桜坐の宴 05



政宗は手紙の内容について吉に詳しく訊くつもりだったのだが、晴久が翌朝発つと聞き、考えを変えた。来月また来ると分かっていても、この時代、住む場所が離れていれば一度の逢瀬は貴重なものだ。無粋はやめておくさ、と早々に辞す。政宗の気遣いを察した吉は、帰り際の「また明日来る」と言う言葉に珍しく文句を言わなかった。しかし小十郎が恐縮する。
「申し訳ございません。本来ならば俺ときつが城に上がるべきなのですが」
吉が極端に嫌がるために実現していないことだった。政宗は「ノープロブレム」と手を振ってみせる。
「姐さんが嫌がってるならいいんだよ。ヒステリー起こされても困るし」
「ひすてりー?」
「えーっとあれ、感情が高まってわーっとなって喚いたりとか?」
「癇癪、ですね」
「それそれ」
「一人の女の我儘に、ご配慮恐れ入ります」
「片倉さんちの奥さんは特別だからな。いつも言ってるけどよ」
「いや、普通の女ですが」
「だからそう思ってんの、小十郎だけだから」
「そうでしょうか」
小十郎の奥さんは特別、と家臣たちに普段から当然のように言っている政宗だが、小十郎は内心でそれを酷く嫌がっていた。だが好意によるものだと分かっているゆえに、政宗には伝え難い。
「伊達」
「おう」
晴久に呼ばれ、政宗は首を傾げる。晴久の目はやや冷たかった。食事中の問答の後に緩和されたはずの敵意がまた戻っている。感じ取った政宗はつい身構えた。
「言うだけなら、誰でもできる」
「は?」
「俺は口ばっかりの奴が嫌いなんだよ」
「……あー」
政宗は暫し晴久を見つめ、それから溜息をついた。
「尼子」
「ん」
「酒入ってるってのもあるけど、お前が言うこと、俺、微妙に分かってねえよな」
「だな。分かってねえな」
「はっきり言うんじゃねえよ」
政宗はばつが悪くなり、つい鼻の頭を指でかく。晴久はそれ以上、何も言わなかった。だから政宗が続けるしかなかった。
「まあ、あれだ。ちょっと待て。Wait」
「待ってやるよ。来月までなら」
つい、政宗はまじまじと晴久を見た。吉もどこか驚いたように晴久を見る。小十郎は──ああ、と思った。

ああ、この青年は──政宗様よりも一歩先に、「為政者」となっているのだ、と。

「来月までに分からなかったら」
「おう」
「お前が出雲に手配かけた道明寺粉、出荷しねえから」
「──いやそれ一番困る! 姐さんの報酬だし!」
「出雲の道明寺粉?」
たちまち吉が喜色ばんだ。政宗の前では珍しいほどだ。食い意地だ、と小十郎は恥ずかしくなる。
「出雲のは、どこのものより美味なのだえ。嬉し!」
「でも、きつ。伊達が分からなきゃ無しだ」
「何たる!」
吉が本気で嘆く。
「もう、もう。仔竜、ほんに確としや! 出雲の他はよういらぬ!」
「Shit! ああくそ、言うんじゃなかった! 尼子、お前最悪だ!」
「政宗様、時間はございます。政宗様であれば大丈夫ですとも」
小十郎は起こりかけた胃痛を無視し、政宗を宥めるしかない。きつには後であまり我儘を言わないように言い含めようと思った。
「旦那さんも苦労するよなあ」
今の俺の苦労はお前さんのせいだがな、とさすがに口には出せず、小十郎は曖昧に笑うしかなかった。


