佐助から話を聞いた晴久は「ふうん」と言っただけだった。少々拍子抜けし、佐助は相変わらず背後から問う。いずれ顔を見られることもあるだろうが、今はその必要がなかった。晴久も見るつもりはないようだった。
「それだけ?」
「何が」
「もっとこう、意外だなーとか、驚く反応しないもんなの、国主様ってのは」
「予想通りだからどうでもいい。右目も馬鹿じゃねえから、ああ言っときゃ手前の足りてねえとこが分かると思ってな」
「……あ、やっぱり、わざと梟のこと話したわけ? 右目の旦那に?」
「知らなかったのか、って驚く演技も大変だった」
「あれ、悪くなかった。俺様も騙されたよ」
「女が昔の男の話を夫の前でするわけねえだろ」
「たまにいるけどねー」
言いつつ、佐助はこの青年への警戒度を上げることにした。幸村の安全のために協力する心は変わっていないが、思った以上にしたたかだと断定した。そのしたたかさが何に発揮されるのかを見極める必要がある。しばらく晴久の監視も必要だ、と思った。
詰め所で夫婦が二人きりで話していた時、佐助は不本意ながら政宗が幸村に何くれとなく話しかけることを見逃し、密かに夫婦の話を窺っていた。分からない点もあったが、色々複雑な夫婦なんだな、と思ったのは確かだった。
「結局、仲直りどころか、夫婦の問題点を解決させてあげようとしたわけ?」
「解決しなけりゃしねえで、きつを出雲なり尾張なりに連れて帰る予定だったんだがな。ま、解決したならいいだろ」
「右目の旦那が嫌いだから、ああいう話をしたんじゃないの」
「嫌いじゃねえ。気に食わねえだけだ」
「どう違うのさ」
「お前ん中じゃ違いがないのか?」
「俺様、嫌いなものってひとつしかないからなあ。ちょっと分かんないな」
「ひとつだけか。それもすげえな。何が嫌いなんだ?」
佐助は涼しい声で言った。
「魔王の姐さん。俺様、あの女ダイキライ」
晴久は暫し無言だったが、やがて僅かに声を出して笑った。佐助は涼しい声に相応しく、涼しい顔で晴久の背中を見ていた。分かってくれなくていい、と思っていたし、晴久が分かるつもりもないのだと、何となくその背中から感じ取った。
「生きる世界が違いすぎるんだよ」
「そういうことだね。俺様の旦那をあっちに連れてっちゃったから、あの女、嫌いなんだ」
「お前が着いて行けなかっただけだ。きつのせいにすんな」
「そう? 今でも、夢に見るくらい悔しいんだよねえ」
「ま、その話は俺が聞かねえ方がいいだろう。夢の中にしまっておきな」
それから佐助は知る限りのことを話した。
泣いてたよ、と言うと、流石に晴久は驚いた。
「嘘だろ」
「いやほんと。俺様もびっくり」
小十郎は吉を連れ帰るなり、顔を隠した吉を抱いたまま寝室へ向かった。吉を寝かしつけ、後から帰宅した幸村に騎馬隊の不手際を詫びると、また騎馬隊の詰め所へ戻ってしまった。晴久は敢えて顔を出さず、縁側で佐助を待っていた。滞在していた日々で使用人は晴久の気質を理解したのか、呼ばれない限りは近づくことがない。だから佐助も安心して晴久の背後で話をすることができた。
「……ああそう、きつがねえ」
「泣かない人なの?」
「泣いちゃいけねえ人だったんだよ」
「……ふうん」
そうかも、と佐助は口の中で呟いた。
風が吹き抜ける。春になったとはいえ、奥州の風はまだ冷たい。その中で晴久は身じろぎせず、庭を見つめていた。佐助は声をかけることなく、その背中を見つめる。目の前の出雲の国主が今、遠い記憶の中に佇んでいることを知っていた。
やがて晴久が口を開く。
「透波」
