家に戻った時間は遅く、客人二人は既に夕食を終えていた。
「……何をしているんだ」
小十郎が呆れた。幸村が茶道具を引っ繰り返し、晴久が溜息をついている。
「真田がどの程度、茶ができるのか見てたんだ。最悪だ」
「……かたじけのうござる……!」
幸村は顔を真っ赤にして恥じ入っていた。
「甲斐で総ざらえはしたのでござるが」
「それにしても、じゃねえか?」
「まあ、普段やらねえとな。どうしても忘れるもんだ。俺も怪しいさ」
それにしても酷い、と小十郎は幸村を慰めつつも思ったが、晴久が諦め顔で片づけを始めたので言わないでおいた。他に言うべき話があった。
「頼みがある。聞いてもらえるか」
「晴久殿と、それがしにでござるか?」
「そうだ。政宗様のご許可も頂いている」
晴久はともかく、敵勢力である幸村に頼みごととなれば、後々政治問題にもなりかねない。それを見越した政宗が、何かあれば後は責任を取ると言い、先に許可を出していたのだった。
「三日後、政宗様と俺と──騎馬隊の主力が国境方面へ出る。一週間ほどで戻る予定だ」
何かあったのか、とは、幸村も晴久も聞かなかった。小十郎の話を待っている。
「最上との国境方面から少々中央寄りで、夜盗の一団が暴れている。被害が甚大になる前に征伐する」
幸村がちらりと晴久を上目遣いで見た。晴久は動じない。だが二人とも同じことを思っている、と小十郎は知っていた。国主と副大将が勘付かぬはずがないのだ。たかが夜盗の征伐に、奥州の主力が動くものか、と。
「その間、中央を護るのは野元だ」
「ふうん」
初めて晴久が声を出し、脇息にもたれた。きつ様が政治の話をお聞きになる時と同じだ──幸村は不意に思い出した。
「俺が野元なら」
晴久が言った。
「これ幸いで片倉の奥さんを殺すね。事故にでも見せかけて。家に火を放つのもいいな」
「晴久殿」
晴久の物騒な物言いに驚き、幸村もつい声を出す。小十郎は苦笑した。
「その通りだ」
「斯様な話であれば」
幸村は勢い込む。
「それがし、全力できつ様をお守りいたす。きつ様の御身に何か起これば、それがしをこの地に使わしたお館様にも申し訳が立たぬ!」
「声でけえよ」
「申し訳ございませぬ!」
「うるせえ」
呆れ顔で言った後、晴久は小十郎に向き直った。
「つまり、俺と真田に今まで以上にきつの身辺に注意を払えってことだろ」
「有り体に言えばそうだ。ただでさえ身分にそぐわぬことを頼んでいることは重々承知だが、何卒願いたい」
「それがしはきつ様の御身の警護ができることを光栄に思っている。斯様なことを申されるな、右目殿!」
幸村の偽りない声に、小十郎は感謝の微笑を返した。
晴久は身動きひとつしない。
気に食わねえ、と、晴久はまた思っていた。
吉の護衛を強化することに異論はないし、むしろ小十郎が中央を離れるのであれば当然だと考えていた。だが今、小十郎の物言いが気に入らないと思った。
──まるで俺が、身分の低い女を護るような言い草をしやがって。
「他の女じゃ知ったこっちゃねえが」
晴久はようやく言った。
「きつならいいよ。俺の姉貴だ」
「かたじけない」
本当に感謝しているという声音を隠しもせず、小十郎が頭を下げる。それもまた、晴久の気に障った。
「何なら、騎馬隊が中央を空ける間、片倉の別邸に移ってもらっても構わない。片倉家の専任の騎馬隊も護衛に付く。中央からは少々離れるが、だからこそ野元が何かをしようとすれば目立つだろう」
「ああ、それもいいな」
でも、と晴久は呟き、それきり黙り込んだ。幸村は晴久の沈黙に戸惑ったが、声をかけない方がいいだろうと直感し、同じように黙ることにした。
吉は寝具の中にいた。眠ってはいないようだ。
「きつ」
小十郎が声をかけるとのそりと起き上がる。だが顔を袖で隠していた。
「どうした」
「……なんも」
「隠すような顔か」
「腫れておるゆえ、お見せできぬの」
女心に小十郎は苦笑する。どんな顔でもいいんだがな、と思いながらも、今は吉の女心を尊重することにした。
「三日後の話なんだが」
小十郎は吉に説明した。吉は顔を隠しながらも全てを聞き、特に異論を唱えることもなかった。
「晴久殿と真田がいる。安心しろ」
吉は素直に頷く。素直すぎて気味が悪いな、と小十郎は思ったが、今日の今日では疲れ果てているのだろう。
「具合はどうだ」
「なんも」
「そうか」
昼は悪かった、とは、もう言わなかった。吉も望んではいないだろう。思ったよりもしっかりした受け答えができているだけで、小十郎は満足だった。繊細な女だ。あれほどの激情を見せた後では、浮上するまでにもっと時間がかかると思っていた。
