幸村の到着は早かった。政宗が知らせを受けるのとほぼ同時だったのだ。吉からの手紙を受け取った翌日には甲斐を発ち、街道を飛ばしに飛ばしたのである。
あまり多くの供を連れて来ては騒ぎが大きくなるという理由で、随行は従者に変装した佐助だけだった。
政宗ははじめ、「尼子の代わりに真田を城に滞在させればいい」と言ったが、それは小十郎が即座に却下した。対外的な身分関係というものもあります、出雲の国主より上にもてなすおつもりですか、我儘を仰るものではありません、と。主君が幸村が奥州にいる間くらい傍に置きたいのだということは分かっていたが、小十郎としては譲れなかった。晴久も肩を竦め、吉に「伊達はどうしようもねえな」と言ったものだ。吉は溜息をつくばかりだった。
吉としては二人が片倉家に滞在しても構わないし、むしろ嬉しいところだったのだが、元々晴久は城に滞在する予定だったため、そこは我儘を抑える。
幸村が到着する日の朝、晴久は小十郎と共に城へ向かった。
その午後、幸村と佐助が到着した。どれほど馬を飛ばして来たのか、馬は汗をかき、息を切らせ、人を乗せることにも疲れ果て、幸村と佐助がそれぞれ引いて歩いているほどだった。
「きつ様!」
片倉の家に着くなり、幸村は既に門まで出てきていた吉に満面の笑みで手を振る。佐助は溜息をつき、「やれやれ」と呟いた。主君は少し人目を憚るべきだ。この時代、いくら親しいとはいえ、女性に大っぴらに手を振るとは。夫婦でも滅多にないことだと言うのに。
「ゆき、ようよう参った。従者も、ナ。久しいの」
「お久しゅうございます。こちらはまだ、少し肌寒うございますな」
「夜はまだ冷えるのだえ」
「や、それはきつ様、お風邪など心配で」
「甲斐はいかばかりかえ。もうあたたかいの」
「ええ、それはもう。それがしの城の桜も満開にござりますれば」
「あの上田の。さぞ見事であろうなァ。こちらの桜はもうすぐで」
世間話をしながら邸に入る。佐助は二人の背を見ながら、まずは邸内の探索だな、と決めた。家に入ってもいいということならば、小十郎も覚悟はしているはずだ。
不意に吉が振り返った。思いがけない動作に、佐助はつい「従者」としての立場を忘れて目を合わせる。
その目だよ、と思う。
──その目だよ。あんた、相変わらずだな。
吉の目は昔と同じものだった。昔と同じ目で佐助を見ていた。
憎悪や嫌悪ではない。だが、認めているわけでもない、と言う目だった。
忍だから見下されているわけではない。佐助はよく分かっていた。この女はいかな身分の者であろうと、能力さえあれば全く気にしないのだと。
だが、認めない者にはどこまでも冷たい。
相変わらずだ。
相変わらず、自分は認められていないのだ、と佐助は知った。
客間ではなく、吉の私室で二人は改めて再会を喜び合った。他家からすれば正室の私室に夫以外の男が入るとは、と噂されそうなものだが、片倉の使用人たちは「晴久殿と真田は例外だ」と小十郎から言い渡されていた。
「朝まで、晴久がおったのだえ」
「晴久殿──尼子晴久殿であられますか。今回、ご参加されるとは存じておりましたが」
「急に奥州に参って、ナ。暫く片倉の家におったのだけれど、朝、城に発った」
「ああ、そう言えば──それがしも政宗殿に御挨拶せねばなりませぬ」
「ま、それは」
吉は手にした扇子を閉じ、庭に目をやってから幸村をちらりと見る。視線を受けた幸村は嬉しくてにこりと笑い、其れを可愛いと思った吉も笑い返し、そして言った。
「ゆきが城に上がる要もなし」
「いえ、早急に──右目殿が亭主とはいえ、茶会の主催は政宗殿であられますし」
「よいの、よいの。ではせめて、夜まではわらわの相手をしておくれたも」
「はい!」
