるなんて、今日は神様に感謝しなくちゃ」
「ここまでのツギハギを見てセクシーだなんて、おまえさん、変わった趣向をお持ちだね」
「そう? 俺が色んな怪我を見慣れてるってのもあるかもしれないけど、充分セクシーだよ。ドクターがその気になったら一日が潰れちまうかもね」
「早漏はお断りだ」
「え、ドクターって早──」
「絶対に違う」
BJの向かいの席で苦い顔をし、キリコは早めの訂正を行うが、どうせアンディは俺を早漏の設定にするに違いないと予想してしまった。
BJの姿と下品な言葉に動揺ひとつしない優秀なバトラーが紅茶を淹れ終え、求められない以上はこの部屋でのサーブは必要ないというキリコの意向を既に理解していたのか、御用の際にはお呼び下さいと挨拶をして部屋を出る。
「今朝がたの手術の話を聞いてさ。結構な噂になってるよ」
目立つ真似したね、と唇が動き、声無く「歓迎できないことだった」と告げる。明らかに盗聴器を警戒した動作だった。
「明日か明後日にはみんな忘れてるだろ。モグリの医者と早漏の死神なんてさ」
「だから俺は早漏じゃねえって何回言えば理解するんだ、クソビッチ」
「ドクターが早漏かどうかは先生が確認できるだろ。とにかくびっくりした」
「何で私が確認するんだよ」
「俺の口からはとても。──噂を聞いたからさ、約束の夕方よりはだいぶ早いけど、ゴーリングに会いに行ったら二人ともいないもんだから。焦って探したよ。──友達や知り合いにも頼んだんだ」
暗にSASの同僚やMI6が動員されたと告げる言葉に、流石にBJも肩を竦め、不機嫌ながらも理解したことを示した。キリコは軽くアンディに頷いてみせたが、そもそもお前らが巻き込んだことなんだからそれくらいは許容するべきだ、と思った。盗聴器の心配がなければ言っていただろう。
「それは悪かった。お喋りアンディの口を縫う予定もあることだし、早めに連絡しておけば良かったな」
「ドクターは記憶力が良いね。でもそれは忘れていい情報だ。とにかく俺を不安にさせないでくれよ」
「努力はする。結果が追い付くかは分からないが」
キリコが答え、BJはまた手掴みでケーキに喰らい付く。高級ホテルが心を込めてサーブした美しいケーキも、不機嫌な女にかかれば怒りを鎮めるためのただの糖分だった。男たちの分までも食べ終えたBJは、指先についたクリームを不作法に舐めて立ち上がる。
「出掛ける。キリコも」
「どこ? 運転手するよ?」
「患者の予後を見に行くだけだ。おまえさんはいらないよ」
「そう言うなよ」
「18時にあの店で。じゃあさよなら」
帰れと同様の言葉で一方的に話を終わりにされ、アンディは肩を竦めて「これ飲んだら帰るよ」とティーカップを示しながら言った。ぷい、という擬音が正しい態度でBJは着替えるために寝室に引き上げる。
「……ドクター、見た?」
「……何のことだ」
「クリームつきの指舐めはやばい。今のはかなりやばい」
「外じゃ綺麗に飲み食いするんだ。意外だ」
「ドクター、屁理屈言わずに素直な感想をぜひ」
「……最高です……」
「……ですよね……あと先生、何気に着痩せするんだね……」
下世話な話題のお陰で一気に低くなりかけた男二人の垣根は、次のアンディの問いでまた一気に高くなる。
「そうだ、ドクター。大事な質問なんだ」
「何だ」
すわSASかMI6のトラブル関連かと眉を顰めたキリコに、アンディはかなり真剣な顔で身を乗り出し、言った。
「本当に早漏なのか?」
「──どうしたら違うって信じてくれる?」
いっそ死にたいとまで考え始めたキリコに、アンディはにこりと笑う。嫌な笑い方だ、とキリコは素直に思った。
「運転手、させてくれたら」
「歩いて行く、さよなら」
「いいや、車だよ、先生」
運転席に座るアンディを見た途端に身を翻したBJをキリコが素早く捕まえる。不名誉な誤解を避けるためならBJがどれほど嫌がろうと配慮できない。騎士道精神は英国人のみが発揮すれば良いのだ。
「あいつは一言も口を利かない、病院内には入らない。そういう取り決めだ」
「で、あんたのコートにでも盗聴器を仕掛けるって寸法?」
「そこまでは知らないが、アンディに確認するんだな。とにかく乗って。病院にはもう連絡してあるから、遅れたら迷惑だ」
「あんたの口から迷惑なんて言葉が出るなんてね!」
「先生の口からそんな言葉を聞くなんてね。──アンディ、14時までに着きたい。よろしく」
一言も口を利かないと誓わされたアンディはキリコの言葉に頷き、BJに向かって親しげに笑いかけ、またぞろ女のヒステリーを誘発したのだった。
