「マフィン」
これ以上面倒が起きないよう、予防策を講じることにした。予防策、要は機嫌を取る。これに尽きる。囁きよりはやや大きく、だが周囲には聞こえない声で言った。
「ん?」
「今のは反則だ。早く帰りたくなった」
とどめに「可愛いね」と囁くと、BJはあっという間にまた上機嫌になる。早く帰りたいことは事実だし、BJが可愛いことも事実だ。嘘をつかなくていい分、予防策としては簡単な部類に入るものだった。
やれやれ、これで何とかケーキのお披露目までしのげるだろう──キリコの考えが甘かったと思い知らされるまで、それから数秒も経たなかった。
「ドクター、先生、さっきはごめんなさい。パパに叱られちゃった」
凝視していたジェシカが声を掛けて来た。いかにも反省した顔が作り上げたものであることはすぐに分かったが、16歳でここまでできるのであれば感服ものだ、とキリコはいっそ感心した。BJが聞けば鼻で笑って「16歳なんて立派な女だ、演技なんざお手のもんさ」と言うであろうことなど想像もせずに。
「もう調査なんてしないし、パパが今までの調査結果を全部消すように命令したんですって。だから安心して。軽率なことをしてごめんなさい」
「分かってもらえたならそれで構わないよ。ありがとう」
キリコはジェシカが差し出した手を軽く握った。これくらいは生意気な異物(とBJが認識しているに違いない)相手でも許されるべきだと内心でBJに期待した。隣のBJから特に怒りを感じなかったため、どうやら許容範囲内であったと安心する。するとジェシカは笑った。
「最後までいてくれるでしょう? 先生だって許してくれるわよね? だってわたしのバースデーパーティなんだもの、少しくらい我儘を聞いて欲しいわ」
「いや、それは──ジェシカ、失礼なんだが俺たちは──」
「ええ、構いませんよ」
またもや周囲の気温が一気に下がった。BJの貼り付いた笑顔は何よりも恐ろしいと、今日誰もが知った。
「じゃあこっちに来て、ゆっくりおしゃべりしたいの」
ジェシカが腕を引いた。え、と誰もが驚いた。BJとキリコさえ驚いた。
BJの腕を引いたジェシカは笑った。
「ドクター、先生をちょっと借りるわね」
言うなりジェシカはBJを連れて中庭へ出て行ってしまった。残されたキリコは茫然とするしかなかった。だが二人の姿が見えなくなると同時に深い溜息をつき、神に心底祈った。
──何もありませんように。神よ、我らに加護を。
「ドクター」
いつの間にか傍に来ていた小児科部長が溜息混じりに言った。
「少ししたら妻に様子を見に行かせるよ」
「面倒見がいいな、ありがとう」
「以前助けてくれた上に、こんな人脈をくれたんだ。これくらいは当然だよ」
「奥さんが立派に役目を果たしてくれたらデニスを紹介させてくれ」
「それはありがたいね」
そして部長はしばらく考えた後、「記憶違いかもしれないが」と前置きをしてキリコに言った。
「ジェシカの母は最初、うちの病院に来たはずだ」
「──ふうん?」
「私は小児科だから詳しくは知らないが、何しろデニスは病院の裏の経営者のようなものだからな。噂は聞いたよ」
「どんな?」
「緩和ケアに切り替えることになった時、デニスが退院させてそれきりになったんだ」
「なるほどね。おそらくその直後、デニスの依頼でBJが手術した。延命措置にしかならなかったらしいがな」
特に目新しい情報はないようだ、とキリコが会話を切り上げようとした時、部長は静かに言った。
「3ヶ月以上延命できればいいね、と言っていた」
「──誰が?」
「子持ちの女医や看護師がね。話を聞いて私もそう思ったよ」
どういうことだと問おうとした時、部長の妻がすっと二人の横を通り抜け、中庭に出て行った。タイミングとしては少し早いが、キリコからすればありがたい瞬間だった。
