上田城までの道は覚えている。幻の織田軍が攻め込み、魔王が城主を攫った時に乗り込んでいるのだから。小十郎はひた走りに走り、三頭の馬を乗り潰すはめになった。佐助の予想では五頭だったが、そこは卓越した騎乗技術の持ち主だ。急がせても馬を極力潰さないよう、時に労わることは忘れなかった。それでも三頭を潰したことは反省点だ、と妙に冷静な部分で考えていた。
あと数刻も走れば上田城に着く。既に佐助を始めとする諜報部隊には動静が読まれているだろうが、気にする必要はないと思った。戦を仕掛けるわけではない。正面玄関から幸村に取り次ぎを頼み、妻を連れて帰るだけの話だ。
──それにしても。
小十郎は苦々しい。
──夫婦喧嘩で逃げた嫁を迎えに来るくらいなら、単騎で攻め込めと言われた方がまだましだった!
男女の機微には疎いが、人間同士の感情のやり取りには鋭い幸村がいるということも小十郎の気分を暗鬱とさせる。あの子供は政宗にさえ、間違っていると思えば容赦なくきついことを言うのだ。今回の事情を詳らかに幸村が知っているとなれば──知らないはずがない──軽蔑した目で見られるのは予想に難くないことだった。儀礼を保とうとしながらも感情を隠せない、それが幸村の幸村たる部分だ。夫として、妻はそういう部分を可愛がっているのだろう、とも分かっていた。
目の端に小川が映る。
「──どう!」
手綱を引き、馬に強く合図をする。息を荒くした馬はほっとしたように足を止めた。
「暫く休め。飛ばさせて悪かったな」
馬を労わり、小川に連れて行く。馬はすぐさま水面に鼻面を突っ込み、勢いよく水を飲み始めた。
小十郎も持っていた水を飲み、一息つく。この間に冷静になろうと決めた。頭に血が上ったまま上田城に乗り込んだところで、下手をすれば幸村に真正面から追い返されることになりかねない。あの子供は子供だけあって、一途で残酷だ。小十郎に非があると思えば決して吉を渡さないだろう。
ふと馬を見、思わず「ああ」と声を上げてしまった。
「大丈夫か。すまなかった」
馬の蹄がずれている。おとなしい気性の馬であったがゆえに暴れず、不快感を堪えていたのだろう。
「後で直してやる。もう走らないから安心しろ」
どこかで代わりの馬を手に入れるか、歩いて行くか。どちらにせよ、この馬をこれ以上長く走らせることはできなかった。気付かなかった己の未熟さに腹が立つ。
籠を背負った、若い男の物売りが通りがかった。何か馬に食べさせてやれるものがあるかもしれない、と小十郎は気付く。
「何かあるか」
いかにも歴戦の兵という風情の男に突然声をかけられ、物売りはぎょっとする。どう見ても他国の人間だ。物売りの心情を察した小十郎は苦笑した。
「金は払う。こことは違う金だが、上田城で換金できるはずだ」
先に物売りに金を投げた。物売りは不器用に受け止め、まじまじと通貨を見る。それでも疑わしい顔をする物売りに小十郎は言葉を重ねた。
「上田城に持って行け。そこに織田の女がいる。そいつが保証してくれる」
織田の女、と言った方が通じるような気がした。上田城どころか信玄までもが下にも置かぬ扱いをしているはずだ。城下にも噂は流れているだろう。その女が保証するならば換金は確かなことだと理解されるはずだった。
「織田の?」
「きつ、って呼ばれてると思うがな」
物売りはやがて得心したように頷くと、背負っていた籠を下ろした。思ったよりも上背のある青年だった。
「売れ残りしかねえぞ。釣りもない」
「釣りはいらねえよ。あるものを全部くれ」
「団子と──ああ、潰れちまってるな。蜜柑くらいしかねえな」
「それでいい」
蜜柑を受け取る小十郎をちらりと見て、物売りは言った。
「織田の女、なんて言うから、誰か分からなかったじゃねえか」
「──分からなかった?」
「幸村様んとこに、奥州の軍師の嫁が来てるってのは知ってるがね。吉姫って言ったかな」
「……そうか」
意外だ、と思った。織田の女として滞在した方が、身分の高さからして過ごしやすいだろうに。
蜜柑の皮を剥き、口に放り込む。いやに酸っぱい蜜柑だった。馬は気にしないだろうから構わないが、もう少し甘くてもいいじゃないか、と思った。
物売りが疲れ切った馬を見て溜息をつく。
「どこの誰かは知らねえが、あれじゃあ馬が可哀想だ」
「返す言葉もない。せめて何か食わせてやりたくてな」
「へえ、あんたが食べるために買ったんじゃねえのか」