ああ、なるほどねェ──早速屋根裏に潜んで会話を聞いていた佐助は、珍しく吉と同じ予想をしたことを喜べばいいのか悪いのか、判断がつきかねたのだった。
それから吉は信玄の様子を聞き、病がすっかり回復したこと、むしろ元気を余らせて毎日道場で兵士たちをしごいていることを聞き、あの坊主はどうしようもない、と言いながらも嬉しそうに笑う。
「結婚祝いに大層な着物を賜って。礼を申しても申しても足らぬわえ」
「きっと、どれもお似合いでござりましょう」
「なればよいのだけれど。あまりに良いものばかりで、中々着る機がのうて、ナ。この茶会で一枚、ありがたく着ようかと思うて」
「それは是非、お館様にお知らせせねばなりませぬ!」
幸村は嬉しそうに笑った。主君が選んだ着物を、吉がここ一番の時に着ると言ったことが嬉しくてならない。
時間はあっと言う間に過ぎ去り、やがて吉が夕餉の膳の品書きを使用人から聞き、検分する時刻になる。これは毎日の吉の仕事だった。文句を言うことは滅多にないが、季節にそぐわないものや、小十郎がどうしても好きではなく、箸をつけないものは外すよう、厨房に指示をするのだ。
すっかり「奥様」だ、と幸村が感心していると、吉が付け加えた。
「少うしよいものをひとつ増やした膳を、ひとつ作っておくれたも。ゆきと同じものより、ひとつ上の」
客に一品多く出すのは礼儀のうちだ。幸村もそれは分かっている。だがもうひとつとはどういうことだろう。
「きつ様、他にどなたかいらっしゃるのですか」
「ん」
吉は幸村ににこりと笑った。幸村も笑い返す。
「よう、塩を撒いてやりとうなる相手だえ」
「塩でござりますか! なめくじのような御仁であられるのですね!」
「な……!」
不意を突かれた吉は思わず噴き出し、天井裏の佐助は唇を噛んで笑いを堪えなければならなかった。
「政宗様にはご機嫌ようならっしゃいまして」
「ああ、もう、姐さん、いいから。それほんといいから! 真田いるんだろ、どこ!」
「夕餉の間」
「ちと御邪魔すっから!」
返事も待たず、政宗は邸内へ上がりこむ。使用人たちが平伏する間もない。その後姿を見送ってから、吉は主君と共に帰宅した夫に顔を向けた。
「お帰りなさいまし」
「……ああ、うん。すまねえが、政宗様の膳を──」
「とうに用意しておるわえ」
「……すまねえ」
妻は予測済みだった。しかしその妻が眉を跳ね上げる。
「よいと申すなら二度と出迎えぬわ。おまえさまもご異存あらしゃることなしであろ」
「そう言うな。俺が申し上げておくから」
出迎えたくもない相手を出迎えてやったのにろくな挨拶も返さないで、と吉は苦々しい。確かにあれは政宗様の方が無礼だ、と小十郎も思わざるを得なかった。意中の相手が来て嬉しいことは分かるが、そしてここが片倉家という気安さもあるのだろうが、やはり主君としては褒められない態度だった。
「ま、真田もいるんだ。今日のところは機嫌を直せ」
「是、是」
溜息をつき、吉は夫に着いて夕餉の部屋へ向かう。
だが部屋に入るなり、小十郎のみならず、吉までもが驚いた。
早速幸村に絡んでいるであろうと思っていた政宗が、唐突に吉に向かって頭を下げて来たのだ。
「姐さん、すんませんっした。俺、さっき失礼だった」
「そんな謝罪の仕方があるか、政宗殿!」
「いや、真田、この家じゃこれ以上無理だって!」
「覗いていたそれがしも無礼であったことは認めるが、政宗殿のあの態度は度し難いでござる!」
「だから俺が悪かった、Sorry! 姐さんごめんなさい!」
「それが奥州では謝罪の態度なのでござるか! 無礼、失礼、失敬極まりない!」
「だからー!」
使用人の目があるからこれ以上は無理なんだよ、と政宗は必死で説明する。だが頭に血が上った幸村は聞き入れようとしない。一方的に政宗にきつい言葉を投げ、言われる政宗はやがてうなだれるばかりになる。
