モルダウ河から吹き抜ける風が冷たい。軽い酒の酔い覚ましにはちょうどいいのかもしれないが、あんな強い酒には焼け石に水のようなものだ。
時間がないことは分かっていた。あれだけ強い酒を一気に、しかも初めて飲んだ種類だったのであれば、いくら酒に強い人間でも普通ではいられない。街灯と人通りの少ない田舎街の道を歩く黒いコートを見つけ、まだ真っ直ぐ歩いている姿に安堵する。だが時間の問題だ。そう思った時、BJの後姿がやや揺れた。脚に来たな、と見抜き、歩調を速める。
先生、と声をかけようとしたキリコより早く、通りがかった二人の男が動いた。BJに声をかけたのだ。チェコ語だが明らかに女をからかうもので、思わずキリコは眉を顰めた。
男たちは無視して進もうとしたBJの行く手を塞ぐように立つ。驚いて脚を止めかけたBJが妖精の酒に自由を奪われて無様によろけた。転ぶ前に男の一人が乱暴に腕を掴んで支え、もう一人が笑う。
キリコはひどく腹が立った。自分にだ。馬鹿をやった。改めてそう思った。──馬鹿をやった。あんなことを言うんじゃなかった。言ったとしても一人で店を出すべきじゃなかった。
「おい、おまえら」
下手なチェコ語ではなく、ポルトガル語で言った。チェコスロバキアなら英語よりも通じやすい。低く、はっきりとした敵意が込められた声に男たちがキリコを見る。まだ腕を掴まれたままのBJの身体の自由が利かないことを見て取ったキリコはゆっくりと手を動かした。その瞬間に顔色を変えた男たちは、その手にあったものが何なのかを確実に理解したのだろう。
「ポルトガル語は分かるか? 分かるなら俺の連れから手を放せ。分からないなら好きにしろ。俺も好きにする。今はぶっ放したい気分だ」
男たちはポルトガル語を理解できた上、キリコが持つ銃の威力を充分に知っていた。BJから手を放し、へたり込んだBJにそれ以上目もくれず、キリコにポルトガル語で「悪かったよ」と言いながら逃げて行く。
「先生」
座ったままのBJに駆け寄り、礼儀として嫌味のひとつでも言ってやろうかと思った。だがBJの顔を見た途端、そんな感情は吹き飛んだ。
「悪かった」
「うるせえよ」
「悪かったよ。あんな飲み方をさせるようなことを言った俺が悪い」
「うるせえ。失せろ」
「それはできない」
できるはずがなかった。商売敵とはいえ憎いわけではない。そしてあの密林の夜を思い出せば当然なのだ。蓮っ葉な顔の下に隠していた男性への不信感を露わにした女を残して立ち去ることなどできるはずがない。
男に腕を掴まれたBJは、普段ならおそらく抵抗しただろう。腕っ節が強いことは闇でも有名な話だ。だが回り切った強すぎる酒がそれを許さなかった。妖精の酒は時として悪魔の酒になる。飲み方を間違えたBJの責任であることは明白だが、だからと言ってここで見捨てられるほど、キリコはBJに冷たくすることができなかった。
「ホテルまで送る。──何もしない。タクシーを拾って送る。それだけだ」
「必要ない」
「何もしないよ」
「うるせえんだよ」
「大丈夫だから。信じて」
BJの隣に片膝を付き、顔を見る。何てことだ。まるであの夜だ。あの日も同じことを言った。信じて。それから何を言っただろう。──ああ、思い出すだけでうんざりするような、それでも確かに鮮明に残る日の記憶だ。それが今はどうだ。ひとつの生命の行方について完全に道が分かたれ、決して相容れない生き方をしている。それなのに言う台詞は同じ。信じて。何て滑稽な話だ。
「信じるもんか」
BJが呻いた。キリコは何も言えなかった。女の声が泣いていれば大抵の男は言葉を失うものだ。キリコも例外ではなかった。
「信じるもんか。嘘ばっかりだ。どうしてわたしがそんな嘘に付き合ってやらなきゃいけないんだ。馬鹿にしやがって」
「嘘じゃない。──何が嘘なんだ?」
強すぎる酒精に意識と身体を支配された相手に言ったところでまともな返事など得られないことは分かっている。だが問わずにはいられなかった。人々が横目で見ては何事かを囁き合い、あるいは東洋人の女の酔態を笑いながら通り過ぎて行く。みっともない。キリコは思う。──みっともない。女をこんな目に遭わせている俺のみっともなさと言ったら。
「船で、わたしに気が付かなかった」
「──気が付いてたよ。本当だ」
それは本当だ。嘘ではなかった。だがあの時の彼女を、ブラック・ジャックと名乗る外科医を見た瞬間に思ったのだ。──二人の道は分かたれていたのだと、本来ならとうに分かっているべきだったことを思い知ったのだ。だから言えなかった。旧知であるなどと言えるはずがなかった。
「あんたは生きてたのに、わたしに手紙を書かなかった。嘘をついた」
キリコが黙り込んだのは言葉を失ったからだ。だがBJにはそれが分からなかった。呆れられたのだと思った。だから言った。言ったところで何になるのか、自分が滑稽になるだけだと分かっているのに、回り切った酒が勝手に唇を動かし、感情と脳を剥離させた。
