毛布を買って家に戻る。陽が傾きかけた海が眩しく、キリコはひとつだけの目をすがめた。こんなに美しい景色を毎日見て育つピノコが、一体どんな感受性を持つ女性になるのかとふと思った。BJがピノコを育てる姿と、両親がユリを育てる姿が重なったからかもしれなかった。
「キリコ」
家に入らずに海を見ている男を、テラスからBJが呼んだ。水面に反射した陽光がコートを脱いだ姿を逆行で照らし、キリコは我知らず微笑んでいた。綺麗な女だ、と思ったからだった。
「何してるんだ。いつまでも外で」
「海が綺麗だから見てたんだよ。こういう光景が見られるのは悪くない」
玄関ではなくテラスへ直接向かい、そこにいるBJに軽くキスをする。BJも返した。ピノコがいる時は駄目、と小さく付け加えられ、それはもちろん、と返事をしておいた。文化の違いを埋めるつもりはあまりなく、BJの家でBJがそう言うのであれば従うつもりだった。
「ロクター、お肉はあった方がいーい? 焼くのしかないんらけろ!」
キッチンからちょこちょこと現れたピノコを見て身体を離し、キリコはピノコの家事能力に改めて感心する。とはいえ家主が料理をしない以上、自分が手伝っても罰は当たらないだろう。
「ああ、いや、俺に気を使わなくていいよ。二人のいつも通りの飯が嬉しい。何を手伝えばいい?」
「一人でいいのよさ。ちぇんちぇいとお話しててもいいのわよ」
「そりゃあ有り難いお気遣いだが、今のうちに手伝いに慣れておいた方がこれからも来やすいからね。教えてくれよ」
「良い心掛けなのわよ! いけめんなのよさ!」
「ご存知の通りだとも」
「ピノコの恋敵に相応しいのわよ」
「いやいや、わたくしめなど足元にも」
BJの腰をぽんとひとつ叩いてから、キリコは主婦の先導に従ってキッチンへ向かう。靴を履き替えてよ、とやや慌てた声でBJに呼ばれ、そうだった、テラスに直接来たんだった、とまずは玄関へ向かうことになった。
BJは食事の用意を全く手伝わず、ピノコもそれが当然だと思っている顔だった。料理ができないと言うことは聞いていたが、それにしても一切手伝わないのか、とキリコは多少非難めいた感情を抱かざるを得ない。小さな身体のピノコが家事を何もかも押し付けられているのではないかと思った。
「お嬢ちゃん、いつも家事は一人でやってるのかい」
「ロクターの言いたいことは分かってるのわよ」
「うん?」
「ちぇんちぇいがピノコにじぇーんぶやらせてるって思ってるのれしょ?」
「まあ、ねえ」
こういう部分は大人の洞察力を見せるピノコに脱帽する。同時に安心した。この口調なら少なくとも不満に思っているわけではないと分かったからだ。
「ピノコがじぇーんぶするのはお料理らけなのよさ。洗い物もお掃除もお洗濯も、ちぇんちぇいの時間がある時はちゃあんと二人でやってるのよさ」
「それなら安心だ。料理は嫌じゃないんだ?」
「……ちぇんちぇいにお料理させるなんて、こわくって……無理なのわよ……」
その声が余りにも沈んでいて、キリコは多少ならず正解に近いことを予想した。料理ができないと言うことは知っている。だがピノコの声は──絶望に近い何かを抱いていた。
「ちぇんちぇいはメス以外の刃物を持ったらいけないって、神様に言われたのよさ、きっと」
「……なるほど、納得したよ」
皆まで言うなとはまさにこのことだ。全てを理解したキリコはそれ以上言及せず、ピノコの手伝いに励むことにした。
ピノコとキリコの合同作業による夕飯はBJを喜ばせた。刺し盛りに煮物、サラダ、結局ピノコがキリコへの気遣いを捨て切れず、肉料理を作ろうと言って玉葱と一緒に柔らかく蒸し上げた豚肉が並ぶ。
