矢を射った者は見つからなかったが、政宗が騎馬隊に保管させた矢を手に入れることができた。捜索から茶屋に戻って来た小十郎は、矢を見て眉をひそめる。
「たちの悪い矢ですね。当たりどころが悪くなくてもまずいことになる」
「あ、やっぱそう? 俺もそう思った」
「さすが政宗様、ご慧眼でございますな」
変な会話、と横で茶を飲んでいる晴久は思う。吉はその隣で、茶屋の店主が気を利かせて出した饅頭を早々に食べ終え、二杯目の茶を飲んでいた。騎馬隊の青年たちは周囲の捜索と安全確保に奔走している。茶屋から、少なくとも片倉家までの安全が確認されない限り、ここからは動けない。これは小十郎が以前から騎馬隊に教え込んでいた方針だった。
「問題は誰を狙ったかってことだ」
晴久が自分の饅頭の皿をさりげなく吉の前に置きながら口を出す。
「誰って、俺じゃねえの。奥州筆頭イケメン。たまたま狙いが外れたんだろうけどよ」
「それなら、こんな矢は使わねえ」
「why?」
「ああ、きつ、ありがと」
「ん」
店主に置いておかせた急須から、吉が男たちの湯呑みに茶を足していた。政宗は自分の湯呑みにも足されたことに気づき、吉が家の外ではきちんと「片倉の妻」の役目を果たすことに感心する。
「姐さん、腹減ってんのかよ」
吉の前から晴久にもらった饅頭が既に消え失せていた。政宗の指摘で気づいた小十郎は溜息をつき、自分の分を吉の前に置く。すると吉がそれを押し戻したので、さすがにもう腹が一杯なのか、と思った。
「斯様な矢は使わぬ、ではなく」
吉が口元を袂で隠し、小さな声で言った。男たちはさりげない会話を続けている様子を続けつつ、吉の声に聴覚を傾ける。
「使わせぬ、であろ」
男たちは一瞬視線を交わし合い、次に同時に苦笑いを漏らした。まさにその通りだと思ったからだ。
矢を射った者は誰かに命じられてのことだろう、と、なぜか吉の言葉で確信した。
射られた矢は通常、即死を狙う時に使われる鉄製の矢じりではなかった。錆のついた青銅の矢じりだったのだ。
「返し」
やはり小さな声で言い、吉が矢じりを指差す。
一度刺されば抜き難い仕掛けがついている。これには男たちも気づいていたが、吉が言うと急激に真実味が増した。この女はやはり、自分たちよりも多くのいくさを知る者だった。
抜き難い矢の先に、体内に入れば壊疽を起こす可能性のある錆が付着していた。この時代、壊疽を起こせば部位を切り取るしか治す術がない。手当てが遅れれば死ぬ可能性も高い。だが逆を言えば、「死なない」可能性もあるのだ。吉はそれを指摘していた。
「国主を狙う矢ではない、な」
小十郎が難しい顔をする。政宗が狙われたわけではないと知って安堵したものの、それでは誰を狙ったのかと言えば、と考えざるを得なかった。
あの状況なら晴久か。しかしこの奥州で出雲の国主に手を出す理由がない。
それならば──自分か、吉か。
だが理由は?
