日出づる国の守護 02



いつも泊まる部屋は晴久のために整えられている。晴久以外が使うことはない、と気心の知れた侍女が教えてくれた。それは吉の言い付けだと言う。
いつもよりも少し豪勢な酒宴が開かれ、政治的に重要な一日だったのだと肝を冷した人々が殊更にはしゃぎ、晴久も楽しむ振りをした。吉はいつものように笑うばかりだった。
夜半を過ぎ、床に着いても眠れない。
床を出て、美しい庭に面した障子を開き、月明りに照らされた花々を見る。その中には出雲から株分けして贈った花もあった。強すぎる香りの花は別の場所にある。その花壇の場所も晴久は知っていて、滞在中、気が向けばふらりと一人で見に行くこともあったし、それが許されていた。他国の国主が城内を一人で歩き回るなど、本来許されることではない。晴久だから、家族だから。そう言って許される。
疲れたな──滅多に思わないことを思い、畳の上にごろりと横になる。僅かに吹き抜ける夜風が心地良かった。
なぜ疲れたかは分かっている。
自分でも気づかなかった心の奥底の願望に直面し、まさか、と自らを疑い、驚愕し続けた日々がやっと終わった。全ての緊張が解けた。
こんなに楽になれるとは思ってもみなかった。
魔王は知っていたはずだ。蠢く地方の武将たち、口さがない噂、来なくなった手紙の返事。
悪いことをした。晴久は思う。
──きつに、悪いことをした。
繊細な女だ。よく知っている。いつもは大人の顔で晴久をあしらい、晴久には見せないようにしているが、人の心の機微に敏感で、とても優しい女だ。政治的な決断をする時に冷たい顔をするのは、そうでもしなければ繊細な心が押し潰されるからだ。
可愛がっている弟からの手紙が来なくなり、しかし嬉しくない噂は耳に入っていただろう。
不安だったろうか。
裏切られたと思っただろうか。
──きっと、どっちもだ。悪いことをした。
月を見上げる。見事な満月だ。砂丘で見る月よりも霞んでいるように見えたが、これはこれで綺麗なんだろうな、と思った。
綺麗なものは好きだ。花も、月も、字も、文も。
そう──綺麗なものは本当に好きだ。
なぜ綺麗なのだろう。なぜ綺麗になったのだろう。考えることが楽しい。
子供だった時、砂と風の陣で天女に言った。

綺麗なもんは、好きだ。

「……綺麗なものは、好きだよ」

声に出して呟いていた。
だからだろうか。
月明りの中、障子の影からついと顔を出した綺麗な女が微笑んだのは。

「どうしたんだよ。こんな時間に」
寝転がった姿勢で吉を見上げる。吉は静かに微笑んだまま、寝転ぶ晴久の隣に座った。
どうしたんだよ、と言いながら、晴久は分かっていた。

俺の恋は今夜、終わる。

起き上がり、吉と並んで座る。
いいにおいがする、と思った。初めて会った日にも思ったことだった。

「きつ」
「ん」
「昼も言ったけど」
「ん」
「俺、天下を降りる」
吉は答えなかった。晴久は淡々と続けた。吉がここに何をしに来たか分かっていたからだ。
「結局、砂と風の中から出られなかった。──出るには、織田を倒さなきゃいけないから」
俺はそんなことできない。晴久は言った。