ピノコの手前痛飲はしないものの、それなりに気分が良くなる程度には酒が進んだBJは始終機嫌よく笑った。これならあの人たちも可愛がるだろうよ、と商店街の人々を思い出したキリコは思う。食事は美味く、母子は可愛い。
冷蔵庫に残っていたキリコの土産のプリンを「半分こね!」と目の前で分けだした時など、目眩がするほど可愛いと思った。半分こと言ったのにピノコに多く食べさせるBJは更に可愛かった。
夕飯後の洗い物はBJが引き受ける。これはキリコの家でもそうだ。
「俺もやるよ」
「駄目、これは私がやる。決まり」
「決まり?」
「怒らない?」
「──怒るもんか」
二人にしか分からない会話を交わし、そして二人で笑い合う。
「ではよろしく」
「コーヒーでも淹れて飲んでてよ。ピノコがテレビを見てもいい時間だから、私が行くまで付き合ってやって」
「ありがとう、そうするよ」
ピノコがリビングにいることを確認してから軽くキスをする。酒が残っているBJが嬉しそうに「ふふ」と笑い、キリコも笑い、もう一度、今度は少し深いキスを交わしておいた。
自分のコーヒーとピノコのココアを持ってリビングに行く。ピノコは熱心にテレビを見ていた。飲み物を置いてソファに腰掛け、画面に目をやり、少し言葉を探してから言った。
「難しいのを見てるんだな」
「今、現代史でちぇんちぇいが教えてくれてるとこなのわよ。ちょうろいいのよさ」
「ふうん」
見なければいいだけだ。皿洗いを手伝いに戻ろう。そう思った。だが座ったソファがなぜか下半身に纏わりつくようで、立ち上がることができなかった。画面から目を離すことができなかった。
キリコから見れば公平とは言えない視点での番組が流れている。淡々とした声のアナウンサーが正確な発音で読み上げる説明は反戦寄りだった。分かっている。これが戦争だ。キリコは思う。俺たちは負けた。だから。これが戦争だ。負けた国は否定されるのだ。そう、日本のように。お互い様じゃあないか。
「いっぱい亡くなったのねえ」
ピノコが呟いた。そうだね、と答えたかもしれない。彼女が自分の様子の変化に気付きませんようにとしか思えなかった。
敗北を喫したアメリカは。残酷な兵器を。枯葉剤を。今でもベトナムでは後遺症に苦しむ人々が。言葉の端々で祖国を悪と定義付け、だがある立場からすれば正しい歴史をテレビの画面は映し出して行く。
画面が切り替わった。地表の全てが樹木しか存在しない場所であるかのような錯覚に陥るほどの樹々。密林。その文化の中で生きる人々。当時を知る人々。戦火に晒された人々。
ああ、と思った。見たくない。そう思った。あの場所を知っている。あの場所は──俺が、彼らが、生命が──ホアが。
「キリコ」
引きずられた意識を女の声が呼び戻した。はっとして顔を上げる。同時にひどい汗をかいていたことを知った。自分を覗き込むBJの後ろで、ピノコが泣きそうな顔をして見上げていた。それで失敗を悟った。ピノコの前で見せて良い状態ではなかった。
「大丈夫? 具合が悪そうだってピノコが呼びに来て──」
言いながらテレビの画面に目をやり、数秒ほど凝視したBJは、ピノコに「もっと楽しいチャンネルにしたら?」とだけ言った。それが決定事項の伝達だと理解したピノコはすぐさま従う。
「気分は?」
返事ができない。確かに現実に戻って来ているはずなのに、どうしても声が出なかった。あの日々以来、ここまではっきりした映像を見たのは初めてだと思い出していた。意識が混濁してしまいそうだった。身体的な混濁ではなく、あの日々の全ての記憶が、キリーと呼ばれていた日々の自分を意識の前に押し出して、今の自分と混ざりあってしまいそうで──
だがその時、声が響いた。実際には穏やかな声だったのかもしれない。だが確かに、響いた、と思った。
「キリコ」