てっきりBJが道中喚き散らすかと思ったが、キリコの予想を裏切り、BJは医師の顔で書き物を始めた。あの老紳士のカルテだと思い至り、キリコは覗き込む。術式についてのドイツ語が驚くほど細かく、そして素早く書き付けられていく。たまに顔を上げ、キリコに確認を頼んだ。キリコはいちいち頷き、ほぼ訂正することはなかったものの、自分が関わった部分の一点が目に留まった。
「麻酔量が違う。この記載じゃ多い」
正しい数値を告げると、BJは酷く驚いた顔をした。
「あの状態でこれだけ? 信じられない」
「何時間かかるか分からなかったし、先生の手持ちの麻酔量がちょっとだけ心もとなかったからな。念のためケチった」
「──おまえさん、天才だよ」
呼称が「おまえさん」に戻ったことを知り、キリコはほっとして背もたれに深く沈みこんだ。こんなことで安心する俺は何なんだ、まるで──そこまで考えた時、車が目的地に到着した。
患者を引き継いでいた病院の男性担当医は、BJとキリコの来院を心から喜んでいた。自分もオペに立ち合いたかったと言って、その類を言われ慣れたBJに適当に冷たくあしらわれ、それすらも嬉しがって喜んでいる。それでBJはこの担当医が「御しやすい」と判断し、たちまち営業モードに切り替わり、にっこりと微笑んでやった。舞い上がる担当医を見たキリコは何とか笑いを堪えた。
「あなたが主治医として今後もご覧になっていかれる、ということでよろしい?」
甘すぎず、かと言って冷たくもなく、明らかに「親しくなりたい人への声音」を模すBJの問いに、伝説の外科医に憧れていた担当医は何度も頷いては今の患者の状態を話す。カルテを渡されるとまるで愛する女優から直筆のサインをもらったかのように押し頂き、しかしそのうちしっかりとした医師の顔になってカルテを読み耽る。上手いものだ、とキリコはこういった時には必ず思うことをまた思う。これでBJはロンドンの優秀な医師の一人と今後も連絡を取りやすくなる。
「先生、この麻酔量は──失礼ですが、誤記では」
「わたしもそう思ったんだけど、彼だから。それでいいみたい。実際、完璧なコントロールだった」
担当医はキリコを見、そして深く溜息をつき、信じられない、素晴らしい、麻酔医でもこんなことはできないはずだ、と何度も呟いていた。すごいでしょ、とBJがまるで我がことのように誇らし気に言った。今の声は少しだけ営業ではなかったとキリコは自惚れたかったが、すぐにやめた。
それから担当医に案内され、意識を取り戻していると言う老紳士の病室へ行く。集中治療室の一番奥に入れられた彼は、既に自発呼吸をし、酸素マスクの多少の助けを得て、眠ったり起きたりではあるが、付きっ切りの妻と穏やかな時間を過ごせているようだった。
「執刀なされた先生方がいらっしゃいましたよ」
担当医が告げて入室すると、老紳士は視線をBJに向けた。BJは優しい医者の顔を作り、「お加減はいかが」と問う。老紳士は頷いた後、酸素マスクの下から掠れた声を漏らした。
「大変な無礼を、許して欲しい」
BJは微笑して首を横に振り、問題ない、という意思を示す。安心したように老紳士は息を吐き、目を閉じた。彼が眠りにつくまでの短い時間を待ち、闇医者二人の見解が「現状で心配ない」と一致すると、担当医はほっとしてカルテに書き込む。それからBJが言った。
「奥さんもお疲れでしょうが、現実的なお話を失礼。報酬のこと」
荒れるぞ、揉めるぞ。キリコは目で担当医に注意を促したが、伝説の外科医の高額報酬の噂もしっかり知っている担当医の目が輝いていることを知り、溜息を押し殺したのだった。
そして案の定、報酬交渉は荒れ、揉めた。正確には金額を突き付けられた妻が驚愕し、そして怒り、ヒステリーを起こしたのだ。患者や家族への説明などに使われる小部屋は大騒ぎになり、同席したキリコはうんざりし、担当医は楽しくて仕方ない顔を隠すことで精一杯だった。
「法外もいいところだわ!」
「日本円で一千万。びた一文負かりませんぜ」
有名な「お決まりの態度」を目にした担当医は身を震わせて感動し、キリコは呆れに呆れる。こうなると分かっていただろうに、騒ぎを回避しようとしないBJの人格を疑ってしまう瞬間だ。全然可愛くねえ。しみじみそう思う。
「冗談でしょう。日本の医者は誰からもそんなにお金を巻き上げるの!?」
「言い忘れていましたが、私は無免許のモグリでね。日本の医者の平均なんぞ知りませんや」
「──無免許ですって!? 夫を手術したのが無免許の日本人ですって!? あなたも!?」