したくないんじゃない。
できないんだ。
出雲にはそこまでの力がねえんだ。

その言葉に、吉は微笑を深くした。
晴久が確かに、織田への抵抗を一瞬でも考えた証明だったからだ。
それを隠すことなく、冷静に分析し、導き出した結果を正しく悪びれずに口にした晴久を許す微笑だった。
「俺は決して、愚鈍な武将じゃねえと思う。自惚れじゃなくて」
「ん、ん」
二度頷き、吉は弟の自己評価を肯定する。こんな時だが晴久は嬉しかった。吉に高く評価されること、それは一種の名誉だと分かっている。
「でも──だから、か。もし出雲が天下獲りに名乗りを挙げれば、その先に待つ未来が分かるんだ」
「……ん」
「織田に潰されるよな」
吉は答えなかった。肯定の証だった。無言で肯定の意を示すこともある女だった。
「だったら、最初から織田に下らなきゃよかったじゃねえかって──言った家臣もいるんだけど。それも違う。あのままなら織田が出雲を見る前に、毛利あたりとぶつかって、中国は滅茶苦茶になってた。天下どころじゃねえさ」
「──そう、なァ」
「だから結局、さ。出雲はハナから駄目だったんだ」
月を見上げる。綺麗なものだ。
今は隣に座っている天女も綺麗なのだと知っている。だが敢えて見ないようにしていた。
天女がこの時間、この場に来た意味を知っていたから。
「そんな国から出られる奴なんて、一握りだ。きつみたいな器がある主君か、自由にさせてくれる主君を持つ、幸運な部下か。そんな奴らだけさ」
俺は、と呟いた。
「……俺は、そこまでの器は、ねえんだ」
吉は答えない。
無言で示した。
無言で、肯定の意を示した。
それは晴久を傷つけなかった。むしろ自己評価が誤りではなかったことを実感し、今日の選択を後悔することは決してないだろう、と安堵することができた。
「俺は出られなかった。せめて、幸運な部下を増やしてやりたいんだ。だから天下は諦める」
出雲を安定させる。晴久は語った。出雲を安定させるよ。何が起きても大丈夫な国にする。経済力だけじゃなくて、他国に攻め入り続けることはできなくても、出雲を守り抜く国力だけは保ち続ける。誰が出雲を狙っているか見定めて、誰が行動を起こすか事前に予測する。出雲を脅かすなら戦う。出雲は何があっても大丈夫な国にしてみせる。それこそ──
「織田が倒れてもな。俺は出雲を護るよ」
初めて天女と出会った日。そうだ、あんなにも昔に既に教えられていたことを、やっと実感として学ぶことができた。
天女は迷いの中にいた子供に言ったのだ。


護りたきものあらば、護ればよし。護る力なくば、力を手に入れねばならぬ。


護る姿を見た家臣は、主君を護ろうぞ。
いかな姿であろうとも、いかな泥を被ろうとも、
それが我が身を護る主君の姿であらば、
いずれ家臣も民も、主君を敬し、護ろうぞ。
護らぬ主君なぞいらぬ。
敬されず、護られぬ主君なぞもいらぬ。
なれば好きに逃げるがよし。
国を捨て、民を捨て。
護るべきものを護れぬのなれば、逃げるがよし。


「……やっと分かったよ。俺にとって出雲って何なのか。戦乱の世って何なのか」
闘い、奪い、与えるばかりが戦国武将ではない。
与えるために護り、命を賭けることもまた、戦国武将たる存在なのだ。
覇者の座を目指す他の武将には嘲笑されるかもしれない。
魔王のお気に入りの腰抜けめ、と言われることもあるかもしれない。
この時代、それなりの国力がありながら、武将の夢たる天下獲りを自ら放棄しようとは。
所詮は魔王の庇護がなければ何もできぬ子供であったかと笑われるだろう。

それでもいい。晴久は思う。
それでもいいんだ。俺は分かったから。

俺は天下を獲れる器じゃない。
出雲にはその国力がない。
だが、俺は、出雲は──他の武将にはない力が、あるんだ。

「だから」

護る力が、ある。
俺はそれを知った。

「俺は、天下を降りる」

吉は答えなかった。その沈黙は肯定の沈黙ではなかった。晴久もそれは感じた。
だが、誤りだと思われているわけではないとも感じていた。
だから言わなければならなかった。
「きつ」
「ん」
「俺、褒美とか。いらねえから」
初めて、吉が座ってからゆっくりと身動きをした。首を巡らせて晴久を見る。晴久も同じことをした。
不思議だった。初めて出会った時から、天女は何ひとつ変わらず美しいままだ。いつまでも美しいのだろう──そう思ったし、そう願った。
「天下を降りることは屈辱じゃねえし、褒めてもらうことでもねえから。ただの政治的判断だ」
「……晴久」
「だから──俺は、きつの弟のままがいいよ。褒美はいらねえ」

だから、
俺は、
きつを抱けなくて、いい。

「……そ」
吉はそれだけを言った。
何を言っている、ということすら言わなかった。

天下を降りると言った武将の心情、しかも歳若い青年であれば、思うところは他人には計り知れない。
そして過去から敢えて気づかぬ振りを互いにし続けていた現実。吉とて気づいていた。知っていた。

ではせめて、というつもりでもなかった。
欲しいものを──正しい決断をした傘下の部下に与えようと、与えることこそが自らの役目だと知っていただけだった。
それはいらぬと部下が言うのであれば、無理に与えるつもりもなかった。
その褒美よりも、これからも傍にあることを欲するのであれば、それを与えるべきだと思った。

「なればもう、しずまりや」
寝ろ、と言い置いて吉は立ち上がる。いつも通りの言い草と態度だ。晴久は笑った。
笑って、立ち上がった吉の手を掴んだ。
吉が振り返る。晴久は俯いたまま笑っていた。
「ごめん。今日だけ」
呻くような声は、まるで泣いているようにも聞こえた。だが泣いてはいなかった。泣いてはならぬと国主の己が言っていた。
「今日だけ、朝まで一緒にいてくれよ」