「部長は?」
山本が高層階のオフィスから降りてきた。エレベーターを走り出すようにして現れた姿に戸惑いながら、問われた受付嬢は首を横に振る。
「まだいらっしゃいません。出勤の時には必ず受付に声をかけて下さるから、見逃していないと思うんですけど」
山本は深く息を吐く。既に12時を回っていた。13時の会議までもう時間がない。本社のCEOが社屋へ到着する前にマシューに会い、最終打ち合わせをしたかった。だが朝からマシューは姿を見せず、連絡すら入っていない。
「オフィスにも連絡がないんだ。家に電話をしても奥さんが出て、もう家を出ているって──」
愚痴をこぼすように受付嬢に言うと、彼女はますます戸惑った、そして不安げな顔になった。
彼女の不安も分かる──山本は思う。確かに大手の証券ブローカー企業だが、今日の会議でマシューの案が通らなければ巨額の負債が発生しかねない。
外部に漏らしたことはないが、社内の情報は静かに広がるものだ。受付嬢も耳にしているのだろう。最悪、アメリカの本社が日本の拠点であるこの支社を引き上げてしまう事態になる。
「CEOが到着する前に打ち合わせをしなきゃいけないのに、これじゃ間に合わない」
ガラス張りの正面玄関の向こうは曇天が広がっている。晩秋はあっさりと冬の訪れを受け入れていた。朝からひどく冷え込み、暖房で温められた社屋の空気でとの温度差でガラスが少し曇っていた。
「何かあったんでしょうか。来る途中で具合を悪くしているとか、事故とか──」
受付嬢の表現は控えめだったが、マシューが自宅で倒れているのではないかという危惧は山本に伝わった。
「そうだとしても、いや、そうじゃないのが一番なんだけど──」
「もうすぐCEOがいらっしゃいます。地下の駐車場のエレベーターから上がらないで、正面玄関からお入りになるという連絡がありました」
「ここから? まずいな、部長が出迎えないと格好がつかないパターンじゃないか」
正面玄関は大会社の社屋とは思えないほど静かだった。普段ならランチ休憩で出入りする社員たちで賑わうはずだ。だが今日はほとんどの社員が静かにオフィスで過ごしていた。社運を賭けていると言ってもいい会議が行われるとあれば、誰も外出する気になどなれないだろう。
「副部長じゃ駄目なんですか?」
「副部長は今、会議の準備を仕切っていて──仕方ないか。受付の内線を借りてもいいかな?」
「どうぞ。──あ!」
電話へ案内しようとした受付嬢が驚愕と歓喜をない交ぜにした声を上げた。山本は彼女の視線を追い、そしてやはり声を上げた。
「部長!」
「すまない、間に合うか?」
外気をまとったマシューが駆け込んで来た。山本は露骨にほっと息を吐き、受付嬢は安心したように笑顔になる。
「ギリギリですよ! 具合でも悪いんですか? 最近風邪気味だったようですし、昨日だって──」
「大丈夫だ。家を出たら渋滞していて──途中で風邪薬を買っていたら時間を食ってしまって」
「会議が終わったら病院に行って下さい!」
「そんな暇があると思うのか? 会議の結果がどうであれ、病院に行く時間なんて──」
「ハロー、マシュー。忙しいだろうから医者が来てあげたよ」
突然響いた流暢な発音の米語に、山本と受付嬢はまた声を上げるはめになる。いつの間にかマシューの背後にいる銀髪の男が昨日の医者だとすぐに思い出したからだ。マシューは溜息をつき、キリコを見た。
「ドクター、すまない、今日はお相手をしている時間が取れそうもないんだ」
「あいにくだが、一度診た患者を見捨てることだけはしない主義なんだ」
「風邪は落ち着いている。分かった、そのうちまた診てもらいに行くよ」
「患者のカウンセリングをしに来たんだよ」
「あっ」
山本がはっとしたようにキリコを見る。
「昨日、心療内科の先生だって……!」
受付嬢はマシューと銀髪の医者を交互に見た。日本ではまだ理解が進んでいない分野の医者がマシューを患者だと言い、わざわざ社屋に足を運び──それがどういう意味なのか分からないはずがない。