「一口食ったが、あとは馬の飯だ。せっかく売ってもらった蜜柑だが、気を悪くしてくれるなよ」
物売りはじっと小十郎を見、次に馬を再び見る。
「蹄がずれてんじゃねえのかい」
「……よく分かったな」
「ここは甲斐だ。馬のことなら誰でも分かるさ」
それは奥州もだ、と小十郎は言いたくなった。だが言わなかった。この物売りが過去、あるいは今も、馬に乗る人間だったのではないか──つまり、戦場を知る者なのではないか、と思ったからだ。
「直した方がいい」
国は違えど確かなる武士、しかも馬を知る者。偶然の出会いとはいえ、驚くべきことだった。
「釣りの分、直してやるよ。家が近い、引いて来い」
返事を待たずに籠を背負い、物売りはさっさと歩き出す。
小十郎はその背に一礼し、馬をに声をかけた。
城の中が騒々しい。城主が城主だけに家臣たちの声も大きいようで、女が住む奥まった場所にまで声が響いていた。何かをばたばたと移動させる音も響いている。
「これ」
近くの侍女に声をかける。
「何事か起きておるのかえ」
侍女は困ったように「分かりません」と答えた。吉を誤魔化しているのではなく、本当に分からないようだ。ふうん、と吉は言い、また手元の歌集に目を落とした。この城では完全に、男と女の役割が分けられている。滞在中に理解したことだった。ならば今も、男たちだけで行う何かの騒ぎなのだろう。
気を散らせた吉を気遣い、他の侍女が気を引き立たせるように話しかけてくる。
「きつ様、お気に召すお歌はございまして?」
「──ん、ん。そこそこ、ナ」
「小野小町などお素敵でございますね」
分かり易く女が好む歌人の名を出すと、他の侍女たちもきゃあきゃあとはしゃいでみせる。吉は内心で苦笑していたが、彼女たちの気遣いを敢えて無に帰す必要もないと思い、適当に喋らせておく。
「きつ様のお好きな歌人はどなたでございますの?」
「歌人、ナ」
眺めているだけの歌集をめくり、吉は考える。歌を詠むことは昔から多かった。教養を求められる立場でもあったし、声にしてはならない機密を込めたこともある。
「誰ぞ、なァ……」
自分の言葉すらかけられない時、自分の言葉であると思われてはならない時、そして言葉が見つからない時は旧い歌を引き合いに出すことも多かった。不思議なものだ、と今になれば思う。政治のことならどんな言葉でも即座に見つかったと言うのに──
「誰でも」
「え?」
「──見つからぬ言の葉を代わりに歌うてくれるのならば。誰でも」
「代わりに?」
「歌は得意ではないゆえに、ナ。旧い歌がぜんぶよいの」
「まあ、またご謙遜を!」
侍女たちはどっと笑う。連日夕飯を共にする信玄との会話の合間に、軽い歌を詠み、信玄を笑わせたり感心させたりすることが多いと知っていたのだ。吉は彼女たちの楽しそうな姿に何も言わず、深窓の姫という風情を保ったまま、静かに微笑んでいた。
「……きみがゆく みちのながてを」
吉の小さな声は女たちの嬌声にかき消された。
それで良いのだ、と吉は思った。
「きつ様、幸村様がお越しにあられます」
取次ぎの小女が障子の向こうから声をかける。侍女たちはたちまち囀りを収め、室内を整え始めた。吉も心得た動きで上座を退こうとする。ここに座るのは幸村だ。
だが、小女が驚きの声を上げ、振り返った侍女たちも同じような声を出し、慌てて居住まいを正す。
吉は腰を浮かしかけた姿のまま、女の支度を待たずに入り込むという、男としては無礼すぎる行為を働いた城主を見上げた。
幸村は何かを決めた顔で吉を見、立ち尽くしている。
息を吐き、吉は腰を下ろす。
「ゆき」
「きつ様」
「斯様な真似、男振りが下がるわえ」
「構いませぬ」
「席を作るゆえ、お待ちたも」
「それがし、ここで結構でござりまする」
言うなり、幸村は座布団もない場所にどかりと腰を下ろした。吉の下座だ。
「ゆき」
「きつ様、幸村、確と申し上げます。いかなきつ様でも、どうぞお聞き入れ願います」
何かを言おうとした吉を制し、幸村はよく通るあの声ではっきりと言った。声が大きい、と吉が苦笑する。
幸村が何を言いたいのか分かっていた。
そして思う。
──よう、自らの中で始末をつけた。嬉しゅうてならぬわえ。
「きつ様」
「ん」
「それがし、やはり、きつ様の上座に座ることはできませぬ」
「──ほうかえ」
「きつ様は確かに奥州が軍師のご正室にあられますが」
「ん」
