日本国内、かつそれなりに都市化した地域に住んでいるのであれば、家の電話が鳴ることは避け難い。いつかは家の電話など消え去って、個人に直接繋がる通信方法が普及するのだろう──キリコは眠気が覚めやらぬ中、そう思いながら受話器を取った。
「Hello?」
普段なら入った郷に従って「もしもし」くらいは言うのだが、まだ頭が半分眠っている。つい素のままで応答してしまった。
とにかく眠い。仕事関連の後始末で徹夜だったのだ。時計に目をやれば10時半だった。ベッドに入ったのは確か7時前後、もう少し寝たかったな、セールス電話だったらじっくり話を聞いて気を持たせて最終段階で電話を叩き切って、それから迷惑業者として国民生活センターに通報してやろう、と思った。
『寝惚けてんじゃねえよ、馬鹿キリコ』
瞬時に目が覚め、即座に脳内で会議が繰り広げられた。あの女は頭がおかしい、と主張する自分はとりあえず議場から追い出した。そんな当たり前のことを話し合いたいわけではない。ふざけるな、電話を叩き切れ、と言う自分に悪くないと同意する自分がいる。キリコはその自分の意見を採用した。
『今ロンドンのゴーリングなんだけど。先週から来てて──』
「I’m sorry, I’m having trouble hearing you」
申し訳ありませんがお電話が遠いみたいで。わざとらしく丁寧に言い、フックに指をかける。電話の向こうの女は無論そんな光景が見えず、更に勝手に話そうとする。
『だから、今ロンドンのザ・ゴーリングホテルに泊まってて。ちょっと訊きたいことが──』
「Thank you for calling. Have a pleasant day」
『キリコ!』
お電話をありがとう、では失礼。お決まりの挨拶と共にフックを丁寧に押して電話を切り、3秒ほど待ってから、思い切り受話器を定位置に叩き付けた。
「何がロンドンだ、クソビッチ。ゴーリングホテルなんて高級宿、モグリのくせにいいとこ泊まりやがって」
すっかり眠気が覚めたことを自覚し、舌打ちをした。煙草に火を点け、バルコニーから中庭に出る。出入りの庭師に丸投げしている庭はいつの季節も整っていて、常緑樹が外からの視線を完全に遮る中、立葵が下部から花を咲かせ始めていた。もうそんな季節か。そう思い、日本の花で季節を思い出すようになっていた自分が、この国に随分慣れたのだと気付いた。
──そういやロンドンに男がいるって言ってたな。そいつといるんだろうに、よく俺に電話ができるもんだ。
花を眺め、その向こうの日光に目をすがめ、ああ、もう眠れないな、と諦める。室内に戻って煙草を揉み消し、短いダイヤルをコールした。
「Hello、Overseas call to London、Please」
『かしこまりました。お電話番号は?ナンバー、ナンバーを、ええと、ナンバーをプリーズ』
美しい声をした女性のオペレーターは日本語と適当な英単語の羅列で返事をし、依頼者の希望に従って架電の準備を開始した。そこでようやく、日本発信の国際電話の交換手は日本人で、皆が皆英語を解せるわけではないのかもしれないと思い出し、少し悪いことをした気分になる。日本語にしておけばよかった。
だがBJに対してはちょっとした意趣返しだ。キリコは小さすぎる溜飲を下し、応答を待った。結局掛け直すんだから俺も馬鹿だよな、と思いながら。
BJはすぐに電話に出たが、開口一番「死んじまえ!」と、えも言えぬ麗しい挨拶を投げ付けてくれた。
『掛け直すくらいなら切るんじゃない!』
「電話が遠かったんだ。多分ね。たぶん」
『礼儀知らず! コレクトコールなんてふざけた真似しやがって。掛け直すなら普通は自腹だろうに!』
「先生に礼儀知らずなんて言われたら鏡をプレゼントしたくなっちまうよ。無駄金を使わせるのはやめてくれ。──国際電話代くらい彼氏に払ってもらいな。他の男に電話を掛けても怒らない男だったらの話だけどね」
『喧嘩売ってんのか』
「用件は? 無駄話の間に電話代が上がるよ」
『Let me call you right back、scum!』
「……先生、それは女性が言うべきじゃないよ」
呆れ返ったキリコが最後まで言う前に電話が叩き切られた。すぐ掛け直します、最低野郎! ──こんなにも素晴らしい挨拶で電話を切られたのは人生で初めてだった。
そして数分後、律儀に──正確に言えば諦めて──待っていたキリコの目の前で電話が鳴る。ロンドンからの電話代って一分いくらだったっけな、と考えながら受話器を取った。
『ロンドンのザ・ゴーリングホテル、間様より、コレクトコールでお電話のご依頼でございます』
「やっぱりやりやがった、あのクソビッチ」
『え?』
「いいえ、何でも。失礼しました。どうぞ繋いで」
後で何が何でも本人から電話代を回収してやる。キリコは心に決め、煙草を咥えて火を点けた。
そしてその数時間後、「クソビッチより適した下品な呼称はないものか」と考える、不機嫌極まりない死神が空港でキャンセル待ちをしていたのだった。
指定された場所──要はBJが宿泊している高級ホテルだ──に到着し、礼儀正しくフロントから呼び出しをすると、思ったよりも早くBJがロビーに姿を現した。コートを羽織ったいつもの姿だ。その外見に振り返る客は多く、そしてそのほとんどが彼女の顔の傷に嫌悪の色を浮かべ、そそくさと目を逸らせる。気にしないで俺に手を振るこいつがすごいよ、とキリコはこんな場面に出くわすと毎回思うのだ。
「遅い。早漏のくせに行動が遅いなんて、やっぱり最低野郎だ」
「こんな高級ホテルのロビーでそんな単語を言える先生は本当にすごいね」
「日本語なら分かる奴なんていねえよ」
「俺はその症状に適さないし、かつ、はっきり言えば最速で来てやった。俺をねぎらうべきだ、先生。楽しませろ、全力でな」
「じゃあご馳走になろうかな」
「俺を、ねぎらう。先生が、俺を、ねぎらう。意味分かる? ニホンゴムズカシイ?」
「私に奢れるなんて嬉しいだろ。何て気が利いたねぎらいだ。自分で自分に惚れちゃいそう」
「クソビッチより悪い言葉を知ってたら教えてくれ。非常に度し難い女がいやがるもんでね」
「ニホンゴムズカシイ」
分かり切っていながらにやにやと笑い、BJは先に立って歩き出す。彼氏はどうしたんだ、俺と出掛けていいのか、と野暮は言わないことにした。理解している男なのかもしれないし、理解していないとしても、後でトラブルになろうがそれはキリコの知ったことではない。
「私に奢るのは勘弁してやる。自分の分だけ払いな」
「先生にしちゃ破格のおもてなしってことは理解してるけど、やっぱり度し難いね」
「ニホンゴムズカシイ」
まだ夕飯時には少し早い時間で、17時を回ったばかりだったが、だからこそロンドンのパブは賑わっている。仕事帰りに一杯引っ掛ける男たちが店先まで群れを成し、その光景を見たがる観光客が更に群がっていた。
「よう、先生。今日は早いね。いつもは夕飯時なのに」
「こんにちは。ちょっと飲みたくなっちゃって」
「どちらさん?」
店先の樽に寄りかかり、立ち飲みをしていた初老の男が声をかけて来た。まだ一週間程度の滞在なのに、こいつはもうここの連中と打ち解けてるんだな、とキリコは彼女の対人スキルの高さを垣間見る。
「人殺し」
「ええ?」
「──ドクターだよ。薬学のエキスパート。腐れ縁なんだ」
男と周辺の飲み仲間たちは感嘆の声を上げ、たちまちキリコを見る目に医師への尊敬の念を込めた。そんなに良いお医者さんじゃございません、と言いたくなる気持ちを押し殺し、キリコは遥々日本からやって来た連れを気にしない図々しさで立ち話を始めたBJを無視して店内に入る。
キリコがBJを図々しいと思ったのは確かだが、おそらく彼女はここで何らかの医療行為をし、英国滞在中の拠点にしたいのだろうと看破していた。いざと言う時、地元の人間と交流があるかないかで状況が変わる。特にここはロンドン、更に王宮も近い地区だ。最近のアイルランド関連の不穏な情勢を鑑みれば、BJの行動の意味も理解できた。
「連れはあのビッチ。よろしく。ギネスを」
カウンターの前で足を止め、マスターに初来店の挨拶をしながら飲み物をオーダーし、マスターと周囲の客たちに品のない女の蔑称で下卑た笑いを提供すると、少しだけ気が晴れた。
「ビッチだって? ブルーカラーみたいな言い方をなさんなよ。あんた、ブルーカラーじゃないだろう」
この店はブルーカラーと観光客専門だよ、とマスターは言いながら英国発祥の有名なビールを雑に注ぎ、キリコに手渡す。
「観光客が来るのに階級を遵守する店だとはね」
「それも観光資源なのさ」