女の声はそれだけだった。それだけで良かった、と知った。深く息を吐くと、女も息を吐いた。
「書斎に行こう。少しだけでも話をした方がいいと思う」
「──いや、そこまでじゃ──」
「そこまでだから。お願い、わたしを安心させて」
少しばかり甘える声音を装い、追い詰められた精神状態のキリコが──患者が──分かりやすい米語に切り替えて言われたその言葉に、縋るように頷くしかなかった。
ピノコが小さな声で「ごめんなさい」と言った。泣き声だった。お嬢ちゃんのせいじゃない、と言おうとしたが、声が出なかった。代わりにBJが「誰のせいでもないから、謝っては駄目」と言い含める声が聴こえた。心から感謝した。
書斎のソファに深く座り、キリコは息を吐く。我ながら混乱が酷い。思った以上に精神的なダメージを受けたことを自覚した。それから医療者としての知識を何とか総動員し、BJに──心療内科の治療を行おうとする医者に──必要な項目をピックアップして話をした。整理したつもりだったが、不明瞭な話し方になってしまっていた。どこかで冷静な自分が医者の顔で「今の状態なら仕方がないことだ」と言ってくれた。
キリコの手を取り、膝をついて話を聞くBJは頷くだけだ。肯定も否定もせず、ただ話を聞いた。どれほど時間が経ったかは分からなかったが、少しずつ自分の話し方が理路整然として来たとキリコが自覚できた頃、BJが他愛ない質問を始めた。今日の夕飯は美味しかった、わたしはピノコのあの料理が好きで、キリコが好きな料理はあった? そんな質問ばかりだ。スムーズに答えられた自分に、ああ、戻って来られた、とキリコは安堵した。
「ごめん」
不意にキリコが零したその言葉に、BJはふっと息を吐くように笑った。
「ありがとう、の間違い」
「──ありがとう」
昼間に自分が言った言葉だと思い出し、少し笑って、膝をついて見上げているBJの額に唇を落とした。BJも安堵したように笑った。
「よかったら、なんだけど。ピノコに少し話してもいいかな」
「お嬢ちゃんに?」
「極端に意識をしなくてもいいけど、避けられるなら避けて欲しいって」
あの戦争の話を。BJの言に、キリコは薄く微笑んで頷いた。それから、本当は謝りたい心を抑え、ありがとう、と言った。BJは微笑み返し、立ち上がってキスをしてから書斎を出て行った。
その後ろ姿に例えようのないほどの愛しさを抱きながら、それでも、生涯忘れ得ぬ密林の中の美しい女を思い出していた。彼女のことだけは──ホアのことだけは、BJにも言うまいと、たった今、決めた。不誠実だとは思えなかった。それは人生において、誰かを愛するということにおいて、必要な決断なのだと自分に言い聞かせた。
少し長い時間が経った頃、ピノコが一人で書斎に現れた。半分眠りかけていたキリコは驚き、一瞬で目が覚める。ピノコは泣いた目をしていた。悪いことをしてしまった、とキリコは思った。BJがピノコを叱るはずがない。ここにいる誰も、何ひとつ悪くなかったのだから。だがピノコは自分が選んだチャンネルがキリコに少なからずの衝撃を与えたと理解し、キリコを傷付けたと思ってしまったのだろう。
「ロクター」
「うん」
「あのね」
「──謝るならお門違いだ、レディ」
彼女が英語を理解すると今日知ったキリコは、丁寧に米語寄りの英語を投げかけた。ピノコははっとした顔でキリコを見た後、何かを察したかのように唇を噛み、頷いた。それが涙を堪える時のBJと同じ仕草だと思い出し、キリコは何とはなしにこの家の中の女たちが心からいとおしくなる。
「先生に聞いたんだろう。俺がベトナム帰りってことをね」
「──聞いたのよさ」
「それは正しいし、隠す気もないよ。そこで俺が、少しばっかりPTSD──分かる?」