ふと中庭に目を向けたその時だった。派手な水音が室内の楽団の音にかき消されない程度に大きく響いた。咄嗟にキリコは持っていたグラスを近くのアテンダントに押し付け、速足で中庭へ出る。音がした方へ走り、原因をすぐに確認した。
「クロオ!」
同時にどこに潜んでいたものか、ジェシカの警備のマフィアたちが一斉に飛び出して来る。キリコはジェシカにも彼らにも目をくれず、うんざりした顔で噴水の中から出て来るBJと、ドレスが濡れることも構わずに手を貸す部長の妻へ駆け寄った。
「大丈夫か。──マダム、濡れます、後は私が」
「ドクター、ごめんなさい。間に合わなかったわ」
「そんなこと言わないで。来てくれてありがとう」
部長の妻が来てくれて良かったのだ。BJはそう思った。ジェシカに突き飛ばされた時、もし彼女が歩いて来る姿が目に入っていなければ、ジェシカを道連れに噴水の中に飛び込んでやる予定だったのだから。
当のジェシカは激情に任せた自分の行為そのものに茫然とした顔で突っ立っていた。お嬢さん、大丈夫ですか、と護衛の男たちにかけられる声にも反応できない。
「何をされた」
「何をした、じゃないんだ?」
「おまえが自分で手を下すはずがない」
「もうちょっと違う言い方をしてくれてもいいんじゃない!?」
怒りながらもBJはずぶ濡れのコートを脱ごうとしない。周囲はジェシカの護衛の男ばかりだ。彼らを警戒しているのだと察したキリコは少し語気を強めて言った。
「話は後だ。何かあればデニスを通せ。俺の女が休める場所をすぐに。それからこちらのマダムも濡れた、ファミリーに礼儀があれば誠意を見せてもらおうじゃないか」
護衛対象であるジェシカの警備に特化した彼らは、キリコの要求にすぐに動けなかった。明らかに動揺し、キリコを呆れさせる。すると部長の妻がキリコを呼んだ。
「わたしにはお構いなく。──ドクター、先生はお願いしますわね」
「マダム?」
「ジェシカ、わたしとおしゃべりしない? ちょっとびっくりしちゃったでしょ、わたしもよ」
「──失礼、そこに妻が。どうしたんだ、ハニー?」
「あなた、あのね、来て頂戴」
護衛の男たちを掻き分け、部長が現れた。妻と何事かをアイコンタクトし、それからキリコとBJに小声で「妻は小児科の看護師だ」と言う。小児科医の自分と看護師にジェシカを任せろと言うことなのだろう。16歳とはいえ、昨日までは小児科の範疇だ。やっぱりこいつは、とキリコは思った。──やっぱりこいつは医者だ。妙な欲を出さなければ表社会を生きられたはずの。
「恩に着る。マフィン、行こう」
「どこに? もう帰りたい。うんざり」
「うん、言いたいことは分かるし、俺も同じ気持ちだよ。でもせめて服を乾かしてからがいい」
服を乾かせる部屋の手配はいつになるか、とキリコが考え始めた時、BJがさっさと歩き出した。護衛たちが慌てて道を開ける。そしてキリコは心底の溜息をついた。今日何度目か分からない溜息だった。
濡れた服のまま、BJはパーティ会場へ戻ると言う暴挙に出ていた。普通の招待客なら濡れた姿を見られたくない、あるいは自分のことで騒がせたくないと思って絶対に出来ないことだ。だがこれがBJだ、仕方ない、そう思ってキリコは後を追うことにした。
歩き出す直前、ジェシカを振り返る。ずらりと居並ぶ護衛は役立たずだ。噴水の縁に部長夫婦に挟まれて腰掛け、泣いていた。あの気の強い少女とは思えない、年齢相応の姿に見えた。
会場を一頻り騒がせ、駆け付けたデニスを大慌てさせた後、BJとキリコは屋敷内の一部屋を陣取った。服を乾かすだけにしては豪華すぎる客室だ。オールドマネーのクリードの家より悪趣味だな、と思いながら、キリコはシャワーに消えたBJが脱ぎ捨てて行った服を世話役のメイドに渡す。コートだけは触らせず、BJがシャワーを終えたら浴室内の換気扇で乾燥させることにした。
