桜坐の宴 10



妻の強張った顔はすぐに戻った。いつものように穏やかな微笑を湛えたものではなかったが、それでも落ち着いている。小十郎はそれを見て、また苛着いた。もう少し取り乱してもいいだろう──そう思ったからだ。だがそれが、男の醜い嫉妬だとも分かっている。苛立つ筋合いはなかった。
「晴久かえ」
「晴久殿がどうした」
「晴久から、お聞きになられたの、と」
「──そうだ」
「何のつもりか」
吉は溜息をつき、小十郎から目を逸らせる。それがまた、夫を苛立たせた。声に棘が出ることを抑えられなかった。
「俺を見ろ」
「まァ、恐ろし」
「茶化すんじゃねえ。俺は真面目に話している」
暫しの間の後、吉は「ごめんあそばし」と小さく謝り、小十郎に向き直った。
「お前は──」
「あの梟にわらわが入れ揚げていて、おまえさまに何ぞの不都合があられるの」
問い質そうとする小十郎を制し、吉が珍しく早口で言う。
「昔のお話。今はもう」
「なぜ言わなかった」
「申す要なぞありもせぬもの」
確かにそうだ、と小十郎は歯軋りをしたくなる。昔の男の話など、どんな女でも夫にしたくはないだろう。
小十郎とて吉と離れていた間、身奇麗であったとは言い難い。人肌が欲しければ女を呼びもしたし、それなりに楽しんだ女もいる。
だが違う、と、男の身勝手と分かっていても思う。
──俺は他のどの女とも、情を繋いだわけじゃねえ。入れ揚げたわけじゃねえ。
「ああ、そうかよ。そうだな。俺が悪かった」
「おまえさま」
「入れ揚げた挙句に二度も謀反を起こされてりゃ世話はねえ。男を見る目がねえってのは晴久殿の言う通りだ」
「──おまえさま」
吉が明らかに傷付いた目をした。瞬時、小十郎は後悔する。だがそれもすぐに、自らの混乱した感情に飲み込まれてしまった。言葉の奔流が吉をまた傷付けた。
「本当のことだろうが。見るもん見ておきゃ一回で懲りただろう」
「おまえさま、おやめあそばし」
妻の声が震えていることに気付く。八つ当たりが過ぎていると自覚した。しかも決して吉にして良い八つ当たりであるはずがない。
だが止められなかった。
分かっている。

これは劣等感だ。

名の有る諸将を親しい隣人のように扱う妻を見る日々、稀に政治的に鋭いことを呟く妻を見る日々、夫の主君すらも子供扱いしては成長の種を置く妻を見る日々。
劣等感だ。

──それに比べて俺はどうだ。

恋ひとつが日の本を驚愕に揺るがす事件に繋がった女。
魔王と梟の恋は奥州にまで届かなかった。だが西では聞こえた話だったのだろう。晴久から聞いた。なぜ久秀が二度も謀反を起こしたのか。
晴久が語ったことを、僅かに思い出す。


