「何だ、その格好。可愛いじゃねえか」
詰め所の中で待っていた政宗は、幸村に不敵に笑ってみせた。可愛いという言い方に幸村はむっとする。吉に言われれば嬉しいが、この男に言われることだけは我慢ならない。
「茶会のためでござる。政宗殿も茶会の日にはさぞ可愛くなられような!」
「そりゃねえよ、俺は袴だ。まあ座れ、茶でも飲むか?」
詰め所の中とはいえ、政宗が使う部屋だ。それなりの道具や調度品も揃っている。ここで政務を行うこともあり、文箱や硯、机もあった。
「仔竜」
吉が口を開いた。政宗のみならず、小十郎も幸村もつい吉を見る。
それほど、吉の声は低く、冷たかった。
「余が座す場に、なにゆえうぬが座しておる。退きィ」
瞬時にして場が凍った。今、吉が何を言ったのか、理解できぬ者はこの場にはいなかった。なぜお前が上座に座っているのか、と吉は──織田上総介信長が言ったのだ。
小十郎は吉を呼ぼうとした。だがその前に幸村が言った。
「政宗殿、何卒お聞き入れを」
只事ではない、と幸村は目で語る。理解した政宗が苦笑した。──背筋に走った震えを隠すように。久々に見た魔王の目、久々に聞いた魔王の声だ。あの牡丹の花々の中で出会った日を思い出した。あの時も確かに、こんな目に、声に、不本意ながらも息を呑んだ。
「……何だよ、姐さん。あちらの姿もご健在ってか」
言いながら立ち上がり、「どうぞ」と敢えておどけた声で言う。そうでもしなければ幸村の目の前で息を呑んでしまいそうだからだった。
吉が優雅とも言えるほどの所作で、政宗に譲られた場に座る。そしてまた、低く言った。
「着座を許す」
真っ先に反応できたのは幸村だった。吉はこのためにこの場に来たのだ、と理解したからだ。
「恐れ入ります」
身分に相応しい場所に腰を下ろし、吉に一礼する。
「きつ」
小十郎は立ったまま言った。
「どういうつもりだ。政宗様への無礼は許さんと言ったはずだ」
吉は夫を──小十郎を見る。その目には何の感情もなく、小十郎を怯ませてもおかしくはないほど冷たかった。
「右目」
その呼び方に小十郎のみならず、政宗と幸村も衝撃を受ける。確かに魔王であった頃、人前では夫をそう呼んでいた。だが事情を知っている者の前では決して呼ばなかったはずだ。
「無礼は己ぞ。伊達は織田の家臣筋。更なる家臣筋の片倉が、織田直系の余に何を申すか」
「──お前、悪ふざけで済ませるにも限度を超えているだろうが」
夫婦喧嘩の宛て付けか、とまで思った。それにしては酷すぎる。
「小十郎、いい」
他人だからこそ政宗は分かった。これはもう、尋常な事態ではない。政宗の立場でも真剣に対応しなければならない事態になっている。小十郎は吉を従順な妻と思っているから理解が遅れたのだ。
「姐さん、俺ら、同席していいのか。していいなら俺も座る」
「好きにし」
「じゃ、いるわ。小十郎、座れ」
「しかし政宗様──」
「いいから座れ!」
焦りが政宗の口調をきつくした。尋常ではない事態に焦っている。焦るな、と自分を必死で戒めた。
政宗と小十郎が座ると、吉はようやく本題に入る。
「奥州騎馬隊、軽う拝見の由」
「ちょっと見たってことかい、それとも大したことねーなーってこと?」
吉が扇子を出して開き、口元を半分覆う。政宗から目を逸らして小さく息を吐いた。
「あとの方」
「──ひっでぇなあ。小田原からこっち、だいぶ力入れてんだけどな」
話をしながらも政宗は吉の様子を窺う。なぜ突然こんなことを始めたのか分かりかねた。訊いたところで教えてくれそうにはない。ならばとりあえず、吉に話をさせることが重要だと思った。
「恐れながら」
低い声が──地を這うような低い声が、小十郎の唇から発される。うわ、と政宗は悲鳴を上げたくなった。小十郎が心底腹を立てている時の声だったからだ。幸村も冷や汗をかき、つい政宗と視線を交し合ってしまう。──政宗殿、何とかして頂けぬか。──いや無理、俺じゃ無理、こうなるとほんと無理。──何たる役立たずな……!