BJが浴室から出ないうちにデニスが現れた。立場に似合わないほどの平身低頭振りだ。何しろ相手はブラック・ジャック、いくら愛娘が関わっているとはいえ、娘の味方をすることはできないと思っている心情が見て取れた。
「まだ風呂です。失礼ですが、風呂上りでは恥ずかしがると思うので──」
「重ねて失礼ばかりで申し訳ない。ジェシカからまだ話を聞けていなくて」
「まだパーティの途中でしょう。ジェシカを落ち着かせて続けられてはいかが。BJとはまた後で話せるはずです。コートが乾くまでは帰れませんからね」
「そうするしかないな。早くジェシカが落ち着くといいんだが」
「ジェシカと話している夫婦は優秀な小児科医と看護師です。きっと大丈夫」
デニスはその申し出を受け入れるしかなく、くれぐれも詫びを伝えて欲しいと何度もキリコに言いながら部屋を出て行った。ドアを閉めたキリコは胸を撫で下ろした。いくらデニスがBJを贔屓しているとはいえ、愛娘が関わればどんな豹変を見せるか分からないと危惧していたのだ。この分なら心配しなくても良さそうだった。
「煙草頂戴。濡れちゃった」
シャワーを終えたBJが浴室から出て来る。メイドが用意したお仕着せのロングナイティが湿気で肌に貼り付き、普段の服装からは想像もできないような魅力的な体形が露わになっている。デニスを帰して良かった、とキリコは心底思った。下着を着けていないことが一目瞭然だったのだから。
まだ憮然とした顔ではあったが、怒りの色はなかった。むしろキリコが思わず医者の目で見てしまうほど沈んだ色を湛えていた。
「何から聞かせてくれる?」
コートを浴室に掛けてから、キリコは煙草を渡し、窓際に寄り掛かった。
「何を聞くって?」
「そうだな、じゃあまず、ジェシカがおまえを突き飛ばしたって認識でいいのかどうか」
「それでいいよ」
キリコから煙草をもらい、コーヒーテーブルの灰皿を持って豪華すぎるベッドへ行く。腰を掛けた途端に沈んで身体が引っ繰り返りそうになり、慌ててバランスを取った。
「どうしてそんなことに?」
「ジェシカは私のことが嫌いだから」
「……俺がいい男って証明だ、気にするな」
初恋の男を取られたと思って激情を向けたのだろう、とキリコは予想する。だがBJが眉を跳ね上げてみせたので、どうやら違うようだと悟った。
「自惚れてんじゃねえよ、早漏」
「うるせえ、クソビッチ。早漏じゃねえ。──じゃあ俺には分からない、教えてくれ」
「あの子の母親の話。私がオペして、余命1ヶ月のところを6ヶ月に延ばした」
「──ふうん」
小児科部長から聞いた話のことだ。病院スタッフが3ヶ月に延びればいいと言っていた余命が6ヶ月になったのなら、それはやはりある意味、ブラック・ジャックという存在の凄まじさを物語る一端にはなるのだろう。だがキリコは思う。俺なら。俺ならば。延命なんて。するとBJが溜息を隠した煙を吐き出した。
「ドクター・キリコなら安楽死を選択しただろうね」
「──その話はしない方がいい。俺は患者の状態を知らないし、何より昔の話だ」
「そうだね。とにかく末期も末期、そういう状態だった。ジェシカは私が母親を苦しめたと思い続けているそうだ」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、ベッドの横のナイトテーブルに置く。キリコは何も言わず、話しの続きを待った。
「6ヶ月苦しめただけだったと。ドクター・キリコなら楽にしてくれたはずなのに、ってね」
何て爽快感のない話だ、とキリコは思った。そら見たことかと思う自分がいるのも確かだが、だからと言ってそれを口にしてブラック・ジャックを貶める気になどなれるはずがない。いや、他の場合ならそれも有り得ただろう。だがとうに過去となったはずの術例の是非を今更問うたところで、一体どんな意味があると言うのか。
