Smile an everlasting 01

 死神の家には安楽死を求める人以外もやってくることがある。近所には完全予約制の心療内科という触れ込みで信用を得ているし、実際に仕事の都合で日本にいる外国人のカウンセリングを引き受けるケースもある。そして日本人の医者との間に言葉の壁を感じる外国人の中には、体調不良を覚えるとまずは母国語が通じるキリコの診察を受けたがる者が少なくなかった。キリコは近所に住む母国、そして同盟国人に限ってその相談を受けている。
 BJがキリコの家にいる時、稀にそんな外国人が訪れることがあった。BJは黙って寝室かサンルームに引っ込み、本を読んだり昼寝をしたりで時間を潰す。特にキリコに意見を求められることはなかったし、口を出す気もなかった。安楽死さえ手がけなければBJにとってキリコは(自分に次ぐ程度には)名医だ。求められない限り、自分のアドバイスなど必要ないと思っている。
 キリコの診察を受けたがる近所の外国人はほとんどが知的で、財力と社会的地位に恵まれた者だった。外資系からの出向や大使館関係者が多い。土地柄そういう階級が集まるのだとBJは知っている。
「こんにちは。ドクター、突然すまない。奥さんとくつろいでいる時に」
「構わないよ。医者にそんな気遣いをするものじゃない。彼女も医者だし、同じ気持ちのはずだ」
 今日訪れた患者もその階級で、外資系の証券会社へ出向しているアメリカ人だった。最初から日本語を話す素振りすらなく、BJにも米語で挨拶をする。少し英国のアクセントに寄せようと努力した気配を感じた。きっと彼の世界では重要なことなのかもしれない、ところでわたしは奥さんじゃない、と思いながらBJは手短に挨拶を返し、遊びに来ていたマダムの猫母子を連れてサンルームへ行く。
 ──あまりいい状態じゃなかったな。内科ならキリコの方が得意だし、彼は運がいい。
 いつの間にか大量に揃ってしまった猫のおもちゃで遊びながら、BJはやや今の彼について考えた。
 名前は確かマシュー、米国資本証券会社のブローカーで役付きだと記憶している。
 一目見ただけで不調が分かる顔色と肌の様子だった。欧米からの出向者は産業医に相談しないのだろうか、とこういう時はいつも思う。言葉の壁は案外高いが、グローバルな企業の産業医ならそれなりに英語も話せるはずだろうに、とも。
「うにゃ」
「ん、どうしたの。こっちのおもちゃの方がいい?」
「にゃにゃ」
 母猫と子猫を同時にあしらいつつ、BJはキリコの患者について考えるのをやめた。彼が頼りにしているのはキリコだ。あまり考えすぎても出番はない。
 やがてキリコがサンルームへ来た。マシューが帰ったのだ。
「終わった。コーヒーでも飲むか?」
「飲みたい」
「にゃー」
「うにゃん」
「きみとお子さんにはクロオがおやつをくれると思うよ」
 その言葉で猫たちはすっかり期待の顔をして、我先にとキッチンへ向かう。そこに至福のおやつがあることをとうの昔に学習していた。
 コーヒーを淹れるキリコの足下で猫たちに有名なゼリー状のおやつをあげる。目の色を変えて食らいつく姿はこの上なく可愛らしい。健康に問題がなければいくらでも食べさせてあげたいほどだ。猫の身体に悪いものは入っていないが、過剰摂取は推奨しないというメーカー側の意思もあり、多くの人間は心を鬼にして1日に与える量を決めている。
「うーん、人間ならどうってことないのに」
 猫たちが食べ終えたおやつの袋の成分表を眺め、BJはぼやく。コーヒーをマグカップに注いだキリコが「何」と言った。
「ちゅーる。人間ならこれくらいの塩分、健康なら全然平気なのに」
「身体の大きさが違うからな。何が入ってるんだっけ」
「はい」
 袋を渡す。キリコは成分表を見て、ああ、うん、と頷いた。
「多くて4本だな。添加食塩はなくても原料由来の塩分を考えたらそれが限度だ」
「猫は腎臓の病気になりやすいしね」
「マダムの家でもあげてるかもしれないし、うちでは1本までにするべきだな」
「あげてるかどうか、今度訊いておいてよ」
「そうするよ。健康が一番だ」
 健康という言葉と共に軽く息を吐いたキリコの姿が珍しいような気がする。BJは隣に立って背伸びをし、一度キスをしてからマグカップを手に取った。キッチンで立ったままコーヒーブレイクをすることはたまにある。