目で「役立たず」と幸村に言われた政宗は本気で落ち込む。
その横で小十郎は続けた。
「我が奥州騎馬隊、如何なる理にて御目にかなわぬか、お言葉賜り願いたい」
夫婦ですよねー? と政宗はつい言いたくなった。吉が微動だにせずにその言葉を聞いたからこそ更にそう思う。──ねえ、あなたたち、夫婦ですよねー?
吉が扇子を弄び、つまらぬ、といった風情で答えた。
「侵入者を前に寝こけておったのが、いち」
「……よもや、受付の」
「是」
「言い含めておきましょう。他には」
「甲斐の若虎にましな挨拶も出来ぬが、に」
「肝に銘じましょう」
「侵入者に即座、対応出来ぬが、さん」
これには小十郎も政宗も言葉が返せない。確かにその点は指導が行き届いていなかった。予測し難い出来事とはいえ、今後もないとは言い切れない。
「侵入者に、軍師が馬を見よと持ちかけたが、し」
「それは」
小十郎が言う。
「侵入者が軍師が家の者と思ったからこそではないかと」
「共におるのは誰ぞ。甲斐が武田の副大将ではないかえ」
「……御意に。不覚であり申した」
吉は続けた。両手で弄ぶ扇子がぱしり、ぱしりと音を立てる。
「隙が多い。奥州のあちこち。そこも、ここも」
どういうことだ、と政宗が言いかけた時、吉が幸村を見ながら扇子を天井に向けた。
「ましらに申せ。降りて参れと」
「やはり、お気づきで」
幸村は舌を巻く。片倉の家を出てからずっと着いて来ていた。吉に分かっていないはずがなかったのだ。
天井を見上げ、「佐助」と呼ぶ。
「降りて参れ」
やれやれ、という声が聞こえたような気がした。数瞬の後、室内に僅かに風が生まれる。政宗は苦笑し、小十郎は溜息をついた。
「バレちゃってた? さーすが姐さん」
佐助が笑いながら幸村の隣に現れた。吉はにこりともしない。そのまま政宗に言った。
「透波を止めることも出来ぬ。役に立つ透波がおらぬ。ゆえに奥州は情報が弱い。先代からのご懸念あったはず」
「あー、親父の代からね。まあねー」
「街道も堤防もよし。されど戦乱の世、何を先ずるか、計り誤ればそれこそ──小田原の二の舞よ」
「肝に銘じまくっとくよ」
小田原を言われてはそう答えるしかない。政宗は苦々しい。小十郎は眉をひそめて妻を──魔王を見る。吉も夫であるはずの竜の右目を見た。
「右目。何を先ずるかを申すのは、己が役目であろう」
「おっしゃる通りに」
「申したか」
「充分申したとは言い難く、省することしきりに」
「是」
「まことに」
俺もうやだ、と政宗は逃げたくなった。どうしてこうなった、と本気で夫婦を問い詰めたい。つい幸村を、次いで佐助を見る。幸村は実のところ、魔王である吉の顔には幾度も相対しているため、「なぜこうなっているのか」という疑問はあれど、それほどの怯みはない。佐助は事情を完全に把握し、吉の目的もよく分かっている。政宗に言う義理はなかったが、契約上、片倉の家に戻ったら出雲の国主さんに言わなきゃなあ、と思っていた。
魔王と右目の会話が続いている。政宗はとにかく逃げたい。脂汗まで出て来たような気がする。
「最上も近い」
「然様に」
「よう、国境を侵されておったであろう」
「よくご存知で」
「都度都度、小競り合いを隠して大儀であるわ」
「出雲と安芸の様なもの」
「されど此度の茶会を案ずるに、当の面、小競り合いすらよろしくなかろうぞ」
「それは」
小十郎は言った。政宗と幸村、佐助が驚くほどに冷たく。
「織田に関係のないこと。御教授願ったのは当方なれど、その件に関する御言葉は求めておらず。ご遠慮のご高配賜れますれば」
僅かに、吉の頬が紅潮する。
「……そ。なれば黙ろ」
そのまま沈黙が降りた。
分かった、と政宗と幸村はようやく理解した。分かった、これは──
──……夫婦喧嘩だ……!
小十郎はこう言ったも同然だ。
『お前に関係あるか。知っていることだけ言え、知らないことなら黙っていろ、口を出すな』。
長く重い沈黙だった。政宗は本気で「俺が何か言わないと永遠に全員黙ってることになりそう」と必死で考え始める。他の誰かが相手であれば、笑って強引に場を解散させればいい。だがこの二人──この夫婦だけは厄介だ。政宗にとってはどちらも脅威の対象だ。それが今、明らかに敵意を向け合っている。
──原因は知らねえが、ここまで拗れる夫婦喧嘩するんじゃねえよ、小十郎……!