「ああ、いえ、私は免許を持っております」
いきなり水を向けられたキリコは静かに答え、それから少し付け加える。
「彼女に助けられたと考えれば安いものです。今の時代、日本円なんてポンドよりよっぽど安い。将来的には知りませんがね。あなたたちの階級なら大した金額でもないでしょう」
「何ならポンドでも受け付けますがね。キリコ、一千万ポンドなら何円になる?」
「変動相場制に変わってからだと──いや、さすがにそれは無理だ。鳥肌が立った」
頭の中で簡単な計算をし、とんでもない額になると分かったキリコは身を震わせた。妻は別の意味で身を震わせた。怒りと屈辱のためだ。
「感謝の気持ちも吹き飛ぶわ、何て女なの!」
「──ざまあねえや!」
BJが高らかに笑った。ソファにふんぞり返り、煙草に火を点ける姿は蓮っ葉と言う言葉で済むものではない。強欲な悪魔が慈悲の欠片もなく老婦人を嘲笑う姿は禍々しく、BJの交渉をよく知るキリコでさえ眉を顰めたくなるほどだった。担当医は茫然と、今までの憧れを捨てそうになっている。それほどまでに今のBJは醜い。
「お悔しいでしょうねえ? 人工呼吸もされたくないくらいに嫌いなエコノミックアニマルのイエローモンキーに旦那の命を救われて、金を払わなきゃいけないなんて。さぞさぞお悔しいでしょうねえ」
「何て──何てこと!」
キリコは溜息を吐きたくなった。この時代の日本人が勤勉ゆえに冠された、不名誉な差別用語を自ら連発することで老婦人の怒りを煽るとは。
「一千万だ。びた一文、一シリングだって負かりゃしません。イエローモンキーにくれてやる餌代だと思ってさっさと払っておしまいなさい」
「先生、ちょっと」
「──くれてやりますとも!」
キリコが流石に割って入ろうとした時、老婦人が絶叫した。誇りを傷付けられたその顔は、キリコからすれば正しい誇りではないことは分かっていても、それでも歴史を感じさせる品と美しさを強く知らしめるものだった。
「餌代が欲しければくれてやりますとも! 私の主人を手術できたことを光栄に思いなさい! お前のような階級の者が! 何てことでしょう! お前、主人が元気になったら覚悟しておくと良いわ!」
「へえ、お元気になんてなられるんですかねえ。私はあくまで当座のオペをしただけで、後は知ったこっちゃありませんぜ」
ああ、何だ、演技か。キリコはようやくBJが三文芝居の舞台を繰り広げていたことに気付いた。余りにも自然に交渉していたから気が付かなかった、と思った後、この光景を自然にって感じるのは闇医者くらいか、と自分が住む世界の特殊性についてやや考えそうになってしまった。
後は知ったこっちゃない。BJがそんなことを言うはずがないのだから。
「心臓は辛いですよ、奥さん。しかも旦那さんはご高齢だ。体力が戻るまで相当かかるだろうし、家族のサポートだって必要だ。あなたにそれができる? いやいやまさか! 使用人でも雇って面倒を見させます? ああ、そうだ、植民地にし損ねた日本の女でも探したらいかが?」
「お黙り! そんなもの、私がやってやりますとも! 全てやってやりますとも! 私の夫ですもの! どんなに辛かろうと全く苦にならないわ!」
キリコは笑いそうになる口元を抑え、BJを見る。担当医に言ってやりたかった。さあ出るぞ、しっかり聞けよ、あの台詞。
そしてBJは言った。
今までの荒い言葉と声が嘘のような、穏やかで優しい、患者とその家族の誰もを安心させる名医の美しい顔で。
「それを聞きたかった」
キリコは担当医が歓声を上げないことが不思議だった。感動に身を震わせ、顔を真っ赤にし、小さな声でイエス、イエスと繰り返している。俺はこういう奴を見る方が面白い、と思いつつ、何を言われたか分からない顔をしている老婦人に助け舟を出してやることにした。
「つまり奥様。無料でよろしいと言うことです。あなたがご主人に献身なさることを条件にね」
「……献身なんて、そんなこと、当たり前でしょう」
「それが、その限りでもないんですよ」
煙草を揉み消し、今までの態度はどこへやら、患者の家族に今後の治療について説明する医師の顔でBJが引き取る。
「回復を目指すにしろ、介護ってのは非常に辛い。家族にとんでもない負担がかかる。幸いあなたがたは裕福でいらっしゃるようだから、金銭的に煮詰まることはまずないでしょうが、私はむしろ精神的な負担が心配なんです」