きつは梟をあんたのように思っていたわけじゃねえ。
でも入れ揚げていたのは確かだ。
裏切られた時は心底傷付いてた。

梟は傷付いたきつを見て、喜んでいた。


知らなかった。
何も知らなかった。
知っていたところで何が出来たわけでもないと分かる。分かっている。
だがこの焦燥感は何だろう。

劣等感だ。

「何で」

あまりにも、生きる世界が違った。

──ああ、本当に、こいつは。

自分が情けなくてたまらない。妻は普通の女だ。そう思っていた。
だが本当はそうではなかった。

「俺が、お前の夫なんだろうな」

──男を見る目が、ねえんだな。

普通の女だと、自分が、思っていたかっただけなのだ。

「おまえさま」
吉が言った。声が震えている。哀しいのか、怒っているのか、小十郎には分からない。──妻を慮る余裕がないから分からなかった。
「わらわがお気に召さぬなら、いつなんどきでも、離縁なされましや」
「そういう問題じゃねえ。軽々しく離縁なんて言葉を口に出すな」
「では何が仰りたいの」
震える声を何とか制し、吉がきっぱりと夫を問い質そうとする。また小十郎は苛立つ。妻の毅然とした態度に、今の自分の惨めさを思い知らされた。妻の過去に嫉妬し、当の妻に八つ当たりをする自分の姿は何と情けないことか。
「生きる世界が違うんだ」
「分からぬわえ」
「分かってんだろう」
「分からぬもの」
正座をしている吉が、膝の上で着物をぎゅっと掴む。夫の苛立ちに戸惑う女の顔だ。普通の女の顔だ、と小十郎は思う。
普通の女であるはずなのに、とも、思う。
「魔王と竜の右目ってのは、格が違い過ぎた。──勘違いするなよ、俺は右目であることが誇りだ」
だが、と小十郎は言った。言ってはならないと分かっていることを言った。
「魔王は、俺が手を出していい女じゃなかったってことだ」
吉が黙りこんだ。ただ、じっと夫を──今、まるで他人であるべきだったと言った男を見ている。
その沈黙が小十郎を冷静にした。
深く息を吐き、襲い来る後悔を真正面から受け止める。共に罪悪感も感じていた。
だが後悔を受け止めようと、罪悪感を受け容れようと、それは自身の自己満足でしかないと分かっている。
「すまなかった」
自分でも情けないほどに、力のない声だった。
吉は答えない。
「本心じゃねえ」
嘘だ。本心だ。それでもそう言わなければならなかった。
妻を傷付けた。おそらく今までにないほど深い傷を与えた。
そして小十郎は凄まじいまでの罪悪感に襲われる。
「なんも」
妻が微笑んでいた。
「すまなかった」
「お疲れであらしゃりましょ。もうおしずまりましな」
「きつ」
「はい」
「俺の話を聞いてくれ」
吉は微笑む。
眉をひそめて微笑む。
その笑い方が全ての感情を無理に押し込めているものだと、小十郎には分かっている。
分かる程度にはいとしいのだ。
どんな笑い方をするか。どんな怒り方をするのか。何をすれば喜ぶのか。何をすれば哀しむのか。
全て分かっている。
全て分かっていると言える。胸を張って言えるだろう。それなのに、自分は何ということをしてしまったのか。
「きつ」
「ようよう、省したゆえ。もう、ご勘弁下さいましな」
微笑む妻に小十郎は絶望する。謝ることすら許されないのだと分かった。
「わらわはまだ、いたしたいことがあるゆえ。お先におしずまりなされまし」
そう言って、吉は夫婦の部屋を静かに出て行った。
小十郎は溜息をつく。
眠れるはずがなかった。