その時だった。
「政宗殿、御免ッ!」
「──だああ!?」
突然幸村が飛び掛って来たと思う間もなく押し倒されていた。どういうことだ、と政宗は混乱に陥る。
「真田、おい!」
「動かれますな!」
「待て、俺は押し倒されるより押し倒す方がいいんだけど! いやアンタが上ってのもある意味ありだけど!」
「旦那に変なこと言うと殺しちゃうよ、尺取虫!」
「お前、何のつもりだ! 政宗様に当たったらどうするつもりだ!」
「おまえさまに投げたのではないの! 仔竜になぞ当てるものかえ!」
「尺取虫っつったの誰だ、おい! 俺のことか!」
「佐助、無礼だ! 隠れて申せ!」
「旦那がそう言うなら」
「隠れてって何だよ!」
「おい、やめろ! 投げるな!」
「もういや! いや! いやいや!」
「何が嫌なんだ! 分かるように説明しろ!」
そして政宗は知る。自分の上に覆い被さっている幸村の更に上を、数々の物が飛んでいる。その先には小十郎がいて、投げられるものを必死で受け止め、政宗に当たらないようにしていた。柱の影に座り込んだ佐助が呆れたようにその光景を見ている。
「……真田」
「何でござるか」
「これ、つまりあれだろ。姐さんのヒステリー」
「癇癪、でござるか」
「そうそう、それ。たまにやるらしいぜ。ナマで見たの初めて」
「さようでござるか。それがしは前にも幾度か」
幸村はすっかり慣れた様子だった。政宗の胸の上に肘を立てて頬杖をつく。痛ぇよ、と政宗は言いかけ、無論やめた。何となく美味しい思いをしているような気がする。
「まじで? いつ?」
「最後に見たのは……ああ、きつ様が新婚早々に右目殿と大喧嘩をなされて、お館様のところへ訪ねて参られた時でござるな」
「ああ、あの時ねえ……ってかさー、俺、いつまでこうしてればいいんだ?」
「きつ様がお投げになるものがなくなるまで、でござろうな。今しばらくご辛抱なされよ」
「あーいや、幸せだけどね」
呟いた途端、柱の影の佐助と目が合った。旦那に変なことしたら殺しちゃうよ? と目で言われ、政宗はいつか佐助を殺してやろうと心に誓う。
その誓いの中、夫婦の怒号は続いていた。
「こんなことしやがって、お前、どういうつもりだ!」
「ほんにもう、いや! 離縁するならするとおっしゃればよろし!」
「昨日から離縁なんて言ってんのはお前だけだろうが!」
離縁という言葉に、流石に政宗は驚く。幸村も同様で、つい顔を見合わせてしまった。もう物が飛ぶことはなかったが、二人してそのまま動けない。政宗は小十郎を見るために僅かに身動き、その拍子に上から落ちそうになった幸村の腰に腕を回して支えた。幸村もおとなしく政宗の上に倒れこんだまま、こちらは吉を見る。佐助が笑顔で政宗に向かって「やっぱりそのうち殺そうっと」と言った言葉は誰の耳にも聞こえない。
「今とて、織田には関係ないとおっしゃったではないの!」
「関係ねえのは確かだろうが! 奥州の小競り合いに何で織田が関係あるんだ!」
「わらわが織田の者とおっしゃりたいのであろ!」
「お前が織田の家臣筋だの何だのと抜かすからだ! 自分の言葉を棚に上げて癇癪を起こすな!」
「先にむごいことをおっしゃったのはどなた!」
「そもそも何だ、来た時からのあの態度は! おまけにお前には関係ねえ話だ、黙ってろ!」
「おまえさまが! 生きる世界が違うだの何だのと! おっしゃったからではないのー!」
吉の叫びは金切り声になっていた。幸村はぎょっとする。吉の癇癪には慣れているという自負があったが、ここまでの声を出すのは初めてだったのだ。
小十郎も異変に気付き、「分かった、ちょっと待て」と先に冷静になる。
「落ち着け、とりあえず落ち着け」
「いや!」
「聞き分けろ、話が進まねえだろうが」
「お話ならもう、おまえさまは終わっているではないの!」
「何がだ」
「離縁なさるのであろ!」
「──だから、何回言わせるんだ。昨日からそんなことを言ってるのはお前だけだ」
小十郎は溜息をつく。しかしその溜息が更に吉を煽った。
「夫婦にならなければよかったと、お思いなのであろ!」