「マシューのことでも気になってる?」
「──ああ、うん。風邪と言えば風邪だった」
「引っかかる言い方するね」
「寝てりゃ治る。わざわざ寝なくてもコーラでも飲んでりゃ落ち着く程度だった」
「話が逸れて悪いんだけど、どうしてアメリカ人は風邪を引いたらコーラを飲むんだろう。愛国心にもほどがあると思うんだけど」
「いや、愛国心ってわけじゃ……」
 キリコは苦笑し、水分補給と手軽な糖分の摂取に手近なものを飲んでいるにすぎないと教えてくれた。なるほど、今の時代のアメリカじゃ水よりコーラの方が安いもんな、とBJは納得する。
「おまえだって先月、風邪引いた時にポカリスエットを飲んでただろう。あっちの方がコーラより理想的な成分だが、理屈は同じだよ」
「ボンカレー信者としてポカリスエットを外すことはできない」
「何だ、そりゃ」
「グループ企業。ボンカレーは大塚食品、ポカリは大塚製薬」
「なるほど、なるほど」
 胸を張って宣言する女が可愛くて、一種の宗教だなと思いながらキスをする。そして急にカレーが食べたくなった。BJと一緒になってからボンカレーを食べる機会が増えたせいか、妙にカレーを意識することが増えているかもしれない。とはいえ、あのレトルトカレーはBJが食べたい時だけでいい。
「で、話戻して、マシューがどうかした?」
「カレーが食べたくなった。ランチはターリーにしよう。着替えながら話すよ」
「どこの?」
「虎ノ門の」
「やった、あそこのカレー大好き」
 過去に何度か足を運んだ店をすぐに思い出し、BJは早く早くと言いながらキリコの手を引いて寝室へ向かう。猫たちも当然のように付いてくる。
「で、彼が何? ──どれにしよう」
「選ぶから待って。──大した症状じゃないのに薬を出してくれってしつこくてな」
「仕事柄、休みにくいとか?」
「証券ブローカーなんて素早く目を取るような業種だろうしな、それも分かる」
「in Japanese──『生き馬の目を抜く』?」
「That's it」
 それだ、と答えながら、キリコは選んだ服をBJに渡した。白のケーブルニットとメタリックゴールドのロングプリーツスカートを受け取り、よく分からないけどキリコが選んだんだからわたしに似合うだろう、と思いながらBJは着替え始める。キリコは自分の服を選びながら話を続けた。
「その薬の話なんだが──大人用は苦くて飲めない、子供用のシロップを処方して欲しいって言ってね」
「何それ、あんなに立派なビジネスマンが?」
「まったくだ。まあ、処方の必要がない症状だったからな。処方箋は書かなかった」
「ふうん」
 こういうところが好き、とBJはひそかに思う。キリコは薬学に秀でているからこそ、患者に不要な薬を決して処方しない。
「ああいうのはやめた方がいいんだがな」
「産業医や開業医じゃ言葉の壁もあるんじゃない? キリコが日本の医師免許も持ってるのはこの辺の人はみんな知ってるんだし、同国人なら頼りたくなるよ」
「そういうことじゃない」
「広尾の日赤に紹介状でも書いてあげれば? あそこなら外国人にも対応できてるはずだし」
「そういうことじゃないんだよ」
 キリコは溜息を押し殺す。だがBJが間違ったことを言っているわけではなく、むしろ外国へ行く機会が多い医師だからこその意見を言っているのだとよく分かっていた。患者の立場に立った視点であるということも。
「じゃあ何、キリコが診てあげなきゃいけない患者だってこと?」
 つまりメンタルヘルス、心療内科の域であるかという質問だ。安楽死に関して認めていないBJとしてはその物言いになる。キリコはそれも理解していて、少し難しい顔をした。
「俺の分野と言えば分野かもしれないが、積極的に関わりたくもないな。また相談があれば改めて診るよ」
「ただの風邪にしちゃ深刻な物言いだね」
「ターリーのカレーを何にするかの方が深刻だ」
 BJは数秒キリコを眺め、それからわざとらしく「そうだね」と言った。キリコがそう言うならそれでよかった。彼はキリコの患者なのだから。
「インドカレーならほうれん草のカレーにするところなんだけど、あの店はネパールだし。鴨とレンズ豆のどっちにしよう」
