信玄が駆け付けたのはほどなくしてのことだった。幸村からの報せの文を見、大笑いをした後、病の予後の欠片も窺わせずに馬を飛ばし、上田城に到着する。
「お館様、何と、御直々に!」
幸村は主の滅多にない直々の訪いに驚きながらも、全身で喜びを表現し、やかましいと主に拳骨を落とされて笑っていた。吉は薄い笑いを湛えながらその二人を見ている。信玄と幸村がいる以上は同席が許される佐助は、三人を見ながらも、二重の歓待の準備に追われる城内の空気に「やれやれ」と溜息をついていた。
「きぐるい女、久し振りな気もするが、そう久しくもないか」
「奥州に参る折、挨拶に参ってやったではないの。もうお忘れかえ。先々が恐ろしゅうてたまらぬわ」
「相も変わらず、黙っておれば天女の如く、口を開けば蓮っ葉よ」
「アレ、忌々し」
いつものことだが、幸村は不思議な胸中で二人の会話を聞く。歴史に残るであろう駆け引きを繰り広げたはずの二人には、幸村や他の者には分からない、どこかあたたかい空気があった。それでも二人が話をしている姿を見ることは好きだった。二人がどことなく嬉しそうだからだ。
「先触れもなく参ったそうだな。伏していたと聞いておったのだが?」
「ゆきを使いに結婚祝いを頂戴した折には、もう──あァ、そうであった」
不意に吉が居住まいを正し、信玄に深々と頭を下げる。幸村のみならず、佐助も驚く姿だった。つい二人で顔を見合わせ、驚きを共有する。
「甲斐が守護代、武田信玄公にご機嫌よう」
幸村はてっきり信玄も呆気に取られるのではないかと予想した。だが主は全く違う態度を取った。頭を下げる吉を暫し眺めた後、僅かに口元に笑みを湛える。
幸村とて見たことがないほど、何かを慈しむ笑みだった。
だがすぐにその笑みは消え、尊大、そして威厳を見せる顔になり、居住まいを正す。
「道中長かったであろう。遥々よう参った」
「かたじけなかり。御中ご披露、過日、まこと有難きくだされものに心より御礼申し上げますれば」
ああ、と幸村は思い至る。吉は信玄の命で幸村が届けた結婚祝いの礼を述べているのだ。
吉の声は柔らかい。幸村はそれを雅楽のようだと思った。目の前で信玄に頭を下げている女は間違いなく、あの気位の高い、天下を手にした織田上総介信長であるはずなのに、幸村にはなぜかそう見えなかった。主の表情に気付いたからかもしれない。
確かに信玄の姿はいつも通り、幸村が何よりも好きな、威厳ある姿だ。だがその表情は──いつもの厳しい顔であるとはいえど、確かに違う、と幸村は感じる。
なるほどね──佐助は溜息と苦笑を隠す。幸村には分からないその何かを、佐助は的確に言葉にすることができた。
──娘、みたいな。って、思ってるんだな。本当に。あれだけ梃子摺った「魔王」じゃなくて、今は──俺様には理解できないけど、ね。
「礼に及ばぬ」
穏やかに、本当に穏やかに信玄は言う。
「お主はワシに約定を果たした。なればワシも果たすが道理、それだけのことよ」
約定という言葉を理解できたのは吉だけだった。それでも幸村は知る。
──お二方には、お二方だけの御約束があった。きっと、虎と魔王ではなく──
信玄と吉という二人の人間の間にあった何かの約束を、幸村は感じた。それを知りたいと思う。だがゆっくりと顔を上げた吉の口元に浮かんだ笑みが、初めて見る笑い方だと気付いた瞬間、これは二人だけにしか分からない、誰も踏み入ってはいけない話なのだろう、と知った。
「いやはや」
信玄が声を上げて笑った。
吉の笑みはまるで──
「久々に見たな。その、笑い方」
まるで若い娘が父に向ける、感謝の笑い方だった。信玄は満面の笑みを吉に向ける。過去、魔王と甲斐の虎として対峙した日々にはない笑みだった。
「息災か。よう来た、よう来た、娘っ子」
「信玄坊主も予後にお障りない御様子で何より、なァ」