「わたしが哀しいのは嫌だって言ったくせに。嘘をついた」
きみが哀しいのは嫌だな。彼はそう言った。目の前の男ではないと思いたかった。好きになりかけた、否、確実に好きになった男が、今目の前にいる男だと思いたくなかった。理由はひどくシンプルだ。──死神なんて好きになれるはずがない。なっていいはずがない。私たちは違う世界に住む、違う存在でしかいられなくなってしまったのだから。
「哀しかったのか?」
キリコが言った。BJは答えた。哀しかった。そう答えた。自分でも情けなくなるほどの泣き声だった。黒いコートを羽織っているのに強くなりきれない。情けなくて仕方なかった。
「言い訳じゃない。宛先が分からなかったんだ。本当だよ」
「でも書かなかった」
「そうだな」
「可愛いって、会いたいって書くって言ったくせに、書かなかった」
「悪かった」
「哀しかった」
「悪かったよ」
「だから、死んだって思おうとしてたのに、酷い」
手紙が届かなかったら。──俺が死んだってことだよ。あの時、彼は、軍医はそう言った。だからそれで良かったはずだった。二度と会えないはずの男が死んだのなら、二度と抱かなくていい感情があったのだから。
──わたしなんて。こんな醜い女が。誰かを好きになるなんて。どうせ惨めになるばっかり。
「どうして」
BJは呻いた。それでもはっきりとキリコの耳に届いた。
「どうして生きていた。生きてやがった。死神になって。わたしの前に現れて」
何も言えなかった。キリコはただ、酒に支配された女の呪詛を聞き続けた。あの夜のことを、医学生だった彼女をひとときたりとも忘れたことがないと言えば、それは嘘だ。だが誰かの生命の岐路に直面する時、救いたかった女の傍にいた時、死神となる道を選んだ時、いつも背中合わせに存在を感じていたことは真実だ。
「凄い医者だって、思ったのに。わたしなんかよりずっと凄い医者で、本当に」
「もうやめるんだ。タクシーを拾うから」
やめて欲しかった。聞きたくなかった。何て酷い酒なんだろうと思った。何て酷い飲ませ方をしてしまったのだろうと自分を呪った。BJはやめなかった。ただただ、泣きながら言った。
「それなのに、死神になってしまったんだから──もう同じ世界にいられない。わたしはいつまでも軍医を超えられなくて、追いかけることもできなくて、忘れられなくって、惨めなままだ」
「──もうやめてくれ。俺のことなんか考えるな。忘れちまえ。惨めなんて言葉も言うんじゃない」
堪え切れず、キリコは低く呻くように言っていた。忘れろよ。忘れろ。何度も言った。
BJは頬を伝う涙を拭いもせず、やっとの努力で唇を噛む。酒を恨んだ。酷い飲み方をした自分を殴り飛ばしてやりたかった。キリコが全て忘れてくれればいいのにと思った。──忘れられなくって、惨めなままだ。せめてこの言葉の意味に気付かないようにと願うしかなかった。
今よりも若かった、幼かったと言ってもいいあの時の感情を忘れてしまいたかった。キリコが気付けば忘れられなくなってしまう。だからどうか。どうか。そう願うしかなかった。二度と会えない。そんな相手をいつまでも覚えていたくない。目の前にいる男にはきっとまたどこかで会うことになるかもしれない。それでもこの男は、あの日の彼ではないのだ。
違う世界にしか存在し得ない死神が、あの日の彼であってはいけない。
「もう帰ろう。送るよ。俺は先生に何もしない。それは信じて」
「知ってる」
「ありがとう」
「あんたはわたしに何もしない。なんにも」
手紙を書かなかった。船で気付いた時に何もしなかった。呟きに込めた意味で女は男を責めた。男は自分の理由を説明したところで意味がないと知り、責められるに任せた。
またあの夜を思い出す。きみには責める権利がある──あの時、そう言った。その権利を行使しなかった医学生は、今、泣き顔など似合わないはずの名医になってようやく行使している。酷い気分だとキリコは思う。酷い気分だ。──思い出してしまう。俺がまだ傲慢だったあの頃を。全ての生命に対して傲慢な聖人であろうとしたあの頃を。
立ち上がろうとしてふらついたBJを咄嗟に支える。触るなと泣き声が言った。支えているだけだと感情を隠した声で返した。
大通りでタクシーを拾うために罵り合いながら歩く二人を道行く人々が笑う。最低の夜だ。二人は思った。二度とこんな酒は飲まない。誰が飲むものか。こんなに不味い酒は初めてだ。不味くて、悲しくて、惨めで、互いに互いを忘れてくれればいいのにと思った酒など二度と飲みたくなかった。
自分が相手を忘れればいいと思わないことが滑稽で仕方なかった。
