日出づる国の守護 01



初めて会ったのは砂と風の中だった。
重圧に押し潰されそうだった少年を救い上げるがごとく現れた天女に見えた。
後の彼女はそれを聞き、大変な間違いだ、と大笑いをしていたが、少年だった彼は苦笑いをするばかりだった。

次に会ったのは山の上の城だった。
少年が少年のままでいることをやめ、ひとりの為政者として、天女の顔をした魔王と対峙することになった。

信貴山城という場所で再び会った天女はやはり美しく、そして少年に優しく、だが少年が為政者の片鱗を見せた瞬間に怜悧な視線を投げかけた。
その視線は少年の背筋を冷たく震わせるには充分すぎた。
だが少年は臆すことだけは辛うじて耐え、声の震えを必死で律し、魔王と友好な関係を結ぶことを強く望むと告げた。その理由も隠さずに説明した。

出雲の現在の国力では、隠されている資源を確たるものにできず、武力で他国に抵抗し続けることは難しい。なれば今後間違いなく天下を掌中に収める可能性が最も高い織田に与し、資源開発の援助を受ける代わりに、真摯な恩返しを行うことを望む。
魔王とて西と中国の重要地点にある出雲を武力を用いず抑えておけることは決して悪いことではない。
むしろ長曾我部や毛利といった厄介な勢力を牽制する効果があるはず。

魔王は言葉ひとつ発さず、身動きひとつせず、静かに少年の話を聞いた。
少年が話し終えた時、魔王は僅かばかりの笑みを見せた。

せんもじの、およずけな。

尾張の方言か、と控えていた誰もが思った。だが魔王側の者も即座に分かった顔をする者はなかった。二人だけ、魔王の横に侍っていた美しい男と、この信貴山城の城主という男がちらりと視線を魔王に送り、二人して唇の端を持ち上げ、声無く笑っただけだった。
返事をしなければ。城主以外は焦っていたかもしれない。
気難しいで知られる魔王が、少年の返答がないことに怒るかもしれない。そうなればこの会談はおしまいだ。持ちかけられたこの会談のために尾張から遥々足を運んだ労苦が無になれば、魔王は常より怒るに違いない。

たが、少年は「ああ」というような顔をした。
その顔に魔王は「あら」というような顔をした。
少年は答えた。

ひめさんの、きやもじな。

一番最初に口元を綻ばせたのは城主で、次に美しい男が苦笑した。
控えている者たちは視線を交わし合い、魔王を窺う。
魔王が──くすくすと笑った。

そして言った。
魔王ではなく、天女が。

あァ、晴久。よう参った、ナ。ひもじくはないの。何ぞあがるかえ。

本当に嬉しそうに言う天女に、少年は心から安堵して笑い返し、答えた。

きつが腹減ってんなら、一緒に食べよう。

周囲が腰を抜かしそうな口をきき、城主や美しい男を流石に唖然とさせた。
天女はそれも喜び、両国にとって重要な政治の話を早々に「全て互いに良いように」と纏め上げ、滞在予定の残りの数日を晴久と過ごし、大いに楽しんだ。ことに少年がお守り代わりに紅い扇子を胸に入れていたと聞き、周囲が驚くほどに声を上げて笑った。

元の持ち主に命を賭してまみえると申すに、それからもろうた扇子を持っておったの。

少年は肩を竦めるしかなかった。

きつのだからさ。だからきっと、きつが考えてることが分かるかなって思ったんだ。

天女は微笑んでいた。嬉しそうな笑い方だった。その答えが気に入ったのだ。なぜ気に入ったのかは少年には分からなかったが、美しい男が眉をひそめたので、天女以外には嬉しい答えではないのだろう、と少年は知った。天女は天女で、魔王も天女だ、政治の時は少し怖いけど、魔王も天女だ──そう思う少年と、そう思いたくない美しい男の間には最初から隔たりがあった。
だが天女はそう答えた少年が可愛くてならず、会談の場を提供した城主に丁寧なもてなしを命じ、城主は薄く笑いながら自分の役目を楽しむことにした。
滞在の数日が終わる頃には、少年は既に周辺国に「魔王のお気に入り」と認知されるまでになった。

