帰って来た小十郎がいつになく厳しい顔をしていた。明らかに何かを腹に秘めている顔だ。
出迎えた吉は動じることなく、いつも通り「お帰りなさいまし」と声をかける。片倉の家に来てしばらく体調を崩していたが、回復してからは毎日の決まりごとだった。普段なら小十郎も微笑んで答えるのだが、今日ばかりはそうではない。
「飯は後だ」
「そ」
小十郎の声は低く、怒りを堪えていることは明白だった。聞いている使用人たちは竦み上がるが、吉は飄々としたものだ。まだ付き合いの短い使用人たちにとっては、深窓の姫にしか見えない女主人が鈍感なのか、それとも相当に肝が据わっているのか、一体どちらなのかと不思議に思う瞬間だった。
夫婦の部屋に入り、侍女のおこうにも呼ぶまで近付くなと言いつけてから、小十郎は吉の前に胡坐をかく。吉はこれもいつも通り、背筋を伸ばして夫を見ていた。だが常のように穏やかな微笑を湛えているわけではない。だから小十郎は知る。
「俺が何かを言いてえのは分かってる、って顔だな」
「ま、あられましょ。それよりも」
吉が夫の前では珍しく、仕方ない、という風情で溜息を吐く。
「むしろ、いつおっしゃるか、いつおっしゃるかと」
「──政宗様に感謝しろ」
地を這うような夫の声に、吉は首を傾げる。暫しの後、手をぽんと叩いた。
「あァ」
「分かったか」
「アレ、あの。どれかと思えばその件なれば、確かに仔竜なァ」
「……その件、って、何だ……」
小十郎は察した。妻は他にも何かやらかしている、という自覚があるのだ。夫に何も言われないために自ら口にすることはなかったが、確かに自覚があるのだろう。
「その件なれば、まァ、仔竜がおまえさまにむつかったとは、ナ。黙っておると思うておった」
「泣かれるわけねえだろう、政宗様が! お小さい頃はともかく!」
吉がころころと笑った。周囲に誰かがいればつられて笑ってしまうような、明るく、優しい笑い方だ。
「丸さんの頃、ナ。あァ、確かに、輝宗公おっしゃるに、ようむつかる丸さんと聞き及んでおったわえ」
子供の頃はよく泣いた、と政宗の父に聞いたことがある。思い出した吉は楽しそうに笑っている。だが夫は笑わない。笑えるはずがない。
「話を逸らせるな」
「斯様なつもりはなけれど、アレ、御免あそばし」
「つまり」
小十郎は苛ついた感情を宥めるために息を吐いてから口を開いた。元々短気であることは自覚しているが、短気加減なら妻も同様だ。妻が爆発しないよう、自分を抑える必要があった。
「俺が役目で留守中、政宗様がわざわざお越し下さっただろう」
「参ったわえ」
「いらした、と言え」
「うつうつしくおうちつきに」
「ああ?」
「およそ、いらした、の意」
「それでいい」
うつうつしく、の意味が分からなかった小十郎はそれで満足したが、実際のところは「鬱陶しいったらありゃしないけど」と言っているも同然だった。長く思い合ってはいるが、共に暮らしてまだ日が浅い。吉の独特の言葉の中には、まだ小十郎が理解できないものが幾つかあった。後々「うつうつうしく」の意味を知って愕然とすることになるが、とにかく今は分からない。妻が自分の言うことを受け入れたのだと思った。
「お前」
「はい」
「政宗様を叩き出したんだって?」
吉は「ん」と呟き、何かを思い出す顔をした。無論とうに思い出してはいるのだが、さて、夫の怒りをどう逸らせよう、と考えている。
「仔竜がそう申しておるのかえ」
「政宗様がそう、おっしゃって──」
「うつうつしく、おまえさまにそうおっしゃったのかえ」
「──そうだ」
うつうつしく、という言葉の意味が気になりだしたが、話が逸れることを嫌った小十郎は吉の言い訳を待つことにする。吉は涼しい顔だった。
「叩き出すなぞ人聞きの悪い。おはやばやのご帰城は政宗公のご意思にあらしゃろ」
「お前が失礼なことを言ってお疲れになられたからだ」
「──そこまで申したのかえ、あの仔竜。ほんにまァ、つたないこと」
吉は溜息をつき、もううんざり、という顔を隠しもせずに言葉を戻した。小十郎はそれに苛立つ。つたないという意味は分かる。卑しい、情けない。明らかに侮蔑の言葉だ。