マシューは深く溜息をついた。日本の後進振りが嘆かわしいと言わんばかりの顔をしていた。
「今するべきじゃないし、そんなことを頼んだ覚えもないよ」
「私の家に来てカルテを作った時点できみは患者だよ。自由診療だが心配ない、きみなら払えるさ」
お節介なモグリの外科医から引き取った闇への諸々の経費を上乗せしても、という言葉は飲み込み、キリコは続けた。
「きみは休養が必要だ」
「だからそのうち休むと言っているし、今は風邪薬もきちんと飲んでいる。市販だが役に立っているよ」
「その薬は推奨できないし、きみの身体だけの問題じゃない。風邪ならもう治っているはずだ」
「だったら放っておいてくれ。時間がないんだ」
「本当に時間がないのは仕事だと思っているのか? 違うだろう?」
「ドクター!」
不意にマシューが苛立ちを堪え切れないとばかりに叫んだ。山本と受付嬢がびくりと身を震わせるほどの鬼気迫る大声だった。キリコは動じることなくマシューを見る、否、診る。そして予想通りだと確信した。マシューはまた叫んだ。
「放っておいてくれ! この会議が失敗したらどうなるか、きみに分かるはずがないんだ!」
「ああ、分からないね。俺が分かるのは」
キリコは一言一言ゆっくりと、そしてロビーに低く響く声で告げた。
「きみが心療内科を手がける私に、集中的な治療を受けるべき状態である、ということだよ」
閑散としたロビーに響いたその声は、いやにはっきりとその場にいる者たちの耳に届いた。マシューは唇を噛み、山本はごくりと息を呑む。
「そんなの」
受付嬢の声が震えた。
「そんなの、CEOに知られたら──会議どころじゃないわ」
「なるほどね」
この時代、いまだ心療は日本で理解されているとは言い難い。それ以上キリコは何も言わなかった。受付嬢のような反応は仕方ないのだと分かっていても、やはり気分の良いものではない。だが今は彼女に心療内科について説いてやる時間ではなかった。
ああ、と不意に山本が呻いた。受付嬢は目を丸くした。マシューは歪めていた表情を諦めのそれに変えた。それから、いつの間に来たんだ、と苦々しく呟いた。
「私が詳しく聞いても良い話だろうか?」
静かな抑揚の米語が流れた。いかにも上流で有能、そして実績を持つ人間であると一目で分かるビジネスパーソンとその部下たちがそこにいた。
「ドクター」
マシューが言った。
「彼に説明してくれ」
「無理だね。守秘義務がある」
医者の冷たいその言い分にマシューは苦笑し、観念したと言わんばかりに力の抜けた声で続けた。
「私がメンタルを病み、休暇が必要だと主治医として説明して欲しいんだ」
「ふうん」
キリコは肩を竦める。患者の許可が取れたのであれば構わなかった。
「その説明で充分、そちらの御仁は理解したと思うがね。──こんなタイミングで失礼。ドクター・キリコ、彼の主治医です」
「初めまして。ドクター・キリコ、こんな場所で申し訳ない」
その男は礼儀正しくキリコに手を差し出し、本社のCEOだと名乗った。
「何それ、すごいタイミング」
風呂上がりの神を拭いながら、BJはドラマのような偶然に笑う。キリコが帰宅する前に2日入れなかった風呂を楽しんだところだった。
「CEOはきちんと話を聞いたわけ?」
「会議のスタートを延ばしてまで聞きたがったよ。マシューは上層部が気に掛けて当然の優秀な社員だし、もともとアメリカは心療内科が進んでいるからな。重大事だと理解したんだろう」
「日本じゃまだまだなのがちょっとなあ。──で、激務に耐えかねてコデイン中毒になったのもCEOに話したわけ?」
「いいや。それは多分マシューが望んでいなかっただろうからな」
「マリファナとヘンプが合法の国で、コデイン程度が問題になることもないと思うけど」
「そういうことじゃないんだよ」