──男を見る目がねえ女なんだな。本当に。

自嘲すらできなかった。
心からそう思った。




「晴久殿、お早うござりまする」
「おはようさんのご機嫌さん」
「きつ様と同じ御挨拶を下さりますな」
「そうか。西じゃこう言うんだ」
「勉強になりまする!」
朝から声が大きく、満面の笑顔の幸村に、晴久はやはり朝から苦笑する。幸村は滞在中は礼服の動きに慣れるためか、昨日と同じ形式の服を着ていた。
「それはどうしたんだ。何着も持って来たのか?」
「いえ、こちらはきつ様にお借り致したものでござる。昔、庭師の源爺殿が着ていたとか。他にもいくつか」
「源爺って──へえ」
「昔は片倉家の重鎮だったとお聞きし致しました」
「そうか。大事に着ろよ」
「もちろんでござる!」
「歩き方」
「え」
「床に擦った方が優雅だぞ」
「えっと」
基本的なことは知っていたつもりだが、幸村は晴久の指摘に改めて直そうとする。気さくに教えてくれることが有難いと素直に思った。だが無論すぐには直らず、躓きそうになって晴久に笑われる。
幸村は晴久と共に朝食を食べた。小十郎はだいぶ早くに家を出た、と給仕をする女中が教えてくれた。
吉の姿がない。
「ご気分がお悪いようで、しばらくお床にと」
「ご病気か」
「そうでなければ、よいのですけれど」
「それは心配だ。もし小康されれば、それがしがお見舞に上がってよろしいだろうか」
「やめとけよ」
青菜の漬物をつつきながら晴久が言った。
「きつが寝込むなんて滅多にねえよ。寝かせとけ」
「しかし──」
「お前の顔が見たくなりゃ呼ぶだろ。静かにしとけ。ただでさえうるせえんだから」
ぐ、と言葉に詰まり、心なしか赤面して幸村は箸を運ぶ。漬物が甲斐で食べるものよりも塩辛く、つい米を多く口に入れた。頬張ってる方が静かでいいさ、と晴久は涼しい顔で思っていた。
食べつつも幸村は心配そうな顔を隠せない。昨日はあんなにお元気だったのに、と。だが夕餉の時、小十郎の態度が少しおかしかった。何か関係があるのだろうか。
晴久は我関せずと言った顔で食事をしている。見た目よりも健啖家で、幸村よりも多くを平らげていた。自分がよく食べると知っていた幸村は内心で驚いていた。佐助はきちんと食べているだろうか──不意に心配になる。小十郎も吉も佐助の正体を知っているからこそ、共に食事をしようと口にすることはない。見下しているのではなく、それなりに役目があるだろうと理解しているからだ。だからこそ佐助の行動を制限せず、声をかけることもない。幸村はそれを知っていた。
「侍女殿、その」
「はい」
「それがしの従者は?」
従者に朝餉を出してくれたか、と訊くのは無礼だ。女中は幸村の気遣いを充分に理解したのか、微笑んでみせた。
「きちんとしたお膳を出す予定だったのですが、いつの間にか厨房におられまして。わたくしどもとご一緒に召し上がりました」
「ああ、そうか。それならよかった!」
「わたくしどもとご一緒では失礼かと思いましたのに、気さくなお方で」
「いいや、佐助が一人でなければそれがしは嬉しい。有難い」
「御馳走さん」
喜ぶ幸村の横で晴久が箸を置き、立ち上がる。
「晴久殿、どちらへ」
さっさと部屋を出ようとした晴久に幸村は声をかける。晴久は振り返らず、「きつのとこ」と言った。
「え、ではそれがしも──」
「呼んだら来い。お前、うるせえから」
また言葉に詰まる幸村を尻目に、晴久は後ろ手に障子を閉め、廊下を歩き出した。
幸村のいる部屋から充分に離れてから立ち止まる。
「透波」
「その呼び方、やめてくれない? あんまり好きじゃないんだよねえ」
おどけた声と共に、背後に気配が現れる。昨日と同様、晴久に顔を見せるつもりはないようだった。
「ゆうべ、どうだった」
「旦那はぐっすりだったよ。布団かけ直してあげちゃった。あんたは寝相いいねえ」
「そうか。その程度の情報しか持ってねえなら二流だな。用はねえ、失せろ」
「何で俺様の主でもないあんたに、情報あげなきゃいけないの」
「何が欲しい」
「んー、そういう相談には応じないんだけど」
今回はいいかな、と佐助は背後で笑ってみせる。
「旦那に危害が及ばないように、俺様と協力しちゃう、なんてどう?」
笑い声を装い、それは真剣だった。ならば晴久も真剣に聞く。
「何で俺が真田のために、透波と協力するんだ。情報量には釣り合わねえな」
「ここから先も、あんたが知りたいことは全部教えてあげる」
「気前がいいな。何が目的だ」
「あんた、政治の駆け引き巧いんでしょ?」
晴久は答えない。佐助が何を言っているのかが計りかねた。こういう時は返事をしないことにしている。
佐助は続けた。
「梟と、闇の女が来る」
そうか、と晴久は言った。誰のことだと問う気もなかった。
「梟から旦那を守ってくれないかな。あいつはおかしい」
「それはお前の役目じゃねえのか。真田忍軍のましらと言えば、真田幸村のために死ぬきぐるいだろう」
「よく知ってんね」
「うちの透波も有能でな」
ああそう、と佐助は笑う。そしてそのまま、歌うように続ける。明るい声でありながら、感情を窺わせない忍の声だ。
「俺の役目は確かにそうだけどね。闇の女からは守れる。でも、梟は──悔しいが、俺とは世界が違うんだ」
