馬を急かすことはやめた。ずっと無理な走りをさせたことを詫びる。馬はそれから今まで以上に従順になった。物売りから買った蜜柑を食べさせると、馬の食餌としては滅多にない味に驚いたのか、草を食むよりも夢中で食べていた。その様子に少し心が和み、小十郎は馬の顔を撫でる。
あと半日も行けば上田城だ。政宗に命じられ、怒りに任せてここまで来たはいいが、今になってようやく、穏やかに訪問しなければならないと思い至る。無礼な訪問をすれば「奥州が甲斐に対して無礼を働いた」となるだろうし、何より吉自身が怒ることが予想できる。何しろ小十郎に居場所さえ知らせて来ていないのだから、今回は半ば以上本気で家を出ている。どんなことでも怒りの火種になるだろう。これ以上怒らせるのは得策ではないと分かっていた。
原因となった口論の内容を思い出すと、吉の単なる癇癪で片づけられないということも、本当は分かっていた。
小十郎には理解できない何かを、吉はおそらく、当たり前のように理解していた。
だからこその口論だった。
だが、と小十郎は思う。
──俺は片倉だ。片倉に嫁いだって言うなら、あいつは考えを変える義務がある。
いとしいだけではやっていけない。今はもう、そういう段階だ。
あの日、全ての荷を降ろした吉を連れ、夢か現かも分からなかった本能寺を出た瞬間から、全てが現実となって二人を取り囲んだ。
それまではただ、いとしいだけでやって来ていたような気がする。偶然で出会えば必死で手を伸ばし合い、心が変わっていないことに安堵し、すぐにまた別れなければならないことに怯え、周囲にもどれほど迷惑をかけたことか。あの頃は分からなかったことが、奥州で現実の中に生き始めた今、改めて分かる。
政宗にも酷く心配をかけていた。口に出すことは滅多になかったが、織田の動向を政治的な視点とは別の視点で気にしていたことも、小十郎はよく知っていた。
唯一無二の主君にそんな気遣いをさせることに悩み、一度は吉を諦めようとしたこともある。だがその時、政宗が癇癪のごとき感情の発露を見せ、宥めることもできなかった小十郎は、既に自分と妻だけの恋ではなくなっていたことを知ったのだ。
──……その話を、していなかったな。
吉にその話をしておけばよかったのかもしれない。落ち着いた今となれば分かる。
──なあ、お前。分かってくれよ。
政宗様は、お前が思っている以上に──素晴らしい方なんだ。
上田城に到着したのは夕刻だった。陽が傾き始めている。
城に近付くにつれ、鋭い視線で見られることが増えたが、声をかけてくる者も、道中を邪魔する者もなかった。俺が来ることは予想されていたんだろう、と考える。佐助を始めとする忍の仕事に改めて敵ながら感心する。奥州も見習いたいところだと素直に思った。
城の正門は閉ざされていた。何度か攻め込まれたことを考えれば順当な対応だ。小十郎は馬から降り、軽く服装を整え、ゆっくりと歩き出した。門番に取次ぎを頼まなければ。礼儀として、まずは幸村に挨拶をしよう。幸村は丁寧に念入りに、軽蔑した目で対応してくれるだろう。あの目に晒されるかと思うと今から胃が痛い。
門番の声をかけようとし、足を止めた。そこにいたのは門番ではなかった。
「猿飛」
「はあい、右目の旦那。俺様の予想より数刻遅かったかなっと」
佐助は悪びれずに笑ってみせる。相変わらず掴み所のない笑い方だ、と小十郎は思う。夢幻の本能寺で佐助が狂った姿を見ているゆえに、尚更にそれが分かった。
「まあ、用件は分かってるし。いちいち口上言っちゃう?」
「言った方がいいか」
「いいや、面倒だし。とりあえずうちの旦那でしょ?」
「そうだな」
