Smile an everlasting 02

「朝からお医者さんごっことは」
「お医者さんごっこにしては健全だ。──急性上気道炎ですね、お大事に」
「もっと簡単に言って」
「医者の不養生」
「何この医者、絶対ヤブ」
 要は風邪だ。昨日の風邪をしっかり引き込み、BJは朝方に自分の咳で起きてしまった。熱がないだけましだ、と自分を慰める。今日一日寝ていればある程度は回復するだろう。
「ドクター・キリコ、お薬下さい。甘くて飲みやすいやつ」
「子供用のシロップはお出しできませんね。──水飲んで飯食って寝てろ」
「咳止め」
 言うなり咳き込む姿に溜息をつき、昨日はもっと気を使ってやるべきだったとやや苦々しく思いながらキリコは診察室へ薬を取りに行った。やや、と言うのは本来BJが自己管理するべきだからだ。それに対して自分のミスだと考えてしまう自分をつくづく愚かで、そしてあの女を甘やかしすぎていると思う。とはいえ甘やかす度合いを緩める予定はない。
「ほら」
 水と一緒に渡された薬を見たBJは笑った。
「漢方? 使うようになったんだ?」
 ここしばらく漢方の勉強をしていることは知っていたが、実際に自分の医院に置くほどだったとは予想外だ。
「処方するのはおまえが初めて」
「実験台にするつもりだ!」
「医道に身を捧げよ。──俺が何回か飲んでる。効果もあるからそれにしておけ」
「わたし、あまり漢方使わないな」
「たまにはいい。俺の体感だけどね」
 楽になるよ、と言外に告げると、BJは眠っている間も外さなかったマスクの下で唇を尖らせた。風邪を引いてなければキスしたかったな、と思う程度には嬉しかった。
 だがいざ飲むと漢方の苦みに襲われ、よくもこんなものを寄越しやがって、ヤブ医者め、とキリコに食ってかかった。元気で結構だとキリコは笑う。そして実際、その漢方はよく効いた。予想よりも早く咳が治まり、随分と楽になる。そうなると身体は正直なもので、普段の旺盛気味の食欲を思い出した。
「お腹すいた。朝ご飯食べたい」
「できるまでベッドにいろ。下に降りる時は着込めよ」
「分かってるよ」
 唇にできない代わりに髪にキスをしようとキリコは身を寄せたが、BJがすっとそれを避けた。何だよ、と問う前にBJは上目遣いに、そして少し恥ずかしそうに言った。
「昨日、シャワー浴びないで寝たから」
「──関係あるか!」
 言いたいことはよく分かった。汚れを気にした態度が可愛くて可愛くて、キリコは笑って盛大に髪にキスをし、好きな女を安心したように笑わせたのだった。
「何これ。煮込みパスタ?」
 朝食がちょうど出来上がる頃に2階の客間からリビングへ降りたBJは、出された朝食を見て首を傾げる。普段のサラダやコールドミート、パンといったメニューと違い、麺に似たショートパスタが入ったスープだ。
「そんなもんだ。チキンヌードルスープ」
「これが! 初めて見る!」
 アメリカ人が体調を崩した時によく食べる料理という知識はあったが、実際に目にしたのは初めてだ。体調不良で嗅覚が狂い、香りが分からないのが残念だと思う。見るからにチキンブロスの良い香りがしそうな料理だった。
「美味しそう。日本で言うならおかゆみたいなものかな」
「まあ、そうだな。ちなみにこれは缶詰」
「病人食まで缶詰?」
「そう。一から作る家庭もあるが、手間がかかるから俺は缶詰」
「アメリカ人は合理的すぎる。いただきます」
「どうぞ」
 笑いながらマスクを外し、未知の味を期待する舌と胃袋へ送り届けてやる。香りが分からないのが本当に残念だと思った。
「風邪ひいてても分かる。美味しい」
「そりゃ良かった」
「どこで売ってる? 家に置いておきたい。ピノコの具合が悪い時なんかに良さそう」
「帰る時に連れて行ってやるよ。普通の店じゃ売ってない」
 この時代、日本ではまだ外国人御用達のスーパーマーケットでしか見られない缶詰だ。母国ならその辺の店に山積みになっているのだが。
「食べたら寝てろ。早く治せよ」
「キリコは何する」
「飛び込みの患者がいなければ好きな女の看病」
「悪くないね」
 機嫌良く笑い、BJは食事の残りに取りかかる。風邪をひいても食欲は旺盛だ。これなら特に心配することもないな、とキリコは安心した。