「その呼び方、何とかなんない? 佐助ってんだけど」
「透波の名前を呼ぶほど、俺は革新的な国主じゃねえ」
「よく分かんないけど、分かった。我慢しとくよ。で、何?」
「字は読めるか」
「仮名と、あんまり難しくない漢字なら読めるよ」
「読んだら燃やしな」
振り返らぬまま肩越しに、晴久が手紙と思しきものを佐助に差し出した。受け取り、佐助は遠慮なくそれを開く。
「……俺様、いらないんじゃない?」
「俺んとこの透波も優秀だが、お前ほどじゃねえ」
「お褒めに預かり光栄の至り、っと」
晴久は一人で奥州に来たはずだが、それは嘘だったのか、それとも後から到着したのか。
手紙の内容は明らかに、佐助と同じく忍が書き付けたものだった。忍独特の単語が混ざっているのだ。
「──このままだと、梟と闇の女が来週には奥州に着いちゃうね。って内容でいいよね?」
「お前もとっくに知ってんだろ」
「ん。今朝、下の奴が伝書の鴉を飛ばして来たからね」
「何でも話すと言った割には、俺への報告が遅いな」
晴久の声は咎めるものではなかったが、佐助は内心で「しまった」と呟いていた。まだほとんど出来上がっていない信頼関係が、土台を作る前に流れる原因になりかねない。素直に謝る。
「ごめん。隠してたわけじゃないよ」
「そうかい」
「旦那が出かけると思わなかったんだ。旦那が外出するなら、俺は着いて行かなきゃいけなくて」
「俺は真田が梟に狙われようが、本来どうでもいい。そこんとこ忘れんなよ」
「分かった。今回は俺様の手落ち。素直にごめんね」
「理解した。また何かあれば知らせろ」
「どうも」
これでこの話は終わりでいい、という晴久の意思を汲み取り、佐助もそれ以上言わなかった。
気配を消しながら、ひとつ晴久に確認する。
「右目の旦那や尺取虫に、梟と闇の女が来るって話はしなくていいの?」
晴久の答えは簡単なものだった。
「する義理が見当たらねえよ」
俺様もそう思う、と佐助は笑い、完全にその姿を消した。
「まあ、でも」
晴久は呟く。
「夫婦に親切はここまでだ」
──俺がたまたま国主だから、元の身分が違いすぎる夫婦の問題点が分かっただけだしな。
「あっさり認めて謝るとはなあ。旦那さん、大したもんだ」
夫が妻に自らの非を素直に謝ることは中々ないことだ。男の矜持という言葉で理不尽がまかり通ることもある、そんな時代なのだから。
だが小十郎は素直に非を認め、妻に謝罪した。
男女のことだけではない。これは小十郎の人と成りを垣間見るには充分な材料だ。小十郎よりも歳若い晴久だが、立場上、人を見ることが多いからこそ分かることだった。
羨ましいよ、と、晴久は思った。
そんな男を片腕とする伊達政宗という国主を、羨ましい、と素直に思った。
「……気に食わねえけどな」
呟き、立ち上がる。そのまま吉の部屋へ向かった。泣いていたというのなら顔を見せないかもしれない。晴久自身、まさか吉が泣くとは思っていなかった。
泣けない、泣いてはならなかった女が泣いた。
泣けるようになったのだ。泣けるように──
泣けるようにしたのは誰だ。
ああ、あの男だ。
──右目。気に食わねえ。本ッ当に。
幸村はすることもなく、庭師の源爺の仕事を縁側からぼんやりと見ている。佐助が相手をしてくれればいいのに、と思ったが、佐助も佐助で忙しいのだろう。幸村は特に何らかの密命を佐助に出してはいない。だが佐助はいつも自ら動き、幸村が必要だと思った時に必要な情報をくれる。
──ああ、そうだ。お館様に手紙をしたためねば。