知らない天井だった。すぐに自分が仕事でチェコスロバキアに来ていることを思い出した。いつチェックインをしたのだろうか、とそれなりの宿代を窺わせる天井を見ながら考える。昨日は空港からすぐに依頼人の病院へ行って、それから──そこで一気に思い出した。あの忌々しい死神の隣で緑色の酒を飲んで、それから店を出て──
「……それから?」
呟く。しばらく考えた。やがて溜息をつき、ゆっくりと起き上がる。嫌な予感のために慎重な動きにしたが、案の定、目が回った。吐き気と頭痛がない軽い二日酔いなら僥倖と言える。目が回っているとはいえ、動けないほどではない。これも幸運だろう。医者としては誰にも勧めない方法だが、水を飲んで熱いシャワーを浴びれば何とかなりそうだ。
ベッドを降りる前に気付いた。思わず硬直した。窓際に置かれたシングルのソファで眠る男を見れば当然だ。しかもその男が銀髪の死神とあれば。
閉め忘れたカーテンから柔らかな陽光が男の銀髪と白い肌を撫でている。眩しくて目を眇めた。綺麗な男だと思った。アイパッチの下がどうなっているかは知らない。それでも、その分を差し引いても、美しい顔立ちをしていることは確かだった。
自分がコートを脱いだだけの服装のまま寝ていたことに気付いたのはその時だ。やましいことは何もされていないとすぐに分かった。こんな男は知らなかった。だから、この男は私の世界にはいない男なのだと改めて知った。
いない男だ。今までいなかったし──もういない。船で気付かなかった。それが全てだ。虫除けの精油を気障に焚いてくれた男も、自分の心を少しでも救うために話を聞こうとしてくれた男も、手紙を書くよと言った男ももういない。
手紙は来なかった。
だからきっと、彼は死んだ。
ここにいるのは別の男だ。
起こさないように静かにレストルームに入った。壁にあった小さな鏡を見た。神様が再び繋いでくれた命の傷と、友人が与えてくれた肌は今日も芸術のように美しかった。それでも──ああ、醜い、といつも思うことをまた思う。
でもこれが現実だ。そう結論付けた。誰が何を言おうと信じられるはずがなかった。
きみは可愛い。可愛いんだ。凄く。嘘じゃない。信じて。
そう言った男はきっと馬鹿だった。目がおかしかった。いいや、頭がおかしかった。
「もう死んだ」
鏡の中の醜い女に告げた。女は何も言わなかった。だから声無く唇を動かした。すると鏡の中の女は言ってくれた。もう死んだ。
もう死んだ。
彼は死んだ。
彼女と一緒に深く息を吸い、大きく吐き出す。よし、と言った。鏡の中の女も言った。
それから勢いよくレストルームのドアを開ける。
音に驚いて目を開けた男ににやりと笑ってみせた。
「ゆうべは楽しんでくれたかい、死神野郎」
「最高の夜だったよ」
寝起きで憮然としたまま、それでも男は返事をする。ベッドを譲ってソファで寝たが、横になることもできなかった身体は不満の軋みを漏らしていた。
「そいつはよかった。最高の夜を覚えていないのが残念だよ」
「覚えてない?」
「店を出てから覚えてないんだ。おまえさん、私に何をした?」
キリコは深く息を吐き、ソファに沈んだ。女の言葉が真実かどうかなど分かりはしない。だが、彼女がそれでいいならいいと思った。──きみがそう言うならそうなんだろう。きみの中ではね。──夜が明けてもまだ思い出す自分の方がよほど滑稽だ。
「ここは俺が取った部屋だ」
「どうして私がここにいる?」
「タクシーに乗せた途端に寝込んだのは誰だ。先生のホテルなんか知るわけないだろう」
「その辺に捨てておきゃよかったんだ」
「女を酒に誘ったら、最後まで責任を持つのが男の義務だ」
バーのマスターの言葉をまことしやかに言ってみせる。BJはふんと鼻で笑った。キリコは苦笑した。
「何もしてないよ」
「本当に?」
「コートは脱がせた。それだけだ。とんでもないコートだったな」
「女の身ひとつでこの稼業、当たり前だろ」
「自衛は大事だね、間違いない」
ソファの横にあったミニテーブルから煙草を取り、咥えて火を点ける。灰皿に残っていた紙の燃え残りを指で崩した。
「私がシャワーを浴びている間に出て行け」
「もう一回言ってやろうか。ここは俺が取った部屋だ。何か勘違いしてるんじゃないか」
「しちゃいないよ。おまえさんが嫌なものを見ないように配慮してやろうって話だろ、感謝しろよ」
「嫌なもの?」
「ツギハギの女の身体なんぞ見るもんじゃあないよ。仕事でもないのに。とにかく出て行きな」
自虐を勝手極まりない言葉に混ぜて投げ付け、返事を待たずにBJはバスルームへ消えた。ほどなくして聞こえ始めた水音にキリコは溜息をつく。
煙草の灰を灰皿に落とし、書きかけた手紙の残骸に混ぜた。
今更、と思った。だから燃やした。意味など何ひとつないのだ。何もしなかった、それが彼女にとっての事実で、そして真実だった。それでも眠った彼女を見て、紙にペンを走らせたことは当分忘れられないだろうと思った。
Dear.