「俺だったら」
晴久がさらりと言う。
「こんな状況で矢なんか射たせねえ。暗殺するなら伊達の城に透波を送る。必ず一撃で殺せ、ってな」
「お前んとこ、透波いんのかよ」
「言えるか、阿呆」
「誰が阿呆だ、おい!」
「伊達、饅頭好きじゃねえの?」
「何の話だよ! 嫌いじゃねえけどよ!」
「饅頭食わなきゃ死ぬってわけでもなさそうだな」
言いながら、晴久が政宗の饅頭の皿を吉の前に置いた。
俺のも食べなかったんだからいらないだろう、と小十郎は思ったが、吉があっさり手を出したため、この状況下でも胃の軋みを感じるはめになった。
「お前」
小十郎は小声で妻に囁く。
「俺のを食え。政宗様のものに手を出すんじゃねえ」
「おまえさまのものを頂けるはずがなかろ」
「だからさっき、食わなかったのか」
「そ」
「お前にはあまり不満はねえが、もう少し柔軟性のある良妻になってくれねえか」
「あまりないとおっしゃるなら、あるにはある、ということかえ。ならばわらわとて、おまえさまに──」
「──おっさん、姐さんに甘いもの出してやって。俺らには漬物でもくれ」
目の前で夫婦喧嘩が始まりそうだと察した政宗は、素早く店主に言いつける。避難所と軍議の場にされて、店主もいい迷惑だろう、後で褒美の金品を贈らねば、と思ったのだが──店主が吉の前にいそいそと持って来た菓子が落雁であったため、つい苦笑した。高級な菓子をここぞとばかりに出す店主のしたたかさに、いっそ感心したのだった。
「姐さん、他にも食べたいものあれば言いなよ。どうせ俺が払うし」
「いえ、政宗様、それは」
「いいって、小十郎。で、姐さん、何かある?」
「こんぺいとう」
「さすがに無理ですごめんなさい……」
「きつ、お前、本当にいい加減にしろ!」
「えーっとつまり、狙われたのは伊達以外ってことでいいよな?」
「そういうことだ、尼子、たまには頭いいな!」
「たまにとは何だえ、晴久は元より出来の良い子であろ!」
「きつ、政宗様にまたそう無礼な口を──」
喧々囂々の中、晴久は溜息をつき、店主に新しい茶の入った急須を持って来るように言いつける。やって来た騎馬隊の若者が騒ぎに目を丸くし、恐る恐る「小十郎様の御宅まで安全確認したんすけど」と声をかけ、「分かったよ、ご苦労さん」と返事をしたのは結局晴久だった。
「総合すると」
自宅に帰り着き、小十郎はようやく結論を出した。家に帰るまでもがまた大騒ぎだったのだが、騒いでいたのは主に政宗と吉で、小十郎と晴久は道々話し合いながら進んだのだった。
「きつ、だな。狙われたのは」
「しかも『あまり殺す気がない』矢でな」
それを聞き、吉はあっという間に機嫌が悪くなる。そして言い放った。
「知っておったわ。他に誰ぞが狙われるとおっしゃるの、おまえさま」
「……知ってたなら言えよ」
「仔竜が申すかと思うておったのだもの。それがどうだえ。なァにがいけめんぞ」
これ以上きついことを言えば小十郎が怒ると知っていて、吉はその程度で許してやる。それがありありと分かる政宗としては恥じ入るしかなかった。物事を正確に判断するにはまだ経験が必要だと思い知る。
「ああ、それにしても、しても、もう。忌々し」
吉は本当に不機嫌で、小十郎でさえ迂闊に言葉をかけられない。旧い付き合いの晴久はそれなりに対処法を心得ていて、最善の「吉が話しかけてくるまで黙っている」戦法を取った。政宗に至っては「さあ、八つ当たりどうぞ」の反省振りだ。だが小十郎の手前、流石に政宗に八つ当たりをする気はない吉は、眉をひそめて政宗を見ただけだった。
小十郎は吉の癇癪一歩手前の言葉の数々に忍耐強く頷きながら、誰が吉を狙ったのかと考えていた。
吉が狙われたという結論に辿り着いたのは、晴久との会話からだった。
たとえば、吉が織田信長だと知っている者、そしてその者が織田に対して恨みを抱いていれば有り得ないことではない。だがこの奥州で吉の正体を知っているのは政宗と小十郎だけだ。では織田家そのものへの怨恨──それも可能性は低い。奥州は織田家とはむしろ親しく、事を構えたことも、すなわち犠牲者を出したこともない。織田家に直接恨みを持つ者が奥州にいるとは考え難いのだ。