「ふうん。──あんなクソビッチが入り浸ったら逆効果になりそうだけど」
「先生はここのオヤジどもの可愛い娘で、若い兄ちゃんどもの姉ちゃんだ。変な言い方はこっそり頼むよ。みんな本気で怒るぜ」
「おや、随分愛されたもので。アル中でも診て恩を売りやがったか?」
「先生が初めて来た日、先に酔っ払って鬱陶しい飲み方をしていた日本人の女がいてね。旅行者だったらしいけど。──信じられるか、先生も同じ日本人なんだぜ? その女を引っ叩いて蹴り出してくれたのさ。俺は女や観光客にそこまでできないからな、助かったよ」
「そいつは──うん、酒に汚い……じゃなくて、飲むのを邪魔されるのが嫌いな彼女ならそうするだろうし、同国人の同性に実行できるなんてかなり怒っ……素晴らしいね。──ああ、どうもありがとう」
なるほど、なるほど、医療行為ですらなかったか──と独りごちながら狙いを定めたスペースへ移動する。テーブル代わりの樽に鞄──仕事用の鞄ではなかった──を置き、煙草に火を点け、雑に入れられたことが分かる、しかしこの時間にスタンディングで飲むには一番適した淹れ方のスタウトエールを一口楽しんだ。
混雑した店の中から外を見ると、店外のスタンディングスペースからBJがやって来るところだった。いつの間にかパイントグラスを持っている。キリコがいる場所に歩くまでに何人もの地元の客から声をかけられ、そのたびに「こんにちは」と日本語で返事をしていた。あれはあれで欧米人が喜ぶ返事なんだよな、相変わらず上手いもんだ、とキリコはしみじみしてしまった。とにかくBJは人の心を掴む術に長けている。キリコは「営業」と名付けていた。顔や身体の傷まで営業材料にする徹底振りは、間近で見ると言葉も出ない。
あの対人スキルを見るたびに、ベトナムの頃が嘘のようだと何度思ったか知れない。そしてその術を身に付けるまで、彼女がどれほどの辛酸を舐めたのか、敢えて考えないようにした。引きずられて自分の左目の傷の記憶までもを思い出してしまいそうだったからだ。
「お待たせさんで」
「ここでも営業か。モグリも楽じゃないな」
「腕っ節が強いオッサンやお兄ちゃんには困らないし、ロンドンの中央部だし、日本人観光客が多いからツギハギも慣れた場所なら気にされなくなるし。営業しておいて損はない。しかも私は初日に店の手伝いをしたからタダ酒だしね」
「ボディガードよりタダ酒が目的だったんじゃないか」
「私のことをよく分かってるじゃないか」
「中身は?」
ギネスのような質の酒にしては色が薄く、いやに発泡しているパイントグラスを指さす。嫌な予感がした。するとBJはにんまりと笑ってみせた。この笑い方の時はろくなことを言わないと知っているキリコは、先に溜息をついておいた。
「聞くまでもなかったな。ニューヨークでコソコソ飲んだやつか」
「コソコソって言うなよ」
「言うしかないよ、あれは」
「飲みたかったんだ。ギネスを半パイント、シードルを半パイント。最高」
「最低だよ」
余程の酒豪でなければあまり飲むことがないほど強いビアカクテルだ。大抵の人間ならすぐに酔うし、酒に弱い体質なら腰を抜かしかねない。ところがBJはニューヨークでこれを一気飲みし、けろりとしていたものだった。
「先生、確認するけどね」
「ん」
「先生が出席するシンポジウムは完全に非公開なんだよな?」
電話で言われたことを思い出し、キリコは確認する。非公開のシンポジウムは珍しいが、BJが出席すると言うのも相当珍しかった。
「そうだよ。題材が題材だし、出席者も出席者だし。そもそも非公開じゃなかったら私も出ないよ、面倒だもん。それに、非公開ならおまえさんも出やすいだろ?」
「俺は出ない」
「非公開なんだから別に出てもいいじゃないか。モグリと死神が行ったら盛り上がるよ」
「とにかく出ないよ」
「じゃあ何でロンドンくんだりまで来たんだ。仕事がなくて暇なのか。転職しろ」
キリコは心の中で聖書の短いフレーズを唱えた。立ち返って冷静になればわたしは救われ、信頼すればわたしたちは力を得て──よし、一瞬沸き起こった殺意が消えた、俺は冷静だ。
「先生が本を持って来いって言ったからじゃないか」
「──持って来てくれた!? 最高! ありがとう!」
キリコが鞄から薬学に特化した日本語の医学書を出してみせると、BJは驚くほど素直に喜び、キリコを苦笑させた。大体の奴ならこの喜び方で許してしまうんだろう、と思った。それにしても船便で郵送するよりよほど早いとはいえ、本一冊のために日本からロンドンまで呼びつけるとは。たまたま購入し、一通り読み終えていたキリコは、なぜか断り切れずに本を携えて海を渡ったのだ。
「シンポジウムで使いたかったんだけど、まだ出たばっかりの日本の本だし、こっちで翻訳出版されてなくって。おまえさんなら絶対持ってると思ったんだ。嬉しいな」
中を確認するようにぱらぱらとめくり、BJは弾んだ声を出した。こんな声を聞いたことがあったかな、とキリコは思う。
「貸すだけだ、読んだら返してくれ」
「これ欲しい。頂戴!」
「あのね、先生──」
「だって付箋やチェックが入ってる。ドクター・キリコがマークしたなんて! これより勉強になる薬学書なんてそうそうないよ!」
比喩でなく目を輝かせ、子供が手に入れたばかりの玩具の包装紙を剥ぐ時のような興奮を見せる女に、そんな顔されたら返せなんて言えないだろう、とキリコはまた苦笑してしまった。──そう、大体の奴ならこれで許してしまうんだろう。俺も今回ばっかりはその大体の奴になっちまったんだな。──そう、今回ばっかりは、だ。
「じゃ、あげるよ。その代わり俺に新しいのを買ってもらわないといけない」
「自分で買えば」
「期待を裏切らない返事だ。心の中でクソビッチって言っておくよ」
「何で心の中なんだよ」
カウンターでマスターに聞いた話をすると、「女王の国だけあって、ナイトばっかりで」とBJは笑って最初からページをめくり始めた。瞬時にして勤勉な医師の目になったBJの横顔を見て、ここで読むのかよ、とキリコはややうんざりしたが、彼女の勤勉さと医学が関わった際の空気の読めなさはいっそ個性だと思うことにした。
キリコ自身は特にすることもなく、店を出ても良かったのだが、まだ空いていないパイントグラスが惜しい。その程度にはこの店の淹れ方が気に入った。煙草を片手に美味い酒を味わい、たまに視線を横にやっては天才外科医が夢中になって本を読む様を観察する。BJよりも高い目線になる自分の位置からは、伏し目に見える目元に長い睫毛の影が落ち、こいつじゃなければ手放しで綺麗だと褒めたくなっただろうね、と思った。要は綺麗だと思った。
「先生、お代わりは──勉強中か」
グラスの様子を覗きに来たマスターが苦笑し、BJは返事もしない。一度カウンターに戻ったマスターはキリコのギネスとBJの凶悪なビアカクテルを新調したパイントグラスを置き、「先生の連れの医者なら今日はサービスだ」と言って、また賑わう客たちをあしらいに行った。一杯飲んだら店を出ようと思っていたキリコはやや戸惑ったが、店主の好意を無下にするほど急ぎの用事があるわけでもなし、開き直ってもう一杯空けることにした。BJは相変わらず本を読み続けていた。
たまにキリコがマークしておいた部分を何度も読み返す素振りを見せ、関連のあるページに戻ってはまた読み返す。納得が行かないのか唇を歪め、ううん、と息を吐いたことをタイミングに、キリコはBJに声をかけた。
「そこはね、根拠が不充分だと思ったから要調査」
「ああ、そうなのか。どうもおかしいと思った」
「天才外科医と同意見とは光栄の至り」
「こちらこそ光栄で。──あれ、もっと飲んでなかったっけ」
新しいビアカクテルのパイントグラスを見てBJが驚く。マスターが持って来てくれたんだよとキリコが教えると、そうか、 びっくりした、と言いながら早速口を付ける。また本に意識を戻してしまいそうだったので、キリコは開いたページの上に指を置き、数度叩いてBJの注意を引いた。
「何?」
「閉店まで居座る気かい。ホテルで読みなよ」
「確かにそうだ」
「彼氏を放っておいていいなら好きにすりゃいいけどさ」
「彼氏彼氏って、おまえさん、笑えない嫌味を言いなさんな」
「嫌味?」
「嫌味だろうに」
「ロンドンに彼氏、いるんだろ?」
「はあ?」
顔中に「こいつ何言ってんの馬鹿か嫌味か性的侮辱か?」と大書きし、BJはまじまじとキリコを見る。キリコは「あれ、違ったのかな、それとも別れたのかな」と考えながらその顔を見返す。ああ、と思った。ああ、可愛いな。
「ニューヨークの件の時、ほら、先生──ああそうだ、そのビアカクテル。ロンドンで男と飲んだって」
「パブにいる客なんてほとんど男だろ?」