家族が介護するということがどれほど辛いことなのか、可能であれば人を雇った方が良い、雇ったとしても身体を思うように動かせない患者自身のストレスと支える家族の疲労は想像を絶する──BJは淡々と語り、時に老婦人が口にする不安に優しく頷き、様々な手段をいつも考えましょう、と何度も言い含めた。担当医は捨てかけた憧れを再び強く取り戻し、病院にはケースワーカーがいます、相談を! と口を出して「頼りになる医者もここにいますからね」とBJに微笑まれ、天にも昇る心地を味わった。
後は病院に任せればいいという方向で話がまとまり、BJは立ち上がる。それからふと思い出し、老婦人に言った。
「私への報酬はそれで結構。ただ、ドクター・キリコへの報酬は──」
「俺ももらえるのか」
「いらなきゃいいけど、いるなら言えば?」
「ふむ」
老婦人は考え込むキリコを見、やや不安な顔をする。最初のBJのように高額を突き付けられるのでは、という怯えを見て取り、キリコは笑いそうになってしまった。
「──では、お聞き入れ願えれば光栄ですよ、奥様。ご主人がお元気になられてからで結構ですが、ぜひご主人とご一緒にお願いしたい」
BJの医療鞄を持ち、ついでとばかりに肩を抱き寄せる。何を、と驚きかけるBJを制するかのごとく、キリコは努めて品のある声で言った。
「順番をお守り下さい」
途端に老婦人は耳まで真っ赤になる。BJがキリコの胸に顔を押し付け、必死で笑いを堪え、それでも我慢ができず、肩を震わせながら日本語で「最高」と呻いた。
「ま、悪い女性じゃなかったのさ」
「頭は良くないみたいだったが」
キリコのストレートな評価に笑うものの、しかしBJは否定しない。それからまだ笑いを収めずに続けた。
「あの夫婦はロビーの時から、私の傷や見た目を一言も悪く言わなかったんだ」
「……あ」
そう言えば、と驚いた顔をしたキリコに、今度はにやりと笑ってみせる。
「悪い人間じゃないんだ。ほとんどの人はね」
キリコはしばらくその顔を見る。ああ、可愛いな、と思った。
「先生がそう思ってるなら、それでいいんじゃないか」
可愛いな、と思いながら、やがてしたくなったキスの代わりにその頬を親指でくすぐり、嫌がられて満足した。
担当医や他のスタッフたちの見送りを断り、駐車場へ行くと、少しばかり堅い顔をしたアンディが待っていた。
「先生」
「口を利かない約束は?」
「一時停止。ちょっと真面目な話」
あの笑い顔ではなく、明らかに特殊部隊員の顔をしている。BJとキリコは減らず口を叩かず、黙って車に乗った。運転席に乗り込んだアンディはエンジンをかけ、丁寧に発進する。
「先生の名誉を汚したことを、先に謝る。ごめん」
「部屋の荷物を漁ったってことかな」
「シンプルに言えば、そう」
「最後まで聞いてから蹴るかどうか決める。さっさと話しな」
「ありがと。──俺たちがホテルを出てからMI6の連中が先生たちの部屋を捜索した。盗聴器対策だ」
ついでにMI6もつけたんだろう、とキリコは心の中で呟く。まだBJにMI6の盗聴器の件を説明していなかったことを思い出した。後で話しておかなければ。
「先生の荷物から盗聴器が出て来た。前のホテルから付けられてた可能性が高い。心当たりは? どれくらい恨みを買ってる?」
「今まで食べたボンカレーの数なんか覚えてない」
「何それ」
「アンディは今まで食べたパンの数を覚えているのか?」
「覚えてない。なるほどね」
アンディが苦笑し、キリコは日本のレトルトカレーを食べたくなった。それにしてもこのモグリ医師はあまりにも危ない橋を渡り過ぎている、と男二人の見解は知らぬところで一致した。
「まあ、考えられるのは私の荷物をまとめた室内係か、それとも空港でつけられたか、くらいだな」
「探らせておくよ。──それと、ドクターの荷物が何もなかった、って言ってた。合ってる?」
「合ってる。ロンドンに長居する予定がなかったんでね。今日、適当に必要なものを買いに行こうと思っていた」
「ちょうどいいや、アンディ、どこか行け」
「ねえ、先生さあ。彼氏の買い物をしたいのよ、案内して頂戴、とか言えない?」
「言う義理もなけりゃ彼氏でもねえよ」
本当かねえ、とアンディは呟き、しっかり聞こえたBJに背もたれを蹴られてから、ホテルとは違う方向へハンドルを切った。
アンディと散々一緒に行動したため、連絡のためにあの店に行く必要はなかったのだが、キリコの買い物を終えた途端にBJが飲みがったので三人で向かう。真夜中のオペの話はすっかり知れ渡っていて、既に酔っていた常連たちに散々絡まれることになった。BJが妙にはしゃぎ、キリコはそれが不思議だと思ったが、過度の飲酒さえしなければ良いと放っておいた。
