桜坐の宴 11



「やァ、片倉の奥様、こんにちは!」
「ご機嫌よ」
道々、幸村は驚いた。吉に気さくに声をかけてくる領民の何と多いことか。また吉も全て応えている。武田の領地ではあまり見られない光景だった。そもそも、身分の高い武家の正室が徒歩で城下を歩くことも珍しい時代だ。だが吉が楽しそうなので、これはよいことなのだと思うことにする。吉が自分を領民たちに身分を伏せて簡単に紹介し、彼らが好意的な笑顔を向けてくれることも嬉しかった。
遅い初春の陽光があたたかく、吉はのんびりと歩いて行く。何くれとなく話す吉に付き合いながら、幸村は吉に初めて会った時のことを思い出していた。あの日もこうやって二人で歩いたものだ。もっとも、今のように穏やかな気持ちではなく、妙な行動をする女性を一人歩きさせては危ないと思ってのことだったのだが。
「何がおかしいのだえ」
気付かぬうちに笑っていたらしい。
「いえ、きつ様と初めてお会いした日を思い出しておりました」
「あァ、よう護って歩うてくれたなァ」
吉も思い出したのか、同じように笑った。
「武田の領も活気があって、面白うて」
「ますます賑おうておりまする。しかし、こちらも中々のものでござりますな」
「仔竜が街道の整備を始めてからは、まあまあと」
破天荒に見える政宗は、その実、内政にも力を入れ始めている。父の代よりも街道や堤防の整備に力を入れ、交通路の確保に重点を置いているようだった。
騎馬隊の詰め所、いわば訓練所まではそこそこの距離がある。女の足では遠かろうと領民たちは心配しているようだが、吉の健脚を知っている幸村は安心して歩いていた。
道々、咲き始めた花や空の様子の話をする。吉は物知りで、幸村が普段気にしないことをさり気無く教えてくれた。幸村はそれが楽しい。奥州の遅い春は、甲斐で一度春を楽しんだ幸村に、思いがけなく二度目の春の楽しみを与えた。
やがて喧騒が伝わって来る。訓練所が近いのだ。若者たちの熱気が訓練所から漏れ出でて初春の空気を揺らし、彼らの熱意と活気を周辺に撒き散らしていた。幸村も我知らず高揚する。
詰め所の入口には番所がある。一人二人が雨風を凌げる程度の小さな掘っ立て小屋だった。幸村は苦笑する。当番の騎馬隊の青年が春の陽気に宛てられて、椅子に座ったまま居眠りをしていたのだ。
きつ様、これはどうなさいますか、と幸村が言いかけた時だった。
ばしり、と何かを打つ音の後、青年が椅子から転げ落ちた。幸村は絶句する。
吉が閉じた扇子で青年を張り飛ばしたのだ。不覚を取ったとはいえ、鍛えている男性が椅子から転げ落ちるとはどれほどの強さだったのか。骨が折れなくて御の字だ、と幸村は思った。かつて佐助がこの扇子で手首の骨を折られているのだから。
「何す──お、奥様!?」
自らの失態を隠すように大声を上げかけた青年が、自分を張り飛ばした相手に気付き、ぎょっとして平伏する。吉は冷たい声で静かに言った。
「わらわが敵でのうて、よかったなァ」
「すんません! おっしゃる通りっす!」
「起きており。うぬの今の敵はこの陽気だえ」
「肝に銘じます! あざっした!」
「入るわえ。こなたは武田が副大将、真田幸村公」
「え」
一瞬では理解できないほどの名前に、青年が顔を上げる。不躾に幸村を見、目が合ったので、幸村はつい会釈をした。吉の眉が跳ね上がるが、幸村には何も言わなかった。言ったのは青年に対してだ。
「無礼者。旦那様の御顔に泥がつくわ」
「え、──え?」
「ゆき、参ろ」
「よろしいので?」
流石に幸村は戸惑う。自分の名を知らせておきながら、この場で何もしなくて良いものだろうか。普通であれば敵勢力、その副大将が軍の要とも言える場に現れたと言うのに、騎馬隊が易々と通すとは思えない。武田の騎馬隊の詰め所に同じような人物が現れれば当然止めるはずだ。
