日出づる国の守護 03



姉が弟を甘やかす。そんな夜があってもいい。
傍から見ればそうは見えなくても、二人が知っていればいいことだった。
姉の膝の上に頭を乗せ、髪を撫でられながら、弟は小さく話す。
ずっと手紙の返事を書かなくてごめん。
すぐにそんな噂は嘘だって言えなくてごめん。
吉はそのすべてを許した。もうよいから、と何度も言った。
やがて晴久は、ずっと訊けなかったことを訊く。終わった自分の恋を忘れたいがために、恋の話を嫌う吉に残酷かもしれない問いを投げる。
「きつの好きな人って、誰」
「さて、ナ」
吉はとぼけようとした。
だが、いるんだろ、と言われると、観念したように息を吐いた。
「……誰にも、ひみつだえ」
「いいよ」
光秀だろうか、それとも久秀──晴久は思う。
「竜の右目」
一瞬、誰のことなのかとすぐには分からなかった。あの武将、それともあの武将──思い出すまでに数秒かかった。
だが思い出した途端、まさか、と驚愕する。動こうとした晴久を咎めるように、髪を撫でる手に力が僅かに入れられた。だから晴久は動けない。
「……ほんとに?」
「前に。市が腰入れの前に」
祝言を挙げた。吉はそう言った。晴久は動かぬまま、信じられないと思っていた。名のある武将だと考えていた。もしくはそうではなくとも、織田と深い付き合いのある誰かだと思っていた。
あの男なのか。竜の右目──片倉小十郎。奥州が天下獲りに短期間で食い込んだ理由のひとつでもある、武に長けながらも智将と名高いあの男。
吉が嘘をつくことはない。
やがて晴久は深い息を吐いた。ああ、そうか──だから吉はあんな目をするのだ。それが分かった。
会いたくても会えない。出会うことがあっても言葉を交わすことも難しい。
「この間、やっぱり茶会に出てればよかった。旦那さん、見ておきゃよかったな。伊達にしか会ってねえ」
「ふふ」
「どんな人。いつ知り合ったの。どこで」
「欲張りな問いばかり」
吉は苦く笑うが、晴久を責めなかった。
月明りの下、ぽつりぽつりと吉が言葉を零す。
いつも聡明で分かりやすい話し方をする吉とは思えないほど、不明瞭な話し方。ただの女が不意に恋の話を白状しなければならない時の話し方だった。
晴久はじっとその話を聞く。

雪が酷くて。
寒くて。
でもあたたかくて。
狭い小屋の中で二人きりで。
色々な話を聞いた。
優しい人。
教養のある人。
笛が上手で。
背が高い人。
手習いをした。
ゆきという名をもらった。
鶴を最後まで折ることができなかった。

晴久は黙って聞いていた。質問もせず、吉が途切れ途切れに語るに任せた。
聞かなければよかった。そう思った。
およそ誰もが欲する全てを持っている女が、ただひとつ手に入れられないものを知らなければよかった。

俺は恋を終わらせてよかった。
俺はこの空隙を埋めることはできない。

俺では、好きな女を幸せにはできない。

そう思わなければ吉を可哀想だと思ってしまいそうだった。それだけは過ちだ。吉は決してそんな同情を望まない。
長い間、傍にいる。だから分かる。
吉は自らに役目を課している。戦乱の親たる存在であるよう、それが自らの役目だと信じて生きている。
だから同情だけはしてはならないのだ。
夫と共に生きられぬからと言って、なぜそれが彼女にとって同情されるべきことであるのか。同情を望むべきことであるのか。

「俺、旦那さんに負けたんだなあ」
吉が律儀に笑った。晴久がそう言うことによって、女を哀れまないようにしたのだと分かった。
「でもさ」
「ん」
「それなら、あの茶会の時、本当に伊達を斬っちまえばよかったな」
「──なにゆえ。まァ、物騒な」
あの牡丹の花々の中、晴久は政宗に斬りかかった。政宗が吉を害するのではないかと判断したからだ。
正しくはない判断だったが、誤った行動でもなかった。
だが今、斬っておけばよかったと本気で思う。
「だって、それなら。旦那さん、奥州にいる意味ねえだろ。どこにでも行ける」
「……それはなかろう、なァ」
「何で」
晴久からは見えなかった。
吉は眉をひそめ、微笑んでいた。見る者を寂しくさせる笑い方だと、本人だけが気づかない。
「主君が斃れれば、旦那様は後を追われる」
「……そういう人?」
「ん。だから」
仔竜は、と吉は呟いた。