吉の様子はどうだ、とはとても訊けない。警備の兵士の前で口にすることは憚られるし、何より、佐助の軽妙な話術で翻弄されるような気がした。男の矜持として耐えられる話題ではない。ただでさえ上田城では既に「嫁に逃げられた軍師」と思われていることは想像に難くないのだから。
「刀、預けてもらうよ。文句ないね?」
「ああ」
命に等しい刀を預けるのか、と謗る者は、時代を生きる者ではない。他の状況なら小十郎は怒り、抜刀も厭わなかっただろうが、今は城に入る敵国の人間として当然の要求をされているし、無礼ではなかった。どの国に行っても同じことを言われるはずだ。そして刀を預かった側は、いかな敵国とはいえ決して粗末に扱わず、どのような物別れに終わっても必ず本人に返す。それが戦う者、時代を生きる者の誇りだった。
「大事にするよ。安心して」
「そこは信用する」
「そこは、って、ねえ」
苦笑する佐助に刀を預ける。佐助は武士の誇りなど理解したくなかったが、幸村が最も望む対応であることが分かっていたので、手にした刀を貴重な宝のように扱う。
「で、右目の旦那には、ここからこれ持ってもらうから」
「え?」
佐助の合図と共に、警備の兵士がやって来る。彼から渡されたものを眺め、小十郎は首を傾げつつ、──果てしなく嫌な予感がした。
「猿飛」
「はあい」
「これは何だ」
「やっだなー、右目の旦那ったら。いつも真剣だからそんなの忘れちゃった?」
「茶化すな」
低くなった声に不機嫌を感じ、佐助はにやりと笑う。小十郎の取り澄ました顔よりも、刃を交えた中で幾度か目にしたことのある、激しい感情を垣間見せた顔が好きだった。
「木刀だよ。見れば分かるでしょ?」
「ものは分かる。渡された意味が分からねえ」
佐助は今度はにっこりと笑った。人を食う笑い方だ。小十郎は更に不機嫌になった。嫌な予感が当たるような気がして来た。
「まあ、開門すれば分かるから」
「猿飛」
「はあい」
「人死にが出ても、文句は言うな。仕掛けたのはお前たちだ」
「流石は右目の旦那」
勘がいいねえ、と言いながら、僅かに風を起こす。忍術の発露だと小十郎は看破したが、敢えて引き止めなかった。
「あんたの奥さんが言ってたよ」
「きつが?」
「うん」
佐助の声は楽しそうだ。
「旦那様ならひとりも殺さずお見事にお先におゆきあそばしましょ、だってさ」
「な」
「じゃ、歓迎の宴、楽しんでね!」
二の句が繋げない小十郎を見て笑いながら、佐助の姿は風と共に消えた。
同時に正門が開く。
「とても歓迎されてるたぁ思えねえぞ!」
小十郎は消えた佐助が聞いていると確信し、木刀を構え、叫んだ。
どこかで聞こえる佐助の笑い声を聞きながら、正門から雪崩れ出て来た上田城の兵士たちの間に自ら突っ込み、目にも見えぬ速さでまずは一人を叩き倒した。自分から攻撃しなければ身動きが取れなくなると分かったからだ。
「──猿飛! 木刀じゃ事故で死ぬんだ! 分かってんだろうが!」
「うちのみんなも木刀とか模擬槍だから! 大丈夫、大丈夫!」
「そういう問題じゃねえ!」
「だからぁ」
いつの間にか正門の上に腰掛けた佐助は涼しい顔だ。男たちの声と砂埃、そして小十郎の見事な剣技を特等席で楽しむ。
「頑張ってねー、ってこと!」
「お前、殺すぞ!」
小十郎は本気で怒りながらも一人、また一人と叩き倒して行く。殺していない上に、後遺症が残るような怪我もさせていない。ただ動く気力を奪うような倒し方をしている。これには佐助も舌を巻いた。
──……こりゃ、姐さんも大丈夫って言うはずだけど。
それよりも、幸村の言葉を思い出した。
──木刀でよかろう。大丈夫、大丈夫。
竹刀の方がいいんじゃないの、と言った佐助に、幸村はけろりとそう答えたのだ。佐助は承諾したものの、実際に一人でも人死にが出れば大変な問題になることを危惧していた。
「どうやら」
