cry 01

 幾度か、依頼の前に死神に話をしたと言う患者に会ったことはあった。それでもダブルブッキングは初めてで、自分でも驚くほど動揺したことをBJはひどく後悔している。患者の前でするべきではない口論に発展しそうになり、キリコに静かに止められたのだ。結局患者は生への執着を見せ、死神は静かに病室を出て行った。
 キリコが姿を消してからBJ は患者に謝罪した。お見せするべきではありませんでした。そう言うと、初老の男性患者は微笑んで首を横に振った。先生がそこまで私を生かしてくれるつもりだからお任せしたくなったんです、と言った。
 ──私ならできる。それは確かだ。それを何だってあいつは──
 患者と正式に契約を取り交わして病院を出て、とうに陽が暮れたチェコスロバキアの街並みを歩く。首都プラハから遠いこの土地は歴史ある静かな場所だ。こんなところで随分みっともなく騒いでしまったものだと自分で自分に呆れた。もう少し場をわきまえなければ患者に迷惑をかけることになりかねないと学んだ。とはいえ、譲れない時は譲れない。譲る気もない。しかも相手が死神ともなれば尚更だ。
 手術の日まで考えること、やることは山ほどあるが、今は少し冷静になりたかった。自分でも冷静になり切れていないことが分かっている。死神との初のブッキングの衝撃はそれなりに強かった。
 地元の人々や観光客の雑踏の中、陽が暮れていてもBJは目立つ。振り返って見て来る者もいる。慣れているものの、やはり面白いものでもない。死神との邂逅に驚いて疲れているのも確かで、今は視線をまるっきり無視するのも努力が必要になりそうだった。モルダウ河からの風が少し冷たいことを言い訳に、目に着いた小さなバーに入った。
 店の中は適度にすいていた。田舎町ならではか、地元客向けの店のようで、聞こえて来るのはチェコ語ばかりだ。それでも酒の注文に困ることはないだろう。酒飲みの国境はボトルを指差せばあっという間に霧散する。
 入った途端に視線が集中した。予想済みだ。この見た目、しかも今の時代のこの国では観光客でも滅多にいない日本人の女なのだから。各国を飛び回るようになってから実感していたし、何かあればそれなりに対処できるようにもなっていた。
 あちこちから好奇の視線、それから明らかに侮蔑の──理解できないチェコ語で良かったと思う程度には分かりやすい侮蔑の──言葉が向けられる。それでも臆することはなくなっていた。いつからかこのコートを着ていれば、このリボンタイを着けていれば、ブラック・ジャックとして立っているのであれば、驚くほどに強い自分でいることができるようになっていた。
 だが今回ばかりはこの店から出て行こう、と決める。思い切り嫌な顔になってしまった自分を責めることはできない。
 他の客たちの好奇と揶揄の声に気付いたのか、カウンターにいた銀髪の死神がグラス片手に振り返り、BJを見て「おや」とでも言いたげな顔になったからだ。一日に二度も、しかも予想外に会いたい相手ではなかった。
 そう考えたのに店を出るタイミングを逃した。マスターが身振りと訛りの強い拙い英語で「カウンターへどうぞ」と示したのだ。しばらく滞在する小さな街で、マスターへの無礼は避けた方がいい。酒を扱う店の話はあっという間に広がるものだ。どこでどんな影響が出るか分からない。BJは溜息を押し殺し、カウンターへ向かった。カウンターには死神の他に客がなく、これ幸いと一番遠い席へ陣取ろうとする。だがその時、キリコが冷たさと親しさのちょうど半ば、顔見知りへの声音で日本語を発した。
「取って食いやしないよ」
「随分小賢しい日本語をご存知で」
「日本でも仕事が多くてね。そこそこ喋れる」