「きつ」
「はい」
「俺の前で政宗様を貶めるな」
夫の声が怒りを帯びたことに気付き、吉は溜息を隠した後、眉をひそめながらも「はい」と答える。だが小十郎はまたもそれに苛立った。
「確かにお前からすりゃ、政宗様は未熟だろう」
「斯様なこと、ひとことも申しておらぬわえ」
「態度で分かる。明らかに馬鹿にしてるだろうが」
「──しておらぬ」
吉は鋭く答えた。ただの口答えではないことは冷静に見れば誰の目にも明らかな口調だが、少なからず頭に血が上りかけている小十郎には分からなかった。
「してねえ奴の言い分じゃねえだろうが。俺まで虚仮にするつもりか」
「おまえさまに斯様なことを申すはずなかろ!」
「言ってるも同然だろうが!」
遂に小十郎は声を荒げた。並の女ならこれで怯んでもおかしくはない。だが吉は並ではなかった。
夫が理解しないことに怒りを覚え、夫に負けない声を出す。
「ではわらわが常々、あァ政宗様お目文字仕りてヤレ嬉し、主人と御懇ろ賜りて恐れ入り奉り仕り承りて御座りまするとでも申せばよいの!」
「そんな極端なことはひとっことも言ってねえ! 想像もできねえ! つまり見下すようなことを言うなって話だ!」
「見下しておらぬと! 申しておるではないの!」
「どう聞いたって言ってんだ、お前は!」
吉が思い切り息を吸う。「一気に喋る気だ」と何度かの夫婦喧嘩で既に学んでいた小十郎は、それを留めるために早口に言葉を続けた。夫が先に口を開けば黙る女だ。小十郎以外の誰もが驚くだろうが、小十郎にとっては当たり前の姿だった。
「織田のぶ──織田の直系のお前には、そりゃあ政宗様はまだまだ未熟に見えるだろう。だが政宗様を貶めることは奥州伊達領を、ひいては我が片倉家を貶めるも同然だ」
「だから──」
「黙ってろ」
夫の冷たい制止に妻は唇を噛み、それでも夫を睨み付ける。気の強さは折り紙つきだ、と小十郎が改めて思う目つきだった。
「お前は伊達家の家臣筋の家に嫁いだんだ。それを忘れるな。今後一切、政宗様を貶めることは許さねえ」
吉は返事をしない。ただ夫を睨んでいるだけだ。その態度に半ば感心しながらも小十郎は続けた。
「俺は自分でもお前に甘いと思うが、これだけは許さねえ。政宗様を貶めるな。片倉家を貶めるな」
夫のきつい言葉に、吉は息を吐く。怒りや戸惑いの溜息であれば小十郎もまだ理解し、怒ることはなかった。
だがその溜息は──内心で渦巻く言の衝動をやり過ごせず、明らかに何かに呆れた溜息だった。
「お前、分かってねえのか!」
流石に小十郎もそれを見過ごすわけにはいかなかった。腹が立つ、立たないの話ではない。片倉家の正室としては許されない態度だった。
「いつまで織田のつもりでいるんだ、いい加減にしろ!」
「片倉が伊達家と心中するならば、わらわとてそう致しましょ。おまえさまの正室であるもの、当たり前のことであろ」
急に穏やかな口調になった妻の様子に、小十郎も瞬時の衝動を収める。落ち着くために息を吐き、激昂を恥じた。
「大声を出してすまなかった」
「なんも」
吉が首を横に振る。だが小十郎はいつもとは違うことに気付いた。小十郎が謝ればいつも、吉は今のように答える。だがそれは微笑を伴わせてのことだった。
今は感情を窺わせない、ひどく静かな、どこか無表情な顔をしている。自分の言葉が繊細な女を傷つけたかもしれないと思い、小十郎はもう一度「すまなかった」と呟いてから妻の手を取る。吉は何も言わなかった。
「心中ってな、どういう意味だ」
「そのまま」
「だから──」
「いずれ斃れる伊達と心中するなぞ織田なら真っ平、されどおまえさまが片倉の道をそうとお決めになられてあらしゃるなら、わらわにこれより何を申せとおっしゃるの」
小十郎は再びの激昂を抑える。妻の手を握る指に力が入ったことは仕方がなかったが、妻はそれで全てを察したようだった。それ以上何も言わず、ただ夫に握られた手に視線を落としている。
「きつ」
「はい」
「なぜ、伊達が斃れる」