大騒ぎの後に政宗が片倉家を辞し、夫婦と晴久は少しばかり茶を楽しむ。最初は三人で談笑していたのだが、やがて小十郎と晴久が剣術について熱を込めて話し出してしまった。こうなると吉は口を出さない。甘えて来る仔猫をあやしつつ、夫と客人の話を聞くだけだった。
晴久は既に自分の武道の才能には見切りをつけていると言う。それよりも国内で強い武人を育成する方向へ力を入れているのだと小十郎に説明した。小十郎は頷き、やはりこの青年は国主、既に為政者なのだと思い知る。まだ政宗が到達できていない部分だった。
「でも」
吉がようやく口を挟んだ。
「晴久とて、なまくらではないではないの」
晴久も腕が立つだろう、と言うことだった。実際のところ、小十郎は晴久の剣の腕をその目で見たことがない。晴久は苦笑した。
「旦那さんに比べりゃ、誰だってろくなもんじゃねえさ」
「光秀の鎌を止めてよう申すわ」
「いつの話だよ」
「──明智の鎌を?」
それは凄い、と小十郎は素直に称賛した。晴久は照れたように眉をひそめる。
「斬り合ってたら負けてた。俺は一撃受けて逃げたんだ」
「いや、俺でも退くさ。あの鎌は早々、受けたいもんじゃねえ」
そこからまた男二人の剣術の話になる。吉はまた猫を構う。
晴久は光秀と対峙した時のこと、つまり吉と初めて会った時のことを小十郎に話した。吉は苦笑いを見せたが晴久を止めはしなかった。
「砂丘を一人でふらついてる女が、織田の名前を名乗ったって信じられやしねえよ」
「こいつは嘘をつかないからな。だがそれじゃあ、誰だって晴久殿と同じことになるだろうさ」
「手紙も織田に出せ、なんてさ。ガキだった地方領主にできるわけないだろ?」
「それは確かに!」
小十郎は遠慮なく笑った。吉は僅かに唇を尖らせて夫の腕を叩き、小十郎は笑いながら妻の指を軽く掴んでやめさせる。
吉が片足で正確に矢を打ったという話に、小十郎は舌を巻いた。奥州に来てからは一切の武芸を見せていない吉だが、おそらくその気になれば、今でも生半な武芸者よりも見事な技量を見せ付けるのだろう。
「夫婦喧嘩は口だけにしておく。いい話をありがとう、晴久殿」
「おまえさま、何を仰るの!」
「ああ、それがいいや。きつが怒るとほんっと怖ぇからな。旦那さん、見たことある?」
「昼に言った喧嘩がそれさ」
「武田の?」
「ああ」
「そりゃ怖いや」
男二人は声を出して笑い、吉は怒った振りをしてまた夫を叩いた。
「もう、殿方二人で。厭らし!」
「女二人よりゃ厭らしくねえさ。お前と母上、話し込んだら俺が除け者だ」
「そ。では、かかさまにそう申しておこ。旦那様が厭らしゅう仰ると」
「お前はどうしてそう──」
言い争いを始める二人に、ご馳走さん、と晴久は笑う。


翌朝早く、晴久は旅支度を整え始めた。日が暮れるまでに国境を越えたいのだと言う。使用人たちは晴久のために朝食を準備したり糧食の手配をしたりと忙しい。
「茶会までおればよいのに」
見送るために早く起きた吉が、夫婦の寝室で髪を整えながら溜息をつく。臥所に寝転がったままの小十郎もそう思ったが、身を起こし、別の観点から妻を嗜めた。
「晴久殿の立場で長く国を空けるわけにもいかねえだろう。無理を言うな」
「出雲なら、たとえ二ヶ月以上空けても大事なしではないの」
「何だって?」
「長く援助していた織田が倒れても磐石になっておる国だもの。東西との均衡も大事なし。毛利も東西の手前、今はおとなしかろ。晴久がいかに内政を整えたか分かろうと言うものだえ」
「だからって、お前。我儘を言うもんじゃねえ」
嗜めつつも小十郎は妻が為政者であったことを思い知る。織田没落後の東西の分裂以降、いまだ内政や方向性が完全に整っているわけではない奥州としては、出雲に倣うことも多いということが今の会話だけで分かった。──その気になればおそらく、妻が政治の舵取りにいまだ辣腕を奮えるであろうことも。
男として、国の重職として僅かに嫉妬したことを認めざるを得なかった。
──こういう時に、思い知るんだよな。こいつが織田上総介信長だった、ってことを。
「きつ」
「何え」
「来い」
夫を振り返り、吉は一気に顔を紅くする。来い、という言葉が何を意味するか、夫婦の間であれば分かることだ。
「何を仰る、斯様な朝から」
「いいから来い」
言うことを聞かない妻に焦れ、臥所から手を伸ばす。強く腰を抱かれて引き寄せられた吉が小さな悲鳴を上げた。
「おまえさま、もう──」
「いいんだよ」
身動く妻を組み敷く。そこでようやく吉は本気で抵抗を試みようとしたが、珍しく小十郎は強くその身体を押さえつけた。
「俺を」
情けない、と思った。
妻に懸想する男には嫉妬なぞしないのに。
「安心させろ」
妻自身に嫉妬するとは、余りにも情けないと思った。
吉の身体から力が抜ける。それもまた、小十郎の情けなさを増幅させた。妻はこれだけで俺の心情を理解したのだ、してしまったのだ、と。
情けないと思いながらも、また言葉を紡いでしまった。
「お前は、俺の妻だろう」