いつの間にか、正門の前は痛みに耐え伏す男たちで埋まっている。完全なる戦意喪失は一目で分かった。佐助は思わず拍手した。
「旦那が正しかったみたい。さーすが」
それから控えていた配下たちに、負傷兵の手当てを命じた。重篤なのはいないよ、と言い添えて。
そんな佐助を門の下からぎろりと睨み上げた小十郎は、木刀を鋭く佐助に向ける。
「猿飛」
「はあい」
「奥州に帰ったら折檻だと伝えておけ」
妻に対する本気の怒りを見た佐助は流石に驚く。
佐助が咄嗟に返事を出来ないその隙に、小十郎は堂々と正門をくぐったのだった。
「正門、突破されました! 重傷者、死者、いずれもありません!」
報告を受けた幸村は唸る。正門にはそれなりに手練れを揃えておいたのだが、予想よりも早く突破された。
「いや、流石は右目殿。木刀でもお見事な」
嘆息を漏らし、脇息にもたれて座っている主君と、その隣で扇子をいじっている吉を振り返った。
「それがしの予想より、少々早うございました。不覚でございます」
「ま、誤差の範囲内じゃ。気にするでない」
そう言う主君の隣で、吉が幸村ににっこりと微笑む。信玄と同じく、という意味だった。解した幸村はほっとする。この二人に見守られながらの指揮は、心底緊張することだった。
部下たちの手前、安堵を隠しながら幸村は声を張り上げた。
「第二陣、ゆきませい! 全力にて! 手加減なぞしようものならこちらがやられるぞ!」
襲い掛かった兵たちは「特別手当が出なけりゃこんなこと」と内心で思いつつ、致命傷ではないとはいえ、打撲の痛みに呻く。
正門から堂々とやって来た男は、木刀を片手にぶら下げて歩いていた。その姿に拍子抜けしつつも襲い掛かった次の瞬間、誰もがただ一撃ずつの下に倒されたのだ。
戦場で顔を見たこともある。佐助と対等に刃を交わしていた姿も知られている。だがそれは常に経験と鍛錬を感じさせる見事な剣術で、かの信玄ですら唸っていたものだ。
それが今は──
「おらあ!」
「ぎゃっ!」
木刀で風を切る音がやたらと重い。そして気合いの声もやたらと柄が悪い。機嫌が悪いことは明白で、まるで悪鬼にも見える。幸村から「絶対死なない」とお墨付きをもらっていても、近寄ることすら恐ろしかった。
「おい」
木刀で自らの肩を叩きつつ、小十郎は言った。
「どけ」
目で殺されそうだ──兵たちは口にはしなかったものの、一様に怯えていた。
「粉になるまで殴られてェか。あァ?」
今少し時代が進めば、この姿を見た誰かが言っただろう。
ヤクザ、と。
「アレ、ま」
第二陣が散々に脅されて撤退した、という報告を聞いていた吉が声を漏らした。信玄はちらりと吉を見る。
「お主の夫、だいぶんと機嫌が悪いようではないか」
「まァ、それなりにお疲れであらしゃろうし」
そういう話なのかなあ──幸村に報告をした佐助は内心で溜息をつく。幸村も「うーん」と言う顔をしていた。
「佐助」
「はあい、旦那」
「第三陣は退かせろ」
「え?」
信玄と吉も幸村を窺い見る。気付かず、幸村は続けた。
「──右目殿は水路が回復した上田城を御存知ない。以前に押し入った時と同じ道を取るしかないだろう」
吉が扇子を僅かに動かす。根付がしゃらりと鳴った。
「水で行く手を阻まれ、騎馬隊が待つ陣へ入るしかない。そこに第三陣を合流させておくのだ」
「ああ、分かったよ。行って来る」
佐助が身軽に姿を消し、幸村は息を吐く。騎馬隊にもよくよく言い含めてあるが、小十郎に怪我がないことを祈るばかりだった。さすがに馬上の人間と木刀一本で渡り合うのは、かの片倉小十郎でも難儀を極めると思ったからだ。
吉は信玄をちらりと見る。信玄は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、吉の視線に気付くと、幸村には分からないように溜息をついたのだった。