「どういうこと。そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
マシューに会った日からはぐらかされてばかりだったBJは、そろそろ種明かしをして欲しいと迫る。
「守秘義務」
「詳細な病状はいいから。わたしだって大体予想してるし。早く!」
風呂上がりのバスローブ姿で膝に乗られてはキリコも観念するしかなかった。もうすっかり風邪は治ったようだ。話した後にこの鬱陶しいバスローブを剥いでやるのもいいかもしれない。あの家の女主人と妹が女子会三昧であろう崖の上の家に送るのはその後でいい。
「マシューは最初から計画していた。コデインは今回の仕事を成功させるための小道具だったんだよ」
「は? あのプロジェクトがどうのってやつ? そのためにわざとコデイン中毒に?」
「中毒にはなっていない。そもそも大してコデインを摂取していないはずだ」
「え、あの状態で? かなり外見の特徴が──」
「詳細は言わないが」
「うん」
「オーバーワークから来る風邪症状」
「信じられない!」
信じられないと口では言いつつ、なるほど、という顔で溜息をつく。キリコは笑い、いつの間にかマスクが消え失せていた唇に久し振りのキスをする。BJが笑ってキスを返し、少しばかり長く、深く唇を重ねた。
「でも、『ああいうのはやめた方がいい』って言ってたくせに」
「言ったか?」
「言った」
「あれ?」
キリコはしばし考え、ああ、そうかも、と思い出した。そんな意味に聞こえていたとは思ってもみなかった。
「ああいう働き方はやめた方がいい、って意味だったんだが」
「──言葉が足りなさすぎ」
「悪かった。俺が悪かった。怒るな」
「キスしてくれたら怒らない」
「今すぐに」
わざと音を響かせて頬にキスをする。BJはすぐに機嫌を直した。
「でも、どうしてそんな真似をしたわけ? キリコはそれも知ってる?」
「予想だけなら。さすがあの業界の大会社で部長をやってるだけはあるよ。俺の医院に来たのも計画のうちだった」
何それ、とBJが言いかけた時、インターフォンが鳴る。キリコはBJにひとつキスをして膝から降ろして応答した。マシューだった。
「プロジェクトが通った。これで我が社は建て直せるよ。必ずね」
「それはおめでとう」
「その代わり、ドクター・キリコに診断書を書いてもらうように命じられたよ」
不満げなBJを寝室へ追いやってから──そもそもバスローブ姿で人前に出せるはずがない──リビングでマシューと向かい合ったキリコは、ふうん、と言った。
「私が書いたら1ヶ月の休暇が確実になるが、それでもいいのかな」
答えは分かっていた。きっとマシューは言うだろう。ああ、構わないよ、あとは山本に任せるしね。そしてマシューは言った。
「構わないよ。あとはヤマモトに任せるしね」
「そうか」
「ああ。彼なら私よりも上手くできる」
「だろうね。ヤマモトは必ずプロジェクトを成功させる」
「ドクターも彼の優秀さが分かるのか? そうだろう、彼は──」
「きみが作ったプロジェクトの難易度がヤマモトに合わせられているのだから、必ずね」
瞬間、マシューの目があの目に──何もかもを見逃すものかという有能な証券ブローカーの目になる。キリコは満足した。自分の診立てがすべて正確だったことへの満足感だ。
「私の仮定を話していいかな、マシュー?」
「どうぞ。ぜひ聞きたいね」
マシューはソファに深く腰掛けた。すぐにでも職場に戻りたい、あのブローカーの座り方ではなかった。いわば休息の態度だ。目的を完全に達成したんだな、と判断し、キリコは続けた。
「きみはコデイン中毒なんかじゃない。子供用のシロップが欲しいわけでもなかった。私に『コデインを病的に求めている』と印象付けたかった」
しばらくキリコを見つめたあと、マシューは僅かに頷いた。キリコも頷き、続ける。
「薬局でコデイン入りの子供用シロップを大量に買い込んだ姿を見たのは偶然だ。さすがにきみも私と彼女があの近くで食事をするとは予想できなかっただろう」