「あまり気にするな。昔のことだろう」
「医者にとってはね。でも患者の家族にとってはいつまでも今さ」
遠くから歓声が聞こえた。少し予定時間から遅れたようだが、ジェシカのバースデーケーキがお披露目されたのだろう。
「きっと凄く豪華なんだろうね」
ケーキを予想したBJが笑う。無理をして笑ったことは明白で、キリコは「そうだな」と言って隣に座るしかできなかった。柔らかすぎたベッドは二人の体重を支えはしたものの、バランスを奪う。二人して引っ繰り返り、思わずBJは笑った。仰向けに沈んだキリコの胸の上に甘え、少し深い息を吐く。
「患者の家族にとっては、いつまでも今だよね」
「どうかな」
「わたし、おかあさんのこと、あんまり昔に思えない」
キリコはどうなの。ユリさんは。お父さんのこと──BJがそれを口にすることは決してなかった。これからもない。いつかキリコが、ユリが話したいと思った時、ただ頷いて聞くだけの存在であろうと決めていた。
キリコは無言で胸の上のBJを抱き締めた。BJも無言で胸に頬を預ける。規則正しく聴こえる鼓動が愛しかった。いつの間にか髪を撫でてくれていた手が心地よかった。遠くで賑やかな音楽が聴こえ始めた。ダンスかな、と呟くと、そうだろうね、とキリコが返事をしてくれた。
BJの髪を撫でているうち、胸元の呼吸が寝息に変わったことを知る。酒も入っていた上にこのトラブルで疲れていたのだろう。シャワーで身体を温めたことも睡眠を呼び寄せた。コートが乾くまではこのまま寝かせておくことにした。
柔らかすぎるベッドに寝かせ、これも柔らかすぎる上等の羽根布団を掛けてやる。キリコ自身は眠気を感じることはない。マフィアの屋敷で眠り込めるような神経は持ち合わせていなかった。BJとて規格外ではなく、キリコがいると言うこと、デニスが自分を害することがないと言う確信があるから眠り込んだだけだった。
「……、ん」
羽根布団の中でBJが呻いた。寝言だ。キリコはしばらく感情を噛み締めた後、その髪を撫で、伝った涙を拭ってやった。
おかあさん。
その言葉を、しばらく忘れられそうもないと思った。
やがて控えめなノックが聞こえた。メイドが服を持って来たのかと思ったが、訪ねて来たのは小児科部長とその妻、おそらく監視役の男だった。
「眠っている。申し訳ないが廊下で」
「どこか具合は?」
「それは大丈夫。疲れただけだ」
「良かった」
ジェシカを落ち着かせてパーティ会場に戻らせた立役者の夫婦は、キリコに話があると言った。ジェシカから聞いた話を伝えに来たのだと言う。
「患者の話をするのは御法度だが、彼女は私の患者ではないからね」
「おまえさん、いい具合に闇医者っぽいことを言うじゃないか」
「腹を括れば目指す場所も変わるさ。──ジェシカの将来の夢は医者で、安楽死を支持するそうだ」
「──ふうん?」
キリコは思わず眉を顰める。幼く身勝手な恋心が神聖な領域に踏み込もうとしているのではないかと思った。キリコの心情を察した部長は肩を竦めてみせる。
「私は最初、ドクターの初恋に引きずられてそんなことを言っているのかと思った。話を聞いたら少しばかり違ったようでね」
すぐに理解し、キリコは僅かに笑った。自嘲だった。己の勘違いを笑い、いくら大人びているとはいえ、僅か16歳の少女に憎悪にも似た感情を持ちそうになった己の醜悪さを笑った。
「ハザマは彼女の母親に延命処置をした。余命1ヶ月と言われた末期の状態から6ヶ月。ジェシカはそれが許せなかった」
「なるほど。続けて」
「──亡くなる直前まで苦しみはしなかった、だが確実に死んでしまう日々を送らねばならない母はどれほど恐ろしかっただろうかとね」
それは仕方のない感情であり、家族として、子供として当然の感覚だ、とキリコは思った。近しい者、愛する者の死と言うものに触れたことがない立場であれば殊更にそうだろう。子供は死を恐れる。その死を確実に迎えると知りながら日々を生きる母を見て、母は恐ろしいに違いないと結論付け、辛かったのかもしれない。