 そこそこ、と言う割には欧米人が克服しにくい発音が気にならない。聞くだけで豊富な語彙を持つことが想像できる。こいつは何て嫌な奴だ、日本でも仕事だなんて、とBJはまたこの男に嫌な顔をしてみせた。キリコはその顔を見て何かが琴線に触れたのか、ふふ、と笑った。
「おまえさんでも女性がいた方が酒が美味い、隣へどうぞ」
 このコートを着ていれば、大抵のことは──そうだ、怖いことはない。だが不愉快なことがないわけではない。おまえさんでも。その言葉はBJのコートの下に隠れた外見への劣等感を刺激した。それでも顔に出すまいと決めた。顔に出すまい。そして逃げまい。ここで走って逃げたところでこの男は笑うだけだ。
「同じものを。払いはこいつで」
 英語でマスターに言いながら、隣にどかりと腰掛けた。女らしさの欠片もない勢いになったが、そんなものをこの男に見せてやる必要はない。ちょっとしたギャップを楽しみたがる男の営業相手にやればいいだけだ。
「天才外科医の契約成立にお祝いを」
 キリコがグラスを掲げ、BJはマスターが置いてくれたグラスを手に取ることなく鼻で笑う。この男に祝われる理由などどこにもないと思った。そして男の表情が読めない違和感に首を傾げそうになったが、すぐに自分が左側に座ったからだと分かった。質の良い仕立てのスーツと同様、質が良いと分かるアイパッチが彼の表情を隠していた。
「英語にしてくれ。おまえさんの日本語は癇に障る」
「どこかおかしいかな?」
「おかしくないから癇に障るのさ」
 不機嫌を隠さない、やや無茶苦茶とも言える言い分にキリコは怒らなかった。それどころか少し笑い、構わないよ、と英語に切り替えた。
「英語は苦手なんだがな」
「喋ってるじゃないか」
「米語の方が得意だ」
「──ああ、ベトナム帰りのヤンキーだもんな」
 コートから引っ張り出した煙草を咥え、BJは相変わらず不機嫌だ。するとキリコが「おや」と言った。
「俺を覚えているのか」
「思い出しただけだ。あの船で思い出さなかった程度の記憶さ」
「それでも光栄だね」
 BJが火を点ける前にキリコのライターが火を生み、煙草吸いの礼儀か、それとも反射か、BJは差し出された火で煙草を燻らせる。深く吸ってから溜息をつくように吐き出したのは、自分でも思った以上に疲れているからかもしれない。日本からの長時間の移動、死神とのダブルブッキング。疲れていないはずがなかった。
「じゃあ、どうする」
「何が?」
「あの時の続きでも?」
「馬鹿言え、船のことを話したら寿命が縮むだろうが。御免だね」
「そうじゃない。ベトナムの」
「──覚えちゃいねえよ」
 グラスを運んだ口元が僅かに引き攣り、それは嘘だと隣の男に教えた。ふうん、とキリコは呟き、自分の煙草に火を点け、長く、細く煙を吐いた。
「米語でいいかい」
「まだその話だったのか。勝手にしな」
 言いつつ、BJも米語寄りにする。キリコへの配慮ではなく、話を互いに理解しやすくするためだった。
 もう一度グラスを口に運び、ようやくこの酒が林檎の香りをまとったブランデーだと分かった。気障な男、となぜか忌々しくなる。この男は香りを巧く使うのだと思い出してしまった。ベトナムのあの夜、虫除けだと言ってレモングラスの精油を焚いた。そんな男を他に知らなかった。
「今回は闇を通しての依頼だったんだ。先生も?」
「そうさ。それが何か?」
 素っ気ない返事をしたが、BJは眉を顰めたくなった。闇がマネージメントしたのなら、ダブルブッキングは何かの手違いか、それとも故意か。前者ならクレームを入れるべきだし、後者なら不愉快極まりない。どちらかが確実に無駄足を踏むことになる。実際にキリコは完全な無駄足だ。患者の選択によってはBJがその立場だった。面白いはずがなかった。