「どっちも美味いね。俺はマトン」
「あ、それもいいな」
 それきり患者の話はせず、二人は家を出た。車ではなく徒歩だ。目当ての店まではやや距離があるが、食前の腹ごなしにはちょうどいい。帰りはピノコへの土産を見繕うついでにやはりちょうどいい散歩になる。
 住宅街を外れるとオフィス街になる。晩秋と冬の狭間にある空気と陽射しが暖かかった。ビル街を吹き抜ける乾いた風は冬の名物だ。来日当初はあまりの乾燥度に辟易していたキリコだが、流石にもう慣れていた。むしろ海沿いに住むBJがうんざりした顔で「マフラーしてくればよかった」と呟いた。
 途中でオフィス街のビジネスマンをあてこんだ商店街に入る。商店街と言っても場所柄小洒落た店構えで、一見して商店街とは分からない並びをしていた。ふとBJが足を止めかけたが、キリコが黙って繋いだ手に力を入れて歩調を速める。BJはキリコを見上げてから唇をひん曲げた。
「マフラー買って」
 納得いかない感情を押し殺したその声にキリコは笑い、ごめんね、という言葉を了承に換えた。
 マシューがドラッグストアから子供用の風邪シロップを袋いっぱいに持って出て来たのだ。見なかったことにしてくれたBJに感謝した。
 ターリーと呼ばれる大皿の上にいくつもの料理を置くネパール料理はたまに食べると楽しい。味も日本人向けにアレンジしてあることがほとんどで、ランチタイムが始まったばかりだというのにそこそこ席が埋まっていた。BJは悩みに悩んだ後に鴨のカレーを選び、マトンの予定だったキリコはレンズ豆に変更した。半分はBJに食べさせるつもりだった。
「この辺りはビジネスマン向けの店しかないのに、子供用のシロップがあるなんて思わなかった」
「案外ある。保育所がいくつかあるし、地元の人間もあの辺りまでなら買い物に出るからな」
 お節介な医者め、と心の中で呟きながらキリコは答える。BJはそれきりマシューの話をしなかったが、気にしていることはキリコに伝わった。確かにBJからすれば──あの症例を目の当たりにしたことがない医者なら──彼の行動は気にかかるはずだ。そんなに不安で薬が欲しいなら他の医者に行けばいいのに、と。
 このままでは食事が楽しめない、とキリコは思う。僅かに思案した後、BJに切り出した。
「食事をしたら彼に会いに行くよ。おまえは家で待ってて。時間がかかるかもしれない。帰る時間までに戻らなかったら送れない。悪いけどタクシーで帰ってくれ」
「ピノコに電話すれば遅くなっても平気」
「駄目だ。帰る時間は守る約束だ」
「仕事なのに?」
「俺の患者だし、おまえの領分じゃない」
「説明してくれてもいいと思う」
 機嫌を害した恋人の顔ではなく、気になる患者を見た医者の顔になった恋人に、この医療馬鹿め、とキリコは心の中で呟く。鏡に向かって呟いたのだとは気づきもしない。観念して一言だけ告げた。
「コデイン」
「──実際に見たのは初めて」
「だろうな。俺も滅多にないよ」
「確かにわたしの領分じゃないな。手伝うことは?」
「手伝いって言っても──ああ、ありがとう」
 ちょうど料理を運んで来てくれたウェイターに礼を言い、話を一時中断する。せっかくのランチだ、仕事の話は抜きで食べたいものだ。だが目の前の愚直な医者がそれを許してくれない。手短に結論を伝えた。
「彼にも社会的立場がある。何でも詳らかにすればいいってものじゃない。──そういうのはお得意だろう、ブラック・ジャック?」
「──同胞のことは同胞が始末をつける、っていうことは分かった。じゃあ何もしない。遅くなったらタクシーで帰る」
「ごめんね」
「別に。気にしないで」
 BJは努めて穏やかに言ったつもりだったが、無論キリコには内心の不満が伝わっている。この件が片付いたらそれなりに機嫌を取る必要がありそうだ。恋人の機嫌取りが好きなキリコにとっては一種の報酬かもしれない。
 ──まあ、あのシロップも報酬っちゃあ報酬なんだろうな。
「まったく」
 キリコは溜息をつく。
「俺がいかに健全か思い知れたよ」
「何それ」
「早くおまえの機嫌が取りたくなった」
「──何それ。どこが健全? それに、機嫌が悪いわけじゃないけど?」