「そんなこと言ってねえだろう!」
だが小十郎は思い出す。確かに、そう受け取られても仕方のない言い方をした。自分の劣等感を妻にぶつけた。それを謝ろうと口を開きかけた時、吉がまた大声を上げる。
「離縁されるならば出雲へ参るもの! 晴久にも申したもの! その前にわらわが分かることを、おまえさまのお役に立てればと、ここで申しただけではないの!」
「──出雲って、お前、話を勝手に進めすぎだ!」
「それが何、最後の最後までこの仕打ちは! あまりに酷いではないの!」
吉は今にも泣きそうだった。小十郎は吉の言い分を咄嗟に理解しきれない。政宗もそれは同様だ。だが幸村は何となく理解した。
「きつ様」
「ぐえっ」
腹に腕を置かれて立ち上がられては政宗も呻くしかない。起き上がった幸村は政宗に一切構わず、吉に向き直った。
「右目殿もお困りです。御二方でお話しになられてはいかがでしょうか」
「ああ、ゆきにも申し開きのできぬことを」
「それがしのことはご案じ召されますな。幸村、大恩賜ったきつ様の御為ならば何も不都合はございませぬ」
俺のことは案じて下さい、恩ありません──起き上がって咳き込みながら政宗は思う。
「では、それがしどもはこれにて。佐助、行くぞ。──政宗殿、何をぼさっとなされるか。右目殿の主君なれば、応えるよう成長なされよ!」
「……俺、何か悪いことしたかなあ……」
「政宗様、申し訳もございません。妻とは後ほど家に戻り──」
「いや、いいから。お前、もうここで話し合え。家に帰ったって変わんねえって言うか、俺の予想だと尼子が口出して、お前らが話し合う前に姐さん連れて出雲に帰ると思う」
それは否定できない、と小十郎は思う。こんな大喧嘩をしたと知れば、晴久は間違いなく小十郎に侮蔑の目を向けて吉を連れ出すだろう。しかも今の状態の吉なら、それを拒まない可能性が高い。そうなってはたまらない。離縁する気などさらさらないのだ。
政宗が幸村に引き摺られるように部屋を出ると、小十郎は吉と向かい合う。吉は癇癪を起こして疲れ果て、ぐったりと座り込んでいた。
「大丈夫か」
「優しゅうなされないで。離縁なさるのに」
「しねえ。──先に結論を言っておくが、それだけはしねえし、してやらねえ」
情けない話だ、と小十郎は内心で溜息をつく。
あれだけの思いをして手に入れた女を、自分の劣等感で傷つけた挙句にこの騒ぎだ。自分が情けなくてたまらない。
「俺が悪かった」
「たばかりばかり」
「本当だ。──すまなかった。本音じゃねえが、本音だった」
「分からぬわえ」
「そうだな。聞けよ」
俯いている妻に手を伸ばすが、強い力で振り払われた。苦笑し、仕方なくそのまま話す。
「俺は、お前を普通の女だと思っていた。──そう、思いたかったんだな」
普通の女なら、と小十郎は続けた。
「あの小屋で暮らしていた時のままだと思っていた。何もできねえ、綺麗なばっかりの、それでも可愛い女だってな」
小十郎は話し続ける。
雪の日々、狭い小屋の中で二人きり、記憶のなかった吉は小十郎を頼り、意地を張り、いつも笑っていた。
その時のままだと思っていた。
だから忘れていたのだ。
忘れたかったのだ。
魔王であったということを。
夫である自分よりも身分が高く、日の本の誰よりも高みを見、生きる誰よりも大きな未来への道標を打ち立てた偉人であることを。
政宗が吉を特別だと言うたび、そんなことはない、と心の中で打ち消していた。そうであって欲しくはなかったからだ。
俺の妻はただの女で、俺がいなければ生きていけない、育ちがいいだけの深窓の姫だ。そう思っていたかった。
そうではないと思い知らされる瞬間がままあった。だが目を背けていた。
俺の妻は、ただの──
「……そうじゃなかったんだな。お前は、俺がそう望んだから、そうしてくれていただけなんだろう?」
吉は答えない。俯いたまま唇を噛み締め、言葉を飲み込んでいるかのように。
そうだ、と小十郎は気付く。
こいつはいつもこうなんだ。ぎりぎりまで、自分の言いたいことを溜め込んでしまう。
「言いたいことも、山ほどあったろう。政宗様が家にお越しになるたびに、俺が陣図を開くたびに」