「分かるのわよ。とらうまって言うのわよ」
「その通り。流石だね。──そう、PTSDにかかるような経験をしたから。あの映像が駄目だったんだ」
「……ピノコが見てたから、ロクターも見ちゃったのれしょ?」
「そうだね。でも、たかがチャンネルを選んだだけのあなたが気に病むことがあるなんて、何ひとつないと思わないか?」
あなた、と丁寧に呼ばれたピノコは──女性は、俯きかけていた顔を上げた。潤んだ目でキリコを見上げる。キリコははっきりと、あなたをひとりの女性として見て話をしている、と示す真摯な顔で言葉を紡いだ。
「あなたに責任がない、謂れのない罪悪感は、PTSDを持っている俺に謂れのない別の罪悪感を与えることになる。何ひとつ建設的じゃない」
ピノコはしばらくキリコの言葉の意味を考えていたが、やがて小さく頷いた。こんなところもBJに似ている、とキリコは思った。
「俺はあなたが愛している、クロオ・ハザマを愛している。あなたと俺が罪悪感の応酬をしたところで三人それぞれの愛に何ひとつ良いことはないし、何より、気付いたクロオが傷付くだろう。俺はそう思う。あなたは?」
あなたの意見を聞きたい。そう言われることそのものが、ピノコには希少な体験だった。BJは確かに話を聞いてくれる。だがキリコの今の要請は、あなたの責任において話をして欲しい──そう求められたことが分かった。人生で初めて、大人という存在であり、自分の生活エリアに入り込んでおきながら、自分の見た目で判断して庇護下に置こうとしない──おそらく置こうなどと考えてもいない──人間に決断を求められたような気がする。
だから必死で考えた。これは誰も責任を取ってくれない言葉になるのだと、ピノコは初めて感じていた。もしかすると、今までもそんな瞬間があったかもしれない。だがいつもBJが傍にいた。何かあればBJが全て引き受けてくれていた。
今、それはできない立場になったのだと、隻眼の男が優しい口調で残酷な現実を突き付けて来た。
それは同じ女を、同じ人間を愛しているからだ。
恋敵、それは単なる言葉遊びではなかったのだ。
「ピノコは」
必死で探した言葉を必死で、だが決して引くものか、一歩たりともこの男に、恋敵に譲るものかと思いながら、言った。
「ピノコはちぇんちぇいの奥たんなんだから」
──あのひとは、わたしがなによりあいするひとなのだから。
「彼氏なんて、絶対負けないんらから」
──あなたではうめられないなにかを、わたしはかならず、わたしがうめてみせるのだから。
「れも、不戦勝は嫌なんらから。早く」
──せいせいどうどうと、たたかいましょうよ。
「早く、元気になっれほしいのわよ。ちぇんちぇいが心配するのわよ」
──わたしもあなたもあのひとをあいしていて、
「ちぇんちぇいを心配させるなんれ、だめんずのすることなのよさ!」
──あのひとにあいされているのだから。
「そうか」
キリコは薄く微笑んだ。傍から見れば保護者への愛情を必死で訴えた幼女を慈しむ笑みに見えただろう。だが他ならぬピノコは理解した。これは、この笑みは──そして気分が良くなる。そうでなくっちゃ。そう思った。
──せんせんふこくをうけいれた、ってわけね。わかってたけど、やっぱりいいおとこ。
こうでなくっちゃ。
わたしのあのひとがあいしたおとこだったら、これくらい、いいおとこでなくっちゃ、なっとくできるわけないんだから。
恋敵に向かって、ピノコは左手を差し出した。キリコはしばらく幼い姿の女性を見詰めた後、やがて僅かに笑い、やはり左手でその手を握った。
「先生のところに行って、俺はもう大丈夫だって言って来てくれないか。心配ならコーヒーに少しばっかりウイスキーを垂らして待っていてくれって」
「あらまんちゅ!」