「それがしにとっては何もお変わりあられませぬ。きつ様はきつ様にござりまする。ですから」
「ん」
「ですから、ゆえに」
「ん」
「……ですから」
幸村の勢いはそこで止まってしまった。伝えたいことがある、それでもどう言えばいいのか分からない、もっと言葉を整えてから訪れればよかった──そんな顔をしている。
吉は綻びそうになる口元をきゅっと引き結ぶ。
それから息を吐き、ゆっくりと足を崩した。見ていた侍女たちは無言で視線を交し合った。いくらこの客人が特別な人物だと言い含められていても、城主の前で、しかも上座で足を崩すとは信じられないことだった。
「ゆき」
「……はい」
「約束をしたであろ」
「約束?」
「夢幻の中で」
吉はにこりと笑いかけた。初めて幸村と出会った時のように、優しく、何の含みもない笑顔だった。あの日を思い出した幸村は嬉しくなる。勢い込んで飛び込んで来た今の自分を恥じるよりも、これから話ができることを嬉しいと思った。
夢幻の中での約束。確かにしたのだ、覚えておられるのだ──幸村はただ、嬉しかった。
いつか 遠い日か 近き日か
ゆきと話を
信玄坊主と話を
たくさん
ずっと
しとうて
そう 思うておるのだえ
夢幻の本能寺の中、魔王が魔王でなくなる僅かな時間、確かに言っていた。幸村はそれに縋ったと言ってもいい。姉のように慕う天女はまだ生きている。だから言った。縋るように。
嬉しゅうござります
ええ きっと
帰ったらぜひ 上田城にお越し下さい
お約束下さい
幸村と お館様と どうぞ
心行くまで
何卒
お約束下さい
「お約束」
幸村が笑う。
「いたしましたな。確かに」
「ん」
吉も笑う。
「ゆき」
「はい」
「何を申したいのだえ」
「あのう」
幸村は照れたように頭をかく。それでも嬉しそうな城主を見て、侍女たちは視線を交し合うしかできなかった。奥州の軍師の妻は幸村にとって一体どういう人物なのか、と。
「その」
「ん」
「……きつ様には、そこにお座りになっていて頂きたいのです」
吉は無言だった。だが幸村は知っている。吉は無言で肯定を示すことがある。それは親しいからこそ分かるのだ、と、不思議ながらも今思った。
「それがし、確かにこの城の城主でござります」
「ん」
「きつ様は奥州が軍師のご正室で、その、序列と致しましてはそれがしよりも……です」
「ん」
「ですが、やはり、きつ様がそれがしより下座にお座りになられることも、それがしに昔のようにお言い付け下さらぬことも、納得がゆかぬのです」
きっと、と幸村は勢い込んだ。
「きっと、日の本の誰もが同じことを思いまする」
吉は答えない。だが眉をひそめて微笑んでみせる。困ったことだけどそうでしょうね、という笑い方だった。
──思わぬのは。
思うともなく、脳裏にただ一人の男の顔が浮かぶ。
──ひとりだけ、なのであろ。
怒っているだろう。連絡ひとつしていない。ここにいると分かれば烈火の如く怒るはずだ。だからこそここに来たのだと、どうやって伝えれば良いのだろうか。
近いうちに手紙を書き、居場所を教えなくてはならないと分かってはいた。だが筆を持っても言葉が浮かばず、何も書かずに手を止める日々だった。
気付いた。言葉が足りないのは子供だけではない。幸村だけではない。政宗だけでもない。
あの男の妻となった自分もまた、足りていなかった。
「ですから」
「ん」
「きつ様がお嫌でなければ」
「ん」
「……昔と同じゅう、して頂きたいのです」
幸村はそれきり黙った。自分が持つ言葉で精一杯を伝えたからこその沈黙だった。もっとたくさんの言葉をなぜ知らぬのだろう、と自らを呪う。
どれほどの時間が経ったのか。不意に、ぱさり、という音が響いた。幸村は吉を見る。
吉が扇子を取り出し、指先で弄んでいた。
城主の前では無礼極まりない姿だ。
何と無礼な、と幸村は思う。
だから笑った。
嬉しくて笑った。
吉が微笑む。昔と同じ笑い方で。
「ゆき」
「はい」
「城内が騒々し。何をしておるのだえ」
聞いていた侍女たちはもはや視線を交し合うどころではなく、驚愕に顔を見合わせるはめになった。男と女の役割が完全に分かれたこの城で、男たちがしていることを問うなど考えられない。しかも相手は城主だというのに。
だが当の城主は嬉しそうに答える。
「歓迎の宴の準備にござりまする」
「歓迎の宴?」
「はい。お館様が是非にと。それがしも腕によりをかけ申しました」
「誰の」
「──右目殿でござりますとも!」
