示し合わせたわけでもなく、仕事先で会う時も少なくない。そのたびに私に患者を寄越せ、いいやそれは傲慢だ、と激論を交わすことになる。こればかりは喧嘩ではない。患者が最後の選択をするまでどちらも決して引かない。
闇の連中の間ではもはや名物だと言われるほどで、マネージメント会社が関わる場合にはブッキングしないように調整が行われるようになった。あれだけ考えが違うくせに仲良しなんだもんな、と二人への依頼の仲介手続きをする担当二人が苦笑し合うことも多かった。
だが今日は調整の必要がない顔の合わせ方だった。あれ、と二人して驚いた顔になった後、すわ口論が始まるかと構えた周囲の人々など目にも入らず、日本を出て以来のキスをする。周囲が胸を撫で下ろしたことには気付かなかった。立食パーティの会場が修羅場にならなかったことへの安堵だった。
「招ばれてたんだ?」
「うん。何だ、一緒に出れば良かったな」
当然のように腰を抱きつつ、キリコは「パートナーの女を見繕わなくて良かった」と密かに安堵していた。
アメリカマフィアの四大ファミリーのひとつ、そのボスの娘のバースデーパーティともなればパートナーが必要な格式だ。招待主には仕事先からそのまま行くのでパートナーはいない、と嘘をついておいて良かった。パートナーを見繕って万一BJに知られればただでは済まないからだった。
「それにしても、おまえ」
「ん?」
「またその格好かよ。人様のバースデーパーティで」
「これで出席しちゃ駄目なら出ないって言ったら、これでいいって言われたから」
「誰が」
「ボスが」
「ったく、おまえの営業能力は恐れ入るよ」
泣く子どころか笑う大人も黙るような犯罪組織の頭に、そんな要求を突き付けられるのはおそらくBJだけだ。私生活ではそうでもないのに、ビジネスが関わるとこの上なく強気になる女だった。
するとBJは黙り込む。どうした、と言う前に、ちらりと上目遣いをキリコに寄越す。これはあれだ──キリコは素早く判断した。これはあれだ。俺に何か甘える時だ、しかも可愛いやつ。
「これでいいって言われたからこれにしたんだけど」
「うん?」
「これじゃない方が良かった?」
表情はそのまま、キリコは高速で脳を回転させる。ここで回答を誤ればBJの機嫌は地を這うことになり、自分はパーティの後に地獄を見るだろう。恋愛経験値全てを今の状況に振り分け、導き出した回答は我ながら完璧だった。まずは物分かりの良い年上の恋人の笑顔を見せる。
「防犯の意味もあるんだし、おまえの気が進まないならその服が当然だよ。何よりブラック・ジャックだ、それが一番似合ってる。でも安心できる場所なら──そうだな、別の服でも素敵だっただろうね」
「──そっか」
BJは唇をひん曲げて照れ隠しの顔を作り、小さく頷いた。恋人としての試練の時が過ぎたキリコはその頬にキスをし、後で服を買ってあげる、と囁いて恋人を喜ばせておいた。
「本当に?」
「もちろん。何でも好きなのをね。でも少しは俺の希望も聞いて」
「少しだけね」
「楽しみだ」
これで上機嫌で可愛いBJの出来上がりだ。我ながら完璧な対応だった。買って着せて脱がせるという楽しみも自分にもたらした見事な手腕だと自画自賛する。
気難しいで有名な天才外科医の機嫌が良くなったと知った周囲が次々に声を掛けて来る。闇稼業の連中やマフィアの構成員ばかりと思いきや、中には世間で知られた知識人やビジネスマン、エンターテイナーも少なくなかった。
表社会を生きる人間はBJに、裏社会を深く知る人間はキリコに重点を置いた挨拶をする。これも仕事のうちだと理解している二人はそつなく相手をし、自分にメリットがありそうな人物には少しばかり丁寧な対応をした。
招待客のパートナーの中にはBJとキリコの立場を理解していない者も多く、特に女性はBJの風体を見てあからさまに鼻を鳴らすことがあった。キリコは彼女たちの顔と彼女を連れて来たパートナーを覚えておくことにした。BJは知らん顔だ。慣れていると言わんばかりだった。
「ああ、どうも。久し振りと言ってもいいのかな?」
「──いいんじゃないか」
キリコは思わず苦笑し、手を差し出して来た男と少しばかりフランクな握手をした。BJはキリコのパートナーの顔になり、彼の妻と思しい女性と握手をする。だがキリコに挨拶をした男を知っていた。ケンウッドの大病院の小児科部長だ。