顔を見せることを嫌がる妻のために灯りを落とし、その夜は妻を思う存分可愛がる。妻は従順で小十郎にとってはこの上なく可愛く、昼のこともいとしさを強くさせるには充分で、一晩中睦言を囁くことになった。
だが小十郎は忘れていたわけではなかった。
自らの妻が、元は天才的な政治家であり、軍事家であったことを。
そして今は夫のために──片倉家のために生きる女であることを。
翌日、小十郎に案内された晴久が朝一番で城に上がった。討伐準備で重臣が揃った城はちょっとした騒ぎになる。先日訪れた時とは違い、正装だったからだ。先日の夜に騒ぎを起こした侍女たちは近づくことを許されず、遠巻きに眺めては悔しがっている。
茶の道で名高い野元長忠が早速挨拶をしたが、名を聞いた晴久は横目で軽く頷いただけで返事もしなかった。松永久秀ほどではないが、文化人として西では名の知れた晴久にこんな態度で応じられれば、長忠は顔を真っ赤にするしかない。既に片倉に取り込まれているのか、とすら思った。
政宗は小十郎からの急使で晴久がやって来ることは知っていたが、とにかく話があるようだ、としか教えられていなかった。小十郎自身も朝餉の席で晴久に「とにかく今日、これから行く」としか告げられなかったのだ。顔の腫れが引き、いつもの通りの様子で同席していた吉が「出雲の守護代様におしまりなきよう」とわざとらしく言ったことから、吉は事情を知っている、と小十郎は思った。先に晴久が説明していたのだろう。
非公式の訪問とはいえ正装である国主を出迎えるのに、政宗も略装と言うわけにはいかない。面倒くせえなあ、と言いながらも、何かしらの異変は感じ取り、滅多に着ない正装に着替えた。そしてはじめは二人で会うつもりだったのだが、ふと勘が働く。
──正装だろ。で、急使とはいえ、小十郎に先に連絡させてるだろ。ってことは、何かある。
「……姐さんの弟だし、昨日の今日だし。おまけに、日の本の守護を名乗っちゃう奴だもんな」
何かある。政宗はそう断定し、会見場所を急遽変更した。城に居合わせた重臣たちにも揃うよう言い付ける。いち早く異変に気づいていた小十郎は快諾したが、他の重臣たちは戸惑うばかりだった。
整えられた場に先に腰を据え、政宗は控えの間にいた晴久を待つ。やがて小十郎に伴われた晴久が現れた。
──……あー。なるほど。
負け惜しみではなく、素直に政宗は思った。
──国主様、だ。
自分や小十郎、幸村に軽口を叩いたり、挑発をする晴久ではなかった。ましてや吉に無礼な、それでも家族の親しみを込めた顔を見せる晴久でもなかった。
伝統と未来を天秤にかけ、己にしか成し得ない絶妙な調整力でどちらをも手に入れた、出雲の国主がそこにいる。
政宗は居住まいを正し、客人としての席に座った晴久に礼をした。
「出雲守護代、本日は御足労の程、恐れ入る」
「奥州筆頭に御機嫌よう。急かの申し出、御受け入れ賜り、げざん恐れ入り奉り、しんもじに御礼申し上げる由」
──よく舌噛まねえな……! スカとかゲザンとかシンモジって何だっけ……!
互いに礼をしながら政宗はしみじみ思う。
小十郎を始め、重臣は揃って頭を下げていたが、政宗が「楽に」と言うと順に顔を上げる。
晴久は姿勢よく座り、政宗を正面から見据えていた。その目からは政宗が取引の材料にできるような、揺らいだ感情は感じられなかった。
「近年盛んなる奥州との交易にしまり生ぜず、有難く、また目出度く」
「恐れ入る」
晴久に合わせるな、と勘が告げた。ここは奥州だ。出雲の口上に合わせる必要はない。噂に聞いたことがあるのだ。出雲守護代の政治手腕、外交手腕は、その口上にある、と。
──なるほど、姐さん仕込みだな。言葉が姐さんと似てる。旧い言葉を混ぜてるんだ。分からない言葉で相手を翻弄して、自分のペースに持ち込もうってのか。
「ま、俺はこの調子で行かせてもらうよ。OK?」
「此方は奥州が地。何ぞしまりのあらんせん」
「何かさ、姐さ……小十郎の奥さんと話してるような気分なんだけど」
一応は公式の場だ。姐さん、と呼ぶのはやめておいた。晴久の口元が僅かに笑いの形に歪む。政宗は直感した。晴久は吉のことで話をしに来たのだ。しかも個人的な話に留めるつもりはないのだろう。正装で、小十郎を通して正式に城に来たのがその証拠だ。
「お近々、ご出立との由」
「ああ、うん。ちょっとした討伐ね。アンタのとこもやるだろ?」