「優しい子なんです」
部長の妻が言った。キリコは頷きはしなかったが、否定しようとも思えなかった。
あの病気なら死の間際はモルヒネで眠り続けただろう。おそらく痛みを感じることはなかったはずだ。キリコは見てもいない過去を正確に予想した。
だがそれすらも──
「お母様が眠ったまま、穏やかに逝かれたのは救いだったと。でもどうしても、お母様は死を恐れていたのではないかと、そればかりを心配していて」
「だから執刀したハザマを憎んで、延命を否定するようになった。彼女自身が言ったことだ」
「──そうか」
「あの子、とても優しいんです。先生を突き飛ばしてしまったことをとても悔やんでいました」
部長の妻の言にキリコは無言で頷いた。BJを助けるために自分も濡れたはずの妻は着替えもせず、夫と共にジェシカと話をし続けていた。夫は自分の患者ではないと言いながらも、妻よりもジェシカを──小児科医が診るべき年齢の子供を──優先した。彼らは誇り高き医療従事者なのだとキリコは思った。
「ありがとう。そういうことなら──」
「まだあるんだ。デニスがBJに延命を依頼した理由が。──依頼したのはデニスじゃなかった。母親本人だったんだ」
キリコは首を傾げる。デニスの依頼だとばかり思い込んでいた。
「母親はどうしても、3ヶ月長く生きていたかった。私たちも聞いた話だ。──さっき話し損ねてしまってすまない。女医や看護師たちが3ヶ月延命できればいいのにと言っていたのは理由があったんだ」
後で話をしよう、今はパーティに来てくれた人たちに礼儀を尽くすんだ、と父に言われた。父にあそこまできつく言われたのは初めてだったが、自分の非を認め、そして小児科医と看護師夫妻にカウンセリングされた直後のジェシカは素直に受け入れた。
バースデーケーキは世界にひとつしかないに違いないと思わせてくれるほど大きく豪勢で、招待客たちがバースデーソングを歌ってくれる中、ケーキに隠れて見えなくなってしまいそうな小さな蝋燭を16本吹き消した。
それからは楽団がダンス曲を演奏し、心得のある招待客たちが礼儀としてしばらくフロアでステップを踏む時間になる。ジェシカは主役として見目の良い若い男たちにダンスを申し込まれる立場だった。彼らはパートナーを連れて来ていなかった。父が見繕った恋人候補、つまり将来のファミリー幹部候補だと言うことはよく知っていた。
──あんなことしなければ、ドクターと躍らせてくれたかもしれないのに。わたしって馬鹿だ。
大人の顔で自分の攻撃を流していた女を思い出す。
噴水の前で、ママを苦しめたくせに、と罵った時でさえ、涼しい顔で「あなたがそう言うならそうなんでしょう」と返された。許せなかった。だからと言って突き飛ばし、噴水に叩き落として良いはずがなかった。
本気でBJからキリコを奪えるなど考えてもいなかった。だが自分が同年代の少女よりも大人びて、そして美しく、そして父の権力を利用できる立場であることを知っていた。だから少しばかり欲を出したのだ。もしかしたら、万一でも、ドクターがわたしを。そう思ったのは確かだった。大人が聞けば笑い、夢を見たんだよ、と言うかもしれない。
何人目かの男とのダンスの後、ジェシカは溜息をついてフロアを出ようとした。マフィアにとっては重要人物であろう男と話していた父と目が合ったが、何も言う気にはなれなかった。
「踊りませんか」
お断りよ、と口まで出掛けた言葉を飲み込み、信じられない感情を隠せずに、差し出された手を、次に差し出した手の持ち主を見上げた。背の高い銀髪の、隻眼の男は、明らかに子供を見る目でジェシカを見詰めていた。