無事に到着した、政宗と会った、茶会で吉が信玄から贈られた着物を着る──到着して僅かばかりの間でも、知らせることは山のようにある。
書の道具を借りるため、幸村は立ち上がり、使用人を探して邸の中を歩き始めた。それほど多くの使用人がいるわけではないようだ。それもまた、幸村には不思議だった。邸の主である小十郎は伊達軍では政宗に次ぐ地位にある。邸も充分広い。もう少し多くの使用人を抱えていてもおかしくはないはずなのに。
邸の奥に歩むにつれ、人の気配を感じるようになった。気分が優れない吉のために使用人たちが動いているのだろう。
「真田様」
通りがかった女の使用人が声をかけてくる。
「奥様に御用でいらっしゃいますか」
「ああ、いや、そういうわけでは。この先はきつ様のお部屋なのか?」
「さようでございます。先ほど、尼子様がお見舞に」
「晴久殿が」
幸村は足を止めることにした。吉の顔を見たいが、具合の悪い時に無理に押しかけては迷惑だ。しかもあのような騒ぎの後では、いかな吉とはいえ──むしろ吉だからこそ、幸村に会うことを躊躇うだろう。
晴久のようにわきまえた、家族同然の相手であれば話は別だが、自分はまだ未熟で、些細な無礼を働いてしまうかもしれないと分かっていた。武芸だけではいかぬのだな、としみじみと思う。
「お具合が優れられぬなら改めて。いや、実は、手紙を──」
その時、先の部屋の障子が勢いよく開く。誰かが内側から叩き付けるように開けた勢いで桟を滑り、柱に当たって見事な音を立てた。間髪入れずに何かがそのまま庭へ飛び出して行く。それもまた凄まじい勢いだった。障子に当たらなかったのは運が良かったと思われるほどの勢いだ。室内から投げられたのだと幸村が気付くまでに数瞬を要した。
「御免!」
そこは武人、気づいた瞬間に驚愕に固まる目の前の使用人をすり抜け、すわ吉に何かあったのではと足早に部屋へ向かう。
そして足を止め、今度は呆然とした。障子の桟の前に座った晴久が障子を開いたのだ、と分かった。座ったままの晴久に、つい大声を出す。
「晴久殿! 一体何が!」
「よう。そういえばお前も帰ってたんだっけな。お帰り」
拍子抜けしそうなほど平然とした背中越しの声に、幸村はすぐに返事を返すことができなかった。数瞬の間の後、ようやく大事なことを訊く。
「何があったのでござるか」
「きつが癇癪起こして、俺にさすがを投げただけだ。騒ぐことじゃねえ」
「さすが?」
「小刀」
「小刀!?」
幸村は室内を見る。夜着の片袖で顔の目から下を隠し、それでも怒りと分かる感情をありありと湛えた吉がいた。泣いて腫れ上がった顔を隠しているとは幸村には分からなかった。
女主人の狼藉に蒼褪めたおこうが、それでも忠義深く、夜着姿のまま立つ吉に慌てて打掛を羽織らせる。幸村に気付いた吉が溜息をつく。
「あれ、ま。いやあなところを見られてしもうたわえ」
「え、いえ、それがしが拝見いたしましたのは、開いた障子と飛んで行く小刀だけでござりまする!」
「それだけ見れば充分だえ」
「そ、そうでございますな」
吉が小刀を投げたことに驚けばいいのか、晴久が涼しい顔をしていることに驚けばいいのか、幸村にはよく分からなかった。騒ぐことではないと言われても納得できるものではない。
「気が殺がれたわ」
「よかったね」
晴久が笑う。この状況で笑える晴久が理解できず、幸村は更に混乱した。
「ほんによろしこと。出雲の守護代様、御ン命、永らえなされましたなァ。真田公に感謝なされましや」
「はいはい、俺が悪かった」
「黙りやれ」
「おお、怖」