二人は同時に思っていた。
確かに馬上の人間と木刀一本で渡り合う、それは難儀を極めるどころか、圧倒的に分が悪い。戦場に騎馬が現れた時、戦術の歴史が変わったと言われるほどだ。だからこそ騎馬隊がある国は力を入れ、歩兵同士では勝利を手に入れられぬと思った時に投入する。それほどまでに騎馬は強い。
信玄は思った。
──もし。いや、おそらく、高確率で。
吉も思った。
──まァ、確実に。
そして同時に呟いていた。
「奪うだろうな」
「お獲りあそばすわえ」
「御二方、何かおっしゃいましたか」
騎馬隊に手心を加えるように伝令を出すか否かを悩んでいた幸村は二人を振り返る。
二人は同時に微笑み、いや何も、なんも、とそれぞれに答えたのだった。
「何なんだ!」
騎馬隊に相応しいとは到底思えぬ悲鳴が上がる。
「あいつ、頭おかしいんじゃねえか!」
「人間が対抗できる域を超えてるって!」
彼らの悲鳴はもっともだった。誰が考えるだろうか。──薙倒した歩兵を跳躍台のように踏み付けて飛び、馬上の兵を宙から蹴り落とし、馬を奪うなどと。
こうなれば曲がりなりにも奥州騎馬隊、遜色がないどころではない。悲鳴と怒号、幸村様にお知らせしろという声の中、神業のような片手の手綱捌きで馬を操り、次々と騎馬兵に木刀を打ち込んで行く。片手で振り下ろしているとは思えぬ衝撃に、騎馬兵は武器を取り落とし、傾いで馬から落ちる始末だった。
──戦場じゃねえ。あの時と道も違う。
怒り心頭ではあるが、どこかで冷静な面が小十郎の中で顔を出す。
──道が違うし、何より、戦場じゃねえ。鬱陶しい鉄砲も飛んで来ねえ。だったら──
「お前らんとこの馬なんざ、巧く言うこと聞かせられねえぞ! 踏み殺されたくなかったら退け!」
卓越した馬術を見せつけながらもそう叫ぶ。
──こいつら全員、殴り倒してやる。
信玄と幸村の、過ぎた悪戯であることは分かっていた。だが苦笑いしてやり過ごすには余りのことだ。それが自分の妻のためだということも気に入らない。
腹が立って仕方ない。その鬱憤を木刀に込めたことは確かだった。木刀でよかった、とようやく思う。真剣だったら殺していただろう。木刀が危険だと知っているからこそ、理性を保って振るうことができるのだ。
「第三と四、退け!」
遠くから佐助の声が聞こえた。忌々しい声だ、と小十郎は思う。佐助の声は尚も響いた。
「きぐるいに刃物、竜の右目に騎馬だ! やばいからさっさと退いちゃって!」
不意に何かが弾けるような音がし、周囲があっという間に煙に包まれる。煙玉だ、と小十郎はすぐに知ったが、煙に慌てふためく馬を宥めるために暫し時間を食う。巧く言うことを聞かせられないと言った言葉が嘘のように見事に宥めたが、煙が晴れた時には周囲に誰もいなかった。
「第三だの四だの、随分手が込んでんじゃねえか」
──殴り倒してやる。
強い男に跨られ、すっかり従順になった赤い鞍の馬は、横腹を蹴られて高く嘶いた。
馬を奪った右目の傍若無人、鬼人振りを聞いた幸村は唖然とする。騎馬隊が馬を奪われたことにも驚いていたが、何より、小十郎の尋常ではない強さに感嘆するしかなかった。竜の右目の突出した強さは分かっていたつもりだったが──
「……それがし、まだまだ未熟でございました」
明らかに肩を落とし、幸村は呟いた。
「どうした、幸村」
「お館様」
幸村は主君と吉の前に居住まいを正す。
「それがし、右目殿を侮っていたつもりは決してございませぬ。きつ様にもお分かり頂ければと」
吉は肩を竦め、笑ってみせた。そんなこと分かってる、というように。だから幸村は安心した。吉がどれほど小十郎を慕っているか知っているからこそ、伝えておきたかった。
「ですが、まさか。これほどとは思ってもおりませんでした」