娘っ子、と呼ぶ主と、呼ばれた女が嬉しそうで、幸村は様々な感情に襲われる。まだ若すぎる、ともすれば幼い幸村の中にある言葉ではまだ説明のできない感情だった。ただ、哀しい、嬉しい、懐かしい、その他にも様々な、あらゆる感情が胸の中に生まれては広がって行く。
「お館様、きつ様」
だから二人に礼をした。
「それがし、城の者どもがご歓待の膳を整えているか見て参ります。御前失礼仕りまする」
幸村にしてはおとなしく立ち上がり、佐助を促して部屋を出る。促された佐助は従ったが、部屋を出る直前、ちらりと信玄と吉に目をやった。そして、ああ、と思う。
──ああ。俺様には、理解できないなあ。
「旦那」
先を歩く幸村の背を追い、声をかけた。幸村は返事をしなかった。
「あの二人の気持ちはあの二人だけのもんだからね。旦那が泣くこたぁないんだよ」
泣いておらぬ。振り返らないまま答えた幸村の声は小さかった。
だから俺様は旦那が好きなんだ、と佐助は心の中で呟いた。
──武将としては良いことは分からないけれど。
「旦那」
──他の奴らの色んな感情を拾って、理解できなくても共感できる、心に添えるあんたが。
「俺様の極秘調査によると、姐さんは湯葉も嫌いじゃないらしいよ?」
「そうなのか?」
──あんたが、好きなんだよなあ。遠くへ行っちゃっても、さ。
「生湯葉なんてどう? 出汁醤油と一緒に出せば喜ぶんじゃない?」
「そうだな、そうしよう。佐助、良いことを教えてくれた!」
振り返って笑った幸村の目が少しだけ赤かったことに気付かぬ振りをして、「だろ?」と佐助は得意げな顔をしてみせた。
「そういえば」
料理の追加を伝えるために佐助が去った後、幸村はふと呟く。
「きつ様、なぜ、突然こちらにいらしたのだろう」
佐助がいれば「最初に考えるべきでしょ!」と言われそうだったが、吉に会えたことがただただ嬉しかった幸村は、ようやくその疑問に思い至ったのだった。
上田城総出、大慌てで準備した膳は吉を大いに喜ばせた。久々に上田城で食事をする信玄も満足の態だ。幸村はそれが嬉しく、吉に話を聞くのは後でいい、と思った。何よりも、主と吉がかつて見たことがないほど親しげに、何の壁も駆け引きもなく会話をしているのが分かる。
信玄が言った冗談に吉が声を上げて笑う姿を見ることなど初めてだった。酒の入った信玄も気分が高揚しているのか、普段よりも笑っている。今はお邪魔すまい、と幸村は決め、二人の会話を聞いては笑い、問いかけに答えて笑われ、しかしそれが自分も楽しくてならない。流石に佐助は同席していなかったが、部屋の外で会話を耳にし、吉が本当に何の企みもなくここにいるのだと納得した。
「ところでな、娘っ子」
「ん」
「大事なことを訊くのを忘れておったわ。なにゆえ上田城に参った」
「アレ、ま」
食後に茶と共に供された唐菓子を手に、吉は「そういえば」と言う顔をする。
「まだ申しておらなんだ」
「迅速を旨とするお主とは思えなんだな」
「昔の話」
涼しい顔で言い、吉は唐菓子を口に放り込む。ゆっくりと噛み砕いて飲み込んでから、肩を竦めて言った。
「旦那様のこと」
「ほ。奥州へ嫁いで僅かひとつきではないか」
言葉ほど信玄は驚いていない。幸村は不思議に思い、吉は肩を竦めて脇息にもたれた。
「おもなし、おもなし」
「面白くないと申すか。奥州が?」
「ん。──ん」
一度は頷いたものの、吉は「違う」という顔をした。信玄は敢えて促さず、話の続きを待つ。やがて吉は口を開いた。
「猫」
「猫?」
「あ、佐助でございますか。御用あれば召しましょう」
幸村の言葉に、吉は「ん」と答えた。信玄は知らなかったが、吉は佐助を「猫」と呼ぶことが多い。幸村にも理由は分からなかったが、一度佐助に訊いた時、不本意そうな顔をして話を逸らされたため、今でも分からないままだった。