考えてみれば自分は保護者でも何でもない。昨日からいやに自分が彼女に対して保護欲を発揮していることを自覚し、二人の関係性を考えると、これは決して健全なことではない、と思った。そもそもがモグリの外科医と安楽死医とあっては健全な関係であるはずもないが、だからこそ昨日からの距離に気を付けるべきなのだ。
店から新しいホテルまでは少し離れている。20時近くにタクシーで戻ったが、車内でもいやにBJは喋り続けていた。他愛ない話ばかりで、キリコは相槌を打つことに専念した。
ホテルですぐに休むかと思いきや、BJはシンポジウムの資料作りをすると言う。確かに夜にやると言っていたことを思い出し、キリコは彼女に「お休み」と言って自分のスペースだと決めたコネクティングルームに入った。
ゲスト用のバスルームで疲れを癒す。昨日から目まぐるしい日程をこなし、あまりにも密度が濃い時間を経て、随分と長くこの国にいるような錯覚に陥った。
BJに就寝の挨拶はしたものの、眠るにはまだ早すぎる。明日の予定を考えつつ──空港に行く必要があった──ダイニングのミニバーでジンとライムジュースを適当に混ぜる。バトラーに頼めば上等のカクテルを作ってくれるだろうが、部屋に他人が入ることをあまり好ましいと思えなかった。高級ホテルを楽しめない気質だな、と少し惜しい。
テラスで柔らかいクッションに埋もれたカウチにだらしなく座り、本来なら小洒落ているはずのカクテルの出来損ないを舐めながら、雲で濁った夜空の中に星が見えるかどうかと目を眇める。よく見えなかったし、星が見たいわけでもなかった。だが妙に時間を持て余している。
だからかもしれない。
「作ってやるよ。何がいい」
距離に気を付けるべきだと決めた商売敵がテラスに出て来た気配を背後に感じた時、当たり前のように声をかけていた。時間を持て余していたからだ、と自分に言い訳をした。
「何でもいい」
バスローブ姿のBJがあの本を持っていた。気分転換に来たと察したキリコは、彼女に軽めの酒を作ってやることにする。
「一番困る答えだな。待ってろ」
カウチのクッションに埋もれるBJを見てからミニバーへ行き、自分のものよりも相当丁寧に材料を融合する。レモンスライスを沈めながら、そう言えばユリに作ってやったことがあったと思い出していた。あれはいつだったか。そう遠い日のことではない。──ああそうだ、グマの後、あいつと少し一緒に暮らしたんだ。その時にあいつが──
「馬鹿キリコ、これ納得いかない。教えろ」
「廃業しろ」
テラスから追憶を叩き壊すような無遠慮な声が届いて苦笑し、ああ、こいつといると一日に何回苦笑すればいいんだろう、と思う。
心地良かったクッションの海のカウチはBJに奪われていた。手の届くミニテーブルにカクテルを置いてやり、向かい合った椅子に座ろうとすると、BJが本に目を落としたまま自分の隣のクッションを叩いた。いや、見間違いかもしれない。テラスの仄暗い照明でははっきりと分からない。だからキリコは自分の錯覚ではないかと迷った。
迷っていたらもう一度、今度は少し強くクッションを叩いた。キリコは天を仰ぐ。──バスローブ姿の女の隣に座ることに迷うなんて、ガキじゃあるまいし。俺はもっとスマートにこなしてきたじゃないか。今度だってそうすればいい。はぐらかしてしまえばいい。
BJにカクテルを改めて渡し、隣に腰を下ろす。グラスに口をつけるBJの膝の上で開かれているページをちらりと見ると、以前のキリコも少々考え込んだ箇所だった。
「何これ」
「アマレットジンジャー。材料揃えてステアするだけ」
「杏仁豆腐の香りがする」
「ユリと同じことを言うなよ」
この酒を作ってやった時、ユリもBJと同じことを言った。杏の核のリキュールだから杏仁豆腐と似たようなものだと教えてやったら、そう、知らなかった、美味しい、と泣いた顔をやっと綻ばせたものだ。なぜ泣いたかはよく覚えていない。仕事のことだったのか、それとも別のことだったのか。キリコは聞かなかったし、ユリも語らなかった。泣くのをやめたのならそれで良かった。
「杏の核のリキュールだから」
「ああ、だから杏仁豆腐」
「そう」
「ふうん。知らなかった。青酸カリっぽい」
「その例えは酷い」
「おまえさん、持ってそうだし」
美味しい、と言ってBJは顔を綻ばせた。
泣きそうな顔が笑ったのなら、それでいいとキリコは思った。
BJはカウチの上に膝を立てて本を置き、男に寄りかかり、自分の専門では不明な箇所をキリコに質問して行く。キリコはそれに丁寧に答え、たまにBJから向けられる鋭い質問に舌を巻き、やはり日本に戻ったらもう一冊買うことにした。改めて深く読む必要がありそうだ。