明らかに子供扱いされた絶望と怒りは、差し出された手を取る権利が今だけはあるのだと言う事実が忘れさせてくれた。
父が心配を隠せない視線を、周囲があからさまな好奇の視線を向ける中、ジェシカは後悔を忘れて夢見心地と言ってもいい気分でゆっくりとしたステップを踏んだ。楽団が何かを察し、曲を変える。より密着したダンスが許される曲だった。憧れの銀髪の男が僅かに身体を寄せた。夢ではないのだろうかと思った。
この人と同じように、と思った。医者になって、無駄な延命に苦しむ人を救いたい。そう思った。そう言おうと思った。きっと今しかチャンスがない。
「ドクター」
「ある病気で、余命が1ヶ月にも満たないと言われた女性の患者がいた」
言葉を遮るように、低い、だが優しい声が言った。ジェシカは男を見上げた。優しい医者の顔がそこにあった。
「どうしても3ヶ月生きたいと、女性は願った」
「──どうして?」
「余命を知った3ヶ月後が、女性が愛する娘の14歳の誕生日だったから」
何を言えるだろう。何を言えばいいのか。何かを言いたかった。だが唇は無意味にわななくだけで、何一つ言葉を発することができなかった。キリコは変わらず低く、優しい声で語り続けた。
「どうしても14歳になる娘を見たい。女性はBJ先生に頼み込んだ。正直言えば、先生にも難しい症例だった。俺なら安楽死を勧めるほど、延命ですら難易度の高い手術だった」
それでも先生は受けた。キリコは言った。
「必ずお嬢さんの14歳の誕生日をお祝いできますよ。──俺はそこにいたわけではなけれど、きっと先生はそう言っただろうね。そういう人だ」
踊ることも忘れ、ジェシカはキリコを見上げるだけだった。キリコももう踊ることはなく、握った手だけがここがダンスフロアだと教えてくれた。
「そして女性は娘の14歳を祝ってやることができた。もしかすると、その娘は今でも覚えているかもしれない」
ええ、とジェシカは返事をしたつもりだった。だが言葉は何ひとつ出なかった。代わりに涙が溢れた。ママ、と呻いた。ママ、──ママ、ママ。
──手術をして毎日怖かったはずなのに、きっと怖かったはずなのに、でも毎日笑ってて、そうよ、わたしの14歳の誕生日の日に、初めてママは泣いた。おめでとうって言いながら泣いたのよ。おめでとう、こんなに嬉しいことはないわって、わたしを抱き締めて泣いたのよ。
「それから3ヶ月、弱っていく女性を見る家族は──娘は辛かったかもしれない。でも彼女は決して苦しくなかった。痛みもなかった。全てBJ先生が作った治療計画書通りに適切な投薬をされて、苦痛は何もなかった。もちろん恐怖もね」
涙が止まらなかった。念入りに施した化粧が剥げ落ちていることが分かっても、自分の泣き方が恥ずかしいほどに子供のものだと分かっても、涙は止まらないし、えづくようにしゃくりあげるばかりだった。
「彼女は娘の14歳の誕生日を祝いたかった。祝うことができた。──後の3ヶ月をどう思うかは、それはきっと家族の心だ。俺にも、BJ先生にも分からない。ただ言えることは──」
彼女は、と優しい死神は言った。
「彼女は幸せだったし、心から娘を愛していたし、その愛のために困難な手術を乗り越えた勇気は、間違いのない真実だ」
ジェシカは声を上げて泣いた。楽団が慌てて演奏の音量を上げた。キリコに抱き締められた少女はただ泣いた。ママ、ママ、と母を呼び続けた。
キリコは顔を上げる。ダンスフロアの向こう、パーティホールの入り口に、唇をひん曲げて、怒った顔をわざとらしく作って立つ恋人がいた。乾いたコートを羽織ったいつもの姿だった。ふっと笑いかけると、作った怒り顔を保つ努力を捨てたのか、ふっと笑い返してくれた。
そして思った。俺はそれでも。──俺はそれでも、あの時の彼女が安楽死を求めれば、その手を取って違う次元へ案内しただろう。それだって彼女の正しい選択だった。ただ──