「はぁい、お召しで。夜伽だけは勘弁よ?」
「佐助!」
たちまち幸村が真っ赤になって叱責するが、佐助は涼しい顔だった。吉は呆れたように息を吐き、信玄は苦笑する。日の本広しと言えど、吉にこんな口をきけるのは佐助だけだろう。
「いや、出雲のあれもか」
信玄が呟くと、吉がちらりと視線を送った。
「晴久がどうしたのだえ」
「斯様な口をお主に利けるのは、な」
「晴久は申さぬ。──ゆき、暫し──……あァ、やはり、ええと……」
何かを言いよどむ吉の姿が珍しく、幸村は首を傾げる。すると信玄が言った。
「幸村、暫し外せ。後ほど佐助が呼びに参る」
「──かしこまりてございます」
佐助を残して退出しろ、と命じられるとは思ってもみなかった。だが、これは吉の意思なのだろうと幸村は咄嗟に理解した。本来であれば城主の幸村が、たとえ元は魔王とはいえ、現在は幸村よりも身分の低い男の妻である吉に申し付けられることではない。だからこそ信玄が代わりに言ったのだ。
二人に礼をし、幸村は部屋を出る。
「不思議な」
声に出すことはそこでやめた。
不思議な気分だ、と思った。吉が身分を厳密に気にしたということが不思議だった。魔王であった頃から奔放な考えを持ち、身分を気にせず、能力のある者や個性ある者を取り立てていた女だ。
それが今はどうだ。
──……俺が、右目殿よりも上の身分だからと。お気遣い下さったのだ。
夫を立てる普通の女性だ、と思った。それが嫌だとは思わなかった。天女はある意味、憧れだった。魔王は畏怖の対象だった。その女が今、想い続けた男と夫婦となって暮らせているのなら、幸村にとっては嬉しいことだ。
嬉しいことのはずなのだ。
「……よろしくないな」
佐助が見れば「可愛い顔しちゃって」と心底言いたくなるような顔で頬を膨らませる。
「よろしくない、よろしくない。俺が思うことではない」
──右目殿め、などと。俺が思ってはならぬ。
幸村が再び部屋に呼ばれたのはほどなくしてだった。話はそれほど長くなかったようだ。
「お館様ときつ様と、何を話したのだ」
「んー、変なこと訊かれたよ」
「何を?」
「旦那のために死ねるのか、だってさ」
「それは」
幸村は肩を怒らせる。訊いたのは自分だが、嬉しい話ではなかった。
「俺のために死んで欲しくなどないし、そんな心持ちなれば許さぬと、以前申したではないか」
「そうそう、そうなのよね。だから俺様もそう答えたんだよね。旦那が死んで欲しくないみたいだから、旦那のためになんか死なないよって」
「そうか」
あからさまに安堵した幸村に、佐助はにこりと笑ってみせた。そしてそれきり、その話はやめる。本当は続きがあった。
──俺が死ぬも生きるも、旦那が決めるんだ、って、言ったよ。
それを聞いた吉が、佐助には珍しく──恐らく初めて、心から褒め称えるような笑い方をしたことも、信玄が嬉しそうに頷いたということも、幸村には言わないでおいた。
部屋に戻った幸村は、ようやく吉が上田城に来た理由を聞くことができた。話をしたのは意外にも信玄で、吉はたまに補足程度に口を挟むだけだ。いつものきつ様ならご自分でお話しなさるのに──そう感じたが、すぐに分かった。
──嫁に出した娘御が事情あって帰って来れば、家臣に説明するのは御父上であろう。
「それにしても、娘っ子。ここはお主の実家ではないぞ」
「父と思えとおっしゃったは信玄坊主であろ」
「懐かしいことよ。あの小娘がいざ嫁に出ればこのていたらく」
様々なことを思い出し、信玄は豪快に笑う。吉は怒った振りをした後に一緒になって笑った。幸村には分からない話だった。それはどういうお話なのですか、と訊けば、きっと二人は答えてくれる。本当に知られたくない話なら、幸村の前ではおくびにも出さないはずだからだ。