「先生の担当の名前は?」
「ああ、あいつは──」
 マネージメントの担当者の名前を教えると、キリコは苦笑して「俺もだ」と言った。それからグラスを空け、マスターにお代わりを頼む。BJは少し考え、キリコが苦笑した理由に思い至る。そして腹が立つ。
「あっちの上に捻じ込めよ。おまえさんがやらないなら私がやってやる」
「必要ないよ。紹介手数料を二人分取られただけだ。その程度の小銭を欲しがる奴の行く末なんて、先生が関わってやる価値がない」
 一般的には小銭と言えない金額だが、あの世界では小銭だ。そしてその程度の金額を手に入れるために、その世界では名高い二人の闇医者をわざとブッキングさせた。理由など知りようもないが、金に困っていることは確かだろう。そんな小銭に困るような人間ならいずれ自滅する──二人は無言のうちに結論を共有していた。
「それにしたって腹が立つじゃないか。おまえさんがどこに住んでるかは知らないが、はるばるチェコスロバキアまで足を運んでこのざまだぜ?」
「美味い酒を昔馴染みの女性と飲んでる。悪くない旅行だろ」
「──馬鹿にしてんのか」
「そこで怒るのか。ったく」
 キリコが深く溜息をつき、一瞬、BJにあの軍医の横顔を思い出させた。右側に座る男を見たが、そこにあったのはアイパッチだ。急にそれが嫌になり、ちょっと、と言った。
「何だ」
「席。換われ」
「いいけど、何で」
「換わらないならアイパッチを外しな」
 BJの言いたいことを理解したキリコは肩を竦めて立ち上がり、隣の女の希望をかなえてやった。換わるのではなくBJの左隣に移動すると、BJは更に不機嫌になる。
「おまえさんは本当に腹が立つ」
「どうして?」
「別に」
 ぷいとそっぽを向いてグラスを空けるBJにキリコは僅かに笑う。余裕のある男の笑い方を左肩に感じ、BJは心の中で「だって」と呟いていた。だって。だって──変わっていないから腹が立つ。あの時と同じ、私に、──わたしに自分がいい男だって知らしめようとするから腹が立つ。
 それでも少し変わったと、本当は分かっている。立ち居振る舞いや言動に、あの頃とは違う何かが見える。この男は多くの闇を見ているはずだ。それなのに今、自分に対する振る舞いがあまりにもスマートで、だから錯覚してしまうのだ。あの頃と変わっていないのだと。
 マスターが空いたグラスを指差し、次は、と問う。同じものをと言おうとして、急に林檎の香りを思い出して嫌になった。
「これは?」
 カウンターに並ぶ瓶の中、目の前にあった一本のデザインが気に入って指を差す。途端にキリコが「それは駄目だ」と言い、マスターも驚いた顔をしていた。
「駄目だよ、先生。女の子が飲むものじゃない。腰が抜ける」
 女の子、と言う言葉が癇に障った。嫌になった。思い出しそうな自分が嫌になるし、きっと思い出しもしない、思い出しても何も思わないこの男が嫌になる。
 そうだ、この男が思い出すはずがない。そう思った。──こいつが思い出すはずがない。あの時だってあんなにも女の扱いに慣れていて、きっとベトナムの後だって色んな女と──そう、とっくにわたしとの時間なんて忘れてるに決まってる。こいつが覚えてるベトナムのわたしは生意気な医学生、そんなことだけだろう。覚えてるはずがないんだ。ふたりだけの時間なんて。
「Toto prosim!」
 これを頂戴、と数センテンスしか知らないうちのひとつのチェコ語で強く言うと、マスターはなぜかキリコを見た。BJはそれにまた腹が立った。──何でこの男に許可を求めるんだ!
