桜坐の宴 08



月明りの中、吉は廊下を歩く。途中で女中とすれ違ったが、「酒晴らし」とだけ言ってまた歩く。お酒を飲まれないはずなのに、と女中は首を傾げたが、おこうのような立場であればともかく、自分が口をだすべきではないと思い、そのまま見送る。吉が嫁いで来てから、片倉家の使用人のそういった意識が上がっていた。よくも悪くも、誰もが自らの立場を忘れないようにと心がけている。
夫たちのいる部屋からだいぶ離れ、普段は使わない部屋の前の縁側に吉は腰を下ろす。
ほどなくして気配が現れた。それはわざと、吉に自分の存在を知らせるためだ。本来ならば完全に気配を隠せるはずなのだから。
吉は無論それを理解していて、動じることなく、振り返ることもなく口を開いた。
「夕餉は食したのかえ」
「お陰さんで。美味かったよ。御馳走さんでした」
客人の従者に、と、部屋と食事を用意していた。佐助は面食らったものの、確かに自分は従者という触れ込みだ。正当な扱いをしなければ片倉家の名誉に関わるだろうし、悪い方面で噂になれば佐助としても有り難くはない。
「わらわに着いて参ったということは、話でもあるのかえ」
「逆でしょ、逆」
いつの間にか真後ろに立っている忍に、吉は表情ひとつ動かさない。
「話があるから、俺様をここに連れて来たんでしょ、姐さん」
「ま、それでよし」
吉は庭を見る。広い庭だが、庭師の源爺の手抜かりは一切ない。月光の下でも美しく見える、よく整えられた庭だった。
「ゆきが知らぬこと、うぬは知っておろう」
「旦那が知らないこと? さあ、俺はただの忍だからねえ」
「あまり長う座を空けとうない。早々答えい」
佐助は苦笑した。駆け引きをするつもりなどない、とぴしゃりと言われたも同然だからだ。
「信玄坊主に仰せ付かった由、あろう」
「──何のことやら、って言いたいけど、早々答えましょ」
確かにあるよ、と佐助は言う。同時に、それを予測していたこの女が、確かに元は武将だったのだと思った。天井から覗いていた様子はどこまでも武家の奥方であったというのに。
「梟が動いた。尾張に入ってる。それを教えてやれって仰せだったよ」
「尾張」
「そ。あんたの故郷だね」
「是。他は」
「その尾張で、梟があんたの妹と接触した」
吉は返事をせず、胸元から出した扇子を開き、口元を覆った。佐助は続ける。
「あんたの妹は相変わらずらしいが、根の國の力は確実に失ってる」
「ほうかえ」
「あんたが封じたからだろ。あんた自身はどうか知らないけどね」
「知りたくば調べや。それが透波の役目であろ」
「知りたくもないね。──で、そのあんたの妹と梟。旅支度をしてる。近々、尾張を発つんじゃないかな」
「ほうかえ」
ぱしり、と僅かな音を立て、吉が扇子を閉じた。
それだけで佐助は不本意ながら鳥肌が立つ。女の背中から仄かに立ち上った、紅い何かが見えたような気がしたのだ。
「他は」
「これだけだよ。何ならお館様に手紙でも書いて確認してくれ」
「そこまではいらぬ。礼書はしたためるなれど。──うぬも大儀であった」
「あんたに労われる筋はないねェ。変な気分」
「用は終わりぞ。ささと失せ」
「言われませんでも」
言葉が終わるや否や、闇と月光の狭間に身を隠すかのように、吉の背後から気配が消えた。
吉は再び扇子を開き、口元を隠す。
「あの梟、早々に焼き鳥にすべきであったわ」
誰がいるわけでもないのに、呟いた口元を隠すために。
「煮ても焼いても食えぬからと、放っておいたが仇よ」