「そうかい。じゃあ機嫌が悪い振りをしておいてくれ。俺に楽しみをくれよ」
「馬鹿じゃない?」
「馬鹿で結構」
 ナンとレンズ豆のカレーを口に入れる。期待通りに美味しかった。あんなシロップを飲むような状態じゃこの美味さも分からないだろうな、とキリコは思った。


「どうしたんだ、ドクター。来てくれて嬉しいよ」
 証券市場が動いている日中、そんな言葉を心から言う証券社員などいない。だがロビーに出て来たマシューが上機嫌であることは一目で分かる。シロップを飲んで調子が上がったのだろうと診立て、キリコは忙しいはずの証券マンに詫びてみせた。
「さっき、きみに伝え忘れてしまったことがあって──お恥ずかしい」
「伝え忘れたこと? ドクターでもそんなことがあるんだね。すまない、あまり長く一緒にはいられないけど」
「きっと忙しいんだろうね」
「それなりにね。明後日の13時からの会議に賭けていることがあるから、その準備で」
「この規模の会社できみの立場で『賭けている』だって? すごいことになりそうだ」
「嬉しい買いかぶりだね」
 ロビーのソファに浅く腰掛けながらマシューは笑う。世界に名だたる一流証券会社の接客ロビーだけあって、置かれた家具も一流だった。座り心地の良さに満足しながらもキリコは話を進める。
「マシュー、伝え忘れた件なんだが」
「うん」
「休んだ方がいい、ということだ」
「週末はゆっくりするよ。風邪だから温かくして、だろう? ──ああ、ありがとう!」
 気を利かせてコーヒーを出してくれた受付の女性に、マシューは大げさなほど嬉しそうに礼を言う。マシューの上機嫌振りに戸惑った女性の顔をちらりと見たあと、キリコも軽く目で礼を伝えた。
「ドクター・キリコだ。とても優秀な人だよ。私の家の近所で完全予約制の心療内科を開業しているんだ」
「まあ、そうなんですか。心療内科?」
 日本人独特のアクセントが強い英語で二言三言会話をし、女性はキリコにぺこりと頭を下げてその場を離れた。
「マシュー、週末ではなくてね。できれば明日からでも──まあ、仕事のこともあるから難しいだろう。ただ、できるだけ早く休んで欲しい。そうだな、1ヶ月ほどは必要だ」
「何を言ってるんだ」
 マシューは苦笑し、浅く腰掛けたままのソファから身を乗り出した。
「この仕事でそんな時間を取るなんて──夢物語みたいなものだよ。半日で市場がどれだけ動くと思う?」
「私は医者だよ。証券のことは分からない」
「資産運用がしたければいつでも言ってくれ、いい銘柄がある。退役恩給で運用している人もいる手軽な銘柄だ」
 キリコがベトナム帰りだということは知られている。ともすれば無礼にも聞こえるその提案を特に気にせず、キリコはマシューを観察した。浅く腰掛けたままのソファから一刻も早く立ち上がりたいとばかりに爪先を揺らせている。そして先ほどの女性と、おそらく同僚であろう他の女性の視線を感じていた。
 ──俺にいつまでもいて欲しくない、すぐにでも仕事に戻りたい、って感だな。しかも今、話を逸らせようとした。つまり──
「残念ながら任官13年未満で退役した。継続支給じゃないんだ。一回限りの傷病恩給だった。──それはともかく、不調を治すために1ヶ月は休むべきだ」
「面白くない冗談だよ。軽い風邪だって、きみが言ったんじゃないか。薬を出す必要もないって」
「きみが指定した薬じゃなければ処方したよ」
 マシューはそれだけで黙り込んだ。窺うような鋭い目でキリコを見る。彼が優秀な証券ブローカーであると分かる眼光だった。どんな動きも見逃さないと言わんばかりだ。ところが俺もそこは似たような仕事でね──キリコは内心で呟きつつ、特に声を落とすこともなく続ける。
「それに、自分で薬を用意しただろう」
「何だって?」
「薬局の近くにあるネパール料理が食べたくなってね」
「──あの店か。なかなか美味しかった覚えがあるよ」
 相変わらず浅く腰掛けたまま、察したマシューは深く溜息をつく。だがキリコにこれ以上何も言わせるものかとばかりに早口で話し出した。
「それなりにプロジェクトが動いている。今は休めない。明後日の会議で何が何でもイニシアチブを取らなければならないんだ。取れたとしてもすぐにプロジェクトが動き出す。とても休む暇なんてないし、そんな状態だなんて周りに思われたら立場を失ってしまう」