満面の笑みで答えた幸村をまじまじと見、数瞬の沈黙の後、吉が噴き出す。堪えきれずに噴き出したことは誰の目にも明白で、珍しく慌てた様子で吉が扇子で口元を覆った。幸村は悪戯が成功した子供の顔で「へへ」と笑ってみせる。
「もうすぐ、こちらに到着でございましょう。なれば是非に。きつ様はこちらでお待ちになられまするか?」
「もうすぐ? 旦那様に文のひとつも書いておらぬのに、どうして来られるの」
「尼子殿がお知らせになられたのでは、とお館様がおっしゃっておられました」
「──あァ、もう、あの子は。暫し金子を用立てておくれと申しただけなのに」
城内はますます騒々しくなって行く。宴の準備にしては大工たちが働く音まで聞こえていた。そこは数多の建築を知る吉だ、間違えようがない。
暫し考え、まさか、と立ち上がる。驚く侍女たちを尻目に障子を開け放ち、あてがわれた本丸の高部屋から二の丸と一の丸を見下ろす。
「流石きつ様、音でお分かりになられましたか」
そばに立った幸村が得意げに言った。
「上田城、再建にござりまする。堀の水もすっかり新しくなり申しました」
初夏の風が吹き抜け、二人の髪を同時に揺らす。
工事の中、人足に混ざって指示を出していた佐助が二人を見つけ、気軽に手を振ってみせた。
「佐助!」
幸村が大きく手を振り返す。
「励め! きつ様がご覧になられているぞ!」
俺様は姐さんに見てもらわなくたっていいんだけどねえ──苦笑じみた顔をし、佐助は「分かったよ」と言うようにまた手を振る。
吉が笑った。
笑って、幸村にとっては驚くことに、佐助に手を振ってみせる。
佐助は苦笑いどころか大いに驚き、思わず固まった。
しかしそれをどう勘違いしたものか、佐助に釣られて二人を見上げていた人足たちが、一斉に歓声を上げたのだった。
「きみがゆく」
不意に吉が口ずさむ。
君が行く 道の長手を繰り畳ね
焼き滅ぼさむ 天の火もがも
「きつ様?」
「ん」
「今、何かおっしゃいましたか。人足の声が大きくて聞こえませぬで──」
「なんも、なんも」
でも、と言い募る幸村を制するように、吉は言葉を続ける。
「ゆき」
「はい」
「わらわも、宴に混ぜておくれたも」
この城に来て初めて、吉が心から楽しそうに言った。
それを感じた幸村は急に誇らしい気持ちになり、はい、と周囲が驚くほどに大きな声で返事をし、吉をまた笑わせたのだった。
蹄を直してくれた物売りに丁寧に礼を言う。更に金を渡そうとしたが、物売りは頑として受け取らなかった。
「馬を大事にしてくれりゃいい」
「……武士か?」
無礼と知りつつ、小十郎は好奇心を抑え切れなかった。物売りが直した蹄は見事なもので、馬はすっかり機嫌よく動こうとしている。早く乗れ、と小十郎に示すほどだ。
物売りは静かに言った。
「俺は」
「ああ」
「魔王を見たことがある。お館様の喉笛に噛み付こうとした、あの魔王をな」
咄嗟に言葉が出ない小十郎に、物売りは更に言った。
「地獄のようないくさだった。今でも夢に見る。あんな、天女のような顔をして」
あいつは魔王だった。物売りは──武士は呪詛を吐くかのごとく呟いた。
小十郎は何も言えない。本当はそんな女じゃない。あいつはただの──言えるはずがない。
あの日々、確かに誰かにとって天女は魔王だった。
「あんた」
武士は小十郎を見ず、蹄の道具を片付けながら、小さな声で言った。
「奥州の軍師だろう。あんたを見たことがある」
案外最近までいくさに出ていたんだ、と武士はやはり小さく言う。
小十郎が答える前に、更に彼は言った。もう何も言うな、さっさと出て行け、と小十郎に告げるために。
「みんな、あんたの嫁を城下で見て、天女様みてえだって喜んでるが──知ってる俺からすりゃ、あんな化け物、いつまでもいて欲しくねえ。そんな奴は何人もいる。表向き死んだことになってるし、幸村様が親しくしてらっしゃるから何も言えねえが」
頼むから、
とっとと連れて帰ってくれ。
武士はそれきり黙る。
小十郎は辛うじて彼に「蹄をかたじけない」と言い、馬を引いて歩き出す。
あいつは。
そう言いたかった。
だが言えなかった。
あいつはただの、女なんだ。
言えるはずがなかった。
自分にとってはどんな時でもただの女だ。
それでも、誰かにとっては確かに魔王だった。
今も消えない記憶の中で、確かに、自分の妻は魔王として生きている。
その事実を改めて、思い知った。