「どうも、ドクター。以前は世話になった」
「どうも。マフィアのパーティだぞ、参加して大丈夫なのか」
「腹を括ったよ。上納金さえ忘れなければ私はあの病院の未来の院長だ」
出世欲で闇と関わり、支払いのトラブルをキリコに助けてもらった小児科部長は苦笑した。キリコは彼の選択を嗤おうとは思わなかった。オールドマネーのクリードのパーティが襲撃された時、既に闇と関わっていた彼が医者としてのプライドと使命感を捨て切れず、逃げ出さずにその場に残り、負傷者の手当をしたことを覚えていた。
「マフィン」
「ん?」
「彼を覚えてる?」
「うん。ケンウッドの病院の小児科部長で、私に爆傷の女の子の整形依頼を紹介してくれた人。お久し振り」
部長はやや複雑な顔をした後、苦笑してBJと握手をした。それから少し迷ったが、疚しい気持ちはないと自分に言い聞かせてから言ってしまうことにした。後で妻やキリコに知られるよりはよほど良いはずだ。
「ハザマ」
「──え?」
闇の世界でブラック・ジャックをそう呼ぶ者はいない。つい警戒したBJとキリコに気付き、部長は言葉を選んで続けた。
「いつかはポスターを破いて渡すような真似をして悪かったよ」
「え」
「医局でね。私はきみに酷いことを言った。もっと早く謝りたかったのに、今になってしまった」
言葉がBJの記憶の引き出しを開ける。その瞬間を思い出したBJが驚愕の顔をし、キリコを驚かせた。BJが滅多に見せない「女の子」の驚愕の顔だったからだ。
「嘘」
「本当だ、私だよ。全部言った方がいい? ──ドクター・キリコがあの俳優と同じ銀髪だったなんて、もちろんあの時は分からなかったってことも?」
「嘘、──嘘、信じられない、嘘みたい!」
BJが声を出して笑い始めた。周囲の視線が集中するが、どうしても笑いを止められなかった。部長も笑い出し、彼はBJより早く笑いを収め、キリコと妻に説明した。
日本から来た若い医学生の女の子、その彼女が好きな俳優がいた、その俳優のポスターを破って彼女に渡した、いつも卑屈な彼女に腹が立って、自信を持たせるために挑発したら泣かせてしまった──きっかけになった俳優は、彼女がベトナムで出会った彼と同じ銀髪だった。
聞いたキリコは苦笑した。沸き上がった愛おしさを隠すための苦笑だったとは自分だけが知っていればいいと思った。
「凄い偶然だ。もっと早く教えて欲しかったよ」
「ドクターと私の関係で、そんな話をいつするべきだった?」
「確かにね」
BJから改めて説明を受ける必要もなく、キリコは恋人を抱き締めた。BJもまだ笑いながら抱き締め返して来る。部長は微笑み、昔の恋心にようやく決着をつけることができたことを心の中で喜び、彼の妻は微笑ましい、だが少しばかりロマンティックなエピソードに感動し、愛する夫にキスをした。
気を良くしたBJは、珍しく他の招待客──特に医療関連の大物たち──に自分から声を掛け、部長を紹介した。旧い知り合いなんだ、可愛い医学生だった私を泣かせた酷い奴でね、と言うと彼らは食い付き、それから話を聞いて笑ってはBJとキリコとの仲の良さを「運命だ!」とからかった後、部長を好意的に受け入れる。予想を遥かに超えるスピードで増える人脈に目を白黒させながらも、部長とその妻は一晩で大きすぎる収穫を得たのだった。
招待客たちが交流を深め合った頃を見計らい、もったいぶった演奏と共にバースデーパーティの開催が宣言された。ボスの娘のジェシカが16歳になる。これだけでアメリカを動かす人々が集められるのだから大したものだ、とBJは感心した。
ジェシカは美しい少女だった。マフィアの子供のほとんどは美しい容姿に恵まれていた。力を得た父が美しい女を妻とするのだから当然なのかもしれない。招待客は祝いの言葉と共に本気でジェシカを美しいと褒めたたえ、自信に満ちたジェシカは年齢に似合わないほど大人びたそつのない態度で感謝を述べて回った。
「ドクター・キリコとブラック・ジャック先生ね。来て下さってありがとう」
「お誕生日おめでとう」
「おめでとう」