だが今はいい。幸村はそう思った。まだ訊かなくていい。今、主君と客人は、二人だけに分かる過去の話を懐かしんでいる。それは戦乱の最中では持つことができなかったはずの、二人だけの貴重な時間なのだ。
「そのようなご事情がおありなら、どうぞ上田の城にご滞在下さい。足らぬものもございましょうが、それがし、出来得る限り努力いたしますゆえ」
戦乱は終わってはいない。いまだ混乱の只中だ。西も東も、自分も──政宗も、日の本という場所で、それぞれに人生を捧げて生きていく時代。
「これから」
主君は時代から降りたわけではない。これからも幸村は主君と、そして佐助と共にある。
だが、月と添うことを選んだ女は、自分たちとは全く違う道を歩む。
平和とは言い難い人生だろう。何しろ右目の妻となったのだ。戦乱の時代から降りたのはあくまで魔王、吉自身は時代の只中にいる夫と共にあることを選んだ。
──それでも、今までよりは。今までがご不幸とは、きっと思われておられないとしても。
「これから、様々なお話をお聞かせ頂ければと思いまする。──お越しいただきまして」
──お好きなことだけを、お話し下されば。おやり頂ければ。
「それがし、大層嬉しゅうござりまする」
言いたい言葉の全てを察したかのように、信玄と吉が微笑んだ。
上田城には信玄も滞在することになった。これには幸村も驚き、しかし嬉しくてならない。もてなしに念を入れるよう、城中に言い付け、自分もまた奔走した。
それとなく幸村は吉に手紙がないかを気にしていたが、小十郎からの手紙は一切ないようだった。吉が書いた手紙も一通のみ、幸村が会ったことのない、出雲の国主へのものだけだった。しかしすぐさま吉の滞在費として出雲から銀が届けられ、一人の女の滞在費としては過分すぎる価値に驚くどころではなかった。慌てて信玄に報告したが、信玄は「もらっておけ」と言い、幸村ではなく自分が出雲へ返書をしたためた。これは幸村と晴久の身分差を慮ったのだ。
「それにしても、右目殿は手紙のひとつもきつ様に寄越さないのか」
数日経っても何の音沙汰もないことに、幸村はやや苛立つ。佐助が苦笑した。
「そりゃあねえ、右目の旦那は分かりやすい『男』だもん。夫婦喧嘩で家を飛び出した奥さんに手紙を書くなんて女々しいと思ってるんじゃない? っていうか姐さんが右目の旦那に手紙書いてないってことは、居場所も知らないんじゃないの?」
「それで良いと思っているのか!」
「いや、俺様に言われても。俺様は右目の旦那じゃないし」
それもそうだ、と幸村は自らの未熟を恥じ、やや赤くなって咳払いをした。
「しかし、納得ゆかぬ。右目殿はきつ様が折れるはずがないとなぜ分からぬのか」
「……いやー、俺様の情報収集によると、右目の旦那に対してはかーなーり従順らしいよ?」
「そうかも知れぬが、今回は違う。今回ばかりはきつ様が折れられてはならぬし、きつ様もそうお思いのはず」
「えー?」
「と、俺は思う」
佐助は意味が分からず首を傾げ、幸村に説明を求めたが、幸村としてもどう説明していいのか分からない。少年にとって簡単に理解できることではあっても、他人に説明するにはまだ内側に持つ言葉が少なかった。
信玄には政務もある。幸村も同様だ。吉が暇を持て余すのではないかと二人は危惧したが、早速手懐けた女の使用人数人と、古い物語の話をしたり歌を詠んだりと、それなりに楽しんでいる姿を知って安堵する。手が空いた時は幸村が吉を訪ね、共に城下街へ降りることもあった。一度は信玄が共に降り、領民を驚かせたものだ。
夜は共に食事を取り、遅くまで会話を楽しめることもまた嬉しかった。吉は政治の話を全くしない。信玄も吉の前ではしない。そういうことなのだ、と幸村は理解し、自分もそうした。
だが不満がないわけではなかった。不満と言うよりは自分の勝手だと分かっている。
吉が自分に要らぬ気を使っている、と思う瞬間が何よりも不満だった。
「お館様」