【だからそう思ってんの、小十郎だけだから】

主君の言葉に揶揄などなかった。よく分かっている。
だが今、なぜ思い出してしまったのかと自分を呪った。

吉が困ったような顔をした。それが小十郎に自己嫌悪を生じさせる。
小十郎が更に言い募ろうとした時、吉が呻くように呟いた。
「他の何になれと、仰るの」
それが元為政者としての力だったのか、妻としての心情だったのか、小十郎には分からなかった。
それでも、安堵した自分に気づく。
安堵し、自己嫌悪し、自らを嘲笑いたくなった自分に気づく。
すまなかった、と言って妻を解放した。身を起こし、深い溜息をつく。晴久が出立したら、道場で無心になるまで剣を振ろうと思った。
乱れた単衣を直しながら吉も身を起こす。
「おまえさま」
僅かばかり硬い声で、小十郎は妻の感情を乱したことに気づいた。
謝ろうとしたその時だった。
「──この、申す甲斐なしッ!」
どういう意味だ──小十郎が問う前に、凄まじい衝撃が頬を襲った。


給仕の侍女が落ち着かず、障子の外を気にしてはそわそわしている。晴久は敢えて彼女に言いつけず、さっさと自分で飯のお代わりを盛った。ようやく気づいた侍女が飛び上がって謝るが、特に気にしない。むしろこの状況では仕方ないとさえ思っていた。
吉の癇癪声と共に、すぱあん、と小気味の良い音が響く。
「そういえば」
「え?」
「旦那さんに土産、渡すの忘れてた」
あそこまでいい音するかな、と独りごち、晴久は食事を続ける。奥州の米の美味さには脱帽だ。