では他に誰が──晴久がさらりと言った。
──あんたの嫁さん、あの性格だ。どっかでどっかの女の自惚れを叩き潰したんじゃねえの。女の恨みは怖いからな。
今、それを片端から考えている。吉が不意に「文を書く」と言い出し、夫婦の部屋へ向かったので、小十郎は思う存分思考に沈むことができた。政宗は露骨に安堵の溜息を吐き、晴久は珍しく「気持ちは分かる」と政宗に同意している。
小十郎は考える。
あの性格でどこかの女の──どこかの女。暗殺者を雇えるような、もしくは手元に置くような家の女と言うことか。
元々、吉は奥州の上流武家の奥方や姫との付き合いが少ない。女の世界は面倒だと常に言っていた。武家の奥方の集まりにも過去に一度しか出たことがない。
一度しか。
「そ」
思わず小十郎は呻いた。
「その一度で充分だった、な……」
「どした、小十郎」
「いえ、その。きつを狙った者の心当たりが……」
胃が軋んだ。確かにその可能性がないと言い切れなくなった。条件が揃い過ぎているのだ。
「まじで? 誰だよ」
「きつが一度だけ、武家の奥の集まりに顔を出したことが」
「──ああ、あれ! 姐さんが野元のおばちゃんのこと完膚無きまでに叩きのめし……」
最初は楽しそうに手を叩いた政宗だったが、見事に蒼褪め、言葉を失う。小十郎は胃痛を感じながら頷く。
「まだ、可能性に過ぎませんが。調査しなければ」
「……何だろ、平和な奥州で他に何か可能性って……ない気がすんのは気のせいか……」
「奥州の野元って」
思い出した顔で晴久が口を出した。
「もしかして、大和の弾正──梟と誼を繋ごうとした家か」
「──何だと?」
瞬時にして政宗と小十郎の顔つきが変わった。ことに小十郎の顔は険しい。晴久は少なからず驚いた。知らなかったのか、と。
大和の弾正、梟と言えば松永久秀のことだ。吉──織田信長の部下でありながら二度も謀反を起こし、一部では伝説のように語られている。茶道や書道にも造詣が深く、それゆえに晴久はその話を知ったのだ。
「野元があのオッサンと通じてたってのか」
「確定じゃねえ、噂だ。それでも結構前だぞ。本能寺の前」
「噂でもいい、聞かせろ。マジならとんでもねえ」
「野元ってアレだろ、奥州の旧臣じゃなかったか」
「旧臣なんてもんじゃねえ。片倉さんちの政敵だ。それこそ三代くらいメンチ切り合ってんぞ」
「ちょっと待て、組み立てる」
断り、晴久は黙る。昔は何も言わずに黙り込んだものだが、吉と出会って指摘されてからは一言断るようにしていた。これが思った以上に効果があり、家臣たちはいつの間にか期待と畏怖を持って晴久の言葉を待つようになっていた。顔に出さないものの、小十郎はこの態度に感心する。政宗とは違う為政者の顔を見た。政宗が劣っているとは思わないが、家臣を納得させるという手段においては晴久が一歩先んじているようだ。
──だが、いくさ場での求心性は政宗様にかなわない。
負け惜しみではなく、長年あらゆるいくさ場であらゆる将を見て来たからこそ冷静に思う。いくさ場での政宗の姿は、吉でさえ一度として辛口の言葉を吐いたことがなかった。
「伊達」
「おう」
「分かってるか」
「俺に先に喋らせようってか」
「その方がいい。俺は先入観があるし、奥州の詳しい事情を知らねえからな。見当外れかもしれねえ」
「よし分かった。ちょっと待て、組み立てる」
「──俺が黙ってる間に何で組み立てねえんだよ」
「物事には順序があるんだよ、いちいちうっせえな!」
「政宗様、どうぞ組み立てて下さい。晴久殿にお待ち頂いて」
胃が痛い。小十郎は本気で脂汗をかいていた。
その数日後、甲斐の虎は首を傾げていた。
「幸村はおるか」
読み終えた手紙をもう一度読み返しながら、信玄はのんびりと言った。すぐに侍女のひとりが伝えに向かう。
それほど待つこともなく、板張りの廊下をどたばたと走る音がした。何度走るなと言ってもすぐに忘れるため、信玄はもう諦めていた。
「お館様、幸村、参上いたしましてござりまする!」
「声が大きい」
「申し訳ございませぬ!」