「立場を失う、か」
「そうだ。畑違いのきみには分からないかもしれないが──」
「私は休むようにとしか言えないよ。適切な薬を処方させてもらっても構わない」
「大人の薬は苦くてね」
「大量に飲むと胃が荒れるだろうし、なるほど、子供用シロップは適切だ。きみくらいの体格なら2本ほど飲めば6時間は持続するだろう」
 マシューはまた黙り、キリコを観察する。キリコもマシューを観察する。
「マシュー、自分が何をしているか──分からないなんてことはないだろう?」
「なあ、ドクター、そろそろいいかな。時間がないんだ。仕事をしなけりゃ」
「これでおいとまするよ。最後にひとつだけ答えて欲しい」
「手短に」
「きみにとって、仕事とは何だ?」
 マシューはしばらくキリコを見つめた後、吐き捨てるように、だが確かに、彼にとって偽りのない答えを口にした。
「生活だ」
「──気が変わったらいつでも連絡を」
「そうするよ。わざわざありがとう」
 マシューが清々したとばかりに浅く腰掛けていたソファから飛び上がるように立ち上がる。その時、若い男性社員が早足でやって来た。
「部長、明後日の会議の件で──例の銘柄が」
「明後日13時の? ステイツからCEOも来るあれか?」
「そうです」
 聞くともなしに耳にしたキリコは、明日の会議とやらがかなり重要であることを知った。アメリカの本社から最高経営責任者がわざわざ来日するほどなのであれば、いかな門外漢のキリコとてそう理解せざるを得ない。
「今行く。──ドクター、私の部下のヤマモトだ。とても優秀でね。ステイツに帰る時には連れて行きたいと思っているんだよ」
「それは素晴らしい栄転になるだろうね」
 山本かな、と頭の中であてはめる漢字を想像した。答えは出ないが確認するほどのことでもない。
「ヤマモト、彼はドクター・キリコ。私の家の近所で心療内科を手がけてらっしゃる」
「心療内科? ──山本です。ドクター・キリコ、お話中に失礼しました」
「いえ、ちょうどおいとまするところでしたので」
「ありがとう、ドクター。明後日の会議までにやることが多すぎるんだ、せっかく来てくれたのにすまないね」
「構わないよ」
 キリコは立ち上がり、マシューがなおざりに求めた握手に簡単に応じてその場を後にする。山本と受付の女性たちの視線を感じながら社屋を出た。そして溜息をついた。
「家にいろって言ったよな?」
 正面玄関を出た途端に出くわしたのは可愛い女だ。寒空の中で待っていたのか、頬が赤くなってた。
「まだ帰る時間じゃないから散歩してただけ」
「俺の家から随分離れてる。食後の運動にしちゃハードだな」
「寒い」
「そりゃそうだろう。風邪でもひいたらどうする」
「まだひいてない。マフラー買って」
「ったく」
 言いながら流しのタクシーを呼び止める。乗り込んでBJの手を握るとすっかり冷え切っていた。思わず眉をひそめる程度には冷えている。BJはちらりとキリコを上目遣いで見上げ、怒らないでよ、と呟いた。怒ってねえよ、と返事をしながら抱き寄せる。マフラーを買ったらすぐに崖の上の家まで送ろうと決めた。
 寒い寒い、と呟いた後、BJがふと言った。
「知り合いがいて」
「うん?」
「この会社に」
「ふうん」
「急に思い出したから顔を見に来ただけ」
 タクシーは指定の百貨店へ向かい、順調に道を進んでいた。どんなマフラーを買ってやろうかと考えつつ、キリコはBJが話すに任せる。
「で、さっきたまたま社屋の前で会ったから軽く立ち話になったんだ」
「たまたま」
「うん、たまたま」
「電話をして呼び出したのをたまたまって言うのか」
「ロビーだとマシューに警戒されそうだったし」
 悪びれもせずそんなことを言うBJに向かってつきそうになった溜息を隠す。呼び出された知り合いも迷惑な話だ。
「相手が風邪でもひいたらどうする」
「ちゃんとあったかくして出て来てもらったよ。3分で切り上げたし」
「ああ、そう」
「っていうか、闇関係の」
「──ああ、そう」
 どこにでも闇関係は潜り込んでいる。おおかた企業の情報を売っている人間だろう。企業内にいる者は闇にどっぷりと浸ってはいない。副業として情報の売買や製品の横流しを行っているのだ。キリコもそういった人材に関わっている自覚はあり、BJにあまり強く言えなかった。