「何じゃ」
「きつ様のことなのですが」
「うむ」
「──それがしに、ご不要なお気を使われておられるような気がするのです」
信玄は政務の手を止め、幸村を見る。幸村が尚も言葉を続けようとした瞬間、あの豪快な笑い声を上げた。笑われた理由が分からず、幸村はぽかんとする。その顔が面白く、信玄はますます笑った。
「気付いたか、そうか、そうか。成長したではないか」
「何をおっしゃいますか!」
「いや、あれはな。確かにな。仕方あるまい。世の倣いよ」
「それがしが何を申し上げたいのか、お分かりであられるのですか!」
「分かるわ。娘っ子が昔ほど、お主に高飛車に物を申し付けぬのが不満なのであろう。それが寂しいのであろう」
「寂しいなどと!」
思わず幸村は反論したが、自分でもはっきり分かるほど顔が赤くなってしまった。信玄はあまりにも簡単に幸村の真意を突いたのだ。
ひとしきり笑った後、信玄は優しい声で言った。
「世の倣いじゃ」
「何が、でございますか」
「あれはもう、魔王ではない。織田から嫁いだ一介の女よ」
「分かっております。でも」
「身分を考えれば降嫁にも等しい。降嫁と言う言葉は正しくないがな」
「確かに、きつ様は皇族ではあられませぬが、でも」
おっしゃりたい意味は分かります、と幸村が素直に言う。信玄は頷く。
「でも、それがし、そういったことが不満なのではございませぬ。きつ様が右目殿と深く想い合われておられたことは、安土の藤見の会より存じておりますし、何より──夢か幻かも分からなかった本能寺でも、しかと見ました」
今思えば現実であったとは思えない出来事だった。生命と魂を賭し、戦乱の親としての清算を目指す中、正気を失うことを何よりも恐れた吉が必死で歩む姿を間近で見ていたはずなのに、あれは夢だったのだよ、と誰かに言われれば信じてしまいそうなほどに。
だがその中でも覚えているのだ。
佐助がずっと昔から狂っていたこと、自分もまた狂っていること、──それを吉に気付かされたこと──
魂を失いかけた吉を救うために、小十郎が吉を殺そうとしたこと。
織田軍の魂の数々が阻止し、吉を小十郎に託したこと。
真の忠義。それを幸村は、あの夢幻のような本能寺で確かに知った。戦乱の親とその軍勢が教えてくれた。
小十郎が彼らの忠義に深く頭を下げ、吉を生涯守り抜くと誓った姿も見た。
「想い想われて夫婦となられたのですから、それがしは不満なぞございませぬ」
「うむ」
「でも」
「うむ」
「……昔のように、あのままで結構でござりますのに。きつ様はきつ様で、それがしはそれがしなのです」
「あれはな」
信玄は静かに言った。
「お主が思っている以上に、古風な女じゃ。夫よりも身分が高い城主に、今ではお主より身分が低くなった自分が物を申し付けて良いはずがないと思っているだけの話よ」
簡単な話なのだ、と信玄は重ねて言った。
「片倉の家を飛び出したのも、要はそこじゃ。お主も聞いたであろう」
「伺いました」
だから、と幸村が言った。信玄からすれば恐ろしいほどに素直に──これがこの子供の怖さなのだ、と知らしめるほど素直に。
「だからそれがし初めて、片倉小十郎殿を気に入らぬ、と思いましてござります」
思わず返答に詰まった信玄に、幸村は尚も続けた。
「それから、政宗殿も。気に入りませぬ」
「……幸村」
「はい」
「それは──」
信玄が何かを言いかけた時、どこからか猫の声が聞こえた。佐助だ。
「火急なれば入れ」
信玄の言葉が終わって暫しの後、気配が増える。どこから現れるのか、幸村にはいつも分からなかった。姿を見せた佐助が鼻の頭をかく。
「火急かどうか、俺様には分からないけどね」
「申せ」
幸村の促しに佐助は肩を竦めた。政宗と小十郎が気に入らないと言った幸村の話をもう少し聞きたかったのも確かだったのだ。だが促された以上は答えなければならない。