晴久が馬に乗る城下街の外れまでは一緒に行く、と吉が主張したため、元々ある頬傷の上に扇子の跡をつけた小十郎は従わざるを得ない。晴久と二人で歩かせてはまたどんな噂が立つか分かったものではなかった。昨日のこともあり、目立つのであまり嬉しくはなかったが、今日一日は吉の言うことを全て聞かなければ収まらない夫婦の空気があった。
「申す甲斐なし、ってのは、確かに滅多に言わねえかな」
歩きながら、晴久が親切にも小十郎に説明する。旅装の晴久は着流しではなく、袴をつけ、腰に刀を下げていた。
「西の言葉か」
「西ってわけでも……古い言葉だ。甲斐性なしって意味さ」
「反論できねえな」
「お分かりにならぬなら、なさらずともよろし」
晴久の隣を歩いていた吉が、つん、という音が聞こえるような刺々しさを小十郎に投げる。これには小十郎もさすがにかちんと来た。
「ああ、しねえよ。古典も分からねえ、甲斐性もねえ男は黙ってるさ」
朝から扇子で頬を殴られ、その後も凄まじい癇癪で怒鳴られては殴られ、飛んで来た使用人たちに下がるように言いつけている間にまた殴られ──過日に吉を殴った一件の負い目から、そして元々女子供には手荒な真似ができない小十郎はやられるばかりで、吉の扇子の破壊力を身をもって知るはめになった。
「ま、さっき渡した扇子。二人で仲良く使ってくれよ。旦那さんならすぐ、きつより巧く使えるようになるさ」
晴久の土産の扇子は、黒と紅の夫婦扇子だった。出立前に渡された小十郎と吉は丁重に礼を言ったものの、決まり悪く視線を逸らし合い、晴久を笑わせた。
「巧く使えるようにって──扇子ってのは、扇ぐものじゃなかったか」
「俺、きつが扇いでるの、昔から見たことねえもん。多分片倉さんちは違う使い方なんだろ」
「晴久!」
流石に頬を赤らめ、吉が声を上げる。晴久は涼しい顔で「はい御免」と言っただけだったが、それで吉を宥めることに成功する。俺にはできねえ技だ、と小十郎は溜息をつかざるを得なかった。吉が癇癪めいた声を出すと焦り、つい真っ向から相手をしてしまう自分にも問題はあると思う。だがどうしても、吉の感情の発露を、どんなに軽いものでも流すことができないのだ。それは吉が魔王であった頃、あらゆる感情を押し殺して生きて来たと知っているからだった。極端に甘え下手な妻は、小十郎にさえ甘え切ることがいまだに出来ない。長年の癖からか、喜怒哀楽を押し殺す瞬間もある。もういいんだ、と小十郎は思っていた。──もういいんだ。俺の前なら全て出してもいいんだ。
「……だからって扇子は、な……」
さすがにあれは痛かった。何度やられてもあれだけは慣れない。戦場で魔王が得意としていた刀よりも銃よりも、抗えない一流の武芸だ。たとえそれが夫を殴るだけに使われるとしても。
「おまえさま?」
「何でもねえ」
「またそういう──」
「──ああ、ちょうどいい。あそこで馬を呼んでもらおう」
午前中の商いを始めた茶屋を見つけ、小十郎は話を逸らせた。察した晴久が吉を「行こう」と促し、小十郎に内心で感謝されることになる。
片倉家から結構な距離を歩き、喉も渇いていた。小十郎は店主に茶を頼み、ついでに心づけを渡して馬の手配を頼む。街道間近の茶屋にはよくある用事で、慣れた店主はすぐさま手配のために下働きの小女を使いに出した。
三人は日当たりのいい店先の席に座り、出された茶を手にしたが、不意に周囲が騒がしくなる。複数の馬の蹄の音が聞こえ、小十郎は顔を上げた。そして驚きながらも茶を置き、立ち上がる。
「政宗様」
「間に合ったか。尼子、随分早いじゃねえか」
騎馬隊の若者を数人連れ、騎乗の政宗が現れたのだ。店主は飛び上がらんばかりに驚いた後に平伏し、何事かと外に出た近所の者たちも同様のことになった。政宗は気さくに彼らに声をかけてから馬を降り、小十郎が空けた席に座る。隣の吉が嫌がるかと思ったが、領民たちの手前、そこまで露骨な真似はされなかった。
「片倉さんちに挨拶に行ったら、もう出たって言われてな。追っ掛けて来てやったぜ」
「お前が追っ掛けてんのは甲斐の若虎じゃなかったか」
皮肉たっぷりの晴久の受け答えに、政宗は一瞬言葉が返せない。小十郎は出雲にまでその噂が流れているのかと思い、胃が痛くなった。政宗の真田幸村への執着は密かに知れ渡ってしまっているらしい。
「ってかお前、今から出雲に戻っても、来月に間に合うようにするにはとんぼ帰りになるんじゃねえか?」
「下野の宇都宮のところで、出雲の部下と合流することになってる。さすがにこの日程じゃ来月は厳しいからな、茶会用の礼服やら何やら、そこで受け取ってまた奥州に来るんだよ。急げば再来週にはまたここにいる」
「──そういうことは早く言えよ! こっちにも準備があるんだよ! 大体お前──」
「それなら、使いの者をこちらまで寄越せばよいだけではないの」
政宗を遮り、吉が本気の顔で晴久に言った。こら、と小十郎は嗜めたが、聞くような妻ではない。
「それだと一ヶ月近くこっちで世話になるだろ。さすがに心苦しいからな」
「旦那様が是と仰れば、片倉の家でよいではないの」
「俺は構わんが、国主が長逗留する家じゃねえのは理解してるか?」
お前の実家とは違うんだ、と付け加えると、店の中や外から盗み聞きしていた領民たちが苦笑いした。「あの」織田の姫さんだもんねえ、と。
「奥州としちゃ、全く気にしねえけど。むしろウエルカム」
政宗も考える。元々茶会の前後には晴久を城に滞在させるつもりだったことだし、準備のための数日を片倉の家で過ごしてもらえば充分に城に迎え入れられる。晴久のことは嫌いではない。交易へこぎつけるまでの交渉で、相当に頭が切れることも分かっていた。何より昨日の問いで分かった。──こいつは俺がまだ持っていないものを持っている。
盗みたい。素直にそう思った。過去、噂で聞いたこともある。尼子晴久はかの織田信長に内政の助言を受け続けていた、と。
今の吉には到底そこまで望めない。だがその知識を受け継いだ者がいるのであれば、その者から盗むことを望んで何が悪いのか。
盗むということに尊厳を失しない。それが自らの、伊達の未来に必要であると分かっているからだ。
「尼子、そうしろよ。姐さんもその方が嬉しいだろ?」
政宗の問いに吉は答えず、ちらりと夫を見る。小十郎はその視線の意味を察し、苦笑して言った。吉が気を使ったのだと分かった。
「妻も喜びます」
すると吉が嬉しそうに笑う。その笑顔で、小十郎は朝からの胸のつかえを捨て去ることができた。
「じゃ、そうさせてもらうかな。見送りに来てもらっておいて何だけどさ」
「嬉し。──あァ、馬を寄越さずともよいと申し付けて参ろ」
早速と言わんばかりに吉が立ち上がる。
俺が行くから座っていろ、と小十郎が言いかけたその時だった。