「え?」
「え?」
「だから、先生が彼氏と飲んだんだって話じゃなかったっけ?」
「キリコ」
「うん?」
「──Screw you!」
「はあ!?」
くたばれ! と絶叫したBJとその言葉を向けられた自分に、店中の男たちの視線が集まる。明らかにキリコにとって好意的ではない視線だと一瞬で分かり、ちょっと待て、と青ざめる。BJがわざと英語で叫んだのだと理解した。
一見して腕っ節自慢のブルーカラーたち、かつ紳士の国、更にこの店では一目置かれているらしいBJを相手に、と、悪条件が重なり過ぎている。
「先生、ちょっと落ち着いて。俺がまずいこと言ったなら──」
これはBJを宥めるしかないと決めた瞬間、再びBJが叫んだ。
「いいからもうやめてよ、いやなのよ、馬鹿!」
もう駄目だ、俺の評価は地に落ちるどころか大地を割った上に掘削を始めてしまった──キリコは覚悟した。BJが「嫌だ」という意思を叫んだ途端、店中の男たちがその視線に暴力じみているとまで言える剣呑な色を乗せ、一斉にキリコを睨みつけたのだから。
「わたしに彼氏がいようがいまいが興味ないくせに! 何よ! ──何よ、最低男!」
最悪だ。キリコは心から後悔した。ここで言うべきではなかった。もはやBJは理性的に、計算した上で「感情的な女」を演じ始めた。女言葉で叫んだのがその証明だ。目に涙さえ浮かべてみせている。──とても素敵だね、先生、ハリウッドに進出する時には全力で応援するよ! この店から俺が生きて出られればね!
店の男たちの総意を代表するかのように、おそらくは前線を知る軍人だろうという鍛え上げられた、だが美しく引き締まった体格の男がカウンターを立ち、キリコの前にやって来る。キリコは深く溜息をつき、BJに一瞬視線を送った。俺がぶちのめされる姿を見て溜飲を下す気なんだろう、と思い、女の演技の顔の下に隠されたにやつき笑いを見てやりたかったのだ。
だが意外なことに、BJはそんな顔を隠していなかった。それどころか明らかに「早いとこやっちまいな」と言わんばかりの視線を、キリコ同様に一瞬だけ送って来たのだった。
「ドクター、強いなあ! 自分で言うのも何だけど、俺に勝てる奴なんて滅多にいないんだよ」
やはりその男は軍人だった。腫れあがった頬をBJに手当してもらっているからか、悪い気分ではなさそうだ。
勝敗はものの数秒でついてしまっていた。軍人がキリコにどういうことだと迫り、面倒くさがったキリコが返答を拒否し、激高した軍人が拳を握った次の瞬間、その腹に医師の拳がめり込んでいた。男が倒れ込む前に医師はその胸倉を掴み上げ、「医者がいる店で良かったな」と言ってから顔を殴り飛ばし、終わりだと判断したマスターが割って入って終了となったのだった。
「そんな負け知らずの男をナイトにして、クイーン気取りで我儘に振る舞う先生が一番悪いね。──その治療費は心配するな、タダ以外じゃ俺が許さねえから」
「そりゃあ心強いや。先生は高いって聞いたからな。──でも先生が嫌がったってことは、先生にとって失礼だったってのが事実だと思う。俺はそこのとこ、譲れないよ」
「ま、そうだろうね」
本気で嫌がったはずがない。この女の演技力には心底から脱帽だ。今とて自分のためにキリコに制裁を加えようとして返り討ちに遭った元軍人に過剰なほど丁寧な手当をし、ごめんね、でもわたしを守ろうとしてくれたのね、ありがとう、と言ってみせている。それで充分なのか、軍人は敗北の屈辱よりも女性の名誉を守ろうとした自分の騎士道精神に満足し、構わないよ、先生のためなら、と笑っていた。
「ドクター、どうぞ、飲んでくれよ」
「あんた凄いね、ひょろいかと思ったら大したもんだ」
「ああ、いや、どうも」
キリコは酔った男たちがしきりに勝利の杯として飲ませて来るギネスを律儀に片端から片付けながら、女を挟んで喧嘩するなんて、可愛いユリに近付こうとしたロリコン野郎を相手にした学生時代以来だと遠い目をしたくなっていた。
それにしても店の客たちの愛想が良い。誰もが先ほどまでのキリコへの敵意はどこへやら、先生もあまりヒステリーを起こすもんじゃあないよとBJを窘める始末だ。BJは頬を膨らませる振りをし、キリコが飲まされているギネスを横取りする。
次から次へと男たちが勝者へ一杯奢りたがり、キリコはロンドンに来たことを深く後悔し始めていた。男たちが小気味の良い、そして遺恨の残らない綺麗な喧嘩をしてみせた自分のことを、身近に思い始めてしまったことが分かったのだ。
もしかするとBJはこれを狙って喧嘩をさせたのかもしれない、とまで思った。その目的はまだ分からないが、これは絶対に何かある。そうでなければあんなにまで「女」を強調した演技をするはずがない。
「で、彼氏が何だかどうだって、先生は何を怒ってたんだい」
マスターがようやく本題を思い出す。
「関係ないでしょ」
「俺の店で、誰に何が関係ないって?」
わざとらしく可愛い口調で返答を拒もうとしたBJに優しく、だが有無を言わさぬ声でマスターは言う。これにはBJも抵抗できず、肩を竦め、キリコをちらりと見やってから白状した。
「この唐変木がさ」
「誰が唐変木だ」
「うるさいんだよ、馬鹿キリコ。──私がロンドンに男を作ってるなんて勘違いして、こっちの用事なんか無視して、男は、彼氏はって探りを入れてばっかり。もううんざり!」
まるで嫉妬深い男を非難するような口ぶりだ。そんなはずないだろう、成人男性として当然の気遣いであって──とキリコが言う前に、周囲の男たちが一様ににやにやとし始めたことを知り、心の中で「神よ」と呟くしかなかった。ちらりとBJを見る。目が合った途端、ふいっとそっぽを向かれた。女のその態度に、遂に店の中から冷やかしの口笛が聞こえ、下卑た冗談が流れる。やめな、とBJがややヒステリックな声を出し、マスターにコインを投げ、滅多に使われないジュークボックスを指した。
「クソッタレな冗談がうるさくって鬱陶しい。何でもいいから一曲」
「この辺じゃ、アビー・ロードで作った曲以外は聴いちゃいけない法律があってね」
架空の法律のせいにして、マスターはこの時代に生きる誰もが知るアーティストの、やはり誰もが知る有名な曲をかける。キリコも当然知っている。この店がかのアーティストと縁の深い交差点が近い立地であることに思い至った。
プリーズ、プリーズと軽快な歌声の中、やがて店内は落ち着きを取り戻し、いつも通りに陽気なパブの顔になる。少し前の時間と違うのは、そこに元軍人を一瞬で叩きのめしたドクターが、どうやら最近常連になった傷だらけの女性外科医と良い仲か、良い仲寸前の関係に違いないという誤解が事実のように根付いてしまったことだった。
「先生」
「彼氏ならいないって言ってんだろ」
「もう演技はいいから。営業は充分だろ」
キリコが言うとBJは眉を跳ね上げ、「確かに」と言う。その跳ね上げ方は彼女が気分を害した時だと思い至ったが、気分を害するのは俺であるべきだと至極最もな考えて、BJの不機嫌にこれ以上触れないことにした。今度は演技ではなく本気のヒステリーを起こされかねない。
「でも本当にいないから」
「分かったよ。しつこく聞いて悪かった。──何が目的でこんなことをしたんだ? 俺に何をさせたかった?」
「私に特定の男がいない、でもおまえさんみたいな腕っ節の強い知り合いがいる、ってのをこの辺の連中に教えたかったんだ。周りの連中の物分かりが良くてよかったよ。飲み仲間が負けて激高するタイプだったらもうちょっと大事になる予定だった」
「予定」
「対策は立ててあった」
「二重三重の営業計画か。そこまでこの店が必要か? 何の拠点?」
「タダ酒に勝るものなし」
「あのさ、先生──」
英国滞在中に安く飲みたかっただけにしては酷過ぎるだろう──キリコがそう言おうとした時、BJが小さな声で先に言った。
「それは半分冗談でね。か弱い女の自衛目的だよ」
「は?」
「場所を変える。外に連れてけ」
言葉が少なすぎる要求に、キリコは最大限高速で脳を稼働させる。場所を変えると言いながら、BJの指先はまだグラスを弄び、さりとてお代わりをしたい風情でもない。何なんだ、と思っていると、BJがひとつ舌打ちをし、ついとその身体をキリコに寄せた。横目で二人の様子を窺っていた客たちが、ちょっとした酒の肴を見て小さく囃し立てた。先ほどBJがかけた曲をまたマスターにリクエストし、Please、Please me、と歌ってあからさまにおどける客もいる。
察したキリコは溜息を押し隠し、BJの肩を抱き、耳元に唇を寄せた。傍から見れば頬にキスをしたように見えるだろう。囃し立てる声が止み、後はどうぞお二人でという空気に変わったことを肌で確認し、キリコは日本語で囁く。