「俺様の配下からの報告なんだけど。──右目の旦那が奥州を出たよ。とんでもない速さで馬を飛ばしてるそうだ」
五頭くらいは乗り潰しちまうんじゃないかなァ、と佐助は溜息をつく。
「あの分じゃ、明日には到着するよ」
「明日?」
幸村は信玄を見る。
信玄はばしりと自分の膝を叩いた。
「幸村!」
「はい!」
「これから申し付ける旨、急ぎ準備せい! 時間がないぞ!」
「お、お館様、一体何を──」
突然いきり立ったようにも見える主君に戸惑う幸村に、信玄はにやりと笑って宣言した。
「こちらには人質がおる。右目に一泡噴かせてやろうではないか!」
小十郎はひたすら馬を飛ばす。街道を行き交う人々が余りの速さに目を見張り、道を開けろ、早駆けが通るぞ、と先を行く人々に大声で怒鳴らなければならないほどだった。
途中で動けなくなった馬に詫び、金を払えば旅行者が使える厩舎で新しい乗り換え、また先を急ぐ。騎乗は見た目以上に体力を消耗するが、そこは奥州の軍師、按配は弁えている。自らの体力が尽きるまで飛ばすつもりはなかった。
当分放っておくつもりだった。どうせ前田のところにでも行ったのだろう、と予想していた。前田夫妻なら吉に危害を加えないはずだ。それどころか大歓迎に違いない。
過去と今の身分の差に折り合いがつかないだけだ、そのうち帰って来る、手紙のひとつもないのはまだ吹っ切れないからだろう──そう思っていた。
あれは賢い女ですから、そのうち折り合いもつけましょう──何かと心配する政宗に詳細を説明し、最後にそう付け加えた。本気でそう思っていた。
だが政宗は眉をひそめ、えーとさあ、と苦々しい声で言った。
──やっぱお前、迎えに行かねえと駄目だ。そういう話の流れなら、姐さんは絶対帰って来ねえと思う。
なぜですか、と訊いた。政宗は唸り、困ったように、ごめん、上手く説明できねえけど、でも帰って来ねえよ、と言った。小十郎が何度問うてもそれしか言わなかった。否、言えなかった。
そして、──俺、片倉家に伊達家と心中して欲しいなんて思ったことねえよ、と小さな声で付け加えた。
心中など考えたことはございません、ですが主家に従うのは当然の──勢い込んでいった小十郎よりも強く、政宗は言った。
──迎えに行け。姐さんが必要だ。
怒ってもいい、よく聞け。政宗は言った。
──俺は姐さんが何に怒ったか、何となく分かる。でも今まで、考えたこともなかった。
俺のために、姐さんを迎えに行け。
連れて帰って来い。
意味が分からなかった。一体どうして、と食い下がろうとした時、政宗に出雲からの書簡が届けられた。
晴久からの書簡は珍しい。小十郎を一度留め、政宗は文を開いた。
じっくりと読んだ後、地を這うごとき声が漏れた。
──迎えに行け。今すぐ。頼むから行って。何なら俺が行くけど、俺じゃ帰って来てくれねえから。
何事ですかと眉をひそめる小十郎に、政宗は書簡を差し出す。
目を通した小十郎は胃に激しい痛みを覚えたような気がした。
【奥州 宿敵たる甲斐との和解の旨存じず 驚愕の由
改めて言祝ぎの機会賜りたし
尚 憚りながら 上田城滞在の姉 片倉吉殿へ
当座の金子送金済
次期回収にての申出 早急に御返事願い奉る】
つまり【きつが上田城にいるって話だがいつの間に和解したわけ?(まあしてねえだろうけどな)、とりあえず吉の当座の生活費は俺が立て替えておいてやるけど、次の決算の時に奥州から返してもらうからな。さっさと返事寄越せ】と晴久はしたためて来たのだ。
小十郎は政宗に書簡を返し、額から出血するのではないかと政宗が危惧するほどの土下座を繰り返してから、家にも帰らず馬に飛び乗ったのだった。
「──よりによって甲斐に行くなんざ、あいつはどこまで俺を馬鹿にしていやがるんだ!」
甲斐までの道をひた走る。
そこに虎の罠が待っているとも知らずに。