それでも、切なる望みを持って、少しでも長くと求めた彼女と、その手を取った名医を否定しようとは、今は思えなかった。
泣いた娘の元へやって来たデニスにジェシカを託す。父にしがみついて泣くジェシカを見て、キリコは優しく言った。
「誕生日おめでとう」
小児科部長夫妻はデニスに下にも置かぬ扱いをされ、表社会には戻れない立場になった。だが生涯、表向きの名誉を手に入れられることはほぼ確実だ。用意された帰りのリムジンの中、一度闇に関わった以上、この世界で生きるしかないだろうと妻と共に改めて腹を括った。
「実際、あの病院ってそこまで闇に関係ないけどね。桁外れの金持ちが私みたいな非合法医師に依頼する代理人程度のことしかしてないし。だからあれだけ連中に紹介しまくったんだしさ」
今日は泊まって欲しいとデニスとジェシカに懇願され、振り切れなかったBJとキリコは、先ほどよりも更に広い客室へ案内されてようやく一息つく。
「それでも彼のような温室育ちの人間なら覚悟が必要だろう。今まで以上に清濁を併せ飲むことが増えるだろうしな」
「ま、何かあったら相談に乗ってあげれば?」
「何で俺が。おまえの知り合いだろう」
「キリコの方が親しそうじゃない?」
夜食として運ばれて来たラップサンドとコーンスープに早速手を延ばし、BJはふと思い出して言った。
「ダンスなんて踊れたんだ?」
「学生時代にみんなやるものだからな」
「ああ、何だっけ、プロムとか。パートナーがいないと参加できないんだっけ?」
「そう。──過去の話だ、おまえがいたらおまえに申し込んでたからな。どうしていなかったんだ?」
病的な嫉妬で過去にすら怒る女の性質を思い出し、素早く先手を打つ。少しばかり混ぜられたロマンティックな成分が功を奏したことは間違いなく、BJは上機嫌に、ラップサンドから皿に零れたアボカドを拾って口に入れた。
「今は?」
「うん?」
「今は踊る機会が多い?」
「──こんなパーティの時くらいだし、パートナーがいなければ踊らないよ」
嘘はつかない。キリコはそう宣言した自分を思い出す。だがこれはついてもいい嘘だ、と思った。招かれた先で見繕ったパートナーと踊ることはある。闇社会と言えど社交がある。むしろ表社会よりも格式ばった場が多い世界だ。それをBJに言ってどうなるのか。何も益はない。お互いに嫌な思いをするだけだし、病的な嫉妬癖を突き付けられる試練の時間が始まるだけだ。
「そっか」
「うん?」
「プロムでは踊ったんだ?」
「まあね」
これはまずい、とキリコのトラブルアンテナが反応した。勝手に過去を想像し、勝手に怒りそうになっていることは間違いない。
キリコは溜息を押し隠した。まったく、と思った。まったく、──それでも、この病的な、むしろ明らかに病んでいる嫉妬癖ですら、俺に可愛いと思わせるんだから、こいつも俺もどうしようもない。
「マフィン」
「何」
早速不機嫌な声になっているBJに苦笑を隠し、代わりにBJが好きな優しい恋人の微笑を作る。
「ちょっと踊ってみようか」
「……そういうの、わたし、興味ないんだけど」
分かりやすい見栄に微笑を深めてしまう。踊れなくても身体を寄せたい、他に寄せる女は許さない、寄せた女を忘れたい──そんな顔を必死で隠す恋人の何と可愛いことだろう。
「踊りませんか、愛しい人」
舞台俳優よろしく、この上なく気障だと分かっていても、手を差し出せば頬を赤らめることも分かっている。ラップサンドを掴んで汚れていた指をもじもじと、だが手早く拭き、気障な真似をする恋人を上目遣いで見上げてから、BJは差し出された手に神の指を重ねて立ち上がった。
その指に口付けて恋人を耳まで真っ赤にさせた後、ダンスを申し込んだはずなのにどうしてもキスをしたくなって、抱き締めて深く唇を塞ぎ、とろけるようなキスを心ゆくまで与えて、愛してるよ、と囁いた。