そつなく二人の闇医者と握手を交わし、次の招待客へ歩むと思われたジェシカは、なぜかその場に留まってBJに話しかけた。ボス、つまり父のお気に入りだと聞いているんだろうな、とキリコは思った。BJは営業相手の娘に対する態度で優しい受け答えをしている。だがジェシカの目的は別にあったのだとすぐにキリコと、そして周囲に知らしめた。
「ドクター・キリコの恋人って聞いたからどんな人かと思ってたの。日本人だったのね」
瞬時にして会場の気温が下がった、と誰もが錯覚した。
「ドクターは覚えてないかもしれないけど、わたし、4年前の父のバースデーパーティでドクターに会ってるの。会場に来ちゃいけないって言われてたんだけど、どうしても覗いてみたくって」
「そう、それは素敵な思い出ですね」
「そう思う? わたしが父に叱られて泣いちゃったら、ドクターはわたしを連れ出してくれたのよ。それからパーティが終わるまで、ずっと二人でいてくれたわ」
キリコは貼り付けた微笑が凍り、BJは営業スマイルの中に完全に感情を隠し、傍から見れば大人の女が小娘の戯言を聞き流す顔を作り上げている。だがキリコはよく知っている。経験もしている。
そう、何歳年下であろうが、BJは嫉妬する。しかも病的に嫉妬深い。女子高生からバレンタインのチョコレートをもらった時にはとんでもない騒ぎになった。
「それからずっと好きだし、色々調べたわ」
怖い。この子怖い。キリコは思う。流石マフィアの娘と言うべきか、この歳で「調べる」と言う行為を躊躇いなく行えるとは。BJは相変わらずの営業スマイルで頷いた。
「ボスが聞いたら感心なさるでしょうね。頼もしいお嬢さんだ」
「4年前か、懐かしいね」
動揺、と言うよりはある種の怯えを必死で隠しながら、キリコは無礼を承知で会話に割って入った。泥沼になる前にBJをジェシカから引き離す必要がある。BJの精神的安定のため、そして自分のために。
「あんなに小さかったきみが16歳だなんて。しかもこんなにしっかりした女性になるなんて驚いたよ。俺がおじさんになるはずだ。他のおじさんたちもね」
冷や汗をかきながら耳をそばだてていた周囲の男たちはどっと笑ってみせる。察したパートナーたちも可愛らしい笑い声でキリコに協力した。だがジェシカは怯むことなく、笑顔でBJに話しかけ続けた。
「先生はおいくつなの?」
「28歳ですよ」
「なあんだ、結構おばさんなのね」
「そうですね」
この瞬間、会場の女性たちはジェシカを敵とまでは言わないものの、心の中でそれなりに良くないポジションに分類する。キリコをはじめ男性陣は冷や汗を通り越して脂汗をかきそうだった。女性の年齢の話は御法度、あと少し時代が進めばセクシャルハラスメントと呼ばれるほどによろしくないものだと誰もが理解していた。
「でも、ドクターとは離れてるわよね。12歳差?」
「彼が私に年齢を詐称していなければそうでしょうね」
「──するもんか。マフィン、俺はきみだけには嘘をつかないって約束しただろう」
本音を演技めいた口調に込めつつ、キリコはどうにかジェシカを遠ざける努力を始める。察したBJは頷き、最近ご無沙汰だった演技に乗った。
「ハン、こんなところでやめて。恥ずかしいわ。ジェシカのお誕生日に喧嘩なんて嫌よ」
「悪かったよ。ボスに挨拶に行かないか。今日はまだ話をしていない」
「やあ、ハザマ、主役を独り占めなんて羨ましいな。紹介してくれないか?」
「わたし、さっきからお話したくて待ち切れなくって!」
絶妙のタイミングで割って入ったのは小児科部長とその妻だった。病院の世界でも成り上がるには社交術が必要であり、その経験が裏社会でも功を奏するものだ。今まさにその経験でキリコを救った二人は、視線でキリコとBJに「早く行け」と言ってくれていた。夫婦の救助をありがたく受け入れ、キリコはBJの腰をジェシカに見えるように抱いてその場を後にした。
「モテるわね、ハン」
「やめろよ。冗談じゃない」
「わたしを巻き込まないで。──お久し振り、デニス。今日はおめでとう」
並み居る闇の大物たちを掻き分け、ボスのデニスに話しかける態度は流石の闇医者だ。周囲もBJだと知ってデニスを囲む輪から一歩退く。この天才外科医が闇社会でどんな扱いを受けているか、知らない者はここにいなかった。
「先生、よく来てくれたね。ありがとう。ドクター・キリコ、仕事帰りでお疲れだろうにありがとう」