「ニューヨークの再現でもしろって?」
「いや、今回は乱闘なしで。とにかくもう出る。次の予定がある」
「果てしなく端的な説明ばかりでうんざりしてきた」
「私もおまえさんの察しが悪すぎて苛々してきたよ」
「これで分かる奴がいるとは思えない」
キリコは店の壁時計を見る。19時だ。成就したばかりの恋人たちが──もはやこれはキリコも諦めざるを得ない設定だった──河岸を替える、あるいは恋を深め始めるにはそこそこ良い時間だった。
店の前には観光客が増え、少しばかり度を越した大声で騒いでいる輩もいる。それが日本語だと気付き、最近の日本人は本当に遠慮がなくなっているんだな、とキリコはいささか残念になった。店内の常連たちもうんざり顔をし、マスターに会計を頼む声が上がり始める。
「ああ、今日はいいよ」
キリコがマスターに向かって宙でサインを書く指真似をしてみせると、会計だと察したマスターが言った。
「先生と一緒の時ならあんたもタダだ。その代わり病人が出た時には二人で頼むぜ」
「役に立たないことを願うね。ご馳走様」
「先生、おやすみ」
想いが通じ合ったばかりの恋人──と、本人たち以外の店の中の誰もが思っていた──に肩を抱かれたBJに、マスターや他の客たちが優しく声をかける。BJは恥ずかしそうな顔をすることを忘れず、ご馳走様、とこんな時でもなければキリコが決して聞けないであろう可愛い声音で今日の別れを告げた。
店の前のスタンディングスペースの前を通った時、日本人の観光客数人が大声で笑い、身を捩り過ぎ、一人の男がBJに軽くぶつかった。すみません、と笑いながらBJに謝った男は、ぎょっとした顔でBJをまじまじと見つめ、それから同行者に「すげえ顔」と笑って見せる。BJが英国籍の日系人にでも見えたのか、日本語が分からないと思ったのだろう。酒が回った同行者たちの幾人かも笑う。だが止める者もいて、BJに向かって必死で「すみません、ごめんなさい」と片言の英語で謝っていた。
慣れてる、行こう、とBJがキリコを促した瞬間、キリコは笑った男の胸倉を掴んでいた。
「──It's fine」
上等だ、と言うその声は、周囲の喧騒が静まり返るほどに冷たく、明らかな殺意が滲み出ていた。
「Who has the honor?」
誇りの欠片もないのか? ──銀髪、隻眼の長身の白人に何を言われたか分からない顔をしたままのアジア人の男を、同行者たちの方へ力を込めて突き飛ばす。BJに必死で謝っていた者は最後の情けとして巻き込まないようにしてやった。派手に転んだ彼らを見降ろし、それまで静かに抑えていた声を一転、それこそ映画俳優の決め台詞よろしく張り上げる。
「Don't insult My Queen!」
俺の女を侮辱するな!
その瞬間、周囲にいた地元客や英語を理解する観光客たちが大歓声を上げた。まるで贔屓のサッカーチームがリーグ優勝をしたかのごとき大騒ぎだ。酒の肴や旅行の土産話として上等すぎる光景を見た彼らは口笛を吹き、手を叩き、日本人に対して差別用語を叫ぶ者すらいた。キリコはその言葉を聞かないように努めた。
「ドクター、あんたも一生タダで飲んでくれ!」
店の中から見守っていたマスターが叫び、常連たちが更に沸き上がる。
「何て言ったらいいか分からないわ、マイ・ナイト!」
BJが恋人の振る舞いに感動した可愛い女王様の真似をわざとらしまでに演じ、キリコの首に噛り付き、その耳元で「うまくやったじゃないか、これで堂々とこの店に通える」と囁く。まあねと小さく答えて抱き返す振りをしながらも、別にうまくやろうとしたわけじゃない、と言うのはやめておいた。不意に生まれた激情が抑えられなかったなどと、彼女に言う必要がない関係なのだから。
警邏中の警察官が何だ何だとやってくるほどの喧騒の中、BJがまだ必死に謝る同行者の一人に言った。
「最近、日本人観光客のマナーが悪すぎるんだ。気を付けるんだね。下手すりゃ殺されるから、お連れさんたちに教えてやるといい」
言われた側の顔がこの上なくぽかんとしたのは、それが日本人しか話せないような発音の日本語だったからだろう。キリコは恋人の名誉を守った騎士として退場するため、笑いそうになる頬を意志力で抑えながら、BJを「行こう」と促したのだった。
「先生、とりあえずこれだけ説明しろ。何であの店が必要なんだ?」
BJが滞在するホテルに向かって歩きながら、キリコは日本語で聞いた。英語よりは誰かに理解される可能性が低い。闇が関わる話はともかくとして、多少突っ込んだ話もしやすかった。
「まあまあリベラルなのが第一の理由」
「リベラルねえ。まあ、確かにこの国にしちゃ日本人も受け入れてるしな」
「初日は大変だったよ。あからさまに嫌な顔をされてさ。常連じゃなければ最初は店の外のスタンディングスペースで飲むんだけど、この見てくれが迷惑だから中に入れ、一番奥で飲んでさっさと帰れ、もう来るなって言われた」
「あのマスターに?」
「さっきみたいな日本人客も増えて、余計にイラついてたってのもあるんだろうけど」
「それにしてもさ」
あれだけBJを優しく扱っていたマスターがそんなことを、とキリコは流石に驚いた。BJはキリコの表情に皮肉な笑みを浮かべてみせる。
「あのマスター、元々アジア人が大嫌いなんだ」
「──どこがリベラルなんだよ」
「門前払いをしなかった、って辺りで相当リベラルだよ。おまえさんは実感できないだろうから、理解だけしておきゃいい」
キリコは溜息をついた。左目のことを差し引いても、自分自身がいわゆる見栄えの良い白人男性であることは客観的に分かっているし、階級社会である欧米では当然のように優遇されるということも分かっている。かと言ってあからさまな差別を受ける話を聞いて、そりゃあ仕方ないだろう、だって先生はアジア人だ、女性だ、目立ちすぎる傷があるんだ、だから仕方ないだろう、と言うことはできなかった。
「気付いた?」
「何に?」
「アフリカ系が誰もいない店」
アフリカ系、という耳慣れない言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに分かり、ああそうか、そうだったかもな、とキリコは呟いた。黒い肌を持つ誰かは確かに店に一人もいなかった。
「そんなもんだよ、この国なんて。未来は分からないけど、今のところは本当にそんなもん」
「腐るほどタダ酒を飲んでやれ。あの店の樽を全部空けてやれよ」
「何言ってんだ」
「嫌な思い、したんだから」
するとBJは足を止めた。キリコもつられて止まる。BJは目を見開き、じっとキリコを見上げていた。
「──慣れれば平気。うまくやれる」
「慣れなくていい」
BJは黙る。キリコは黙らなかった。
「慣れた振りもやめろよ」
俺が嫌なんでね。キリコは静かに言った。BJは視線を逸らし、しばらく言葉を探す素振りを見せたが、それきり何も言わなくなった。
まだ演技は続いているのかな。キリコはほんの数瞬悩んだ。悩んだ振りをし、自分を納得させる振りをしてから、わざとらしいほど甘い声で言った。
「今日は夜通しデートしよう、クイーン」
腰を折り、大きな傷が走る顔を覗き込む。ほら、こいつは可愛い。そう思った。傷があろうがなかろうが、綺麗な顔をしている。日本人でも。傷があっても。
「お願い、俺を喜ばせてよ」
Please、Please me。お願い、俺を喜ばせてよ。店で流れた曲を気取ると、BJは眉を顰め、それから息を吐いて──ようやく笑った。
「Come on!」
勘弁してよ! 曲の通りに返してみせるBJに、ああ、こいつはこういうやり取りにも気が利くんだ、とキリコはなぜか嬉しくなる。唇にキスをしようとして指で阻まれ、まだ時間が早いかな、とキリコが言うと、BJが笑った。二人で笑ってから改めて額にキスをした。今回は悪くない設定だ、とキリコは思った。
愛し合う時間を待ちきれない恋人同士の顔で路地裏に飛び込んだ途端、あっさりいつもの顔に戻ったBJから話を聞いたキリコは、悪くない設定だと思った少し前の自分を激しく罵り、本気でいつか殺してやるからなクソビッチ、と内心で絶叫する。BJがあの店にこだわった理由を知り、俺を巻き込むなと心底思った。
「怖い顔しちゃいやよ、マイ・ナイト」
可愛らしく言われたところで無駄だ。キリコは本気で腹を立てていた。
「もうその設定は廃止だ。俺が付き合い切れない」
「夜通しデートしようって言ったのは?」
「俺だとも! 名演技だったろ、感謝しろ!」
明らかな舌打ちの音が聞こえ、キリコはまたぞろ強い殺意を抱く。──クソビッチより悪い言葉があったらすぐに教えろ、今すぐ教えろ!