騎馬を奪った小十郎はもはや誰も止められず、それでも死者や重傷者を出すことなく、果敢にも立ち向かう兵たちを行動不能にしていると言う。既に二の丸を突破し、上田城の最後の砦とも言える中門に到達するのも時間の問題だった。報告に来た佐助はすっかり呆れ顔だった。俺様とは違った意味できぐるいだよ、と。
「奥州が軍師、まさに伊達ではあられず。こちらも普段とは勝手と武器が違うゆえ、これ以上の手は取れませぬ。下手に我が軍に檄を飛ばし、戦意を上げては、右目殿に決死の覚悟で一矢報おうとする者が出ないとは限りませぬゆえ」
これ以上は小十郎の前に兵を出せない、と幸村は判断した。予定では中門までに人海戦術で足止めをし、体力切れを狙うはずだったのだ。
「ふむ」
信玄が唸り、ぐいと湯呑みを傾ける。だいぶ前に淹れられたそれはすっかりぬるくなっていた。
「幸村」
「はい」
「ワシが指示するぞ。良いな」
「……はい」
傍から見ても気の毒なほど、幸村はしゅんと俯いた。自城で、主君の信玄に実権を譲り渡すことになったのだ。実際の戦ではなくとも、これは将たる者には屈辱だった。
同時に気付く。ああ、驕っていた、と。
──数で勝っていたからと、右目殿が突破出来ぬと驕っていた。
常に制しているはずのことなのに、いざ戦となれば、模擬戦でも熱くなって驕る自分に気付いた。
「ゆき」
「あ、はい」
吉に呼ばれ、はっとして顔を上げる。吉は穏やかな表情だったが、どこか幸村に対して申し訳なさそうな色を浮かべていた。
「旦那様のお仕業で、いやあな目に。許してたもとは申せねど、わらわが代わりに謝るゆえ」
「いいえ、──いいえ、何をおっしゃいますか! きつ様に御謝罪頂くことなど何がございましょうか!」
幸村は飛び上がらんばかりに驚いた。吉が謝ることなど何もないと、心底思っていた。信玄も幸村に同調するように頷いている。
「そも、──きつ様の御前で申し上げるのは憚られますが、幸村、敢えて御無礼仕ります。全ては右目殿の──」
何も知らぬ者なら言うだろう。
奥さんが悪いんじゃないか。旦那さんは何も悪くない。
夫婦喧嘩で飛び出した奥さんが短気だったんだろう。
考えを変えなきゃいけないのは奥さんじゃないか。
「全ては、右目殿の責でございましょう」
幸村は何も知らぬ者ではなかった。
吉が我儘を言ったからではないと、吉が結婚前の身分を忘れられぬからではないと、最初から知っていた。
「幸村、お話を伺った時、右目殿の主君たる政宗殿に飛び蹴りを食らわせてやりとうなった程にござりまする!」
あまりの言い草に吉はつい声を上げて笑う。信玄も笑った。幸村は二人が笑ったことが嬉しくて、笑う。だがすぐにその笑みを消した。
「本日はそれがし、大層な勉強の機を頂戴いたしました。お館様ときつ様に、心より御礼申し上げます」
信玄と吉は同時に微笑む。幸村の言には一片の偽りも、曇りもなかった。それが二人を何よりも安堵させた。驕らぬ少年の、何と眩しいことか、と。
勉強にしちゃ手がかかりすぎてるけどねえ、と佐助は思っていたが、口にはしない。信玄の指示を待つことにした。
やがて信玄は言った。
それこそもう、「ちょっと茶を淹れ直して来い」と言う程度の口調で。
「中門、開け。本丸の陣までさっさと入れてしまえ」
これには幸村と佐助もぽかんと口を開ける。本丸、つまりは最後の陣、総大将のいるべき場所だ。確かに中門を突破された場合はそこで幸村が待ち受ける予定だったが、それを無抵抗で開けとは──
信玄はちらりと吉を見る。
吉もちらりと見る。
目と目で僅かに会話をした後、吉がゆっくりと動いた。
中門に到達した時、法螺貝の音が響いた。陽がすっかり暮れている。城のあちこちに灯された篝火の中、中門を守っていたはずの兵たちが一斉に退いた。
──何だ?