夫婦は思わず顔を見合わせ、同時に苦笑した。
「俺が申し上げるより、効果があるようだな」
「茶会までにあれもこれも申すよう、ゆきに仰いましな。──ゆき、ありがとう、ナ。もうよい、仔竜なぞ放り置いて、夕餉を頂こ」
「しかし、きつ様!」
「旦那様がおひもじになられては、わらわの立場がのうて。おこう、膳を運んでたも」
「あっ」
膳という言葉で思い出し、つい幸村は思ったままを口にしてしまっていた。
「なめくじ!」
「──も、堪忍え!」
言うなり大笑いをした吉に、夫とその主君は唖然とする。吉がここまで大笑いをすることは滅多になく、小十郎でさえほとんど見たことがなかった。
──真田が来て、よかったか。
小十郎は素直にそう思った。屋根裏で今度こそ本気で唇を噛み、身体を震わせて笑いを堪えている忍の努力を知らずに。
「真田、なめくじって何の話だよ?」
「きつ様が、塩をお撒きになられたいと仰って。それが──」
「ゆき、ご覧。これがなァ、奥州の今の旬で」
「や、これは美味そうな!」
「おい、俺の話を聞けよ! 飯でごまかされてんじゃねえよ!」
「政宗様、膳の準備ができましたので。どうぞご着席を」
これは絶対に吉が政宗をなめくじと揶揄したに違いない。小十郎は内心で断ずる。実際に耳にすれば吉を叱り付けるところだが、聞いていない以上、叱ることはできなかった。
まあ、でも──小十郎はまたしみじみと思う。吉は心底政宗を嫌っているわけではないのだ、と。身分が一番上の者に礼儀として特別に付けられた小鉢は、政宗の好きな豆の料理だった。
「姐さん、これ美味い」
「ほうかえ」
返事は素っ気ないものだ。礼儀は尽くしてやった、というところなのだろう。
改めて幸村が政宗に挨拶をする。それから小十郎に。日頃は敵対する勢力として角を突き合わせるが、今の立場ではそれは有り得なかった。純粋に、招いた者、招かれた者として礼を尽くし合う。
「政宗殿に御挨拶に伺おうと思っていたのだが、きつ様に待つよう仰せ使って。遅くなって失礼いたした」
「結果は同じではないの。だから参らずとも良いと申したのだえ」
「確かにそうでございますな」
小十郎は溜息をつきたくなる。吉は政宗が幸村会いたさに片倉家に押しかけることを予想していたのだ。招かれた立場でありながら城に残される晴久は苦笑いをし、「ああいいよ、俺に構わねえで行け行け」と追い払うがごとく手を振ったものだった。後で晴久に詫びなければならない、と小十郎はしみじみと思った。政宗のこういった部分はまだまだ子供だ。
「で、真田って大体の事情知ってんの?」
「御身に危機が、と聞き及び、かきゅうてきすみやかに参ったが、それ以上はまだ何も」
「可及的速やかに」
「そう、かきゅうてきすみやかに」
なぜか仮名で発音しているような気がするが、と政宗と小十郎は図らずも同時に思う。吉と言えば、まァよく読めたこと、賢い子、と信玄と同じことを思っていた。
「ま、説明すると──小十郎」
「政宗様からご説明下さい」
晴久で練習したはずだ、と小十郎は冷たい。説明が苦手で今回も逃げようとした政宗は、小十郎の態度で思い出し、咳払いをして居住まいを正してみせた。
「いや、実はな。姐さんが命を狙われてる可能性があってな」
「うむ、それは書面にてご説明頂戴した」
「あ、そ。だからそういうことで」
「政宗様」
「──ちょっとあれ、Wait、組み立てるから」
叱られる、と察した政宗は考える態勢になる。あれ言ってからこれ言って、それからああで、と、考え始めた。幸村はじっと政宗を見ながら待っている。
その間に吉がすっと立ち上がり、部屋を出る。小十郎はそれを横目で見送るだけだった。