そうではない、それよりも──きっとそう思う瞬間が山のようにあっただろう。未熟な奥州を間近で見て、歯がゆいことも多かったに違いない。
「離縁はしねえ。だが」
小十郎は言う。言いたくはなかった。だが言わなければならないと思った。
「お前が今の環境に我慢できねえなら、他へ行くのもいい。たまに会いに行くさ」
ただし近場にしてくれよ、と小十郎は僅かに笑って言う。自嘲だった。自分は政宗の下を離れるつもりはない。吉と離縁するつもりもない。欲張りなものだ。その欲が吉に無理をさせていたのかもしれないと、昨日からの騒ぎでようやく分かった。
「今回の茶会も、随分無理を言った。真田を勝手に呼んだのも、俺に負担をかけねえためだったんじゃねえのか」
吉は声を出さず、僅かに頷いた。小十郎はまた自嘲する。ひとつ分かると何もかもが理解できる。それほどまでに自分の妻を理解していたことに驚く。ひとつ分かるまでにここまで時間をかけたことにも。嫉妬が目を塞いでいたとしか言いようがなかった。
「すまなかった。お前に負担をかけすぎたな」
「わらわは」
ようやく吉が声を出した。うん、と頷き、小十郎は話を聞く。
「どういたせばよかったの」
泣き声だった。また泣くのを我慢しているのか、と小十郎は妻を哀れに思う。いつになれば妻は涙を流して泣けるのだろうか。もういいんだ、泣いていい。いつかそう言ってやればいいのだろうか。
だが驚いた。
妻が涙を流していた。
どのような時も唇を噛み締め、涙だけは流すまいと、流すとしても人に隠れて僅かに流すだけだったはずの女の目から、堰を切ったかのように涙が溢れ出している。
「おまえさまが」
「うん」
「お望みだからでは、なく」
「どういうことだ」
「ふつうでありたかったのは、わらわであったの。ずうっと。幼き頃から」
でもどうすればいいのか分からなかった。吉は言った。泣きながら言った。
政宗が何かを言えばそうではないと言いたくなる。
夫が陣図で悩んでいれば口を出したくなる。
街中で騎馬隊を見ればああすればよいのに、こうすればよいのに、と思ってしまう。
他国との小競り合いの話を耳にすれば解決策を考えてしまう。
「でも、口を出してはならぬし──出しとうもなかった」
「なぜだ」
「おまえさまのお役目の邪魔をしとうなかった。おまえさまほど立派な殿方が、妻に物申されるなぞ」
ああ、と小十郎は思った。──ああ、普通の女だ。
強く思った。
俺の妻は普通の女なんだ。
夫のすることに口を出さず、ただ支えようとする、普通の──普通よりも古風であるかもしれない、ただの女だ。
「……どうだろうな」
吉に聞かせるためでもなく、呟く。
「確かに、今までに言われていたら、俺も素直には聞けなかったかもしれねえな」
ただの女の妻に、今の話を聞かずに物を言われていれば──頭では分かっていても、どこかで男の矜持が邪魔をしただろう。劣等感を刺激されただろう。
それでも、もう違うと思った。
話をして、話を聞いて、自らの心の整理ができた。向き合うことができた。劣等感を諦めるのではない。
更なる高みに上り詰めるために、手を添えてくれる女がいると気付いただけだ。
「もう、それはねえ。言ってくれ」
吉が顔を上げる。泣き濡れた顔がいとしいと、小十郎は強く思った。
あれだけの思いをして手に入れた女だ。一度はこの手で殺そうとしたこともある。殺すことでしか救えぬと思ったからこそ殺そうとした。
それほどいとしい女をいとしいと初めて思ったのは──魔王でもない、ただの女として、自分の名も分からずに、それでも小十郎に笑ってみせたあの日々の瞬間だったのではないか。
「織田上総介信長には、何ひとつ勝てる気はしねえが。教えてもらえるのは幸運だろう」
俺しか知らない顔をいとしいと思った。
だからずっと、俺は思い続けていた。
普通の女なのに。
ただの女なのに。
どれほどのものを背負い、普通の女の顔を隠して生きているのかと。
その荷が降りた今、普通の女として──俺が初めていとしいと思った女の顔で、俺のもとに来たと言うのに。