篝火を直視しないように気をつけながら、馬上の小十郎は周囲を見回す。罠のにおいはしない。戦場で磨き抜かれた本能が「何もない」と告げていた。
辺りは驚くほど静まり返っている。篝火の枝が爆ぜる音と馬の息遣いだけが聞こえた。図らずも、それは小十郎の昂ぶった神経を宥めて行く。
中門を突破するか否か。小十郎は迷った。
今の今まで、頭に血が上ったままここまで突っ切って来たことは事実だ。だがそれは城主の幸村自身が作戦を練った上での道筋だった。
目の前の中門は今までの道筋とは違う、重要な意味を持っている。少し狡猾な国の重鎮ならば──小十郎は思う。
──そう、俺なら。中門を突破されたら、例え「今」は不問に処すとしても、後々で問題にして騒ぎ立て、自国に有利な条件を引き出す材料にする。
迂闊には動けない。ここで留まり、吉との根競べをするべきか、とまで考え出した。どうせ吉は自分の動向を知っているはずだ。信玄や幸村が吉に教えていないとは思えなかった。
「本当に」
溜息をつく。
「強情な女だ」
強情な女だ。でも──そこまで思った時だった。
軋んだ音が響き始める。
暫くその音を聞いていたが、やがて、小十郎はゆっくりと馬を下りた。
強情な女だ。
でも、それでも──
「開門!」
幸村の声だった。少年の澄んだ声は凛々しく、清々しく、篝火とその奥にある夜闇に響き渡った。
「片倉小十郎殿、最後の関門、見事突破なされてみよ!」
中門が開き始めた。
徐々に、本丸の姿が現れる。
見るのは二度目だった。
幻の織田軍が上田城を攻め、幸村が魔王に連れ去られ、機に乗じて奥州が攻め込んで以来だ。
俺たちは──あれからそれほど月日は経っていないというのに、俺たちは。
俺とあいつは。
ああ。
強情な女だ。
中門が完全に開き、本丸を全て小十郎の前に現した。
思わず小十郎は苦笑していた。
馬鹿のように口を開けるよりは苦笑いした方がましさ、と自分で思った。
強情な女だ。
でも、それでも。
「……それでも、俺たちは」
何を考えているものやら──信玄に問いたかった。これは幸村の趣味でも提案でもないだろう、と予想したからだ。
「誓っただろう」
篝火の下、舞の舞台に立つ、紅い色の打掛を纏った妻と。
話したいことが、話して欲しいことが、話すべきことが、きっと山のようにある。
強情な女だ。
それでも俺は。
俺とお前は。
誓っただろう。
「死ぬまで、夫婦だ」
だから話そう。
話を聞いてくれ。
話を聞かせてくれ。
二度と、手を離す日を迎えぬために。