晴久はまだ笑っている。幸村は吉と晴久を交互に見、戸惑うばかりだ。顔をほとんど隠したままの吉がまた溜息をついた。
「ゆき」
「はい」
「今宵はわらわの不肖の上の弟、せもじにしておくれたも。このざまで、ナ。床からよう出られぬの」
「不肖は余計だし、真田に世話してもらうことなんかねえぞ」
幸村が答える前に晴久が苦笑した。吉はぎろりと晴久を見る。
「姉をはもじな目に遭わせおうて、何ぞ不肖であらぬと申すのだえ」
「恥ずかしいってんなら、ハナから俺が口出したくなるような夫婦生活してんなよ」
ぐ、と吉が言葉に詰まるさまに、幸村は今日何度目か分からぬ驚きを得た。薄々分かってはいたものの、晴久は吉になまじ血の繋がった家族よりもあけっぴろげな口をきくようだ。そしてあの吉が言葉に詰まるとは。
「真田、行くぞ。癇癪持ちの女は面倒くせえ」
「え、あ、はい、その」
「面倒を起こしたのは誰ぞ!」
「どう考えたって、きつと旦那さんじゃねえか。おこうさん、きつに甘い葛湯でも入れてやってくれ」
「かしこまりました」
諦め切っているのか、それとも悟りを開いているのか、忠実な侍女は女主人の「上の弟」に頭を下げる。晴久は幸村を半ば引っ張るようにして部屋を出、障子を後ろ手に閉めた。
「お前が来ると思ってなかった。悪かったな」
今までの飄々とした態度は何処へやら、廊下を歩く晴久が小声で詫びる。幸村は少々ならず驚き、反射的に「いいえ」と答えた。
「それがしも、お邪魔をした様子で申し訳ござらぬ。きつ様は大丈夫でござろうか」
「ああ、いいんだ。怒らせに行っただけだから」
「え?」
「きつは昔から、気分が悪いって時は怒らせた方がいいんだ」
「──気分が悪いのに、怒らせるのでござるか」
「きつの気分が悪いってのは、要は自己嫌悪だからな。感情を別の方向に向けさせないと、いつまでも落ち込む」
「え」
「そういう人なんだよ」
幸村は黙り、晴久の後を付いて行く。陽が傾き、夕日が庭を照らしていた。晴久が続ける。
「昔は他にも考えなきゃいけねえことが山ほどあったからすぐ気分を切り替えただろうけど、今は旦那さんのことだけだろ。旦那さんが忙しい間は、気分を直してやれる奴もいねえ」
「……晴久殿は」
「ん」
「その──よく、きつ様をご理解なされておられる」
晴久は僅かに、笑った。
「弟だからな」
それを言うなら自分も、下の弟と思ってもらっているけれど──そう思い、幸村は黙った。織田と尼子の関係を、幸村はあまり詳しく知らない。姉弟のように強固な繋がりがあり、政治的にも揺ぎ無い同盟があった、という程度だった。政に興味がなかった自分を今、何とはなしに呪う。
もし、もっと詳しく知っていれば、晴久が憎まれ役を買って出る理由も分かったかもしれない。もしかすると、代わりに自分が何かできたかもしれない。何かを思いついたかもしれない。
もし、もっと──そうであれば。
吉を挑発するような笑い方をしていた晴久が、どことなく、自らこそが自己嫌悪しているような背中を見せなくてもよかったかもしれない。
「晴久殿」
「何だよ」
「出雲は、どのような国にござるか」
「は?」
晴久は振り返る。
「それがし、出雲に伺ったことがないのでござる」
晴久は見る。
何かを振り払うように、敢えて笑ってみせる幸村を見た。
「この機に、是非伺いとうござる。守護代からじかに伺えることなぞ、この先ござらぬゆえ」
「──物好きだな」
「お聞かせ下さるので?」
「いいよ」
「有難う存じます!」
本当に嬉しそうに言う幸村に、晴久は皮肉に笑ってみせる。そうして欲しいのだろう、と分かったから。