「仕事帰り? 彼が?」
BJが眉を跳ね上げる。キリコは内心で焦りつつ、顔は穏やかな笑顔のままで言った。
「マフィン、薬の相談だよ」
「本当に?」
「嘘はつかないよ」
たちまち剣呑になりかけたBJにあっさりと嘘をつく。ボスにも嘘をついたことになるが構わなかった。安楽死の仕事と勘違いして騒がれるのも胃に悪い。
デニスは不意に苦笑した。既に部下から聞いていたのだ。
「いや、すまないね。まさか初恋の相手がドクターだったなんて知らなかったんだ」
「私も驚きましたよ」
「嫉妬で死ぬかと思っちゃった」
可愛い日本人女を演じる振りで本音を口にしたBJは、デニスを笑わせ、キリコに冷や汗をかかせる。
「あんなに立派なレディに成長したんですから、私のようなおじさんなんてすぐに目に入らなくなりますよ」
「デニス、ジェシカに彼の調査をやめさせて。何が知れるか分かったもんじゃないわ」
するとデニスは眉を顰めた。まさか、と言う顔だ。彼は娘の所業を知らなかった。
「ジェシカがドクターの調査をさせているってことかい?」
「彼女が言ってた。悪いけど、これは嫉妬でお願いしてるんじゃないわよ」
「分かっているとも。何てことだ」
キリコは特に口を出さないことにした。BJが言わなければ自分で言う予定だったからだ。自分よりも寵愛を受けるBJから言った方が強い申し入れになると踏み、これは怪我の功名だと思った。
「わたしも彼も身綺麗じゃないし、おおっぴらにされたくないことだって多いし、──おおっぴらにしたくないことだってあるでしょう、デニス。わたしたちはもっといい関係になれるはずよ。今まで以上にね」
おまえの娘がこれ以上まずい真似をするようなら報復する、とBJは正面から言い放ったようなものだ。これはこいつにしかできないな、とキリコは感心半分、呆れ半分だったアメリカの闇社会、ひいては表社会を牛耳るも同然のマフィアのトップにここまで言えば、大抵の人間は明日の太陽を拝めないものだ。
だがデニスはいかにも感じ入ったように、そして明らかに困った顔で何度も頷いた。この天才外科医を手放したくないことがよく分かる態度だった。
「もちろんだよ、先生。すぐにやめさせるし、今までの調査結果は全て破棄させる。今回は私に免じて許してくれないか」
「わたしがデニスを許さないなんて有り得ると思う? 今回はちょっとした行き違いよ。許す、許さないなんて大きい話じゃないわ」
よく言うよ、とその場にいた誰もが思った。キリコも当然思った。だがこれがBJの営業と、その営業を理解した上で良い関係であろうとする闇社会の重鎮のお決まりのやり取りのようなものだった。
「それから、あまりジェシカを叱らないであげてね。彼のことはともかく、彼女の行動力は素晴らしいわ。流石デニスのお嬢さんよね、納得しちゃった」
「それは──あの子はそういうところは強気でね」
「強気ね。確かにね。デニスに似てるけど、口元は奥様に似てるんじゃない?」
「そう、そうなんだ。日に日に似て来るよ。妻が亡くなってからもう2年も経っているのに、いつまでも彼女が家の中にいてくれる気がする」
「もう2年? そう、──早いわね」
「あの時はありがとう」
ああ、そう言えば、と聞いていたキリコは当時の噂を思い出した。余命3ヶ月の難病にかかったマフィアのボスの妻をBJが手術し、延命させたという話だ。聞いた時、俺なら手術を認めないだろう、と思ったことは確かだった。だが今はそれを言うべき時ではないし、これからも言わなくていいことだった。
「そんなこと言わないで。他にも似ているところは?」
「たまらないよ。死んだ妻とそっくりの口調で私を叱るんだ」
「やだ、デニスを叱るの? どんな時?」
愛娘の失態を許すばかりか、今度は話をさせてくれる天才外科医にすっかり眦を下げたマフィアのボスは、それでも話の合間に部下に指示を出し、すぐにジェシカの調査をやめさせる手配をした。見事なもんだよと内心でBJの手腕に舌を巻きつつ、キリコはアテンダントを呼び、ボスとBJのグラスを手配する。事の成り行きを見守っていたマフィアの男たちも安堵し、BJとキリコをまるで今日の主役のように持て成し始めたのだった。