「最後まで貫けないのかよ。本当におまえさんはどうしようもねえ早漏だな」
「早漏じゃねえってさんざっぱら言ってんだろ! だからな、俺を巻き込むなって話だ!」
「証明できないことを主張されてもね! ──ニューヨークで私に痴漢したこと、忘れちゃいないだろうな!?」
ぐうの音も出なかったのは、キリコが自身で思うよりも紳士だからだ。だがそれが隙になった。BJがその隙を見逃すはずがなく、一気に攻勢に出る。
「さっきのキスだって、それからニューヨークのタクシーでかましやがったキスだって、私が同意してないんだから痴漢行為だ! 最近のフェミ団体じゃセクハラって言うらしいけど! このセクハラ野郎の早漏死神!」
「モグリのぼったくりクソビッチがほざいてんじゃねえ、それから俺は早漏じゃねえ!」
「そんなこと言わないでマイ・ナイト!」
「俺も言い過ぎたよクイーン!」
瞬時に抱き合い、言い争いの声を聴き付けて路地を覗き込んだパトロール中の警官に「恋人同士の痴話喧嘩」をアピールする。警官は肩を竦め、ほどほどにな、と言って歩き去った。それで二人が少々頭を冷やしたのは事実だ。身体を離して同時に溜息をつく。
「とにかく俺は御免だ。セクハラで脅したって無駄だ」
「そうか。じゃあ謝るよ。ごめん、キリコ」
「……素直に言われると余計に不審感が増すんだが」
あまりにもあっさりと謝罪の言葉を口にされ、さすがにキリコは怯む。この女が謝った? 自分の我儘を拒否されたのに? 逆切れしないで謝っただって?
「謝るしかないんだ。ごめん。これから少し大変だけど、頑張って」
「……はい?」
キリコは考える。もしかして。そう思った。もしかしてさっきの謝罪は「今までの無茶振りに対しての謝罪」ではなかったのではないか。
もしかして、これから起きる面倒ごとに対して、とりあえず謝っておこう、挨拶みたいなもんだ、程度の謝罪だったのではないだろうか。つまり──
「もう始まってるから降りるには手間がかかると思う。後は自分で交渉した方がいい」
「……待て、本気で待て」
「もちろん私は言わないよ」
「……何をだよ」
「おまえさんがあの悪趣味な商売道具を空港に預けて入国している可能性が高いなんてこと、MI6には絶対言わないから。彼らが調べ上げているかもしれないけど、とにかく私は絶対言わないから」
殺人準備罪かな、テロ準備罪かな、私には分からないけどまあとにかく頑張って、応援だけはするからね。BJは申し訳なさそうな顔を作る振りすらせず、煙草を取り出し、悠々と火を点けて、有害物質を吐息と共に夜のロンドンに撒き散らした。
「……Come on……」
勘弁してよ。キリコは呻くしかなかった。BJがにんまりと笑い、吸う? と煙草の箱を差し出す。
クソビッチ、と万感の思いを込めて吐き捨て、一本抜き取った後、腹立ち紛れにBJを引き寄せ、煙草の向こうで笑う女をいつ殺してやろうかと思いながら、シガーキスで火を点けた。
もう驚く気もしない。呆れる気もしない。BJに連れて行かれた中階層が住むアパートメントの一室で、あの店で殴っておいた軍人がドアを開けて「やあ、ドクター」と朗らかに挨拶をした時点で、キリコは自分で自分を絶賛したくなるほどに冷静になっていた。
「……後で痛みが出たら先生に言うといい」
「そうするよ。再診もタダかな」
軍人の頬は軽く腫れが残っていたが、痛みを感じるほどではないものだった。
「急な話なのにありがとう。先生もお疲れ様。夕飯は? どこかで食べた?」
「食べてない。腹ぺこ」
「ケータリングで良ければどうぞ。もちろんドクターも」
案内されるままに室内を進めば、明らかに堅気ではない鋭い目付きを持った3人の男たちが揃うリビングルームに通された。ソファの位置で最も上座にあたる場所に座っていた男が口を開く。
「ようこそ、先生。そちらが──」
「勝手に話してな」
ろくに挨拶もせず、BJはダイニングルームへ消える。この女のこんな肝の据わり方は久し振りに見たな、確かに闇の人間だよな、とキリコは何となく思った。
「失礼。ではドクター・キリコも先にお食事を」
「私は結構。さっさと話を済ませて欲しいもので。今日の宿も取っていないから探しに行かないと」
「今日の?」
「あのクソビッチ──失礼、名医に日本から呼び付けられて、一息つく間もなかったものでしてね。野宿は御免だ、どうぞ手短に」
「アンディ」
ダイニングからチップスを咥えたBJが顔を出し、あの軍人にそれだけ声をかけてまたダイニングに消える。BJの意図を察した彼は頷き、キリコの肩を叩いて「空いてなかったら先生の部屋でいいよね?」と笑いかけると、手配のために席を外した。
「心配ごとがなくなったようだが、ドクター」
満室だったら他のホテルを自力で手配する心配ごとが増えやがったよ、とは言わないでおいた。死神の顔と口調を貫くには忘れておきたい心配ごとだ。
「……失礼、やはり食事を頂きましょう。フライドポテトは嫌いじゃない。バドワイザーがあれば最高ですね」
この国ではチップスと呼ばれる料理をわざと米国風に言い、ついでに米国ビールを軽く褒め、彼らを苦笑させる。米国を嫌う国民性へのせめてもの意趣返しだ。
「アンディって名前なのか、あいつ」
ダイニングでマイペースに食事をしていたBJの唇からはみ出したチップスを奪い、自分の口に放り込む。腹が減っているわけではなかったが、彼らと話をするまでに多少状況を把握する時間が欲しかった。
「俺に殴られたのは演技か」
「一発目の打ち合わせはしておいたけど、二発目は知らない。後で本人に確かめれば?」
「あいつもMI6か?」
「SAS。現役隊員」
「英国陸軍特殊空挺部隊、か。あいつが特殊部隊員だって?」
「そうらしい」
「さあ、俺はどこから何を理解していけばいい?」
現状、路地裏で聞いた話だけでは把握しきれない出来事に巻き込まれている。非公開のシンポジウムに関して面倒が起きてしまっていること、あの店がMI6との連絡窓口であること、あの店にアンディがいる間はBJとキリコの身の安全は保証されること、マスターは何も知らないただの経営者であること。今のところ、キリコにはそれしか分からない。
「理解する前に怒るかと思った」
「先生相手じゃ怒るだけエネルギーの無駄だ。いつから計画してた?」
「おまえさんがこっちに来るって言ってくれた時から」
「──最初から巻き込むつもりだったってことか? 何で電話で言わなかった」
「言ったところで来ないだろ」
「そりゃそうだが」
それにしても、と眉を顰めてみせると、BJも眉を顰めた。チップスを数本まとめて口に放り込み、もぐもぐとやりながら、小さい声で告げる。
「ホテルの電話が盗聴されてた。だから言うに言えなかったし、わざと途中で電話を切って掛け直したりしてたんだ。掛け直しのたびに盗聴器に雑音が入って、何秒か聞こえにくくなるって話を聞いたことがあるから。無駄なのは分かってるけど、多少は焦るかもしれないだろ」
あの無駄に金がかかったやり取りに隠されていた意味を知り、キリコは苦笑した。コレクトコール代はMI6に請求してやろう、と決めた。
「盗聴って、誰に」
「MI6が言うにはアイルランド共和軍」
「──IRAだって? クソッタレ、この国の最大級のトラブルに俺を巻き込みやがって」
「そう怒るなよ。私だって困ってるんだ」
「俺からすれば先生もあいつらと同じ加害者だよ」
「私からすればおまえさんもあいつらと同じ白人男だよ」