あれは試験のようなものだったのだよ、と、後で城主が少年に説明した。会談の時に魔王が発した言葉は古い時代のもので、それが分かる教養のある相手には初の会談でも踏み込んだ話をするようになり、分からない者にはそれなりまでの話しかしないと言う。
魔王は「おとなしいお相手だ」と言い、少年は受ける形で「綺麗な姫様だ」と答えたのだった。一見すれば噛み合わない会話だが、少年の返しは転じて「あなたが綺麗だから見惚れていて、言葉も出なかった」と解釈されることも可能になる。不器用にも思われた少年は、周囲の予想以上に古典の知識を持ち、それを披露する度胸もあった。
魔王はそれを喜び、砂と風の国の少年を大いに可愛がり、互いの国へ帰っても手紙の遣り取りを頻繁に行った。
少年は天女に淡い恋心を抱いたまま手紙を読み、返事を返し、やがて「天女が喜びそうな」美しい文章を書くようになった。
織田が安土に本拠地を置いてからは、同盟の確認を口実に足を運び、数日滞在して天女を喜ばせた。古典の話、歴史の話、茶を立て、歌を詠み、──その合間にまるで世間話のように政治の話をした。少年の国は急速に安定した政治を手に入れることになった。魔王の導きを的確に理解する少年の資質は、諸国に予想外の衝撃をもたらしていた。

魔王のお気に入り、魔王の威を借りた子供、魔王がいなければ──好奇心と嫉みの中で囁かれる言葉の数々に、それがどうした、と、少年はいつの間にかそう言える強さを身に付けていた。
それがどうした。何が悪い。羨ましいのか。正面切って言えやしねえくせに。そう言ってのけ、相手を小馬鹿にするように笑った顔は、もはや少年のものではなかった。
自分を迎える時は常に優しく笑い、憂いなど微塵も見せぬ天女が、魔王としてどれほどの偉業を成し遂げているか。その裏にどれほどの苦悩が隠されているか。
間近にいたからこそ知った魔王の横顔の数々が、少年を子供の世界から引きずり上げて行った。

青年となった出雲の国主は益々内政に力を入れ、魔王への恩義を忘れず、そして淡い恋心は深い慕情となった。
それでも、どれほど二人だけの時間を過ごそうと、青年が天女に欲を見せることはなかった。
弟だから、といつも天女は笑って言った。
こんなに賢くて可愛い弟は他にいない、自慢の弟、と家臣や他の誰かに言う天女を見るたびに、晴久は苦笑するしかなかった。

欲など見せられるはずがない。

欲を見せれば終わりだ。
そう思っていた。それは間違いではなかった。
きっと天女には俺の慕情を知られてはいないのだ、と思い込めるほど、青年は愚鈍ではなかった。むしろ人よりも早く様々なものを見、必要な事柄を拾い上げ、真実を理解して国を治める経験を積んでしまった青年はそこまで子供ではいられなかった。
天女は弟の慕情を知っている。それでも素知らぬ振りで逢瀬を喜び、少年の頃と変わらず可愛がり、よい縁談はないのかとからかってもみせる。
それは天女の意思表示だ。
このままでいよう。このままでいればいい。
このままでいることが、織田にとって、尼子に取ってこの上なく良いことだから。

そしていつの頃か、青年は気づいた。
ああ、誰もいないと思われている天女には、本当は──誰かがいるのだ。
天女は恋の話を酷く嫌がるきらいがあった。歌の詠み合いをする時、離れた妻を想う歌をつまらぬと切り捨てる。男も女も好みそうな、少しばかり色めいた話すら不機嫌になる。古典の話題の時でもそれは同じだ。魔王は尼か、と陰口を叩かれるほど、天女は恋の話を遠ざける。
それでいて、稀に、本当に稀に、誰かを想うような遠い目をする。
誰が傍にいることに気づくとすぐにいつもの目に戻るが、青年は確かに何度かその目を見ていた。