 文句を言おうと口を開きかけたその時、キリコが深く溜息をつき、マスターにBJよりよほど達者なチェコ語で何かを頼んだ。マスターは苦笑して頷き、瓶を持って一度カウンターの奥へ消えた。
 会話が分からないBJはキリコの肩を小突く。
「何なんだよ。ボトルが気に入って飲んでみるなんて誰でもやるだろう」
「あれはアブサンだ。そのままじゃ強すぎるから、飲みやすいようにしてやってくれって頼んだんだよ」
 流石にBJは自分の選択ミスを悟った。その酒の強さは知識としてよく知っている。だがキリコに知らない言語で勝手に話を決められたことが不愉快で、つい声を荒げてしまった。
「余計な世話だ!」
「腰が抜けた女性をバーに置いて行く趣味はない。自力で帰るんだ。他人に迷惑をかける飲み方をするものじゃない」
 病室で口論になりかけ、自分を諫めた時と同じ声だった。俺が正しい、それはおまえも分かるはずだ──そんな声だ。ぐっと言葉に詰まり、急激に羞恥心が湧いたのも病室のあの時と一緒だった。今日は二度も死神に諫められた。
 それが悔しいと思ったことは確かだ。だから強がって、言ってしまったのかもしれない。
「こんなツギハギ女、腰を抜かしたって誰も手を出すもんか。馬鹿にしやがって」
 初めてキリコが眉を顰めた。初めてだ、とBJはすぐに分かった。病室で顔を合わせた時から今この瞬間まで、キリコが一度も眉を顰めなかったのだと気付いた。
「変わってないな。可愛いって言わなくて正解だった」
 言葉に詰まる自分を認めたくなかった。だから唇を噛んで自分を誤魔化した。キリコがあの時間を覚えているのだという事実が胸を締め付けたことを認めたくなかった。キリコが覚えていないと思っていたのではなかった。
 覚えていて欲しくなかったのだ。
「ごめん」
 急に男が慌てた声を出した。どうしてそんな声を出すのだろうとBJが思う前にキリコは続けた。
「悪気で言ったんじゃない。でも言い方が悪かった」
 その声も慌てていて、死神の名がまるで嘘のようだった。BJは半ば唖然として何も言えない。だがそれも更に男を慌てさせたようで、キリコは額に手を当てて「だから」と呻くように言葉を探した。
「だから──可愛いって言ったら、そう、怖いって言ってただろう。だから我慢してたんだ」
 馬鹿にしてなんかいないよ、心配だったのは本当なんだし──キリコは必死と言ってもいいほど誠実に説明しようとした。これが死神なのかと誰かが見れば言っただろう。それほどまでに必死で、言われるBJが困ったほどだった。
 困った。変わってない。そう思ってしまうことに困った。今、死神は軍医のままだった。あの夜もこの男は必死で自分に謝った。
「だから、そんな顔をするのはやめてくれないか。悪かったよ」
 そんな顔ってどんな顔だろう──BJが思った時、マスターがグラスを置きながら片言の英語で言った。
「泣くのを我慢してる、偉いね」
 それで気付いた。言わないで欲しかったとマスターを筋違いに恨みもした。だがキリコに傷付けられて泣きそうな顔をしたわけではなかった。説明しようと言葉を探し始めたBJと困り果てたキリコの前で、マスターは手際よくアブサンを飲む用意をしてくれる。
 置いたグラスは上げ底で、ワイングラスのように長い、だがワイングラスよりは少し太い脚が付いていた。アブサン専用なんだ、変わった形だろうとマスターは言い、BJが頷くと嬉しそうに笑う。
 ポンタルリエグラスと呼ばれるそれに注がれた酒は緑色だった。どこか神秘的な風情を漂わせる色にBJは目を奪われる。その様子に隣で男が安堵の溜息をついたことには気付かなかった。
 男の溜息に気付いたマスターは口元に笑みを湛え、隣の女に拙い英語で簡単な説明を始めた。
「緑の妖精とも言うんだよ」
「ふうん」
「強すぎて禁酒になった。1981年、つい最近また飲めるようになった」
 マスターはグラスの上にスプーンを載せる。いくつも穴が開いていた。
「アブサンスプーン。角砂糖を載せるんだ」
 キリコが教えると、マスターは頷いて角砂糖を置く。これをどうするのとBJが片言のチェコ語で訊くと、マスターはにやりと笑ってマッチを擦り、角砂糖に火を点けた。
「お兄さん、後は知ってるね。ゆっくりね」