「内々なれば。さて、奥州騎馬隊におしまりなきよう」
「どーも」
「留守の中央、御護りあそばすは、はて、どなた様に」
政宗は少々、晴久を警戒する。知らないはずがないだろう。小十郎が説明しているはずだ。
「……野元長忠。そこのオッサンね。俺のオヤジの代から仕えてくれてる人」
政宗に示された長忠は頭を下げてみせる。晴久はまたも、ちらりと横目で見ただけだった。政宗は直感した。晴久がここに来た理由だ。
「留守って言えば、アンタが今いる片倉さんちも留守になる。奥さんが一人になるな」
「織田上総介信長公に近しき姫とあらば、信長公同様、我が姉も同然。ゆめゆめながら御主人たる片倉殿の御留守、御護りあそばす次第に」
「頼もしいな。安心だろ、小十郎」
「まこと頼もしきお申し出に」
小十郎は晴久に頭を下げた。晴久は長忠への態度はどこへやら、小十郎に頭を下げてみせる。長忠は心穏やかではいられなかった。
「また、御留守の間に茶会の御準備もと。吉姫の仰せにありて」
「留守を守る間にそれもやってくれるのか。すげえな、奥さん」
政宗は笑う。晴久も付き合いのように笑ってみせた。茶会と聞き、長忠はますます心が騒ぐ。
「そうだなァ」
笑いながら政宗は斬り込んだ。晴久の目的を達成させてやることが、自分にとっても良い結果をもたらす、と勘が告げていたからだ。
「いや、俺が言うのも何だけど」
改めて居住まいを正し、笑いを収め、政宗は重臣たちが驚くほどに深々と晴久へ頭を下げた。小十郎も驚くほどだった。
「かねてより伊達家と縁ある織田家の直系の姫が奥州へ嫁いだことも、まごうことなき何かの縁。その縁の先に織田上総介信長公と御親しくあらせられた出雲守護代がおられるならば、奥州は出雲守護代に願い奉ろう。──我が右目、片倉小十郎が妻、片倉吉殿の御身の安泰、いかなる御手段あろうとも、留守中何卒出雲守護代に願い申し上げ奉る」
同時に小十郎が深く頭を下げる。こうなっては他の重臣も倣うしかない。片倉派の重臣は競うように頭を下げ、たった今、政宗から「片倉家の安全の」全権を委ねられた出雲守護代に平伏した。
長忠は歯軋りを必死で堪え、形だけでも平伏する。以前から長忠に阿る重臣もそれに倣った。
晴久が国主ならではの、朗々たる声を響かせる。
「恐れ入り奉り仕り承る。異変あらば御帰還の折、余すことなく御伝え申し上げる由。何卒おするするとおしまりなく、奥州騎馬隊、おはやばやの御帰還願い奉る」
晴久の声は満足そうだった。政宗は頭を上げながら、内心で安堵の息を吐く。安堵の余りどっと疲れた顔を隠しながら、晴久を見てにやりと笑ってみせた。
その様子を見た晴久が、僅かに声を上げて笑い、言った。
「せんもじの、およずけな」
目的は達成された。吉を「国主自らが留守中の安全を頼む存在」として周囲に印象付けることに成功したのだ。
──右目が丸っきり、普通の女として扱うからだ。右目にとっては普通の女でも、俺にとってはそうじゃねえ。きつがいなけりゃ奥州と交易なんかしねえ。そういう女なんだ。だから右目が気に入らねえ。
「それさあ、どういう意味。もうさあ、俺、そっち方面苦手だから! 普通に話せよ! 舌噛まなかったの褒めろよ!」
話が終わった途端に嘆いた政宗に、晴久は更に笑った。
「──俺が信長公と初めて外交の話をした時に言われのさ。おとなしいもんだ、ってな」
「いや、ガキだった王子様と一緒にすんなって!」
笑い合う二人を見ながら、これはとんでもないことだ、と、小十郎は思っていた。
つまり政宗は今、「片倉家の安全を守るためであれば何をしても構わない」と言ったも同然だった。
なるほど、と舌を巻く。晴久の目的はこれだったのだ、と思った。そして政宗は見事にその目的の利点を見抜き、晴久の仕立てた茶番に乗った。
野元相手にはこれ以上ない牽制になる。留守中に野元が吉に手を出そうとしても、晴久が全面的に対応できる。奥州内では強い権力を持つ野元だが、さすがに出雲守護代相手では迂闊な真似ができないはずだ。
更に今の会談は公式扱いになる。政宗は公式の場で、はっきりと「片倉家を特別に扱う」と宣言した。これは野元ならず、野元に阿る勢力を牽制する力が充分にある。ともすれば片倉家に寝返る勢力が出ることも予想できる。
──きつに、言っておくか。
政宗も晴久も、並の主君ではない。改めて小十郎は思った。
だが同時に、俺の妻も並の者ではないのだ、とも思っていた。
昨夜二人で話したことは睦言だけではなかった。