それは誰。きつが好きな人って誰。

どんな無遠慮なことでも訊ける仲だと分かっている。
それでも、誰、とだけは訊けなかった。

時代は急速に動いていた。織田は仇敵を打ち破り、甲斐の虎すらも迂闊にことを構えられぬほどの勢力を掌中に収めた。
奥州では伊達という若い力が芽吹き、破竹の快進撃を開始する。
地方では眠っていた名将たちが次々と立ち上がった。
天下を、と、誰もが野望を抱くに至った。
織田を見ろ。
織田のように。
織田に成り代われ。
全ての国が夢を見る。
その中に青年の国がないと誰が言い切れただろう。

青年は家臣たちに是非を迫られた。
このまま織田の配下で終わるのか。出雲にはもっと力があるはずだ。
国主にはその力がきっとある。
天下を。
織田に成り代われ。

ああ、と、青年は呻いた。
またあの重圧だ。砂と風の中に閉じ込められて、得体の知れぬ重圧が魔物のように襲い来ていた少年の頃を思い出す。
もっと、もっと。人々はいつまでもそう願う。
子供を少年に、少年を青年に。
それは人々の願いでもあった。
そして人々は欲を出す。

青年を覇者に。
天下を出雲に。

砂と風ばかりの国から、本当の意味で出ようじゃないか。
それは少年の悲願だったはず。

人々は青年に迫る。
決断を。
出雲を天下の頂点へ。
頂点へ上がろう。

世間がひそやかに囁き始める。
どんなに仲がよくたって。
どんなに姉と弟だからって。
この時代だ。
こんな時代だ。
誰よりも傍にいるじゃないか。
いつだってその気になれば。
織田を裏切れる。
誰よりも天下に近い。

いらぬ囁きに青年は唇を噛む。

いらぬと言い切れぬ自分に嫌気が差す。

そうだ。いらぬと言い切れぬ。
俺はできるかもしれない。
あんなふうにはできなくても、魔王にはなれなくても、俺は違うやり方で。

青年は振り返る。思い出す。
砂と風の中で不安に押し潰されそうになりながら生きていた日々。
外に出たくてたまらなかった。
天女と出会った。
その時は天女のためと信じて剣を抜きもした。
あの言葉を今も覚えている。


尽くしたらば、知れようぞ。


俺は尽くしたよ、と青年は思う。あの日の天女に語りかける。
俺は尽くしたよ。
織田に頭を下げて、内政を整えて、銀山を確実に出雲のものにして、港を拓いた。遠くの国と陸路でも交易を始めたよ。
戦では織田を心から助けてる。
織田だけは裏切るな、って、国の人間に植え付けるようにしている。

それは全て──出雲のためだ。
俺が出雲にできることだ。
俺の能力でできることだ。

でも、本当は。
俺はできるかもしれない。

出雲の外。

外に出るのなら。
外に出たのなら。

そこには天下があるのだろうか。
天下があるのか、外があるのか。
俺は獲れるだろうか。
魔王の全てを見て来た俺なら、あるいは。

人々の声は大きくなる。
家臣の誰かは青年に天下を囁き、誰かはそれはなりませぬと止めに入る。
魔王の耳にそれが届かぬはずがない。
だが天女からの手紙は相変わらずで、それでも少しばかり短い手紙になっていた。
晴久は返事を書けなくなっていた。