「その通りだ」
「あわよくば会社の誰かに見て欲しかった。きみの会社はあそこから近い」
「続けて」
「私が会社に行くのも予想していた。むしろ最初からそれを計画していた」
マシューはキリコを見る。キリコもマシューを見る。互いの姿が違いの瞳に映っていた。やがてマシューは頷いた。
「闇から聞いている。一度診た患者は見捨てないと」
「──繋がりがあるようだね。詳しくは聞かない」「
「答えても構わないが?」
「知りたくない。お互いのためだ」
生き馬の目を抜く一流の証券ブローカーが、闇とどんな取引をしたのかなど知りたくもない。またマシューが頷いたことを合図に、キリコは話を再開した。
「ここからは簡単にいこう。──『ステイツからCEOが足を運ぶほど重要な明後日13日の会議』を私の前でことさらに強調した。そして部下たちに私を心療内科の医者だと思い込ませるような紹介をした」
「なるほど」
「つまりきみは私に『明後日の13時の会議に来て欲しい、その時に自分がメンタル面で不調を起こしていると分からせて欲しい』と思っていた」
「──素晴らしい。答え合わせがこんなに後ろめたいとは」
マシューが大きく息を吐いた後、大げさに拍手をしてみせた。キリコを利用したと認めた瞬間だった。
「先に謝らせてくれ。騙すような真似をして申し訳なかった」
「構わないよ。きみの芝居に乗ったのは私の勝手だ」
「CEOがあの場に来るのは予想していた。あの彼はステイツの本社でも出張先でも、どこでも必ず正面玄関から入る。社屋の様子を見たがるんだ」
「なるほど。よく調べてあるな」
情報収集の手間を惜しまない話にキリコは感心し、やはり一流の証券ブローカーだと納得した。
「あのCEOは優秀だ。それは間違いない。だが情に厚い部分がある」
「だろうね。話していて分かったよ」
さすがと言うべきか、グローバル企業の最高経営責任者だけあって彼は慌てることはなかった。だがキリコに詳しく話を聞き、家族でもそこまで気にしないだろうということまでキリコに確認したがった。
「『部長が心療内科にかかるほどメンタル面に不調を起こしながらも組み上げたプロジェクト』。これなら必ず彼は動くと思ったんだ。内容には自信があった、あとは認めさせる一押しが必要だった」
「随分と身体を張った後押しだったと思うが、まあ、結果としてプロジェクトが通ったならいいんじゃないか。もうひとつの目的も達成されたわけだし」
「もうひとつ?」
「ヤマモトをこれから目立たせること」
マシューは軽く両手を挙げ、完全な降参の態度を見せた。
「優秀なんだ」
「聞いたよ」
「本社に連れて行きたい。彼はもっと活躍できるし、するべきだ」
「きっとうまく行くと思う。きみの演技に乗ったのは私だけじゃなかった」
「何だって?」
他の誰かに知られていたのか、と眉を跳ね上げるマシューに、キリコは敢えてもったいぶった口調で教えてやった。
「昨日の夜、私を訪ねて来た男がいる」
「誰だい?」
「『部長が病んでいるとは思えない、何かあるなら演技じゃないか』」
「何だって?」
「きみの演技に乗った以上、治療の一環として成功させたかったものでね。彼にも協力してもらった。今日のあれは良かったな、私が心療内科だとわざわざ口にしてその話をしやすくしたり」
「──私はそこまで大根役者だったかい」
あずかり知らぬところでことが運ばれていた事実に多少の敗北感を覚え、マシューは苦く呟く。キリコは笑った。
「そうでもない。少なくとも彼女は気付いていなかった」
キリコがちらりと視線を動かす。マシューもつられて視線を追うと、リビングのドアの陰に子猫を抱いて座り込んだBJがいた。バスローブではなく取り敢えずのセーターとスカートは身につけている。その横には母猫がいた。いつの間に猫どもが遊びに来たんだと思うキリコの前でマシューが慌てて立ち上がった。
「失礼、奥さん。いるとは思っていなかった」