吉が今しがた立ち上がった場所に──矢が突き刺さった。

瞬時の間もなく晴久が吉を抱くようにして店の中へ押し込む。小十郎は「御免!」と叫ぶと同時に座っていた政宗を後ろへ──店の中へ突き飛ばした。政宗は倒れることなく身軽に受身を取り、控えていた騎馬隊に叫んだ。領民たちの驚愕と恐怖の悲鳴の中、奥州筆頭の声は恐ろしくよく通った。
「逃がすんじゃねえ!」
命令が終わる前に小十郎は駆け出している。駆け出す直前、吉を任せるようにと視線で伝えて来た晴久を信頼した。矢が飛んで来た方向は感覚が覚えている。飛距離、風を考えればそう遠い場所ではないはずだ。
騎馬隊も遅れて馬を急かし、日頃の訓練通りに方々へ散る。
平和なはずの午前の街道が慌しくざわめき、政宗を案ずる勇敢な領民たちが武器を持ち、茶屋を囲んだ。その様子に晴久は感心した。予想以上に奥州筆頭は領民に慕われていると知った。
吉は晴久に抱かれたまま、その胸に顔を埋めている。店の中にいた客や店主は軍師の妻が怯えていると思い、お可哀想にと同情の声を上げていた。
「姐さん、大丈夫か」
政宗は吉に近付き、声をかける。吉は返事をしない。政宗は声をひそめ、傍から見れば宥めるように優しい顔を作り、怯えているはずの美姫に囁く。
「心当たりは? さすがに分かんねえか?」
吉が僅かに身動き、政宗と晴久にだけ分かる角度で目を見せた。
思わず二人の男は息を呑み、それから笑いそうになる。
自らを鼓舞する笑い、と言えばいいのか。
「いずこの誰あろうと」
吉の声は低く、小さい。だが政宗と晴久にははっきりと聞こえた。
そして低く低く、呟くように言った。
「此度の仕儀、許さぬえ」
晴久が吉の頭を胸に抱き込む。
領民たちにその目を見せぬためだった。
双眸は怒りに彩られていた。
あの日々のように瞳が紅くないことが不思議であるほどの、激しい怒りに。