天下を。
織田に成り代われ。
織田に──

織田に、成り代われ。

青年は呻くことをやめた。
決断を下した。
ただひとりで、その決断を下した。

外に。

外に、出ろ。




「アレ、ま」
いつものように同盟の確認を口実に遊びに来たはずの晴久が、いつもの着流しではなく正装であったことに、吉は目をぱちくりとさせた。そして自分が略装であることを思い出し、やや気分が悪くなる。晴久が事前にひとこと言ってくれればよかったのに、と思ったのだ。
「晴久、珍し。よき男振りなれど」
居並んだ織田の家臣や侍女たちも、それぞれに好意的に頷いてみせる。最近では物騒な噂も聞くが、出雲の国主、魔王のお気に入りは、彼ら、彼女らの大方にも好意を持たれていた。光秀だけが常に彼を冷たい目で見ていたが、その理由を知る者は晴久しかいない。
いつもなら晴久は吉に、ともすれば家族よりも無礼な口を利くが、今日はそうではなかった。
「織田上総介信長公に御機嫌よう」
親しみの欠片も見せず、礼儀正しく頭を下げた晴久に、吉はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと姿勢を正し、同じく頭を下げてみせた。
「出雲守護代には御機嫌ようならっしゃいまして」
「織田上総介信長公には御変わりあらざりて、まこと慶賀に絶えざるところ」
「出雲守護代にはご懸命をこうむりおしまりもなく、おするするとご到着あらしゃりまして、まことおよしよしに」
初めての会談の時よりもずっと複雑な挨拶を交わす。いつものように明るい会話を期待していた家臣や侍女たちは戸惑ったが、二人の様子に慌てて平伏した。吉の傍らに控えていた光秀だけが何かを予想し、冷たい笑みを浮かべ、儀礼的に頭を下げる。武将同士の挨拶とは思えませんがね、典雅な姉弟だ、と心の中で呟きながら。
やがて吉と晴久が姿勢を戻す。
だがいつものように親しい者同士の姿勢ではなく、明らかに重要な会談をする国主二人の姿勢と距離だった。
晴久は吉を見た。
綺麗だな、と、子供の時から何度思ったか分からないことを、今また強く思う。
こういった政治が絡むと予想した時の吉は殊更に綺麗だ。怜悧で気高く、なまじの者では顔も上げられない威厳を見せる。
自分とて、初めての会談の時には背筋が寒くなった。声の震えを隠すことが精一杯だったことを覚えている。
今はどうだろう。
ああ、と思う。
ああ、俺は──

俺はいつの間にか、魔王を正面から見ることができるようになっていた。
背筋が寒くなることも、声が震えるのではないかと怯えることもない。
それは──

魔王が俺を育ててくれたから。

「単刀直入に申し上げる次第」
「人の払いは」
「不要」
「是。拝聴」
手短に、という晴久の意思表示に、吉は頷く。
そして晴久は口を開く。
出雲の決定を言葉にする。

力がある。
天下を狙うには充分だ。
誰の密やかな、最近は密やかですらない声を背負う晴久は、いとしくてならぬ天女ではなく、恐怖と栄華を誇る魔王を見る。

全ての想いを込めて、晴久は──出雲守護代は、告げた。


「出雲は上るに値せず
 織田が天下を獲りたまえ」


出雲は天下を望まない。
織田が獲ることを望む。

それは宣言だった。
天下はいらない。織田の傘下で構わない。
これからも今までのように支えて行く。
そう伝えたかった。

俺は天下を降りる。

魔王は答えなかった。
ただじっと、出雲守護代を見ている。
晴久はその目を見返した。
見返しながら、自分の選択が過ちではなかったと知った。

あの日のように、背筋が寒くなったのだから。

どれほどの時間が経っただろうか。
二人以外は頭を上げることも許されない時間。

やがて魔王の美しい唇が動いた。
唇から美しい声が零れ出でた。

「せんもじの、およずけな」

晴久は息を吐き、苦笑した。
何とかその笑い方を返すことができた。

「ひめさんの、きやもじな」

笑い返すしかなかったのだ。
天女が眉をひそめて微笑んでいたのだから。

「晴久」
「うん」
もうおしまい、と、名を呼ぶことによって吉が宣言した。晴久も受け入れる返事をする。
お互いに脚を崩し、いつものように脇息にもたれ、少しだらしない格好をした。
「茶を立ててたも。喉が渇いた。晴久がこわい顔をするから、きょうがってしもうて」
「嘘だ。きつが驚くなんてあるもんか」
「アレ、いやな!」
吉が声を上げて笑い、晴久も同じことをする。
ようやく場の緊張が解け、その場にいた人々も何とか笑ってみせることができた。