「申しとうない」
「そうか」
「ん」
「……そうか」
吉は相変わらず、手に視線を落としている。常なら自分を真っ直ぐに見る妻のその態度に、小十郎は自己嫌悪を抱かざるを得なかった。
──駄目だな、俺は。頭に血が上ると忘れちまう。
「きつ」
「はい」
「すまなかった」
──お前が織田のことをもう話したくないって、忘れていた。
静かに、吉が小十郎に握られた手を放した。
そして言った。
「なんも」
笑わぬまま、夫を見ぬまま、静かに言った。
「ようよう省したわえ。政宗様のこと、御無礼仕りました。ご勘弁下さいましな」
そうじゃねえ、と小十郎は呟いた。
指をついて夫に頭を下げる妻を殴りたい衝動にまで駆られた
叱り付けたのは自分だった。妻はそれを聞き入れ、夫に詫びた。
ただそれだけの話のはずなのに、そうじゃねえだろう、と──自分でも分からぬほど、強い何かの感情が混乱を極めていた。
「おまえさま」
「ああ」
「おひもじであらしゃりましょ。おこうに膳を持って参らせましょ」
吉が侍女を呼ぶために立ち上がる。数瞬の戸惑いの後、小十郎はその手を掴んだ。
「きつ」
「はい」
「飯はいらねえ」
ここにいろ、と小十郎が言う。
吉は微笑んだ。
そしてゆっくりと、静かに、掴まれた手を振り払った。
「おこう、旦那様のお膳を」
すまなかった。もう一度小十郎は言った。
吉は答えなかった。
その夜、吉は初めて小十郎と寝室を別にした。小十郎は何も言えなかった。
翌日の吉は普段と変わりがなかった。小十郎を起こし、使用人たちにあれこれと指示を出し、夫が速やかに城に迎えるよう、いつも通り準備を整えて行く。合間合間に自分に笑いかけてくる吉を見て、昨日のことは夢だったのだろうか、とまで小十郎は思った。
「おまえさま」
小十郎を見送る為に門までの砂利道を共に歩きながら、吉が穏やかな声で夫を呼んだ。
「ようよう、お詫びお伝え下さいましな」
「詫び?」
妻が微笑む。
「御無礼仕りましたと、政宗様に」
小十郎は足を止め、小柄な妻を見る。妻も同じように足を止め、背の高い夫を見上げた。
「……お前」
「おまえさま」
「……うん」
「政宗様にお許し賜れますよう。どうぞどうぞ、お伝え願いますわえ」
小十郎は答えなかった。ただ妻を見るしかできない。
妻は穏やかな顔のまま、夫を見上げ続けていた。
どれほどの時が経ったのか。控えていたおこうが焦燥感を感じるほどの長さだった。
やがて小十郎は静かに答える。
「……分かったよ」
一瞬の間の後、吉はにこりと笑った。小十郎が最も好きな、美しく、可愛らしい笑顔だった。この笑顔を向けられれば、小十郎はいつも無意識に笑い返してしまう。
それでも今は、笑い返せなかった。
「行ってらっしゃいましな」
いつもの見送りの言葉に、いつものように返事をすることはできなかった。
──これでいいんだ。これでいい。これが正しい形だから。
これでいいんだ。自分にそう言い聞かせることだけで精一杯で、返事をする余裕がなかった。
帰って来たら改めて話をしよう。そう思い、政宗が待つ城へ向かう。
騎馬隊の青年が困ったような顔で小十郎の元に現れたのはその日の夕刻だった。
「あの、小十郎様」
「どうした」
「見回りの騎馬隊の連中から報告が上がったんすけど、手違いで今まで届かなかったみたいなんです」
「何がだ?」
城下街の見回りも騎馬隊の重要な仕事だ。何か異変があれば些細なことでも知らせるよう、政宗と小十郎は徹底した教育を行っている。とはいえまだ未熟な部分もあり、それほど重要でなければ連絡が遅くなる情報もあった。
「本当は、朝四ツ(午前九時頃)に見たらしいんですが」
「随分遅れたな。何を見た?」
「あの」
青年が言い澱む。報告が遅れたことを恥じているのだろう、と小十郎は思ったが、本当はそうではなかった。
「あの」
「何だ?」
「……小十郎様の奥様が、横鞍で街道を上って行った、って……」
瞬時、何を言われたのか分からなかった。
──きつが? 馬? 横鞍ってことは横座りで……いつもの格好ってことか?