「ああ、いえ、別に」
仕事ができる男って感じ、とBJは思う。女性への態度にそつがないと言えばいいのか。
「マフィン、そんな場所にいるんじゃない。風邪がぶり返す」
「ぶり返したらコデイン処方して」
途端にマシューが苦笑いを漏らす。キリコは肩をすくめ、マシューに断って一度席を立った。
「気になるのは分かる。でも遠慮する時だと思わないか」
「だから遠慮してここにいたのに」
「馬鹿を言うんじゃない。寝室にいて」
「いや、私がもうお暇するよ。診断書を受け取る時に改めてお詫びする」
マシューの申し出にキリコは頭の中で素早く今までの流れを思い出し、詳らかにしておく事項はこれ以上ないと判断して頷いた。
「診断書は明日の昼までに用意する。詫びはいらない。医療費だけ払ってくれ」
金額を言うとマシューは顔に出さず「異様に高いな」と思ったが、キリコが説明した内訳で納得し、それからBJを見た。
「奥さんも闇の? 近所の話じゃT県の開業医だと聞いていたのに」
「医療の闇なら私より有名だ。患者に苦痛を与えることに喜びを見出す、理解しがたい悪趣味なヤブ医者だよ」
「はあ? 自分なんて人ご──」
激高しかけたBJの唇に人差し指を当てて黙らせ、キリコはまだ驚いた顔をしているマシューに続けた。
「縁があれば闇でも顔を合わせるよ。私たち──俺たちに縁なんぞない方が穏やかな人生であることは確かだがね」
「──良い近所付き合いを。祖国を離れた土地で同胞と話せるのは嬉しいことだ」」
キリコと握手を交わし、BJに会釈をすると、マシューはリビングを後にする。見送りのためにBJと共に続きながら、キリコはその背中に最後の問いを投げかけた。
「マシュー」
診療のためではなく、自分の診療が正しい方向であったのかを知りたいがためだけに問うた。
「きみにとって、仕事とは何だ?」
つい先日、同じ問いをした。生活だ、とあの時のマシューは答えた。そしてマシューは振り返らないまま言った。
「生活だ」
そうか、とキリコが返事をしかけた時、ドアノブに手をかけたマシューが振り返る。
我知らずキリコは微笑んでいた。
今まで見たことがないほど、穏やかな笑みが患者の顔に浮かんでいたからだ。
「日本支社で働く810人の従業員。そしてその家族の生活を守るのが、私にとっての仕事だ」
だからどうしてもあのプロジェクトを通さなければならなかった。社員とその家族の生活を潰すわけにはいかなかった。そのために綱渡りのような真似をした。そして結果を出した。
最高に満足した。マシューの笑みはそう告げていた。
充分すぎるほどの回答だ。キリコは思った。そして満足した。──患者が満足できる結果を手に入れた。俺はそのために働いた。
何という幸せだろう。何という満足だろう。俺はこの患者を良い方向へ導いたのだ。
「ありがとう」
「こちらこそ。おやすみ、良い夜を」
「良い夜を」
そのままマシューはドアを開け、静かに出て行った。入れ替わりのように入り込んだ冬の空気が玄関を冷やそうとする。
「マフィン、風邪がぶり返す。早く戻って」
「キリコ」
「うん?」
キリコはBJを見る。そして今度は苦笑した。
「良かったね」
BJがまるで何かを慈しみ、褒めるかのように微笑んでいた。
「モグリのヤブ医者に褒められるなんて、俺も出世したもんだ」
減らず口を叩きながら、ああ、そうだ、と深く思う。まさかこの女に──道を同じくしていれば、確実に妬まずにはいられなかった天才医師に、評価されることが嬉しいと思う日が来るなどと──密林で別れてから、そしてあの船で再会した時には考えたこともなかった。それが今はどうだ。
この医師に認められて嬉しいと思う感情、そしてその医師を女として愛している事実、そのすべてが幸せだと思う。
「素直に嬉しいって言えば?」
「さあ、どうだかね」
ひとつキスをしてから背中を押すようにしてリビングへ戻る。思った以上に時間が経っていた。崖の上の家まで送らなければ。あの家の女主人がそろそろ待ちくたびれているはずだ。妹も兄に対して不満を持ち始める頃だろう。