何かを振り払うように──家主の恋人の死神と幼女と言う都合のいい立場を互いに忘れかけた時間を振り払うように、この上なく元気に返事をしたピノコに、死神はやはりこの上なく優しく、いかにも恋人の愛する娘に対する男の顔で微笑んだのだった。
リビングでコーヒーを前に、夕食後の穏やかな時間をやり直した。だがほどなくして、小さな身体には精神的負担になった時間を過ごしたためか、ピノコは懐いたBJの膝の上で眠ってしまった。
「キリコも寝た方がいいと思う」
「そうだな」
大人が眠るにはまだ早い時間だ。それでも今日は誰もが、早く睡魔の手を借りて疲労を癒すべき夜だった。
「何かあったら呼んで」
「何かって?」
「だから──」
「キスしたくなったら呼ぶよ」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿で結構」
BJが言いたい意味を理解していながら、敢えて揶揄う口調で返す。もう大丈夫だと伝えたかった。少しばかり苦しい夢を見るかもしれないが、それにはもう慣れている。とはいえ、明日の朝に目覚めた時、ここがどこかをすぐに思い出せるように神に祈ることだけは必要そうだ。
BJがピノコを連れて寝室へ入った後、キリコは買ったばかりの毛布を掛けてソファに身体を横たえた。案外と寝心地のいいソファだったが、キリコの身長には少し長さが足りなかった。長い脚で結構、結構、と自らにさえ揶揄しながら目を閉じる。思った以上に疲れていた精神を包み込むように、睡魔が柔らかく眠りの波を連れて来た。夢を見たくないんだ、と睡魔に言った。だがそれは無駄だった。
見る夢は様々だ。いつも違う。だがいつも同じだと言ってもいい。どんなに笑う彼らと共にいても、まるであの場所ではないような気になれるほど快適な気候の中でも、世界を覆うのは死の香りだった。誰かにとっては絶望の香りであり、誰かにとっては希望の香りだと知っていた。自分にとってはどちらなのか、それはいまだ結論が出ないものだった。
美しい女が微笑んだ。だから微笑み返した。少し何かを話した。何を話したのかは起きたら忘れてしまうのだろうと思ったが、哀しくはなかった。彼女を忘れないのならそれだけで良かった。
不意に世界が昏くなった。ああ、と思った。これはいつものことだ。夢を見ると必ずこの時間が来る。だから言った。ホア。
なあ、ホア、夢から出て行ってくれ。
青い光を見る前に。どうか。
美しい女は微笑み、頷くこともなく、やがてその姿を消した。
嬉しかった。今日は最期の瞬間を、彼女の最期の、そして──
自分の手を見た。最期の。そして、最初の──
その時だった。
ねえ。
呼ばれた。顔を上げた。
顔に大きな傷、一度見れば忘れない皮膚の色、蓮っ葉で、それでも驚くほど可愛い、日本の医学生が、あの日の姿で自分を呼んだ。
ねえ、……ってば。
名前を呼ばれた。だがその名前は──密林の中の名前ではなくて──
ねえ、──ねえ。
「起きて、キリコ」
自分でもはっきりと自覚するほど身を震わせ、密林の中で失った左目の瞼すら引き攣るような強さで目を見開いた。うぐ、と妙な声が漏れたことを不思議と冷静にみっともないと思った。
暗いリビングの中、それでも至近距離まで近づいた女の顔が見える。清潔な石鹸の香りがする。キリコ。そう呼ばれた。そうだ、と思った。そう、俺は──キリコだ。
ひどい汗をかいていた。苦しい夢ではなかった。むしろ穏やかな夢だった。だがよく知っている。そんな夢の時ほど、自分はひどくうなされることを。
BJが何も言わずに首に腕を回し、抱き付いて来た。だから抱き締めた。それが縋る腕だったと知る者はBJだけでよかった。
「眠るまで」
BJが囁いた。夢の中の誰にも聞かせるものかと密やかな声で。