「お前、声でけえよ」
「申し訳ございませぬ!」
「うるせえ」
笑顔のまま謝る幸村にまた皮肉に笑い、晴久は自分の部屋に幸村を誘った。天井裏なり物陰なりに、佐助が潜むであろうことを予想しながら。
「お具合がお悪いのですか、政宗様」
「不貞寝」
心配そうな顔をする小十郎に、政宗はのそのそと布団から出る。
「不貞寝?」
「何でもねえ。で、お前、何で城に来てんだよ」
「役目でございますれば」
「……ワーカーホリックって言葉があってな」
政宗は役目熱心過ぎる男に溜息をつく。あれだけの騒ぎのその日のうちに、平然と仕事に戻って来るとは。一日くらい、妻のそばにいてやってもいいだろうに。
「姐さん、どうしてんの」
「果てしなく落ち込んでおりますね」
泣いた、ということは政宗にも言わなかった。政宗は信じない──否、信じたくないだろう、と思ったからだ。政宗はどこか、吉をまだ魔王として捉えたがる一面がある。敢えて小十郎がそれを否定する必要もなかった。吉の、魔王の存在は政宗にとって良い刺激になっている。
「お前、無理に帰って来るこたなかったんだぜ。今日くらい、奥さん甘やかしてやれよ」
「俺もそうすべきかとは思いましたが、詰め所からの帰り際、辰蔵からこれが」
小十郎は胸元から一枚の書付を出し、政宗に差し出した。読んだ政宗は眉をひそめる。
「辰蔵が諜報部隊との繋ぎ役だったっけか」
「然様。一度詰め所に戻り、辰蔵に確認いたしましたが、精度の高い情報だそうです」
「狐野郎。あの髭、剃り落としてやろうか」
先立ってから最上との国境付近に出没していた夜盗が、いよいよ伊達領の内部で堂々と活動を始めたようだ。中央からはまだ遠く、被害も少ないが、小さな集落で死者が出ている。たとえ小さいとはいえ人的な被害が報告された以上、黙っているわけにはいかなかった。
「先週送った警備隊がいなけりゃ、全滅だったか」
「その警備隊からも正式な報告が届いております。夜盗と言うには統制が取れた動きであり、武器も明らかに夜盗のそれではなかったと」
「やっぱ最上か」
「証拠はございませんが、警備隊からの報告を併せると可能性が高くなりましたな。大々的な茶会の前にこういったことをされては困りものです」
「茶会の前に叩いておかねえとな」
政宗は不敵に笑う。小十郎は微笑んだ。これだ、と思う。これだ。──俺は政宗様のこんな笑い方がたまらない。
「俺が出る」
「も、でございますな」
「お前も行くのか」
「参りませんと、政宗様がまた暴走なされますゆえ」
キレたら一番暴走するのはお前だろ──それは言わず、政宗は頷いておく。
「何日で出られる」
「最速で三日から四日。中央の守備隊の編成が終わりさえすれば、すぐにでも」
「んじゃ急げ」
「かしこまりました」
開戦するわけではない。あくまでも「夜盗を叩く」だけのことだ。小田原から最上が多少ならず調子付いていることは確かで、ここで奥州騎馬隊が治安維持のための力を完全に回復させていることを知らしめねばならない。
「あの狐、俺がキレて最上に抗議するのを待ってんだろうけどな」
「すればしたで、夜盗であると言い逃れをするだけでしょう。むしろ不名誉な言いがかりとしてこちらに賠償を求めかねません」
「つまり、ただの夜盗ってことにして、俺らがぶっ叩けば終わる話だな」
政宗はそれから軍議を開いた。陽が暮れてからの軍議の招集に家臣は慌てて城に上がり、政宗から伝えられる話を聞く。先日政宗が(ということになっている)矢で狙われた一件もあり、軍議は討伐の気炎に盛り上がった。