I'm dying to see you.
I ──
死ぬほど会いたいよ。
それがあの日の自分にとっての事実で、そして真実だった。
伝えなかったことも、紛れもない真実だった。
だがそれを後悔してはならない。若い頃、熱に浮かされたような夢を密林の中で見ただけの話だ。そういうことにしておくべきだ。そうだ、事実、あの後に違う女を確かに愛した瞬間がある。
だからと言って若い頃の熱病のような恋を否定する気はない。その存在を忘れたことはない。死ぬほど会いたいと思ったことは嘘ではない。それも真実だ。
死んだと思った、それなのに生きていた。彼女は泣きながらそう言った。そうだ、それも真実だ。俺は生きている。キリコは呟いた。俺は生きている。
──俺は生きている。あの日からの全てを左目の中に記憶している。俺が生きた証。絶望した証。それでも生きる証。死神と言われる理由の全てはここに。
生きている。生きる。ただひたすらに、愚直だと自分でも思うほどに生きる。生命のためだ。全ての生命に愛を──安らぎを、救いを。そのために生きて、生きて、生きる。あの日々の苦しみを忘れるはずがない。それでも生きる。いつか苦しみが愛おしくなるほどに生きて、生きて、生きるだろう。
全ての生命に愛を。安らぎを。救いを。
生きる世界が違うと言われても、違う存在にしかなり得ないと分かっていても、だがそれがどうしたと言うのだ。道が分かたれた。それだけの話だ。
それだけの。
Dear.
I'm dying to see you.
I miss you.
死ぬほど会いたいよ。
きみが恋しい。
互いの道に不要な記憶を、手紙に書いて燃やした。左目に抱いていた記憶のひとつは燃え尽きた。生きる世界が分かたれたのだと彼女が言うのなら、それは正しい。ならば抱えている必要はない。生きるために。
生きるために、死神は手紙を燃やした。
降り注ぐ陽光にひとつだけの目を眇めながら窓を開ける。モルダウ河からの風は昨夜よりも穏やかであたたかい。夜になったらあのバーのマスターに酒に無礼な飲み方をしたことを詫びに行こうと思った。そのためだけにもう一泊だ。マスターが許してくれるのならもう一度、今度はゆっくりあの緑色の酒を飲もう。
ここに死神の導きを必要とする患者はいなかった。天才外科医の神の指を望むのならそれでいい。
神の指すらも及ばないのなら、再び死神を求めるかもしれない。それならあと一泊と言わず、結論が出るまではこの国に留まるのも悪くない。
違う世界に生きる違う存在を横目で眺めながら、死神はその時を待っていよう。神の指によってたとえ不要とされようとも、一度でも死神の導きを求めた生命の行方を見届けるのだ。
「出て行けって言っただろうが!」
僅かに開いたバスルームのドアの向こうから響いたヒステリックな声に頭痛を感じ、初めて昨日の酒が少し残っていることに気付いた。酷い飲み方をしたのはBJだけだったはずなのに。
「30分、出て行ってやるよ。その間に身支度を整えろ。俺だってシャワーを浴びたいんだ」
部屋の借り主でありながら追い出されることに苦笑し、キリコはコートを羽織って部屋を出た。ドアを閉めてから頭痛を思い出し、さりとて薬を取りに戻ることもできず、あの我儘女、とんでもねえクソビッチだ、と溜息をつきながら独りごちた。
燃え尽きたはずの記憶の中にいた可愛い女を思い出しそうになって嫌になり、もう一度、あのクソビッチめと現実の女を心の中で罵ってやった。