「眠るまで、一緒にいよう。次はきっと、違う夢を見るよ」
お嬢ちゃんは寝室に一人切りなのか──そんなことを言えるほど、今の自分に余裕がないことをキリコはよく知っていた。BJも分かっていた。だがそれを指摘するほど愚かではなかった。
二人で眠るにはソファは狭すぎる。BJは膝にキリコの頭を載せ、取り止めもない話をし、やがてキリコが眠るに任せた。
リビングの入り口の影に、何よりも愛しい娘がいることを知っていた。知らない振りをするべきだと決めた。
やがてキリコが深く眠ったことを確かめて、ゆっくりと丁寧に膝から頭を降ろし、静かにソファを離れる。毛布を掛け直し、ソファからはみ出した脚の長さに感心してから、眠る男の唇にキスをしてリビングを出た。
ちぇんちぇい、と声を出さずにピノコが呼んだ。半ば泣いた顔の愛娘に眉をひそめて笑いかけ、抱き上げて強く抱き締めた。
ピノコが聞いていなければいい、と思った。ここにいる誰もが、キリコ以外が知る必要がなければいい。
そうすれば完全に、永遠に、きっと知らないままでいられるはずだから。そう思った。
──ねえ。
そう問いかけなくて済むのなら、きっとその方が良いはずなのだ。
──ねえ。ホアって、誰。
永遠に知らないままでいい名前があるのだと、知った。
翌朝、一番に起きたのはキリコだった。午前5時、まだ家の中は静まり返っている。
よく眠り直せたものだ、助かった、と深く息を吐きながらテーブルに置いた煙草を取り、テラスへ出た。水平線の向こうがようやく白み始めたばかりで、それでも充分に眩しくて目をすがめた。冷えた朝の空気と海風が、紫煙と共に深夜の密林の記憶を引き取って行ってくれた。
夢をしばらく忘れることができても、眠るまで一緒にいようと言ってくれた女のあたたかさを忘れることはない。いい女だ。そう思った。──いい女だ。何て。
煙草を一本吸い終える頃、陽が急激に目を覚ましたかのように起き上がろうとする。海面が眩いほどにきらめき、朝日独特の反射を周囲に撒き散らした。また目をすがめるしかなかった。そして、ああ、とまた思った。ああ、いい女だ。いい女たちだ。
まだ眠っているとばかり思っていたが、キリコが起きる前に海岸へ降りていたのだろう。コートだけは相変わらずだが、その下は幾分か動きやすいジーンズとニットを着たBJと、似たような格好のピノコがバケツを一緒に持って運んで来る。二人して笑っている。
目も眩みそうな美しい光景ではない。それは誰もが言うだろう。だがキリコにとっては美しい光景、とてつもなくいとしい光景に思えた。
ピノコがテラスのキリコに気付き、大きな声でおはようと言って手を振った。この環境だからこその大声だとキリコは納得し、そして教育環境としてはそれなりに良いのだろうと理解して、聞こえるか分からないが、いつもの声でおはようと返した。
「おはよう。でも室内履きのままで出るのは駄目」
テラスから降りて来たキリコにBJが言う。キリコは苦笑した。この家のルールを早く覚えようと決めた。
「海に行ってたのか」
「うん。貝が取れるから、たまにね」
「マテ貝が取れたのよさ!」
「へえ?」
嬉しそうにピノコが見せるバケツを覗き込むと、細長い棒のような貝がぎっしりと入っていた。他にもアサリやハマグリが見える。まるで潮干狩りの成果のようだ。キリコは思わず口笛を吹いた。
「すごいな」
「れしょ。マテ貝は砂抜きがすぐ終わるのわよ、朝のお味噌汁に入れるのよさ」
踊るようにはしゃぎ、まるで幼女の顔でピノコは玄関へ向かった。キリコは穏やかに見送り、その姿が玄関に入ってからBJを抱き寄せて唇を少し深く重ねた。BJが安堵の笑みを零した。
「よく眠れたみたいで。良かった」