「よろしも何も。なァんもせぬ、うすらぼんやりがおるだけではないの」
きつい言葉を穏やかな口調で言い捨てた吉は青年に一瞥もくれず、さっさと歩き出す。青年は呆然としていた。幸村は迷ったが、他国の騎馬隊のやり方に口を出すことも出来ず、辛うじて「政宗殿と右目殿がお気になされたら、それがしに伝言を」を囁いて吉の後を追った。
「これは、賑やかな」
騎馬隊の様子を見、幸村はつい感心の溜息をついた。武田の騎馬隊とはまた違う、どこか雑然とした、だが決して低い水準ではない訓練を行っているのがよく分かる。武術訓練の号令があちこちで聞こえ、土埃が上がる。聞いているだけで幸村はそわそわし始め、今日は見に来ただけなのだ、と慌てて自分を戒めた。
今は自慢の騎馬のほとんどは厩舎に繋いでいるようで、数頭が気持ちよさそうに春の日差しを浴びて草を食んでいるだけだった。
「あれ、あの馬。かわゆ」
「本当でございますな」
毛並みを整えている主に甘え、結局主を転ばせてしまった馬を見て二人は笑う。
やがて二人に気付いた騎馬隊は大騒ぎになった。滅多に、むしろ決して政治や軍事が関わる場所には現れない片倉家の正室が、礼服を着た武田軍副大将と共に現れたとなれば当然だ。
彼らは顔を見合わせ、忙しく視線を交わし合い、隊員の中では年上の、政宗や小十郎からの信頼が厚い青年の一人を対応に出すことにした。彼は緊張しきった面持ちで二人に駆け寄る。
「ちーっす!」
「ご機嫌よ」
「お邪魔いたす」
騎馬隊独特の挨拶に吉は穏やかに返事をし、幸村は面くらいながら同じく返事を返す。
「恐れながら! 自分、嘉納の辰蔵と申しやす!」
「そ」
「御挨拶いたみいる」
口を開こうとした吉を制し、幸村が言った。吉はちらりと幸村を見るが、そのまま黙っている。二人の様子に辰蔵は戸惑った。幸村は続ける。吉の目的が何とはなしに分かったような気がしたのだ。
「突然の訪い、お許し頂きたい。嘉納辰蔵殿、それがし、武田が副大将、真田幸村と申す。されど本日は片倉小十郎殿がご正室にして、我が主君武田信玄公ご懇意の吉姫の供として参った次第。何卒お気構えなされることなくお願い申し上げる」
幸村の名に「本当に真田幸村か」と一気にどよめきが上がった。吉が扇子を開き、微笑みそうになった口元を隠す。よく言えた、と思ったのだ。幸村には何も話していないが、ここに来た目的を本能的に察してくれたことを知る。同時に思った。
──さて、仔竜。この子が育てば、ほんに脅威になろうなァ。
戦場で幸村を見知った者もいる。しかしこの口上にどう対応すべきかと、周囲は息を呑んで見守った。
辰蔵は背筋を伸ばし、幸村を見る。舐められてたまるか、という態度だった。
「御挨拶、どうもっす! 恐れ入りやす!」
しかしそれ以上言葉が続かない。こんな事態は初めてだ。ここにせめて小十郎様がいればいいのに、と辰蔵は思った。見かねた幸村が言葉を続ける。
「本日は、吉姫が騎馬隊をご覧になられたいとの仰せ。しかし、それがしが共に参って不都合あらば、貴殿にご案内願ってよろしいだろうか」
「ご覧に、っすか……」
「よいではないの」
吉がようやく口を開いた。
「番所は居眠り、誰ぞが応ずるかも決まりにあらず、いかなる者も好きにしィということであろ?」
これには辰蔵のみならず、周囲の隊員もぐっと言葉に詰まる。辰蔵は元々気の強い男で、つい、吉に話しかけてしまった。
「織田では、違うんすか」
その瞬間、すう、と吉の目が細まる。それだけで辰蔵は身を震わせた。自分が口にしてはならぬことを言ってしまったのだとすぐに悟る。
「──ああ、武田か。そうだな、武田はやや違う。辰蔵殿、勉強熱心でござるな!」