「先生」
随分とページを進めた頃、キリコは言った。
「疲れてるだろ。寝た方がいい」
「もう少し」
「また明日、付き合うから」
もたれかかる女から香るのはホテルのアメニティのボディソープの香りだ。自分と同じ香りであることがいやに不思議だった。同じホテルなのだから同じものを使っている。だから当たり前なのに。女自身の意外なほど甘い香りとアメニティの上品な香り、そして自分と同じ香りであるという雄の所有欲を揺り起こしそうな事実が、安易にキリコを煽ろうとする。
実際にキリコの目の位置からはバスローブの袷でふたつの膨らみが見え隠れし、視覚にダイレクトな刺激を与えている。これでBJが意図的にやっているのなら据え膳食わぬはと言い訳も立つが、明らかにBJはそんなことを考えていない。
──仕事以外の俺を無駄に信用しすぎなんだ、こいつは。それからきっと、昨日からの設定が影響しているんだろう。
「先生、寝酒に何か作ってあげようか」
優しい声で言うと、BJは首を横に振り、本を閉じた。
「邪魔して悪かった」
「いいや、楽しかったよ」
「ずっと怖かったから、一人でいたくなかった」
「──どうした」
昔の自分ならこんなことをBJに言われても鬱陶しかっただけだろう。BJもキリコにこんなことを言いはしなかっただろう。ああ、そうか。ようやくキリコは理解した。──距離に気を付けるべきだと感じたのは俺だけじゃなかった。こいつもだったんだろう。俺と違うのは──
「──私のせいで、あの子に何かあったらどうしよう」
遂に泣き声を零したBJを抱き寄せ、髪に唇を落とす。彼女がずっと我慢していたのだと気付かないほど愚かではなかった。普段の彼女ならここまで崩れはすまい。立て続けに起きた出来事に、流石に弱り切ってしまった。
大丈夫だよ、と無責任なことを何度も囁いた。盗聴されていたとしても気にならなかった。今は無責任に、責任を感じて泣く女にキスをする方がよほど重要だった。──俺と違うのは、大切すぎる存在を自分のせいで失うかもしれないという恐怖がつきまとう状況だと言うこと。どれほどの恐怖か。どれほどの苦痛か。距離を考えなければならないはずの男の前で泣いてしまうほどのものなのだろう。
あの幼女に何度も会ったわけではないが、BJが全身全霊であの小さな子を愛し、守り、育てていることは容易に窺い知れた。まだBJとこれほど距離が近くなるなど想像もつかなかった頃、キリコには見せることすら嫌がり、互いの仕事中に偶然出くわした時、悲鳴を上げて幼女を抱き上げ、走って逃げられたほどだ。
悲鳴を上げた。あのBJが。あの女が。まだ覚えている。──あっちへ行って。来ないで。近づかないで。
いつもの蓮っ葉な、別の言い方をすれば汚い言葉を喚き散らす天才外科医の声ではなかった。怒りと悲痛と恐怖に満ちた、ただの女の声だったのだ。
あっちへ行ってと言いながら、幼女を抱いて自分から走って逃げる姿は余りにも哀れで、そして、子が危機に瀕した時の母親の姿と言うものを──戦地でどれほど見たことだろうか──キリコにまざまざと思い出させるものだった。認めたくない、思い出したくもないことだが、胸が痛くならないはずがなかった。
そんなに恐ろしいと思うのなら、いつも一緒にいればいい。日本に一人残して遠方に仕事に出なければいい。もしくはどこでも連れ歩けばいい。だがそれを言うことがどれほど愚かであるのか、キリコは痛いほどに分かっていた
──俺たちは医者だ。どんなことがあっても、選ぶ手段が違っても、医者でしかいられない。何かのために医者であることを捨てろと言われても、決してイエスと言えるはずがない。
「大丈夫だよ。だから」
キリコは言った。
「泣くなよ、俺の女王様」
その呼び方で、設定を思い出して彼女が笑ってくれるのではないかと思った。こんな時にそんな冗談を、と怒っても良かった。泣くよりはよほどましだ。
BJが顔を上げる。ああ、とキリコは思う。ああ、──よほどましなはずなのに、こいつは笑いも怒りもしてくれなかった。
泣き濡れた顔に走る傷が痛々しい。初めてそう感じた。傷が痛々しいのか、泣く姿が痛々しいのか。きっとどちらもだ。泣いている時のこの傷がこんなにも痛々しく見えるとは。この女が泣く姿がこんなにも痛々しいものなのだとは。
「大丈夫だよ」
明日の朝、目覚めれば笑い話になっているかもしれない。彼女もそう願っているのかもしれない。それならそれで良い。明日になるまでは今日だ。今日言えることを言えば良かった。