 食後、客間のベッドではなくリビングのソファに毛布を持ち込み、BJは気ままに病人生活を楽しみ始めた。キリコは好きにさせつつ本を読み、途中で遊びに来た猫の母子を家に入れる。BJと遊べずに残念そうな顔をする母子をやや気の毒に思い、珍しく猫じゃらしで遊んでやった。BJは嬉しそうにその光景を見ていた。遊び飽きた母子は縄張りを探索し、異常がないと分かるとしっかりおやつを食べてから外へ出て行く。
 飛び込みの患者もなく、時間は穏やかに過ぎた。ランチはどうしようかとキリコが考え始めた頃、BJがうとうとと眠り込む。念のために額に手を当てたが熱はないようだった。ランチは起きたら食べさせることにした。
 BJが眠っている間、マシューの件を考える。夜に訊ねて来た山本についても併せて考え、証券ブローカーという職業に就く奴はとんでもなく優秀でありながらもエゴイストであり、そしてマゾヒストだと思った。
 ──コデインか。あんなものが子供用の風邪薬に入っている方がどうかしている。ステイツじゃもう子供用は禁止されてるってのに。
 コデインに対し、キリコは専門家の強いコントロールが必要な薬としての認識を持っている。適切な量であれば優れた効果が期待できるが、大量に服用すれば麻薬同様の効果が得られるものでもあった。子供用の風邪薬や咳止めにも使用されているが、アメリカではすでに子供用の薬への使用が禁止されている。日本もいずれそうなるだろうが、この時代ではまだ薬局で何のチェックもなく売られている状態だ。
 それを大量に購入しているマシューの目的は──
 思わず溜息をつくと同時にBJが身動きをする。起きるかと思ったが、またすぐに穏やかな寝息を立て始めた。朝の残りのスープを温めてショートパスタを足す頃まで眠り続けたBJは、起きるなり「お腹すいた」と言ってキリコを笑わせたのだった。
「漢方は飲みにくささえなければもっと広まると思う」
 昼の薬を飲まされたBJは顔をしかめ、水を一気飲みする。その後すぐにキリコがくれたベリーのジュースを口に運んだ。
「ほんと苦い」
「そのうち改良されるよ。西洋薬を嫌う人間は一定数いるし、うまくやれば製薬会社の金のなる木だ」
「ちなみに今のわたしの症状で、西洋薬を処方するとしたら?」
「コーラ」
「ヤブ医者!」
 朝の残りのスープとヨーグルト、蒸したチキンでランチを済ませる。BJはしっかり食べたが、デザートのオレンジを囓りながらキリコに言った。
「こんなのじゃキリコがお腹すくんじゃない? きちんと食べなよ」
「腹が減ったらそうするよ。出かけないし、この程度で充分だ」
「あとでアイス食べたい」
「氷?」
「分かってて言わないでよ。アイスクリーム」
 日本と米国では氷菓子の表現が違う。一度BJに教えられたキリコは理解しているが。拗ねた顔をするのが可愛くてわざと間違える振りをすることも多かった。
「まあ、風邪の時はそれもいいな」
 後で買って来るよと言いかけ、キリコはふと思い出す。
「マフィン」
「うん」
「俺が送るけど、おまえ、今日帰れそう?」
「さっさと帰れってこと?」
「そうじゃなくて。体調」
 眉を跳ね上げた女に慌てて説明する。キリコの家がある赤坂から崖の上の家まではそれなりに長距離だ。熱がないとはいえ体調不良の状態での移動は負担になるのでは、と問うたつもりだった。理解したBJは医者の顔になって自分の状態をチェックする。
「途中で悪化する可能性がないとは言えない。そうなると帰った後にピノコに移すかもしれないし、そもそも車の中でキリコに移るかも」
「結論は?」
「15時半まで判断を先延ばし。良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれないし、15時のおやつにアイスを食べたいし」
「アイスクリームのフレーバーは何に?」
「バニラベースでドライストロベリーと砕いたクッキーが入ってるやつ」
「作れってか」
 以前、酒の肴として作ってやったフレーバーだった。キッチンにある材料をざっと思い出し、バニラアイスだけは買いに行かなければいけないと判断する。
「アイスクリームだけ買ってくる。すぐそこの店」
「行ってらっしゃい」