こういった有事の際には昔からの取り決めがある。国主である政宗が出陣する場合、代々軍事的な手腕を誇る片倉家、つまり小十郎が大抵共に行く。今回も例外ではない。
だが政宗はやや不安にもなっていた。
政宗と小十郎が中央を開ける際、残って全権を握るのは──代々、片倉家と権力を二分する野元家だ。
今、松永と何かを企み、片倉家の正室に害を及ぼそうとしている疑いのある家の主。
──まさか、こんな時に姐さんに何かするとも思えねえが。
「野元のオッサン」
政宗は一同の前で野元を呼ぶ。野元の現当主である長忠は政宗の父の代から仕えており、既に初老に差し掛かっている。若い奥州ではどちらかと言えば老齢に入る年齢った。
「留守を頼む。──中央は今までと何も変わりねえ。くれぐれもよろしく」
「かしこまりてございますとも」
年輪を重ねた政治家ならではの余裕を見せ、長忠は深々と頭を下げた。小十郎はその姿を見、無表情のままではあったが、僅かに唇を引き結んだ。
軍議が終わり、それぞれが緊張の面持ちで帰路に着き始めた時、長忠が小十郎に声をかけた。周囲はつい足を止め、その光景を見守る。片倉家の代が小十郎に替わり、政宗が奥州を継いでからと言うもの、革新的な政宗の考えに何かと苦言を呈する長忠が小十郎に声をかけることは滅多になかった。そして小十郎自身、長忠のやり方では政宗の理想を実現できないと思っており、たびたび衝突することがあった。
「小十郎殿」
「御用か」
あくまでも対等の立場を貫き、小十郎は長忠には敬語を遣わない。これもまた、二人の対立を深める原因のひとつだった。
「お役目、ご苦労様に」
「かたじけない」
「中央の護りはそれがしに任せ、よく励まれるよう」
「野元殿も、何卒お役目に励まれよ」
白々しいほどに上辺の挨拶を交わす重臣二人を見ながら、政宗は溜息をつきたくなった。
──俺がもうちょっとうまいことやれば、野元のオッサンなんて失脚させられるんだけどな。旧いだけあってあっちこっちに繋がりがあるから、一気にいけねえんだよなあ。
政宗は政治的にも、野元家を遠ざけたいと思っている。内政への発言権が強すぎ、政宗が出す事業案に猛反対することも多々ある。そのお陰で堤防の整備が一年は遅れた、と、自分でも分かっていた。野元が愚鈍なのではなく、若い力に対して慎重なだけだ。だが今は若い力で押す時代なのだ、と政宗は信じていた。
「茶会のご準備もあろうしな。早期にお戻りに。もし必要であれば我が家から人を──妻を手伝いに寄越そう。茶会の準備には慣れている女でね。噂の奥方にもお伝え頂きたい」
いけしゃあしゃあと、と小十郎も政宗も呆れる。小十郎は感情を押さえ、できるだけ素っ気ない口調にならないように気をつけながら答えた。
「御心に感謝いたす。しかし今はそれどころではなく、妻に全て任せているゆえ」
「政宗様がおっしゃれば、すぐにでも協力は惜しまぬ。片倉では初めての大役であろう」
言外に「お前にできるものか」と告げられ、小十郎は少々ならず昂ぶりかけた自分を戒めた。こんなにも分かりやすい挑発に乗ってはいけない。代わりに政宗が口を挟んだ。
「茶会のことは小十郎に任せておいて間違いねえよ。元々、奥さんが招待客の何人かと懇意だし」
「確か──既に、出雲守護代と甲斐の若虎が片倉の家に滞在なされているとか?」
「そうそう。ま、奥さんももう色々準備を始めてるみたいだから、今はオトナの余裕で見守ってあげてくれや」
笑顔で政宗に言われては、長忠も引き下がるしかない。小十郎は政宗に感謝し、しかし一度、家に戻る必要があると思い至った。