「俺が全部うまくやってやる。大丈夫だよ」
長い睫毛を濡らす涙を唇で拭い、頬を、髪を撫で、唇に深いキスを落とした。
大丈夫だよ。ベッドの中で髪を撫でられ、いつの間にか寝付いた彼女に一晩中、何度も囁いてやった。うなされて目を開けるたび、大丈夫だよ、と耳元で囁き、キスをして寝かせた。
ああ、可愛いな、と何度思ったか知れなかった。
バトラーが静かに入室する音で目が覚めた。宿泊客が起きないように気遣っている上、これだけ広い部屋なら普通の客は目を覚まさないだろうが、生憎と言えばいいのか、キリコはこういった物音に敏感だった。大きな窓から差し込む陽光は穏やかで、この国にしては良い天気で一日を過ごせそうだと教えてくれた。
まだ深く眠っているBJの髪にひとつ唇を落とすのと同時に寝室のドアがゆっくりと開き、バトラーが気配を消しながらそっと中を窺う。起きてるよ、でも彼女は寝てる。そう示すために上半身を起こし、軽くBJに目を向ける仕草をすると、バトラーは静かに頷いた。その後ろに朝食用のワゴンが見えたキリコに少し悪戯心が産まれたのは確かで、指でベッドサイドを示した。心得たバトラーはまた静かに頷いた。
ほとんど物音を立てずに朝食を用意して行く姿は長年の訓練と経験を感じさせ、ベッドボードにもたれて寝起きの煙草を楽しむキリコを感心させる。寝乱れたバスローブ姿の二人を見ても動じず、淡々と仕事をこなすさまは、職への誇りをうかがわせた。
観光客が喜ぶ英国的な朝食の用意が出来上がる頃、漂う良い香りにくすぐられ、BJが呻く。だが陽光が眩しいのか寝返りを打ち、再びリネンに沈もうとした。煙草を消したキリコが何度か頬を撫でると、今度は不満そうな呻きを漏らしてようやく起き上がった。
「おはよう、先生」
「……おはよう……──え」
明らかに眠気に支配されていた顔が一気に覚醒する。何でこの男がここに、私のベッドに、という顔だ。寝ぼけて事態が把握できない彼女に笑い、キリコは「何か飲む?」とすっかり整ったベッドサイドのワゴンと、恭しく「おはようございます」と挨拶をするバトラーを示した。
え、え、あ、ええと、とBJはしばらく茫然としていたが、やがて今更のように毛布をで胸元を覆い、寝乱れた髪を無意味と知りつつも一度撫でつけ、あのう、はい、おはよう、とバトラーに絞り出すような声で挨拶をした。いつものBJからは考えられない様子にキリコはまた笑った。今日は朝からいいものを見た、と思った。
やがて事態を把握したBJは、高級ホテルならではのサービスをキリコが悪戯に使ったのだと理解し、毛布の下でキリコの太腿を抓る。キリコは本気で痛みを感じたが、バトラーの手前我慢した。
BJがベッドの中でサーブされる今の状況を恥ずかしがっていると見抜いたバトラーは、全裸の客も少なくない、真っ最中に呼ばれることもある、と薄いトーストを焼きながら非常に遠回しな言い方で教えた。それでBJの羞恥心が消えたわけではないが、多少は安心して時間を楽しむことができた。
バトラーの慣れ切ったサーブで英国の豪勢な朝食を終える。彼女の日常にはあまりない経験にBJが喜んだことは明白で、キリコとしては悪戯にならなかったのは残念だったが、無論悪い気分であるはずもなかった。
「イギリスで美味い飯が食いたきゃ朝食を三回頼め、ってのは案外嘘じゃないんだな」
すっかり満足したBJはリビングのソファにだらしなく寝そべり、本をめくりながら機嫌がいい。そうらしいね、と言いながら、シャワーを浴び終えたキリコはミニバーの冷蔵庫からミネラルウオーターの瓶を出し、不作法承知で直接口を付けて飲む。
「俺は用事もあるし、もうすぐルームキーピングが入るから一回外に出るけど、先生はどうする?」
「あ、そうか。私も出ようかな。絵葉書を買い足さないと」
「毎日出してるのか」
「約束だからね」
誰に、と問うまでもない。可愛い絵葉書が見つかるといいな、とキリコが言う前に、BJはバスルームへ消えた。しばらくしてバスルームのドアが再び開き、影からBJが顔を出す。
「キリコ、使ってないのか?」
「何?」
「バスルーム。濡れてない」
「俺はコネクティングルームのゲストの方を使ってるよ。先生が嫌だろ」
家族でもない男とバスルームを共有するのは嫌だろう。キリコはそう思ったのだ。BJは「ふうん」と言い、またドアの向こうへ姿を消そうとする。
「使えばいいのに」
ドアが閉じる音に消えかけたそれはキリコの耳にしっかり届き、じゃあそうするよ、とキリコを微笑ませた。