 キッチンでドライストロベリーをヨーグルトに漬ける作業だけを手早く済ませ、BJの髪にキスをして外へ出た。ひどく冷え込んでいた。晩秋は既に冬にその座を奪われているようだった。
「──明日は恐ろしく冷えそうだな」
 呟き、好きな女のためにバニラのアイスクリームを買いに歩き出す。今日はもうマシューのことを考えるのはやめよう、と決めた。
「あら、ドクター、いらっしゃいませ」
 自宅から歩いて10分ほど、高級住宅街に相応しい小洒落た個人店へ入ると、女店主が笑いかけてくれた。キリコが笑い返す前に「いらしてるのね」と見抜かれ、愛想の笑顔を見せるはずが苦笑になってしまった。自分がこの店に──スイーツショップへ来るのは確かにBJが来ている時だけだ。
「アイスクリームを。バニラの」
「バニラビーンズが入っているのと入っていないの、どちら?」
「入っていない方がいいな」
「かしこまりました。他にご入り用は? このファッジ、新作なんです」
 キリコからすれば恐ろしく甘く、普段であれば手に取らないスイーツだ。だが今のBJのカロリー補給には適している。店主が示したそれは市販のキャラメルよりもやや小さく、手軽に食べられるであろうこともキリコの高評価を招いた。
「ではそれも」
「ありがとうございます」
 店主の心からの笑顔に見送られ、予定通りのアイスクリームと予定外のスイーツを手に家路へ着く。家を出た時よりも冷え込みが強くなっていた。
 BJはまた眠っていた。午前中と同様に額に手を当て、熱が上がっていないことを確認する。しかし眠る頻度が高い。本人の意志を優先するつもりではあるが、今日は帰さない方が良いかもしれないと考えた。眠っている間にご所望のアイスクリームを作ってしまうことにした。
 本来ならドライストロベリーをひと晩漬けて柔らかく戻すのだが、敢えて短時間だけ漬けて硬さを残して刻む。砕いたクッキーと一緒にアイスクリームに混ぜれば作業は完了だ。食べる時間まで冷やしておけばちょうど良い硬さになるだろう。こんな真似に時間を費やすなんて平和なものだ、と自分で思った。
 しばらくするとBJが目を覚ます。髪にキスをしてファッジを渡すと喜んだが、少し囓って置いてしまった。キリコに「帰さないでおこう」と判断させるには充分な珍しい行動だった。
「食べられない?」
「美味しいのは分かるけど、頑張らないと食べきれないかも」
「熱が出るとは思えないが、そんな小さなスイーツも食べきれないのは不安材料だ。おまえにしてはかなりの不調だってことだからな。帰らない方がいい」
 BJが指定した15時半よりだいぶ早い時間だが、キリコは最終的な意見を述べた。BJは少し考えた後、うん、と頷いて、それからピノコに電話をかけるためにソファを立った。
 電話を終えてソファに戻り、もう一度ファッジを少し囓る。
「いつもはもっと重病ばっかり診てるのに、変な感じ」
「病気に大きいも小さいもあるか。本人と家族が決めるんだ」
「そっか」
 マスク越しでも分かるほど、BJは笑顔になった。可愛いな、と思ってキリコは笑い返した。早くマスクを外してキスをしたいな、とも。
「家族が元気なのは本当に重要だな。看病してる方も心配で気分が落ちる」
「あ、落ちてるんだ?」
「上がりはしないな。──元気だから仕事ができる。生活ができる。背負うものを背負い続けられる」
 仕事とは何だ。マシューにそう問うたことを思い出した。今日は彼のことを思い出さないようにしようと決めたのに、結局俺にとっての仕事はそういうものなのだろう、と思わざるを得なかった。
 仕事とは何だ。
 生活だ。
 その答えこそ、マシューがコデインを求める理由なのだと分かっている。
「早く治らないかな」
 BJがまたソファに横たわってぼやく。キリコは毛布をかけてやりながら、焦るなよ、と言ってやった。だがBJは不満そうだった。
「だって」
 毛布を口元まで引き上げ、マスクごと顔半分を隠す。くぐもった声が聞こえた。
「キリコとちゅーしたい」
 何を言えばいいのか。この可愛い女にかける言葉が見つからず、髪にキスをして、俺もだよ、と言うしかできなかった。そのままBJはまた眠った。