吉が戻った時、幸村は一通りの事情を把握していた。
「その、野元の家が怪しいと」
「See。調べてる最中だがな。それくらいしか心当たりがねえ」
難しい顔をして話し込む二人をよそに、夫の隣に座り、吉は扇子を開いて口元を隠す。夫にだけ聞こえる声で早口に言った。
「──野元の監視をきつうなされまし。こと、昼夜を問わぬ文の遣り取り」
小十郎は返事をしなかったし、詳しく話せとも言わなかった。妻が政宗と幸村に聞こえぬよう、おそらく佐助からの情報を元にした結論を耳打ちしたということは、ここで話すべきことではないと判断したからだ。だが、妻の判断を疑うことはない。騎馬隊へ急ぎの使いを出すために黙って部屋を出た。政宗と幸村は相変わらず話し込んでいる。
「それがしに出来ることは、きつ様の警護ということになる」
「だな。一番いいのは姐さんが家から出ねえことだが、茶会の準備もあるだろうし、そうもいかねえだろ」
「騎馬隊の面々が警護については大事に思われよう。なれば、こちらに客人として滞在するそれがしが御身まわりに侍る方がまだ自然であることは確かだ」
吉は笑顔で軽く拍手をし、よう分かった、賢い子、と幸村を称賛する。普通であれば「武家の奥方でありながら若い男を連れ歩いて」と眉を顰められるだろうが、領民が吉を決してそのような目で見ないことは吉自身がよく知っていた。伊達に、まさに伊達に片倉家の正室を名乗っているわけではないのだ。
「姐さんなら真田だろうが尼子だろうが、誰と歩いてても平気だしな。もうさあ、ここの夫婦のラブラブっぷりは有名で有名で。浮気なんざ疑われねえよ」
「らぶらぶ? らぶらぶとは何でござるか、政宗殿。それがし、南蛮語に疎くお恥ずかしいのだが」
「えーっとあれだ、すっげー仲がいいとかそういう」
「なるほど、そういうことに使うのでござるか」
「そうそう」
得心したように頷く幸村に、政宗も頷いてみせる。
不意に幸村がぽんと手を叩いてみせた。
「では、政宗殿と右目殿もらぶらぶでござるな!」
無論、政宗は吉に射殺されるかの如き目で睨まれ、何で俺がと嘆くはめになり、戻って来た小十郎は事情が分からぬながらも溜息をつくことになったのだった。
一通りの打ち合わせが終わっても、政宗が幸村と話をしたがっていたことは明白で、小十郎は珍しく政宗を甘やかすことにした。よろしければ今夜は我が家へお泊りに、と言うと、政宗は素直に嬉しそうにそれを受け入れた。吉は夫には聞こえぬ声で「わずらわし」と呟き、政宗の泊まる部屋を整えるために使用人に指示を出す。その姿を見た幸村は、本当に奥様だ、嘘みたいだ、と驚くことしきりだった。
すっかり夜も更け、小十郎は政宗に挨拶をして夫婦の部屋へ下がることにする。本来ならば政宗が寝るまで同席することが常識だが、吉が先に「付き合い切れぬ」と政宗に憎まれ口を叩いて部屋を辞し、本意に気付いた小十郎は妻に倣うことにしたのだった。
「お前、分かりにくい優しさだな」
「なんも。眠うて」
「そうか」
それ以上追及せず、小十郎は笑っておく。吉が政宗を、幸村と二人にしてやろうとしたのだと分かっていた。とはいえ、天井裏に佐助がいることは明白なのだが。
「天井裏の掃除もしておいてやればよかったか」
「おおつごもりしか清めぬ場を? いま?」
「そう嫌な顔をするな、冗談だ」
「おまえさまは家のことは何もなさらぬではないの。わらわが面倒なのだえ」
「分かった、思いつきで言った俺が悪かった」
機嫌が悪くなりそうな妻にあっさり謝罪する。もう、と言って吉が小十郎を軽く叩いた。
「で、お前、さっきの話。一応、騎馬隊に使いを出しておいたが、どういうことだ」
「猫が申しておった」
「猿飛が?」
「信玄坊主のお墨付きのしらせだえ」
吉は佐助から伝えられた情報を小十郎に正確に伝えた。聞きながら小十郎の眼が厳しくなっていく。
「松永の弾正が野元と連絡を取る可能性、ってことか」
「或いは既に」
「成る程」
小十郎は暫し沈黙する。吉は夫を促さず、寝支度のために髪を櫛で梳き始めた。言うべきことは言った、と顔に書いてある。後は小十郎が考えるべきことだ。何かを思いついても夫に言うつもりはなかった。自分はあくまで片倉小十郎の妻にすぎない。ああしろ、こうしろと言うのは分をわきまえない行為だ。急ぎであったとはいえ、監視を強化するように言ったことすら、吉としては出すぎた真似だと思っていた。
「となると」
考えをまとめた小十郎が口を開いた。
「お前の妹を出汁に、奥州に──茶会に来ねえとも限らねえ、な」
「そ」
分かってるんだろう、と小十郎は言いたかったが、妻がそれを望まないことを察していた。
「あれだけ名の通った文化人が、片倉家の正室の妹──表向きには単なる一族か。それでも近い縁の女を連れて来るとあれば、押しかけでも茶会に招かないわけにもいかねえ」
「そ」
「発端が野元なら、野元も株が上がる。松永の弾正を呼ぶってのは、そういうことだろう」
「お先に」
会話をする気はない、と吉は寝具に横たわる背中で小十郎に語った。
小十郎は溜息をつく。
「きつ」
「はい」
「お前が弾正や妹のことを話したくねえのは分かる」
「なんも」
「聞けよ。──今回だけはそうもいかねえだろう」
吉は答えない。小十郎は続ける。
いつか言わなくてはならないことを、今は少しだけ言うことにする。
「俺たちは、いつまでも逃げてるわけにはいかねえことがあるだろう」
長い沈黙が降りた。小十郎は妻の背中を見る。今の自分の言葉で、繊細な妻の心が傷付いたかもしれない。
そうだ、妻は繊細だ。誰が何と言おうと小十郎は知っている。
繊細ゆえにただ一人で全てを背負い、信じられぬほどの荒れた道を踏破した。
その心にどれほどの傷を負ったのか。傷を隠し続けて生きていたのか。再び手を取り合った時、砕けていなかったことが不思議なほど傷だらけだった。
過去を話したがらないことは当然だ。小十郎は分かっている。
「まずはひとつでいい」
それでも、今は話さなければならなかった。
「ひとつ、乗り越えてくれ」
傷を負った過去をいつまでも傷として抱え、痛みから目を背けている。
それを乗り越えなければならない。
「死ぬまで夫婦だろう」