俺は酷いことをした。
「すまなかった」
「おまえさま」
「離縁なんざ言うな。俺を捨てるな」
吉が首を横に振った。何度も振る。涙が飛び散った。小十郎はつい苦笑した。
長い間、感情のままに涙を流すことがなかった女は、涙の拭い方も忘れているのだ。流れるままの涙が着物の襟を濡らし、大きな染みを作っていた。
「泣くな。もうこんな思いはさせねえ。約束する」
「止まらのうて」
吉は困ったように袖の袂で目を隠した。一度流れた涙は、流れ尽くすまで止まるものかと溢れ続ける。長い間押し込めていたすべての感情が、涙となって溢れていた。喉から嗚咽が漏れる。小十郎は妻を哀れだと思い、今まで気付けなかった自分を憎む。
「帰るぞ」
夫の優しい声に、吉は声もなく頷いた。嗚咽で声が出せなくなっていた。小十郎は妻の髪を撫で、立ち上がる。吉も立ち上がろうとしたが、疲れ果てて動けない。
「立てねえか」
小十郎は問う。吉は頷く。
「分かった」
騎馬隊に後で何を言われることか。政宗には重々に詫び、幸村と佐助にも頭を下げなければ。
あれもこれも恥ずかしい、と思い返す。
だが、嫌な気分ではなかった。
部屋から出て来た小十郎を見て、政宗は呆れる。俺より伊達だ、なんぼ愛妻家でもこれはやり過ぎじゃねえの、と。幸村は真っ赤になり、佐助は「やるねえ」と感心する。
小十郎が吉を抱いたまま姿を現せば当然の反応だ。
目にした騎馬隊の青年たちも顔を真っ赤にし、小十郎様すげえ、と口々に囁き合う。
抱かれている女は袂で顔を覆っている。傍から見れば恥ずかしがっているのかと思われる姿だった。泣いた顔を隠していると知る者は小十郎だけだ。
「政宗様」
「……おう」
「恐れ入りますが、本日はこれにて」
「……頼むから帰れ……」
それ以外にもう何も言えはしない。吉と結婚してから小十郎が破天荒になってしまったような気がしてならない。この時代に男女のこんな姿を見ようとは。
「恐れ入ります。──真田、猿飛、二人にも迷惑をかけた」
「あああああいやその、あの、お、奥方のご気分が優れぬなら早々に!」
「あ、馬。馬いるんじゃなーい? そこのお兄さん、お馬さんの用意してー」
政宗と幸村の慌てように呆れた佐助がなぜか指示を出す。
馬と聞き、小十郎は藤を思い出した。
「藤を連れて来い。鞍はひとつでいい」
「うーす!」
絶叫のような返事をし、顔を赤らめたままの青年が数人ほど厩舎へ飛んで行く。
政宗に会釈をし、小十郎も厩舎へ向かって歩き出した。げんなりした笑顔で小十郎を見送り、政宗は深く溜息をつく。
鞍はひとつでいい。その言葉の意味がどういうことか、分からぬ政宗ではなかった。
──小十郎、伊達すぎんだろ……!
「……真田」
「何でござるか」
「アンタも帰るなら、送ってやろうか。俺の馬で。何なら城に来るか」
「旦那、帰るよ! いつまでもいちゃ迷惑だよ!」
察した佐助がすかさず割り込む。幸村ははっとして政宗に頭を下げた。
「本日はお騒がせ申した。それがしども、これにて失礼するでござる!」
「いや、だから、送って……」
「はーい旦那、あっち! 俺らなら歩きで充分っしょ! 馬だとあの夫婦と並んで邪魔しちゃうからね!」
「うむ。それでは政宗殿、またいずれお目にかかろう!」
「だからその、──ああ、See you……」
元気よく帰って行く好敵手の背を見送り、政宗は軽く手を振った。
俺、今日不幸だな、何か悪いことしたかな。そう思いながら。
大喧嘩をしたんだってさ。
あの御夫婦がねえ。
いつも仲がいいのにねえ。
たまにはそんなこともあるさ。
城下の人々の噂は口さがない。
でもさ、小十郎様、伊達だねえ。
あれは伊達すぎるんじゃないかねえ。
奥様を抱いてひとつの鞍の馬で帰るなんてさ。
俺には真似できねえ。
俺はやってみてえ。
ああ、あたしもあんな旦那様が。
あら、あれはやり過ぎよ、恥ずかしい。
賛否両論を耳にした政宗は、「伊達って言葉が独り歩きしてるような気がする」と呟き、不貞寝を決め込む。
意中のいとしいひとと同じ鞍に乗るなぞ、伊達の元祖の自分ですら夢のまた夢だと言うのに。