 キリコに言って小さなカラフェを置き、マスターはその場を離れる。
 炎に包まれた角砂糖がじわりじわりと溶けるさまを、BJはただ眺めていた。締め付けられた胸の痛みも溶けて行くような気がする。キリコも何も言わず、炎と溶け行く角砂糖に目を奪われるBJを眺めていた。
 やがて溶けた角砂糖がスプーンの穴を伝い、ぽとり、と落ちた。
「わあ」
 BJが出したその感嘆の声に、キリコが唸りそうになったことはキリコ以外の誰も知らない。可愛い声出しやがって、と内心で呟いたことも。
 緑色のアブサンに落ちた砂糖が波紋を広げ、同時に緑を孕んだ乳白に変えて行く。ぽとり、ぽとりと落ち続ける砂糖はまるで魔法のようにアブサンを染め上げて行った。
 角砂糖が泡立って溶け切りそうになった頃、キリコがカラフェの水を数滴、炎に垂らして消した。見惚れていたBJがはっとして我に帰り、キリコを見る。キリコは意識的に気取って微笑み、スプーンでグラスをかき混ぜた。
「どうぞ」
 BJはやや顔を赤らめて──酒に見惚れていた姿を見られたことが恥ずかしかったのだろうかとキリコは思った──頷き、グラスを手に取る。
 舐めるように唇を濡らす姿を見て、強い酒の飲み方は分かっていたようだ、とキリコは内心で安堵の息を吐いていた。度数が70度に近くなることもある酒だ。普通の酒のような飲み方をしてはそれこそ腰が抜ける。
「──美味しい」
 素直な言葉にキリコは自然と微笑む。女性の唇から零れる「美味しい」と言う言葉はすこぶる可愛く聴こえ、多くの男の聴覚を喜ばせるものだ。キリコも例外ではなかった。そしてあれだけ蓮っ葉な言動だったBJが素直に零した声は、いつかの日を思い出させてくれるような可愛らしい声だった。
「それなら良かった。くれぐれも少しずつ」
「うるさいんだよ。酒が不味くなる」
 あっという間に蓮っ葉に戻った声に、キリコは肩を竦めるしかなかった。
 BJはもう一度グラスを舐め、危なかった、と思った。危なかった。──危なかった。どうぞと言われた時、男の小洒落た微笑に見惚れていたなんてとんでもない失態だと思った。
 グラスから立ち上る洒落たハーブの香りに隠れた砂糖の甘味が飲みやすさを与えてくれる。だが数度唇を濡らしただけでこれは危険な酒だと知った。酒に弱いわけではないし、むしろ強いという自覚があるが、流石にこの酒をいつものように飲むことは避けるべきだ。腰が抜けると言う比喩は真実なのだろう。
 キリコのグラスも再び空き、気付いたマスターは当然のように同じアブサンを持って来た。同じと言っても砂糖もカラフェもなく、チェコスロバキア名物のボヘミアングラスに素っ気なく原液を注いだだけだった。キリコがチェコ語で何か言いながら苦笑し、マスターがおどけたようにそれに返事をして立ち去ってから、BJは強いアルコールで熱くなりかけた頬に指で触れながら言った。
「チェコ語もかなり喋れるのか」
「まだそこまでじゃない。こういう場所だと練習になるから下手でも話すだけだよ」
「ふうん。今のは?」
「どうして俺はストレートなんだって言ったら、男ならそれくらい飲んでみろよ、だとさ」
「こんなのをストレートで?」
「先生のだってほとんどストレートみたいなもんだけどね」
「他にはどんな飲み方があるんだ?」
「カクテルにしたり──」
 しばらく酒の話になった。BJから見たキリコは様々な酒を知っていて、豊かで洒落た食生活を送っているように思える。BJとてピノコを迎えてからは飛躍的に豊かになった分野だが、キリコは全く違う世界の住民のように思えた。
 だがすぐに、ああそうだ、と気付いた。
「──違うんだし」
「うん?」
 酔ったな、とBJは思った。強い酒の酔い方は深くなる。だから仕方ない。たとえ唇をほんの数度濡らしただけでも、きっとこの酒は人を簡単に酔わせる妖精の酒なのだから。それが言い訳だと自分でも分かっていたが、否定する必要もなかった。
「おまえさんと私は違う。隣で飲むなんて変な話だ」
「仕事が絡まなきゃ悪くない。と、俺は思うけどね」
「おまえさんでも、って言ったくせに」
「何だって?」
「いないよりましってことだろう」
「何、ちょっと待って。もう少し分かりやすく話すべきじゃないか」
「酔ってんのさ」
「ふうん」