キリコは少し黙り、その言葉の意味を考える。それからおもむろにBJの額にキスをして、「ごめん」と言った。BJは目を見開き、演技ではないキリコの突然の行為──日本人にとってはセクシャルな行為──に驚きと戸惑いをないまぜにした顔を向けたが、しばらくキリコを見詰めた後、「本心じゃない、ごめん」と言ってその話を終わりにした。
「俺も何か食っておくか。あいつらと長話になりそうだ」
「冷蔵庫にピラフがあった。そっちに電子レンジ」
「珍しいな、まだそんなに普及してないだろ」
「うちには置いてあるよ。結構慣れた」
「家電は慣れるまでが面倒だよな」
冷蔵庫から素っ気ないケータリングの器に入ったピラフを出し、最近普及し始めた電子レンジに入れて温める。それからBJが言った「同じ白人男だよ」という言葉を思い出した。今考えるべきではないと分かってはいるが、どうしても考えてしまった。あの男たちに冷たい扱いをされたのではないだろうか。マスターと同じようなことを言われたのかもしれない。あのアンディはどうなのだろう。彼女に向けるあの好意は嘘なのかもしれない。
電子レンジが鳴った。ピラフを取り出そうとして蒸気が手に当たり、熱い、と思わず言っていた。チップスに飽きたBJが食べる手を止め、ぽつりと言う。
「慣れれば平気。うまくやれる」
「そうか」
「うん」
「──慣れる気がしないよ」
呟くキリコの背後で、BJが少し笑った。
「本当はね、私も」
そうか、そうだよな、と、キリコはまた呟き、そしてどこかでなぜか安心した。
食事を終え、ケータリングの器を無造作にゴミ箱に突っ込んだ後、二人はようやくリビングへ向かう。男たちが待ち疲れた顔をしていないかと期待したが、そこに待つ彼らは最初に見た時と寸分変わらぬ姿勢で二人を待っていた。
「甘いものはいいのかね、先生?」
「苺のショートブレッドとレモンクッキー」
「可愛らしい。だが残念ながら用意が間に合わなかった。チョコレートケーキはいかが?」
「ケーキって気分じゃない」
勧められていない長椅子のソファにどかりと腰を下ろし、許可も求めずに煙草を咥えて火を点ける。キリコは無言で隣に座り、今日2回目のシガーキスで火を点けた。これでこの男たち──BJの言を信じるならMI6の要員たちだろう──に、二人の闇医者がそれなりかそれ以上に親しい、あるいは男女の仲だと言う強い印象を与えることができる。無論、真実を説明してやる必要はなかった。いつからか、何度もこんな状況に直面するうちに無言で成立していたブラフのひとつだった。
「ドクター・キリコ、例の店ではアンディが失礼した。先に説明しておきたかったんだが、時間がなかったものだから」
「先生から聞いていますのでご心配なく。私に気を使わずとも結構、さっさと話を進めて頂きたい」
「だったら時間かけてしっかり食ってんじゃねえよ、馬鹿キリコ」
いかにも蓮っ葉な物言いでBJが笑う。キリコも僅かに笑ってBJの腿を軽く叩いてみせる。男たちのような手合いが最も嫌う態度だと分かっていた。考えるまでもない、何よりも自然で気楽な演技だった。どうかしている、と思った。こんなことが楽にできてしまうなんて、俺たちは、闇医者ってやつは本当にどうかしている。
話題に上がったアンディはソファに座っておらず、さり気なく扉の横に立ち、警備を兼ねた立場だということを示していた。
「先生に聞いたらしいけど、改めて。アンディだ。SAS、よろしく」
「メインの担当区域は?」
「──特殊部隊に詳しい?」
「それなりに」
「さすがベトナムの──」
途端、アンディが首を傾げた。傾げる前に確実に頸動脈があった場所をメスが通過し、背後の壁に突き刺さる。特殊部隊隊員は芝居気たっぷりに両手を挙げ、「ごめんね」とメスを投げたBJに言ってみせた。
「余計な口をお利きじゃない。ドクター・キリコの質問に素直に答えな」
「──最近は北アイルランド。治安維持担当だ」
「それはどうも」
キリコは頷き、壁に刺さったメスを取りに行ったBJの後姿を見ながら改めて言った。
「私に殴られるのも任務のうちだったということかな。難儀なものだ」
「いや、まあ、確かにわざと殴られる予定だったんだけど、一発目は速すぎて見えなくてさ。あれは本気で殴られた。二発目はさすがにわざと殴られたって言わせてくれよ。あんた、やっぱりベトナム──先生、しまって。褒めてるんだから」
抜いたメスで下顎をぴたぴたと叩いて来るBJにまた両手を挙げ、アンディは苦笑する。
「軍人の褒め方なんざろくなもんじゃねえってのがよく分かったさ」
「そう言わないで。苺のショートブレッドとレモンクッキー買ってあげるからさ。機嫌直して話を聞いてよ」
「いらねえよ」
「調子に乗り過ぎだろ、少し黙ってろ、J×P」
「──ご破算で」
アンディの口から差別用語が飛び出したその瞬間、キリコは交渉決裂を宣言し、ゆっくりと立ち上がった。BJはアンディの顔に唾棄し、メスをコートにしまってキリコの元へ行く。
「どんな事情で先生を巻き込んだかは知らないが、私は目の前での差別を善しとはできない。安楽死が専門だからこそ──クイーン、私への説教は後だ」
たちまち開きかけたBJの口を指で抑え、その上からキスをしておく。
「──専門だからこそ、生命は等しくあるものだと分かっている。見た目や国籍ごときで不平等となる国家の者の話は聞くことができない、ましてや何らかの依頼でもお受けできない」
男たちは何も言わず、じっとキリコを見ていた。
「たとえ」
闇の男たちとはまた違う、それでもろくでもない、狂った強さの視線だ、とキリコは思った。
「たとえわざと差別用語を吐き、先生と私の反応を見ようとしたとしても。試されるのは好まない」
男たちは軽く手を叩き、あるいは脚を組み直し、または両手を開いて天を仰ぐ振りをした。BJがきょとんとしてキリコを見、それからアンディを見る。アンディは唾棄されて汚れた頬を指で拭い、肩を竦めてBJに「ごめんね」と言った。
「あ、そうか」
BJは納得したように手をぽんと鳴らす。
「私を罵る奴が顔の傷のことやツギハギって言わないはずがないんだ、なあんだ、騙された!」
「……先生、胸が痛くなるようなことをさらっと暴露するのはやめよう。うん、俺もそう思ってたから分かったわけだけど、先生本人が言うと聞いてる方の心臓がぎゅってするからやめよう」
「だってそいつらは平気で日本人だの女だの傷が云々だの障碍者だの言いやがったから、アンディも同じ考えなんだろうと思っちゃって。そうか、JA×なんて分かりやすい言い方、するわけがないんだ。気が付かなかった、悔しいな」
それまでキリコの対応に感服していた「そいつら」と言われた男たちが途端に気まずそうな顔になり、今日初めて人間味を見せた。アンディはやっぱり苺のショートブレッドとレモンクッキーを買ってやろうと決め、キリコはさてこの男たちの弱みを握れたと思っておこう、何かあったらお金が大好きな最近流行りの自称人権団体に名前と家族構成ごとリークしてやりゃあいい、情報部だろうが誰だろうが、個人情報なんか闇に頼めばすぐ調べがつくんだし、と大きく溜息をついたのだった。
「言い訳じゃなくて必要だから説明するけど」
おそらくこの男たちの中では最も地位が低い、かつ外様であるアンディが口を開いた。特に男たちが指示した様子はなく、アンディが勝手に話し始めたのだと闇医者二人は理解する。
「こっちの人たちはMI6。俺はSAS。そもそも所属が違うし、部署としても別にいつも協力体制にあるわけじゃない。今回だけ俺が出向扱いでここに来てる」
「ふうん」
「MI6の差別意識は地味に有名だ。かの素晴らしきスパイ映画でも堂々と描かれてるだろ?」
「あいつは美男子だからいいや」