BJはデニスとの会話に徹し、キリコも同様だった。最初はBJに好きなようにさせる予定だったのだが、デニスが何かとキリコに話を振る。大抵は「BJと上手くやっているのか」と言う話ばかりで、このマフィアのボスがどれほどBJを気にしているかが分かった。無論、それには打算も入っていることは理解していた。
天才外科医を抱き込んだ組織は箔を得ることになる。だからこそ無理な要求も聞き入れ、だからこそ手に入れられないと知った時の報復感情も大きい。BJがあのコートを手放せない理由はそこにあった。
「ドクターの愛妻家振りは有名じゃないか。いや、結婚していなくてもね。先生を大事にしているのなら私たちも安心できるよ」
「彼女もそう思っていてくれるといいのですがね」
「先生、どうなんだ? 幸せ?」
デニスの隣でデザートプレートをぱくついていたBJは、その問いに口ごもった後、顔を赤くして「知らない」と言った。営業抜きの態度だったが、だからこそデニスを喜ばせ、キリコに「可愛い」と心底思わせた。
「知らない、そんなの。どうしてそんなこと訊くの。わたしを困らせて楽しい?」
「そんなつもりはなかったよ。ただ、先生が幸せだったら嬉しいと思ってね」
「知らない、もう、知らない!」
半ば本気でヒステリーを起こしかけたBJにデニスは笑う。それが座の解散の合図だった。女の言いなりになる振りを演じる時間は過ぎ、ファミリーと言う名の犯罪集団を率いる男の顔になった。
「これは困ったね。ドクター、任せていいかい?」
「大任ですがお引き受けしましょう。マフィン、おいで」
「あと一時間もすればジェシカのバースデーケーキのお披露目だ。ゆっくりして行って。不足があれば何でも言い付けてくれて構わないからね」
キリコは握手を、BJは頬を合わせるチークキスをしてその場を離れる。これから一時間、デニスはおそらく予定していたファミリーの仕事や会談をするのだろう。二人には関係のないことだったし、関わろうとも思わなかった。
「何食べようかな。キリコは?」
「適当に。おまえ、甘いものしか食べてないな」
「立食パーティのスイーツは大抵美味しいから先に頂いておく。補充されるまでに他のを食べる」
「ダンスもある格式のパーティでするこっちゃないだろう」
「だったら招ばなきゃいい。ダンスなんてロンと遊びで踊ったきりだよ」
「いつ」
「キリコが私をホワイトハウスに置いて仕事に行った夜」
「そりゃあ怒れない、一緒になる前だ」
愛し合わないと決めていた頃の話だった。恋人の振りをしているだけだ、演技をしているだけだと必死になって、愛し合っていないと思い込もうとした愚かな日々でもあった。随分と懐かしい記憶のような気がするが、実際はそうでもないことが不思議だ。
「先生、ドクター、何か召し上がりますか」
「美味しいの」
感傷に浸りかけた横でアテンダントにそう答えるBJの姿にキリコは苦笑する。アテンダントは流石のプロ意識で、どれも美味しいですよと言って笑顔でサーブしてくれた。
楽団が穏やかな曲を演奏する中、アルコールが入った会場は賑やかになって行く。キリコは酔わない程度に飲み、BJは食べたいものを食べたいように食べ、たまに話し掛けて来る相手と時間を共有した。
この後のバースデーケーキのお披露目の後は上流階級を真似たダンスが始まることは分かっていたが、その頃には帰ろうとキリコはBJに持ちかける。
「あまり長居すると面倒だ。デニスに挨拶すればジェシカは放っておいていいさ」
「ジェシカが主役なのに?」
「あまり話したいとは思わないね」
それは本音だったが、恋人への配慮でもあった。狙い違わずBJは唇をひん曲げ、病んだ女ならではの勝利感を隠し損ねていた。この顔まで可愛いと思うんだから俺も大概末期だよ、とキリコは思った。
「これ美味しい」
「うん?」
「Say ahh」
あーんして、と不意に言われれば逆らう気にならない。パーティ会場でするべき行為ではないが、酒の入った会場ならお目こぼしだろうとキリコは応じる。
口に入れられたフリットは特に美味しいと言うほどでもなかったが、周囲の人々が闇医者二人の噂違わぬ仲の良さを見て、いい肴だと喜んだ。キリコは視線の端に自分を凝視するジェシカを認め、BJの目的を悟り、本当にこいつの嫉妬心は病的だ、と改めて思った。