「お陰様でね。夜の回診はおいくらだ、ブラック・ジャック先生?」
「今日は街まで運転してもらうから、それで相殺」
「破格だね」
二人で笑いながらもう一度キスをする。いつもよりも少し身体を寄せた。またキスがしたくなって互いに視線を合わせた時、ロクター、と家の中からピノコが呼び、慌てて身体を離した。
「朝ごはんの支度を手伝ってなのわよ! 今日もお買い物があるからしっかり食べて元気になるのよさ!」
「また何か買うのか?」
運転手にされることは構わないが、昨日買い忘れたものでもあったのだろうか、と首を傾げるキリコの横で、BJが少し困ったように笑う。何だよと問う前にピノコが宣言した。
「ロクターのベッド!」
「は?」
「大きいのを買うのわよ。ロクターが怖い夢を見たって、ちぇんちぇいがよしよししてあげやすいのよさ!」
何を言っているのか分かっているのだろうか。キリコは半ば唖然とする。ピノコの大人びた一面と子供の感覚が相俟っていることはよく分かったが、これはBJの指導が入るのでは──そう悩みかけたキリコに、BJが小さな声で言った。
「あの子が言い出したんだ」
「まさか。恋敵なのに」
「敵に塩を送る精神が育ってたみたいで。──用途はピノコの言う通りに限定だけどね」
「それは残念、と言いたいところだが、それが正しいだろうな」
「ソファより寝心地いいし、いいんじゃない。あと着替えも少し置けば?」
「──If you say so」
あなたがそう言うなら。どんな時にこの言葉を交わし合ったか、それは二人がボーダーラインの恋人ごっこをやめなければいけないと気付き始めた時、やめた時だったと思い出して、同時に小さく笑い、どちらからともなく深いキスをした。
「決まり。──アオヤギも採れたんだ、茹でて食べよう」
唇を離して言いながら、BJは玄関へ歩き出す。しばらくその後姿を見送っていたキリコはやがて苦笑し、テラスへ戻ってテーブルの煙草の箱をポケットに押し込んで、一家の主婦が待つキッチンへと向かった。
心配していたはずなのに、とおかしくなる。
──俺が心配していたはずなのに。きちんと社会生活できてるのか、なんて。とんだ勘違いだった。あいつが知ったらどんな顔をするんだろう。
結局心配をかけたのは自分で、全くもって面目ない。だが不思議と嫌な気分ではなかった。種類は違っているものの、それぞれの生活の中で切り離せないことを互いに心配して、互いに理解したこと、以前よりも一歩踏み込めたことが嬉しいのだと気付いた。
「ロクター、マテ貝をお湯に浸してなのよさ」
「マテ貝だのアオヤギだの、随分いい貝が採れるんだな。潮干狩り会場顔負けだ」
「うちの敷地内からしか降りられない場所があって、穴場なんだ」
ね、と母子は顔を見合わせて得意そうに笑う。キリコは二人の様子が可愛くて笑う。
以前よりも一歩踏み込めた。それは家の中にも同様だった。この家の主の庇護下にありながら、それでも家を切り回すのは小さな身体の恋敵だ。彼女がこの家にキリコの侵入を許したのであれば、それはピノコのテリトリーに足を踏み入れたことになる。今後の関係に影響するかどうかまではまだ分からないが、これはこれで互いに一歩踏み込んだのだと思った。
朝から貝が並ぶ食卓は見事なものだ。砂抜きの時間が短くて済む種類の貝は早速胃に収められ、人間たちの一日の活力に変化する。
「ロクターのお箸も買わなくっちゃ。うちにあるのは割り箸だけなんらもの。それからバスタオルれしょ、それから──」
「何でも買えばいいよ」
BJが穏やかに言って味噌汁を啜る。椀を唇につけたままちらりと正面のキリコを見上げ、すぐにまた味噌汁に視線を戻す。
キリコは軽く咳払いをし、可愛い、と思った心を恋敵から隠したのだった。