BJが呟き、聞こえたキリコは苦笑する。モグリの外科医をも篭絡するジェイムズ・ボンドの色男振りたるや。
「SASはそうじゃない。構成隊員の肌は実にカラフルだ。出身階級もね。俺なんか私生児で、赤ん坊の時に養子にもらわれて、これがまた貧乏な家でさ、結局食い詰めて入軍してSASになった。でももっと上流階級の奴もいるし、逆に俺より恵まれない出自の奴だっている。任務であちこち失くした隊員なんてそれこそ掃いて捨てるほどだ。だから」
アンディはBJを真っ直ぐに見、まるで何かに宣誓するかのように力強く言った。
「俺は先生を差別しないよ、なんて言ったら嘘くさい気分になる。だから言わない。言うだけ無駄だからね。つまり、そうだな──慣れてる。全然違う人がいても気にするほどじゃない、慣れてるから」
「正直すぎるだろ」
BJが大笑いした。アンディは自分の言葉の意味を理解してもらえたのだと分かり安心する。キリコも少し笑い、その口元を見たアンディが僅かに嬉しそうな顔をした。
「なるほど、SASの方針は分かった。あとは──先生を大変自然に罵ってくれたらしい、MI6の皆さんのお気持ちは?」
彼らは視線を交わし合い、MI6の中では最も下座のソファに座っていた男が代表して口を開いた。
「建前としては差別心を捨てる。先生にもお詫び申し上げる。だが心底、今すぐあらゆる差別心を消滅させろと言う要求があったとしたら、それはできかねると返答するしかない」
「なるほど」
「怒ってくれても構わない。先生の弱みを盾に協力を要請している以上──この言い方は白々しいな。強制している以上、どんな綺麗ごとも無意味だろう」
「なるほど、同意はしないが理解しましょう」
「それはどうも」
「確認ですが──初めて聞いたものでしてね。先生の弱みを盾に、というのは?」
キリコは内心で「なぜもっと早く言わなかったのか」とBJを責めていた。なぜ一番最初に言わなかったのか。電話の盗聴を恐れて言えなかったことは理解するが、キリコが渡英してからはいくらでもチャンスがあったはずだ。
「聞いていない?」
「そちらの口から真実を聞きたい。言質が必要です」
何を依頼されるかも分からないまま、話だけが進んで行く空間だった。だがキリコの人生では珍しくない。闇世界の手順に比べればまだ分かりやすいと思えるほどだ。
彼らはまた視線を交わし合った。そして最も上座に座っている男が頷いた。
「局長だ」
「証明は」
「必要ならすぐに」
「では局長ということにしてお話を。真実は?」
「日本にいる先生のお嬢さんに監視をつけている」
途端、BJが軽く下唇を噛んだことを見逃さなかったキリコは、表情を変えずに局長に頷き、続きを促す。
「監視と言えば聞こえがいい、とドクターはおっしゃるだろうな」
「その通り」
「正解で嬉しいよ。つまり、先生は断れない──断れないわけではないのだが、断るには非常に勇気が必要な立場になってしまった。そして我々の目的を達成するためにはドクター・キリコの協力も必要だ」
「だから彼女に私を呼び出させた? あなたがたが直接接触して良い職業ではないから? もしくは外部に漏れたら何かとまずい接触の形跡を消しながら連絡を取るには時間がなかった?」
「後者だ。何ひとつ付け加えることがない。お見事」
局長と名乗った男はおざなりに拍手をした。
「先生が入国していると聞いた時には神に感謝したよ」
キリコは「ご加護をおめでとう」と言いながら、これは確実に俺の仕事道具も抑えられているだろう、と予測した。
「なるほど、先生に恩を売る良い機会であることは間違いないようだ」
BJの肩を強く抱き寄せ、ひとつだけの目で男たちを見回す。
「欧州の騎士道では、女性を羊に例えることを思い出した。闇医者にはとても理解できませんがね」
BJが耐えかねたのか、息を吐いてキリコの胸に顔を埋めた。
ハンドルを握るアンディは、わざとらしく「残念ながら部屋が空いていた、ごめんね」と言い、後部座席のBJに背もたれを思い切り蹴られて大笑いした。
「いいじゃないか、本当は出来上がってるんだろ? 先生ってばさ、打ち合わせの時に『振りをするから協力しろ』なんて言っちゃってさ。俺も騙されちゃったよ。何なら同じホテルなんだからさ、ドクターの部屋をキャンセルして、先生の部屋に泊まっちまえよ」
「違うって、打ち合わせから何度も言ってるだろう! 黙ってろ!」
「先生さあ、照れなくていいってば」
もう一度背もたれを蹴られてまた大笑いをするアンディに、BJの隣に座るキリコは溜息をつく。掴み切れない野郎だ、と思ったからだ。今言っていることも本音かどうか分からない。自分の経験が思考に先入観にも似た悪影響を及ぼしているのかもしれないことを自覚した。
特殊部隊の人間は戦闘やサバイバル技術に目を向けられがちだが、実際は心理的なセルフコントロールや、言動、プライベートの偽装に非常に長けているものなのだ。アンディもそうなのかもしれない。おそらくアンディと言う名も本名ではないはずだ。彼の全てを無条件で信用することはできないだろう。
過去の記憶の中で目にした同じ立場の彼らを思い出しそうになり、もう一度溜息をついて思考を切り替えた。
「連絡は毎日あの店で、18時に。それ以外の時はホテルの外の電話ボックスから電話して。ホテルは盗聴されてるからね。あいつら、誰彼構わずどこのホテルのどんな部屋にも盗聴器を仕掛けてるって話だから、ドクターの部屋の電話も信用できない。こっちから急な用事がある時は分かるように連絡するから」
「他の店に行きたくなったら?」
「先生はあの店にしか行かないよ。きっとね」
BJはまた腹立ち紛れに背もたれを蹴る。アンディはまた笑う。キリコはそろそろこの男の笑い方が不愉快になって来た。
「緊急の時はさっきの部屋で落ち合おう。俺がいるようにするけど、無理な時は関係者がいるから。必ず誰かがいる。誰もいないと思ったら、危ないから絶対部屋に入らないで、ホテルに戻って」
「そいつが信用できるなんて分かるもんか」
「ねえ先生、こんなこと言うのも白々しいけどさ。少し俺を信用しなよ」
「人質を取ってる野郎どもの何を信用しろって? 陽気な脳味噌なんざ味噌汁にも使えやしない」
「ソイ・スープ! 嫌いじゃないな、あれって酔い覚ましに凄くいいよね!」
「──アンディ、これ以上確認事項がないならそろそろ黙ってくれ。口を縫ってやりたくなって来た」
キリコが不機嫌を隠さない声で言うと、アンディは最後に「ふふ」と笑ってそれきり黙った。
到着したホテルの正面玄関に停車すると、ドアマンが恭しくキリコ側のドアを開けたが、BJは自分側のドアを勝手に開け、さっさと降りてしまう。よっぽど不機嫌なんだな、まあ当然だろう、と彼女の不作法を諦めながらキリコも続こうとした時、アンディが振り返って小さな声で言った。
「盗聴してるのはIRAだけじゃない」
キリコは眉を顰め、言葉の先を待たざるを得ない。アンディは先ほどまでの軽い声音を完全に封印し、有能さを窺わせる特殊部隊員の声になっていた。
「MI6も仕掛けてる。恥ずかしすぎる特殊なセックスは控えた方がいい」
「MI6とSASが俺と先生のセックスを盗み聞きしたいのか。有名ポルノ・スターになったもんだ」
「俺個人としちゃ興味がないわけじゃないけど、IRAとMI6だけだ。うちは関係ないし、俺は設置を知らないことになってる」
「アンディ──」
「先生、ちょっと待ってよ、先に行かないで! ドクターに好きなプレイを聞いてたんだ! ねえ、結構凄いね!」
「──明日会ったら口を縫わせてもらうよ。おやすみ、アンディ」
「おやすみ、ドクター。良い夢を」