「……いや、あいつは一人でも馬に乗れるからな」
「……あ、そうっすか」
小十郎の答えは的を射ているとは到底言えなかったが、夫婦間のことをこれ以上追及しても良いのか迷った青年は、結局それ以上訊けなかった。
青年が辞してから、小十郎はようやく落ち着いて考える。
横鞍。騎乗服にならない女が使う鞍だ。それほど速度は出せないが、何しろ吉は元魔王、騎乗などお手の物。結構な速度も出せるだろう。合戦の時にはさすがに使っていなかったが、普段は横鞍だと吉自身が言っていたことを小十郎は思い出す。
──気晴らしか? 昨日のこともあるだろうし……
だが青年の言葉を思い出す。
街道を上がって行った。
街道を。
「……まさか」
まさか、と小十郎は蒼褪める。有り得ない話ではない。
思い至った瞬間、凄まじい勢いで廊下を走り出した。
「──政宗様、御免ッ!」
「なななな何!?」
突然駆け込んで来た小十郎に、政務をさぼってこっそりと流行の草子を読んでいた政宗は飛び上がらんばかりに驚く。
「何だよ! ノックしろよ!」
「ノックとは!」
「いきなり入らないで障子の桟辺り叩けって!」
「失礼致しました!」
「あー!!」
狙いが外れて拳で障子を破った小十郎に政宗は悲鳴を上げる。
「街道に騎馬隊を緊急配備します! 御許可を!」
「何かあったのか!?」
すわ他国の小隊でも現れたか、よもや武田か。政宗は草子を投げ捨て、政務者の顔になった。
小十郎が苦々しい顔で、まるで何かに対して怒りを湛えた顔で告げた。
「──嫁が逃げました」
「嫁」
「はい」
「姐さん?」
「はい」
「逃げられちゃった?」
「……はい」
意味わかんない。顔中にそう書いた政宗を見、小十郎は自らが冷静さを失っていたことに気付き、急激に恥ずかしくなった。
佐助は呆れ果て、幸村にその報告をする。幸村は始め、佐助が何を言っているのか理解できないという顔をしたが、佐助が改めて説明する前に事実だけを認識した。
「きつ様が!」
「そう。街道をさ、被衣の女が横鞍で滅茶苦茶な速さで走ってるって報告があったから調べに行ったら」
思い出した佐助は苦々しい。姿も気配も完全に隠していたはずなのに、佐助がその場に着いた途端、吉はあっさりと馬を止めたのだ。
そして街道の木陰に身を潜めていた佐助に言った。
──これ、猫。流石にちらと疲れ申した。上田の城まで馬、引きィ。
配下の忍たちが戸惑い、捕らえましょう、と佐助に進言したが、佐助は彼女を見た瞬間に諦めていた。躊躇うことなく姿を見せ、ろくに事情を聞く気にもなれないまま、素直に吉の馬を引いて上田城まで案内する羽目になった。
「可哀想に、馬がだいぶ疲れてた」
「きつ様は御騎乗もお見事なはず。どこにおられるのだ、まさか門前に置いているわけではないだろうな!」
「そうしてやろうと思ったけど、旦那が怒りそうだから二の丸で茶ァ出しといたよ」
「なぜ本丸までご案内せぬのだ! 無礼ではないか!」
「旦那、防衛って言葉知ってる!? 織田だよ!? 一回本丸まで攻め入られてるからって、そうそう入れていい相手じゃないでしょ! 一の丸じゃなくて二の丸まで入れただけでも俺様の譲歩を褒めなよ!」
「愚を申せ!」
幸村が顔を真っ赤にして佐助に怒りを表した。滅多にない顔に佐助は驚く。
そして佐助からすれば、もっと驚くことを言った。
「我が姉上だ! そしてお館様からすれば娘御のような方であろう!」