「なんか、経営があんまり良くないんだって。特定の銘柄の持ち主から近々買い取れないとまずいとか何とか」
「……ふうん?」
「わたしは証券があまり分からないから何とも言えないんだけど、資金繰りがショートする可能性がないわけじゃない、っていうか」
 結構まずいみたいだよ、とBJは言ったあと、はくしょん、とあまり可愛くないくしゃみをしてキリコとドライバーに嫌な顔をさせた。
「ごめん、急にきた」
「買い物の前にお茶にしよう。温まらないと。今のくしゃみはちょっとまずい」
「店に入るのもまずいんじゃないかな、これ。──その関係の会議があるとかないとか。支社長とアメリカの本社が再建プロジェクトを認めないと本当にまずいって──でも支社長と本社はやり方が気に入らないとか言ってて──っくしゅ!」
「まずいのはおまえだ。失礼、行き先を変更して。赤坂の──」
 ドライバーに行き先変更を告げるキリコにBJは憤慨する。
「マフラー!」
「医者よ、己を癒やせ」
 つまりは「医者の不養生」と言われたのだ。BJは唇を尖らせてシートに深く座り直した。
「せっかく聞いてあげたのに」
「それはありがたいよ」
「明後日は本社からCEOが来る会議があって、でも気難しい人だから何か粗相があったら一発でプロジェクト案が終わるって言ってた」
 ぼそりと呟かれ、キリコはやや罪悪感に苛まれる。
「情報料、俺が払うよ」
「当たり前」
「最終的にはマシューに請求するけどな」
「できるの? 依頼されてないくせに」
「ああ、うん」
 キリコは窓の外を眺めた。道行く人々は寒さに身体を縮こまらせている。今夜は特に冷えそうだ。
「依頼されたよ」
 あれは依頼だ。キリコは断じた。BJは首を傾げた後、もう一度くしゃみをし、それから「寒い」と言い出してキリコを本格的に呆れさせたのだった。
 結局BJは早々に風邪症状の悪化を認め、崖の上の家で待つ愛娘に「今日は帰れない」と電話をするはめになった。帰宅のための移動が辛い程度には悪化している。
 既に鼻声になっていた電話越しの声にピノコは容赦なく「医者の不養生ねぇ」と呆れ、BJを落ち込ませたのだった。
 熱こそ出なかったものの、咳にくしゃみ、鼻水と、それなりの風邪症状が賑やかなBJは、それでも機嫌が悪いわけではなかった。キリコがユリに連絡をしてピノコの世話を頼んでくれたからだ。あの家に1人にするのは良くない、と長期間キリコが忍耐強く懇々と言い聞かせ続けた結果、BJも考えを変え始めていた。とはいえ、仕事の時にはその限りではないのだが。
 そして医者としての意識がキリコに甘えられないことも理解している。感染させるわけにはいかない。BJはあっさりマスクをつけ、キリコもそれに倣った。今日は同じベッドで寝ないというキリコ通達にも拗ねずに納得した。
「明後日までに治したいな」
「その分じゃ咳が少し残りそうだが、まあ、大丈夫だろう。どうして明後日?」
「明日じゃさすがに無理だし。でもマフラー欲しいし。だから明後日」
「勝手に決めるなよ」
「え、買ってくれないんだ?」
「買うよ」
 身勝手な言い分に苦笑し、だが可愛いことこの上なく、無粋なマスクと風邪のせいでキスができないのが残念だと思った。
「ただし、明後日の俺の件が終わったらな」
 BJはキリコをじっと見た後、マスクの下でくぐもった笑い声をあげた。
「ドクター・キリコ、子供用の風邪薬下さい! シロップの!」
「コーラでも飲んで寝てろ」
「コーラって気分じゃない。ホットパンチ作って」
 身体を寄せられない分、随分と可愛い声で甘えてくる。キスができなくて本当に残念だと改めて思いつつ、スパイス入りのホットワインを作るためにキッチンへ向かった。インターフォンが鳴らされたのはその時だった。
『夜分に恐れ入ります。ドクター・キリコのお宅でしょうか』
「そうです。どなた?」
『昼にお会いした山本と申します』
「どうぞ」
 考えるまでもなくキリコは許可を出し、出迎えの礼儀としてマスクを外しながら玄関へ向かう。BJは溜息をつき、普段は滅多に使われない客間で先に眠ることにした。