 比較的すぐに起き、約束のアイスクリームを食べたがる。多少の手間をかけたスイーツに喜び、BJは満面の笑みで口に運ぶ。
 だが「冷たくて美味しい」と言う感想にキリコは絶望し、BJも溜息をつき、覚悟を決めて宣言した。
「これ、熱出る」
「だろうな」
 味ではなく冷たさに好感を持つのなら、明らかに身体が熱を持ち始めている証拠だ。咳やくしゃみは漢方で治まっている。夜の薬には解熱剤を足すかどうか、今から少し考えておかなければならないようだった。そこまで高熱にならなければ良いのだが。明日はどうしてもキリコは出かけなければならない。高熱が出た場合、さすがに1人で置いて出るのは躊躇われた。
 案の定、夕方には熱が出たが、それほど高くならずに済んだ。BJは「全力で治す」と改めて宣言し、無免許ながらも名医であることを証明するかのごとく、理想的な養生をする。
「客間で寝てる。何かあったら呼ぶから気にしないで」
「たまに見に行くよ」
 つまり温かく適した湿度のある部屋に自主的に隔離を行い、安静にし、できれば眠り、薬を飲む。基本的でありながら本人にも周囲にも最大限の効果がある養生に、医者ってのはこういう時の割り切りがいいよな、とキリコは思ったのだった。
 それほど熱は上がらなかったが、BJはとにかく眠り続けた。漢方に誘眠成分が入っていたのもその理由だろう。深い睡眠は回復に何よりも役に立つ。咳で起きなくて良いのも功を奏した。今後もある程度の症状にはこの漢方を使おうと決め、キリコは自分も眠ることにした。
 明日の正午過ぎには家を出る予定だった。それまでにBJにもう少し回復していて欲しい。好きな女や家族の具合が悪い時、仕事とはいえあまり長く家を空けたいと思うたちではなかった。
 そして翌朝、幸いなことにBJの熱は下がっていた。
「風邪も確かだったんだろうが、どちらかと言えば疲労だったんじゃないか」
「そうかもね」
 BJの様子を確認し、キリコは昨日と同じチキンヌードルスープにパンとチーズを添えた朝食を用意した。病み上がりとは思えない旺盛な食欲に任せて食べながら、BJはキリコの所見に同意する。
「最近、ちょっと忙しかったし」
「おまえが暇な時なんか知らないね」
「時は金なり」
「貧乏性か敏腕ビジネスマンの台詞だな」
「どっちも健康じゃなきゃ稼げないのは共通してるね」
 BJは他意なく言って笑ったが、キリコはふと思うところがあり、ああ、うん、と曖昧な返事をするにとどめた。その健康を損ねてまで働く男がいることを思い出さざるを得なかった。
「昼から出てくる。おまえを送るのはいいが、夜になるのは勘弁しろよ」
「どこ行くの」
「仕事。──安楽死じゃないぞ」
 また殺人かと眉を跳ね上げるかと予想して先手を打ったのだが、意外にもBJは穏やかだった。拍子抜けしたキリコに肩を竦めてみせる。
「殺人なら」
「安楽死」
「殺人。──そっちの仕事なら一昨日あたりからわたしを近付けないはず。だったらいいよ」
「おまえの許可なんかいらねえよ」
 そう言いながらもBJがごねなかった──何しろ理不尽なまでに嫉妬深く無意識の束縛が強い女だ──ことに安堵し、出かけるまでは少し甘やかすことに決めた。まだ風邪が移らないと言い切れない、むしろ感染力が強い時期であるのは医者として重々承知しているが、自分が多少距離を詰めたい気分もある。
 キリコとしては「多少」の予定だったが、BJの方が2日間の無情な距離に業を煮やしていたようだ。マスクは外さないものの、好きな男にべったりと身体を寄せ、スキンシップをとりたがる。これが天才外科医だなんて誰が信じるだろうなと思いながら、キリコはBJの好きにさせておいた。自分もBJの体温が嬉しいことは確かだ。
 家族が元気になるのは良いものだ。そう思った。生活の質が上がる。維持したくなる。
「──だからって、あんな働き方はしたくないものだけどな」
「何? 働きたくないの? 廃業する?」
「しねえよ」
「していいよ。養ってあげるから早く廃業してよ。日本の扶養制度ってすごいんだよ?」
「俺にだってプライドがあるんだ」
 もう何度繰り返したか分からない会話をまた繰り返して楽しむ。BJは機嫌が良い。それを見たキリコも機嫌が良くなる。家族が元気になるのは良いものだ。心からそう思った。