察した幸村がわざと聞き違えた振りをし、朗らかに答えてみせた。吉は扇子を閉じ、胸元に仕舞う。そして今の表情はどこへやら、馬を見て微笑んでみせた。
「あれ、あの。お馬がかわゆうて、ナ」
深窓の姫が邪気なく珍しいものにはしゃぐ姿を演じ、その場を終わりにする。幸村が近くの隊員に「あの馬の傍に行っても良いか」と訊き、吉を促して馬に近づいた。
辰蔵は息を吐き、一番足の速い隊員を手招きする。
「筆頭と小十郎様にお知らせしろ」
その隊員が頷いて走り出す間にも、右目の妻と甲斐の副大将は自慢の騎馬隊の馬に寄って楽しそうな声を挙げている。相手をする隊員は引きつった笑顔を向けていた。
しばらく吉と幸村はその馬と戯れ、世間話を隊員たちに振り、しかし軍事的に重要な話はしない。幸村はそれが礼儀だと心得ていたし、ここで何やらの情報を掴み、国へ帰ることは、自分の役目ではないと分かっていた。
「あー、あの、真田の副大将さん」
間が持たないと思った辰蔵は幸村に声をかける。何とはなしに、幸村が吉との橋渡しをする役目なのだと理解していた。
「辰蔵殿、何か」
「あの、宜しければなんすけど。奥様、小十郎様の馬をご覧になりますか」
「右目殿の馬か。あの素晴らしい」
いくさ場で幾度か目にしている幸村はつい目を輝かせる。確かに素晴らしい馬だった。恵まれた体躯の小十郎を乗せ、堂々たる足取りで駆け回っていたものだ。
「きつ様、いかがなさいますか」
「旦那様のお馬?」
「そうっす。藤って名前の牝馬っす。とんでもねえ暴れ馬だったんすけど、小十郎様がすぐ手懐けたんすよ」
辰蔵の説明に、吉はやや目を丸くする。
「藤」
「そうっす。いつだったかなァ、筆頭と安土の花見から帰ってらしたあたりだったかな」
幸村は思わず吉を見る。吉の表情は特に変わることはなかったが、敢えてそうしていることが幸村には分かった。
「きつ様」
小さく声をかける。
「ご覧になられまするか」
「……そう、なァ」
「ああ、じゃあ、ご覧になるんだったら案内しやす! ちいっと足場が悪いんすけど……わっ」
「辰蔵、ご苦労。──幸村公、御足労恐れ入る」
辰蔵を押しのけるように現れたのは小十郎だった。厳しい表情であることは仕方がない。妻が敵国の副大将を連れ、奥州の重要施設に夫の許可もなく現れたのだ。吉は涼しい顔だった。
「片倉殿、お役目ご苦労にあらせられる」
「いたみいる」
「あれ、おまえさま。いもじくあらしゃりましょ」
「お前のせいで更に忙しくなった。何のつもりだ」
「つもり?」
吉が薄く笑う。何かを高い目線から揶揄する表情だった。この笑い方を向けられたことは初めてだ、と小十郎は僅かな苛立ちと共に気付く。小馬鹿にされたと言ってもいい笑い方だった。
「ゆきと、ありきに参っただけではないの。いやァな。斯様な怖いお顔」
「家からなら散歩って距離じゃねえだろう」
声に棘が出たことを自覚し、小十郎は自分の未熟さに内心で舌打ちをした。部下の前で夫婦喧嘩の続きをするわけにはいかない。
「──とにかく二人とも、こっちだ。政宗様もいらっしゃる」
「これから、おまえさまのお馬を拝見しよと思うておったのに」
「お前が乗る馬じゃねえ、見てどうする」
「きつ様、参りましょう」
小十郎の不機嫌と、吉のいつもの夫への従順な態度が綻んでいることを察知し、幸村は吉を促す。理由は分からないが、昨日から小十郎と吉の様子がおかしいと感じていた。吉が自分をここに連れて来たのは、場の緩衝役をさせるためだとおぼろげに理解する。
小十郎が先に歩き出し、幸村が再び吉を促す。
吉は辰蔵を横目で見る。ただそれだけなのに、辰蔵は背筋が寒くなった。
「嘉納辰蔵」
「──はいッ!」
「大儀」
立ち尽くす辰蔵の返事を待たず、吉は歩き出す。
幸村はそれに続きながら思い出していた。吉の今の目、今の声。
あの、魔王のものだった。