 じゃあそう言うことにしておくよ。キリコは思った。BJが酒を飲む姿を見るのは初めてだが、まだ酔っていないということは明らかだ。だが彼女自身がそう言うのならそれで良かった。不意に思い出す。きみがそう言うならそうなんだろう。きみの中ではね。そんなことを言った記憶が蘇った。
「いいんだ。慣れてる。私でも女がいないよりましって言うならそりゃあありがたく思うべきなんだろうし」
 煙草に火を点ける蓮っ葉な女を──蓮っ葉を気取る女を横目で見てから、キリコはグラスで唇を濡らした。溜息を隠すためだった。変わっていない。そう思った。あの密林の夜、医学生だった彼女は容姿への劣等感を吐露した。神のような指で患者を救い、これだけ名を上げても、これだけ強い態度を貫けるようになっても、何も変わっていない彼女がここにいると思った。
「──ありがたいわけ?」
「まさか。でもそう思っておくべきなんだろうさ」
「いないよりましなんて、俺は言ってないけどね」
「おまえさんでも、って言ったくせに」
「女性と飲むと酒が美味い。そこに先生が来た。商売敵だ。でも俺は美味い酒が飲みたかった。だから誘った。他に理由はないよ」
「よく分からないね。違いすぎる」
「何が違う?」
「さあ? 私とおまえさんが? 生きる世界が? 少なくともそんな男、私の世界にはいないんだ」
 キリコは溜息を押し殺し、BJはキリコが溜息を押し殺したと感じた。キリコは緑色の酒でまた唇を濡らし、ああ、変わっていないのだとまた思った。詳しい事情は知らないし、あの夜、医学生だった彼女は語らなかった。だが男性への不信感だけは当時のキリコに深く印象付けた。
 変わっていないのだ。
「──じゃあ、俺が最初の男だ」
「はあ?」
「俺が初めて、そういう男として先生の世界にお邪魔したってことにしておけばいい。俺は先生と飲みたかった。それだけだ」
 BJは沈黙した。煙草の煙を燻らせ、手元の乳白緑のグラスをじっと見ている。やがて短くなった煙草を揉み消し、呟いた。
「やめろよ」
「何を」
「気分が悪くなるようなことを言うな。人殺しのくせに」
「酒の席で不毛な話はやめておくべきだと思わないか」
「人殺しのくせに」
「なあ、先生──」
「人殺しのくせに、私の世界に入ろうとするな」
 今度こそキリコは溜息をついたが、それは乱れかけた感情を鎮めるためだった。ここで怒っても仕方ない。話し合おうと思える事柄でもない。もうこの席を立っても良かった。彼女が自分を否定する以上、美味い酒はもう飲めない。
 だがその時、BJがグラスを一気に煽った。ちょっと待て、とキリコが言ってももう遅かった。強すぎる酒を一気に飲み干した女は立ち上がり、キリコを見て言った。
「ご馳走さん。他の女を探しな」
「ああ、そうするよ」
 言ってから後悔した。鎮め切れなかった感情が言葉を迸らせた。女を傷付けたと思った。だが目の前の女はふんと鼻で笑い、いつの間にか集まっていた衆目を蹴散らすように堂々と、羽織った黒いコートを翻して店を出て行った。
 キリコは再び溜息をつく。今度は深く、深くついた。目の前にある緑色の酒を見る。美味い酒であるはずなのに、自分のミスで不味いものにした。誰かが聞けばそうではない、あれは彼女が卑屈すぎたと言うかもしれない。それでもキリコは自分のミスだと断じた。
 ──俺は知っていたのに。
 BJが死神を嫌っていることなどよく知っていた。医学生だった彼女が自らの容姿に引け目を感じていることも知っていた。それが今も変わっていなかったことも知ったのに、その一端を見せつけられたばかりだったのに。
 ──馬鹿をやった。全く。
「800コルナ」
 不意にマスターが現れ、伝票を突き付けた。キリコが顔を上げると同時に肩を竦め、ゆっくりとしたチェコ語で言ってくれた。
「女を酒に誘ったなら、最後まで責任を持つのが男の義務だ」
 ごもっとも、と苦笑し、キリコは金を払って席を立った。また来いよと言った後、マスターは少し声を低くし、今度は英語で言った。
「二回も泣くのを我慢させるなんて、おまえは最低だ」
 返事もせず、キリコは足早に店を出た。馬鹿をやった。そう思いながら。
 二回も泣かせかけたのなら、他の女を探していい理由などどこにもなかった。