我ながら上機嫌で、BJがシャワーから出たら飲みたがりそうな冷たいノンアルコールカクテルを作り始める。まだ笑い話になっていなかったことを喜ぶ自分がいた。
ホテル前でBJと別れ、キリコは空港へ向かう。預けておいた仕事道具を引き取るつもりだった。出国当初、この国で仕事をするつもりはなかったのだが、遠出をする時には必ず携えることにしている。とはいえBJの医療鞄のように肌身離さずというわけでもなく、責任を持って預けられる場所があれば今回のようにそこに置くことが多かった。
MI6に押収されている可能性も考えたが、協力の要請を受け入れた以上、無断で手を出すとは考えにくい。キリコが気分を害し、どんな結果になってもこの話はお断りだとなれば、彼らの目論見は半ば頓挫する。
カウンターに向かう途中に見かけた雑貨屋に入り、日本ではあまり見かけないような、いかにも英国風といった小さな焼き菓子を買った。少し丁寧に包装してもらい、俺のクイーンへのプレゼントなんだ、と言うと、店員は笑顔で見送ってくれた。
コインロッカーに今しがた買った焼き菓子と、ふと思いつき、取り急ぎメッセージを書き付けた手持ちのメモ帳の切れ端を入れた。コイン式ではなくパスワード式のロッカーだ。この時代の最先端だろうな、とキリコは思った。
それからようやくカウンターで荷物を引き取る。仕事道具を手にした途端、死神としての思考が顔を出す。良くも悪くもBJや彼女の娘の事情を一瞬にして自分の中から追い出し、患者以外への愛をどこかへ忘れた存在になる。軽口を叩く気にもなれない。公衆電話にコインを入れ、指先が記憶している番号を回す。挨拶もせず、用件だけを言った。
「ヒースロー。ヴォクソール、トップ、ツー、スリー」
『──1337、1700』
「どうも」
次に別の発信先に電話する。コール音が鳴る前に切り、そのまま受話器を置く。用事があるわけではなかった。単にこの公衆電話の最後の発信履歴を先にかけた番号以外にしておきたかっただけだ。キリコが受話器を置いた途端、どうも、急ぎなもので、と言って横から受話器を取り上げた男がいた。ええと、何番だったかな、と白々しく呟く彼にキリコは冷たく笑い、空港を後にした。
使った電話から電話局に連絡すれば、直前にかけた電話番号を調べてもらうことができる。ただし公的な令状がない限りは直前1件のみだ。
驚くだろうな、とキリコは思った。キリコが最後にコールした電話番号は、他の客に電話を使われないように急いで横から手を出して来た男の職場のものだった。
少し親切心を出し、空港から少し離れた場所で見付けたカフェで時間を潰す。しばらくすると店員がキリコを呼び出した。
「ドクター・キリコ、お電話が入っております。ミスター・スミスです」
随分適当な名前で電話をしてきたものだ。店員に礼を言い、電話に出ると、一日前に不愉快な依頼をして来た男──MI6局長のが聞こえた。
『ドクター、特殊な訓練でも受けていたのかね』
「企業秘密ですよ」
『雑貨屋で言っていたクイーンとは先生のことかな』
「野暮を仰る」
『確かにね。失礼』
「後でロッカーのナンバーを教えて開けさせる。サプライズにしたいので、彼女には内緒にして頂きたいものです」
『番号を教えてもらうわけにはいかないか。すぐに同じ番号で閉じさせるよ』
「これ以上、今日の私の予定に口を出さないことをお約束頂けるのなら」
『誓うよ』
「823」
『熱烈だな』
823は「Thinking of you」、単語の並びが8文字、2文字、3文字でできていることから823と略されることがあった。Thinking of you、あなたのことを思っている。愛しい相手への贈り物を入れたロッカーの開錠ナンバーとしては出来過ぎているかもしれない。
『ロッカーを確認次第、尾行させていた局員に引き上げるように伝える。今日、あなたは自由だ』
「嬉しいですよ。ああ、そうだ、仕事道具は回収して来ました」
『それも確認している。お手数をありがとう。──あなたを尾行していた局員が電話をかけて来た時には驚いた。自分の職場の電話番号も覚えていないのか、とね』
想像しておかしくなり、キリコは少し笑って電話を切った。さて、闇医者が何を購入したか確認しなくてはならない局員は、ロッカーを開けてメモ帳の切れ端を見てどんな気持ちになるだろう。
【親愛なるジェイムズ・ボンドへ。どうぞ召し上がれ。良い一日を】
これくらいの意趣返しは許されるべきだ。決められた時間まで暇な死神は、改めて買い物に出ることにした。