「仔竜は、哀れな者よ」

その意味が晴久には分からなかった。殉死するほどに敬されることは、主君として最高の栄誉ではないだろうか。
だから素直に、意味分かんねえよ、と言った。
吉が答えた。静かに、静かに答えた。

「いちばん信ずる者が、己が斃れた後、なァんにもしてくれのうて、ナ。ただ、死んでしまう」

だから哀れな者。
残すことが出来ぬ者。

「いまだ、旦那様の主君は──主君の成したかたちを残すため生きようと、下の者に思わせる器では、ないの」
「……そっか」
「ん」
「そういう考え、したことなかったな」
「いつか」
白い指が、弟の黒髪を撫でる。そして優しい声で言った。
「いつか、分かる。晴久なれば」

護ることを知った晴久なれば。きっと。

そうだといいな。晴久は呟く。
きっと。吉が呟く。


青年は護ることを知り、代償に恋を失った。




織田信長が斃れた。
本能寺で、腹心の部下であった明智光秀に──その情報は日の本全てを震撼させた。事実と確認された途端、各地の武将は気炎を上げ、同盟を見直そう、あの国と、この国と、織田はもう駄目だ、それならば──過去にないほどの混乱の中、出雲もまた例外ではなかった。
正確に言えば、晴久以外の出雲の者も。
今こそ再び天下を。
どうぞご決断を。
進言する者の多いこと、慎重論を唱える者の方が少ないほどだ。
しかし晴久は無表情に話を聞くだけだった。
業を煮やした若い家臣が晴久に詰め寄った。

織田はもうないのです。
今こそ魔王に成り代わる時。
魔王の庇護にあると言われ続け、お辛くないはずがありませぬ。
今こそ織田を切り、日の本の覇者となられませい。

晴久の答えは簡潔で、そして、初めての答えだった。
その家臣を一刀のもとに斬り捨てたのだ。
「出雲が」
血に塗れた刀を手に提げたまま、晴久は静かに言った。
居並ぶ家臣たちは無意識に平伏した。
斬られ伏した男から流れる血が自らの元まで辿り着いても、顔を上げることも、動くこともできなかった。
「出雲が、魔王の庇護のみで成り立っていたと思う者は出奔しろ。俺の首を挙げても構わねえ」
晴久の声はどこまでも静かだ。血塗れの刀と着流しの姿とは余りにも不釣合いで、誰ひとりとして声を挙げることが出来ない。
「確かに出雲は魔王に多大なる恩恵を賜った。だが──出雲とて、西に到る織田の軍勢に磐石たる支援を送り続けている。これがどういう意味か分からねえ奴が、この機に乗って天下を獲れと寝言を吐く。戦乱の親たる信長公がお聞きになれば嘆くだろうよ」

出雲は変わらない。晴久は宣言した。

「出雲は何ひとつ変わらねえ。戦乱の親が斃れようとも、これからも支援を行う。──天下を獲らんとする戦乱の子の誰かに支援を行う」

織田ではない。
織田でもよい。
戦乱の親たる魔王が整えた道を我が物顔で歩むであろう戦乱の子たちの誰か。
その誰かは出雲が選ぶ。
誰もが出雲を欲するだろう。
だからこそ出雲は何も変わらない。
望む子の誰かに力を与えよう。
望む子の誰かを護ろう。
それこそが戦乱の親に育てられた、護りたる出雲の生き方。

あの月の夜に知った。教えられた。
そして今、思う。
天女は言った。

──成したかたちを残すため生きようと──

きつ。
見えるか。
どこかで見ているか。
それでも見えるか。

きつが成した道を、戦乱の子たちが歩んでいる。
それが野望のためであっても、それは確かに残すためだ。

織田が倒れて、俺はやっと本当の意味で分かったんだ。
きつが成した道──これが、きつの役目だったんだな。

凄いよ。
俺には考えもつかなかったよ。
俺の器はその程度で、きつにはとてもかなわなかった。

だから俺は、これからも、俺の器でできることをする。

「気づけ」

声もなく平伏したままの家臣たちに、国主は厳然と宣言した。

「出雲こそが、天下を護る国である。日の本を護る国となる」

誰一人、顔を上げることはなかった。
それぞれに心の底からの声を出し、更に深く平伏する。
少年から青年へ、そして今、青年から名君へと成った国主の声は、まるで啓示にも等しい響きを含んでいた。

護ってみせる。
出雲を。
戦乱の子らを。
戦乱の親が残した道を。

魔王が人生を賭して産み出した、未来への道標を護る。

天下を護る国である。
日の本を護る国となる。

それこそが護りたる国、出雲の役目。