──お前が少しずつ、傷を癒していけば、いつか──

「何があっても、守ってやる」

──いつか、あの雪の日のことも、恐怖ではなく、ただの思い出にすることができる。

吉は答えなかった。小十郎もそれきり黙った。
長い長い沈黙の後、ゆっくりと吉が起き上がる。
夫を振り返った。
目尻に浮かぶ涙を堪えるかのように、堅く唇を噛んでいる。
小十郎は微笑んでみせ、自分の膝を叩いた。
「来いよ」
吉がいつものように、少しためらい、猫のようにその膝に乗った。甘え方を知らなかった女が、ようやく甘えることができるようになった場所だった。
「お前、泣いてもいいんだぞ」
「忘れた」
「そうか」

──いつか、泣き方も思い出すさ。

話をするよりも、まずは妻を落ち着かせるために頬や首筋を撫でる。やがて吉も落ち着きを取り戻し、御免なさいまし、と小さな声で言った。
夜がだいぶ更けていた。さすがに政宗も幸村も眠っただろう。
「俺たちも寝るか。話は明日でもいい」
「はい」
夫婦の寝室前の廊下に気配が現れたのはその時だった。
「小十郎様、奥様、源爺でございます」
「どうした」
「何え」
吉が小十郎の膝から降りる。二人は同時に何か緊急か、よもや野元に密書でも届いたか、と危惧する。源爺が夜間に取り次ぐのは他の使用人では扱いきれない重要ごとのはずだ。
源爺が言ったことは全く別の、しかし緊急であることは明らかなことだった。


「旦那さん、きつ、夜中にごめん」
夜目にもはっきりと分かるほど憔悴した晴久がそこにいた。
「晴久、なにごとかえ」
「ほんとごめん。伊達の城、無理。こっちに泊めてくれねえか」
晴久は言った。

「風呂や飯や酒の世話は異常だし、おまけに夜伽しようって女が多すぎて、俺、無理。奥州ってどうなってんの」

ああ、と夫婦は同時に溜息をついた。

奥州の民にとっては一種憧れの西の出雲国主、独身、美形とあらば。
城主不在の夜のうち、城の女たちが今こそと気炎を上げるのも無理からぬことだ、と。

「一人で夜中に城を逃げるほど、酷かったのかえ」
「酷いなんてもんじゃねえよ。奥州が嫌いになった」
「よほど、よほどに恐ろしい目に遭うたの」
「怖かった。交易切りたい。いや、切る」
そればかりは、と小十郎は晴久に勝るとも劣らないほどに蒼褪める。
「晴久殿、それは何とか! 明日、女たちにはきつく申し渡しておく!」
「旦那さん、奥州の女って怖いね……」
「全てがそうじゃねえんだが、本当に申し訳ない!」
小十郎は土下座の勢いで頭を下げ続け、情けないながらもここは妻にもとりなしてもらいたい、と本気で願ったのだった。