帰り支度をするように言うと、頷きつつもBJは唇を尖らせた。
「帰りたくない」
いとも簡単に男にまんまと「帰したくない」と思わせる顔と声音を産み出す。大したものだと感嘆しながら、そして帰らなくてもいいよと言いたくなる自分を抑えながら、キリコは敢えて冷たい声を出した。
「そうもいかない。今日は帰らないと駄目だ」
海外での仕事でもない限り、いくらユリがいるとはいえ、これ以上ピノコをあの家に1人にするのは良くない──言外にそう告げると、「うん」と理性と感情の間で戦うような声で返事をされる。まったくもって可愛い。思わずキスをする。すると可愛い女は逃がすものかとばかりに抱き付いてくる。これが抱き返さずにいられるだろうか。キリコには無理だった。
「じゃあ、キリコがうちに泊まればいい」
「無理だよ。明日の昼にはマシューに診断書と意見書を渡すんだ。送って戻ったらすぐ書かないと」
「ヤブ医者のくせに」
「何とでも言ってくれ。とにかく──」
帰り支度をするんだ、と強く言おうとしたその時、高らかに電話が鳴り響いた。
まだ抱き付いて離れないBJとまるで下手くそなダンスステップを踏むように奇妙な動きをしながら移動し、受話器を取る。ピノコからだった。挨拶の後、話を聞く前にBJに代わる。
『ちぇんちぇい、今日は帰って来なくていいのわよ』
「そう言われると寂しいんだけど……」
帰りたくないと駄々を捏ねたのは確かだが、愛する娘にそう言われると一気に切なくなるとは勝手なものだ。
『商店街の福引きでネズミ−ランドのナイトチケットが当たったのよさ! ユリしゃんがこれから連れてってくれるって!』
「え、すごい! ──ディズニーのナイトチケットが当たったんだって」
「え?」
「商店街で」
「代わって。──ああ、お嬢ちゃん、ユリに代わってくれないか」
妹と少し話をし、説明を受けてから、キリコは今日何度目かもう忘れてしまった苦笑いをして電話を切る。だからもうひと晩ごゆっくり、先生の具合が悪かったんじゃどうせすることもしてないんでしょ、などと年の離れた妹に言われれば、苦笑いで複雑な感情を流さざるを得なかった。
「ったく、あいつは──……っ」
突然くしゃみの衝動に襲われ、目の前にBJがいたので堪える。BJが目を丸くしたあと、それからにやりと笑った。
「医者よ、己を癒やせ」
「風邪だと決まったわけじゃない」
自分がくれてやった言葉を今返され、キリコは無駄だと知りつつ反論だけはしておく。予想していなかったと言えば嘘になる。どんなに気を付けたところで、何だかんだで同じ空間に居続ければうつっても仕方ない。
とはいえ、まだいわゆる風邪の引き始めだ。薬を飲んで寝てしまえば明日には回復する程度の体力もある。夕飯を食べて早めに眠ろう。
BJにそれを告げようとしたら、見抜いていたかのように先手を打たれた。
「薬を飲んで、ベッドで温くするべき」
「そうするよ。夕飯はケータリングでもいいか」
作っている暇があったら風呂に入って身体を温めて──キリコの考えはあっさりと否定された。
「ケータリングはもちろんいいけど」
「うん?」
「ベッドで温まってる時に届いたらどうするの」
何を言われているか分からない──などと言えるほど人生を知らないわけでもなければ聖人でもない。
そうか、そういえばそうだな、と考える振りをしてみせると、そうでしょ、どうしよう、と悩む振りが返ってくる。それが可愛くて思わず笑い、笑うキリコを見てBJも笑った。
笑いながら抱き合って、それから少し深いキスをする。唇を離してまた笑った。
早くしないと手遅れになっちゃう、と手を引くBJと寝室へ歩きながら、今日はいい日だった、いい仕事をした、と満足感を改めて味わい、BJを勢いよく抱き上げる。
好きな女が声をあげて笑った。
今日最大の満足をくれる笑い声だった。