ぐ、と佐助は言葉に詰まる。佐助には理解できないことだったが、確かに幸村と信玄は、吉の話になるといつもそう言っていた。佐助としては分かっていたつもりだったが、どうしても実感が伴わなかった。
「分かった、悪かったよ。すぐこっちに連れてくるから」
待ってて、と言いかける佐助を遮り、幸村が勢いよく立ち上がる。
「それがしがお迎えに参る! 佐助はこちらでご歓待の準備をしておけ!」
「え、いや、連れて来るって! 城主が直接迎えに行っちゃ駄目でしょ!」
「きつ様、幸村が只今参りまする!」
「旦那ってば! ちょっとー!」
ばたばたと走り出した幸村を慌てて追い、佐助は何とか掴まえようとする。いくら姉のように慕っている相手とはいえ他国人、しかも今では宿敵の伊達家の家臣筋の家に嫁いだ女を、城主自ら出迎えるなどと、領民に知れたら眉を顰められる事態になりかねない。
「旦那、あのさあ!」
走れば佐助の方が速い。幸村を羽交い絞めにし、何とか押さえ込んだ。
「佐助、離せ!」
「だから! 俺様が行くから!」
「それがしがお迎えして何が悪い!」
「だからね! 城主が直接迎えに行くのはお館様くらいの──」
「ん、よろしないわえ」
佐助は悲鳴を上げそうになり、幸村は満面の笑みになる。
扇子を片手に持った吉は、幸村ににこりと掛け値なしの笑顔を向けた。
「ゆえに、わらわが直接上がらせてもろうた。ゆき、息災かえ」
「はい、元気でござりまする!」
諦めた佐助は幸村を解放する。途端に幸村は尻尾を振る柴犬の仔のごとく、恥ずかしげもなく姉と慕う美しい女へ駆け寄った。
「さすがはきつ様、一度しかお越し頂いたことのない城内を覚えておられますとは!」
「あの時は堀が干上がっておったゆえ、まァ、よう城のつくりが分かり易うて」
「きつ様が水を抜かれたのではありませぬか」
「アレ、そうだったかえ」
「お会いできて嬉しゅうございます。ようこそお越し下さいました」
それって絶対おかしい言い分だと思う、あの時どんだけ被害受けたと思ってんの、そりゃ誰も死ななかったけどさ、と佐助は心の中で激しく突っ込むが、口にしたところで無駄だと分かっている。
「急なお越しであられましたゆえ、それがし、何ひとつご歓待の準備が出来ておりませぬ。すぐに申し付けますゆえ、暫しお待ち願えますか」
「なんも、なんも。先触れもなく参ったわらわに非があろ」
「あ、それから、お館様にもお知らせせねば!」
幸村が大慌てで再び廊下を駆け出す。吉は相変わらずの背中を微笑んだまま見送り、ゆっくりと歩を進める。
佐助は自分が案内するしかないだろう、と腹を括るが、それよりも、やけに足元をふらつかせて近寄って来た配下の忍の報告に天を仰ぎたくなった。
「……ちょっと、姐さん。俺が話しかけたってろくに返事しやしないだろうけど呼ぶよ」
「ん」
佐助に対するには珍しく、吉は素直に振り返った。さすがに押しかけた客人としてなら俺様にもある程度は譲歩すんのか、と思いながらも佐助は苦々しく告げる。
「二の丸からここまで勝手に歩いて、止めようとした俺様の配下の連中やら男の城人やら、随分吹っ飛ばしたらしいじゃないの。何でそこまでしやがったのさ?」
吉は扇子を片手で器用に開き、口元を隠した後、目だけで笑ってみせた。
「憂さ晴らし」
「何があったか知らないけど、あんたもその扇子もほんっとに最低だ!」
本気の佐助の叫びに、吉はくすくすと笑うばかりだった。