分からないものからは守れない。佐助はそう言った。
「あんたなら、分かるんじゃないかと思ってさ」
晴久は梟と呼ばれる男を思い出していた。どこまでも吉に──織田上総介信長に付き纏う男だ、と思った。
「梟から真田を守ればいいんだな。分かった」
「あれ、そんな安請け合いしちゃっていいの」
「簡単じゃねえが、出来なくもねえ。要はあいつの興味を真田以外に向けたままにすりゃいい」
「誰に向けんのさ?」
振り返らぬまま、晴久は口元を笑いの形に歪める。
「梟に、竜の右目を抉らせる」
佐助は瞬時、言葉を失った。軽妙な口上で相手を自分の調子に巻き込むのも忍の技術だと言うのに、今は失敗を認めざるを得なかった。
「……旦那さん、なんて呼んでたくせに。やだやだ、出雲の国主様ってこわーい」
「きつには恩があるが、右目にも奥州にも恩はねえ。ついでに言えば右目はハナから気に食わねえ」
「ああ、そう──そうなの。うん、そんな気はしてたけど。昨日の晩飯から」
「天井裏にでもいたのか」
「内緒」
敢えておどけた口調で答える佐助に付き合わず、晴久は冷たく言う。国主として、かつての吉ほど、透波──忍という存在を「能さえあれば他と等しいもの」だと考えてはいない。晴久が狭量なのではない。この時代では吉の感性の方が異質なのだ、と晴久は分かっていた。異質であるからこそ上り詰めたのだ、ということも。
「成立だ。お前は真田の名にでも誓え」
「旦那の名前に誓ったら裏切れないなあ。あんたは何に誓うのさ」
「砂と風の無何有に」
「かっこいーい」
佐助は笑う。晴久は笑わない。誰にも分からないだろう、と知っていた。砂と風の無何有、それは晴久が少年の頃から──天女と出会ってからの全てが詰まっている。
何かを感じた佐助は笑いを収めた。もともと心から笑ったわけでもなかった。時には猿回しの猿の振りもする。ただそれだけだ。
「じゃ、成立でいいよね?」
「そういうことだ。──時間を取られ過ぎた。話は後で聞く。俺が呼んだら来い」
「来いって言われてもね。まあ、何とかするよ。──俺はもう行くけど、最後に訊いていい?」
「答えるかは俺の自由だ」
「いちいち突っかかるねえ」
気配を少しずつ薄くしながら、佐助は今までよりもひそめた声で囁いた。
「昨日の、姐さんの入れ揚げてた話。あんた、わざと右目の旦那に話したんじゃない?」
晴久は答えなかった。
暫しの後、佐助は諦め、その気配を完全に隠す。
最初から一人でそこにいたかのような顔で、晴久は吉の部屋へ向かってゆっくりと歩き出した。
佐助は知らなかった。ここ数年、出雲の国主がかつての魔王と同じことをする時がある、と。
魔王は沈黙で肯定を示すことが、ままあった。
きつの部屋へ向かう途中、再び足を止める。今度は佐助ではなかった。
具合が悪いはずの吉がゆっくりと歩いて来る。おこうが外出のための被衣を持って後ろから着いて来ていたが、その顔は浮かないものだ。吉は無表情に足を止めた。晴久が先に挨拶をする。
「おはようさんのご機嫌さん」
「おはやばや。ご機嫌さん」
「具合が悪いんじゃなかったのか」
吉がゆっくりと晴久を目を合わせる。晴久は見返す。
「晴久」
「ん」
「離縁されたら、出雲へ参る。覚悟し」
晴久は笑った。その横を無言で吉がすり抜け、おこうが蒼褪めながら晴久に礼をして女主人の後を追った。晴久もとりあえずと言った顔でその後に続く。
幸村は縁側で猫のこまと遊んでいたが、吉に気付くとはっとして立ち上がった。こまが器用にその肩に乗る。短い時間で随分懐かれたものだ。
「きつ様、お具合はいかがに」
素直に自分を心配する幸村に、吉は思わずと言った風情でにこりと笑った。この子供の前ではどうしても、不機嫌顔を貫くことができない。笑った吉に安堵し、幸村も自然に笑い返した。
「も、なんもなし。朝餉は頂いたかえ」
「それはようございました。朝餉は美味しゅうございました」
「そ。──騎馬隊へ参る。供をし。晴久は留守番」
俺も、と言う前にびしりと言われた晴久は苦笑するしかない。
「国主に留守番させるなよ。──おしまりなきよう」
幸村の肩から仔猫を片手で引き取り、そう二人に言い置いて晴久は庭へ降りた。幸村は晴久の言葉の意味が分からなかったが、吉は眉を跳ね上げてその背を見送った。
要は「面倒がないように願っているよ」と言われたのだ。昨夜の夫との揉め事を思い出すと、その言葉は晴久に言われると腹の立つものだった。
「きつ様、騎馬隊とは」
「奥州騎馬隊詰め所、仔竜の自慢の」
「それがしが参って良いものなのでしょうか?」
いくら客人扱いとはいえ、元を正せば敵対勢力だ。伊達の主力である騎馬隊の詰め所へ気軽に行って良いとは到底思えない。だが吉は気にしていないようだった。
「駄目と達しがあらば、帰ろ。まァ、なかろうぞ」
吉はおこうから被衣を取り、さっさと歩き出す。幸村も慌ててそれに続いた。
「しかし、それがし──」
口ではそう言いながらも、幸村は高揚する自分に気付いた。政宗の自慢の騎馬隊には何度も出会っている。武田の騎馬隊にはかなわないと信じているが、それでも認めざるを得ない若い力を持った騎馬隊だ。間近でゆっくり接することができるかもしれないと思えば、若い武人は興奮するしかなかった。
分かっているかのように吉は微笑み、被衣を被る。