運転席の背もたれを強めに蹴りつけてから車を降りる。アンディの笑い声は聞こえない振りをした。自分を興味津々の目で見たドアマンに言い訳をしたい衝動に駆られながらも、キリコはさっさとホテルに入って行くBJを速足で追った。
追い付いた時、BJはルームキーを受け取るためか、フロントマンに声をかけたところだった。自分もチェックインするためにフロントに向かうと、BJの横から白人の老夫婦が当のフロントマンに声をかけ、キリコにうんざりする未来を予想させた。なぜ今までの人生で気が付かなかったのか、いいや、俺はきっと当たり前のように、風景程度にしか見えてなかったんだ。
BJへの対応を断りもなく中断し、フロントマンは裕福な上流階級だと一見するだけで分かる老夫婦に笑顔を向ける。その横で特に腹を立てた風情もなく、おとなしく無言で一歩引いたBJを見た時、猛烈に、そう、猛烈と言うしかないほどに腹が立った。
老夫婦を押しのけるように割って入り、驚くフロントマンにきつい口調を叩き付ける。
「順番を間違えている。彼女が先だ」
「ですが日本人の──ええ、はい──いえ、すぐにご対応致しますので。慣例としてこちらのお客様をお先に──」
キリコは何よりも、この抗議を正面から受けながらも、平然とした顔で慣例だと受け答えをするフロントマンに怒りを感じた。横目で見ながら無関心を装う他のホテルマンも腹立たしく思える。自分でも過ぎるのではないかと思うほどの怒りだ。──いいや、これは気付けていないこいつへの怒りじゃない。気付かなかった過去の俺自身への怒りだ。
「一度しか言わない。長いから注意して聞くんだ。彼女に正規の対応をするか、支配人を私の元に呼ぶか、すぐに決めてくれ。それから私の宿泊キャンセルの手続きを。もちろん彼女の次はこの無礼な割り込みをした夫婦が優先だ、順番だからな。私の手続きはその後だ」
「ミスター、落ち着いて。きみの騎士道精神は素晴らしいが、これは慣例だ。私たちが優先されることはこの国のマナーなんだよ」
気付かぬまま人生を終えるであろう老いた白人男性の言葉と、隣で上品に頷いてみせるその妻に、キリコは思わず笑いそうになってしまった。この夫婦が悪いわけでもないのだ。それが当然だと教えられる世代の人間なのだから。何も悪くない。彼らに責任があることではない。それが分かってしまう世代に産まれた自分が悪かった。
だがせめて若いフロントマンには、と更に言い募ろうとした時、キリコのコートの袖を誰かが掴んだ。だから後悔した。自分の袖を掴んでいるのがBJで、そして彼女が俯いていたからだ。
「もういい」
「でも」
「本当は慣れてない」
「先生」
悪かった、他にやり方があった。そう言いたかったが、喉に言葉が詰まったように声が出なかった。BJが消え入るような、それこそ彼女の声だと信じたくないほどに消え入る声で言った。
「今日はもう、疲れた」
俯いた彼女の表情は分からない。長い睫毛が目元に落とす影しか見えなかった。
フロントマンがいかにも迷惑だといった風情で大きく息を吐き、老夫婦は流石に居心地が悪くなったのか、いや、その、と口の中で何事かを呟き始める。
「お客様、支配人でございます」
フロントでトラブルが発生した連絡を受けたのか、支配人がようやく現れた。
「何かご無礼を致しましたでしょうか。──ハザマ様でいらっしゃいましたか! 一体何がございましたか」
支配人がBJの名を知っていること、そしていの一番に話を聞こうとしたことにキリコは酷く驚いた。だが考えてみれば数日宿泊している上にこの容貌、アジア人、女性ということを考えれば当然だろうともすぐに思い至る。少しでも目立つ客はサービスの名の下に監視されるものなのだから。
答えないBJの代わりにキリコが言った。自分自身に腹が立って仕方がなかった。
「恥ずかしいことだが、冷静になる自信がない。用件だけ伝えさせてもらう。あなたに手続きをして頂きたい。私の宿泊キャンセルと、彼女のチェックアウトを。可能な限りスピーディに、あなたの権限で」
「ご要望に最大限お応えすることが当ホテルの誇りでございますが、しかし──」
「それから、あの彼にはご夫婦に慣習通り手続きをさせてくれ。先に用事を頼んでいた彼女よりも優先してサービスを受けるべき慣習があるのなら、その通りにするべきだったんだろう。この国のマナーとやらを理解できずに一人で騒いだ私が愚かだった、受け入れて譲っていた彼女にまで哀しい思いをさせてしまった」
キリコの話で支配人は事情を察し、今までになく背筋を伸ばした後、はっきりと「ハザマ様、大変申し訳ございません」と言った。
「チェックアウトのご選択の前に、もう一度だけわたくしどもに挽回のチャンスを頂くことは可能でしょうか」
「もういいから」
惨めな気分だ、とBJが小さく言った。支配人が哀しそうな顔をしてみせたことにキリコは驚いた。それ以前に、彼が「ハザマ様」に謝罪をしたことにも驚いていた。
「あの彼が、すぐにハザマ様にルームキーをお渡し致します。当ホテルの規則でございます。規則違反でご不快なお気持ちを招いてしまったことを、ホテル従業員全員が恥じることでしょう。恥じなければなりません」
「──私一人にそうしたって、明日には、もしかしたら来週だけど、きっとまたすぐに誰かが同じ惨めな思いをする。意味がない」
絞り出されるような声に、キリコはああそうだ、俺のやり方は間違っていた、とまたぞろ嫌な気分になる。お綺麗な理想に燃える向こう見ずな子供のような真似を、なぜ、どうして、よりによって今日のようなタイミングでしてしまったのか。
「ハザマ様」
「彼の言う通りに。──今日はもうとても疲れてしまっていて。日本にいる家族に手紙を書きたいし、どこでもいいから風呂に入って眠りたい」
「まことに──まことに申し訳ございませんでした。後日、改めてお詫びを申し上げる機会を頂けますようお願い申し上げます」
支配人がホテルマンとして最上級の礼をする。ロビーで成り行きを見守っていた客たちがさざめいた。これだけの名門ホテルの支配人が心から詫びる態度を見せている。しかも相手があんな──その声を打ち消すように、BJがまるで支配人を救うかのごとく言葉を吐いた。
「私みたいな木っ端な客なんぞに礼しなさんな。この国じゃどうか知らないけどね、日本じゃ男の頭は重いものだ、だからこそ滅多に下げるもんじゃあないって言われてるんだ」
BJの声が笑おうとして失敗してしまったものだったと、分からない者は誰もいなかった。
「慣れてる」
BJが言い、キリコは心底、今の己の振る舞いを後悔した。
「惨めな気分には慣れてる。大したことじゃない。この馬鹿な騎士が素敵な振る舞いをしてくれただけなんだ。さすが女王の国だよ。──大丈夫、私は慣れてるから。だから」
早くチェックアウトをしてしまいたい。BJの言葉に、もはや誰も、何を言うこともできなかった。老紳士が辛うじて、嫌な思いをさせたことは確かだ、だが慣習というものが、と彼なりの正義を言い募ろうとした。キリコはできる限り丁寧にBJの肩を抱き、老夫婦から距離を取らせた。その行為の意味に気付いた老紳士の顔に、怒りと、それからプライドを傷つけられた憎悪が浮かび、なぜかその全てがBJに向けられたことを知ったキリコは、何もかもの言葉を諦めてBJを抱き締めていた。うまくやったじゃないか、これでこのホテルが使いやすくなる、最高のサービスを受けられるぞ、儲けものだ。そんなふうに、BJが楽しそうに囁いてくれるのではないだろうか。そんなことを期待した自分に吐き気がする。
そしてもちろん、腕の中の女はそんなことを言ってくれはしなかった。