肩で息をしながら平服する幸村に、信玄は溜息混じりに苦笑した。そろそろ落ち着いても良い年頃だと言うのに、──ほんの一時でも武田全てを背負い、地獄のようないくさ場をその目に見ているというのに、この少年はいつまでも子供のままだ。
だからこそだろうな、と手紙を弄びながら信玄は思う。──だからこそ、奥州に嫁いだあの普通の女は幸村を好むのだろうと。
「独眼竜の茶会は来月か」
「さようでござりまする。それがし、只今、茶の作法を復習しておりまする!」
復習せねば思いだせぬのか──信玄は一瞬、遠い目をしそうになる。だがこれも幸村だと思えば納得できることだった。否、納得するよう自らに言い聞かせた。
「そうか。では急いで総ざらえをせよ」
「は?」
「読め」
「恐れ入ります!」
差し出された誰かからの手紙を押し頂き、幸村は深く頭を下げてから、丁寧に広げる。主君に宛てられた手紙を万が一でも破ったり汚したりするわけにはいかなかった。
読み進むにつれ、幸村の顔に「ぜんぜん意味わかんない」と大書きされていく。
「お館様」
「うむ」
「きつ様からのお文ということは、それがし、理解できました」
「その通りじゃ。思ったより賢いのう」
「お褒めに預かり光栄にござりまする!」
どっちかっつうと呆れられてんじゃないのかい、と、いつの間にか廊下で控えていた佐助は心の中で呟いた。
「ですが、お館様」
「うむ」
「きつ様が、それがしを早めに──かきゅうてきすみやかに」
「よく読めたな、褒めてつかわすぞ!」
「恐れ入ります!」
「あのー、続きは?」
耐えかねた佐助が廊下から顔を出し、口を出した。よくある遣り取りなのだが先が気になる。この遣り取りが入るといつも本題が片づくまで時間がかかるのだ。
「おお、佐助、入れ。共に奥州へ向かうのだろうから、おぬしも聞いておけ」
むしろ佐助に聞かせた方がいい、とでも言いたげな顔で信玄は真田の忍を手招きする。幸村は佐助が同席を許されたことが嬉しく、ありがとうございます、と信玄に向かって満面の笑みを浮かべた。
「幸村、可及的速やかに」
「かきゅうてきすみやかに。それがしに奥州へ参るよう、きつ様がお望みであらせられますな」
「うむ。よく理解できた」
「畏れながら、理解できませぬ」
「どの辺りが理解できぬ」
「ええ、あのう」
幸村はいっそ朗らかと言っても過言ではないほど、嬉しそうに言った。
「それがし、実は。早う来月にならぬかと思うておったのです。早う早う、きつ様のお元気なお姿を拝見しとうございまして! ──だから、それがしの心をきつ様がご存知であらせられたことが理解できぬのでございます!」
途端、信玄が思い切り自らの膝を打った。それが合図かのように幸村が立ち上がり、信玄もまた同じことをする。佐助は溜息をつき、やれやれ、と呟いた。
「──幸村! よう申したわ!」
「お館様ァ! それがしの逸る心、女々しきとお思いになられず、どうぞ御理解下さりませ!」
「理解しようぞ! 褒めようぞ! それぞ武田が誇る若虎よ!」
「お館様! 光栄にござりまする!」
「幸村ァ!」
「お館様ァ!」
「可及的速やかに!」
「かきゅうてきすみやかに!」
信玄が叫ぶ。
いくさの先陣を命ずるがごとくの大音声で。
「奥州へ、向かえい!」
「かしこまりて、ございますッ!」
そして始まるあの応酬──「幸村ァ!」「お館様ァ!」。
傍から見れば殴り合い、本人たちにとっては忠義の確認を始めた二人を尻目に、佐助は忘れられた手紙を勝手に手に取る。
漢字混じりで読めない部分もあるが、あの女が書くにしては仮名が多かった。女ぶってんのね、と呟きつつ、漢字があまり読めない佐助には有り難い。
読み進み、理解してから、佐助は殴り合いを続ける信玄と幸村を眺める。半ば以上呆れながら。
──これ、命狙われてるから護衛に旦那を寄越せ、とっとと寄越せ、って言ってるような気がすんだけど、俺様の気のせい?
数日後、奥州。
「真田が姐さんに呼ばれて早めに来るってよ、手紙来たんだけどさあ、ったく、迷惑だよなあ!」
本当に嬉しそうに言う政宗に一言も返すことができず、小十郎は胃の辺りを押さえ、本気の脂汗をかいていた。
俺は何も聞いてねえ、と。